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  • 宇野常寛インタビュー<僕たちの自由のための戦い>

    2022-11-25 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の特別インタビューをお届けします。「水曜日は働かない」ことで実現する社会との関わりや「議論」のあり方、ライフスタイルの変化にとどまらないその真髄が語られます。(初出:週刊読書人2022年7月8日号)
    【イベント情報】本日19時〜青山ブックセンター本店(渋谷)にて、宇野常寛が浅生鴨さんと対談します。題して、“それっぽい「いい話」と、この悪いやつを叩き潰せという怒号にあふれたこの世界を生きるために、「情報」との付き合い方をもう一度考えてみよう”。浅生さんの新刊『ぼくらは嘘でつながっている。』&宇野の新刊『砂漠と異人たち』の発売記念イベントです。たくさんの方のご参加をお待ちしています!お申し込みはこちら。
    宇野常寛インタビュー<僕たちの自由のための戦い>
    引き算から始める、自分デザインの暮らし方
    ──この本は宇野さんの日常から語り起こされ、多様な要素が入り交じりながら、読み進むと一続きのメッセージが立ち上がってくるようです。改めて批評とは何かということを感じさせられる本でもありました。
    宇野 数年前からエッセイ的な語り口が、今の自分に必要なのではないかという思いがありました。SNSが浸透して誰もが手軽に発信できるようになり、多くの人が自分の半径五メートル以内のことを饒舌に語るようになっています。たとえばコンビニで出会ったマナーの悪い客に対して腹を立てたとか、韓国料理屋でおいしいキムチクッパを食べたとか。また天下国家についても饒舌に語りますよね。イーロン・マスクのツイッター買収について、ウクライナ情勢について、あるいは岸田政権の支持率について。SNSで天下国家についてひたすら怒っている人たちもいますが、どうも自分でものを考えているようには思えない。半径五メートルと天下国家の話が、乖離しているように見えます。インスタントな承認を獲得するためにSNSのタイムラインの潮目を読んで、既に話題になっているものに言及し、その中で支配的な論調にイエスと言うかノーと言うかを選択しているだけなのではないか。
     そうだとしたら忌々しき事態で、そこからどのように言論を回復していくのかを考えると、自分が手で触れて実感できる半径五メートルの世界が、天下国家の大きな話に繫がる回路が必要なのだと思うんです。
     だから、僕はこんな距離感と進入角度で、普段の暮らしから世の中をこのように見ているのだと、国や社会を考える筋道を、面白く肯定的に示したいと考えています。この本はその試みの一つなんです。
    ──本のタイトルにもなっている「水曜日は働かない」は、画期的な宣言であり提案ですね。水曜を休みにすることで、全ての曜日が休日に接続するという。コロナ禍の生活環境の変化にも即しているように思います。以前、英文学者の外山滋比古さんが、週休二日制になって人々は日曜に憂鬱になるようになった、と言っておられたのを思い出しました。日曜だけ休みだった時代、土曜の半ドンが程よく楽しかったそうです。「水曜日は働かない」という言葉は、時代を映す社会批評にもなっていると思います。
    宇野 僕が「水曜日は働かない」と言い始めたのは二〇一九年後半ですが、その後コロナ禍となり「暮らしかた改革」などと言われるようになりました。ただいわゆる「週休三日制」は、金曜か月曜を休みにして三連休を作ろうという話です。二日休むのと三日休むのとでは回復力が違いますし、それも一案だと思うのですが、その上で僕が「水曜日を休みに」と言うのは、ハレの日とケの日を分けないという考えからなんです。つまりキラキラした休日を過ごすために、労働者として暗黒の平日を生きるというのではなく、ウィークデーにも自分なりの楽しみをもって、自分で自分の暮らし方や働き方をデザインしていきましょうよと。それで週の真ん中の水曜日を休みにするという、休日と平日の境目がなくなるような提案をしているんです。
    ──一方では、「水曜日しか働かない」とか、「水曜日すら働かない」と言っておられます。仕事とは、宇野さんにとってどのようなものですか。
    宇野 そうですよね(笑)。そういう意味では、僕は世界とのチューニングがうまくいっている方なのかもしれません。休日に、旅行に行くとか、映画館に行くとか、そういう時間の使い方も時にはしたいけど、もっと何でもないことをして過ごしたい。まず午前中に街を走って、お昼は少しも妥協せず好きなものを食べて、お風呂に入って一休みした後に、好きなカフェで書き物をしたいんです。そして夜は好きな本を読んだり、映画を見たり、模型を作ったりして就寝するというのが、僕の理想の休日です。僕にとって仕事の一部である執筆が、休日にしたいことの一つでもあるんですよ。
     もともとサブカルチャー批評から出発しているので、社会に物申したいとか、著述業で有名になりたいというのではなく、この作品の素晴らしさを世界に訴えられなければ討死!! みたいな、若者特有の思い込みに駆動されていた時期がありました。自分の外側にある大事なものへの愛を追求した結果として、社会と接続することになったんですよね。若い頃はそれが生きづらさでもあったけど、四十歳を過ぎてこういう社会との繫がり方もありなんだと思えるようになった気がします。
    ──「水曜日は働かない」もそうですが、目次に「ない」「ない」「ない」と、否定が並ぶのが面白いですね。「マラソン大会は必要ない」けど他に大事なものがあるとか、「僕たちに酒は必要ない」けど代わりに必要なものがあるとか。引き算のうまさを感じました。 
