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野島伸司とぼくたちの失敗(3)──作家的到達点としての『高校教師』『人間・失格』 成馬零一 テレビドラマクロニクル(1995→2010)〈リニューアル配信〉
2020-11-30 07:00
(ほぼ)毎週月曜日は、ドラマ評論家の成馬零一さんが、時代を象徴する3人のドラマ脚本家の作品たちを通じて、1990年代から現在までの日本社会の精神史を浮き彫りにしていく人気連載『テレビドラマクロニクル(1995→2010)』を改訂・リニューアル配信しています。バブル絶頂期のトレンディドラマ、純愛ドラマというブームの波に乗って、一躍時代の寵児となった野島伸司。フジテレビ系からTBS系に活躍の場を移した野島は、『高校教師』『人間・失格』で、いよいよその本来の作家性を剥き出しにしていきます。
成馬零一 テレビドラマクロニクル(1995→2010)〈リニューアル配信〉野島伸司とぼくたちの失敗(3)──作家的到達点としての『高校教師』『人間・失格』
要約されることに対する反撥
1990年代前半に野島伸司が手掛けたフジテレビ系のドラマは、当時の空気を知る上での歴史的資料としては面白い。しかし、音楽の使い方等の演出がトレンディドラマで培った欲望と感情を煽るような広告的な手法と変わらなかったため、手法と描こうとしたテーマが乖離している印象が残る。 大多と野島が当時おこなったことはヒットの要素を因数分解していき、それぞれのパーツをわかりやすく見せることだった。そのため、主題歌、衣装、ロケ地、俳優、キャッチーな決め台詞といった個々の要素が風俗として語られることは多いのだが、今見ると古臭く見えて、現在のテレビドラマの水準と比較すると映像や演出の面で、どうしても見劣りする部分がある。 日進月歩の激しい映像表現の側面から過去作を裁くことがアンフェアなのはわかっている。しかし、当時のフジテレビが作ったトレンディドラマ的手法の最大の問題点として、このわかりやすさ。個々のパーツの順列組み合わせに見えてしまうという弱点については、どうしても指摘しておきたい。
山田太一は、コラムニストのボブ・グリーンがセールスマンについて書いた露悪的な文章に対して「ひとの人生をそんな風に要約してはいけない」と反撥を感じたことが『ふぞろいの林檎たち』(1983年)を書いたきっかけだと語っている。
セールスマンだとか三流大学、三流会社だとか、そういう視点で、ひとの人生を要約することに反撥して書きはじめたのが、この作品であった。自作の中でパートⅡを書く値打ちのある世界だと、はじめて続篇を書くことにしたのがこの作品である。結局のところドラマというのは、要約を憎む人々のものなのではないだろうか、(などとドラマを要約すると、それから漏れるものをドラマから沢山感じてしまう人々のものなのではないか、だからこそ論文ではなくドラマを求めてしまうのではないか)などと思うのである。[26]
▲『ふぞろいの林檎たち』
この文章が書かれたのは1988年だが、トレンディドラマと、そこから派生した野島ドラマに対する本質的な批判に読めてしまう。 山田が語っていることは、テレビドラマを考える上でとても重要なことだと感じる。テレビドラマに限らず、現在、世の中に出回っているフィクションは、現実の出来事に根ざした現代的なテーマを扱っているかがジャッジの基準となっており、現実との答え合わせにおける加点法(もしくは減点法)によって作品が評価されがちである。いわゆる社会派ドラマ全盛という状況はトレンディドラマの時代とは真逆の現象だが、どこか表裏一体に思えるのは、そうやってテーマやリアリティに対する作品の態度が抽出される時に、フィクションならではの雑多な魅力がないがしろにされて、受け止める側も箇条書きの情報として処理して「要約」になっていると感じるのだ。 おそらく同じ問題意識を打ち出したドラマが、2017年に坂元裕二の執筆したドラマ『anone』(日本テレビ系)だろう。本作の冒頭、余命半年の男・持本舵(阿部サダヲ)が、医師が(様態が悪い時に患者に)よく言う「止まない雨はありませんよ」「夜明け前が一番暗いんです」といった名言の羅列にうんざりして「自分、ちょっと名言恐いんで」と言う場面があるのだが、この台詞は、本来、ひとつの流れで理解するべきドラマの台詞を断片的に切り取って名言集にされてしまうことが多い、坂元裕二が自身のドラマの消費のされ方に対して苦言を呈しているように見える。それは言い換えるならば、「簡単に要約するな」ということである[27]。
▲『anone』
つまり、いくら大多や野島が脱トレンディドラマを打ち出そうとして、70年代的なものや不幸なシーンを持ち出したとしても、それ自体がわかりやすい商品としてパッケージ化され流通してしまう構造がすでにでき上がっていたため、何を書いても断片が切り取られて、わかりやすく「要約された情報」としてしか流通できないということだ。そんなフジテレビで作った野島ドラマの限界が見えてしまうのが『愛という名のもとに』(1992年)以降の作品で、だから今となっては色あせて見える。
