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宇野常寛 汎イメージ論――中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ 最終回 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」(3)
2019-09-25 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。ジャン・ジュネの論考から明らかなように、吉本隆明の「関係の絶対性」の根底にあるのは、自身の無性化、他者の風景化であり、その〈非日常〉と〈日常〉の境界を溶解する想像力は、チームラボのアートと共鳴します。父権的な〈テキスト〉の零落により、〈イメージ〉が氾濫する「母性のディストピア」に堕したインターネット。そこに投じるオルタナティブとは……?(初出:『小説トリッパー』 2019 春号 )
6 無性と風景
ここで私たちは、吉本隆明が『書物の解体学』で展開したジャン・ジュネについての論考を思い出すことができる。たとえば宇野邦一は「〈無性〉化に適するとは、自己の生理を、あるいは他者の肉体を〈風景〉とみなすことができるという、あの視線と距離とを意味している」と述べる吉本が、当時悪と同性愛の体験をナイーブに描いた〈外道の〉作家として読まれていたジュネについて人間の肉体を無性的に捉え、風景として描いた作家だと位置づけ直したと解釈する。 「意志した革命者はいつか革命者でなくなるにきまっている。なぜなら〈意志〉もまた主観的な覚悟性にすぎないからである。ただ〈強いられた〉革命者だけが、ほんとうに革命者である。なぜならば、それよりほかに生きようがない存在だからである」――これは吉本が「関係の絶対性」を主張した「マチウ書試論」の一節だ。 宇野はこの一節を引用しながら、こうした吉本のジュネ解釈背景には、道徳や性愛の境界を侵犯することは決して自由意志の選択ではなく、「関係の絶対性」の産物であるとする吉本の人間観の存在があると指摘する。 (当時のマジョリティの社会通念上の)性的な逸脱を非日常的な越境と捉える感性を、吉本は頓馬なものとして批判する。そうではなく、それは自身を無性化し、他者の肉体を風景とみなすことであり、性的なものを非日常ではなく日常の中に組み込むことなのだ。 宇野の吉本解釈は、すなわち「日常性のなかに非日常性を、非日常性のなかに日常性を〈視る〉ことができないとすれば、この世界は〈視る〉ことはできない」とまで述べる解釈は、本連載で展開した情報社会論として吉本隆明を読む視座から得られた解釈と一致する。世界視線と普遍視線の交差とは、すなわち臨死体験の比喩で吉本が予見し、ハンケらがGoogleMapで実装した新しい社会像とは、「日常性のなかに非日常性を、非日常性のなかに日常性を〈視る〉」視線と言い換えても過言ではない。そしてこの日常性の中に非日常性を組み込むために、ジュネ的な無性化が必要とされるのだ。 当時その同性愛的モチーフから〈外道の〉〈非日常の〉行為と位置づけられていたジュネの文学を、むしろ人間の肉体を無性化し、自己と世界との境界線を無化し、風景の一部にすること。非日常性を日常の中に組みこむこと。世界視線を普遍視線に組み込むこと。この無性性こそ、肉体を風景の一部にする想像力こそが、今日における有り得べき対幻想の姿を提示してくれるのではないか。後期の吉本は、「母」的な情報社会に対し楽観的にすぎた。しかし、この時期の吉本には来るべき「日常性のなかに非日常性を、非日常性のなかに日常性を〈視る〉」世界(後の情報社会)に対し、母性的なものではなく無性的なものを発見していたのだ。ここに、後期の吉本が陥った隘路を回避する可能性があったのではないか。 今日におけるフェイクニュース(イデオロギー回帰)とインターネット・ポピュリズム(下からの全体主義)の温床となる夫婦/親子的な対幻想ではない、もうひとつの対幻想――今日においてはローカルな国民国家(共同幻想)よりもグローバルな市場(非共同幻想)と親和性の高い、兄弟姉妹的な対幻想――を根拠に、いまこそ私たちは大衆の原像「から」自立すべきなのだ。そしてこのとき有効に働くのが、従来の多文化主義リベラリズム的な他者論ではなく、「語り口の問題」でつまずく(グローバルな情報産業のプレイヤー=世界市民だけを「仲間」として語りかける)カリフォルニアン・イデオロギー的(なものを誤って用いた)他者論でもなく、そのアップデートであるチームラボ的他者論ではないだろうか。自己を(比喩的に)無性化し、他者を一度「風景」と化すこと。そうすることでその存在自体を前提として肯定すること。そうすることではじめて、私たちはこの新しい「境界のない世界」に古い「境界のある世界」を取り込むことができるはずだ。「自己の生理を、あるいは他者の肉体を〈風景〉とみなすことができるという、あの視線と距離」を、チームラボのデジタルアートは私たちにもたらしてくれるのだ。