    宇野 世の中には、誰かや何かを排除することでメンバーシップを確認したり、自分がマジョリティの側にいることを確認して安心するという、分断を生む否定が多すぎる気がしています。僕は引き算は、気軽に物事を始めるために使うべきだと思うんです。たとえば社会人のキャリア相談や大学生の就職活動セミナーでは、自分のやりたいことをみつけて、夢に向かって目標を立てて邁進しなさい、というようなことを言われます。でもそれでは何かを始める前に、足し算、足し算で息苦しくなると思うんです。そうではなくて、いやいや飲み会に行くのを止めてみませんかとか、親に言われたからって持ち家を買うことを、必ずしも考えなくていいんじゃないですかとかね。そうすべきと思われていることを一回やめてみると、社会との間に距離ができて、自分の中に余裕が生まれます。その余剰で、自分に必要な何かを足すことが、初めてできるのではないかと思うんです。
    ここからどこにでも行けると思えるメディアを
    ──「僕たちに酒は必要ない」の「リア充」の使い方も面白く気になりました。「リア充」とは充実した私生活を送る人への羨望と揶揄が入り混じるような言葉かと思います。宇野さんが敢えて、これからリア充自慢をしますと宣言し、その先で、ソーシャルメディアに動員されない生活の楽しみや新しい文化の発見について語るのを、面白く読みました。
    宇野 「飯の友の会」の話ですね。僕が主宰するPLANETS CLUBでは、勉強会の他、メンバーが自主的に企画して、皆で軽井沢へ走りに行ったり、美術展に行ったりすることもあります。そもそも僕はコミュニティが苦手な性質ですが、それでも大人同士が趣味を通じて楽しく過ごす回路を、この社会の中に作ることは意味があるのではないかと思うんです。誰でもちょっとした前向きさがあれば、日常に充実した楽しみを発見できることを示したかったし、「リア充」に対してエクスキューズとわかる書き方をすることで、笑い飛ばしていい言葉なんだと示したかった。あるいはエクスキューズを入れなければ揶揄されるような世の中って嫌だよねとか、そんないくつかの意図を込めています。
    ──雑誌『モノノメ#2』の話になりますが、「観光しない京都2022」の、久世橋の話が響きました。久世橋という観光的にはなんでもない場所に、宇野さんはいつも来たくなるのだと。「この場所は僕にいつも、自分はここからどこにでも行けるのだと思わせてくれた」。「ここからどんな場所にも、物事にもつながっていく。そう思えるメディアをつくりたいと自分は思っていたのだ」、この言葉にハッとさせられました。
     見田宗介さんは若い頃、「アンチテーゼは一見フレッシュでオリジナルに見えるけれど、それはただの流行商品で、ネガティブな思想は結局弱い」と語っておられます。現状を捉えながら常にその先を示そうとされたようです。見田さんの思想と同じワクワク感を、久世橋についての宇野さんの言葉にも感じました。
    宇野 何でこの橋が好きなのか、自分でも長いこと不思議に思っていました。京都に住む直前は、北海道にいたのですが、北海道では隣町に行くのに半日かかるから、覚悟を決めて出かけないとならないんです。京都に越して、隣の町に日帰りで行けるという感覚が、新鮮に蘇りました。そういう感覚と相まって桂川の水脈が──鴨川と木津川、その先で淀川に合流し大阪湾へと注ぐのですが──自分はどこにでも行けるのだと思わせてくれたんですよね。
     久世橋は、本当に何でもない橋です。でも「イナイチ」と通称される、京都から阪神に抜ける国号171号線にかかる橋だから、地元の人はみな知っています。あの橋が何かの理由で不通になると、京都の物流はまずいことになる。久世橋は、ハブなんです。
     ぶらぶら散歩していて楽しいとか、カフェでゆっくり本を読みたいのは、京都中心部の鴨川付近です。でもメディアの仕事は、久世橋的でなくてはならない。これには自戒も込めていて、『モノノメ』は責任編集の個人のカラーの強い媒体なので、どうしても僕の理想の世界を見せるようなものになっていくんです。それがよさでもあると思うのですが、いかにも「宇野らしい」というような予定調和に落とし込むことは避けたい。雑誌であるからには、結論が出ずに判断が保留になっているものとか、当りか外れかまだわからないけど、何か予感を抱かせるものを、積極的に入れていかなければならない。そう思っています。
    共進化と無関心的歓待の公共空間
    宇野 見田宗介さんの話が出ましたが、『群像』七月号から「庭の話」という連載を始めました。それには、見田さん=真木悠介さんの『自我の起原』から引用しています。この本は進化生物学のリチャード・ドーキンスにインスパイヤを受けた、真木さんのロマンチックな哲学が展開するもので、もっともめざましい高度な共進化の例として、ミツバチとクローバーの関係が挙げられています。何が素晴らしいと言って、花は自分の繁殖のために、虫という異種を誘惑するようにできているんです。そして認知能力が優れている人間は、その高度な共進化の豊かさについて理解し、だからこそ花を美しいと思うのだと言うわけです。そうした想像力がなければ、遺伝子を残すことに直接貢献しない、宗教や文化といった社会的活動を、人間が持つことはありえない。人間には花を美しいと思える回路があるからこそ、宗教や文化が展開するということになります。僕はこの見田さんの考え方が好きなんです。
     現在の情報社会では、同種を誘惑し合うゲームに多くの人が勤しんでいます。そのことが物事に対するアンテナを低くしてしまっている。人間を人間たらしめるのは、同種間の相互評価のゲームを超えたところにある、むしろ自己滅却の欲望とか、究極的には死への想像力みたいなものなのではないか。人間の認知能力は、自己の保存の快楽と同時に、他者による自己の解体の快楽も理解することができる。「花」的コミュニケーションの多様な豊かさは、表現に関わる人間として忘れてはいけないと思っています。
