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  • リハビリテーション・ジャーナル──リハビリ編:プール・ウォーキングの魅力|濱野智史

    2025-01-28 07:00  


    批評家の濱野智史さんによる連載「リハビリテーション・ジャーナル」です。指定難病「特発性大腿骨頭壊死症」にかかり、人工股関節を入れる手術を受けるため、約1ヶ月間の入院生活を送ることとなった濱野さん。人生初の経験となる長期にわたる入院生活、そしてその後のリハビリ生活の中で見えてきたノウハウやメソッドを紹介しながら、「健康」と「身体」を見つめ直していきます。第3回では、プールと水中ウォーキングというスポーツ・アクティビティの魅力とメリットを紹介します。

    リハビリテーション・ジャーナル──リハビリ編:プール・ウォーキングの魅力|濱野智史
     本稿で私がもっとも書きたかったこと。それこそが、本節で展開するプールと水中ウォーキングというスポーツ・アクティビティの魅力とメリットである(もちろんリハビリテーションとしての効果も高いのだが、リハビリがほぼ完了した現在でも私は引き続き毎日のように継続している)。
     というのも、ジョギング・散歩をする小説家や思想家の話というのはよく聞くと思うのだが、プール、しかも水泳ならまだしも水中ウォーキングとなると、ほとんどその魅力どころか、その実態すらあまり言語化されていないように思うからだ。たしかに水中歩行は、別にオリンピックやインターハイなどのスポーツ種目として選ばれているわけではないから、「観戦」の対象になることはない。そのためプロの水中ウォーキング選手などもいないので、その魅力をメディアを通じて知るというきっかけはどうしても希薄にならざるを得ないという事情もある。
     そこで以下本稿では、ぜひこの半年間の私の実体験をまとめて、プール・ウォーキングの魅力とメリットを思う存分レポートしたいと思う。
     
    ファースト・コンタクト&インパクト:プール・ウォーキングとの出会い

     そもそも私がプール・ウォーキングを始めたのは、手術後の歩行機能の回復というリハビリテーションのためだった。実際には、入院中に私のリハビリを担当してくださった理学療法士の方が、「退院後のスポーツとしておすすめなのはプールかゴルフですよ」と教えてくれたのである。
     私は後者のゴルフは一切やらない。正確には大学時代に一回だけラウンド(18ホール)を回ったことがあるのだが、186というとんでもないスコアを叩き出してしまい(普通は最初でも120〜160くらいらしい)、トラウマになって二度とやるまいと決心し、それ以来やっていない。そして私は、自動的に前者のプールを選択することになった。
     とはいえ、私は最初プールにあまり気乗りはしていなかった。まだ30代前半の頃、私は体重維持のために一時期ジムを数回利用していたことがあり(私が加入していた健康保険組合では、コナミスポーツやセントラルスポーツといったジム施設を1回ずつ割安料金で利用することができたのである)、そのときプールでの水泳も行っていた。しかしそのときの水泳・プールに対する感想は、「有酸素運動ではあるが、息継ぎが面倒でつらい・苦しい」「すぐに泳ぐのに慣れてしまい、あまり力をかけずに運動できるため、カロリー消費効率は高くない」「わざわざ水着を用意して着替えるのが面倒くさい」といったものであった。そしてそれ以来、特にプールに通うことはなくなっていたのである。
     しかし今回は、とにかく人工股関節を入れたあとの歩行復帰訓練が主目的である。理学療法士の先生が推薦しているのだから、間違いなかろう。私は1ヶ月間のリハビリを通じて、この理学療法士の先生の言うことは確かであると信頼していたこともある。ということで、まずは退院後まもなく、娘と自宅そばの公営プールを訪れたのが最初の第一歩だった。
     このときは娘と行ったこともあり、まずは子ども用プールで娘と戯れる程度で、がっつり泳いだり歩いたりしたわけではなかった。しかし帰り際、大人用プールに水中歩行用のレーンがあるのを目にした私は、娘に「ちょっとだけ歩いてくるね」と言ってプールへと足を運び入れた。そこにはバリアフリー設備として、プールにゆるやかに入っていける手すりつきのスロープも併設されていた。
     私はそれまで、プールでの水中歩行もしたこともなければ、スロープを使ったことすらなかった。プールといえば、あの壁に付けられたはしごを使って垂直昇降して入るのが当たり前だと思っていた。
     しかし、このときのスロープには心底感動したことを、いまでも昨日のことのように覚えている。「あなたのような人を、待っていましたよ」といわんばかりにプールの脇に存在するスロープ。それを一歩一歩踏みしめながら、私は全く危なげなく、プールの水中歩行専用レーンへと少しずつ足を踏み入れた。
     そして水中での歩行を始める。歩ける、歩けるぞ。杖がなくても、全く問題もなければ不安を感じることもない。なぜなら水が適度な浮力をもたらしてくれるのと同時に、自分の身体を常に包みこんで守ってくれるため、転倒する心配が一切ないからだ。地上に比べ、私は水の中であまりにも自由に足を動かすことができるのだ。このときの解放感と安心感は、まさに革命的というほどに衝撃的で感動的な体験だった。
     さらにそのとき私が感銘を受けたのは、水中歩行という行為の「平等性」の高さである。そのとき水中歩行レーンには先に高齢の男性が一人いたのだが、私はその方と完全に対等でフラットな「歩行者」の一人としてレーンを歩いていた。ごくごく当たり前のことではあるが、水中歩行はただ水中で歩くだけの運動なので(多少の歩行速度の遅い早いの違いはあれど)そこに「競技的要素」は一切ない。水中抵抗も働くので、そもそもそんなにプール内で速く歩くこともできない。走るなどもってのほかだ。つまりプールの中では、誰かに急かされることもなければ、道を譲る・抜かされるといった配慮も不要なまま、誰もがゆっくりと気ままに歩行できるのだ。それは公道や公園でのウォーキングであっても環境・条件は同じなのだが、プールの場合、自動車や自転車といったリスクの存在も一切排除されている。つまり誰にとっても平等で安全なアーキテクチャ、それがプールの水中歩行レーンなのである。
     その日私は、25mを2往復、ちょうど100m程度を歩いただけでプールをあとにした。たったそれだけでも、十分にプールでのリハビリが運動として効果的であり、大いなる価値(喜び・愉悦・安全性・平等性)があるということを、その身体でしかと理解することができた。そして次の日から私は、自分ひとりでプールへ通い、水中歩行にハマる道を邁進することになる。
     