対してTBS系の金曜ドラマで放送された野島三部作と言われる作品群は、今の視点で見ても、一つの映像作品として鑑賞に耐えうる強度を保っている。
1993年の『高校教師』
デビュー当時の僕は、それこそ日本中の視聴者に好かれなければならない、好青年であらねばならないという思いが非常に強かったんです。でも、視聴者とドラマの制作者というのは恋愛関係のようなもので、たとえ一部の人に嫌悪されても、僕の作品を支持してくれて、濃くわかりあえるような視聴者がいるんなら、それでいいんじゃないかと思うようになって…。そのきっかけが「高校教師」の成功だったんです。[28]
1993年、野島伸司はドラマ『高校教師』を執筆する。野島にとって憧れの場所だったドラマのTBSの金曜ドラマ初登板だった。
▲『高校教師』
物語の舞台は、とある女子校。大学の研究室から生物の教師として赴任した羽村隆夫(真田広之)は二宮繭(桜井幸子)という女子生徒と知り合い、やがて教師と生徒という立場を超えた恋愛関係へとなっていく。しかし繭は芸術家の父親と近親相姦の関係にあった。 物語は羽村だけでなく、繭の友人の相沢直子(持田真樹)と体育教師の新藤徹(赤井英和)、そして相沢をレイプすることで自分のものにしようとした藤村知樹(京本正樹)の関係も同時に描いていく。 教師と生徒の恋愛にレイプや近親相姦といったショッキングな描写が盛り込まれた本作は、過去の野島作品と比べても、過剰に性的でスキャンダラスな物語だった。 しかし映像の見せ方は淡々としていて心理描写は行間を読ませるものとなっている。森田童子の主題歌「ぼくたちの失敗」に乗せてゆったりと展開される自然音を多用した映像には、静謐な雰囲気があり、簡単に消費することができないドラマとしての強さが存在した。
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【今夜21時から見逃し配信!】倉持麟太郎×玉木雄一郎「三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか」
2020-11-28 12:00今夜21時より、弁護士の倉持麟太郎さんと国民民主党代表で衆議院議員の玉木雄一郎さんをお招きした遅いインターネット会議の完全版を見逃し配信します。24時までの限定公開となりますので、ライブ配信を見逃した、またはもう一度見たいという方は、ぜひこの期間にご視聴ください!倉持麟太郎×玉木雄一郎「三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか」見逃し配信期間:11/28(土)21:00〜24:00
著名人を含む多くの人々を巻き込み、SNS上で展開された「#検察庁法案改正案に抗議します」。今回の改正案の問題点はどこにあったのか。また、私たちはこの国の三権分立のあり方についてどう向き合うべきなのか、ゲストのお二人とともに議論しました。
※冒頭30分はこちらからご覧いただけます。https://www.nicovideo.jp/watch/so37202050
また、PLANETSの読者コミュニティー -
デジタルネイチャー時代の人類学──マルチスピーシーズが導く「制作論的転回」とは(後編)|奥野克巳(PLANETSアーカイブス)
2020-11-27 07:00
今回のPLANETSアーカイブスは、人類学者・奥野克巳さんへのインタビュー後編をお届けします。 現代社会に広く浸透している「多文化主義」。現代ではそこからのオルタナティヴとして、ヒューマンとノンヒューマンとの関係を探る「多自然主義」が台頭してきていると奥野さんは指摘します。落合陽一さんの提唱する「マタギドライヴ」と、文筆家・上妻世海さんの提唱する「制作論的転回」を、人類学の視点から解説します。(聞き手:宇野常寛・中川大地 構成:石堂実花)※この記事の前編はこちら※本記事は2019年4月10日に配信した記事の再配信です。
「存在論的転回」としてのデジタルネイチャー
──最近の人類学がラディカルな多自然主義に向かっていく流れがある一方で、資本やテクノロジーに密着した人工知能のようなものをフラットな対象とすることに反発するようなアンチ・テクノロジー的な傾向は、人類学者の中にはありませんか? やはり人類学には左翼的な気分というか、文明化以前の弱者に肩入れする学という意識を持つ人たちもいそうなイメージが若干あるんですが。
奥野 どうでしょう。最近は久保明教さんがAI将棋の話を扱った『機械カニバリズム』という本を出しましていますね。欧米でも徐々に、自然の中の動植物と結びついた精霊や神々だけではなく、人間が作り出したもの、例えば性の文脈であればラブドールやセックスロボットといったものに広がっている流れがあります。そういうものと人間との関係を考えていこうとする文脈が広がってはいるし、実際わたしの研究室の学生でもセックスロボットと人間の性愛の関係が近未来にどうなっていくのかを研究している学生もいます。