     人間同士の相互評価のネットワークの外にあるのは、モノやコトです。それは時に久世橋であり、ウルトラマンの怪獣フィギュアであり、東京の森のカブトムシ採集であるわけですが、物事にしっかり接続されたメディアを作ることが、僕のポリシーです。
     多くの人が、人の顔色を見て発言しすぎているし、タイムラインの潮目を読んでいるだけで、物事そのものを語っていない。物事そのものに接続しないと、思考は鈍り、世界はどんどん平板で狭くなっていくんです。
     
  • 勇者シリーズ(2)「ぼくらも勇者になれますか」|池田明季哉

    2022-11-15 07:00  
    550pt

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。前回に引き続き、「トランスフォーマー」のローカライズが「勇者シリーズ」へ継承したものについて考察します。今回大きく取り上げるのは「勇者シリーズ」開始直前、1989年から放送された『トランスフォーマーⅤ』です。
    【イベント情報】11月25日(金)19時〜青山ブックセンター本店(渋谷)にて、宇野常寛が浅生鴨さんと対談します。題して、“それっぽい「いい話」と、この悪いやつを叩き潰せという怒号にあふれたこの世界を生きるために、「情報」との付き合い方をもう一度考えてみよう”。浅生さんの新刊『ぼくらは嘘でつながっている。』&宇野の新刊『砂漠と異人たち』の発売記念イベントです。たくさんの方のご参加をお待ちしています!お申し込みはこちら。
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(2)「ぼくらも勇者になれますか」
    頭、動力、脳
    「トランスフォーマー」から「勇者シリーズ」への継承を語るうえで欠かせない、『トランスフォーマー 超神マスターフォース』(1988)で提示されたジンライ/スーパージンライ/ゴッドジンライという「グレート合体」による主体の拡張の構図は、その後も引き継がれていく。
    1989年に展開された『トランスフォーマーV』では、「マスターフォース(パワーマスター)」の代わりに「ブレインマスター」と呼ばれる概念が登場する。基本的な玩具の仕様そのものは、乗り物がロボットに変形、乗り込んでいた小型ロボットが合体して完成するというもので、これはヘッドマスター/パワーマスターをほぼ踏襲している。最大の差は、ヘッドマスターが頭部、パワーマスターが胸部であったのに対して、ブレインマスターは「顔」になることだ。
    小型ロボットの胴体には、大型ロボットの顔が収納されている。大型ロボットの胸に小型ロボットを収納、ハッチを閉じることによって、大型ロボットの顔がスライドして登場するという仕組みになっている。表面的には顔が登場するように見えるが、空洞の頭部に変形した小型ロボットが収まる様子は、なるほど「脳」も思わせる。ヘッドマスターでは大型ロボットの顔は、小型ロボットの背中に露出したままであった。それを考えれば、大型ロボットの顔が完全に内部に収納され合体するまで隠されたままとなるブレインマスターは、玩具としてはストレートな発展型といえる。
    「ブレイン」というモチーフについては確認しておきたい。前段の「マスターフォース」では、「精神」「知性」に重きを置く世界観が西洋的であり、そこに「魂」という日本的な概念を導入した点に注目した。その意味ではブレインマスターは、一見西洋的な色彩が濃く、トランスフォーマーとしては原点回帰であるようにも見える。しかしヘッドマスターにおいては海外版の設定が主体と身体の関係についてかなり工夫をこらした(悪く言えば無理がある)ものであったことを思い出しておきたい。この文脈では、ブレインマスターはむしろ「小型ロボットがビークルと合体して大型ロボットになる」「主体と身体が一致していない」日本版ヘッドマスターの設定を引き継いでいると言えるだろう。
    ブレインマスターを中心に置いた『トランスフォーマーV』の主人公となるのが、サイバトロン司令官スターセイバーである。ジンライ同様、多段階に合体する構成の玩具となっており、小型ロボットであるブレインマスターが、SFジェットと合体、中型ロボット「セイバー」となる。そしてこれが強化ブースターと合体することで大型ロボット「スターセイバー」を構成する。さらに2号ロボ・ビクトリーレオと合体することで、「ビクトリーセイバー」へとパワーアップする。1989年に発売されたスターセイバーは、記録的な大ヒット商品となった。

    ▲スターセイバー。完成度が高く大ヒット商品となった。 『トランスフォーマージェネレーション デラックス ザ・リバース:35周年記念バージョン』(メディアボーイ)p53
    「0号勇者」としてのスターセイバー
    この大ヒットが後に続く勇者シリーズに多大な影響を与え原型となったという意味で、『トランスフォーマーV』はファンのあいだで「0号勇者」と呼ばれることがある。一般には、合体によるパワーアップを主軸に据えた玩具としての仕様やデザインの方向性、2号ロボとのグレート合体、アニメーション作品と連携した体制、地球人の少年と絆を深めるドラマなどが確立されたとされる。ただ、こうした要素は前作のジンライの時点ですでに見られたものだ。にもかかわらず、なぜスターセイバーがそのエポックとして語られるのだろうか。
    もちろん、デザイナーに以降勇者シリーズを手掛けることになる大河原邦男を起用したことや、デザインが既存のトランスフォーマーのキャラクターを参照していない新規のものであることなど、さまざまなところに差異を見つけることはできる。しかしこの連載では、理想の成熟のイメージの変遷としてこれを捉える。すなわちジンライからスターセイバーに至った段階で、そのまとう「かっこよさ」のイメージが変化し、そのイメージこそが勇者シリーズに引き継がれたのだと、そのように考えたい。