7 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」
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宇野常寛 汎イメージ論――中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ 最終回 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」(2)
2019-08-05 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。共同幻想に抗うための方策――モノによる自己幻想の強化、あるいは夫婦・兄弟の対幻想の構築は、いずれも頓挫する宿命にあります。それに対して、チームラボのアートは「他者」を読み替えることで、自己幻想の解体を試みます。(初出:『小説トリッパー』 2019 春号 )
4 あたらしい対幻想
では、チームラボの作品群は「超主観空間」をコンセプトにした初期から、「三つの境界線の消失」にいたる今日にいたるまで、いかに発展し、そして吉本の述べる「母系的な」情報社会のもたらすボトムアップの全体主義を克服してきたのだろうか。 吉本は『共同幻想論』において、対幻想のうち親子/夫婦的な対幻想に立脚することで共同幻想からの独立を説いた。しかし前述したようにこの親子/夫婦的な閉じた対幻想こそが、今日におけるボトムアップの共同幻想による「下からの全体主義」の温床となっている。 これはどういうことか。今日の情報社会において共同幻想は自己幻想、対幻想を強化するための材料として機能する。国民国家の代表する大きな共同幻想が小さな個人をトップダウンで飲み込むのではなく、自己幻想を成立させるために、もしくは対幻想を成立させるために――たとえ世界のすべてがあなたを否定しても、私は無条件であなたを肯定する、という物語が成立するために――共同幻想が素材として導入される。自己を確認するために、あるいは閉じた二者関係を強化するために、私たちは誰から強制されたわけでもなく二〇世紀的なイデオロギーに回帰するのだ。 かつて戦後の消費社会下で対幻想は――戦後的な標準家庭の核家族を支えた対幻想は――天皇主義や戦後民主主義という共同幻想に依存しない、強くしたたかな「大衆の原像」を育んだ。しかしその一方で、それは標準化された「普通」という価値観を周囲に強制し、同調圧力で出る杭を打つことで、マイノリティを抑圧し、排除するテレビバラエティ、テレビワイドショー的な「下からの全体主義」を育んだ。ここではトップダウンではなく、ボトムアップの共同幻想がイデオロギーではなく同調圧力として、日本社会を支配しているのだ。この状況に風穴を開けることを期待されたインターネットは、Twitterの登場によってテレビ的な「下からの全体主義」を補完する装置に成り下がった。こうして情報技術に支援されることで、戦後日本的「母性のディストピア」は強化温存されたのだ。 ではどうするのか。この「下からの全体主義」を生む「ボトムアップの共同幻想(大衆の原像)」から、いかに私たちは「自立」すべきなのか。たとえば糸井のアプローチは消費社会に撤退することで自己幻想を操作し、それによって情報社会――「下からの全体主義」を生む「ボトムアップの共同幻想(大衆の原像)」に流されない主体の形成を目指したものだと言える(その限界は既に指摘済みだ)。 自己幻想の操作による「大衆の原像」からの「自立」が難しいのならば、やはり私たちは対幻想の水準で考えるしかない。しかし親子/夫婦的な閉じた対幻想こそが「大衆の原像」の温床となったこともまた既に指摘済みだ。よって、私はここで吉本がかつて排除したもうひとつの、開かれた対幻想に立脚する可能性を考えたい。 それは兄弟姉妹的なもうひとつの対幻想だ。『共同幻想論』にはふたつの対幻想が登場する。