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凡庸な服は、いかに捉え得るか?──私的な身体技法をめぐる試論的考察|藤嶋陽子(後編)
2022-12-27 07:00550pt
本日のお届けするのは、ファッション研究者・藤嶋陽子さんの特別寄稿(後編)です。否応なく他者の視線に晒される衣服を、人はどのように選んでしまっているのか、現代の情報環境を踏まえながら思索します。(初出:『モノノメ #2』(PLANETS、2022))前編はこちら!※2022年の配信は本日が最終日です。来年もPLANETSをよろしくお願いします!
凡庸な服は、いかに捉え得るか?──私的な身体技法をめぐる試論的考察|藤嶋陽子(後編)
服に、願いを。
自分の衣服に関する情報を積極的に発信するインフルエンサーたちに対して、これまで述べてきたような情報に触れながら服を選び、服を纏う私たちの実践は、どのように考えることができるのだろうか。 SNSにおいては自分と似た体型や属性のユーザーの投稿画像を眺めて服の情報を得るわけだが、今日ではECサイトでも同様の体験がもたらされている。モノとしての商品そのものよりも、その衣服を纏ったときのイメージを強調するような写真を中心に置くファッションECサイトが特に韓国系通販サイトなどを中心にして増えており、まるでSNS上の投稿のような写真が商品紹介として掲載されている。*6 服に合う雰囲気のカフェや家で、まるで友達や自ら撮影したかのようなものだ。これらを見ながら服選びをするということは、その服を纏ったときに自分はどのような姿になるかという想像を搔き立てることにもなるだろう。SNSにおいても、ECサイトにおいても、他人が「みられている」姿を通じて、自分が「みられる」ことを想像しながら服を選んでいるわけだ。 それでも、誰もがインフルエンサーになりたいわけではない。「みられる」ことを強く意識する環境下にあるからといって、「みせる」という自己提示の実践と直結しているのかというと、そうではないだろう。SNSという舞台が用意されたことでみせる自分/みせない自分の線引き、投稿するもの/しないものの線引きがそれぞれにある。他者からは「みせている」のと変わらないようであっても、自分のなかでは「みせている」積極的な意図がない場合もあるだろう。「みられる」対象である一方で、必ずしも「みせる」対象ではない。このことが、今日の私たちにとっての衣服というものを考えるうえで示唆を与えてくれるように思う。そもそも、どんな衣服を手にするか、纏うかという選択は私的な行為でもある。同じような服ばかり買っているように見えても、それでも欲しくなる。他人からみて大して変わらないものであるかもしれない、わかりやすい違いなどないのかもしれない、それでも新しい服を手にしてしまう、それは服というものに自らの期待が託されているからではないだろうか。 私たちは生活のなかで、短時間しか裸にはならない。だからこそ、衣服を纏った身体こそが自分そのものとなり、見た目も中身も、衣服は望む自分自身を「装う」ことを通じて手助けしてくれるものでもある。私自身の思春期を振り返ると、何かに特化した才能もない自分の凡庸さが怖くなり、「変わった人」だと思われたくてロリータからパンクスといった周囲では見かけない奇抜なファッションに手を出していた。この場合は、他者からどうみられたいかという願望だ。だが、衣服に込める願いは必ずしも他人からのまなざしを前提としたものだけではない。自分を鼓舞するために華やかな服、自分だけのジンクスとしての験担ぎのアイテムもあるだろう。もしくは、体型のコンプレックスのある部分を「細見え」させてくれることを期待して服を選ぶこともある。ここでは間接的に他者が意識されているものの、この段階では実際にどうみられるかということよりも、自分自身が自らのコンプレックスを少しでも受け止めるためのものとなっている。容易には変え難い自分という存在を受け入れる手段のひとつとなっているわけだ。衣服には数多の願いが込められている。衣服は手軽に、わかりやすく、自己像への願いを叶えてくれるーーと、少なくとも購入時には思わせてくれる手段だ。私たちは服を選ぶとき、単にモノを手にしようとしているだけではなく、自分の可能性を手に入れようとしているとも言えるだろう。まだ見ぬ、まだ得ぬ、私。だからこそ、他人からみてどれだけ手持ちの服と似ているものでも、その人にとって新たな可能性を導くものであれば手にする意味のあるものとなるわけだ。これは見た目だけではない。肌に触れる感触、洗濯のしやすさ、そうしたものが自分にもたらすことを期待して手にしている。そこに込められた願いを他人と相対化することはできず、この強度はあくまで自分の身体や自分の生活への意識のなかで決まるものだ。それゆえ、服を選ぶ、身につけるという実践は、他者から「みられる」自分に想像を巡らせながらも、極めて私的な領域での実践と位置づけられるのではないだろうか。
