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国境を超えた虚擬偶像(バーチャルアイドル)、リスクと変遷(前編)|古市雅子・峰岸宏行
2022-05-31 07:00
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第13回(前編)。2017年、中国政府によって厳しいコンテンツ規制が施行される少し前、日本で誕生したバーチャルYouTuberキズナアイが中国にも登場しました。大旋風を巻き起こしたアイちゃんは、中国エンタメ業界における一筋の希望となる「虚擬偶像(バーチャルアイドル)」という存在になりました。「虚擬偶像」はどこから来てどこへ行くのか、中国における巨大市場を解説します。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究第13回 国境を超えた虚擬偶像(バーチャルアイドル)、リスクと変遷(前編)
2016年12月にキズナアイが「バーチャルYouTuber」(以下VTuber)を自称して以来、日本勢にはキズナアイ、輝夜月、ミライアカリ、バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん、電脳少女シロのバーチャルYouTuber四天王から始まり、hololive(カバー株式会社)、にじさんじ(ANYCOLOR株式会社)、ぶいすぽっ!(株式会社バーチャルエンターテイメント)、774inc(774株式会社)、ゲーム部プロジェクト(Unlimited、2021年解散)、個人勢と呼ばれる企業に所属しない天開司やイラストレーター兼業のしぐれうい、麻雀専門の千羽黒乃、自分でVTuber事務所を立ち上げた犬山たまき、ゲーム動画YouTuberながらもVtuberとしても活動しているガッチマンVやヒカキン、hololive、にじさんじの外国語配信メンバー、holollive English、ID、KRやNIJISANJI EN、VirtuaRealなどが活躍していますが、Gawr Gura(がうる・ぐら)がトップの390万人、Mori Calliope(森カリオペ)は200万人という登録者数を誇り、コメントなどを見ると日本国内だけではなく、海外でも驚くほど人気があるのがわかります。さらにプロジェクトメロディ、ヴェイベ、ニャンナーズ等、海外の個人VTuberがグループ化したV-Shojoや台湾の杏仁ミル、フィンランドのLumi等、筆者が日常的に見ているだけでもこれだけ多くのVTuberが世界中で活躍しています。
▲2018年12月31日に開催された年越しVR歌合戦イベント「Count0(カウントゼロ)」。キズナアイ、樋口楓(にじさんじ)、おめがシスターズ、東雲めぐ、ユニティちゃん、響木アオ、周防パトラなど現在でも活躍しているVTuberが多数参加している。
2020年には日本経済新聞で「Vチューバ―、雑談で1億円 投げ銭世界トップ3独占」という記事が報道され、2016年から考えると社会の認知、理解が格段に進んでいます。 中国でも動画プラットフォーム「bilibili」と「にじさんじ」が共同で運営するVirtuaRealや中国人個人勢VTuber、日本人個人勢VTuber、中国Bytedanceが運営するVTuberグループ・A-SOULが大きな人気を得ています。2021年以降、政府のエンタメ規制によってアイドルやアーティストの活動が制限され始めている今、次のエンタメ産業の要として、VTuberに代表される「虚擬偶像」(バーチャルアイドル)が注目されています。
本章では、これまでの連載で紹介してきた日本アニメ、ゲームコンテンツ消費史の最終章として、最新のオタク消費コンテンツである、VTuberが中国でどうして、どのように受容されているのか見ていきたいと思います。
みっくみくにされた中国人オタク
VTuberがすんなり中国人に受け入れられた要因には、Vocaloid「初音ミク」の存在、日本コンテンツへのリテラシー、コンテンツに接することができるプラットフォームの存在の3つがあります。
初音ミクは2007年8月31日、札幌に本社を置くクリプトン・フューチャー・メディア株式会社から発売された音声合成・デスクトップミュージック用のボーカル音源に付帯したキャラクターです。
周知の通り、初音ミクは音楽のみならず、キャラクターに対する消費の概念を大きく変えました。ITmediaに掲載された「初音ミク5周年」を記念した連載では以下のように書かれています。
草の根ミュージシャンたちが自作曲にミクで歌を付け、「ニコニコ動画」などに投稿。身近で日常的な曲たちが、たくさんの共感を呼んだ。曲にイラストや動画を付ける人々も現れ、イラストに合わせた新しい曲が作られる。視聴者の応援がクリエイターを刺激し、新たな作品が生まれる。無名のクリエイターによる創作のサイクルが、加速していった[1]。
中国のプラットフォームACFun、bilibiliにも、多くのクリエイターの楽曲が、連載第9回にご紹介した「搬運工」によってニコニコ動画から転載され、その影響から中国のオタク界隈でも初音ミクが広く認知されました。もっとも人気があった2010年代前半には、中国の音楽ランキング上位に必ずミクの歌があり、10代から20代前半を中心に圧倒的支持を受けていました。2015年に上海で行われた中国初のライブでは、オンライン視聴者数が150万人、弾幕の数は70万を突破、すでに熱は冷めたと言われるものの、2020年、オンラインモール「タオバオ」にオフィシャルショップが開店した際には、いいねの数や売上、閲覧数などから総合的に算出するアイドルオフィシャルショップランキングにおいて、わずか出店半日で中国のトップアイドルをダブルスコアで抑え、ダントツの結果となりました[2]。中国のオタク文化を代表する動画プラットフォーム、bilibiliも、そもそものスタートはmiku Fanというミクのファンサイトだったということも、第9回に書いたとおりです。
ミクの爆発的な人気を受け、2012年7月12日に上海禾念信息科技有限公司から中国人声優、山新の声をライブラリー化したVocaloid洛天依(ルオ・ティエンイー)が発売され、たちまち中国で人気のVocaloidとなりました[3]。
洛天依は、日本コンテンツを愛するあまり日本語を理解するコアなオタクから、より広い範囲のオタク、そして一部の一般人にまで受け入れられるようになり、ケンタッキー・フライド・チキンやピザハット、ネスレ、浦発銀行、ネット映画等とコラボ、中国SNS微博では2015年にフォロワー数でミクを超えました。