一つは夫婦親子的、核家族的な「閉じた」対幻想だ。もうひとつが兄弟姉妹的な「開かれた」対幻想だ。前者は時間的な永続を、後者は空間的な永続を司る。前者は閉じているがゆえに二〇世紀的なトップダウンの共同幻想に対する防波堤になり、後者は開かれているがゆえにむしろそれと結託する(よって、前者を足場に私たちは共同幻想から自立すべき)というのが吉本の主張だった。しかし、今日において両者の関係は逆転している。今日においては、前者の閉じた対幻想こそが信じたいものを信じ(フェイクニュース)、それを守るために同調圧力(下からの全体主義)を生むボトムアップの共同幻想の温床となっている。信じたいものを信じるという態度にインスタントに承認を与えるという点において、「二者関係に閉じた」対幻想は情報技術のもたらしたポスト・トゥルースの時代との親和性が高いのだ。 対して兄弟姉妹的な「開かれた」対幻想はどうか。かつて、まだ「市場とテクノロジー」ではなく「政治と文学」で世界と個人との関係性が記述されていたころ、この対幻想はトップダウンの共同幻想=イデオロギーによって家族が捏造される(「我らが同志、すなわち兄弟!」)時代には、かんたんに共同幻想と結託し得るものだった。いや、この事実自体は今日も変わらない。しかし、現代では空間の広がりは国家のみと結託するわけではない。むしろ逆だ。今日において国家という共同幻想と結託することは、むしろローカルな既存の「家族」に引きこもることを意味する。空間的な永続を追求することは、グローバルな市場という非共同幻想的なシステム上に、そのネットワークを、「家族」を拡大することを意味するのだ。 現にグローバル化とは何かを考えてみれば良い。それは国民国家の国境の消失などではない。グローバルな情報産業が栄えるメガシティのネットワークが発達することだ。グローバルな都市のネットワーク(非共同幻想的なシステム)に、ローカルな国民国家(ポピュリズムの結果として民主的に、ボトムアップで生まれる共同幻想)がそのアレルギー反応の場として再召喚される。それが今日の世界なのだ。 連載の冒頭で紹介した、六本木の「意識の高い」IT事業者たちの語り口を思い出してもらいたい。彼らの自意識は国民国家の住人のものではなく、グローバルな市場のプレイヤーのそれだ。彼らは共同幻想を必要とせず、世界中の「兄弟」に対等な立場で語りかける。問題は彼らの語り口そのものが境界を再生産していることだ。新世界と旧世界を、境界のない世界とある世界との「境界」を再生産していることだ。 では、シリコンバレーの起業家とラストベルトの自動車工は、いかにして「兄弟」足り得るのか。それもトランプ的な国民国家という共同幻想への回帰なくしてあり得るのか。
5 更新される他者像
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宇野常寛 汎イメージ論――中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ 最終回 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」(1)
2019-07-22 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。インターネットが生み出す母系的な共同幻想からの自立。かつて吉本隆明が〈文学〉で目指し、ジョン・ハンケは〈テクノロジー〉、糸井重里は〈モノ〉によって目論んだそれを、チームラボはいかにして成し遂げたか。デジタルアートによって試みられる〈境界〉と〈視線〉へのアプローチから考えます。(初出:『小説トリッパー』 2019 春号 2019年 3/18 号 )
1 吉本隆明からジョン・ハンケへ、あるいは糸井重里へ
これまでの議論を整理しよう。今日のグローバルな情報社会の進行はいま、乗り越えるべき大きな壁に直面している。 まずグローバルには多文化主義とカリフォルニアン・イデオロギーが、排外的ナショナリズムの前に躓いている。グローバル化、情報化といった「境界のない世界」の反動として、そこから取り残された人々が民主主義という装置を用いて「境界のある世界」への反動を支持している(トランプ/ブレグジット)。 そして国内ローカルには、Twitterに代表されるインターネットの言論空間が一方では「下からの全体主義」を発揮し、テレビ的なポピュリズムを補完し下支えすることで、社会から自由と多様性を奪っている。