▲『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』
だから、わたし自身はまったく抵抗感はないです。むしろそういったノンヒューマンなりポストヒューマンなりといった研究分野は、人間を超えた人類学の一部になっていくはずだと思います。
──マルチスピーシーズ人類学の射程には、生物学的な意味では「種」とはみなされないものとの関わりも含まれるということですね。
奥野 そうです。だから私は、『PLANETS vol.10』の落合さんと宇野さんの対談を読ませていただいて、すごく面白いと思いました。上妻世海さんなんかが言っていることにも非常に近い。多自然主義なんですよね。 文化人類学の多文化主義は、自己同一性が確保された安定的なところから、安定したものがいくつかあって、Aという文化からBという文化に出発して、差異そのものをとってきて、その蓄積の中から「これは普遍だ」というようなことを言ってきた。そうではなく、人間の計り知れない力を持ったものと対峙することによって自己変容する、といったことを含めた多自然主義的な自然観こそが面白いですよね。
▲『PLANETS vol.10』
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オンライン講義つき・先行販売を始めました!三宅陽一郎『人工知能が「生命」になるとき』
2020-11-26 11:30ゲームAI研究者である三宅陽一郎さんの新刊『人工知能が「生命」になるとき』(PLANETS刊)が発売になります!
私たちの社会を、生き方を、いま大きく変えつつある人工知能(AI)技術。
それが人間にとって、理解しあえるパートナーになる日は来るのか。
彼らとの関係は、人類の未来や私たち自身のあり方を、どのように変えていくのか。
東西の哲学や国内外のエンターテインメントからの触発をもとに、これからの人工知能開発を導く独自のビジョンを、さまざまな切り口から展望する1冊です。ただいま先行販売中! 12月15日(火)までにPLANETS公式ストアでお求めいただいた方は、三宅さんによるオンライン連続講座に無料でご招待します。☆詳しくはこちら☆この限定版を購入するとオンラインイベント「人工知能のための哲学塾 生命篇」(全4回)に無料招待しますこれまで三宅さんが主催してきたイベントシリーズ「人工知能のため -
【特別寄稿】シネマティック・ゲームの2010年代──周縁から再神話化されていく「アメリカ的なるもの」|中川大地
2020-11-26 07:00
今朝のメルマガは、PLANETS副編集長・中川大地の寄稿をお届けします。「映画」と「ゲーム」が接近していった2010年代、メディアの境界を越えた物語体験を目指したシネマティック・ゲームの数々は、「アメリカ」という主題をいかに描いたのか。ジャンル全体の動向と『The Last of Us』『Detroit: Become Human』『DEATH STRANDING』の3作品のレビューを通じて浮き彫りにしていきます。※本記事は、2020年2月発売の『USムービー・ホットサンド 2010年代アメリカ映画ガイド』(フィルムアート社)所収の同名記事を採録したものです。
ゲームにとって、先行の総合芸術メディアである映画は、1970年代末のエンターテインメント産業としての成立以来、ずっと憧れであり挑戦対象であった。その野心は、1990年代半ばに2Dピクセル表現からポリゴンによる3DCG表現に移行することで、顕著なモード・チェンジを起こす。「映画的」たらんとするゲーム作品の数々は、『バイオハザード』(1996)や『メタルギアソリッド』(1997)などの成功を機に、いよいよ実写映画のそれを目指したフォトリアリスティックに漸近するためのビジュアル表現のレースを始動。そして2006年発売の「PlayStation 3」の世代に入ると、コンソールゲーム機の3DCG技術が個人の容姿や芝居を判別可能なレベルに到達し、2010年代には実在の俳優をキャスティングしたAAA級のタイトルが世界的なヒットを遂げていくようになった。 一方で、映画の側も同じくVFXの中核をなすCG技術の発展を背景に、2000年代後半以降のハリウッドの業界構造そのものが大きな変動を遂げている。すなわち、『トイ・ストーリー』(1995)で世界初のフルCGアニメーションによる長編映画を劇場公開したピクサー・スタジオをウォルト・ディズニー・ピクチャーズが2006年に完全子会社化したのを機に、2009年にはマーベル・エンターテインメントを、2012年にはルーカスフィルムを傘下に収めていく。こうしたディズニー一強の環境が、2010年代のメジャー映画の方向性を大きく決定づけていたのは周知の通りだ。 あるいは『アバター』(2009)以降の3D・4Dブームによって映画興行が体感アトラクション化し、その環境を前提にした『ゼロ・グラビティ』(2013)のような作品も登場。同作監督のアルフォンソ・キュアロンの盟友であるアレハンドロ・G・イニャリトゥが手がけたVR作品『Carne y Arena』がアカデミー監督賞を受賞するなど、xR技術の普及とも相まって、いまや20世紀型の映像表現そのものが、ゲームによって培われた没入型のインタラクション体験によって変質を遂げつつある。 このように、3DCGという共通の基幹技術を土台に、ゲームと映画(さらにはNetflixなどの伸張で影響力を増した連続ドラマ)の関係がはっきりと連続性のある隣接領域として並び立つようになったのが、2010年代だったと言えるだろう。