2018年にはbilibiliが香港にある上海禾念信息科技有限公司の親会社、香港澤立仕の持ち株比率を高め、その後「虚擬偶像」としてbilibiliの主催するイベントに主役として登場しています。
洛天依は「吃貨」、つまり食いしん坊として認知されています。これはファミリーマートの入店時のジングルをアレンジした楽曲『洛天依投食歌』が元ネタです。2012年にネットで火がついたこの曲は、中国のスーパーや売店、PCショップ、飲食店で使用され、洛天依を知らない人にも知名度が高まり、その後の洛天依の発展に大きく寄与しました。
▲bilibiliなどに投稿された『洛天依投食歌』の映像。YouTubeでも見ることができる。
「吃貨」、食いしん坊は中国では非常に受ける要素で、UUUM所属のフードファイターYouTuber、木下ゆうかは中国SNS微博に259万人のフォロワーを持ち、高い人気があります。
またオーディオライブラリに声を提供した山新がもともと人気だったことも、洛天依の人気に作用しました。山新、本名王宥霽(おう・ゆせい)は1989年生まれ、北斗企鹅工作室(ホクトペンギンスタジオ)に所属する声優で、もともとインターネット上で、日本アニメのファンアフレコを行っていた人です。彼女の作品でもっとも有名なのが、多くのネットスラングを輩出した『ギャグマンガ日和』のファンアフレコです。また『ヒカルの碁』(アニメ2001年・テレビ東京)、『新世紀GPXサイバーフォーミュラ SAGA』(1996年)、『ケロロ軍曹』(アニメ2004年・テレビ東京)などの中国語アフレコ、そして中国のオリジナルアニメにも多数出演していました。とは言え、まだまだ一部のネットコミュニティーでしか知られていなかった彼女が、洛天依のボイスに採用されたことは大きな驚きでした。
もともと、中国では日本アニメの歌姫キャラに高い人気がありました。『マクロスフロンティア』(2008年・ビックウエスト)のシェリル・ノームやランカ・リー、『ギルティクラウン』(2011年・フジテレビ)の楪いのりといったキャラ、そしてニコニコ動画の歌い手やbilibiliの歌ってみた界隈が、個人の人気だけではなく同人文化として受け入れられ、初音ミク、洛天依は中国人の理想の歌姫となったのです。
2010年代後半、みっくみく化した中国オタクファンがそろそろ新しいコンテンツを求め始めた頃、登場したのがVTuber、キズナアイでした。
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「ゲッサン」創刊とあだち兄弟を彷彿させる『QあんどA』(後編)| 碇本学
2022-05-30 07:00
ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。一種の「ループもの」のような結末を迎えた『QあんどA』。かつては戦後日本の精神性を独特な形で描いたとして評価されたこともある「ループもの」ですが、本作で描かれたあだち充なりのループからの脱却にはどんな意味があったのでしょうか。前編はこちら。
碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第22回 「ゲッサン」創刊とあだち兄弟を彷彿させる『QあんどA』(後編)
亡き兄と繰り返される日常
そんなに意識はしてないけど、兄貴について描こうとしてたんだろうね。それについて描くには、このかたちしかなかったかな。〔参考文献1〕
今作は主人公の厚と亡くなった兄の久を中心に物語は展開していく。あだち自身もインタビューで答えているように、あだち兄弟のことを知っている人が読めば、庵堂兄弟はあだち兄弟のことを描いているように読める内容になっていた。 もともと今作であだち充に兄弟の話を描いて欲しいと提案したのは「ゲッサン」を立ち上げて、新連載の打ち合わせをあだちとしていた市原だった。
「死んだ兄貴が幽霊になって帰ってくる話を描いてください」 「あーん、なるほどね。じゃ、それで行くか」 ただ、あだちはこう続けた。 「勉のことなんか描かねえからな」 実兄、あだち勉が亡くなったのが、市原が担当になる半年前、「KATSU!」連載中の2004年6月。一周忌に市原は出席している。その時に撮った写真を現像した時のことだった。あだちが、嬉しそうに写真を市原に見せる。集合写真には、オーブのような大きな光の玉が写っていた。 「来たんじゃねえの、勉!」 あだちの嬉しそうな顔を見た市原は、あだちに描いて欲しいネタをメモしておくノートに「死んだ兄貴が幽霊になって帰ってくる話」と書き留めた。〔参考文献1〕
ラストページにあるコマで厚の部屋に浮かんでいる人魂のような久はまさにこの時のオーブのことを描いているのではないかと思ってしまう。また、あだちが市原のことを信頼していたとわかるのは今作で、厚たちの担任の名前が市原という名前であり、わりとガタイのいい姿で描かれていて実際の市原がモデルになっていることがわかる。『タッチ』の2代目担当編集者の三上信一は度々作中で「三上」という先生などで登場させられてきたが、あだちは自分が信頼している編集者は作中に出すというちょっとひねくれた性格をしているため、市原もかなりあだちから信頼を得て、気に入られていたのがよくわかる。
久にあだち充の亡くなった兄のあだち勉が投影されているように感じるのは、周りの人たちからは人気者として愛されていたが、イタズラ(ばか騒ぎ)ばかりしており、度々弟に迷惑をかけていたという部分である。あだちは「意識はしてないけど」と言っているが、やはり亡くなった兄貴が幽霊になって帰ってくるという設定であり、市原も勉について描いてほしいと考えていたのだろう、それらが形になったと考えるのが妥当だ。 現在「サンデーうぇぶり」でありま猛が連載している『あだち勉物語 ~あだち充を漫画家にした男~』はあだち勉が「赤塚四天王」だった時代にことが中心に描かれており、久のキャラクター造形にあだち勉の要素がかなり入っていることがわかるものであるので、『QあんどA』と一緒に読んでみてほしい。
バカバカしい話を一席、という感じでしょうか。夢落ちは初めてですね。うまくいったな、と思います。最後にもう一度物語が始まるというのも、最終回までは全然考えてませんでした。ラストの余韻は良いはずです。楽しく描けた漫画ですね。〔参考文献1〕
前述した物語の流れでも書いたように、この『QあんどA』は第1話と最終回が円環のようになっており、あだち充は「夢落ち」だと答えている展開になっている。そのため、繰り返される日常を描いたようにも見える。