    それを象徴するポイントはふたつある。ひとつは「剣」というモチーフ、そしてもうひとつは「子供」との関係だ。
    アメリカと銃、日本と剣
    前作の主人公であるジンライは、もともと「パワーマスターオプティマス」として開発された玩具に対して、日本独自のバイオグラフィを与えたキャラクターであった。そのためトラックドライバーを生業とする若者であり、やや粗野なところを持ちながらも頼れる兄貴分というジンライのキャラクターは、オプティマス・プライムが象徴するアメリカン・マスキュリニティをベースとした再解釈であった。
    対してスターセイバーは大河原邦男がデザインを手掛け、最初から日本市場独自のキャラクターとしてデザインされている。ホワイトとレッドをベースにし、ブルーとイエローをバランスよく配置した清潔なトリコロールは、極めて日本的な感覚の配色と言ってよいだろう。キャラクターとしてのスターセイバーは、普段は穏やかでありながら、いざとなれば勇敢に戦う司令官として描かれる。ジンライと比較すると、スターセイバーのこの態度は騎士道的あるいは武士道的な道義を思わせるものだ――というのは、現段階ではいささか目の粗い議論に聞こえるかもしれない。しかしこれまでのリーダーたちが銃を主な武器としてきたのに対して、スターセイバーが剣を持ち出してきたことと関連づければ、興味深い見方ができるようになる。
    トランスフォーマーは全体的に銃を武器とするケースが多いが、剣を持つキャラクターがまったくいなかったわけではない。正義のサイバトロン/オートボット陣営においてはグリムロックなどダイノボットたちが、悪のデストロン/ディセプティコン陣営においてはブリッツウィングやメナゾールなどが剣を武器としてきた。しかし、前者は原始の力を持つ粗野な存在として描かれるし、後者については悪役であった。理想の成熟を担うべき「正義の味方」が、その象徴的な武器として「剣」を持つというのは、少なくともトランスフォーマーの価値観においては稀であると言ってよい。すなわち、トランスフォーマー文化においては、精密な近代工業製品である銃こそが正統な武器であり、おそらく剣は中世的で野蛮な近接武器と見なされてきた。
     
  • 社会構想のための哲学的思考|苫野一徳(後編)

    2022-11-08 07:00  
    550pt

    おはようございます。今朝のメルマガは、哲学者・苫野一徳さんの特別寄稿の後編をお届けします。政治利用されるフェイクニュース、コロナ禍で生じたインフォデミック、情報過多が混乱を招き続ける現代社会で、他者との「対話」はどのようになされるべきか。哲学者の苫野一徳さんに、現象学をキーワードに論じていただきました。(初出:『モノノメ #2』「社会構想のための哲学的思考」)
    本稿の掲載された雑誌『モノノメ #2』(特集「『身体』の現在)は、PLANETS公式オンラインストアでお求めいただけます。詳しくはこちらから!

    7.「自由意志」をめぐる擬似問題
     前編で述べたように、近年、「自由意志など本当にあるのか?」というテーマへの関心が高まっている。これまでの議論の応用問題として、ここで少し回り道をして、このテーマについてもしばし考えてみよう。  結論から言えば、この問いは、現象学的にはそもそも問いの立て方を誤った擬似問題である。  「自由意志」なるものが実体として存在しているのか否か、そんなことは決して分からない。科学がその仮説的な探究を続けることには価値があるが、この問いに絶対的な答えを与えることは決してできない。ましてや、その答え──「事実」(とされるもの)──から何らかの「当為」を導くようなことは許されない。たとえば、「自由意志など存在しない。したがって、自己責任の概念は廃棄されなければならない」といった。  実体としての「自由意志」を否定することで、昨今の過剰な「自己責任論」の向こうを張ろうとする動機自体は健全なものだ。しかしこの論法は、二重の意味で間違っている。改めて言えば、まず「自由意志」があるかないかという、決して答えることのできない問いの設定をしている点において。もう一つは、「自由意志など存在しない」という仮説的「事実」から、自己責任概念を解体すべきであるという「当為」を導出している点において(その論調には、自己責任論をいくらか解体すべきであるというものから、全面的に解体すべきであるというものまで、さまざまなバリエーションがある)。  わたしたちが問うべきは、むしろ次のような問いである。「自由意志」などが実体として存在するのかどうか、そんなことは分からない。しかしそれでもなお、わたしたちには、自分や他者のある行為が「自由意志」によるものだと確信・信憑することがある。わたしはいま、自らの意志でこの原稿を書いていると確信している。もしかしたらだれかに操られているのかもしれないし、あるいは脳神経がわたしの意志とは無関係にわたしを動かしているのかもしれないが、そんなことはどうしたって分からない。わたしには、わたしがいま自分の意志でこの原稿を書いているという確信・信憑がある。  「自由意志」をめぐる現象学的な問いの立て方は、「自由意志」はあるかないか、ではなく、「自由意志」を共通に確信・信憑しうる条件は何か、なのだ。とするなら、わたしたちは、いついかなる時に、どのような責任を個人(の意志)に帰することができるのか、またできない(すべきでない)のか、その〝共通了解〞もまた──むろん絶対的な着地点などあり得ないにしても──見出し合い続けることができるようになるのである。
    8.人間はアルゴリズムか?
