• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 4件
  • 勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」(後編)|池田明季哉

    2023-10-31 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は「谷田部勇者」シリーズ最終作にあたる『伝説の勇者ダ・ガーン』について分析します。近代的国家観への反省とグローバリズムが進行した1990年代に登場した、同作のロボットたちが提示した21世紀的モチーフとは?
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」
    ■空と陸、そして文明の外側
    原点から自身を相対化しながら拡張していく形式は、この後に加わる勇者について考えることでより鮮明となる。セイバーズに後に加わるホークセイバーは、その名前通り鳥の姿をモチーフとしている。旅客機・戦闘機・スペースシャトルの並びに鳥が加わることは、一見不統一なように思われる。ところが自己の生活空間を基準とした世界の拡張と考えれば、これは別の理解ができる。すなわちホークセイバーが象徴しているのは鳥の世界だ。スペースシャトルは宇宙の領域までを射程に収めるが、ダ・ガーンは地球を単なる空間としてではなく、さまざまな存在を内包する「世界」として描く。それはこの世界に生きる人間である自身を相対化し、鳥もまたこの空に暮らしている――という星史少年の認識そのものの拡張だ。ホークセイバーはスカイセイバーと合体し、背中に翼を備えた人馬の姿を持ったペガサスセイバーとなる。玩具としても珍しい傑作ギミックであるが、人と鳥が一体となったその姿は、まさにこうした想像力の象徴として適切だろう。
    さらにこれはガ・オーンへと至る。ガ・オーンは本作における「2号ロボ」であるが、そのモチーフは独特かつ複雑である。まず、第一のモチーフは見るからにライオンであり、物語上もガ・オーンが眠っていたのはアフリカのキリマンジャロと設定されている。ホークセイバーが星史少年の鳥への思いやりから復活したのに対して、ガ・オーンはアフリカの大地に生きる獣たち――具体的にはゾウやキリンなど――の祈りを受けて目覚める。百獣の王たるライオンというモチーフは、獣の守護者として神格化されるにぴったりだろう。黒・赤・白・黄・緑というコントラストがはっきりしたカラーリングもアフリカ的だ。
    一方で驚くべきことに、ロボット形態のデザインは明らかに「インディアン」をモチーフとしている。アメリカン・インディアンあるいはネイティブ・アメリカンと呼ばずにこの言葉をあえて使うのは、ガ・オーンのデザインは明らかにそうした認識のアップデート前、「インディアン」という言葉でしか表せない旧い概念を参照しているからだ。大きく広がったライオンのたてがみはウォーボンネットを思わせるし、顔に施された二列一対のペイントは戯画化された古典的な「インディアン」のそれである。さらに武器には「ガ・オーントマホーク」が含まれ、単語を並べて片言で喋り、挙げ句の果てには星史のことを「酋長」と呼ぶのである。
    ▲「獣王合体ガ・オーン」。特徴的なフェイスペイントが見て取れる。玩具としては電動ギミックが組み込まれた野心的な作品。 勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p20
    このことはどう考えればいいのだろうか。こうした描写が現代では差別的と扱われるようになったことに異論はないが、それは本題でないためいったん議論から外すとして、ガ・オーンを通じて描かれようとした想像力はどのようなものだったのだろう。
    『伝説の勇者ダ・ガーン』という作品自体が、90年代的なエコ思想を背景としていることはすでに述べたし、それが20世紀的な文明社会の野放図な発展とマスキュリニティを批判する性質を持っていたことも議論してきた。
    その観点から見れば、ガ・オーンのモチーフが持つ奇妙な複合――アフリカの動物とインディアンの文化は同じカテゴリに入れることができる。アフリカの大自然は人間の活動によっていまだ破壊されざる聖域であるし、自然と深く結びついたインディアンの文化はアメリカの開拓によって民族ごと破壊された。つまりそれは20世紀的なもの――ダ・ガーンが象徴する「都市=文明」と対置される「自然」の概念なのだ。