「エヴァ」はくり返しの物語です。 主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。 わずかでも前に進もうとする、意思の話です。 曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。 同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。〔参考文献2〕
久しぶりに『QあんどA』を読み終えて最初に浮かんだのは、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズとそのリブートが発表された際の庵野秀明総監督の所信表明だった。また、ゼロ年代以降には、『ひぐらしのなく頃に』『魔法少女まどか☆マギカ』など大ヒットした作品で共通していたのは「終わらない日常」を繰り返しながら、「TRUE END」へ向かうために何度も主人公たちがその運命や世界を経験していくというものだった。 1990年代中盤以降にはエルフの『河原崎家の一族』などのいわゆるエロゲーでは、フローチャート式に主人公が選択したことによりルートが分岐していくものがあった。真のエンディングとしての「TRUE END」に行く唯一のルートを選べなかった場合以外は基本的には殺されてしまう(トラップなどで死んでしまう)などの「BAD END」になりゲームオーバーになってしまう。コンティニューしてリスタートすると最初からまたプレイヤーが選んだルートを進んでいくというものになっていた(その際に前にプレイしていたフローチャートが表記されるものもあった)。まさに宮台真司が提言した「終わりなき日常」をゲームにしたような内容であり、この流れがサウンドノベルとして始まった『ひぐらしのなく頃に』に引き継がれていった部分もあった。
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「ゲッサン」創刊とあだち兄弟を彷彿させる『QあんどA』(前編)| 碇本学
2022-05-27 07:00
ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回は「ゲッサン」創刊号から連載を開始した『QあんどA』を扱います。「サンデー」初の月刊誌ということで新人作家の育成を狙う編集部の意向もあるなか、良い意味で「肩の力が抜けた」ベテラン作家による本作の特徴とはどんなものだったのでしょうか。
碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第22回 「ゲッサン」創刊とあだち兄弟を彷彿させる『QあんどA』(前編)
「サンデー」レーベルの月刊少年誌「ゲッサン」創刊
『QあんどA』は2009年5月に創刊された「ゲッサン」2009年6月号から2012年4月号まで約3年にわたって連載された(コミックスは全6巻が刊行)。現在同じく「ゲッサン」で連載中の『MIX』は2012年6月号から開始されており、二つの作品の間には二ヶ月しかなく、何度かの休載もあるものの、あだち充は2009年から2022年現在まで連載の主軸を「ゲッサン」に移していると言えるだろう。
この「ゲッサン」という少年漫画誌の創刊には『クロスゲーム』担当編集者だった市原武法が大きく関わっている。そのこともあって、「少年サンデー」において、いや小学館の漫画においてトップクラスの少年漫画家であり、もはやレジェンドクラスのあだちは創刊から『QあんどA』を連載することになった。
僕が中・高生のころ好きだったのは「タッチ」「うる星やつら」「ジャストミート」「究極超人あ~る」「B・B」……。後ろのほうには尾瀬あきら先生の「リュウ」(原作・矢島正雄さん)というマンガが載っていたり、村上もとか先生の「風を抜け!」や「ヘヴィ」、吉田聡先生の「ちょっとヨロシク!」とか。今より連載本数は少なかったはずだけど、本当にすごい布陣だったと思います。若い作家も次々と出てくる印象があったし、新人とベテランのバランスも良かった。また、80年代の「サンデー増刊号」が新人の宝庫だったんですよ。島本和彦先生とか安永航一郎先生とか、どんどん新人が出てきて。
「サンデー」というレーベルで究極の使命は「多くのマンガ家さんを世に出すこと」だと思うんですね。それで28歳のとき、初めて「ゲッサン」創刊の企画を出しました。「週刊」というサイクル以外でも「サンデー」のレーベルで世に出ていける新人作家さんを増やしたかったんです。 マンガ家さんには週刊連載ができない人っているんですよ。才能があっても物理的にどうしても週刊連載できない。それは持って生まれた執筆スピードの問題なので、本人のせいではないんです。ところが、「月刊少年サンデー」ってずっとなかったんですよ。「ジャンプ」や「マガジン」には月刊があるのに、「サンデー」には増刊しかない。ずっと、それをおかしいと思っていました。2009年に僕が35歳のとき、編集長代理になって創刊しました。
上記は「週刊少年サンデー:異例の宣言文 あだち充と高橋留美子は真意を見抜いた 市原武法編集長に聞く・前編」のインタビューの一部だ。
創刊した2009年時点では市原は「ゲッサン」編集長代理だったが、翌年には編集長に就任する。創刊に先立ち、公式サイト「ゲッサンWEB」を設立し、「漫画力絶対主義」をキャッチコピーとし、「男の子が自立するために絶対必要なふたつのキーワード」として「愛と勇気」を掲げた。また「サンデー」系列の雑誌の中でも、特に新人育成に力を入れており、月例賞である「GET THE SUN新人賞」で受賞した新人作家の読み切りを積極的に掲載したり、連載させていった。 「ゲッサン」編集長時代には『信長協奏曲』『からかい上手の高木さん』などを手掛けてヒットさせるなどその手腕を発揮し、「サンデー」レーベルにおける新世代を世に出すことに尽力していた。市原自身が少年時代に「少年サンデー」、および「サンデー」レーベルを満喫した団塊ジュニア世代であり、雑誌における「雑」を大事にしている編集者でもあった。そのため、ベテラン漫画家と新人漫画家のバランスに関して、自身が関わる「サンデー」レーベルがうまくいっていないと感じていた。そのため、「ゲッサン」を創刊することで新人漫画家の発掘と育成をメインにしてレーベル自体の底上げを行おうと考えていた。
「クロスゲーム」を立ち上げる際、市原はあだちに「そんなに長くもたねーぞ。60歳まで週刊連載したら死んじゃうよ」と言われ、「『月刊少年サンデー』を作りましょう!」と、以前から温めていたアイデアを披露している。〔参考文献1〕
