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宇野常寛「1993年のニュータイプ──サブカルチャーの思春期とその終わりについて」(PLANETSアーカイブス)
2018-05-07 07:00550pt
毎週月曜日は「PLANETSアーカイブス」と題して、過去の人気記事の再配信を行います。 傑作バックナンバーをもう一度読むチャンス! 今回は『ダ・ヴィンチ』に掲載された宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」をお届けします。『ニッポン戦後サブカルチャー史』『アオイホノオ』という2つの作品から、この国のサブカルチャーの〈思春期の終わり〉と〈向かうべき未来〉を、雑誌『Newtype』を手がかりに考えます。 初出:『ダ・ヴィンチ』2015年1月号(KADOKAWA) ※本記事は2015年1月14日に配信した記事の再配信です。
先日、テレビをつけたら劇作家・宮沢章夫を講師に迎えた『ニッポン戦後サブカルチャー史』という番組がNHKで放送されていた。それは、よく考えると奇妙な光景だった。まだ関係者の大半が生存している、たかだが数十年前のことが「歴史」として語られているのだ。現代社会の爆発的な文化発信量の増大、情報そのものの肥大がこのような近過去の文化史の受容を生んでいるのは間違いない。そこには確実に必要性がある。だが、僕にはここにそれだけに留まらない意味があるように見えた。
そしてほぼ同じ時期に、僕はテレビ東京系で放映されていたテレビドラマ『アオイホノオ』を毎週楽しみに観ていた。これは、漫画家の島本和彦の自伝的マンガを福田雄一が脚色、自ら監督を務めたテレビドラマで、島本が在籍した1980年代初頭の大阪芸術大学を舞台に、漫画家を目指す主人公(島本自身がモデル)の奮闘を、そして同時期に在学した庵野秀明、赤井孝美、山賀博之らが岡田斗司夫ら在阪のインディーズ作家たちと合流し、後のアニメ制作会社「ガイナックス」につながる活動(自主アニメ制作)で台頭していく過程を描いている。そして僕は、まるで戦国時代を扱った大河ドラマを見るような気持ちで、このドラマを毎週楽しんでいた。島本和彦や岡田斗司夫といった「歴史上の人物」たちがかかわる、かつて彼らの著作で知った「歴史上の事件」が、どう解釈されて描かれるのかをWikipediaを引きながら待ち構えていた。
そう、同作は奇しくも『ニッポン戦後サブカルチャー史』の、いや、正確には同番組の下敷きになった宮沢の著書『80年代地下文化論講義』と同時代の大阪の、もうひとつのサブカルチャーが勃興していく時代を描いているのだ。そう、東京の渋谷でモンティ・パイソンのローカライズが行われていた時代、大阪の片隅ではやがて海をわたってファンの心をつかんでいく『エヴァンゲリオン』につながるアニメ作品が産声を上げつつあったのだ。
《メインカルチャーとメジャーの権威をも文化資本は解体しつつあり、マイナーが分衆として資本に取り込まれるにはまだ間があった七六~八三年という転形期にあった、低成長下のサブカルチャーは奇妙な活性化をみせていたのだ。『すすめ!!パイレーツ』に『マカロニほうれん荘』。『LaLa』に『別マ』に『花とゆめ』。萩尾望都、大島弓子、山岸凉子。『JUNE』に『ALLAN』。諸星大二郎、ひさうちみちお。『ビックリハウス』『POPEYE』『写真時代』に『桃尻娘』に糸井重里。椎名誠。藤井新也。つかこうへいに野田秀樹。タモリとたけし。鈴木清順。異種格闘技戦に新日本プロレス。パンクにレゲエ、テクノ・ポップ、ニューウェーヴ、サザン、RCサクセション。YMO、『よい子の歌謡曲』『スター・ウォーズ』。ミニシアター。『ガンダム』に新井素子。世界幻想文学大系やラテンアメリカ文学。メジャー不在の大空位時代にあっては、あらゆる新しいものがマイナーのままメジャーであった。正義も真理も大芸術も滅び、世の中は、面白いもの、かっこいいもの、きれいなもの、笑えるもの、ヒョーキンなものを中心に回るしかない。この幸福な季節を、橋本治と中森明夫は八〇年安保と呼ぶ。》 浅羽通明『天使の王国 平成の精神史的起源』
これらの番組で描かれていた80年代初頭は、後に「80年安保」と呼ばれるポップカルチャーの量的爆発が発生した時代だった。そして、宮沢の紹介する「サブカル」と、島本が描く「オタク」が明確に分離していく時代だった、と言える。
