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  • あの井上敏樹先生がエッセイ連載『男と×××』を開始! 気になる第1回のテーマは――「男と遊び」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.147 ☆

    2014-08-29 07:00  
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    あの井上敏樹先生がエッセイ連載『男と×××』を開始!
    気になる第1回のテーマは――「男と遊び」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.29 vol.147
    http://wakusei2nd.com


    ついにあの井上敏樹先生がほぼ惑に降臨! 月イチでのエッセイ連載がスタートします。もはや、一切の説明は不要でしょう。刮目せよ! その男の生きざまを――!

    ▲豪快にスッポンを焼く井上敏樹氏。(宇野常寛ツイッターより)▼プロフィール井上敏樹〈いのうえ・としき〉
    1959年埼玉県生まれ。大学在学中の81年にテレビアニメの脚本家としてのキャリアをスタートさせる。その後、アニメや特撮で数々の作品を執筆。『鳥人戦隊ジェットマン』『超光戦士シャンゼリオン』などのほか、『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー龍騎』『仮面ライダー555』『仮面ライダー響鬼』『仮面ライダーキバ』など、平成仮面ライダーシリーズで活躍。2014年には書き下ろし小説『海の底のピアノ』(朝日新聞出版)を発表。

    ▲井上敏樹先生が表紙の題字を手がけた切通理作×宇野常寛『いま昭和仮面ライダーを問い直す[Kindle版]』も好評発売中!
    【関連動画1】井上敏樹さんも生出演したPLANETSチャンネルのニコ生です!(2014年6月放送)【前編】「岸本みゆきの ミルキー・ナイトクラブ vol.1」井上敏樹×萩野崇×岸本みゆき【後編】「岸本みゆきの ミルキー・ナイトクラブ vol.1」井上敏樹×萩野崇×岸本みゆき【関連動画2】井上敏樹を語るニコ生も、かつて行なわれています……!仮面ライダーカイザこと村上幸平さんも出演!【前編】「愛と欲望の井上敏樹――絶対的な存在とその美学について」村上幸平×岸本みゆき×宇野常寛【後編】「愛と欲望の井上敏樹――絶対的な存在とその美学について」村上幸平×岸本みゆき×宇野常寛
     
     
    男 と 遊 び
     
    井上敏樹
     
     さて、この度『男と×××』なるテーマでエッセイを書く事になった。なぜこのような事態になったかというと私と本誌の主幹である宇野常寛とで鮨を食い、その店がなかなかの店で、したたかに酒を飲み、そして宇野が支払いをしたからである。
     第一回目は『男と遊び』。
     なぜ、記念すべき初回が『遊び』なのかというと、この連載は狭量な私の独断と偏見の固まりであって理論的道徳的説得力は皆無であるところをまず前面に押し出したく、それに相応しいと思ったからだ。
     そこで、当然、遊びとはなにか、と言うことになる。
     
     人生そのものが遊びだ、と言う考え方もあるがそれでは話が終わってしまう。
     また、私の言う遊びは趣味とは違う。プラモデルや切手蒐集は遊びではない。私が見るところ趣味が男にもたらすものはなにもない。ある趣味に没頭する男はずっと同じ事を繰り返す。同じ場所をぐるぐると回り、回り続けるその酩酊感に酔っているだけだ。
     また、スポーツも遊びとは違う。たまにゴルフやら草野球に興じてもせいぜい一時的に気分がスカッとして健康的になったような気がするだけである。非創造的なる事この上ない。
     私が言う遊びとは人を変えるようなものである。男の根源的な部分に訴えかけ、存在そのものを変容させてくれるような行為の事である。
     思うに、そのような遊びは先人たちの知恵によってすでに明らかである。 
  • 國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第5回テーマ:「勉強に関する悩み」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.146 ☆

    2014-08-28 07:00  
    220pt

    國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
    第5回テーマ:「勉強に関する悩み」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.28 vol.146
    http://wakusei2nd.com


    一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話しよう』。2ndシーズンの連載第5回となる今回のテーマは「勉強に関する悩み」です。
    ▼連載第1期の内容は、朝日新聞出版から書籍として刊行されています。國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)

    ▼國分功一郎の人生相談「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
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    過去記事はこちらのリンクから。
     
     
    【1】難解な文献を理解できるようになるにはどうしたらよいでしょうか?(スーパームーン 48歳 女性 愛知県 病院リハビリ職)
     
     國分先生
     
     文献を読むということ…その難解さに悩んでいます。もっと分かりたいんです。どうしたらいいのでしょうか。やはり恋愛や仕事の習得と同じで練習の積み重ねでしょうか。
     
     病院でリハビリ職をしています。ヒトの認知や情動や意識、言語に興味関心があり 更に深く仕事をしたいと文献を読んでいます。
    難解と言われている文献を読むにあたって入門書やネットのあらすじも利用するのですが 分かるような分からんようなまさに抽象の世界です。
    先日は13歳の時にスピノザを早読んでいたというヴィゴツキーという心理学者の『これで分かる~思考と言語』というセミナーに参加しました。
    錚々たる大学教授の講義が続きましたが テーマが簡潔になるどころか
    ますます巨大化して掴めない程の情報でした。
     
     日常の業務はより実務的です。医者やナースに伝えるとき 起承転結で話していてはイヤがられます。結論から相手の立場の言語で言うことが求められます。
    それから考えると圧縮できる知性が欲しいです。
    國分先生は難解の文献を日々読まれていますね。どのように理解して身体的なことばに表現される技術をお持ちなのでしょうか。
    才能だとは言わないでください。習熟とも言わないでください。
    大学教員の文献を読むということがどんなことなのかの常識を先日、体験したばかりですので相談したく投稿致します。
    社会人ですが 仕事をまとめて論文を書くのが第二の夢です。そのためには文献も読み込んで行かなくてはなりません。宜しくお願いします。
    國分先生のご活躍、書籍やツイッター等から応援しています。
     
     
    【2】高い学費を払って大学に通う意義が見いだせません(中村謙太 20歳 男性 北海道 大学生)
     
    はじめまして、大学1年生です。大学の授業を受けてみましたがPLANETSの動画や書店に売ってる本の方がよっぽど勉強になります。このまま大学に通って教授のグダグダな授業1回ごとに3500円ちかく払う意味がどうしても見いだせません。また、大卒という学歴や大学名が企業の採用基準になっているのもよくわかりません。大学の授業より安くて内容の濃い情報が得られる今の世の中で大学に行ってまで学ぶ意味と学歴社会についての國分さんの考え方をお聞かせ下さい。宜しくお願いします。
     
     
    【3】仕事が忙しくて、勉強したくても時間がなかなか確保できません(ブローノ・ブチャラティ2世 26歳 男性 埼玉県 会社員)
     
    國分先生こんにちは。
    社会人が勉強時間をどうやって確保するかについて相談したく、今回の人生相談に応募してみました。
     
    私は東京で会社員をしているのですが、どうしても毎日の仕事(ちなみにごく普通の事務職です)が忙しく、帰宅時間が22時を過ぎることも多いです。ですが今の仕事以外に挑戦してみたいことがいくつかあり、今は寝る前の1時間ぐらいを使って、その分野の勉強をしようとしているのですが、毎日続けることがなかなかできません。
     
    それで、じゃあ休日にまとめてやろう!と思うのですが、毎日の仕事の疲れが蓄積し、土曜日などはまともに活動することすらできず、ずっと寝たりスマホでネットを見てダラダラしたりして、日曜の夕方になってようやく重い腰を上げて勉強をしたりしています。
     
    こんな感じなので、勉強したことがなかなか積み上がっていかず、いつまで経ってもかたちにならないので、不安であると同時に、続けるモチベーションも萎んでいくという悪循環に陥っています。
     
    最近では、家から職場までの電車での通勤時間が片道1時間ぐらいかかって、しかも混雑する路線なので、それで疲れてしまって家で勉強できないのかとも思い、会社の近くに引っ越しちゃおうかとも考えています。(でも、「会社の近くに住むと時間に余裕ができるせいでダラダラ残業しちゃう」とか、「電車のなかでボーっと考え事をできる時間があるほうがいい」とか人は言うじゃないですか。それで微妙に二の足を踏んでいるところもあります。そもそも都心は家賃高いですし…)
    ちなみに、私の勉強というのはプログラミングに関するもので、手を動かせない電車のなかでスキルを上げていくというのは難しいのです…
     
    こんな感じで、何やらずっと足踏みの状態が続いております。
    要するに、仕事で疲れていることを理由に、勉強への気持ちの切り替えがパッパとできなくてなんとなく不全感を抱えている、というのが私の悩みかなと思うのですが、こういう人はどうしたらよいでしょうか?
    なんかこう、ざっくりとした相談ですみません…お答えいただければ幸いです。
     
     
    【4】「もっと勉強しなければ」という強迫観念に囚われてしまいます(osakana 45歳 女性 東京都 非常勤講師)
     
    まがりなりにも専門を持って人に教える立場になっているのにも関わらず、「自分は勉強が足りない」「もっと勉強しなければ」という強迫観念にとらわれていて、それがたまらなくストレスです。つまり、はっきりいって勉強・仕事=苦役という感覚から自由になれません。もっと生き生きと自然体で勉強というものに対峙したいのですが。
     