では、そのような環境下で、“シネマティック”を謳うタイプのゲームは、どのような体験の器として映画そのものとの距離感を築きつつ、その表現内容を確立していったのか。
【12/15(火)まで】オンライン講義全4回つき先行販売中!三宅陽一郎『人工知能が「生命」になるとき』ゲームAI開発の第一人者である三宅陽一郎さんが、東西の哲学や国内外のエンターテインメントからの触発をもとに、これからの人工知能開発を導く独自のビジョンを、さまざまな切り口から展望する1冊。詳細はこちらから。
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『ナイン』ブレイク以降の集大成としての『虹色とうがらし』(前編)| 碇本学
2020-11-25 07:00
ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回から、SF×時代劇の異色作『虹色とうがらし』の読み解きに入ります。昭和が終わり平成の幕が上がる中で、あだち充が「少年サンデー」の看板作家という立ち位置から意図的に距離を取りながら試みた「二重のリミックス」とは?
碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第15回 『ナイン』ブレイク以降の集大成としての『虹色とうがらし』(前編)
『虹色とうがらし』連載開始当時の「少年サンデー」とあだち充
連載時はあまり手応えのなかったとあだち充が回想する『ラフ』は、その後あだち充作品の人気投票では上位に食い込む人気作品となった。ネットなどにある人気投票を見てみると上位のベスト5は『H2』、『タッチ』、『ラフ』、『みゆき』、『クロスゲーム』となっている。『みゆき』と『ラフ』以外の三作品は野球がメインであり、世代ごとにリアルタイムで読んだものが反映されている結果に見えなくもない。 『ラフ』が1989年に連載終了すると、すぐに翌年の1990年に同じく「少年サンデー」で『虹色とうがらし』の連載が開始された。今作はSF×時代劇という異色作であり、あだち充と言えば野球やボクシング、青春のイメージが強いせいか人気投票でも上位に入ることはなく、一部のマニアックなファンが好きな作品の一つと考えられている。 『虹色とうがらし』という作品はどうしても「SF×時代劇」という部分がピックアップされてしまうのだが、今改めて読み返してみると『虹色とうがらし』という作品は、それまでは作品内で自分の意志や主張をほとんどしてこなかったあだち充が率直にセリフなどでそのことを表明していることに加えて、『ナイン』でブレイクした後のあだち充の要素がほぼ入っている、きわめて稀な作品になっている。
1970年にデビューしたあだち充は、この連載が始まった時には画業20周年(当時39歳)を迎えていた。『虹色とうがらし』は漫画家として20年生き抜いてきたあだち充がそれまで描いてきた漫画作品をリミックスして、「SF×時代劇」でパッケージした記念すべきものでもあった。そして、彼がずっと幼少期から影響を受けてきたもの、描きたいものを、全面的に取り入れた作品となった。この辺りもあだち充の長編連載作品では珍しい特徴と言える。
「タッチ」や「ラフ」は『サンデー』の中でのポジションや、打率を一応気にしながらやってたんだけど、「虹色とうがらし」は、自分が漫画家を目指した頃に描いていた絵や世界観で、ずっとやりたいと思っていた題材を描いた作品です。だから、いちばん力が入ってます。これをやらせてもらったのは、のちのちすごく助かってます。〔参考文献1〕
「作家」のようなポジションにいっちゃうと、バカができなくなってしまう。「虹色とうがらし」にはまったく後悔がないし、こんなことをやっているから、全然大物感の漂わない漫画のままこれた。〔参考文献1〕
上記のように「少年サンデー」でのポジションや打率をあまり気にせずに済んだのは、『虹色とうがらし』連載当時の「少年サンデー」連載陣によるところが大きいだろう。