都合よく市原が『ゲッサン』を創刊してくれたので、そのままスムーズに月刊誌へ移行することができました。僕もずっと、「ちゃんとした少年誌の月刊誌を作ってくれ」と騒いでたんです。当時は少年週刊誌を卒業すると、幼年誌か青年誌に行くしかなかった。でも、週刊は無理でも、自分は少年漫画家でいたいと思っていたので。 『ゲッサン』もギリギリのタイミングで創刊できましたね。亀井さんが現役でいるうちに、市原が上層部の各方面に直訴して、具体化することができた。市原は亀井さんから、「『ゲッサン』を創刊するなら、あだち充の連載を取れ」と言われて頭を抱えてました。まだ『サンデー』で、「クロスゲーム」を連載中だったからね。 でもあとから考えると、いろんなことが綱渡りで、ギリギリのところでうまくいったと思ってます。〔参考文献1〕
インタビューで答えているように、あだち自身が年齢もあって月刊漫画雑誌の創刊を求めていた。そして、あだちを育てた編集者である亀井修(小学館常務取締役)からの一言によって、市原は「少年サンデー」で『クロスゲーム』連載中のあだちになんとか「ゲッサン」で新連載をしてもらうしかなかった。
「クロスゲーム」を何回かやると1回休みをもらって、「QあんどA」を描いてました。 『ゲッサン』はなんとしても創刊しないといかんと思ってたから、久々に週刊と月間を並行して連載しましたよ。〔参考文献1〕
「クロスゲーム」をやってたから、野球漫画はなかったでしょ。力まない作品で、とりあえずお茶を濁しておこうと。いきなり雑誌を背負わされちゃ困るし、『ゲッサン』は新人たちが頑張ってくれればいいなと思ってたから。だからとても気楽に始めました。〔参考文献1〕
笑いがメインの作品は初めてでしたね。とにかく気楽に描けるネタという発想です。ギャグというか落語が好きなんで、特に連載だと、笑いがないのはちょっと耐えきれないんです。〔参考文献1〕
ある種の板挟みにあっていた市原をよそ目に、と言えばいいのか、創刊のために一肌脱ごうという気持ちもありながら、「とりあえずお茶を濁しておこう」という気楽さがあだち充らしい。もちろん市原が『クロスゲーム』と『QあんどA』のどちらともの担当編集者だったからこそ同時連載の舵取りができていたのだろう。また、あだち自身も新創刊された雑誌だからこそ、若い漫画家たちにがんばってほしいという気持ちも強かったので、気負わずに済む笑いをメインにした作品を描くことにしたようだ。
これはこの連載でも書いてきたように、連載誌における四番バッターのようなポジションで大ヒット漫画を描いたあとには肩休めのような力の抜いた漫画を描くといういつものパターンである。 この時期のあだち充の漫画を連載順に並べてみると、『クロスゲーム』(2005年〜2010年)、『アイドルA』(2005年〜不定期連載中)、『QあんどA』(2009年〜2012年)、『MIX』(2012年〜連載中)というように野球漫画で長期連載になった『クロスゲーム』と連載中の『MIX』の間にあるのが、前回取り上げた『アイドルA』と『QあんどA』となっている。 『アイドルA』は前回取り上げたようにその前に連載していた『KATSU!』と『クロスゲーム』のヒロインたちの無念をありえない展開ながら昇華した男女逆転コメディ野球漫画だった。だが、こちらは不定期連載であり、今のところ終わったというアナウンスはない。また、コメディ的な要素が強いので、こちらも肩に力は入っていない作品となっているが野球を描いている。 今回取り上げる『QあんどA』はまさにあだち充が肩の力を抜いて描いた作品であり、以前の作品で言うなら『虹色とうがらし』と『いつも美空』の系統にある。『虹色とうがらし』はSF×時代劇という内容だが、落語の要素を感じさせる物語展開になっていた。『いつも美空』は青春×超能力という物語だった。そして、今作『QあんどA』は青春×幽霊という内容だが、『虹色とうがらし』同様に落語の要素を感じさせる笑えるたのしい内容になった。
「ゲッサン」を立ち上げた市原は2015年8月号まで編集長を務め、古巣である「少年サンデー」に戻って編集長となり、「所信表明」を掲載し大きな話題を集めることになった。生え抜きの新人作家の育成を「少年サンデー」の絶対的指名とすると言い、同時に中堅やベテランを起用することでアンバランスになっていた「少年サンデー」に「雑」的な要素を入れてバランスある漫画誌へ変革していくことになる。2021年10月には6年勤めた「少年サンデー」編集長を退任し、小学館第二コミック局プロデューサーに就任したが、2022年4月15日付けで小学館を退職したことをツイッターで報告し、今後は漫画原作者として活動していくことを発表している。市原には気持ちのどこかではあだち充に一度は自身が描いた漫画原作をやってほしいという思いがあるのではないかなと私自身は思うのだが、どうだろうか。
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べんがら塗り〜鴻雁北(こうがんかえる)|菊池昌枝
2022-05-24 07:00
滋賀県のとある街で、推定築130年を超える町家に住む菊池昌枝さん。この連載ではひょんなことから町家に住むことになった菊池さんが、「古いもの」とともに生きる、一風変わった日々のくらしを綴ります。人類が初めて使った無機塗料「べんがら」での塗装を通じて人類史の壮大さに思いを馳せながら、「古いもの」を使い続ける豊かさを噛み締めます。
菊池昌枝 ひびのひのにっき第9回 べんがら塗り〜鴻雁北(こうがんかえる)
外壁の品格
これまで何度かお伝えしたが、私の家は古民家だ。玄関周りはおそらく最近──それでも昭和50年代に修繕されたと推定できるものの、側面の窓は無用心だということで工務店さんが格子を新たに作ってくださったのだ。 玄関先の板塀の色は褪せて薄赤く変色し、側面の格子は生木のままだったので1年も経つと色はくすんでいる。 それが少し気になっていたところ、お隣のおじちゃまがご自身の玄関先を自分で塗装していた(おじちゃまのお宅も古民家)ので、「この塗料はどこで手に入れるのですか」と尋ねてみたのだ。そうしたらおじちゃまが言うには、これは「べんがら(弁柄)」という塗料で、この地域でよく使われているものだとのこと。聞けばおじちゃまの弟さんもべんがら塗り教室に通ったので、そこから教えてもらっていたということで、その時は「そういう教室があるのか!」と小耳に挟んでおいた程度だった。 翌日、毎朝のお散歩でお向かいの別のおじちゃまに「私もべんがらしてみたいねん」と適当な滋賀語を使って話したらその時は「そうかぁ」くらいの反応だったのに、数日して町の「まちなみ保全会」の担当者さんからメッセージがきたのにはびっくりした。お向かいのおじちゃまが頼んでおいてくれていたのだった。しかもその保全会の方とは、家の改装中に打合せでここにきていた時、県知事がたまたま町にいらしていた時に町側の同行者として参加していたとのことで、私のことを覚えてくれていた。この町は本当に狭い……。 ところでべんがらは人類が最初に使った無機塗料で、フランス南西部のラスコー洞窟やスペイン北部のアルタミラ洞窟での赤色壁画は、約17000年前(後期旧石器時代)で知られているそうだ。日本では縄文時代に土器などに施した赤色彩色がベンガラ使用の最古の事例らしく9500年前にまで遡り、高松塚古墳(7世紀末)の゙人物像に極彩色が用いられているべんがらの赤色には、魔除や再生の意味があったのだって。