     
    【5】大学院に進学するかどうか迷っています(ちゃんこ 19歳 男性 東京都 大学生)
     
     國分さんこんにちは。ちゃんこと申します。僕はいま大学1年生なのですが。やはり大学卒業後の進路についてたびたび考えることがあります。そしてその選択肢の一つとして大学院への進学があります。僕はいま國分さんや宇野さんをはじめとした各種の学問や評論の本を読んだり、書いたり、考えたりというのが一つの趣味となっており、このようなことが仕事に出来たら良いなと漠然と考えています。もちろん、自分が将来、学者や評論家というような職業を生業として生きていけるかを見定めるにはまだ時期尚早であり、今後の努力や心情の変化等によって、進路の選択肢は変わってくるでしょう。
     上記のようなことを考えている中で僕が主に悩んでいることは、①大学院進学を決めるキッカケ②大学院に進学した場合の、(院生における)生計の立て方です。②については、奨学金を得る、なにか自身で稼げるスキルを身につける、仕事しながらも大学院に通えるような企業に就職する、等の選択肢があると考えています。周りの友人の多くは卒業後に企業に就職することになるでしょう。そんな中で自分が大学院生として2年、6年過ごすことになるとしたら、なんだかんだいって今から考えても不安になります。この①、②について國分さんの経験も踏まえて、何かしらのアドバイスを頂けたら嬉しいです。
     ちなみ、いま自身の専門にしたいと考えているのは理論社会学の分野です。大学は一応私立のトップのK大学に在学しております。勉強というより、進路の相談のような形になってしまい申し訳ありません。よろしくお願いします。
     
     
    【6】大学生ですが「勉強する」という決断に迷いがあります(店長 20歳 男性 東京都 学生)
     
    國分さんこんにちは。当方、早稲田の数学科3年生をやっている学生です。勉強に関する悩みということで、質問させていただきます。僕は今学期の定期試験の感触からして、5年生がほぼ確定致しました。大学一年生から大学の建物が嫌いで、授業の内容はともかく早稲田の建物に近寄ることに異常な嫌悪感を抱いており、それが故に単位はとれず、こうして留年という親不孝な結果を招いてしまいました。恥ずかしい程に子どもっぽかったと、今はとても反省しています。
    しかしながら、授業をさぼって読んでいた野家啓一さんの本に衝撃を受けて、今自分が勉強していることに意外なおもしろさを見い出してしまいました。それで、理系ということもあって、院まで進学して改めて勉強したいという気持ちがありつつも、しかしもはやここまで勉強してなかったので今から勉強するには完全に出遅れてる上、留年しているにも関わらず院に進学するという、事実と気持ちの矛盾に、うしろめたさを拭えず、進路に迷っています。もうすこし、「勉強する」という決断を後押ししてくれる、説得力のある言説があれば、自信をもって院を視野にいれつつ勉強ようと奮起できると思うのですが、「はやく社会にでたほうが生涯年収がうんたら」とか「勉強しても役にたたないからねえ」とかそういった言説が多く、それらに対して何も言えない自分がいます。
    もっと「勉強する」という行為を力強く「意義深い」と後押しする言説があってもいいのに・・・。と、こういった状況にいる身の上で感じているのですが、國分さんはそれについてどう思われますか?そして、ふわっとしてますが、國分さんの考える「勉強する意義」を教えていただけると幸いです。 

    皆さん、こんにちは。國分です。
     いかがお過ごしでしょうか。
     今回は勉強がテーマなんですけど、非常に書くのが難しいです。或る意味ではたくさん言いたいことがあるけれども、一般的な仕方で言うのが難しいんです。僕も研究者の端くれですが、研究者というのはいつも勉強しているわけですよね。だからこそ、あまりにも自分の日常すぎて書きにくい。でも、ものすごいこだわりがあるところでもあります。仕事ですから。
     全般的な記述というのを求めず、思いついたことを書いていこうと思います。
     僕はこの一年間、古典ギリシャ語をやってました。毎週土曜日に語学学校に通って勉強していました。後半に突入したあたりで予習復習がだんだん大変になっていって、冬あたりはギリギリな感じでしたが、春あたりになるとかなり勘が働くようになっていきました。
     一つ、この経験をもとに考えたことを書いておきたいと思います。
     久しぶりに新しい言語に挑戦して思ったのは、やはり勉強するには、
    (1)誰かに教わる
    (2)強制力がある
     この二つが重要だということですね。一つずつ説明しましょう。
     
     まず誰かに教わるという点ですが、これは深く論じると多分ものすごい大変なことになるんですが、かいつまんで言うとですね、教わる時に、人は明示的な内容以上のものを受け取っているということなんだと思います。
     たとえば、ギリシャ語の動詞の活用はギリシャ語の教科書に書いてありますよね。だったら、それを読んで覚えればいいじゃんって思うわけです。でも、違うんですよ。それをただ本から読むのと、誰かから教わるのとでは全然違う経験なんです。
     もちろん、教え方がいいとか、教える内容に付随してくるオマケ情報が面白いとかそういうこともありますが、それだけでもない。
     どういうことかと言うと、ある教科を教わる時に、僕ら生徒は、先生がその教科に対して持っている態度とか精神、ちょっと大げさに言うと、思想のようなものを同時に受け取っているのです。
     少し頑張って説明してみますね。
     たとえば、A、B、C、D、Eという五つの項目からなる教科があるとします。すると、生徒は当然、Aから順にEまでの項目を教わるわけです。普通に考えれば、Aから順にEまでを教えてもらえるなら、誰に、あるいは何に、どうやって教わってもいいはずです。単に教科書を読むだけでもいいかもしれないし、毎回違う人に教わってもいい感じがします。
     しかし、一人の教師からそれを教わると、ちょっと違うのです。なぜなら、教える人には、その教科に対する態度や精神、あるいは思想があるからです。
     たとえば、五つの項目の中で、AとCとEという項目に力点を置いて、その教科を把握している先生もいるでしょう。AとDに力点を置いて全体を把握している先生もいるでしょう。先生ごとに異なった力点があるのは、先生たちの教科把握の背後に何らかの思想があって、それに基づいて、「こことここが重要なのだ」「こここそがポイントだ」と考えているからです。
     誰かから教わるというのは、単にA、B、C、D、Eという五つの項目を教えてもらうということではなくて、その五つの項目の把握の仕方をも教えてもらうということです。AとCとEに力点を置けばこんな風に全体が見えてくるとか、AとDに力点を置けば五つの関係がこう把握できるとか、そうした全体の把握を教えてもらうことが大切なのです。
     これは、言い換えれば、教科の教授にあたっては、明示的に口にはだされなくても、教えられることの全体から、ある種の思想が醸し出されているということでしょう。
     単に教わることと、教わったことを体得することとは違います。体得するためには、全体を把握する何らかの思想をもっていなければなりません。だから、単にA、B、C、D、Eという五つの項目を教えてもらうだけではなくて、その五つの項目の体得している一つの事例を教員に示してもらうことが大切なのです。
     小学校の算数ってすごく難しいですよね。たとえば小四ぐらいでかけ算の概念が拡張されます。それまでは個数を考えていたのに、0.1をかけるという事例にまでかけ算が拡張されるからです。この場合、小学生に「ここでかけ算の概念が拡張されているのだ」と言ってはダメですね(まぁ、子どもによってはそう教えてあげた方がいい場合もあるでしょうが…)。
     でも、算数における概念の拡張について、教える側が一定の思想を持っていれば、子どもたちに対する説明の中にそれが現れるはずです。そして、ある程度の期間にわたって同じ人物が教えるのであれば、数学的概念の拡張についての同じ思想のもとで、複数の概念の拡張が──「概念の拡張」という言葉を使わずに──教えられるわけですから、子どもたちには理解しやすいはずです。子どもたちは「ああ、この前のあのパターンと同じだ」と思えるわけです。
     こう考えてくると、教師から教わるということにはやはり大きな意味があると言えます。
     但し、生身の教師でなければならないのかどうかというとちょっと話は難しくなります。
     たとえば僕は、哲学者について勉強する時、その哲学者の思想をつかみ取ろうとします。実際に述べられていることではなくて、述べられていることの背後にある思想ですね。それをつかみ取ろうとする。
     もしもそのような態度で算数の教科書に臨むことができるのであれば、やはり一冊の算数の教科書は一つの思想をもって書かれているでしょうから、その生徒は全項目を、その背後にある思想を含めて理解することができるでしょう。
     しかし、このような仕方でのテキストからの思想の読み取りは、研究という仕方で一つのテキストに何度も何度もアタックする形で取り組めるから可能なのであって、毎ページに新しい項目が現れる算数の教科書に小学生が取り組む際や、今まで学んだことのない言語を勉強したりする際にはとても無理です。
     だから、やはり生身の教師に教えてもらった方がいいのです。その教師の思想に基づいて、各項目を手取り足取り教えてもらった方がいいのです。
     世の中には、生身の教師に教わらなくてもそうした思想を読み取れる人もいます。そういう人はしかし稀です。
     やはり勉強する際には、誰かから教わった方がいい。繰り返しますが、それは教わる内容の把握の仕方、体得の仕方を教えてもらえるからです。
     