そしてフィルターバブルに支援され、二〇世紀的なイデオロギーに回帰した心の弱い人々が他方ではフェイクニュース、陰謀論を拡散している(この現象はかたちをかえて世界各国で観察できる傾向である)。 かつて吉本隆明が唱導した「大衆の原像」に立脚した「自立」の思想は、インターネット・ポピュリズムとフェイクニュース、下からの全体主義と排外主義として、いま世界を覆いつつあるのだ。吉本がアジア的段階、アフリカ的段階へのポジティブな回帰として、肯定的に予見した高度資本主義と情報化の帰結(今思えばこれはカリフォルニアン・イデオロギーのことだ)としての「母系的な」社会とは、情報技術によってもたらされた「母性のディストピア」に他ならなかったのだ。 本連載はその突破口を模索することを目的としてきた。たとえば「政治と文学」という問題設定から出発し、文学の「自立」を唱導し、政治と文学の本来的な「断絶」を受容せよと主張したのが吉本隆明だとするのなら、ジョン・ハンケはこの世界と個人との接続を「政治と文学」ではなく、「市場とテクノロジー」の次元で接続することで解決しようとしていると言える。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(4)【金曜日配信】
2018-09-14 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。戦後中流的な核家族による〈対幻想〉は共同幻想に飲み込まれ、糸井重里的な「モノへの回帰」による〈自己幻想〉の更新も無効化される、「自立」の思想はいかにして可能か。吉本隆明が重視しなかった〈兄弟/姉妹的な対幻想〉にその端緒を探ります。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
3 共同幻想からハイ・イメージへ
戦後社会を支えた「大衆の原像」――戦後中流的な核家族――というかたちでの対幻想への立脚も、そしてそんな戦後社会の黄昏に出現した消費社会下における「モノ」の消費を用いた自己幻想強化も、今日において情報技術に支援されて拡大するボトムアップの共同幻想の前には無力だ。 では、どうするのか。ここでは予告したようにその手がかりを吉本隆明自身が遺した思考に求めていきたい。 糸井重里による「モノ」への回帰は、吉本隆明が、いや戦後日本が思想的に乗り上げた暗礁からの、吉本隆明的なものの批判的継承によって試みられた脱出法の模索だったといえる。 このときの糸井のアプローチは(かつての吉本がコムデギャルソンに身を包んで雑誌に登場したときのように)自己幻想の水準で行われている。 では、同様の批判的継承を対幻想の次元で行うことは可能だろうか。 『共同幻想論』にはふたつの対幻想が登場する。ひとつは夫婦や親子といった核家族的な対幻想であり、時間的な永続と結びついている。もうひとつは兄弟姉妹的な対幻想で、これらは空間的な永続と結びついている。つまり前者は閉ざされた関係性をつくり、子を再生産することで時間的な永続をその幻想の中核にもつ。対して近親姦の禁忌によって開かれた関係性を構築する後者は、子を再生産しないために時間的永続の幻想を持ち得ないが、代わりに空間的な永続を保持する。 そして吉本は同書で、本来「逆立」するはずの後者の対幻想が共同幻想と結びつくメカニズムを――私たちが国家を擬似家族的な共同体として捉えたがってしまうメカニズムを――解き明かしている。吉本によれば古代社会における国家とは、後者の兄弟姉妹的な対幻想が、共同幻想に転化することで氏族社会が拡大したものだ。この時期の吉本の思想的、政治的な実践において、夫婦/親子的な核家族的な対幻想が二〇世紀最大の共同幻想である国家への抵抗の拠点として選択されるのはそのためだ。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(3)【金曜日配信】
2018-09-07 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。情報社会化の進行にともなう人々の共同幻想への依存、その処方箋のひとつに糸井重里の「ほぼ日」があります。「モノからコトへ」の時代に、あえてモノに回帰することで自立を促す。糸井が提案する洗練されたスタイルの意味と射程について考えます。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
2 モノからコトへ、そしてもう一度モノへ?