▲色あせた状態の外塀
▲調色されたべんがら缶、養生セットと刷毛
おせっかいといういい文化
それと並行して、隣のおじちゃまから連絡が来て、外に出てくるようにという指示。出てみるとおじちゃまは私の家の玄関側の板塀の色に合わせて、表側からだと見えない角の板塀に試し塗りを始めていたのだ。「試しにな、塗ってみたんや」と(笑)。べんがらが何かはわからなくても、それとなく雰囲気を醸し出したべんがらを自作して塗ってみる。頼まれなくても人の家のこともする──これが町内なのだ。東京なら騒動になったり、景観条例が云々とか言われそうなことだが、ここではそんな面倒なことは不要である。 都会の人は町内の人間関係が嫌で都会は楽だということを聞くが、都会だってそんなことばかりではないと思う。生きている間に生活空間の中で良い時間を過ごしたい。そうなると交差する人は大事なのだ。人のためになるだろうということをする人、その気持ちを汲む人、汲まない人。社会はそれぞれだが、私はお互い様があるところで暮らしたい。そのためにも相手のことを知る必要がある。してもらうだけではそんな関係はできない。そのためにも自分の感覚でおせっかいを焼くことが必要だ。そうしないと自分の実体験にならないし、私という人がどういう人かも理解してもらえない。
▲おじちゃまが試し塗りした赤の強いべんがら。
べんがらの色
このメッセージから数日くらい経って、保全会から色を調合したべんがら(液体)が届いた。届けてくださったのはかなりマニアックな雰囲気を醸し出している調合家の方で、都会住まいの長かった私に塗装ができるのかを疑っていた(はず)(笑)。べんがらというのはWikipediaによると、酸化第二鉄を主成分にした顔料で江戸時代にベンガル産のものを輸入していたため、べんがらという名称になったそうだ。着色力・隠蔽力が大きく、耐熱性・耐水性・耐光性もあって安価な上、無毒で人体にも安全という現代にはぴったりの物質で、それに色調整をしたり油などを混ぜて液体にしているようだ。最初は濃いめの赤褐色なのだが、経年でだんだん赤が強くなっていくのが特徴である。家によって色が若干違うので、この調合家は事前に我が家の古くなった板塀の赤い部分を見て判断し、調合して一缶持ってきてくださったのだ。 べんがらはペンキと違ってテカリなくマットな仕上がりで、しかもすぐには乾かない。これが注意ポイントで湿度にもよるが乾くまで1週間は軽くかかる。その間板塀や玄関に寄りかかった日には大変なことになる。
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JR浜松町駅から芝大門、増上寺へ 〈後編〉|白土晴一
2022-05-23 07:00
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。前回に引き続き、増上寺周辺を歩きます。徳川将軍家の墓所がある増上寺ですが、現存する文化財は再建されたものも少なくありません。現存する建築物と地形から、当時の風土を探る白土さんの眼が光ります。
白土晴一 東京そぞろ歩き第14回 JR浜松町駅から芝大門、増上寺へ 〈後編〉
芝の街歩きの続き。 芝名物とも言える芝大門を抜け、そのまま東へ向かうと、通り沿いに小さな駐車場がたくさんあるのを見ることが出来る。
この地域はオフィス街で、停められているのは営業用らしき車両が多い。付近に警察署もあるので、路上駐車が難しい場所でもあるし、駐車場の需要は高い土地だと思う。 しかし、この駐車場群が他の地域と違うのは、ほとんどが寺院が経営していることだろう。ほとんどの駐車場が、本堂や庫裏などの寺院の建物と併設するように駐車スペースが作られている。お寺や神社が自らの土地で事業を行うのは珍しくないが、都心のオフィス街付近にあるお寺は、わずかな空間でもこのように利用して駐車場を経営していることが多い。 そのため、ここ芝はお寺の数が多いのだ。 昭和 16 年の「大東京區分 芝區詳細図」(日本統制地図株式会社)で戦前のこのあたりを見ても、この周辺に寺院マークがたくさんあるのが分かる。
▲著者蔵
前編で書いた通り、このあたりは江戸時代は将軍の菩提寺だった増上寺の広大な境内だったが、その中には最盛期には50寺以上の山内寺院が存在していたというのが、お寺が多い理由である。 山内寺院というのは、簡単に説明すれば、大きなお寺の境内にある小さなお寺のことで、方丈(長老僧侶の居室)、学寮(僧侶の学問寄宿所)などなど、それぞれが独自の役割と由来を持っている。 例えば、現在の港区区役所の通り沿いにある常行院は、増上寺の法主が天台宗の僧侶をわざわざ招くにあたって創設された山内寺院である。
古い増上寺の境内図を見ると、本当にびっしり山内寺院が並んでおり、巨大寺院の中に小さな寺院が乱立する寺院都市の様相を呈している。 こうした山内寺院の中には特定の大名と関係を深めているお寺もあり、寄進などを受けその大名家の宿坊や江戸登城前の支度場所などとして機能していたものもあった。 明治時代になって増上寺の境内の多くが上地(政府による接収)されたが、これらの山内寺院は宗教法人として今も多くが存続している。 江戸時代に大名の貸していた空間を、今では周辺会社などに駐車場として貸しているというのも、ある種の芝地区の歴史的な連続性を感じなくもない。 そう考えると、芝のお寺の塀には「空車」の張り紙をよく見ることがあるが、これも歴史的な背景込みで考えると、なかなか感慨深い。
この駐車場のある山内寺院の通りを、さらに西へ移動すると、日比谷通り沿いに都内有数の大きさを誇る山門が現れる。
国の重要文化財である増上寺の三解脱門。 この門は、江戸時代には増上寺の中門(楼門と本殿の間の門)であったが、実は二代目で最初の門は慶應16年(1611年)に徳川家康の命で建立されたが、大風のために倒壊し、11年後の元和8年(1622年)に現在の二代目門として再建された。 再建されたものと言っても、都内有数の古い建造物でもある。 三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗という威容を誇る門で、明治や大正でも東京の名所としてよく観光ガイドや絵葉書の題材になっている。