     さて、ここまで随分と長くなってしまいましたが、次は簡単ですね。勉強するにあたっては強制があった方がいい。
     僕はお金を支払って語学の学校に行ってました。もちろん、それまでも何度かギリシャ語の教科書とか買って自分でやろうとしたんです。でも全然ダメです。そういうことができる人もいると思うんですけど、ほとんどの人は無理だと思いますね。続かないんですよ。
     僕の場合は研究の上で絶対にこれが必要でしたので、それが大きな後押しになりましたが、お金を払っているとか、毎週会っている先生と仲良くなるとか、そういうことも大切なんですね。「ああ、休むわけにはいかないよなぁ」とか思えるとか。
     なんで強制がないとダメかって言うと、勉強はつらいものだからです。〝強〟いて〝勉〟めるんですよ。「勉強って楽しい!」というのは噓というか、少なくともミスリーディングですね。勉強を積み重ねて、どこかの時点で何かが分かった時がものすごく楽しいのであって、積み重ねていくこと自体はやはり苦労ですよ。
     もちろん、勉強することそのものに慣れるということもあって、そうすると積み重ねるのに時間がかからなくなって、「分かった!」という結果にすぐにたどり着けるようになります。そういう場合には、勉強していても楽しいことが続くということになる。でも、これは上級編の話です。
     つらいんだから、強いられないとダメ。それにはカネを払うとか、人間関係上の強制力を働かせるとか、学校に行くとか何か工夫すべきですね。
     
     さて、そろそろご相談いただいた内容に入りましょう。まずは、スーパームーンさんのご相談ですね。文献を読むということについて。もっと読めるようになりたいということでしょうか。【1】スーパームーンさんは職業柄なのか、相談あるいは質問するのが得意な方のようです。
     「國分先生は難解の文献を日々読まれていますね。どのように理解して身体的なことばに表現される技術をお持ちなのでしょうか。/才能だとは言わないでください。習熟とも言わないでください。」
     
     そうですね、才能とか習熟とか言われても何も分かりませんよね。
     才能も習熟も関係しているとは思いますが、大切なのは、最初からそれをやってみることだと思います。どういうことか。
     スーパームーンさんは文献を深く理解したいわけですよね。そうしたら、深く理解したいその文献に、今すぐ、深く理解できるまで取り組んで下さい。
     ふざけて言っているのではありません。どういうことかというと、「深く理解する」ということがいつかできるようになって、それから何かを深く理解し始めるのではないということです。単に、ある文献に対する浅い理解、別の文面に対する中途半端な理解、また別の文献に対するそれなりの理解……そうしたものがあるだけなのです。だから、深く理解したい文献があるなら、それを深く理解するよう今すぐに取り組む、それしかないのです。
     深く理解したい文献が特にないのに、単に「文献を深く理解したい」とお考えならば、それはいつまでも達成はできません。言っている意味がわかるでしょうか。「理解したい」という欲望の問題とも関係していますが、それともちょっと違います。
     ちょっと難しい言い方をすると、可能性としての能力が可能性として培われ、最終的に自分の中に内蔵される──そんな事態はないということです。
     いや、そんな風に見える事態もあるかもしれないんですが、それは見かけであり、あるいは結果の話です。そういう状態になっているように見えるとしたら、それは単にその人がいくつも文献を深く理解したというただそれだけのことなのです。その状態を「可能性としての能力」という言葉で無理矢理に切りとると、「この人には文献を理解する能力が培われている」と見えるだけです。繰り返しますが、その人は単にそれまで複数回、文献を深く理解してきただけなんですよ。
     これはいろいろな勉強に言えることです。
     たとえば、フランス語で本が読みたいというなら、読みたい本を読めるように努力すればいいんです。「いつの日かフランス語でスラスラ本が読めるように…」ということを夢見て、読解能力を高める訓練を積み重ねても、無駄とは言いませんが、なかなかそういう時はやってこないように思います。 
  • 都市生活者のホビーとしてのロードバイク――仲沢隆氏が語る日本における受容史 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.145 ☆

    2014-08-27 07:00  
    220pt

    都市生活者のホビーとしてのロードバイク――仲沢隆氏が語る日本における受容史
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.27 vol.145
    http://wakusei2nd.com




    今朝のほぼ惑は、ロードバイクの歴史についてジャーナリストの仲沢隆さんにお話を伺った。仲沢さんは、ホビーレーサーとしてレースを楽しむかたわら、ロードバイク業界の第一人者として、西欧のロードバイク文化を日本に紹介してきた書き手でもある。ロードバイクの各部の発展史を記した『ロードバイク進化論』や、近著『超一流自転車選手の愛用品』のように、メカの部分に注目した著作もある。
    そんな彼が話してくれたのは、都市生活者のカジュアルスポーツとしてのロードバイク文化と、その日本における受容の歴史。いまや新しい大人の趣味として定着した感のあるロードバイクだが、冷静に考えると、一体いつから流行りだしたのか不思議ではないだろうか。オタク趣味としてのパーツいじりまで含めて、その人々を惹きつける魅力を聞いた。

     
    ◎聞き手・構成:稲葉ほたて

     
     
    ■ロードバイクはいつ生まれたのか
     
    ――ロードバイクの始まりはいつなのでしょうか?
    仲沢 そもそも自転車が誕生したのが、19世紀初頭のことです。ドイツのとある男爵が、ペダルもギアもなく2つ車輪がついているだけの、足で地面を蹴って進むドライジーネという乗り物を発明しました。それが自転車の元祖とされています。
    ただ、この時点では、まだレースがありません。西欧の自転車文化を考える際に重要なのは、ツール・ド・フランスなどのレースなのです。これが誕生したのは、ドライジーネを発展させて作られたペダル駆動の乗り物が出てきたときでした。当時はまだチェーン駆動ではなくて、三輪車のようにペダルと車輪が直結していたそうです。これが貴族階級やお金持ちには普及して、徐々にレースが行われるようになりました。ああいう人たちは、乗り物を持つと、必ずレースをやり出すのですね。
    ――ロードバイクの進化はその後、どう進んでいきましたか。
    仲沢 レースを目指して進化したので、「より軽く、より速く」が基本です。
    先ほどのペダル駆動の乗り物は、速く走らせようとすると車輪を巨大化させる必要がありました。その結果、死亡事故が多発してしまい、安全性の観点からチェーン駆動が導入されます。これが1880年代のことで、ここで現在の自転車の姿が完成しています。その後の大きな追加点は、1930年代の変速機の登場でしょうか。
    ただ、その後もフレームは試行錯誤が続きました。1970年代にそれまでのスチール一辺倒の流れに対して、アルミのフレームが登場します。軽さと強度を兼ね備えた素材がフレームでは重要なのですね。東西冷戦後に軍事用に押さえられていたチタンが民間に流れて、チタンフレームが流行ったのも、こぼれ話としては面白いところでしょうか。
    ただ、2000年代に強度も軽さも優れたカーボンフレームが出てきて、ひとまずは落ち着いた印象があります。レース用としては、もはやカーボン以外は考え難いですね。
     
     
    ■フランスにおける自転車文化はサッカーに次ぐ存在
     
    ――最も影響力の大きかったレースは何だったのでしょうか?
    仲沢 影響が大きかったのは、昔も今も「ツール・ド・フランス」です。世界最大のレースでもあると同時に、他にはない独自ルールが存在してきたレースでもあります。例えば、1930年代くらいまでは変速機が使用禁止でした。かつては自転車交換も認めていなかったので、タイヤをたすき掛けで持ったライダーが、故障の際に自ら修理していた時代もあります。
    そこから生まれた悲劇のヒーローが、1920年代に活躍したウジェーヌ・クリストフです。彼はピレネー越えの際にフレームを故障してしまい、レースを続行するため麓の街までバイクを担いで向かいました。鍛冶屋で「ふいご」を借りて自ら溶接して修理したのですが、優勝候補の一人でありながら大変に順位を落とす結果に終わりました。
    しかし現在も、そのサン・マリー・ド・カンパンという街では、その鍛冶屋の家が知られていて、そこには彼を称える銘板が置かれています。フランス人は物語を語り継ぐ民族なのです。
    ――「ロードバイク文化」が西欧にはあるのですね。
    仲沢 フランス、イタリア、ベルギーあたりでは、日本で言えば「野球」に匹敵するくらいの文化です。フランスでも――さすがにサッカーだけは別格ですが――それに次ぐ文化としてはF1に並びます。スポーツ紙のレ・キップを読めば、一面こそサッカーの話題ですが、その次くらいには自転車の話題が出てきますよ。
    だから、向こうの子どもたちは、日本の子どもが少年野球をするように、普通に自転車に乗ります。どんな街にも必ずヴェロクラブという自転車クラブがあって、大人たちがシステマティックに子どもに自転車の乗り方を教えます。コーンを立てて間を走行させたり、ぶつかっても転ばない練習をさせたりして、安全に乗れる技術を身につけさせていくんです。
    ――補助輪なしで乗れるようにする、みたいなレベルじゃないんですね(笑)。
    仲沢 補助輪なんて、そもそもないですよ。もちろん、野球選手と一緒で、大部分の子どもはプロになれません。でも、趣味としてロードバイクに乗り続ける人は沢山います。
    ――やはり、F1レーサーや野球選手みたいに儲かるんですか?
    仲沢 いや、最近までさほど儲かりませんでした。アシスト級の選手なんかだと、下手するとサラリーマンよりも低いでしょう。ただ、わりと名誉職的な意味合いがあって脚光を浴びるので、憧れる子どもは沢山います。金持ちのボンボンを、親がチームに何千万円と寄付をしてプロ入りさせるなんて話も珍しくありません。
    ただ、アメリカ人の選手が増えてからは、スポンサー料などでかなり儲かるようになったそうです。それでもアメリカ人にとっては、MLBやNBLの選手に比べて随分と低いと思いますよ。
     