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凡庸な服は、いかに捉え得るか?──私的な身体技法をめぐる試論的考察|藤嶋陽子(前編)
2022-12-20 07:00550pt
本日のメルマガは、ファッション研究者・藤嶋陽子さんの特別寄稿をお届けします。SNSでの自己表現として用いられる「ファッション」。その一方にある、普段何気なく着る「凡庸」な服からファッションを捉え直します。(初出:『モノノメ #2』(PLANETS、2022))
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凡庸な服は、いかに捉え得るか?──私的な身体技法をめぐる試論的考察|藤嶋陽子(前編)
凡庸さを捉える術を模索する
どんなに生活スタイルが変わっても、私たちは服を着る。服というものは常に私たちの生活のなかに存在して、たとえファッションに興味がないと言う人がいても、それは裸で暮らしているということを意味するわけではない。積極的に流行を追い求めて服を買うわけではなくても、みな何かしらの服を纏い、その服は何かしらの理由で購入して、何かしらの理由で今日、袖を通すことを決めたものだ。それでも服を選ぶということはなぜか、積極的な興味関心に基づいて為されなければ、行為として意識されない、透明なものとなってしまう。あるとき、大学で授業をした際に服の選び方を聞いてみたことがある。印象的な回答として、「必ずInstagram に投稿する友達と遊ぶときは、そのことを意識して服を選ぶ。それ以外のときは、適当に楽なスウェット」というものがあった。こういう行為を論じる場合、大半は前者のInstagram の投稿と紐づいたコーディネートに焦点を当てるだろう。そちらが公開の場で他者と共有されるものとなり、当人にも選んだ意図があるからだ。一方で、後者は当人も「適当な」と表現するように極めて捉え難いものだ。しかしながら、実際の着用回数が多いのは適当なスウェットの方で、行為として明確に意識されない領域に追いやられていても生活のなかで割と重要なものであったりもする。 このように、凡庸な衣服との関係性を記述することは難しい。また、凡庸なスタイルというのも同様だ。もしかすると、「ファッション」という枠組みで捉えること自体から見直さなければならないのかもしれない。実際にファッションをめぐる記述においては、服装を通じた社会への抵抗、ブランド品の購入を通じた自己実現、特定の都市文化と結びついたスタイルといった特徴的な部分が切り取られる一方で、その裏で毎日、多くの人が積み重ねている「なんとなく適当な」衣服との関わりというのは、あまり光の当たらない部分となる。もしくは、スタイルが均質化してファッションへの関心が低下しているだとか、周りと同じことに安心感を抱くだとか、ほんのりと批判的なニュアンスを含みつつ考察されることも多い。けれども、日常的な衣服の着用実践を「ファッション」ではないとしてしまうことは極めて限定的で、日常生活に根付いた衣服というモノが提示する論点の豊かさを見落としてしまうように思える。とりわけECサイトやファストファッションの影響によって、ファッションが均質化したとも言われる現代においては、これまで「ファッション」として中心的に捉えてきた実践からは、こぼれ落ちてしまうものが多くなってしまうのではないだろうか。 今、多くのクローゼットにはたくさんのシンプルなスウェットやノーブランドのスカートが詰まっている。私たちは誰もみていない自分の部屋でも服を着て過ごし、たとえ誰にもみせない服でも自分のために一着を選ぶ。服を選ぶこと/纏うことは他者とのインターフェースを考える行為であると同時に、自分の身体と対峙する私的な実践でもあるはずだ。SNSで何を「みせている」のかを問う一方で、意識されない、「みせる」意識のない日常的な衣服との関わり。こうした実践に着目しながら、「ファッション」には興味がない、ブランドにはあまり縁がない、そう口にする人々が纏っている衣服を捉える術を考えてみたいと思う。
衣服に託されていた、自己表現
服装というものは自己を表現するものという風に捉えられ、特に1980年代の消費社会論において、記号の差異化を通じた欲望の生成をめぐる議論が展開されてきた。この時代に衣服やファッションをめぐる代表的な論者であった鷲田清一は『ひとはなぜ服を着るのか』のなかで以下のように述べている。