▲芝公園案内図より この巨大な三解脱門の下を通ると、これまた巨大な増上寺の大殿本堂が現る。
階段の上にあるこの大殿は、後ろの東京タワーの位置にもよる印象もあるだろうが、武蔵野台地のキワ、若干高い地形に建てられており、まるで見下ろされるような印象を受ける。
ただし、こちらの大殿も昭和49(1974)年に建築されたもの。元々の大殿本堂は昭和20(1945)年5月の東京大空襲によって焼失してしまっている。 下は、絵葉書の昭和期の消失前の増上寺大殿。
▲著者蔵
分かりにくいかもしれないが、本堂と後ろの樹木の地形が少しだけこんもりしていて、これが武蔵野台地のキワ、台地の先っぽなのである。 この緩やかな傾斜の地形は、大殿の後ろ側にある徳川将軍家墓所だともっと見てとれる。
芝に限らず、港区は台地と段丘の間を縫うように低地があるという地形が多い。そして、台地段丘と低地の境目は、斜面か崖になっていることが多い。これらは大昔に海や川によって大地が削られた痕跡である。 この痕跡は、芝公園南側の古川沿いにある前方後円墳である芝丸山古墳を見るとより顕著になっている。
この古墳は標高16mの台地に造られた古墳なのだが、江戸時代に円頂部が削られ、現在では環状3号線が崖下を通っているため、擁壁でガチガチに固められている。 しかし、近くを流れる古川で削られて出来た台地の崖であることを今でも感じることが出来る。 文政3年(1820年)に「江戸城内并芝上野山内其他御成絵図」の中で描かれた芝増上寺を見ても、川で削られた台地の舌状のような場所に増上寺が建設されているのが分かるだろう。
▲国会図書館デジタルコレクション
この台地のキワ、緩やかな傾斜に造られた徳川将軍家墓所であるが、もともと増上寺には二代将軍秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の将軍6人を始め、将軍の兄弟、正室、側室、子女などが多数の徳川家の方が埋葬されていた。 現在増上寺には、特に6人の将軍とそれぞれの正室の墓所が設置されている。
▲徳川将軍家墓所の鋳抜門
この墓所は公開されているので拝観冥加料を納めれば、入ることが可能なのだが、「かつて日本を統治した徳川将軍家の墓所としては、小さくないか?」という印象を受ける。 将軍家の墓所ともなれば、初代の家康が祀られた日光東照宮の規模とは言わないまでも、将軍一人ひとりにもっと大きな霊廟があったとしてもおかしくない。実は、今は無くなってしまったが、かつてこの将軍たちにはそれぞれ荘厳な霊廟があったのである。 再び前述の昭和16年の「大東京區分 芝區詳細図」を見てみる。
地図上の増上寺本堂の南と北に徳川霊屋という文字が書かれているのが分かると思う。 特に北側は、広大な敷地を有している。 現在この場所がどうなっているかを確認するために、三解脱門を出て日比谷通りを北に向かって歩くと、そこには西武グループの東京プリンスホテルが。
東京プリンスホテルは、1964年の東京オリンピックの海外客の来日を見越して建設され、当時のプリンスホテルの中では序列第一位という最先端のホテルである。 しかし、このプリンスホテルが建てられる以前は、ここに将軍家の広大な墓所が存在していたのである。この敷地の中には各将軍ごとに当時では最高の建築技術が投入された霊廟が建設され、日本中の大名が寄進した石灯籠が数千も立ち並んでいたらしい。
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『三姉妹』──理不尽な現実を生きる娘たち|加藤るみ
2022-05-20 07:00
今朝のメルマガは、加藤るみさんの「映画館(シアター)の女神 3rd Stage」、第28回をお届けします。今回紹介するのは韓国映画の『三姉妹』。理不尽な現実を生きる女性たちを生々しく描いた本作に対し、「胸糞だけど後味は爽やか」と評するるみさんが思うこととは?
加藤るみの映画館(シアター)の女神 3rd Stage第28回 『三姉妹』──理不尽な現実を生きる娘たち
おはようございます。加藤るみです。
最近引っ越しをして、三人暮らしが始まりました。 わたしは結婚していて夫が居ます。 そこにプラスわたしの姉がいて、三人暮らし。
この話は話すと超絶長くなるので、めちゃくちゃ割愛して話すと、わたしが大阪に引っ越した当初、実は姉も実家から犬を連れて大阪にやってきたんですね。 当初はわたしとふたりで犬の面倒を見るつもりだったんですが、すぐに犬が亡くなってしまったため、姉は家の契約の関係もあり大阪で一人暮らしを続行したんです。 そして、なんだかんだ姉も大阪で働きはじめ、わたしたち夫婦の近所に住んでいたこともあり、晩御飯を一緒に食べよう〜みたいな感じで頻繁に家に来てもらううちに、「もう一緒に住んだ方が良くない?」となったのです。 大阪という新しい土地に引っ越してきて、姉が居てくれたのは助かることばかりだったので、姉のことも考えてくれた夫には感謝しかないです。 このことを人に話すと、まぁ当たり前に珍しがられるというか「大丈夫なの?」って思われるんですが、全然大丈夫でむしろこの今の生活スタイルがそれぞれ楽しいと思っているんですよね。
よく言われるのが夫と姉の関係性なんですが、姉はわたしの夫を息子? みたいに思っていて、夫はわたしの姉と同級生なこともあり一緒にポケモンカード集めに必死になっていたりして、夫と姉の間にはまったく変な空気がなくて、友達であり家族って感じなんですよね。 自分で言うのもなんですが、ふたりとも強烈な加藤るみサポーターっていう感じで(笑)、「同志」って言葉が一番しっくりくるのかもしれないです。 わたしはふたりが仲良く居てくれることがとても嬉しいです。
それとやっぱり姉とは、姉妹しかわからない時間を過ごしてきたからこそ、仲が良いんだろうなと。 小さい頃はたくさんケンカしたけど、最近は姉妹で良かったと思うことが多いです。
夫には実のお姉ちゃんがふたりいて、今はわたしの姉もいて、女ばかりに囲まれてるからかとっても乙女です。 いや、でもその乙女っぽさは後天性というよりは先天性かも。 姉は夫のことを"天性のぶりっ子"と呼んでいます。
ある意味、三姉妹のような三人暮らし。 とっても楽しいです。
さて、今回紹介する作品は、韓国映画『三姉妹』です。
この作品は一言で言うと、二度とは観たくないけど後味は爽やか。 怒りや悲しみで感情をごちゃごちゃに掻き乱されたのに、観終わった後やけにスッキリするのです。 これは、わたしの中でなかなか珍しい感覚で言葉にするのが難しいんですが、特別良かったとか好きだとかは思わないけど、ちょっとだけ未来が明るくなるような、そんな気がした映画だったんですよね。