    この連載では、谷多部勇者においてグレート合体は対立するふたつの概念の統合を意味していると読み解いてきた。グレートエクスカイザーが「西洋と東洋」、グレートファイバードが「地球と宇宙」の統合だとするのなら、ダ・ガーンとガ・オーンの合体によって構成されるグレートダ・ガーンGXは「文明と自然」の統合と見ることができる。
    ▲「伝説合体グレートダ・ガーンGX」。ダ・ガーンをベースにした整ったプロポーション。この形態でも電動ギミックは生きている。 勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p22
    遡ってダ・ガーンにおいて戦闘機と新幹線をモチーフにしていたことも、より一段掘り下げて考えられるようになる。上半身を構成するのが単なる航空機ではなく戦闘機でなくてはならなかったのは、それが暴力装置としての「銃」のニュアンスを含んでいなければならなかったからだし、アメリカにおいては「トラック」に象徴されたような都市の生活を支える交通・ロジスティクスは、日本においては鉄道が、そしてその最先端の形式としての新幹線が当てられる。
    我々はここで、勇者シリーズがトランスフォーマーの日本的ローカライズから出発していたことを思い起こすことができるだろう。トランスフォーマーが追求したアメリカン・マスキュリニティのルートが、21世紀において行き詰まってしまったことはすでに分析した。そのアメリカン・マスキュリニティを批判的に捉えながらも独自に発展させ、玩具と子供の関係を追求することによって中間性の美学に至ったルートが、勇者シリーズとして90年代の時点で確立されていたのである。
    ■20世紀における悪とその相対性
    そう考えると、敵についても興味深い読み解きができるようになる。オーボス軍には4人の幹部(最終盤に5人)が存在するのだが、技術至上主義の軍人であるレッドロンはドイツを、サーカス団の団長にして巨体のレスラーであるデ・ブッチョはロシアを思わせる。レディ・ピンキーが搭乗する人形をモチーフにしたロボットはフランスのハイファッションブランドをモチーフにした名前が与えられている。ビオレッツェは少々手がかりに乏しいが、名前の響きや猫との結びつき(『ゴッドファーザー』におけるマーロン・ブランドなど)を考えれば、イタリアのイメージで見ることもできなくはない。一方でオーボス最大の部下として現れ、UFOの姿からドラゴンの姿へと変化するシアンは、ほとんど暴力性そのものの具現化であって、こうした枠組みに収めることは難しいだろう。
     
  • 勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」(前編)|池田明季哉

    2023-10-24 07:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は「谷田部勇者」シリーズ最終作にあたる『伝説の勇者ダ・ガーン』について分析します。ある意味ではChatGPTをはじめとするAIモチーフの先駆けとも考えられる、ダ・ガーンの新規性とは?
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」
    ■憧れの器となった「隊長」
    『勇者エクスカイザー』『太陽の勇者ファイバード』に続く勇者シリーズの3作目となるのが『伝説の勇者ダ・ガーン』(1992年)である。勇者シリーズ全8作品のうち最初の3作品を、アニメーションを担当した監督の名前から「谷田部勇者」と分類できることはすでに述べた通りだが、『伝説の勇者ダ・ガーン』はその最終作品ということになる。
    ▲『伝説の勇者ダ・ガーン』のポスター。地球が背景に置かれている。 勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p59