ファッションはしかし、他のひとびととの距離感覚でもあるから──同じ趣味のひとに出会うのはうれしいものだが、細部までまったく一緒というのは逆にもっともさけたいことである──、ひとは他人との微妙な差異にひどくこだわる。感受性の固有のスタイルこそ、ひとが他のだれでもないそのひとであるために不可欠のものだからだ。こうしてスタイルの差異を記号として他者たちにたえず発信していないと不安になる。じぶんになりえないような気分になる
単にファッションが他者との違いを提示するための手段となり得るというだけでなく、そうすべきもの、そうしないと不安を感じてしまうもの、そのように捉えられていたことがわかる。ファッション研究者の井上雅人も、こうした鷲田の議論に対し「日本の社会の人々は、みな他人と違っていたいと思っていると、素朴に信じていることが伝わってくる」*2 と評し、異なる角度から現代のファッションを捉えていく必要性を提示している。 このように服装の選択に積極性があることを前提とする捉え方が、「ファッションなんて、自分には無関係だ」と距離を置く態度の根底にあるのではないだろうか。つまり、自分自身の服装が他者からみられること、そこから自分自身について推測をめぐらされることの怖さのようなものだ。凡庸さというのは、時として否定的なものとなる。街や職場で同じ服を着た人と遭遇し、恥ずかしい、気まずいと感じた経験はないだろうか。同じ服を纏う人が多いということは、それだけ多くの人にとって素敵な服や使いやすい服であったことを意味するはずなのに、時としてネガティブなものとなってしまう。このことは同時に、他人の服装への捉え方に滲み出ている場合もあるだろう。2015年にTwitter 上にて、海外ユーザーが日本の女子大生の集合写真とキノコのシメジの株の写真を並べて「Japanese girls party be like」と投稿し、数万件のリツイートがされた。日本国内でも、茶色く染めたロングヘアにミニ丈のワンピースといった女性たちのスタイルの類似性に、「個性がない」と揶揄するような声がインターネット上で見受けられた。このように、私たちは似通ったファッションスタイルを否定的に捉え、内面も含めて自我がないかのような言い方をする。これは今、モノだけではなく、体験(コト)にも同様のことが生じていると言えるだろう。Instagramで話題のパンケーキ屋に並ぶ人々を笑ったり、TikTok でナチョステーブルを楽しむ高校生を貶めるようなコメントが書かれたりと、人は他人の流行りへの態度に厳しい。そういった流行への厳しい視点が自分にも埋め込まれているからこそ、自分自身にも恥ずかしさや怖さを背負ってしまうのだろう。だからこそ、「ファッションに興味がない」という態度は、ある種の防衛手段になるのだ。 しかしながら、流行がどんなに嘲笑の対象となっても、絶えず流行は生み出され、人々を惹きつける。とりわけファッションアイテムを売る側にとっては、ビジネスサイクルを駆動する核だ。食べものとは異なり、衣服は一度買うとデザインを問わなければ、また劣化を気にしなければ、何年も使いつづけることができるもの。自らの身体で消化することはできず、使いきるということも難しい。それでも何か新しいものが求められなければ、ビジネスとして存続していくことは不可能だ。ましてや今日、一着の服は一杯のタピオカドリンクよりも安く買える場合もある。だからこそ、ファッションは価値観のすり替えを繰り返してモノを売りつづける。今はこのデザインが最先端、そのブランドはもう古いといった具合に。そして、この服はもっとあなたを素敵にすると期待を抱かせる。こういった差異をめぐるゲームから逃れる術のひとつとして登場したのが、2000年代初頭に登場したノームコアだった。「通常」を意味するnormal と「強硬さ」を意味するhardcore から成る造語のノームコアは、個性的であることを過剰に強いたうえで、それもまた新たな流行として売り出していくマーケットへの対抗手段として、見た目による記号的な区別を拒み、規範やカテゴライズから逃れた自由さを追求する態度であった。しかしながら結局、ファストファッションの広まりと相まって、こういったノームコアすらもシンプルなスタイリングの流行として──それが当初のノームコアの本質と異なるとしても──消費してしまうところに、ファッションの図太さがある。ノームコアだけではない、カウンターカルチャーも、エシカルもサステナビリティも、同様の危うさを抱えている。
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「異形なものたち」についての哲学とファッション|下西風澄×藤嶋陽子
2021-12-01 07:00550pt
本日のメルマガは、哲学者・下西風澄さんとファッション研究者・藤嶋陽子さんとの特別対談をお届けします。「ファッション」への期待や身体をめぐる自意識は、現代の情報環境下でどのように機能している(してしまう)のか。自身の身体像に対する等身大の悩みから、数世紀規模でのファッションと身体の移り変わりまで、研究者の視点から語っていただきました。(司会:徳田要太・中川大地、構成:徳田要太)