それに、韓国ドラマ好きであれば、「おっ!」と、テンションが上がるキャストたちにも注目です。 長女役は『愛の不時着』で北朝鮮の人民班長を演じたキム・ソニョン。
あのお喋りおばさんのキャラクターが強烈に焼き付いています。 ちなみに、監督は彼女の公私にわたるパートナーである、イ・スンウォンです。
タイトル通り、韓国・ソウルに暮らす三姉妹の物語です。 長女のヒスクは、別れた夫の借金を返しながら花屋を営み、変なロックバンドにお熱で反抗期真っ盛りの一人娘・ボミと一緒に慎ましく暮らしている。だが、そんな彼女の体にがんが見つかる……。 次女ミヨンは、熱心に教会に通うクリスチャンで、大学教授の夫と一男一女に恵まれ何不自由ない生活を送っている。だが、夫の不貞行為によって幸せな家庭が崩壊していく……。 三女ミオクは、絶賛スランプ中の劇作家。食品流通業の夫の後妻となり、夫の連れ子である息子と三人で暮らしている。だが、昼夜問わず酒浸りで自暴自棄に……。
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[特別無料公開]『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第二章 ヒーローと寓話の戦後文化簡史―宣弘社から円谷へ(後編)|福嶋亮大
2022-05-17 07:00
前編に引きつづき、5月13日の『シン・ウルトラマン』公開記念として文芸批評家の福嶋亮大さんの著書『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の第二章の後編を特別公開します。昭和ウルトラマンシリーズの物語構造には、戦後日本人のどんな精神性が刻まれていたのか? アメリカSFドラマや同時代文学との対比から考えます。
※本記事は、福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』(PLANETS 2018年)所収の同名章を特別公開したものです。 PLANETSオンラインストアでは、本書を故・上原正三さんと著者・福嶋亮大さんによる特別対談冊子付きでご購入いただけます。
福嶋亮大 ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景第二章 ヒーローと寓話の戦後文化簡史―宣弘社から円谷へ(後編)
2 原初的なセカイ系
『スタートレック』の神話構造
ウルトラマンシリーズの視聴者は、その奇妙なご都合主義に誰もが一度は -
カモフラージュフード|高佐一慈
2022-05-16 07:00
お笑いコンビ、ザ・ギースの高佐一慈さんが日常で出会うふとしたおかしみを書き留めていく連載「誰にでもできる簡単なエッセイ」。今回の舞台はスーパーマーケット。レジ打ちの店員さんに商品を見せるときにどうしても考えずにはいられないことについて綴っていただきました。
高佐一慈 誰にでもできる簡単なエッセイ第28回 カモフラージュフード
何かいい手はないかと、さっきからずっと考えている。
僕の横をいろんなお客さんが通り過ぎる。ビールとお弁当をカゴに入れた仕事帰り風の会社員、カートの下にトイレットペーパーを入れた年配の御婦人、お酒やおつまみを大量に買い込んだ仲良し学生3人組。それぞれが各々の列に並んでいく。 僕はといえば、レジより少し手前にあるパン売り場でさっきからずっと棒立ちだ。僕の持つレジカゴには、じゃがいも一袋、人参一袋、玉ねぎ一袋、牛肉300g、カレーのルー一箱が入っている。 こんな状況は今日が初めてではない。今までに何度も訪れた。そして何度も歯を食いしばりながらレジに並んだ。しかし、なんとか今日で終わりにしたい。そのためにスーパーの店内で、軽やかなBGMが流れる中、さっきからずっと考えあぐねているのだ。
僕はレジカゴの中の品物から献立を想像されるのが嫌だ。なんとなく、頭の中を見透かされているみたいで恥ずかしい。 このままレジに進むと、店員さんがバーコードを読み取っては、レジカゴから精算カゴへと商品を移していくだろう。そして黙々とその手を動かしながら、「このお客さん、今晩カレー食べるんだあ」と思うはずだ。 だって、じゃがいも、人参、玉ねぎ、牛肉、カレーのルー。完全にカレーだもん。じゃがいも、人参、玉ねぎ、牛肉だけでもカレー感が醸し出されているのに、カレーのルーとなるとそれはもう紛れもない。丸裸にされる気分だ。きゃーー。 バーコードのピッ、ピッという音に合わせて、僕の服がスッ、スッと一枚ずつ脱がされていく。 カレーの時はまだいい。お手軽料理も困る。 たとえばクックドゥのような、パッケージに「キャベツと豚肉で簡単にできる!」と書かれた箱と一緒に、キャベツと豚肉が入っている。 そういう時にだけ発動する僕のテレパシー能力のせいで、頭の中に「このお客さん、今晩キャベツと豚肉で簡単にできる料理を食べるんだあ」という声がはっきりと聞こえてくる。聞こえたと同時に、僕はすっぽんぽんだ。 恥ずかし献立の頂点に君臨するのがすき焼きだろう。 牛肉、卵、長ネギ、木綿豆腐、しらたき、春菊、わりした。謎の怪人コンダテーは秘密のベールを剥がされ、ただの今晩すき焼きを食べる男として正体を現してしまう。 すき焼きがカレーよりもたちが悪いのは、「なんか奮発してるな」と思われるところにある。黙々とバーコードを読み取る店員さんは、僕の脳内をも読み取ってくる。合計金額のところに 「このお客さん、今日なんかいいことあったんだあ」と表示されてしまった。精算カゴに入れられた卵から雛が孵り、ピーチクパーチク言いながら僕の頭の周りをぐるぐる回る。『ストリートファイターⅡ』でいうところのピヨった状態だ。
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[特別無料公開]『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第二章 ヒーローと寓話の戦後文化簡史―宣弘社から円谷へ(前編)|福嶋亮大
2022-05-13 07:00
5月13日の『シン・ウルトラマン』公開を記念し、文芸批評家の福嶋亮大さんの著書『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の第二章を前後編で特別公開します。高度経済成長期に生まれたウルトラマンは、戦後サブカルチャー史の文脈から見たとき、それ以前のヒーローもののドラマと比べてどういう特色を持っていたのでしょうか?