     
    ■アメリカ文化に押し流された戦前の自転車文化
     
    ――日本におけるロードバイクの受容はどうだったのでしょうか?
    仲沢 基本的には、昭和30年代の第一次サイクリングブームが現在に繋がる始まりです。
    ただし、最近資料を調べている最中なのですが、実はどうやら大正期の日本に自転車レースの黄金期があったそうです。割とママチャリのような実用車的な自転車を使って、東京―大阪間や東北一周のレースを行っていたそうです。
    そもそも日本で最初の自転車クラブは、1920年頃に帝国大学(現在の東京大学)に誕生した「帝国大学自転車倶楽部」でした。まだ自転車は庶民には高価で買えない時代だったので、一部のインテリの乗り物でしたが。
    ――戦前の旧制高校的な教養主義の中で輸入されていたのですね。
    仲沢 ただ、戦後にアメリカ文化が流入する中で押し流されました。当時のアメリカ文化には、自転車なんてないですから。もし、あのまま戦前の流れが定着していれば、日本にもツール・ド・フランス級の自転車レースが出来ていたのかもしれません。
    ――それが昭和30年代に、また復活したわけですね。以前、この頃の小津安二郎の映画で、休日に会社員がサイクリングに行くシーンを見たのですが、あれは当時の最新の流行だったんですね。
    仲沢 レジャーの流れで、サイクリングブームが訪れたんです。自転車に乗って、休日に遠くへ行く人たちが現れました。
    その当時はまだイギリス風の自転車が多くて、ロードバイクはあまりメインではありません。「ランドナー車」もメジャーな趣味ではなかったんです。日本人の「ランドナー崇拝」は、当時発刊した雑誌「サイクリング」や、その後に発刊された「ニューサイクリング」のカリスマ編集長だった、今井彬彦さんの影響だと思いますね。フランスに当時あったルネ・エルスという工房をピラミッドの頂点に据えた世界観を主張した人です。
    ――カリスマ編集者みたいな人がいたんですね。
    仲沢 まあ、僕も高校生の頃には夢中になって読んでいましたが(笑)、やはりいま読むと「彼の価値観でしかなかったよな」と思うのも事実です。本来、自転車はもっと自由なものですよ。
    何より「サイクリング」と、それを引き継いだ「ニューサイクリング」の良くない影響は、「ランドナー車はフランスの古いパーツで作られているべき」なんて主張する人を作ってしまったことです。だって、ルネ・エルスが今もサイクリストにランドナーを提供し続けていたら、古いパーツなんて使いますか? 違うでしょう。きっと今使われているパーツで、自分たちの自転車を作り上げたはずです。まるでクラシックカーのように、自転車が扱われていると思います。
    ――「男の趣味」の世界にありがちな話が、やっぱりあるんですね(笑)。
     
     
    ■なぜこれまでの自転車ブームは上手く行かなかったのか?――結局、こうしたブームが衰退した理由って、どの辺だったのでしょうか?
    仲沢 80年代にも一度、ロードバイクブームが来たのですが、これも同じ理由で衰退しました。当時NHKがツール・ド・フランスを放送した影響で、一度ブームが来たんです。ポパイやブルースタスでも特集が組まれました。まあ、部屋のインテリアとしてお洒落……みたいな文脈でしたが。
    ――僕の知っている80年代の光景に、ロードバイクは登場してこないですね。
    仲沢 85、6年頃にはかなり盛り上がったのですよ。ツールに日本人で初めて出た今中大介さんなどの、現在の日本のロードバイクを支える重要人物たちも、この時期に始めています。
    二度ともブームが衰退した理由は、日本に自転車を走らせる環境がなかったことに尽きます。向こうでは、道路に自転車専用のゾーンがありますからね。それに、当時は日本人の運転マナーも悪かったです。路上でロードバイクを走らせていようものならクラクションがブーブー鳴らされて、おっかなくて仕方ない。そうなると、やはりみんな辞めていきます。
    ただ、最近になって日本人の自動車のマナーはだいぶ向上したと思います。走るのが楽になりました。
    まあ、西欧では当然なんですけどね。フランスでペリグーという町の自転車クラブに一週間滞在したことがあるのですが、やはり狭い道で自転車が列をつくると渋滞が起きてしまうんです。でも、自動車はクラクションを鳴らしません。安全に抜けるところまで後ろを走ってくれて、抜かしざまに「頑張れよ」なんて声をかけてくれる。ああ、文化として完全に受け入れられているんだな、と思いましたね。
    ――道路事情の方は向上しているんでしょうか。例えば、このPLANETSを主宰している宇野常寛さんは、本人自身もロードバイクに乗っている最中に車にハネられたりしていて、「東京の道路に自転車は向いているのだろうか」と話すんです。一方で、彼の友人の吉田尚記さんというアナウンサーの人は、むしろ「東京の道路は自転車での移動に向いている」と言うんですね。特に下町なんかは、自動車が普及する前に街並みが完成しているので、むしろ自動車にこそ向いていない、と。
    仲沢 両面あって、現状ではお二人がともに正解だと思いますよ。
    例えば、シアトルやバンクーバー、あるいは西欧のベルギーやオランダのような街では、見事に自転車レーンが出来ています。鉄道にも自転車を積めるスペースがあるので、日本のように輪行にしてバッグに積んで載せる必要がありません。気軽な移動手段として使えるインフラが完成しています。それに比べれば、やはり日本は自転車に向いていないと言わざるを得ません。
    でも、都内では四六時中電車が混み合っていて、自動車では数キロの移動で1時間かかることもあります。それに比べれば、その間をスイスイ漕いでいける自転車は向いていますよ。実際、東京の下町に、狭い一方通行の道が多いのも事実です。
     
     
    ■西海岸発のマウンテンバイクブームという「補助線」
     
    ――80年代の後、ゼロ年代のロードバイクブームに至るまでラグがありますね。
    仲沢 90年代の始めくらいをピークにして、今度はマウンテンバイクブームがあったんです。これが実は重要です。
    マウンテンバイクの始祖とされているゲイリー・フィッシャーやジョー・ブリーズは、サンフランシスコの周辺に住んでいました。彼らは、ビーチ・クルーザーという砂浜を走る太いタイヤを改造して、そこに変速機や幅の広いハンドルを付けて、山遊びで楽しく下るための自転車として「マウンテンバイク」を作ったのです。
    ――まさに、西海岸流の「ハック」の文化ですね。
    仲沢 ゲイリー・フィッシャーは、非常に面白い話があるんです。彼はロードバイクの全米ナショナルチームにいたんですね。ただ、西海岸の自由な風土で育った選手だったこともあり長髪で通していたら、「長髪を切れ」と言われてしまい、それに抗議して辞めてしまったんです。この辺はヒッピー文化に通じるものがあります。ただ、彼は自転車が好きだったんですね。その後、彼は自由に山で乗れる自転車を作ろうと考え始めました。それで生まれたのがマウンテンバイクなんです。
     
  • 「円の価値を大暴落させれば東京オリンピックは自壊」――経済学者・田中秀臣が2020年の"経済テロ"を考えてみた☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.144 ☆

    2014-08-26 07:00  

    「円の価値を大暴落させれば東京オリンピックは自壊」――経済学者・田中秀臣が2020年の"経済テロ"を考えてみた
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.26 vol.144
    http://wakusei2nd.com



    今年の秋〜冬頃に発売予定のPLANETSの新刊「PLANETS vol.9」(以下、P9)。特集を「東京2020」とし、2020年の東京とオリンピックの未来図を描きます。
    この「P9」は、以下の4パートで構想されています。
    「A」=オルタナティブ(僕らが考えるもう一つのオリンピック/パラリンピック)
    「B」=ブループリント(2020年の東京、その未来都市の青写真)
    「C」=カルチュラル・フェスティバル(日本ポップカルチャーの祭典)
    「D」=ディストラクション(セキュリティ意識喚起のためのオリンピック破壊計画)
     
    ▼参考記事
    ・「PLANETS vol.9」の全
  • 週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会~8月18日放送Podcast&ダイジェスト! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.143 ☆