     「自由意志」をめぐっては、これを否定することで自己責任概念を解体しようとする思想とはまた別に、同じくこれを否定することで、人間の明確な意志による社会構想を否定しようとする思想もある。  ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』は、現代の生命科学の「包括的な教義」を次のように述べている。「科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ」と。  わたしたちが何かを見、感じるのは、まるで機械のような生命アルゴリズムに従った行為であって、それゆえその認識のありようは、「遺伝子と環境圧によって形作られ、決定論的に、あるいはランダムに決定を下すが、自由に決定を下すことはない」。  もはや言うまでもなく、このような「教義」は、わたしたちには決して確かめることのできない仮説である。むろん、生命のアルゴリズム発見に向けた研究は、科学的な仮説の領域における重要な仕事ではある。しかし問題は、それが科学的な仮説探究の枠を超え出て、社会構想の土台を築こうとする時に生じる。  ハラリは、人間がアルゴリズムにすぎないのであれば、よりすぐれたアルゴリズム──端的にはAI──が社会を管理支配することには何の問題もないとする「データ至上主義」の思想を『ホモ・デウス』後半部において詳しく紹介しているが、これは典型的な「事実」(とされるもの)から「当為」を導出する思考法である。データ至上主義は、「わたしたちはそのような生、社会を欲するか?」(社会の大部分がAIに管理されることを欲するか?)という問いを顧みることなく、不確かな「事実」(とされるもの)を社会構想の根拠としてしまっているのだ。これもまた、先に見た通りの二重の誤りを犯した論法である。  データ至上主義は、「いやいや、わたしたちがどのような生、社会を欲するかというその欲望自体が、じつはアルゴリズムなのだ」と言うだろう。しかしそのことを、わたしたちが絶対的に証明することは決してできない。社会構想に限らず、哲学はつねに疑いの余地のない〝思考の始発点〞から始めなければならない。このテーゼを、改めて思い起こそう。  生命体アルゴリズム説は、科学の装いをまとった新しくて古い典型的な「本体」論──この世を統べる何らかの絶対的な真理(本体)があるとする説──である。どれだけ最先端科学の知見に彩られていようと、これは、すべてはじつは神によって決定づけられているのではないかという、はるか古代から続く思想の焼き直しにすぎないのだ。  そのような〝フィクション〞を、わたしたちが社会構想の一番の底板とすることなどできるだろうか?
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  • 社会構想のための哲学的思考|苫野一徳(前編)

    2022-11-01 07:00  
    550pt

    おはようございます。今朝のメルマガは、哲学者・苫野一徳さんの特別寄稿をお届けします。政治利用されるフェイクニュース、コロナ禍で生じたインフォデミック、情報過多が混乱を招き続ける現代社会で、他者との「対話」はどのようになされるべきか。哲学者の苫野一徳さんに、現象学をキーワードに論じていただきました。(初出:『モノノメ #2』「社会構想のための哲学的思考」)
    本稿の掲載された雑誌『モノノメ #2』(特集「『身体』の現在)は、PLANETS公式オンラインストアでお求めいただけます。詳しくはこちらから!

    はじめに
     この20年あまり、人類史や、人間存在そのものを根底から問い直すことへの関心が、年々、高まりつつあるように見える。  たとえば、宇宙開闢から現代までの歴史を、特定の専門分野を超えて探究する「ビッグ・ヒストリー」の勃興。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(1997年)に始まり、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(2011年)を一つの頂点とする、世界的なベストセラー現象。その間にも、あるいはそれ以後にも、人類史や人間存在そのものの問い直しという動機に貫かれた著作は、枚挙にいとまがない。  最近刊行された、オランダの若き歴史学者、ルトガー・ブレグマンの『Humankind ──希望の歴史』(2020年)は、人間は生来において利己的であり暴力的であるとする人間観を、ことごとく破壊した著作である。近代の経済学や心理学、歴史学をはじめとする学問において常識とされてきた、利己的な人間像、いや、もっと古くは、キリスト教の原罪説から連綿と続く悲観的な人間観を、ブレグマンは種々の論拠をもって反駁する。そして、人間は生来、じつは他者に対して友好的な存在なのではないかと問いかける。  日本に目を向ければ、国家と資本主義を揚棄し、「互酬性の原理」を──太古におけるそれをより高次にした形で──回復せよと訴える柄谷行人の『世界史の構造』(2010年)や、斎藤幸平のベストセラー『人新世の「資本論」』(2020年)などがすぐに思いつく。いずれも、来るべき社会のビジョンを提示しようとする試みである。  木島泰三の『自由意志の向こう側』(2020年)にその動向は詳しいが、人間に「自由意志」などあるのかという、いかにも古臭い問いに、いままた哲学的、科学的注目が集まっている背景にも、ブレグマンと同様、「利己的」な人間像を突き崩したいという動機があるのかもしれない。いや、むしろよりラディカルに、近代的な「主体性」の概念を脱構築したい動機と言うべきだろうか(「主体」の解体というテーマ自体は、いわゆるポストモダン思想の、すでに半世紀以上続いてきた一つの決まり文句ではあるが)。わたしたちは、自由意志を持ち、主体的にこの世界を開拓しうる存在ではなく、いわばもっと大きな〝自然〞の一部に過ぎないのではないかという、人間存在の問い直しである。