「少年サンデー」において高橋留美子とあだち充のふたりは、1980年代初頭からラブコメ路線を引っ張っていった稼ぎ頭であり、他の若手漫画家にとっても精神的な支柱になっていた。あだち充は『タッチ』『ラフ』の時点では「少年サンデー」のエースとして四番打者的なポジションを担っており、そんな期待を編集部や周りもかけていた。しかし、『虹色とうがらし』の頃になると、若手の漫画家が充分に成長し台頭してきはじめていた。 まず、盟友の高橋留美子は『らんま1/2』、藤田和日郎『うしおととら』、北崎拓『ふ・た・り』、西森博之『今日から俺は!!』、河合克敏『帯をギュッとね!』、椎名高志『GS美神極楽大戦!!』、青山剛昌『YAIBA』 、ゆうきまさみ『機動警察パトレイバー』、村枝賢一『俺たちのフィールド』他と、あだち充と高橋留美子が「少年サンデー」で連載を始めた頃にいたベテラン勢と若手がほぼ入れ替わっており、なおかつその漫画家たちも人気作品でヒットを飛ばしていた。そんな状況もあって、あだちは自分が「少年サンデー」のエースでいることや打率などの重荷を自ら外し、編集部や読者が求めるラブコメ&青春ど真ん中の豪速球を投げることを一旦やめることができたのかもしれない。
また、前作の『ラフ』同様、『虹色とうがらし』にはまったく編集者の存在が漫画の中に登場しない。同時期に「ちゃお」で連載していたラブコメ無双になっていた『スローステップ』では、担当編集者の都築がたびたび登場していており、この点は非常に対照的だ。 あだち充は担当編集者と漫画とは関係のない無駄話をするだけだったが、それが彼にとっては重要なことだった。そして、『タッチ』以降はネームすらも担当編集者にも見せなくなっていた。それはあだち作品に何度もキャラクターとして登場させられることになる三上信一も同様だった。 『虹色とうがらし』も同じように担当編集者は事前の打ち合わせで、あだちが好きだった「時代劇」や「落語」をメインにした漫画を始めることは伝えられていたのだろうが、受け取った原稿を見て驚いたことだろう。そこにプラスSF的な要素も入っていたのだから。 『タッチ』連載時の担当編集者だった白井、三上、有藤は「少年サンデー」編集部におらず、あだちと編集部はうまくコミュニケーションができていなかった可能性も考えられる。その頃にあだち充に直接、苦言やこういう作品にしてほしいと要望する編集者も、おそらくいなかったのではないだろうか。
長かった「昭和」の終焉と失われていく風景をめぐって
ともあれ、こうした当時の「少年サンデー」の状況の中で、『虹色とうがらし』の連載が開始された。そこに込めたものについて、あだちはこのように語っている。
江戸の町と落語の世界はいまだに大好きですから、時代劇と落語をずっと描きたいと思ってたんです。時代劇というか、江戸時代の庶民、天下取りなどとは関係のない市井の人々の日常。 だから設定は、これまでいちばん考えて、準備して始めたんじゃないかな。連載前にたまたま高橋留美子と一緒になる機会があって、「虹色とうがらし」の構想についてだいぶ話した気がします。普段そんなこと絶対言わないから「珍しいね」と言われたのを憶えてる。〔参考文献1〕
落語が好きになったのは高校時代です。その頃には、落語の本を買って読んでました。高校時代から朝までラジオを聴いてたので、明け方は落語の番組をよく聴いてましたし、頭の中で映像を浮かべて楽しんでた。だから、江戸の市井の人々の風景はすでに頭の中にあって、いつでも遊んでいた気がします。 描きたいことはいっぱいありました。忍者も、チャンバラも、長屋も描きたかった。そういう、子どもの頃に描きたかったものをすべて描いてます。最終的にどこに話を持っていくかということも、例のごとくまったく考えてません……。〔参考文献1〕
昔、僕が好きだった時代劇は、「時代考証」なんかなかったデタラメな世界でした。そういうものが描きたかったから、SFの設定にするしかなかったんです。テレビでも漫画でも、昔は細かいことを気にしない時代劇がたくさんありました。なんでもかんでも時代考証的に「こういうことはあり得ない」みたいな指摘が嫌いで。漫画でいうと、白土三平以前のおおらかな時代劇が大好きでしたね。細かいことを気にせずにその世界観を楽しむ。作家の姿勢としては、僕はそっちなんで。〔参考文献1〕
幼少期から触れてきた映画やテレビの時代劇と落語をずっと描きたかったというあだち充が、ある種、童心に戻って描いた漫画が、この『虹色とうがらし』だった。
落語好きで知られるあだち充が好きな落語家は立川談志、三遊亭圓生、古今亭志ん生といった名人たちであり、中学の頃から『落語大全集』を読んでいた生粋の落語ファンだった。また、兄の勉が師匠の赤塚不二夫と共に芸能コースで弟子入りしたのが立川談志の立川流だった。 立川談志は長寿番組となった「笑点」を立ち上げ、一般の人々には縁遠い古典芸能になってしまっていた落語家を日本中のお茶の間に広めた存在でもあり、政治家にも一期だけだがなっているというバラエティーに富んだ落語家だった。また、落語に関する著作も多数あり、現在においてもその影響力は落語以外のジャンルにも及んでいる。 天才と呼ばれた立川談志が天才と認めていたのは手塚治虫とダ・ヴィンチのみであり、手塚との交流も深く、手塚も談志の芸を認めていたという。また、その手塚から言われたことで政治家を辞めているほどの信頼関係があった。