    2014-08-25 07:00  
    220pt

    週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会
    ~8月18日放送Podcast&ダイジェスト!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.25 vol.143
    http://wakusei2nd.com


    毎週月曜日のレギュラー放送をお届けしている「週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」。前回分の放送のPodcast&ダイジェストをお届けします。
    8月18日(月)21:00~放送
    「週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」■パーソナリティ
    宇野常寛
    ▼ゲスト
    番組D・トミヤマ、モウリス、かしゅ〜む


    放送日:2014年8月18日
    「週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」第19話
    ▼パーソナリティ
    宇野常寛
    ▼ゲスト
    とみやま(番組D)、モウリス、かしゅ〜む
    ▼8/18放送のダイジェスト
    ☆OPトーク☆
    AKB48の東京ドームコンサート初日、直後の生放送! ですが、肝心のパーソナリティ・宇野常寛は仕事で途中からの観覧になりました…。
    ☆ゲストトーク1☆
    今夜は東京ドームコンサートを全編見た方たちがゲストに登場! まずは「ラジ惑」のディレクターを務めるトミヤマさんと一緒に、コンサートをふりかえります。
    ☆ゲストトーク2☆
    続くゲストは、「朝までオタ討論」でもおなじみのモウリスさんとかしゅ〜むさん。宇野常寛が間に合わなかったコンサート前半部分の魅力を主に語ります。
    ☆延長戦トーク☆
    引き続き、モウリスさんかしゅ〜むさんとコンサートの感想戦を行います。セットリストや出演メンバーを受けて、AKBグループのかかえる課題についても考えます。

     
  • 社会とゲームを一変させた「1995年」の衝撃——「次世代機競争」から「プレステ革命」へ ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.142 ☆

    2014-08-22 07:00  
    220pt

    社会とゲームを一変させた「1995年」の衝撃
    ――「次世代機競争」から「プレステ革命」へ
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.21 vol.141
    http://wakusei2nd.com


    今日のほぼ惑は、大好評の中川大地さんによるゲーム史連載。今回は日本社会のメルクマールとなった1995年に巻き起こっていた、ゲーム業界における次世代機競争の状況について解説します。

    第8章 世紀末ゲームのカンブリア爆発/「次世代」機競争とライトコンテンツ化の諸相1990年代後半:〈仮想現実の時代〉盛期(1)
     
    ▼「中川大地の現代ゲーム全史」
    前回までの連載はこちらから
     
     
    ■「1995年」のメルクマール性と情報環境の変化
     
    1990年代前半は、まだ〈虚構の時代〉の残滓が色濃い過渡期としての性質が根強かった。冷戦が終わり、バブル経済こそ弾けて大きな画期は到来していたものの、国内での大勢の生活実感のレベルではまだ確たる前時代との差は認識しづらい時期だったと言える。
     ゲーム機のテクノロジーの面でも、あくまでROMカセット式の2Dドットグラフィック表現の範囲内でファミコンからスーパーファミコンへの順当な「国民機」の座の継承が行われ、マニア機としてのPCエンジン(PCE)やメガドライブがCD-ROMの搭載などで一定の先進性を示しながらも、シェア的にはかなりの後塵を拝するという図式は動かなかった。その意味で、〈仮想現実の時代〉らしさの内実は、主に海外のPCベースの先進的なゲームデザインの上陸や、アーケードでの『バーチャファイター』シリーズの登場など、全体的にはアーリーアダプター層が食いつくシーンに限られていたと言える。
     だが、年代を折り返す1995年の前後、社会的にもゲームをはじめとする情報環境においても、いくつもの偶然と人為が重なり合った結果、あからさまな画期をなす事象が、以後の人心に大きく作用していくことになる。
     その引き金となった出来事が、1月の阪神・淡路大震災であったことは言うまでもない。神戸という大都市に突如として廃墟をうがち、5万人近い死傷者を出した当時の時点での戦後最大の天災は、直接には被災しなかった東京をはじめとする国内の文化空間にも甚大な影響を及ぼした。
     それは被災者の救援や復興に対する実際的な社会の対応とは別に、1970〜80年代の〈虚構の時代〉らしい漠然とした不安として囁かれていた「ノストラダムスの大予言」などのような終末思想に一種のリアリティを与えるものとしても受け止められ、世紀末気分を加速するものでもあった。つまり、高度消費社会の日常を退屈に思ってきた人々にとっては、いささか不謹慎な期待や高揚さえ伴う出来事でもあったのだと言える。
     そうした〝不謹慎〟な心性を最悪のかたちで露呈させたのが、震災後わずか2ヶ月後にオウム真理教によって引き起こされた地下鉄サリン事件に他ならない。米ソ冷戦時代の核戦争の恐怖を背景に、俗悪なオカルト趣味や疑似科学、各種サブカルチャーなどをパッチワークした特異なハルマゲドン願望を教義化したこの教団は、いわば「震災程度では世界が終わらなかった」ことに絶望し、手製の毒ガスを用いた無差別テロを敢行することで、自らの妄想する〝世界の終末〟を自作自演してみせたのである。
     事件をめぐって教団を吊し上げにする世論が沸騰する中、社会学者の大澤真幸は、地下鉄サリン事件をはじめとする一連のオウム真理教の行動に〈虚構の時代〉の終焉を読み解き、特殊な狂信者たちの凶行としてでなく、同時代の日本社会そのものが抱える病理の顕れとして分析した。(大澤真幸『虚構の時代の果てに』)
     これらの事件が、出口の見えない不況と相まって、それまでの日本社会の在り方が否応なく問い返していくようになる一方で、家庭用ゲーム機の代替わりもまたドラスティックに進行していた。
     阪神大震災発生直前の94年末、それぞれ現行機だったメガドラとPCEの後継にあたる「セガサターン」「PC−FX」に加え、ソニーグループが新設したソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)が「プレイステーション」を投入。同年3月から松下電器産業(現:パナソニック)がアメリカの3DO社との業務提携で〝ゲーム機〟ならぬ〝マルチメディア機〟として投入していた「3DO REAL」や、バンダイの「プレイディア」、SNKの「ネオジオCD」なども含め、主にCD-ROMでのソフト供給を標準とする32ビット機の市場競争が始まっていたのである。
     同様にCD-ROM媒体でのマルチメディア化が進んでいたパーソナルコンピューターの領域では、震災やオウム事件のショックも一段落した95年秋には、汎用ソフト「Windows 95」が上陸。BASICインタープリターやMS-DOSのようなキーボードからのコマンド入力による操作ではなく、マウス等によるポインティング操作で誰もが直感的にパソコンを扱えるようになるグラフィカル・ユーザー・インターフェース(GUI)のOSが本格的に普及してゆく契機となり、これを境に社会のIT化がはっきりと進行していくことになる。
     さらには90年代前半のポケットベルのカジュアルな普及の延長線上に、携帯電話やPHSへの移行も始まり、人々のコミュニケーション様式とライフスタイルを大きく変容させる動きも本格化していく。
     以上を俯瞰してみるならば、95年を境にして国内的な「政治と文学」の想像力には世紀末的なカタストロフ気分とウェットな閉塞感が募っていく反面で、世界的な「経済と技術」の発展の波がドライに途切れることなく進行していくという分断が、90年代後半のゲームをめぐる状況の前提環境を提供していたと言えるだろう。
     つまりは、オウム真理教事件によって1980年代的な消費社会の陰画である「ここではないどこか」を目指す〈虚構の時代〉への現実逃避的なロマンが派手に瓦解。そんなユーザー側の自意識とも無関係に、「ムーアの法則」型の自律的な進歩やデジタル技術の論理に沿って、人々の現実環境が広義のバーチャルリアリティとして再編されていくのが、〈仮想現実の時代〉が全面化する90年代後半のモードなのである。
     
     
    ■「次世代機競争」のドラマツルギー
     
     そして日本ゲームにとっての90年代後半は、経済全体の沈滞とは裏腹に、依然として高度成長が続く時代でもあった。98年のピークまで産業としても右肩上がりの成長が続いたばかりでなく、ゲーム内容の表現面でも、まさに「カンブリア爆発」と呼びうる進化の多様化が起きた、きわめて豊饒な期間であった。
     その土壌を用意したのが、先述した家庭用ゲームの「次世代機競争」に他ならない。前節で挙げたハードのほか、96年には先駆的なインターネット接続機能を売りにバンダイが米アップルと共同開発した「ピピンアットマーク」や、覇者・任天堂が満を持して送り出した「ニンテンドー64(N64)」が登場。94〜96年にかけては、かなりの群雄割拠状態にあったわけである。
     こうした出自の異なる多くのメーカーが参入してくる状況は、ちょうど1980年代前半のファミコン定着前夜、エポック社の「カセットビジョン」シリーズなどがしのぎを削っていた「第二次テレビゲームブーム」を彷彿とさせる。この時期は、 
  • 村上春樹『女のいない男たち』から読み解く、現代日本文学が抱える困難(森田真功×宇野常寛)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.141 ☆

    2014-08-21 16:00  
    220pt

    村上春樹『女のいない男たち』から読み解く、現代日本文学が抱える困難
    (森田真功×宇野常寛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.21 vol.141
    http://wakusei2nd.com


    初出:「サイゾー」2014年8月号

    今日のほぼ惑は、今年春に発売となった村上春樹の新作『女のいない男たち』を宇野常寛とライターの森田真功さんの対談をお届けします。社会現象となった『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』から一年、いよいよ明らかになってきた、村上春樹作品に象徴される「現代日本文学」が構造的に孕む矛盾と困難とは――?