ではどうするのか。 ここではこの問題を少し違った角度から検討してみよう。 今日における吉本隆明の紹介者として糸井重里の仕事を、とりわけ「ほぼ日刊イトイ新聞」を補助線的に参照したい。 糸井重里にとっての「ほぼ日刊イトイ新聞」(一九九八年開設、以下「ほぼ日」)は言ってみればまだ人々がモノの消費で自己を表現していた時代の黄昏に、インターネットという新しいメディアというかたちで出現したコトの消費の先駆けだった。そのメッセージは一言で言えば「現代の消費社会に対してはこれくらいの距離感と進入角度で接すると自分も気持ちよく、他人にも優しくできる」というものだ。インターネット上の文章という、無料の、それもインターネットに接続されたパソコンさえあればいつでも、どこでもアクセスできる文章を日常の中に置く。当時糸井が提示したインターネットとは、個人が自分でちょうどよい進入角度と距離感を調節できるメディアだった。天才コピーライターの糸井がこの自らのメディアに与えた「ゴキゲンを創造する、中くらいのメディア」とは、要するに消費社会に対する気持ちのいい進入角度とほどよい距離感とを提案するメディア、という意味だと思えばよいだろう。それは言い換えればモノ(消費社会)とうまく距離を取るためのコト(情報社会=インターネット)ということでもある。初期の「ほぼ日」は、この時期のインターネットのウェブサイトの大半がそうであったように「読みもの」主体の「テキストサイト」だった。まさに「ほぼ毎日」更新されるコラムや対談記事は、そのテキストの指示する内容よりも、「語り口」をもってして世界との距離感を表明していた。それは吉本的に述べれば、明らかに「指示表出」よりも「自己表出」に力点が置かれたメディアだった。 しかし今日の、上場後の「ほぼ日」は違う。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(2)【金曜日配信】
2018-08-24 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。吉本隆明は『共同幻想論』で、かの有名なテーゼ「共同幻想は自己幻想に逆立する」を提示しますが、高度化した情報技術は両者の結託と同一化を促します。逆立するはずの自己幻想と対幻想が巧妙に共同幻想に囚われてゆく、戦後日本の欺瞞的な社会構造を暴き出します(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
ナチズムの記憶がまだ新しく、スターリニズムの脅威がまだ現実のものだった『共同幻想論』の執筆当時の吉本の戦略は、共同幻想からの自己幻想の自立を維持するために、対幻想に立脚することだった、とひとまずはまとめることができるだろう。
しかし今日において共同幻想は自己幻想を飲み込み、埋没させるものではない。むしろ自己幻想の側が自ら共鳴し、他の自己幻想と同一化し、共同幻想と化す。私たちは自らそう欲望して、共同幻想に同一化する。これまでもそうであったのかもしれない。しかし情報技術の支援がそれをより簡易に、強力にしたことは明らかだ。私たちはソーシャルメディアのアカウントを使い分けることで――分人的アイデンティティのもとに――よりためらいなく、よりリスクなく共同幻想に同化するのだ。
今日において情報環境的に自己幻想は共同幻想に対する「逆立」の度合いを低下させている、いや、むしろ同化の度合いを高めている。これに対する処方箋はふたつある。それはかつて吉本が主張したように、あくまで自己幻想の、そして対幻想の逆立を保持することでこれから自立すること。もうひとつは共同幻想の発生メカニズムの変化(インターネット的分散化)を逆手に取って、いや正当に用いて私たちがこれに埋没し、思考停止しづらい主体を獲得すること、言い換えればインターネット以降、自然発生的に定着した分人的なアイデンティティを、「信じたいものだけを見る」ための方便ではなく、多様性の確保のために用いることだ。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(1)【金曜日配信】