立川談志は落語と自身の芸について、著作で「業の肯定」「イリュージョン」「江戸の風」というキーワードを挙げている。この中の「江戸の風」というのは、要約すると「落語とは江戸の風が吹く中で演じる一人芸」という定義であった。落語の形式を満たしているだけではなく、その伝統に根ざしているものを「江戸の風」と立川談志は表現していた。 このように、立川談志の落語を中学時代から聴いてきたあだち充にも、その「江戸の風」のようなものが作品の根底にあると筆者は感じている。 それは言うなれば、やはり戦後に生まれたあだち充たちが影響を受けた「戦後日本社会の青春」と言える「昭和の風」だったのではないだろうか。
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コミュニティを発生させるリモートワークでのチャット活用|簗瀨洋平・消極性研究会 SIGSHY
2020-11-24 07:00
消極性研究会(SIGSHY)による連載『消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。』。今回は簗瀨洋平さんの寄稿です。コロナ禍でリモートワークが定着し、チャットツールでのコミュニケーションが広がりました。その一方で、対面に比べてコミュニティが生まれにくくなってしまうという問題も生じています。自ら「褒めるチャンネル」などを生み出し、社内でのコミュニティ創出を促進してきた簗瀬さんが、チャットツールの活用法について考察します。
消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。第19回 コミュニティを発生させるリモートワークでのチャット活用
消極性研究会の簗瀨です。
私はメンバーの中では唯一の会社員です。組織に属して仕事をする、という点では研究所勤務でも大学勤務でも同じですが、少しは読者の皆さんに近い立場ではないかと思っています。
さて、コロナ禍と言われる状態でだいぶ長い日々が過ぎました。「新しい生活様式」などの言葉も使われていますが、現在の状態を普通の日常と思えるまでには慣れておらず、COVID-19流行以前の状態が戻ってくるとも思えず、先が見えないなんとなく不安な毎日を過ごしている方は多いのではないかと思います。
私自身はもともと週2〜3日程度出社をし、他は講演や学会などに出かけたり在宅で仕事をしたりという生活スタイルでしたが、3月の初旬に会社の海外オフィスで感染者が出てから出張などでの行き来は基本的に禁止となり、世界中のオフィスで出勤も取りやめ、在宅ワークが基本となりました。会社のオフィスはどこの国にいても一定水準の環境で仕事ができるように気を使って作られていますが、住宅環境はそれぞれなので、急に家で仕事をしろと言われても困るスタッフも多くいます。
私自身もその一人です。なぜなら我が家は50平米の1LDKで寝室とリビングダイニングキッチンしかなく、仕事用のデスクはキッチンに置かれており、家でちょっとした仕事を片付けると言うような場合しか想定していなかったからです。なぜそんな環境なのかというと、会社の東京オフィスが引っ越した際に横浜の賃貸一軒家から距離が離れ、通勤に一時間以上かかるようになってしまい、近いところ(ついでに犬が飼える賃貸物件)に引っ越そうと考えたからでした。オフィスまではドア・ツー・ドアで30分程度で、自転車なら20分という好立地なので仕事したかったら会社に行けばよかったわけです。また、私は客員研究員として所属している大学の研究室もありますので気分転換も兼ねて大学で仕事をすることもできました。 これが完全に裏目に出て、会社にも大学にも行けない今、自宅のキッチンですベての仕事をする羽目になっています。 出勤禁止になった時に自宅での仕事環境を整えるために一定額の購入支援が出て、夏にさらに支援が追加されたのでワーキングデスクに棚を追加したりディスプレイやスピーカーを買ったり、椅子を良いものに変えたりということはできましたが、部屋を増やすことはできないので、講演や講義の時にはパーティションを立てて緑の布をかけ、バーチャル背景で乗り切ったり、ごはん時など家族に息を潜めていてもらうのが難しい時には日帰りプランを駆使してホテルの部屋で遠隔講演したりというようなことをしています。
こういった問題はそれぞれの方が抱えているかと思います。Twitterなどを見ていても、リモートワークにしても変わらなかった、生産性が落ちた、むしろ上がったなど様々な意見が溢れています。私自身で言えば、私の仕事はたまたまリモートワーク向きだったという点ではラッキーでしたが、住宅環境がそれに追いついていないというところです。私のいる会社はもともとデンマークで起業され、資金を米国で得て今は米国に本社があります。世界中でコアなユーザーを見つけては現地にオフィスを作るという方式で拠点を増やしてきたため、世界中に少人数のオフィスが散らばっており、仕事をする相手が遠い、時差があるのが当たり前だったためチャット文化が発達しています。今やチャットツールとしてメジャーとなったSlackを使っていて、5,000人のアクティブユーザーが参加し、6,500のチャンネルがあり、1ヶ月で350万以上のメッセージが交わされているようです。 グローバルなチャンネルは英語ですが、オフィスごとに例えば#tokyo-xxxxというようなチャンネルがあり、現地語でのやりとりも問題ありません。社員はチャンネルを自由に作って良いので、カテゴリとして一番多いのはおそらく雑談チャンネルです。こちらもなかなか豊富で、グローバルでも#talk-animeや#japanese-exchangeなど日本のアニメや日本語学習を扱うチャンネルがあり、英語での情報交換が活発に行われています。その他、考えつく限りあらゆる話題のチャンネルがあるようです。