紙幅の関係でものすごく大雑把な整理をすることを許してほしい。「一般的には」前者はインターナショナルなライブカルチャーで、後者はドメスティックなメディアカルチャーだとされている。前者は基本的に輸入文化であり欧米のユースカルチャーに対して敏感であり、その洗練されたローカライズを競うものだったと言えるだろう。ジャンル的にはその中心に音楽があり、そして演劇が独特の位置を占めていた。対して、マンガ、アニメ、ゲームなどを中心とする後者は「一般的」には国内の漫画雑誌とテレビアニメを基盤とする国内文化だったと言える。僕が思春期の頃は前者こそがサブカルチャーであり、後者は80年代末の幼女連続殺人事件の犯人がいわゆる「オタク」だったことの影響もあり、ほとんど犯罪者予備軍のようなイメージで見られることも多かった。それが、世紀の変わり目のあたりで逆転した。インターネットの普及を背景に、若者のサブカルチャーの中心は後者に移動し、国の掲げる「クールジャパン」は政策的に空回りしているが、日本のオタク系サブカルチャーがグローバルに支持を集めている現実が広く知られるようになり、ドメスティックだと思われていた後者の文化はむしろグローバルな輸出文化としての期待を帯びるようになった。
このヘゲモニーの移動には様々な背景が想定されるが、ここでは特に前回論じた情報社会化による地理と文化の関係性の変化に注目してみたい。
たとえばこの20年の原宿のあり方を考えてみよう。90年代に歩行者天国を中心にコミュニティが発生し、そこから育っていった少女文化(いまでいう原宿「カワイイ」系文化)は、歩行者天国の廃止や地価の高騰などにより一度衰退する。しかし現在においては、同文化のグローバルな拡散を背景に、まるでかつての原宿的なものを「コスプレ」するかのように登場したきゃりーぱみゅぱみゅがアイコンとなり、現在の原宿もまた同時にかつての原宿を「コスプレ」し始めている。同じような指摘が、2005年の『電車男』ブーム以降の観光地化していった秋葉原にも可能だろう。
要するにかつては地理が文化を生んでいたのに対し、ここでは文化が地理を生んでいるのだ。このパワーバランスの変化はインターネットがもたらしたものだ。2008年に秋葉原連続殺傷事件が発生した際、秋葉原の一時的衰退はオタク系文化そのものの衰退につながる可能性はなくはなかった。しかし、そうはならなかった。理由は明確で、当時既にオタク系文化のコミュニティはインターネット上に移動していたからだ。当時の秋葉原は、むしろインターネット上のオタク系文化を「コスプレ」する観光地になりつつあった。そう、情報化はボトムアップの文化を生む場をストリートからソーシャルメディアに移動させたのだ。その結果、地理が文化を生むのではなく、文化が地理を決定するようになったのだ。
こうして考えてみたとき、メディア上の表現に基盤を置くオタク系文化の量的な優位は当然発生することになる。その結果、前者(サブカル)の側は自分たちを正当と見做す「正史」を主張することでのヒーリング(『ニッポン戦後サブカルチャー史』)を求め、後者(オタク)はミーハーに歴史上の人物たちの偉業に目一杯「萌え」狂うこと(『アオイホノオ』)になったのが現代のサブカルチャー状況であるとひとまずは言えるだろう。
以上が、非常に大雑把な僕流の戦後日本サブカルチャー史(のごくいち側面)だ。そしてこのサブカルチャーの「歴史化」を象徴する二つの番組の魅力、特に後者の福田雄一によるアプローチの素晴らしさについては語り尽くしても尽くせないものがあるが、僕がここで問題にしたいのはもう少し別のことだ。
それは、これらの番組が支持される背景に存在するのは、はっきり言ってしまえば日本社会自体が中年に、いや「熟年」になろうとしているということなのではないかと僕は思うのだ。■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
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もう〈出版社〉はいらない(宇野常寛) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.321 ☆
2015-05-13 07:00220pt※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
もう〈出版社〉はいらない(宇野常寛)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.5.13 vol.321
http://wakusei2nd.com
本日は、宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」最終回をお届けします。宇野常寛自身が、今後どのような仕事を進めようと思っているのか――その考えを改めてまとめた”マニフェスト”です。
PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は5月も厳選された記事を多数配信予定!