    本稿では、トランスフォーマーを日本的にローカライズさせた「トランスフォーマーV」から勇者シリーズの基礎構造を確立した「エクスカイザー」に対して、「ファイバード」はそれを引き継ぐかたちでその想像力を深化させたと考えた。スターセイバーとジャン少年の関係は「父子」であり、エクスカイザーは戦うロボットと少年に相補的な役割を持たせていた。ファイバードにおいてそれが「兄弟」と定義されたことから遡って、エクスカイザーも構造的には兄弟的な関係性と言えるだろう。
    一方、ダ・ガーンではこの構造が変化する。主人公の星史少年は、オーリンと呼ばれる不思議な宝玉に選ばれた存在である。そして本作の勇者ロボであるダ・ガーンは、古代から地球にある「勇者の石」に眠っていた超常的な(「伝説の」)存在であり、それがたまたま近くにあったパトカーと融合した結果、ロボットの姿を得る。星史少年は地球の生命力「プラネットエナジー」を吸い尽くそうとする侵略宇宙人オーボス軍と戦うことになり、そのために世界中に眠る勇者の石を見つけ、そこに眠る勇者たちを目覚めさせていく使命を帯びる。
    星史少年は勇者たちを率いる「隊長」であり、勇者たちに命令しながら戦うことになる。ここに至って、ロボットと少年の上下関係は逆転する。星史少年は指揮官であり、勇者たちはその指示に従って戦う。星史少年の采配のまずさによって勇者たちがピンチに陥るエピソードもあれば、星史少年が成長していくことによってチームはその能力を高めていくこともある。このことは勇者たちが「キャプテン」「大将」「隊長」「酋長」と異なる呼び方をすることによってことさら強調される(「酋長」という意外な言葉選びについては後述する)。
    「ダ・ガーン」は、ロボットが主体的な任務を帯び、それを少年がサポートするという構造を脱却している。もちろん地球を救うという使命そのものはダ・ガーンも共有しているが、少年の側に主体があり、ロボットはそれを拡張する存在として従属している。
    これは星史の造形にも見てとることができる。「エクスカイザー」のコウタ少年は「子供」として描かれていたし、「ファイバード」のケンタ少年が「火鳥兄ちゃん」と対置されていたことはすでに述べた。これまで少年たちが「身近さ」を、そしてロボットたちが理想像として「憧れ」を担ってきた。しかし星史少年は違う。親のいない家にひとりで暮らし、鏡に向かって身だしなみを整え、「よし!」と笑顔を作りさえする。少々やんちゃで軽はずみな性格ゆえにヒロインに世話を焼かれてはいるが、危機となれば自らヒロインを抱きかかえ救い出す。勇者シリーズにおいて星史は、少年そのものが憧れの器となったはじめての主人公なのだ。このことは、ウルトラマンを思わせるヒーローらしい戦闘スーツのデザインや、ひかる・蛍・ピンクといったタイプの違う美少女たちがヒロインとして現れてくることからも補強されるだろう。
    これは想像力の問題である以前に、商品企画の対象年齢の問題と不可分であることは述べておかなくてはならないだろう。一般に子供の成長は速く、従って興味も移ろいやすい。そのため子供向けのシリーズはふたつの選択を迫られる。ひとつは対象年齢を固定し、同じテイストの内容を繰り返すことでユーザーを入れ替えていく方法。もうひとつは対象世代を固定し、子供たちの成長に伴って対象年齢を挙げていく方法である。勇者シリーズは(少なくとも谷田部勇者の時点では)明確に後者の戦略を選択していた。実際物語の中においても、コウタ少年が小学3年生だったのに対し、ケンタ少年は小学4年生。対して星史少年は小学5年生と設定されている。星史少年はユーザーの成長とシンクロし、「身近さ」と「憧れ」を同時に宿した、より成熟した存在として置かれているのである。
    ■プロンプトを待つ生成AIとしてのダ・ガーン
    しかし商業的な背景から出発したその設定は、単なる設定を越えて玩具における想像力の記述を更新してもいる。第一話において、覚醒したダ・ガーンを星史は警戒する。ダ・ガーンはそんな星史に命令することを求める。星史はそれを無視するが、結局はダ・ガーンに助けを求める。ダ・ガーンは助けに応じ、敵の状況に対して柔軟に対応、敵を撃破しふたりを救助する。
     
  • 京アニはキャラクターをどう動かしているか(後編)|石岡良治

    2023-10-10 07:00  