2018-08-10 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。吉本隆明の『ハイ・イメージ論』で提出された「世界視線」と「普遍視線」の概念は、情報技術の発達により前者が後者に飲み込まれ、共同体に最適化された自己幻想によって、ヘイトスピーチや陰謀論が跋扈します。それはボトムアップから生まれる単一的な共同幻想への依存という、新しい病理の現れでした。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
0 ハイ・イメージ化する情報社会
『ハイ・イメージ論』の冒頭は「映像の終りから」と題された小文からはじまる。「映像の終り」という問題設定は、今日においては同書が執筆された八〇年代とはまったく異なる意味を持って私たちの前に浮上する。吉本の同文に登場する「映像の終り」とは(当時の)コンピューターグラフィックスの与えるイメージから、新しい情報環境の出現を予感しているに過ぎない。しかし、二一世紀の今日において二〇世紀的な「映像」は本当に終わろうとしている。いや、既に「終わって」いる。映像とは二〇世紀の社会を形成した原動力だ。文字メディアよりも、聴覚メディアよりも人々に負担なく、駆動的にメッセージを伝達する表現手法、それが一九世紀末に発明された「映像」だった。この発明は同時期に発達した放送技術と同調することで、二〇世紀の社会の大規模化を支えたものだった。 自動車と映像は一九世紀の末にヨーロッパで生まれ、二〇世紀前半にアメリカの広大な大地とそこに住む多民族をつなぐために、ばらばらのものたちをつなぐために発展したものだ。ただし自動車が内燃機関で動く一トン前後の鋼鉄の塊という強大かつ危険な力を個人が所有し、場合によっては制御するという個人のエンパワーメントによって「ばらばらのもの」をつないでいたのに対し、映像は不特定多数の人々が同じものを見ることによってそれを実現するものだった。前者が自己幻想の水準でのアプローチだったとするのなら、後者のそれは共同幻想を水準としたものだったと言えるだろう。したがってその「映像」の終わりとは、共同幻想の社会におけるかたちの変化に他ならない。具体的には私たちはいま、「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」への変貌期を生きている。現代という時代はトップダウン的な映像から、ボトムアップ的なネットワークへ、共同幻想の発生メカニズムの形態を変化させつつある、その途上なのだ。 ここでは、この観点から「映像の終り」という問題提起からはじまる吉本の『ハイ・イメージ論』を読み直してみよう。 『ハイ・イメージ論』の中心的な概念として登場するのが「世界視線」と「普遍視線」だ。世界視線とは、この世界の全体像を俯瞰して捉える神の視点だ。対して普遍視線とは私たちがこの生活空間の中で世界を捉える等身大の視点のことだ。前者は共同幻想の視線であり、そして後者は対幻想、自己幻想の視線であると言い換えることもできるだろうし、前者を「政治」、後者を「文学」の視線と言い換えることもできるだろう。そして前者を「公」の、後者を「私」の視線と言い換えることもできる。そして吉本は現代の(当時の)情報環境の進化はこの両者の関係を決定的に変化させていると指摘する。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(4)【金曜日配信】
2018-06-22 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。共同幻想と個人幻想の戦前的な短絡を乗り越えるため、対幻想の概念に立脚しながら戦後日本社会を肯定した吉本隆明。しかし、押し寄せるグローバリズムと情報化の波は、吉本の想像を超えた形で、ポピュリズムの暴走へと繋がっていきます。(初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