配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201505
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いつか、空気を読まないために――吉田尚記『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.309 ☆
2015-04-22 07:00220pt※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
いつか、空気を読まないために――吉田尚記『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.4.22 vol.309
http://wakusei2nd.com
本日のメルマガは、宇野常寛による『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』(吉田尚記)論をお届けします。「空気を読めない」といつも怒られている僕たち(?)に対して、その対処法を解説しベストセラーとなった、よっぴーさんの『なぜ楽』。そこに隠された「一番大きなメッセージ」を読み解いていきます。
初出:『ダ・ヴィンチ』2015年(KADOKAWA)
▲吉田尚記『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』太田出版 1111円(税別)
ニッポン放送のアナウンサー・吉田尚記と知り合ったのは、一昨年のことだ。僕がニッポン放送の深夜番組(『オールナイトニッポン0』)を担当していたとき同社の偉い人が、僕と気が合いそうな男がいると紹介してくれたのだ。それまで僕と吉田はお互い相手のTwitterのアカウントはフォローしていたが、これといって交流はなかった。向こうがどう思っていたかは知らないが、僕のほうはどこからともなく流れて来た彼のtweetの内容、たしか彼のメディア論というか、ラジオ論のようなものが気になってフォローしたのだと思う。
その後、僕と吉田はニッポン放送で顔を合わせるたびに雑談を交わすようになった。しかし決定的に仲良くなったのは、彼が僕を彼の主宰する対談イベント「#jz2」に呼んでくれたことだと思う。ここで僕と吉田はメディア論、特にラジオ論とソーシャルメディア論で白熱し、有り体に言って意気投合した。そして気がつけば吉田は僕のメールマガジンやインターネット放送の常連出演者(もちろんアナウンサーとしてではなく、いち「論客」としての登場だ)になり、いまでは月に一度は何らかのかたちで議論している。
だからほとんど当たり前のように、吉田が二冊目の本を出版することになったとき僕のところにLINEでゲラが送られて来て、そして当たり前のように販促のコメントを僕が書いて、当たり前のように出版記念イベントに出演することになっていた。
しかし、今回僕が同書『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』について取り上げようと思ったのはそれが吉田の本だからではない。この本は同時代の物書きとして、しっかりアンサーしなければならない本だと感じたからだ。
本書の概要を簡易に説明しよう。吉田は同書をどちらかといえばコミュニケーションが苦手な「コミュ障」のための本だと位置づける。吉田はいう。自分は本来まさにその「コミュ障」の典型例であると。しかし自分はうっかりアナウンサーという職業に就いてしまった。そしてその結果、コミュニケーション力を「学習」することになったのだ、と。吉田曰く、同書はコミュニケーションという「ゲーム」の攻略本である。ここでいう「コミュニケーション」とは要するに個人的な会話を通じた社交術のようなものだと思えばいい。
幼少期から「もっと空気を読め」と言われ続けて、そしていまも何かのきっかけで場違いな食事会に呼ばれてしまうたびに気まずい思いをしながら早く帰りたいなと考え続けている僕にとって、同書は仕事を忘れてページをめくることのできる実践本でもあった。
たとえば同書で吉田はコミュニケーション力を、「空気を読む」力を、雑談という視点から説明する。いわゆる「コミュニケーション力の低い」「空気の読めない」(僕のような)人間は「雑談」ができない、いや雑談に興味が持てないのだという。僕らのような人間はつい、日常の何気ない会話にまで目的を求めてしまう。自分の知的関心を満たしてくれる視点や、未知の情報を期待してしまう。もしくはそれらを相手に与える達成感を期待してしまう。しかし、それは、間違いだと吉田は言う。吉田は同書で「コミュニケーションの目的はコミュニケーションである」と断言する。そう、いま僕が挙げたようなコミュニケーションの「目的」は実は人間対人間のコミュニケーションではなくとも得られるものだ(人間対モノ、人間対情報、など)。人間同士のコミュニケーションでなければ得られないもの、それは会話が盛り上がることによって得られる高揚感でしかないのだ。