    本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの論考をお届けします。 近年の京アニ作品にみられる精緻な心理描写のスタイルはどのように確立されたのか。ターニングポイントとしての『けいおん!』以降の作品史について分析します。 前編はこちら。 (初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))
    ターニングポイントとしての『けいおん!』
    次は『けいおん!』から『氷菓』までの時期(2009~2012)をみていきます。 Key作品で得た学園フォーマットの可能性を拡大したことが、この時期の特徴として挙げられます。この時期「脱いたる絵」の傾向が進んでいったのですが、それが堀口悠紀子デザインの『けいおん!』で明確になりました。堀口悠紀子は今では「白身魚」名義でのイラストレーターとしての活躍が目立ちますが、『らき☆すた』から京アニ作品でキャラクターデザインを務めています。『らき☆すた』から『けいおん!』にかけて、絵柄が「セカイ系」から「日常系・空気系」へと適応しているところが注目されます。Key原作作品である『CLANNAD』と『けいおん!』のOPムービーを比べると、作風の変化は印象的です。いわゆるギャルゲーのオープニングムービーに、ヒロインたちの「立ち絵」と名前が同時に現れる場面がしばしばみられ、アニメ『CLANNAD』もこの形式を踏襲しています。他方の『けいおん!』でも、バンドメンバーの5人(初期は4人)の紹介のところで、立ち絵と名前表記が現れるのですが、こちらではプリクラフレームのような装飾が付加されており、些細な差のようでありながらも、ギャルゲームービーの印象が完全に払拭されています。『けいおん!』は男女問わず広く人気を集め、軽音楽部員とガールズバンドの増加に寄与しました。今振り返ると、2010年代アニメの主要ジャンルであるアイドルアニメやバンドアニメの原点とみることもできる『けいおん!』は、京アニ作品のターニングポイントでもあるわけです。 この時期、『涼宮ハルヒの消失』(2010)、『映画けいおん!』(2011)の2作の映画作品で京アニは、「映画らしさ」にとって必要な画面設計およびフレーミング表現を洗練させたのだと考えています。『涼宮ハルヒの消失』における長門有希の屋上シーン、『映画けいおん!』のロンドンでのライブシーンにおける放課後ティータイムとロンドンという街の両方が写っているシーンは特に印象的です。 現在私たちが考える京アニのイメージは、この時期に形成されたと言えるでしょう。この時期以降はテレビアニメでも画面設計が洗練されていくように思えるからです。それゆえ、『けいおん!』以降、さらに京アニ視聴者の層が拡大したというのが私の考えです。
    京アニはキャラクターをどう動かしているか
    他方、この二つの劇場版の間で犠牲になった作品が、『涼宮ハルヒの憂鬱』第2期で放映された「エンドレスエイト」(2009)でしょう。夏休み終盤の同じ1日がループし続けているという題材を、文字通り8週にわたり同一場面を繰り返したことで悪名の高いエピソードで、現在では研究書も出ており[1]、今なお深夜アニメ史に残る出来事とされています。 日本ギャグマンガ界の巨星、漫☆画太郎の技法に「コピーアンドペースト(コピペ)」というものがあります。漫☆画太郎のコピペは、トラック激突オチが有名ですが、機械的な反復が中心で、ときどきバリエーションが加わるものです[2]。 しかし「エンドレスエイト」ではコピペのたぐいは一切行わず、毎回きちんと作画をして、音声収録も行われていたことが興味深いかもしれません。ある観点からみると壮大な無駄ないし愚行と考えられがちな、この京アニ最大の問題作は、動作をひとつひとつ丁寧に描くことを得意とするスタジオの特徴と一致しており、漠然と考えられがちな乱暴さの印象の一切ない職人仕事でありながらも、ほとんどの人が1回目と8回目だけを視聴するという状態に置かれています。リアルタイムで視聴していた私が今でも印象に残っているのは、キョン妹による「キョンくん、でんわ~」というセリフの反復です。ここには漫☆画太郎のトラックオチに近い「かすかな狂気」を感じます。京アニのよく動く作画は、すべてがジャストフィットしているわけではなく、演出とマッチングしていないこともしばしばありますが、コスパを度外視した過剰さがときにみられるところが京アニの良さのように思います。