八〇年代の吉本隆明をめぐる諸言説の半ば水掛け論的な混乱は、奇しくも今日のこの国の情報社会の混乱を予見するかのような相似を見せている。 今日のこの国の言論状況を見渡してみればよい。局所的には(当人の主観としては)啓蒙的な(しかし、実質的には陰謀論的な)左右の二〇世紀的なイデオロギーへの回帰があちらこちらで噴出し、そして彼らの一人相撲を嘲笑うかのように全体としては、「大衆の原像」に立脚したポピュリズムが蔓延している。 より具体的に述べるのなら、アカデミズム/ジャーナリズムのレベルでは左右の二〇世紀的なイデオロギー回帰が拡大し、あたかもかつての五五年体制下の保革の対立関係(を装った共犯関係)を再演している。 この共犯関係を下支えするのが、再三指摘するこの国の情報社会を覆い尽くしたソーシャルメディア(とりわけTwitter)上の「下からのポピュリズム」だ。週刊誌/ワイドショーに指定されたターゲットに対し、「正義」の側に立って石を投げる。「~ではない」という否定の言葉でつながり、自分たちは「まとも」な側にいると確認し、安心する。この国の言論空間はマスのレベルではこの「大衆の原像」に依拠した「下からの全体主義」と、専門家のレベルで演じられる左右の対立を装った共犯関係との住み分けが行われている。前者は国民的な大衆娯楽として実質を担当し、後者はその権威付けとして名目を担当する。そう、この国は戦後一貫して左右のみならず、上下のレベルでも棲み分けを――対立関係を装った共犯関係を――行って来たといえる。 左右の表面的な対立を装った実質的な共犯関係という「横の構造」と、この茶番を下支えする「縦の構造」――ジャーナリズム/アカデミズムの政治「ごっこ」と「大衆の原像」としてのメディアポピュリズムとの対立を装った共犯関係――戦後の進歩的な知識人を代表した丸山真男的なものと、「大衆の原像」に立脚して批判した吉本隆明的なものにこそ、もう一つの擬制(対立を装った共犯関係)が存在したのだ。そして、この二つの棲み分け、二つの共犯関係は今日においてもかたちを変えて反復されているのだ。
4 ハイ・イメージのゆくえ
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(3)【金曜日配信】
2018-06-08 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。前回に引き続き、吉本隆明『共同幻想論』の思想とそこに加えられた批判から、現在の情報化社会の陥ってしまった状況を整理します。 (初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
3 吉本隆明と戦後消費社会の「隘路」
吉本自身が『共同幻想論』における(国民国家的な)共同幻想からの「自立」という問題設定が過去のものになったと述懐するように、二〇世紀末の消費社会の進行と情報環境の変化は、かつて吉本が前提としていた状況を根底から覆していく。
たとえば、上野千鶴子は六〇年代の状況を加味して『共同幻想論』を再解釈した上で、その「自立」の思想を近代的な核家族主義、さらには当時、上野が標的にしていた戦後日本の中流幻想を支えた「マイルドな家父長制」とも言うべき核家族中心主義に対し批判を加えている。
上野は吉本の提示した三幻想の区分に高い評価を与え、その上で(二〇世紀的な現実を前に)自己幻想が対幻想を経由することで、共同幻想に対して強い抵抗力を得るとする吉本の主張を支持する。しかし、その一方で上野は、『共同幻想論』における自己幻想の対幻想を経由した共同幻想への(自立を前提とした)接続、という吉本の主張が、彼の述べる「大衆の原像」と実質的に結びついていることを問題視する。
要するに、個人(自己幻想)はたとえば「この人のために生きる」(対幻想)を得ることで変容し、「天皇陛下/革命のために命を投げ出すべきだ」というイデオロギー(共同幻想)に取り込まれることはない。しかし、当時の日本において吉本が述べる「大衆の原像」として機能したのは、むしろ「妻子のため」に外で「七人の敵」と闘う、といった共同幻想の方だった。上野はこの吉本の理論と実践、文学と政治との間に発生した微細な、しかし決定的な差異に注目する。上野によれば、対幻想として機能するのは性愛関係であって、その延長線上に発生する家族は既に共同幻想を形成しているのだ。