    ▼プロフィール森田真功(もりた・まさのり)
    1974年生まれ。純文学からマンガ、ロックミュージックからジャニーズまで、取り扱うジャンルは幅広い。レビューブログ「Lエルトセヴン7 第2ステージ」
    http://aboutagirl.seesaa.net/
     
    ◎構成/橋本倫史
     
    作品紹介

    ▲『女のいない男たち』著/村上春樹 発行/文藝春秋 発売/4月18日
    書きおろしの表題作のほか「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」の計6作を収録した短編集。「シェエラザード」は文芸誌「MONKEY」掲載、そのほかは「文藝春秋」掲載。
    森田 村上春樹の新刊『女のいない男たち』は、語るべきことも少ないし、それほど面白い小説だとも思いません。ただ、これがなぜ面白くないかを考えると、色々なことが見えてくる作品ではあるんじゃないかとは思います。
     表題作の中で解説されるように、「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。ひとりの女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」というのが今回の短編集のモチーフ。特定の異性が去る/自殺する/殺されるというモチーフは、村上春樹の過去の作品でも頻繁に用いられてきた。今までと大きく違うのは、中年以降の男性を主人公にしている点ですが、それはむしろ、今作がつまらない原因になっています。これは村上春樹という作家自身の限界でもあるし、彼に象徴される日本文学の限界でもある。
    宇野 村上春樹は、『1Q84』【1】の『BOOK3』以降、明らかに迷走していると思う。『BOOK3』では、『BOOK1』と『BOOK2』についての言い訳──父になる/ならないという古いテーマから逃れられないのは仕方ないじゃないかということをずっと書いているわけですよね。前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』【2】(以下『多崎』)でも、そうした近代的な自意識としての男性と、それを成立させるための女性的な無意識、という構造から逃れられない自分の作品世界の限界についての言い訳をずっと繰り返している。そして『女のいない男たち』になると、いよいよその言い訳しか書いていないというのが僕の感想ですね。【1】『1Q84』:09~10年にかけ、現時点で3巻刊行(村上自身は『4』を書く可能性があるとインタビューで答えている)。1984年から異世界”1Q84”年に入り込んだ天吾と青豆の試練を中心に、宗教団体や大学闘争をモチーフに取り入れた作品。

    【2】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』:名古屋で過ごした高校時代の友人グループから、大学進学により一人で上京したのちに突然絶縁された多崎つくる。16年後、36歳になった鉄道会社社員のつくるは、デート相手の言葉によって4人の元を訪ねる旅を始める。
     
    森田 村上春樹の限界と現代日本文学の限界というのはパラレルです。これは石原慎太郎が登場した頃に起源があるのかもしれないけど、70年代後半に村上春樹と村上龍が出てきた頃に「文学自体がユースカルチャーとして機能する」ということにされた。当時は作家も若かったし時代ともマッチしていたけれど、今やそう機能していないのに、同じモチーフの焼き直しをやっていても駄目なんです。
     『多崎』の主人公・多崎つくるは、36歳という設定だった。村上春樹の短編「プールサイド」には「35歳が人生の折り返し地点だ」という話が出てきますが、多崎つくるも折り返しの年齢にある。「プールサイド」【3】が発表されたのは83年だから、村上春樹という作家は30年経っても人生の折り返し地点のことばかり描いていて、折り返したあとのことは描いてこなかった。それが今作では年を取らせてみたけれど、うまくいっていない。【3】「プールサイド」:短篇集『回転木馬のデッド・ヒート』(講談社/85年)所収。「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折りかえし点を曲がってしまったことを確認した。」という書き出しから始まる。

     
    宇野 内容的な話をすると、今作のタイトルは『男友達のできない男たち』としたほうが正確なんじゃないかと思うんだよね。というのも、「シェエラザード」を除くすべての短編が、魅力的な男友達と仲良くなるけれどうまくいかないという話になっている。初期作品にも「自分と対等な男のパートナーが欲しい」という欲望は伏流として流れていたと思うんだけど、それが驚くほど前面化しているのがこの作品集だという気がする。初期3部作の『羊をめぐる冒険』(82年)で「鼠」【4】が自殺して以降、そういう欲望は一切封印されていた。以降の作品では、嫌な言い方をすれば「かつて親友が自殺した」というエピソードが「人間的な深みを演出するためのスパイス」として、カジュアルな口説き文句に使われる程度だった「男友達」というモチーフが、ここにきてもう一度重要なモチーフとして浮上していることが、この作品の中で語るに値する唯一の要素だと思う。この先の村上春樹の長編は、同性の対等なプレイヤーとどう関係を紡ぐのかが鍵になるかもしれない。【4】「鼠」:デビュー作『風の歌を聴け』(79年)、『1973年のピンボール』(80年)、『羊をめぐる冒険』(82年/すべて講談社)の初期3部作は「僕と鼠」ものとも呼ばれ、主人公の「僕」と親友である「鼠」の関係が重要な軸となっている。

     村上春樹の作品において、女性の存在は非常に差別的に扱われているんだけど、それは彼が女性を人間として見ていないからだと思う。女性は、世界に対する蝶番として存在しているんですよね。春樹の中では無意識の象徴として扱われる女性という蝶番を用いることで、イデオロギーや宗教とは違う回路で世界と繋がることができる──こうしたモチーフを繰り返し描いていた。それが”女のいない男たち”となると、まさに「女がいない」ということで世界に対する蝶番が外れてしまっている状態にある。そうした世界で人はどうなるのかというのが今作の隠れたテーマで、そこで同性の友達に対する期待や憧れと、そこに自分は踏み込むことができないという諦めがない交ぜになったものが描かれている。
     かつての村上春樹の作品において、男友達は、全共闘世代が68年に損なってしまったものの象徴としてのみ描かれてきた。しかし今作では明確に異なっている。村上春樹がこの30年で培ってきたものとは別の世界に対する蝶番として男友達を位置づけようとしている。ただ、それを信じることができなくて、女を失い、男友達もできずに一人佇む話が並んでしまった。どこまで意識的かわからないけれど、この閉塞感は作家としての村上春樹の行き詰まりとも重なっている。ここ数年の作品では行き詰まり、別の回路を模索してはいるんだけど、本人がそれを全然信じられていないし、その回路を展開する想像力も持っていないということが露呈してしまっている。その意味で、今作は興味深い作品だというのが僕の判断。
    森田 何かを寓話化して小説を書こうとするときに、村上春樹がモチーフとしたいものが発展していないので、同じものの焼き直しになってしまっているんですよね。2つの価値観の対立、リアリズムとアレゴリー──比喩、あるいはファンタジーが、『1Q84』も『多崎』も全然うまくいってない。『アフターダーク』【5】でもやっていた多人称の路線も総合小説としては『海辺のカフカ』【6】あたりが限界で、そこからの発展性は何もない。そこで再生産の段階に入ってしまったのがここ最近の作品じゃないか。男友達という存在の話にもつながるけれど、主人公をサポートする、あるいは対になる役割を物語の中に全然つくれていない。村上春樹の書き方の中から、それが失われたまま来てしまっている。初期の頃に評価されたアメリカ文化との緊張関係みたいなものも、今日において有効ではない。その部分を引き算にしなければならないことの影響も随所に及んでいます。
    【5】『アフターダーク』:04年刊行。三人称形式と一人称複数の視点での語りが混じり合う、村上春樹作品としては珍しい試みがなされた長編。深夜の都会で起きる出来事を描写していく。
    【6】『海辺のカフカ』
    02年刊行。父親の呪いから逃れるために家出した15歳のカフカ少年と、猫探しをする知的障害の老人ナカタそれぞれの動きが徐々に交わり、異世界と現実が交錯する中で隠された謎が徐々に明らかになってゆく。
    宇野 『アフターダーク』の頃の村上春樹は、結果的にだろうけど想像力のレベルでグーグルと戦っていた。 
  • 現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』 第2回:「グーテンベルクの銀河系からアリスが歩いた世界へ」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.140 ☆

    2014-08-20 07:00  
    220pt

    現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』
    第2回:「グーテンベルクの銀河系からアリスが歩いた世界へ」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.20 vol.140
    http://wakusei2nd.com


    大好評! 落合陽一さんの連載第2回は、アラン・ケイに始まるメディア装置としてのコンピュータの先の世界はどんなものかを探る内容です。次回に展開される、21世紀の「魔法」が呼び起こす美的感動がいかなるものかという考察の前提となる重要な回です。
    ▼落合陽一による『魔法の世紀』
    前回までの連載は
    こちらから