その意味では「エンドレスエイト」は京アニならではの過剰さの典型と考えることもできるでしょう。 アニメ『日常』(2011)でも、校長と鹿のプロレス対決の作画を本気で描きこんでいます。ここに京アニの執拗な強迫観念があると言えるかもしれません。とはいえこうした「本気」は、原作『日常』のピタゴラスイッチ的な連鎖反応のテンポの良さとはときに相反するところがあるように思われます。『日常』マンガ原作の第1話は、意外なギミックもあり伏線も回収している点で完璧なピタゴラスイッチものだと思います。あくまでも印象論ですが、京アニは、ピタゴラ装置的な因果関係がつながる連鎖反応を描くことを、必ずしも得意とはしていないように思います。ひとりひとりのキャラの個性が大事にされている反面、その場合は、キャラを機能に還元したうえでピタゴラスイッチ的な「回路」をつくるような演出にはなりにくいため、『日常』の装置的なギャグにはそぐわないように思われるわけです。また、ギャグアニメは「静」と「動」の動きでメリハリをつけるものですが、『日常』においてはすべてのキャラクターが動きすぎであるようにも思われました。 しかし、26話だった『日常』を全12話に再構成したNHK版(2012、Eテレ)では、間延びした印象がだいぶ軽減されていました。私が京アニ作品を常にスゴいとは思わない理由として、「編集」のキレが必ずしもよいわけではないところを挙げたいと思います。『AIR』『けいおん!』(第1期)のように「シナリオ進行の速さ」がうまく機能している場合もありますが、このようなケースは尺の都合で外的に生まれた成功のような気がします。たとえば『日常』はDVDを売る商売という点では必ずしもうまくいかず、しばらくささやかれていた京アニ売上神話を崩した作品と言われる時があります。しかし『日常』にポテンシャルがなかったわけでは決してなく、シャッフルして編集し直したNHK版では、シーンとシーンのつなぎがメリハリのあるものになり、エピソードのピタゴラ装置性が生まれていたように思われます。その結果、『日常』NHK版は一定の評価を得ることになりました。もちろんそこでカットされた場面を惜しむ人も多いため、今私が言っているような、『AIR』『けいおん!』(1期)そして『日常』NHK版が好き、という感性を持つ人は、必ずしも京アニファンの趨勢と一致しているとは考えていません。
    アニラジ系作品の元祖としての『らき☆すた』
    『らき☆すた』についても少しだけ言及したいと思います。アニメラジオ的なミニコーナー「らっきーちゃんねる」が、このアニメの楽しさの象徴ともいえるものであり、興味深いと考えています。『らき☆すた』は有名でありながらも結果的に京アニ作品としては異色作となっており、『gdgd妖精s』(2011、2013)から『てさぐれ!部活もの』(2013~2015)に至るまでの石ダテコー太郎(石館光太郎)作品にも見られる「アニラジ」的な作品に影響を与えているのではないかとも考えています。30分枠作品から派生的に作られる5分枠のミニアニメは、元作品がそれほど好きでない場合もけっこう楽しめることが多いのですが、「らっきーちゃんねる」はそうしたアニメのひとつのモデルとなっているように思われます。「らっきーちゃんねる」のバラエティ番組感覚がリアルタイムで持っていたインパクトについては、あとから振り返るとどうしてもわかりにくくなりやすい(=ネタが面白く感じられないことが多い)のですが、改めて強調したいと思っています。 また『らき☆すた』の舞台である鷲宮神社は「聖地巡礼」として最も成功した場所です。ただし『らき☆すた』の聖地性は、OPムービーを見ればわかるようにかなりデフォルメが効いたものなので、絵面としてはフォトリアルなクオリティとはいえません。OPでも登場人物がダンスを踊りながら、春日部共栄高校など、モデルとなった場所が移り変わっていくのですが、交換可能な任意の場所にみえなくもない演出であり、ライトな扱いとなっています。このように、現在の様々なアニメの標準と比べると異質にすら映る『らき☆すた』こそが、「聖地巡礼」アニメ最大級のヒットとなったことは興味深いように思われます。コンテンツツーリズムが一般化した現在でも、鷲宮神社は特筆され続けるでしょう。隙間の空いたゆるいトークが魅力の「らっきーちゃんねる」も含めて、『らき☆すた』は京アニの中でも例外的な作品と言えると思います。シャフトの『ぱにぽにだっしゅ!』からの影響がしばしば指摘されますが、他に似た作品をなかなか見出せないアニメだと考えています。