「異形なものたち」についての哲学とファッション|下西風澄×藤嶋陽子
ファッションと実存とのかかわり
──現在PLANETSでは「遅いインターネット計画」という運動を1年以上続けており、「速すぎる情報の消費速度と、それを半ば強いるようなSNSのコミュニケーションがデフォルト化した情報社会に対して、どのように自分なりの距離感を図り直すか」という問題提起をし、これまで「書く」「走る」などの切り口からさまざまな発信を行ってきました。
今回は「着る」ということをテーマに、個人の欲望がネット上の広告やマーケティング戦略に特に利用されがちなファッションについて議論したく、Webマガジン「遅いインターネット」で連載中の「横断者たち」にもご登壇いただいたファッション研究者・藤嶋陽子さんと、ファッションスクールでの非常勤講師の経験もお持ちの哲学者・下西風澄さんとの対談を企画しました。はじめにお二人の簡単な経歴からお伺いできればと思います。
藤嶋 はい。私はファッション研究を専門としていて、もともとはミュージアム、ファッションショーといった空間メディアが果たしてきた役割の歴史的変遷を研究していました。最近では、下西さんも所属していた佐倉研(東京大学大学院情報学環、佐倉統研究室)の関連から、AIなど先端テクノロジーがファッションのような産業構造にどのような影響を与えるのか、あるいはそのなかでファッションに対する人々の欲望や価値観はどのように変化するのか、といったことも研究として向き合うようになったところです。下西さん、本当にお久しぶりです。
下西 お久しぶりです。今日はよろしくお願いします。僕も簡単に自己紹介をすると、大学院の博士過程で哲学、特に現象学と言われる分野を中心に研究していました。意識や身体にフォーカスした研究、あるいは認知科学やAIといったサイエンスのほうからの身体へのアプローチも含めた融合領域に関心を持って研究をしていました。そのなかで、そういったテクノロジーは単なる技術的な問題ではなく、歴史の中で思想として紡がれてきたものだということにだんだんと気づき始めました。その後大学院を辞め、今は哲学史や文学史の中で、いま言った人工知能も含め人間の意識や身体がどのように形成されてきたのか、というようなことを執筆しています。
ファッションはまったく素人なんですが、もともと身体論や意識論といった領域を扱っていたこともあり、エスモード・ジャパンというファッションスクールで非常勤講師をしたり、山縣良和さんらの運営するファッションデザイナーの学校で講師や講評をする機会があったり、ファッションについて語る機会はこれまでにも少しありました。
──ありがとうございます。藤嶋さんは文筆家としても活動されていて、特に「見た目の多様性」をめぐる言説について独自の問題提起をされてきたと思います。「ボディポジティブ」のムーブメントを切り口に、一見マイノリティを尊重しているようにみえながらも、そこにはまた別の疎外感も生まれているんだという指摘が非常に興味深かったのですが、具体的にどんなことを扱っていたのか紹介していただいてもよろしいでしょうか?
藤嶋 この問題に対しては研究として向きあってきたというよりは、自分自身が当事者として感じたところを出発点に、ご縁があって書きはじめました。6年ほど前、私はダイエット真っただ中で、減量に加えて美容整形を体験したりと、ものすごく容姿に執着していました。その執着というのは、「きれいになりたい」という想いはもちろん前提としてあるのですが、それ以上に、容姿を磨くことにすごく労力をかけてきた自分に対する達成感と、それを認めてほしいという気持ちが強くあったんです。
こういった体験があって、「ボディポジティブ」のようなプラスサイズなど多様な身体をポジティブに受け止めようといったムーブメントのなかで、自分が置いていかれてしまった気がしました。というのは、私は自分の容姿を変えるために必死の努力をしてきた分だけ、そのままの自分の身体像とうまく向き合うことができ、ポジティブに捉えることができる方たちが前面に出てきたときに、自分がすごく弱い存在であるように感じてしまったんです。かつて私が自分の容姿を受け入れられなかったのは、そうするだけのキャパシティがなかったからなのではないか、自分の醜い執着心だったのではないかと感じるようになってしまって。ボディポジティブのムーブメントは素晴らしいことだと思う一方で、自分の弱さを強く意識してしまいました。