     
    こんにちは、落合陽一です。僕は相も変わらず、深夜の研究室で執筆をしています。
    いきなりですが、僕はよくカップ麺を食べます。それはお金や時間がないからで、仕方なく毎日自販機で買っているのだと思っていたのですが、どうも最近、自分はそうやって言い訳しているだけで、実はカップ麺そのものが大好きなのだと気づきました。
    というのも、カップ麺はある種のメディア装置だからです。
    メディアとコンテンツの関係に対応させるならば、カップ麺のカップはメディア、コンテンツは麺とお湯。しかも、カップに入った麺は世に広く普及したメディア装置ですが、お湯を注いで調理するという点では、とてもインタラクティブです。
    そもそも食べるという行為の中で、カップ麺と僕の間にはいろいろな関係性を考えることが出来るわけなのですが、僕にとってのカップ麺の「インタラクティブ性」は、お湯の量で麺が様々な食感に変化することです。ちなみに僕が好きなのは、日清のカップヌードルを麺ぎりぎりのライン程度にお湯を注ぎ、濃いスープでふやけた麺を絡ませながら食べることです。ふやけるタイミングも含めて、演劇や映画のようなひとつの時間芸術なのだと思っています。
    食べながら、「これは実に興味深いな」と思います。食事のささやかな楽しみです。
    さて、前回から始まったこの連載ですが、今回からは具体的な話に入ります。まずは、僕の作品や、他の方の作品を紹介しながら、コンピュータやメディアアートについて書くことから始めようと思います。
     
     
    ■メディア装置は電気羊の夢を見るか?:芸術表現としてのメディア装置、メディアアート 
     
    最近、メディアアートという言葉をよく聞くようになってきたのではないでしょうか。たとえば、テレビやネットで「プロジェクションマッピング」が特集されたり、3Dプリンターや電子工作で作ったインタラクティブ作品の呼び名としてメディアアートが使われたり、その用法も様々、捉え方も様々です。
    もちろん様々な使い方をされるだけあって、このメディアアートの定義はなかなかに難しいです。一般には現代芸術の一派で「メディアに対して意識的であり、コンピュータや情報技術、電子、電気機器を用いた芸術」などと言われていて、僕もこの定義で考えています。
    前回、映像から魔法への転換ポイントとして、「非メディアコンシャス」「物象化」「虚構の消失」という三つのポイントを挙げましたが、おそらく最もわかりにくかったのは「非メディアコンシャス」という言葉だったのではないでしょうか。つまり、メディア装置への意識そのものを芸術表現にしたのがメディアアートです。実際、先の定義の中にも「メディアに対して意識的」とありますが、これがまさに「メディアコンシャス」です。一般に馴染みのない概念をつかって定義されている芸術なので、使い方も捉え方も様々なのはある意味で仕方のないことかなと思います。
    現在に至るまで、人類は様々なメディア(媒体)を用いて表現を行ってきました。
    油絵ならば、絵の具とカンバスです。この場合、描かれた絵がコンテンツで、メディアがカンバスと絵の具です。本ならば、中の文章がコンテンツで、本がメディアです。つまり、表現をするための媒体がメディアで、表現自体がコンテンツだと思えばいいでしょう。カップ麺ならば、カップがメディアで、麺がコンテンツです……あ、これはしつこいか。
    そして重要なのは、実は近代まで芸術家は「メディア上でのみ表現を行ってきた」ことです。それに対して20世紀半ばに誕生したメディアアートが重要なのは「メディアコンシャス」であり、メディア装置を対象とした芸術であること――つまり、「メディアそのもの」を創る試みを芸術表現としたことなのです。そのとき、「メディアとは何か」「何がメディアとなるのか」というメディアアートの問いは、メディアコンシャスそのものになります。
    ちなみに、このメディアアートの誕生は、映像表現と切っても切れない関係があります。例えば、ビデオアートの大成者であり「メディアアートの父」と呼ばれる、ナム・ジュン・パイクの作品はわかりやすいでしょう。彼は、映像装置、カメラ、インタラクティブなど現代のあらゆるメディア装置の特徴を備えた作品を残しています。Electronic Superhighway : Nam June Paik / ナム・ジュン・パイク 作品まとめ - NAVER まとめhttp://matome.naver.jp/odai/2135339177356767701/2135412062838268603
     
    映像装置を積み上げた彼の作品たちは、常にメディアと人との関わりを私たちに意識させるものばかりでした。こうしたメディア装置についての思考を意識させる芸術が、まさに古典的なメディアアートでしょう。
    僕自身も作品をいくつか作っています。例えば、『Looking-glass timeアリスの時間』という作品では、映像メディアそのものを批評するために装置を作りました。そこには、「もし記録メディアがこの世界に存在しなかったら、どうやって映像を作り出すのだろう?」という問い、あるいは、「いま世界でリアルに加えて、メディア上で同時多発的に流れている複数の時間軸」などに思いを寄せて、作品装置をくみ上げました。これは映像装置への古典回帰でもあります。
     

    https://www.youtube.com/watch?v=c3orYwyuRz4
     (Looking-glass time)
    実物投影機の方式で、実物の時計からレンズで変換される光学像のみを用いてアニメーションを作っています。つまり、「フィルムを使わない」アニメーション装置です。
     
    また、『Human Breadboard』という作品では、この世界にあるコンピュータと人間、有機物、生命をマクロ的に支配する構造を写し取りました。
     

    https://www.youtube.com/watch?v=7gmJGH54lIo
    (Human Breadboard)
    1Hzで動くたくさんのコンピュータを相互通信させ、そこに生物的な部品(生の植物、昆虫など)を繋げ、人間をクロックに動作させています。
     
    他にも、映像や写真では少々わかりにくいのですが、『モナドロジー』という作品もあります。ここでは、不思議な三次元的なアニメーションを作り出しました。物体の存在消失、三次元的な動きを実際に用いて実体のアニメーションを作ると、まるで自分が宇宙に浮いているような不思議な感覚がします。
     

    https://www.youtube.com/watch?v=WRnLJsyeQCU
    (Monadology)
    シャボン玉を消失・出現するメディア装置として捉えて、真っ暗な部屋で非常に弱い点光源のストロボを人間の暗順応に対応させ調節して制作しました。
     
    しかし、これまで非常にたくさんのメディアアートを作ってきた僕ですが、ここ半年ほどは作品を一つも作っていません。なぜだかメディア装置の研究ばかりしています。それは、あることに気づいたのが理由です。どうやら、メディア装置の制作による表現という試みと、メディア装置の研究を行うことは、非常によく似た特徴を持っているのです。というのも、現代における「メディア・アート」の意味の拡大には、どうやらメディアアートとコンピュータ研究の間にある奇妙な相関関係が関わっている気がするからです。
     