    女性の視覚的快楽へと踏み出した『Free!』
     
  • 京アニはキャラクターをどう動かしているか(前編)|石岡良治

    2023-10-03 07:00  

    本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの論考をお届けします。 フォトリアルな背景、キャラクターの「しぐさ」の精緻な描写が従来のアニメ表現の水準を刷新した「京都アニメ」の達成について、『AIR』『涼宮ハルヒの憂鬱』といったゼロ年代の初期ヒット作から振り返ります。(初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))
    今世紀アニメを象徴するスタジオ=京都アニメーション
    京都アニメーション(京アニ)を、「境界の両岸」という観点から語りたいと思います。京アニは『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』などのヒット作をゼロ年代に連発したアニメーション制作会社です。アニメをスタジオ単位で観ることが一般化した深夜アニメのファンコミュニティにおいて、「京アニ派」や「シャフト派」などが熱心に語られていましたが、私自身はあえて言うならシャフト派でした。しかし、ここ十数年は京アニ派が圧倒的多数を占めていた感触があります。 まず最初に上げておきたいポイントとしては、アニメーターの木上益治が、京アニの作画クオリティの基礎を築いている点でしょう。木上益治はとりわけアクション作画で有名になったアニメーターですが、京アニの高い作画水準への到達を導いた人として重要な人物です。『CLANNAD』のヒトデヒロイン風子の「風子参上」場面の作画などが有名です。アニメーター教育に用いられている『京都アニメーション版 作画の手引き』という教本があるのですが、作画の基本を解説した簡素な記述のなかで、動作に伴う微細な身体運動に注意を払う指示が掲載されており、繊細な身振り描写からアクションに至る様々な運動に対応可能な木上イズムが、京アニ出身のアニメーターすべてに行き渡っている所以を垣間見ることができると思います。 また、新海誠に由来する、アニメにおける取材に基づく背景の細密表現やレンズフレアなどの撮影効果を取り入れたフォトリアルな表現の「コモディティ化」をいち早く確立した点も京アニの功績でしょう。コモディティ化という言い回しはややどぎついかもしれませんが、たとえばアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』がリアルタイムで評判になった一因として、必ずしも名所とは言えない現実の風景が舞台になっていることが、明確にわかるぐらい写実的な背景描写があったことは間違いありません。新海誠は『ほしのこえ』(2002)以来、デジカメで撮った写真をもとに背景画を起こす方法を一貫して用いてきました。新海誠作品は『君の名は。』以前は人物表現が弱く、むしろ背景のほうが感情表現の媒体となるレベルで作り込まれていたわけですが、京アニ作品の背景は、テレビアニメということもあり、そこまでの執拗な描き込みはみられないものの、それ以前のアニメとは一線を画す厳密さで描かれており、そこに木上イズムに貫かれた人物描写が加わっていたわけです。今ではアニメの背景から取材箇所を特定することは当たり前のように行われていますが、京アニ作品がこうした手法の普及に果たした役割は大きなものがあります。 なぜなら、こうした背景の作画方法が、アニメの外側にもひとつのイノベーションをもたらしたからです。キャラクターと実在の背景がアニメ上で組み合わさることで、視聴者たちの「この背景のモデルとなっている場所に行きたい」という欲望を生み出し、一連の「アニメ聖地巡礼」ブームが巻き起こりました。