    1.有限性の時代
     かつて見田宗介は、カール・ヤスパースの言う「軸の時代」になぞらえて、現代を「軸の時代Ⅱ」と呼んだ。*1「軸の時代」──見田が「軸の時代Ⅰ」と呼び直すもの──とは、いまからおよそ2500年前、ソクラテスやプラトンをはじめとするギリシア哲学や、孔子や老子に代表される中国思想、そしてユダヤ教や仏教など、「普遍思想」が世界同時多発的に発展した時代のことである。  その特徴を、見田は「無限性」の発見に見る。この時代、とりわけ貨幣経済の開始と発展を背景に、人類は、それまでの限定的な部族生活からより広い世界へと飛び出していくことになった。そしてその結果、人びとは世界が「無限」であることを知るに至ったのである。それはある種の〝おののき〞を伴う発見でもあった。  しかしそれから2500年、人類は、この「無限」の世界をほぼ開拓し尽くした。そしてついに、新たな局面に到達した。すなわち、世界は「無限」などではなく、じつは「有限」であったことを知るに至ったのである。いま、わたしたちは新たな〝おののき〞の中にいる。人類史における新たな時代、すなわち「軸の時代Ⅱ」の始まりである。「無限性の時代から有限性の時代へ」。10年以上前に見田が論じたこの人類史的転換は、当時においてもほとんど〝常識〞的な見方ではあったが、今日ではいっそうグローバルな〝常識〞となった。経済成長の限界や世界的な格差の問題、すなわち資本主義の限界もそうだが、とりわけ地球環境の限界は、いまや小中学校においてさえ日常的に議論されるテーマである。  だれも確かな先を見通すことのできない、このような時代においては、人類史の問い直しに加えて、人間存在そのものの問い直しもまた、喫緊の課題として認識される。いや、むしろ、人類史の問い直しを一つの方法として、人間存在そのものが問い直されることになる、と言った方が正確だろうか。「無限性」の時代において、人は己の欲望の赴くままに、世界を切り開いていけばよかったかもしれない。しかし「有限性」の時代において、わたしたちはもはやそのように生きることはできそうもない。ならば人間は、これから、自らの利己的な欲望をいっそう制御せねばならないのではないか? いや、もしかしたら、人間は本当のところ、生来、利他的な存在なのではないか? 奪い合うのではなく、分かち合うことのできる存在なのではないか? 人類同胞に対しても、わたしたちを取り巻く自然に対しても。
    2.「事実」から「当為」を直接導出する誤謬
     しかしこうした問い直しのブームの中で、わたしは哲学者として、長らくある問題を感じてもいる。人類史や人間存在を根底から問い直そうとする論者たちの多くは、ひょっとして、ある思考の罠に陥ってしまってはいないだろうか、と。少なくとも、より原理的で強靭な哲学的思考を、わたしたちはもっと十分に自覚し共有すべきなのではないか。人類の叡智がこれまで以上に問われるいまだからこそ、わたしは、これからの人間のあり方や社会を構想するための根底をなす思考の方法をこそ、問い直したいと思うのである。  というのも、多くの論者が依拠、あるいは前提しているのは、かつてマックス・ヴェーバーが社会構想において禁じ手とした、「事実」から「当為」を直接的に導く思考法であるからだ。*2おそらくは、ほとんどの場合、無自覚に。  ある「事実」(とされるもの)を根拠に、「当為」(〜すべし)を直接導出するこの思考法には、極端な例として次のようなものがある。「○○民族は劣等民族である。したがって、殲滅されるべきである」。「重大犯罪を犯す者の脳には、ある共通構造がある。したがって、そのような脳構造を持った者を子どものうちに見つけ出し、あらかじめ矯正教育を施すべきである」。「学業成績の個人差のうち、約50%が遺伝の個人差で説明される。したがって、優秀な遺伝子を持つ子どもを前もって選び出し、国家の教育予算の大半をその子たちの教育に充てるべきである」……。  一見してこの思考法の危険性は明らかだが、単なる危険性だけでなく、この論法には三つの原理的な誤りがある。  一つは、そもそもこの「事実」なるものを、絶対に正しい「事実」と主張することはできないという点である。あらゆる科学的言説が仮説である以上、その事実を絶対的に確証することは不可能である。「○○民族は劣等民族である」などと、わたしたちはいったい何を根拠に言い切ることができるだろうか。  二つは、万が一この「事実」が正しいと言えたとしても──再び、それは原理的に不可能なことだが──だからと言って、その「事実」だけを根拠に、たとえば「○○民族」や「ある脳構造を持った子どもたち」の自由が抑圧されることを正当化する理由にはならないという点である。そもそも、「事実」なるものは無数に存在する。その中から、なぜある一つの「事実」だけが特権化され、しかも当の人びとの欲望や意志に反した当為を強要することが許されるのか。  三つ目の誤りは、そもそも論理的に言って、このような「事実」と「当為」の関係そのものが、きわめて恣意的であるという点である。「○○民族は劣等民族である」から、なぜ、「したがって、殲滅されるべきである」が直接導出されるのか。なぜ、「したがって、守られるべきである」や、「したがって、教育の機会が保障されるべきである」ではないのか。