このように自由なのは良いですが、積み上げてきた文化には弊害もあります。それは新しく外から入ってきた人が膨大なチャットチャンネルの中で迷子になってしまうことです。現在、私の会社は拡大傾向にあって、私が入社した時には10人だった東京オフィスも、今や80人となりました。すでに全員の顔と名前は一致していません。ましてや現在、新しく入社してきても東京オフィスの全体チャンネルで人事のスタッフから紹介され、その後は月1の全体ミーティングで挨拶をしただけ、となり放っておくとその後は忘れてしまいます。
■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
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withコロナ、政権交代、アメリカ大統領選挙…激動の2020年をまるごと振り返るオンラインイベント開催のお知らせ
2020-11-21 12:00こんにちは。PLANETS編集部です。
来る12月20日(日)、毎年恒例の年忘れトークセッションをオンラインで開催します。
2020年は、新型コロナウイルスに対する世界的な闘いが始まり、私たちの生活が大きく変わった年でした。今回は、社会起業家や政治家などのゲストを迎えて、この激動の一年について振り返るとともに、来年の展望を考えます。
たくさんの方にご視聴いただけると嬉しいです。よろしくお願いします!
お申し込みはこちらから。
Hikarie +PLANETS 渋谷セカンドステージSPECIAL
PLANETS大忘年会2020
▼スケジュール
2020年12月20日(日)15:00開演 / 18:00終演(予定)
第1部 15:00〜16:00 with / afterコロナ時代をどう生きるか
「新しい生活様式」が徐々に浸透する現代において、私たちの暮らし方、働き方や、社会のあり方はどう変化 -
【今夜21時から見逃し配信!】山口真一「正義を振りかざす『極端な人』から 社会を守る」
2020-11-21 12:00今夜21時より、計量経済学を利用したメディア論の専門家である山口真一さんをお招きした遅いインターネット会議の完全版を見逃し配信します。24時までの限定公開となりますので、ライブ配信を見逃した、またはもう一度見たいという方は、ぜひこの期間にご視聴ください!山口真一「正義を振りかざす『極端な人』から 社会を守る」見逃し配信期間:11/21(土)21:00〜24:00
SNSにおける誹謗中傷の問題はどこにあるのか?コロナ渦において出現した「自粛警察」と呼ばれる人たちの背景とは?9月に刊行する山口さんの新著『正義を振りかざす「極端な人」の正体』をテーマにしながら、SNSユーザーの実情と、課題の解決方法を考えます。
※冒頭30分はこちらからご覧いただけます。https://www.nicovideo.jp/watch/so37739357
また、PLANETSの読者コミュニティー「PLANETS C -
デジタルネイチャー時代の人類学──マルチスピーシーズが導く「制作論的転回」とは(前編)|奥野克巳(PLANETSアーカイブス)
2020-11-20 07:00
今回のPLANETSアーカイブスは、人類学者・奥野克巳さんへのインタビュー前編をお届けします。人間以外の「他者」との関わりから新たに人類のあり方を捉えなおすべく「マルチスピーシーズ人類学」を主導する奥野さん。議論は人類学の歴史から、落合陽一さんの提唱する「デジタルネイチャー」へと広がっていきます。(聞き手:宇野常寛・中川大地 構成:石堂実花)※本記事は2019年4月9日に配信した記事の再配信です。
現代人類学は何を課題にしているのか
──このたび創刊された『たぐい vol.1』は、奥野さんが2016年から主宰されている「マルチスピーシーズ人類学研究会」を母体にした雑誌です。この年は、中沢新一さんが現代における「野生の思考(レヴィ=ストロース)」の再生だと位置づけてきた『ポケモン』の拡張現実ゲームが世界的なブームを引き起こしたり、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』が邦訳されてベストセラーになったりと、人類学的な視座から現代の情報技術文明の在り方を捉え直そうとする機運が大きく高まってきたタイミングでした。
一方で、僕らが昨年刊行した『PLANETS vol.10』でも、落合陽一さんが「マタギドライヴ」というキーワードを提唱しています。これはつまり、デジタルネイチャー化した人工知能時代の情報環境では、人々の生き方はしだいに農耕民的なものから狩猟民的なものに近づいていくだろうという描像です。