もともと映画やテレビドラマの舞台が「聖地」となる現象はみられましたが、実写とは異なるところに強みがあるとみられたアニメが、現在ではフォトリアルな背景がもたらす「コンテンツツーリズム」の中心媒体として一般化されるようになる過程で、京アニ作品がもたらした影響は多大です。埼玉県の鷲宮神社の参拝客が、アニメ『らき☆すた』の効果で増加し、アニメ終了後10年以上経ってもなおアニメ聖地巡礼の舞台となっている事例は象徴的です。 京アニの特徴としては、元請の初期に樋上いたるのキャラクターヴィジュアルが印象的なKeyのノベルゲーム原作を数多く手がけた点も挙げられます。その代表作として『CLANNAD』を取り上げます。Key作品は『AIR』(2005)、『Kanon』(2006~2007)、『CLANNAD』(2007~2009)の順番にアニメ化されています。しかし、このなかで現代の京アニに通じた部分が多いのは『CLANNAD』だと考えています。『CLANNAD』は相当な話数をアニメ化していて、ここで得たメソッドが未だに京アニの「貯金」になっているのではないでしょうか。 京アニの元請初期にはスポークスマンとしての山本寛が目立っていました。『ハルヒ』や『らき☆すた』などのキレの良い演出と様々な発言で知られ、「ヤマカン」の愛称でも有名です。しかし彼の京アニ退社以後、作品・作家性を主張しないスタジオというイメージが広まります。今では『けいおん!』や『聲の形』などで知られる山田尚子が、京アニで作家性を明確に備えた監督といえますが、それでもやはり、個々のスタッフよりもスタジオの存在感のほうが目立つように思われます。 スタジオの統一感が際立つ京アニには、「累積性」が強いというアドバンテージがあります。アニメーターは一般に、様々な絵柄を書き分けられるほうが優れていると言われていますが、スタジオとしての京アニでは、とりわけゼロ年代の頃は、「前の作品」の絵柄が次の作品へダイレクトに影響するサイクルが続いていました。『涼宮ハルヒの憂鬱』の絵柄が『Kanon』に影響を与え、『Kanon』は『らき☆すた』に影響を与え、『らき☆すた』は『CLANNAD』に影響を与えるという具合です。 京アニ作品は、ルックの「累積性」を持ったスタジオであるという印象を持ちます。そうしたルックの累積性は、キャラクターデザインにとどまらず、画面設計から仕上がりに至る工程が生み出した統一感なのでしょう。これはちょうど、実際には絵柄に一定の多様性があるジブリアニメが、漠然と「宮崎駿っぽい絵柄」と受け止められている事情と近いのではないでしょうか。『現代アニメ「超」講義』で触れたシャフトアニメが「シャフ度」のような特徴的演出で知られるのとは別の仕方で、「京アニ作品」としての統一感が生まれているわけです。たとえば京アニ出身の堀口悠紀子が別名義である「白身魚」でキャラクターデザインしている『ココロコネクト』(2012)は、シルバーリンクによってアニメ化されており、絵柄は一見すると京アニ作品のようですが、作画も作劇も全くの別物になっているので、かえって京アニの際立った個性が明確になったのではないかと考えています。
    「エブリデイ・マジック」と川のシンボリズム
    私は「エブリデイ・マジック」が京アニ作品の重要な特徴だと考えています。「エブリデイ・マジック」とは、ファンタジー小説でよく言われる「日常に魔法が入ってくる」作風のことを指します。また京都の地形的特徴である「川」へのこだわりも、もうひとつの大事な特徴といえるでしょう。「エブリデイ・マジック」と川のシンボリズムの組み合わせによって、日常性と「超越」についての独特の展開が生まれているわけです。 アニメにおける「超越」というのは難しいテーマですが、京アニについては語らなければいけないと考えています。京アニの花を植えるCM(自社CM「花編」)を観てもらえばわかると思いますが、京アニのCMからは微妙な底知れなさを感じる人も少なくないのではないでしょうか。それは、真顔で健康的な雰囲気が強調されすぎている過剰さが一因だと考えています。京アニ作品における「超越」とは、なにも世界終末を暗示するカタストロフ表現や、いわゆるノベルゲームの「青空」が示唆する無限遠点への憧憬だけではなく、日常を描きつつもそこから半歩踏み出してしまっているような「気配」を指すのかもしれません。 