両者の結びつきは、論者が何を主張したいかによって、いくらでも恣意的に操作できてしまうものなのだ。  むろんわたしは、来るべき未来社会を構想する近年の論者たちが、ここまでナイーブな議論をしていると言いたいわけではない。しかし多くの場合、その論の立て方は、つきつめれば「事実」から「当為」を導出するものなのである。少なくとも、そのことに十分に自覚的でなければ、社会構想のための言説は説得力を持ち得ないし、時に大きな危険性さえはらみかねない。  いわく、「地球環境はもはや限界を迎えている。したがって、資本主義を揚棄せねばならない」。「人間は、そもそもにおいて互酬的な存在である。したがって、互酬性の論理で社会を作り直すべきである」。「人間は、生来、他者に友好的な存在である。したがって、そのことを前提に社会を構想すべきである」。「自由意志など存在しない。したがって、自己責任論は廃棄されなければならない」……。  これらの言説は、結論自体にはいくらかの妥当性がないわけではないかもしれない。しかし論理的には、先に見た脆弱性と危険性をどうしても免れない。  わたしの考えでは、これらの結論は、本来、次の問いに必ず支えられなければならない。すなわち、「わたしたちは本当にそのような生、社会を欲するのか?」。さらに、「もし欲するのであれば、それを可能にする条件は何か?」。  これらの問いをないがしろにした時、わたしたちは、ある「事実」(とされるもの)を前提としたいわば「全体主義」と、隣り合わせの思想を掲げてしまうことになりかねない。すでに、環境保護活動等に対する「環境ファシズム」との批判も見聞されるが、これは当の活動家たちにとっても不本意な批判と言うべきだろう。しかし「事実」から「当為」を導出する思考法に無自覚に依る限り、このような批判は残念ながらつねに妥当性を持つ。  他方、「わたしたちはどのような生、社会を欲するのか?」という問いは、「事実」から「当為」を直接導く思考法とは決定的に異なるものである。ここで言う「事実」が、その正しさを原理的に証明し得ないものであるのに対して、「わたしたちはどのような生、社会を欲するか」については、わたしたちが自らのうちで必ず確かめることができるものであるからだ。したがってわたしたちは、無自覚の独善に陥ることなく、自らの欲する社会のあり方を、互いに問い合い、確かめ合いながら、探究していくことができるようになるのである(この思考法の原理性については、後でさらに詳しく論証することにしたいと思う)。  そんな悠長なことが言ってられるか。そう、思われるかもしれない。確かに、わたしたちが欲する社会のあり方を、各々がゼロベースで対話するとなると、時間はいくらあっても足りないだろう。  しかしだからこそ、哲学が、長きにわたって叡智の数々を蓄積してきたのだとわたしは言いたい。しかも後述するように、その最も原理的な〝答え〞は、すでに哲学史において一定の水準で見出されているのだ。わたしたちはいったいどのような生、社会を欲するのか? この問いについては、人類が血で血を洗う争いの果てにつかみ取った〝答え〞がすでに示されている。ならばその原理の上に乗り、わたしたちは今日的課題を力強く乗り越えていくべきなのではないか。むろん、この原理(答え)の妥当性それ自体もまた、たえず吟味し直しながら。  今日的課題。たとえば、地球環境の危機は、確かにすでに「待ったなし」なのかもしれない。利己的な人間を前提とした資本主義社会は、もはや限界なのかもしれない。しかしそれでもなお、わたしたちは、そのような「事実」(とされるもの)を特権化し、そこから「当為」を直接的に導いてはならない。むしろ、これら「事実」(とされるもの)を一つの思考の材料としつつ、より根源的には、「わたしたちは本当に資本主義の揚棄を望むのか?」「地球環境への配慮を最優先とした世界を望むのか?」「自己責任論を廃棄した社会を望むのか?」そして何より、「そもそもわたしたちはどのような社会を欲するのか? それを可能にする条件は何か?」と問い合う必要があるのだ。  社会運動は、それとは異なる価値観の持ち主の目には、時に「独善的正義」の押し付けに映りかねない。19世紀の哲学者ヘーゲルは、『精神現象学』において、そうした正義の人を「徳の騎士」と呼んだ。確かに、正義の人ではある。しかし一歩間違えれば、それは異なる価値観の持ち主を正義の名の下に断罪し攻撃する、独善的な騎士に成り下がってしまうのだ。  事を動かすには、時にそのような運動力学も必要なのかもしれない。しかし少なくとも、学的言説においては、そのような力学は禁じ手とされなければならないとわたしは思う。いや、運動の論理においてさえ、それが真に共通了解可能なものであることを志すなら、わたしたちは次のような対話を重ねる必要があるのではないか。「わたしたちが欲するのは、このような生、社会ではありませんか?」「もしそうなら、それを可能にする条件を考え合いませんか?」。たとえ明示的ではなかったとしても、未来社会構想においては、このような思考法や対話法をこそ、根底に敷き続ける必要があるのだ。
    3.条件解明型の思考