そういった実体験があって、『現代思想』の特集「フェミニズムの現在」で書かせていただいたのは「容姿を変えることが救済になっている人たちもいるのではないか」「容姿を変えたいという願いそのものは尊重してもいいのではないか」ということです。容姿を磨くことが自分の人生の成功につながった人、それが生きがいになっている人たちもいるなか、「現在の容姿をありのままで受け入れる」と唱えることもある種の分断に繋がっているのではないかとも思いました。たとえばボディポジティブを題材とした歌の中でも、「スキニービッチ」といった言い方をして、容姿にこだわることやモデル体型であることを揶揄するような表現もありました。どちらが美しいのかという問題ではなくて、自分にとっての容姿との付き合い方や受け入れ方、それぞれの塩梅があるといった捉え方をしてもいいのではないかなと感じています。
下西 そういった問題について僕からは実存主義の観点からお話しすると、「ありのままなんてものは人間にはないんだ」というのがこの思想の出発点なんです。戦後のヨーロッパ、特にフランス・パリから広まった考えで、当時サルトルが言っていたことは「ありのままの本質なんてものはそもそも人間にはないんだから、自分で自分の生き方を選んで引き受けるんだ」というところから始まりました。
だから、自分の生得的な身体を実存として引き受けて生きられるのであればそれでいいんだけれど、なんらかの外部──資本やメディアによって与えられるものを内在化しようとするのであれば、それは権力や市場の側からみれば、ある種の収奪の対象になっている。たとえば容姿についても「こういう見た目が美しい」という外部から与えられた規範で実存を満たしていても、そのブームが去ってしまう、あるいは部分的にでも否定されてしまうと、そのことを肯定できなくなってしまう。身体イメージに限ったことではないですが、そういうふうに「いかに生きるべきか」といったことの自己決定権を他者に委ねることの問題が、副作用として生じているのではないかと思います。
また身体という点を深掘るならば、たとえばミシェル・フーコーは人間の身体というのは、常に権力によって形作られ続けてきたというふうに考えました。身体とは生まれつき与えられたものというよりも、いくらでも変容されうるものなんだと。身体はたしかに原初に与えられている。だから僕たちは、布団のなかで身を縮めているときも、世界の果てまで行くときも、あるいは海辺で美しい風景を見ているときも、どんなところにも行けるんだけれど、それはいつでもこの身体と共にでなければならない。身体からは絶対に離れることはできないということで、フーコーは身体を「過酷な場」というふうに言ったわけです。
しかし一方で、身体というのは、自らの意思で変容可能なものでもある。たとえば谷崎潤一郎が『刺青』という刺青師をテーマにした短編を書いていて、そこで描かれたのは、彫師が身体に「刺青」を掘ることで別の宇宙が刻まれ、その身体は別の場所に行けるんだというようなことです。だから身体というものは、与えられたものであると同時に、そこに別の宇宙を記述して変容していく自由度も持っている。谷崎を引用するフーコーは、場所に規定された身体と、非場所という自由を持った身体の両面を、また権力に規定される身体と、自らの意志で変容可能である身体の両面を見ていたし、おそらくファッションはこのあたりの問いに関わるものであるはずです。
そういう意味では、身体に何かを装うとか、変容させるとかいうことは、虚構をそこに作り出すことでもあるわけですよね。であるならば「ありのままの自分」がことさらに主張されるというのは、ある意味では虚構の衰退でもあるわけです。寺山修司は「女は化粧をすることによって、虚構によって現実を乗り越えようとしている」と言いましたが、「ありのまま」という考えは、人をこの唯一の現実に束縛することでもあります。そしてこの現実しかないということが逼迫感や閉塞感のようなものを作り出しているのだとすれば、それに対して別の形でそこに虚構をもう一度作り出すことで生き直すことができるのが人間の生き方の自由さでもあるはずで、それはフーコーが処方箋として主張していたことでもあります。「ありのまま」ということが、本当に「もともと与えられた身体」という意味であれば、人間は閉塞するしかないでしょう。だから、そこでいかにして別の宇宙にアクセスする可能性を持つのかという視点がないと、ファッションだけではなく文化というものは衰退していかざるを得ないというふうに思います。
藤嶋 昔、とある美容整形のCMが「あと1ミリわたしの鼻が高かったら世界は変わるかもしれない」というような表現をしていました。そこでは自分の環境がよりよくなる可能性を与える手段としての容姿があって、あり得たかもしれない別の自分の可能性、いわば下西さんのおっしゃった「虚構」への期待を煽るような形で刷り込んでいるのではないかと感じていました。