※本記事は、福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』(PLANETS 2018年)所収の同名章を特別公開したものです。 PLANETSオンラインストアでは、本書を故・上原正三さんと著者・福嶋亮大さんによる特別対談冊子付きでご購入いただけます。
福嶋亮大 ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景第二章 ヒーローと寓話の戦後文化簡史―宣弘社から円谷へ(前編)
前章で見たように、私は昭和のウルトラマンシリーズには大きな断層が二つあり、そのそれぞれが時代相を映し出すものだと考え -
小花美穂・槇村さとる──憧れる娘(後編)|三宅香帆
2022-05-10 07:00
今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。1990年代の少女漫画に登場するようになった「自由な母親」は母娘関係にどんな変化を与えたのか。1994年に連載が始まった『イマジン』などの作品から考察します。
前編はこちら。
三宅香帆 母と娘の物語第八章 小花美穂・槇村さとる──憧れる娘(後編)
3.家父長制を境界にした母娘シスターフッドー『フルーツバスケット』
『こどものおもちゃ』において、紗南にとって実紗子は母というよりも、良きメンターのような役割を担う。つまり、母娘として自己投影や同化の欲求を抱くというよりも、母はあくまでアドバイザーであり監督者であるという距離を保つのである。そのため実紗子と紗南の関係は、母と娘というよりも、叔母と姪のシスターフッド的関係性に近しいような距離感となっている。実紗子と紗南はたしかに母娘関係ではあるのだが、どちらかというと、家父長制の内部に留まる娘と外部に飛び出した母のシスターフッドに見えてくるのだ。前編で論じた藤本論は「自由な母親像はシングルマザー家庭の物語に多い」と述べていたが、たしかに『こどものおもちゃ』以外にも、同じく1990年代に始まった『フルーツバスケット』(高屋奈月、白泉社)もまたシングルマザー家庭の自由な母親像が登場する。主人公透の母は、ヤンキー的キャラクターでありつつ、やはり透とは仲が良く、よきメンターのような存在であった。そして『フルーツバスケット』もまた、血縁ではない家庭的連帯を重視しながらも、最終的には結婚し子供を産むラストになっていることも『こどものおもちゃ』と共通している。透の母である今日子は、親と縁を切っていたり夫の実家から悪口を言われたりと、家を否定するキャラクターなのだが、娘である透はむしろ家庭に肯定的である……という点も同じである。 この「自由な母親」系譜について、前編で論じた藤本論は『明るい家庭のつくり方』等を挙げ、しっかり者の娘が破天荒な母の世話をする「逆転親子像」として整理していた。しかし1990年代の「自由な母親」系譜の物語を見てみると、どうやら自由な母は家父長制の外部に逃げ、しかし娘は家父長制の内部に留まって幸福を得るという、その双方の生き方を提示しなおかつ肯定するシスターフッド物語に見える。『こどものおもちゃ』も『フルーツバスケット』も、母と娘は決して呪いを掛け合ったり自己投影したりする存在として描かれていない。それは母と娘の問題を超えた、女性同士のユートピアのような家庭像なのではないか。つまり読者にとって、「子供を産めという呪いをかけてこない母親」こそが、幸せな恋愛をするとか居心地の良い繋がりをつくるとかいったことと同じくらい夢物語なのだろう。 時代はかなり下るが、2013年のディズニー制作『アナと雪の女王』もまた、この物語の系譜ではないかと考えられる。家父長制を境界線として、外部に逃げる母(姉)と、内部に留まる娘(妹)のシスターフッド。それはおそらく日本では1990年代に少女漫画で描かれていたテーマではなかっただろうか。 日本の少女漫画は、血縁のない家庭像や自由なひとり親像について身近に取り扱ってきた。たとえば『こどものおもちゃ』と同じ雑誌である「りぼん」においては、1992年から始まった『ママレード・ボーイ』(吉住渉、集英社)が「父母を入れ替えてW再婚する」という破天荒ともいえる父母像を描いていた。あるいは『Papa told me』(榛野なな恵、集英社)や『カードキャプターさくら』(CLAMP、講談社)において、シングルファザー家庭を理想的に描くこともあった。1990年代になって、本連載でも扱った『イグアナの娘』(萩尾望都、小学館)や『鬼子母神』(山岸凉子、小学館)といった母娘間にある苦悩が漫画の主題となる一方で、伝統的な価値観から外れた家庭をユートピアとして登場させる漫画も生まれていたのである。 日本の漫画で「自由な母親像」がシングルマザーとして描かれやすいのは、それが一度家父長制の外部に逃走している合図だったからなのだろう。夫の不在によって、従来的な「母」をまずは脱ぎ捨てることができる。それが少女漫画においてまず必要な記号だったのだろう。
4.理想のメンターとして登場する「母」―『イマジン』
『こどものおもちゃ』と同じ1994年に、槇村さとるは自由なシングルマザーを主人公格に置いた『イマジン』を連載開始した。『イマジン』は、OLとして働きつつ炊事洗濯を引き受ける娘の有羽と、建築家として破天荒に生きて家事はまったくしない母親の美津子の物語である。美津子は自分の欲望がはっきりしているキャラクターで、仕事も恋愛もアグレッシブに楽しんでいる。一方で有羽はまだ彼氏もいたことがなく、大人しく仕事と家事をまわす毎日。そして美津子はテレビディレクターの本能寺と、有羽は最近転勤してきた同僚の田中と、恋が始まってゆく。
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