     先述したブレグマンは、『Humankind ──希望の歴史』において、「トマス・ホッブズの性悪説VSジャン=ジャック・ルソーの性善説」という問いを立てた上で、最終的にルソーに軍配を上げている。  ホッブズは、人間は生来、利己的で暴力的な存在であると考えた。それに対してルソーは、人間は生来、利他的で他者に対して友好的な存在であると考えた。ブレグマンに限らず、これは世間一般の通説であろう。  ブレグマンの狙いは、科学的に示された、利他的で友好的な人間という新たな人間像を提示することで、来るべき未来社会を、より利他的で寛大なものとして構想することにある。そのような社会構想のための対話へと、人びとを誘うことにある。  わたしたちは長らく、人類は生来において悪であるという思い込みのために、予言の自己成就よろしく、この社会を必要以上に利己的なものにしてしまったのではないか。そのようなノセボ効果──プラシーボ効果の反対の効果──を、働かせてしまったのではないか。そうブレグマンは言うのだ。  ブレグマンの目論見は、十分に成功しているようにわたしには思われる。スタンフォード監獄実験や、ミルグラムの電気ショック実験など、人間の生来的な利己性や暴力性を明らかにしたと称するさまざまな研究を、説得力ある論拠をもってことごとく破砕し、むしろその反対の結論を導いていく筆致は見事であるし、痛快ですらある。何より、とにかく刺激的な面白い本である。  しかしその一方で、ブレグマンが、ホッブズを性悪説、ルソーを性善説と単純化してしまった点に、わたしはある問題を見出さずにはいられない。ブレグマンの功績からすれば、それは些細な問題と言うべきかもしれない。しかし別の見方をすれば、きわめて重大な問題だとも言える。というのも、この問いの立て方は、ホッブズとルソーの哲学の、最も重要な本質を見誤らせてしまうものであるからだ。そしてその本質こそ、「事実」から「当為」を直接導く思考とはまるで異なる、真に鍛え抜かれた哲学的思考法なのである。  「わたしたちはどのような生、社会を欲するか? それを可能にする条件は何か?」  先述したこの思考法こそ、ホッブズやルソーにおいて貫かれているものなのである。  『エミール』(1762年)の有名な冒頭において、ルソーは、「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」と、確かに一見、性善説らしきことを言っている。しかしこれは、作品の冒頭で「神」への敬意をルソーなりに表したというにすぎず、彼の諸著作をつぶさに読めば、その思想の本質が、この箇所にはほとんどないことは明らかである(言うまでもなく、当時のヨーロッパにおいて神の存在は大前提である。ただしルソーは、それをキリスト教の神とはいくらか違うものとして描き出したために、カトリック、プロテスタント双方から敵視され、『エミール』は発禁処分に、さらに彼自身にも逮捕状が出され、逃亡生活を余儀なくされることになるのだが)。  ルソーの思想の本質は、人間は生来、善か、悪か、などと問うところにはない。そうではなく、どのような条件を整えれば人は善(他者に対して友好的)となり、またどのような条件を整えれば悪(他者に対して攻撃的)となってしまうのかと問うものなのである。 同じく『エミール』において、ルソーは、人間は「自己愛」を持つ存在だが、そのこと自体は善でも悪でもないと言う。むしろ、どのような条件が整えばこれが過剰な「自尊心」となり、他者に対する攻撃性を生んでしまうのかと問うのである。それはたとえば、過度の比較や競争の中に投げ入れられ続けることで起こることであると彼は言う。  あるいはまた、人間は他者への「あわれみ」を持つ存在だが、やはりそのこと自体は善でも悪でもない。ルソー主義者のロベスピエールがフランス革命においてそうしたように、虐げられた者(貧者)への「あわれみ」が絶対化された時、それは支配する者たち(王侯貴族)の虐殺を正当化するだろう。その一方で、もしもわたしたちが、身分的、人種的、経済的格差を縮小し、「対等な人類」という感度をいっそう共有することができたなら、わたしたちの持つ「あわれみ」の感情は、多様な他者への「思いやり」として、より広範囲に広がっていくことになるだろう。  ホッブズも同様だ。彼が、人間は自然状態においては「万人の万人に対する戦争」状態に陥ってしまうと言ったのは、人間は生まれつき暴力的で利己的であることを主張したかったからではない。統治が十分でなく、人びとが生存や生活の不安を抱えるところにおいては、すなわち、全面的な不安競合という条件下においては、暴力原理が発動してしまうことを主張したのである。  これをわたしは、哲学的思考の初歩にして、また同時にきわめて重要な、「条件解明型の思考」と呼んでいる。*3わたしの見るところ、ホッブズもルソーも、このことにきわめて自覚的である。  さらに重要なのは、ホッブズもルソーも、社会構想の土台に、「わたしたちはどのような生、社会を欲するのか」という問いを置き、そのような社会を実現するための条件を明らかにしようとした点である。ホッブズは、もしもわたしたちが「万人の万人に対する戦争」をなくしたいと欲するのであれば、どのような条件を整えればよいかと問うた。*4ルソーは、もしも人間が「自由」に生きることを欲するのであれば、どのような条件を整えればよいかと問うたのである。*5  このような「条件解明型の思考」に基づく彼らの理論について、わたしたちは、その理論を後追いして自ら〝確かめる〞ことができる。わたしたちは本当に、普遍戦争状態から脱したいと欲するのか? 本当に「自由」に生きることを欲するのか? ならばそのための条件は何か? このことを、わたしたちは自らにおいて〝確かめる〞ことができるのである。これは、同じく「社会契約説」の理論家の一人であったジョン・ロックが、人間はそもそも神から人権(所有権)を与えられているという前提──事実(と主張されるもの)──からその理論を説き起こしたのとは対照的である。
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