また最近Netflixで視聴した、片付けコンサルタントとして知られるこんまりさんの『Sparking Joy』という番組では、サイズの合わなくなった大量の洋服を片づけられない人が登場するのですが、それは単に「もったいないから」という理由ではなく、「いつかそれが似合う自分になれるかもしれない」という期待からでした。自分の中で思い描いている身体像、自分の可能性を手放したくなくて持ちつづけているのではないかと思いました。最終的には、こんまりさんの導きで大量に服を廃棄することで悩みが解決するんですが、それは自分自身の現状や現実を受け止めるようなプロセスでもあったのではないかと思ったんです。
つまり、過剰な可能性への期待が自分を苦しめていて、それを手放し現実的な自分を受け入れることが苦しみからの解放となる。でも一方で、「じゃあTシャツとデニムだけでいい」と開き直ったら、自分自身の可能性に感じる喜びや服を買うこと自体の楽しみといったことも手放して、逆に自分の欲望をふさぎ込むことになってしまう。そのバランスが難しいと感じます。
下西 さきほどサルトルの話をしたとき、自分の実存は自分で選び取るものだと言いましたが、僕はそれを全面的に肯定しているわけでもなくて。つまりこれは、かなり厳しい思想でもあるんです。果たして人間がどれだけ実存を自己決定し、その責任を引き受けられるだけの強い主体でいることに耐えられるかというと、僕は耐えられないと思う。特に、グローバル化やインターネットが常識になった現在では、一方で独立した主体の不可能性が即物的に加速すると同時に、それゆえ逆説的に主体であることの要請が増大して、その矛盾がますます強くなっている時代だと思います。強い主体になりきれない者たちが、過剰な商品や過剰な言説・コミュニケーションに接続することで、本人は一時的には救われます。でも他方で、それを管理する側からすれば、容易に人間の実存が消費のネタになるような状況が生まれている。自分の実存を必ず自分が決めなければならないというような強い意志を持つことは、逆に完成されない自己の傷口と隙間を生むことでもあって、何らかの自分の弱さが突き付けられてその弱さを補うためのものが現れれば簡単に依存してしまうような状況が起こりえます。だから僕たちは、自分で自分のことを完全に決定するというモデルそのものを考え直さなくてはいけない段階にあるのかなと思っています。もちろんそれは簡単なことではないですが、まずはそのことを認めることが最初の一歩になるのではないかと思います。
ファッションが指し示す「身体」の両義性
下西 そこで、僕がファッション業界の人たちと話すようになっておもしろみを感じたのが、ファッションというのは服だけの話ではないんだということです。山縣良和さんが話していたのは、日本語には「ファッション」の訳語はないんだけれど、中国だと「時装」すなわち「時の装い」というふうに訳されると。ファッションという言葉の語源は「fasces(ファスケス)」と言って、古代ローマ帝国で斧に木を束ねた権力の象徴物で、「束ねる」という意味を持っていました。そしてファッションと同じく「fasces」を語源として生まれたもう一つの言葉が「fascism(ファシズム)」です。つまりファッションは、一方では自分の固有の身体が持っているものの表現ではあるんだけれど、同時に不可避的に他者たちとの共生に開かれた/巻き込まれたものでもある。山縣さんはそれを「状況の前衛」だというふうにも言いますが、自分の身体はただ一個だけ宇宙の中にぽつんと存在するのではなく、さまざまなものへアクセスし、他者に伝播しながら作られているようなものだという発想が、自分にとっては発見で「なるほどおもしろいな」と思ったんです。 つまり、一人の人間に決められることはものすごく限られているし、一人の人間の個性とか生来的に持っているものなどは、それが接続している環境や文化全体に対してはるかに矮小であると。それをどういうふうに自分とは異質なものとアクセスさせたり混ぜ合わせたりしていくかという相互作用の中にこそ本当の表現が生まれているのであって、むしろ自分で自己決定しなければいけないという考えのほうが幻想であるということです。「ファッション=服」という考え方も、「この私」「この身体」で閉じられていると思い込むからそう考えられてしまうのであって、むしろこの身体を形作る膨大なコンテクストの一部として捉えるという発想もあるわけです。たとえば実際、ネットに自撮りがアップされているとして、それが全身像だったとしてもその人がほかにどんな人とかかわっているかとか、どんな活動をしているかといった全体を見なければその人のことはわからないわけですよね。ファッションはそういう意味で、単に一個の身体を纏う衣服ではなく、その人をとりまくさまざまな関係性や状況をふくんだ総合的な人間像の芸術でもあるわけです。
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