     
    ■グーテンベルクの銀河系、星降る前夜――メディア装置としてのコンピュータ
     
    その説明をするために、ここからは少し遠回りをしてコンピュータとは何かを考える旅に出ましょう。今や、この地上に星の数ほどあるコンピュータの在り方を探る旅です。
    実は現在、我々が能動的に使うコンピュータは、デスクトップやラップトップなどの「メディア装置としてのコンピュータ」です。例えば仕事ではデスクトップ型、家ではラップトップ型、ちょっとした用事はタブレットで済まし、電車の中ではスマホ……そんな使い方をする人は多いはずです。コンピュータを使って仕事の書類を作ったり、ウェブにアクセスして情報のやり取りをしたり、映画を見たり、誰かにメッセージを送ったり、はたまた生中継に至るまで、さまざまなメディア装置としての使い方があって、みなさんも思い思いに使っているのではないでしょうか。
    もちろん、それ以外にも、コンピュータはディスプレイのついたものには限らないわけで、改札やエアコンなどの家電に至るまで、僕たちの身の回りには溢れているのですが、今の世の中が興味津々なのもやはり「メディア装置としてのコンピュータ」なのです。なぜなら、やはりそれこそがエンドユーザーの市場に最も購買されてきたのですし、そこではそのメディア装置としての特徴が駆使されることで「お金稼ぎ」が出来ていたからです。
    そんな中、2010年代も半ばを迎えた現在、「スマホの次は何が来るのか?」という記事があちらこちらで話題になり、次の担い手としてグラスウェアや腕時計型のデバイスに注目が集まり、「これからはウェアラブルの時代が来る」なんて言われているわけです。しかし、そのようにしてコンピュータと人が関わるような文脈はどこから創られたのでしょうか。その辺の言葉の歴史や文脈の整理から始めましょう。
    さて、前回の連載で、僕はマークワイザーのユビキタスコンピューティングについて触れましたが、消費者サイドで我々の生活とコンピュータを見たときに、二つの欠かせない出来事があります。一つは、ゼロックス・パロアルト研究所での1973年のAltoの発明(暫定DynaBook)、もう一つは1984年のマッキントッシュの発売です。
    マッキントッシュとスティーブ・ジョブズについてはもう語るまでもないでしょうから、ここではパーソナルコンピューティングを経て、コンピュータがメディア化していく中で、そのバックグラウンドで大きな影響力を持っていた、二人の「偉人」の話から始めることにします。それは、アラン・ケイとジェフ・ラスキンです。
    アラン・ケイは、最初のオブジェクト指向言語「Small Talk」(今でも広く使われるようなプログラミング言語の原型スタイル)と現代型のGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)を持つ最初のコンピュータ「Alto」の生みの親で、DynaBook構想を作り出したコンピュータ史における偉人の一人です。巷では、「未来を予測する最善の方法はそれを発明することだ」という言葉が有名です。
    彼のDynaBook構想とは、ひと言で言えば「未来の本(Book)に代わるようなコンピュータを作ろう」という思想でした。ちなみに、彼はDynaBookの構想時にマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』を読み込んだというのは有名な話です。彼の考えたDynaBookとは、以下の様なものでした。
    ・安価で低電力動作する持ち運び可能なコンピュータ
    ・マルチメディア(音声・画)が扱える。
    ・ディスプレイと直感的なユーザーインターフェースを持ち、子どもが紙とペンの代わりに使える
    ・コンピュータのOS自体が簡単なプログラムで動いていて、エンドユーザーが簡単にプログラミングできる
    この思想は1972年の著作『Personal Computer For Children of All ages』の中に書かれたものですが、今から40年以上も前に書かれたとは思えない先見性があります。現在でいうところのタブレットやスマートフォンに近い思想であり、子どもがiPadやiPhoneで遊んでいる光景をみると、着実にそのときは迫っているなと感じるほどです(ただし、最後のプログラミングについての条件が満たされたOSはまだ存在しません。iOSやAndroidは自身をプログラミングしたり、そのソフトウェアの構造が一瞬で見て取れるようなものではないからです)。
    そんな彼がXeroxのパロアルト研究所で、そのDynaBook思想を体現する「暫定DynaBook」として開発したのが、現代型のGUIを搭載したデスクトップ型コンピュータのAltoでした。
    その時代に、今のiPadのようなコンピュータを想定してモノを作るのがいかに大変なことか――僕には想像もできないです。何しろ、それまでのコンピュータはそもそもマルチウインドウやマウスカーソルなどを備えておらず、コマンドラインインターフェース(よく映画などで、ハッカーが文字だけの画面で打ってますね。あれです)で動かすのが常だったのです。それが、Altoは今見てもなお現代型のデスクトップコンピュータと大枠では差がありません。また、DynaBook構想の元となった1972年の文献には、子どもが板状のディスプレイとキーボードを備えたコンピュータで遊ぶスケッチが描かれており、まさに今の世界を予見しているとさえ思えます。
    彼はそのようにして、その先験的なビジョン、実装としてのGUIとオブジェクト思考言語によって、コンピュータの歴史を大きく進めたのです。そして、これを見て影響を受けたスティーブ・ジョブズがAppleで作ったのが、マッキントッシュなのです。
    ここからは、近年よくある「スマホの次」を論じるような話に見られる、一つの勘違いがわかります。パーソナルコンピューティングは1984年のマッキントッシュ発売で民主化して、21世紀にスマホに進化したわけではありません。むしろ、スマホを含むパーソナルコンピューティングに関わるメディア装置の形は、1972年にDynaBook構想の形で定義されており、以来基本的には変わっていないのです。
    その後、コンピュータカルチャーは2010年代に至るまで、子どもであろうとも誰もが簡単に使えるマルチメディア端末――最終到達点としてのDynaBookを追いかけ続けています。Alto以後、コンピュータはメディア装置としての進歩を続け、パーソナルコンピューティングの時代(パソコン)、Webバブル(ネットワークパソコン)を超えて、今のようなモバイル/ユビキタスの時代(スマホ)になりました。
    しかし、私たちの思想的なバックグラウンドは、いまだ一人の偉人が定義した道順をなぞり続けているに過ぎないのです。我々はグーテンベルクの銀河系の中で、ケイの奏でる音楽でダンスをし続けているようなものです。
    そしてまた、コンピュータが広くメディア装置になったのが、1973年のこのときと言えるでしょう。
    今ではもう当たり前のようにコンピュータはメディア装置として機能していますが、コンピュータがメディアになったのは、実はあらかじめ決まっていた未来ではないと僕は思います。
    そもそも最初、コンピュータは戦争用の計算機として、非常に時間のかかる弾道計算をすぐに処理するために生まれました。別に、いつでもどこでもマルチメディアを使うために進歩して来たのは必然ではなく、またエンドユーザーが使うために生まれたものでもないのです。実際、現在も電卓や炊飯器には、そんなディスプレイやカメラ入力のような機能はありません。マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』で語ったメディア論とコンピュータコンテクストが交わるようになったのは、このようにコンピュータがメディア装置としての可能性を明らかにして、そして、その方向へ発展してきたからに過ぎないのです。
    ただし、ここで一つ忘れてはいけないのは、コンピュータにはメディアというよりも家電製品に近いような、「道具的側面」もあることです。「紙とペン」だけではなく、生活に役立つ道具としての側面も確かにあるのです。
    ここで重要なのが、ジェフ・ラスキンという「ヒューマンインターフェース」の大家です。彼はそもそも1984年のマッキントッシュの開発に関わったことで非常に有名なのですが、その思想の一つに「モーフィングコンピュータ」があります。
    それは、ひと言で言えば「コンピュータが機能に応じてその姿を変えて、違う道具になる」という思想です。これは、つまりは形が自由に変わるドラえもんの道具のようなものです。例えば、あるときはハサミになり、あるときはペンになり、あるときは栓抜きになるような道具をイメージしてください。十徳ナイフのような感じですが、そのコンピュータ版だと思って頂ければわかりやすいでしょう。コンピュータの機能は単機能で提供されるが、用途に合わせてその都度インターフェースは変化していくという発想なのです。
    もちろん、現状では自由に姿を変化させられるのはディスプレイの中の映像でしかないのですが、皆さんもお気づきのように、これは今のスマートフォンのインターフェースそのものになっています。
    つまり、「DynaBook的なマルチメディア装置+2次元モーフィングコンピュータ」の暫定的な実装こそが、現在のスマートフォンやタブレットなのです。しかし、それは1984年にマッキントッシュの登場でパーソナルコンピュータが民主化される以前に、その思想的なバックグラウンドは完成されています。この30年、コンピュータはそれを追いかけて進歩してきたのです。
    そこから分かるのは、「パソコンからスマホ」と「スマホからその次」の間には、ものすごく大きな隔たりがあることです。スマホまでは予想された未来でした。しかし、その後はどうなっていくのでしょうか?
     
  • 「PLANETS vol.9」の全貌 ——2020年の東京を舞台に、宇野常寛が企む「A,B,C,そしてD」とは? ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.139 ☆

    2014-08-19 07:00  

    「PLANETS vol.9」の全貌
    ――2020年の東京を舞台に、
    宇野常寛が企む「A,B,C,そしてD」とは?
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.18 vol.138
    http://wakusei2nd.com



    宇野常寛は、2020年の東京オリンピックに向けて、一体「誰」と「何」を企んでいるのか――? 本日のほぼ惑では、その全貌を少しだけお届け致します!!



    【PLANETS vol.9(P9)プロジェクトチーム連続インタビュー第13回】
    この連載では、評論家/PLANETS編集長の宇野常寛が各界の「この人は!」と思って集めた、『PLANETS vol.9 特集:東京2020』(略称:P9)制作のためのドリームチームのメンバーに連続インタビューしていきます。2020年のオリンピックと未来の日本社会に向けて、大胆な(しかし実現可能な)夢のプロジェクトを提案します。
  • 週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会~8月11日放送Podcast&ダイジェスト! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.138 ☆

    2014-08-18 07:00  
    220pt

    週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会
    ~8月11日放送Podcast&ダイジェスト!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.18 vol.138
    http://wakusei2nd.com


    毎週月曜日のレギュラー放送をお届けしている「週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」。前回分の放送のPodcast&ダイジェストをお届けします。
    8月11日(月)21:00~放送
    「週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」■パーソナリティ
    宇野常寛
    ▼ゲスト
    青木宏行
    1961年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。光文社エンタテインメント編集部編集長(「FLASH」元編集長)。熱狂的なAKBファンとして知られ、数々のメンバーの写真集を手がける。ニックネームは「あおきー」。


    ▼8/11放送のダイジェスト

    ☆OPトーク☆
    「結論から言うと、僕は本当にいま、心が折れています…」8/10に開催されたAKB握手会で、宇野常寛に起こった悲劇とは?
    ☆ゲストトーク1☆
    ゲストに"あおきー"こと、光文社の青木宏行さんが登場! 発売したばかりの『FLASHスペシャル グラビア特盛り!2014盛夏号』の見どころから、制作の舞台裏までお話を伺います。
    ☆ゲストトーク2☆
    「AKB夏祭り」の水着コンテストで審査員を務めた青木さんが、その迫力と驚きをせきららに語ります。さらに、青木さんへの「ムチャぶりスケッチブック」コーナーも!
    ☆延長戦トーク☆
    会員限定パートではいつもの「ムチャぶりスケッチブックトーク」をお届け。今回は「ソフトバンクホークス今宮選手と元AKBメンバー結婚?」「ネトウヨの治し方」と、硬軟ふたつの話題をチョイス。