  • “kakkoii”の誕生――世紀末ボーイズトイ列伝 勇者シリーズ(7)「黄金勇者ゴルドラン」後編

    2025-01-07 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。「黄金勇者ゴルドラン」分析の最終編です。20世紀的な男性性の美学を鋭く批判する、「所有」や「支配」ではない「遊び」による成熟のイメージとは?

    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝
    世界の王、リカちゃん人形

    こうした道のりを経て、一行は最終的にレジェンドラへと達する。そしてレジェンドラ王の正体が明かされるわけだが、その名前はレディリカ・ド・レジェンドラであり、その外見は明確に「リカちゃん」として描かれる。

    レジェンドラ王という存在については、次のように説明される。レジェンドラに至れば願いが叶うという伝説は、レジェンドラ王の後継者を選定し導くためのものであった。その冒険の過程で勇者たちと心を通わせた者だけがレジェンドラへ至り、次の王となる資格を得る。王に与えられる能力とは、今の宇宙を終わらせ、次の宇宙を思うままに創造する力である。レディリカもまたかつては人間であったのだが、レジェンドラを先代から引き継ぎ、現在の世界を創造した。

    そして新たな世界を創造する能力が、タクヤたちに託される。タクヤたちはワルターやシリアスも交え、合議の上でどのような宇宙を創造するか結論を出す。それは「レジェンドラ王にはならず、今のまま冒険を続ける」というものだった。そしてこれまで奪い合ってきたパワーストーンを共有し、全員で口上を唱えて勇者たちを復活させる。そして彼らと共に、また新たな冒険へと旅立とうとするのである。

    これはおもちゃを巡る想像力を問う極めて高度なメタフィクションだ。ここでレジェンドラ王が「リカちゃん」の姿を持つことは決定的な意味を持つ。「リカちゃん」は1967年から展開されている着せ替え人形のシリーズで、タカラ社を象徴する大ヒット商品である。すなわちレジェンドラ王とは、勇者シリーズを展開するタカラ社とその営みを象徴している。そして「現在の宇宙の終わり」とはアニメーションという物語の終わりと受け取ることができるだろう。宇宙を終わらせ次の宇宙をはじめるという営みは「高松勇者」自身が――いやそれ以前から連綿と行われてきた、物語による販促そのものとはいえないだろうか。

    90年代半ば頃のリカちゃん。https://licca.takaratomy.co.jp/55th/album.html

    本連載では、タクヤたちが経験してきた、そしてワルターやシリアスを救済してきた冒険の旅路は、子供の遊びそのものであると考えてきた。ゴルドランはワルターやシリアスが「大人」を目指す試みを挫くことで、「子供」とおもちゃの関係に立ち返り、その想像力による遊びの体験=冒険の旅こそが本質であるという美学を語ってきた。ところが映像作品という物語はいつか必ず終わりを告げてしまい、次の物語がはじまる。そして次の物語はまた新しいおもちゃをもたらし、そのサイクルが連綿と繰り返されてきた。しかし、映像が終わってもおもちゃはそこにあり続ける。では、そのとき冒険は、遊びは、おもちゃと共に過ごした時間は、どこに行ってしまうのだろう? 新たな物語によって上書きされ、消滅してしまうのだろうか?