〈自己幻想とは、「それ以上分割できない」個人、つまり身体という境位に同一化した意識の謂にほかならない。しかし意識は、身体のレベルをこえて同一化の対象を拡張することができる。たとえば「妻子のため」に外で「七人の敵」と闘う男は、家族に自己同一化している。「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬ兵士は、自己同一化の対象をオクニのレベルにまで拡大している。(略)しかし対幻想は違う。他者は「わたくしのようなもの」という類推を拒み、しかも「もうひとりの私」として私と同じ資格を私に要求してくる。(略)対幻想の中では、自己幻想は構造的な変容をとげている。自己幻想から対幻想への過程は、したがって不可逆であり、こうやって一度構造変容した自己幻想は、共同幻想からのとりこみに強い抵抗力を示す。それは共同幻想とはべつのものになっているからである。人は、対幻想と共同幻想というべつべつの世界をふたつながら持つことができる。だが人は、両者間を往復するだけであって、ふたつを調和させているわけではない(3)〉
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(2)【金曜日配信】
2018-06-01 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。80年代の段階で、すでに共同幻想からグローバルな市場へと傾く時代の大きな変化を予見していたとも言える戦後最大の思想家・吉本隆明。前回に引き続き同氏の代表作『共同幻想論』を主軸に、その思想と情報化社会との接点を探ります。 (初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
2 『共同幻想論』を再読する
吉本隆明の代表作である『共同幻想論』が記されたのは一九六八年のことだった。同書の基本的なコンセプトは、第一に国民国家という制度が相対化し得るものであることを証明すること、つまり反国家論の立論だった。同書で吉本は「古事記」と「遠野物語」というふたつの古典のみを参照することで、古代社会における国家の成立のメカニズムを解き明かす。そこで語られるのは人間社会がその規模の拡大にしたがって国家を形成していくことの必然性だ。これが反国家論であることを、二一世紀の今日に理解するためには、六〇年代後半当時の同書が発表された社会背景への理解が必要だろう。
「もし“民主制”になんらかの価値があるとすれば、それは崇めなくてもよいからだ」――吉本隆明のこの言葉は、今日において皮肉なかたちで批判力を発揮している。吉本隆明はここで民主制を共同幻想の肥大を制御し得る制度として消極的に支持を与えている。それは吉本の青春期を支配したかつての総力戦の記憶に起因するものだろう。無謀な戦争に国家を駆り立てた「下からの全体主義」と、それを成立させた共同幻想に対し、戦前の民主制は無力であった。あの決定的な敗戦の記憶から出発する吉本が、それを崇めることで――共同幻想となることで――はじめて成立する戦後民主主義とは、第一に戦後の日本人が手に入れた新しい天皇に過ぎず、そして第二にかつて天皇という空虚な中心を用いて駆動した「下からの全体主義」に抗う術を持たない脆弱な制度に過ぎなかった。
前述したように当時吉本隆明が『共同幻想論』を執筆した動機には、近代天皇制批判としての側面が強い。吉本は戦中・戦後の文学者の転向問題から出発し、やがて六〇年代の学生反乱のイデオローグとして熱狂的な支持を受けることになるが、『共同幻想論』はその間に書かれたものだ。したがって吉本が同書を理論的な根拠とした「自立」の思想は、近代天皇制だけではなくマルクス主義や戦後民主主義といった当時支配的だった「進歩的」なイデオロギーをも射程に収めたものとして展開されていった。
そしてこの「自立」の思想こそ、吉本隆明の思想の最も根底にあるものだ。
しかし、今日においてこの吉本の掲げた国民国家の代表する共同幻想からの「自立」という主題は、やや古びていると言わざるを得ない。なぜならば今日においては国家という共同幻想は長期的には相対化されつつあるからだ。今日において私達の生は二〇世紀的なローカルな国家という共同幻想(物語)よりも、グローバルな市場(ゲーム)により強く規定されるようになりつつある。
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