ですので、こうした情報テクノロジー環境における新たなライフスタイルを展望するにあたっては、奥野さんたちが進めている新しい人類学の知見が、これから非常に重要になっていくのではないかという予感を持っています。そこでまずは、現代の人類学がどのような状況にあるかの見取り図からお伺いしたいと思うのですが。
▲『たぐい vol.1』
▲『PLANETS vol.10』
奥野 はい。雑誌の冒頭で人類学の現在についての論考を寄せていますが、20世紀初頭に確立された人類学には、われわれの文明とは異なる社会に出かけて、現地の「文化」を民族誌に記述するというスタイルが、イギリス人類学の立役者であるブロニスラフ・マリノフスキーらによって1920年代に制度化されました。 これが1980年代に入ると、アメリカ人類学からポストモダン的な反省モードが起こって、「再帰人類学」と呼ばれる時期がおよそ四半世紀続きました。要するに、近代的な観察者としての人類学者が、どこか局所的な地域に出かけて民族誌を生産するというシステムの正当性や権力性を自己反省していくモメントですね。
──たとえばポストコロニアルやカルチュラルスタディーズなど、植民地主義を批判するような議論とつながっていったということでしょうか。
奥野 そういうことですね。人類学としては、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978年)の批判の流れを引き受けたわけです。一言で言ってしまえば、西欧側の一方的な東側、オリエントに対する表象をめぐる問題ですね。この問題は、人類学の持っている西洋から出発し非西洋をまなざすという学的態度とパラレルです。オリエンタリズム批判を人類学が引き受けて、文化を書くこと、民族誌を書くということはいかなることかについて反省し始めた。そこにさらにポストコロニアルのような権力構造みたいなものが入ってきて、ポストモダンと合体して、二段構造になっているんですね。それを受けて、人類学は反省するような再帰的なモードを持ったと。
▲『オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)』
──なるほど。
奥野 そうした英米の人類学の流儀に対して、フランスのクロード・レヴィ=ストロースがブラジルで1938年に始めたフィールドワークは、単に局所的な文化を記述するものではありませんでした。いくつかの地域を比較しながら、汎用性のある普遍的な要素を考察するというやり方を、『親族の基本構造』(1949年)から『神話論理』(1964〜71年)にかけての著作で展開し、構造主義人類学を確立して一時代を築きました。つまり、『神話論理』が提示したのは、いわゆる「未開社会」の局所的な文化を観察・記述することではなく、一見異なる表層をもった神話でも、そこに登場した要素を記号的に変形していくことで、その根底にはしっかりとした共通の構造が見出だせるという考え方ですね。
この『神話論理』における構造抽出の核心にあるのは、自然と人間なんです。従来のマリノフスキー的な民族誌が人間内部の差異に着目していたのに対して、レヴィ=ストロースは人間内部ではなく、人間を超え出た自然と人間の関係をテーマとした。この立場を引き継ぐかたちで、レヴィ=ストロースの弟子たち、フィリップ・デスコラ、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ、さらにはブルーノ・ラトゥールらが20世紀の後半から21世紀に入って台頭してきます。彼らは、アニミズムの再定義やパースペクティヴィズム、さらにはもっと大きなテーマとしては多自然主義やアクター・ネットワーク理論といった、新たな論点を打ち出しました。
自己反省モードからの脱却 人類学の現在形
──つまり、現在の人類学は、西欧近代の伝統的な価値観への単なる自己反省的なモードから、もっと新たな価値をポジティブに模索し始めているということでしょうか。
奥野 はい、内向きの自己反省モードから抜け出たという認識ですね。英米系の再帰人類学の自己反省的なモードが四半世紀続いて、そこを抜け出ようとする過程で、1990年代あたりには応用人類学や開発人類学といった領域が強くなりました。つまり、人類学には未開社会の知識が豊富にあるので、それは開発や国際協力の文脈で応用できるんじゃないかという流れになった。 しかしそれは、人類学を面白くなくさせたわけです。人類学というのはそもそも人間を考えるものであった。それは、現代社会の制度ややり方を前提としないということですよね。応用人類学や開発人類学が出てくると、その土地のことを良く知っている人類学者が関与し、第三世界に対しての開発協力をする。これは非常に実践的なものであって、再帰人類学をそもそも突破できてないんじゃないかっていう話ですね。
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