木上益治監督作『MUNTO』(テレビ版タイトル『空を見上げる少女の瞳に映る世界』)における、不良の和也が病弱の涼芽を背負って河川敷を歩いて渡りきるシーンにも同様の「超越」の気配があります。『MUNTO』はある意味問題作でもあり、京アニ作品ではヒットしなかったアニメのひとつですが、重要なモチーフを含んでいます。ここで考察したい「川渡り」のシーンは、OVAとテレビ版(第3話「立ち向かうこと」)の両方で登場します。このシーンにこそ京アニの本領が現れていると私は考えています。このシーンでは、それまで交際を反対されていたかのようである2人が川を渡りきった瞬間、周りのみんなが拍手し2人を祝福します。このあたりはあたかも『新世紀エヴァンゲリオン』テレビ版最終話の「おめでとう」シーンにも似た、「承認の場面」と言えるのかもしれません。 このシーンには、「なぜ祝福?」という唐突感ゆえにやや不気味なところもありますが、京アニの持っている「超越」への意志のエッセンスがあると考えています。実際、このシーンを単に気持ち悪い場面で終わらせないところが京アニの力技の真骨頂で、今でもこのモチーフはいろいろな作品の中に生きていると考えています。たとえば『響け!ユーフォニアム』(2015~)の宇治川でのシーンは、このエッセンスが活かされているシーンと言えるでしょう。京アニは「エブリデイ・マジック」と「超越」をテーマとして作品に織り込もうとしています。 花を植える自社CMが奇妙に見える理由は、おそらく自然の描写にあります。自然描写と「健全な青春」の混ざり方によって、独特の「人間化した自然」となっているのでしょう。同様に『氷菓』(2012)の文字演出なども、シャフト作品と比べると牧歌的というかややもっさりした印象を受けるのですが、ここには「青春」というテーマに正面切って取り組み、すべての力を注いでいるようなところがあるからなのだろうと考えています。フェチ表現や露悪性を売りにする作品が多い深夜アニメという媒体において、そうした表現を得意とするにもかかわらず、同時にどこかしら健全な「青春」というテーマを全力で主張する一種の不器用さ、京アニのスタジオとしての個性や表現したいものの多くは、こうしたところに由来すると考えています。 花を植える自社CM、『MUNTO』の川渡りシーンに見られる底の抜けたような本質を、ただのカルト的演出(あるいは「ネタ」)であるとみてはいけないと私は思います。このような意味合いの底が抜けたシーンには、ある種のナンセンス性を感じます。しかし、きちんとやりきらないとただの寒いシーンになってしまうでしょう。京アニはそうした表現を全力できちんとやり遂げるからこそ、独自の表現にまで達しているのでしょう。 ノベルゲーム会社Key原作の京アニ作品は、『AIR』『Kanon』『CLANNAD』の三つがあります。京アニのKey原作作品のポイントは、「しぐさ」と「小芝居」で底なし感覚を埋めているところにあります。『CLANNAD』の「風子参上」シーンで魔法少女のように現れる風子は、本体が病床に臥していながら生霊が歩き回っている状態です。要するに風子が生霊として現れて参上する「小芝居」によって、底知れなさを埋めているんですね。「エブリデイ・マジック」の奇跡を説得的に示す上で、独特の存在感をみせる風子という脇役キャラに、魔法少女のような演出を施したことは、極めて効果的だったといえるでしょう。 しかし、「しぐさ」は演出にとってつねに効果的であるとは限りません。たとえばアニメ『Kanon』では、キャラクターの動作をくねくねさせすぎたようにも思われます。ところが、キャラクターが「しぐさ」を止めると途端にある種の空虚さが生じます。たとえばKeyの麻枝准作品でも、他社制作の『Angel Beats!』『リトルバスターズ!』(2012、2013)のような「ギャグの小芝居」と京アニ制作の『CLANNAD』では、主として「しぐさ」の充実によって、質の違いが生じているように思います。これは麻枝准の作風と、京アニが元来持っていたイニシエーション的表現への志向性がうまく融合した描写だと考えています。京アニは執拗といえるほど一貫して「青春」というテーマに取り組むスタジオなので、制作側が意図的に「しぐさ」と「小芝居」を加えている面もあると考えています。
    『AIR』『MUNTO』『中二病』の“彼岸と此岸”
    この問題を『AIR』に遡ってみていきましょう。