コミュニケーションは原理的に自己目的化する──この理解は、古くは携帯電話のメール交換、現在においてはLINEなどのアプリケーション上での1対1のコミュニケーションを想定したショートメール交換を想定すれば分かりやすいだろう。こうしたサービス上で繰り広げられるやりとりの何割かは、確実に自己目的化している。「いまから行く」「○○をもってきて」といった目的のあるコミュニケーションと同じくらい、ここでは単に返信してほしい、「既読」をつけてほしいだけのやり取りが交わされているはずだ。ここで人間が求めているのはおそらく「承認」だ。決して積極的な尊敬や愛情ではないだろう。自分の存在をゆるく肯定してくれることの安心感を、ここで人間は求めているのではないか。だからこそ、こうしたコミュニケーションは家族や恋人ではない友人間で行われやすいのではないか。こちらが膨大なコストをかけずとも、小さな承認を返してくれる関係、ローコスト・ローリターンの承認を求める性質を人間は持っているのではないか。
電子メールはこうしたやりとりとその過程を可視化してくれるわけなのだが、考えてみれば日常会話も同様だ。僕たちは会話のきっかけにほぼ無意識のうちに「今日は暑いね」とか、「こんな朝早くにお疲れさま」とか、他愛もない話題を用いている。もちろん、ここで本当に気温の高さを話題にしたい人間はまずいないだろう。ここで人間は、目の前の相手とこれからささやかな承認を交換して、ローコストに小さく気分よくなりたいというサインを送っているのだ。
そして、僕のような「コミュ障」の人間にはこれができない。いや、正確にはこれが不快なのだ。特に関心が強いわけでもない人間と、特に関心が強いわけでもない話題をしてまで、小さく気分よくなんかなりたくない。そんな時間があるなら、家に帰って本を読みたい。ずっとそう思って30年以上生きて来たわけだ。(だから僕はいわゆる「飲みの席」というやつが大嫌いで、そのせいでお酒を飲まなくなったようなものだ。)
しかしそのことで、随分と世の中が生きにくいのもたしかだ。僕が5年しか会社員を続けられず、目処がついた時点でフリーランスに転向してしまったのも、要は自分で能力的な適性がないことを分かっていたからだ。そして僕より3つ年上で、そして会社員をまだ続けている吉田はそんな僕らに、なるべくストレスなく「空気を読む」方法を解説している、というわけだ。
吉田はいう。「コミュニケーションとは目の前の相手と一緒にゴールを目指す協力型のゲームだ」と。そう、コミュニケーションの目的がコミュニケーションでしかないのなら、そのゴールは「楽しく会話すること」それ自体でしかあり得ない。吉田はコミュニケーションが自己目的化する理由を、そしてコミュニケーションが協力型のゲームであることを解説した上で、「空気を読む」方法を伝授する。たとえば「聞き上手であること」がそれだ。コミュニケーションに「目的」が必要だと思っている僕たちはつい、中身のある会話をしなければと考えて、まずは自分から情報を発信してしまう。しかし、これは協力ゲームとしての会話としては悪手でしかない。特定の目的を強力に設定された情報発信ほど、相手に取って打ち返しにくいものはない。もちろん、相手がその話題をしたくて仕方がないと分かっている場合は違う。しかし、ここで問題となっている社交的な「雑談」では逆だ。ここで一番アンパイな配球は、聞き役に回ることだ。「今日は暑いね」といった類いの発言には、これといった中身はない。しかし、この一手が有効なのはこの種の発言が「これからあなたと楽しく、小さくお互い負担にならない程度に時間を共有したい」というメタメッセージを伴っているからだ。従って吉田はタモリのトーク番組におけるゲストへの定番の質問「髪切った?」こそ「神の一手」だと断言する。相手に(ゆるくポジティブな)関心をもっていることを伝えつつ、決して負担にならない程度のゆるいアンサーを、それもかなりの自由度で求める。これこそが、協力型ゲームとしての会話(コミュニケーション)における定石中の「定石」なのだそうだ。
僕はこうした吉田の展開するコミュニケーション論に、基本的に同意する。そして実際にこうやって社交的な「会話」のメカニズムを解説されることによって、コミュ障がこの種の中身のない会話を楽しむことができるようになるケースも多いのではないかと思う。ゲームとして捉えることで、本来楽しめない無目的な会話をテクニカルに攻略する=盛り上げることで(別の意味で)楽しめるようになる。そして、そのことが結果的に「コミュ障」の解消につながる。実際、同書で告白されているように吉田自身がそうだったに違いないのだから。僕自身、ああ、高校生か大学生のころにこの本に出会いたかった、という感想をもったことも、ここに告白しておこう。
その上で、僕は思った。この本は、最後の最後で一番大きなメッセージを意図的に書かなかった本だ、と。もちろん、それは否定的な意味ではない。それはむしろ、吉田が書かないことで読者に伝えようとしたメッセージが、この本を強烈に支えていることを意味するのだ。
同書は徹頭徹尾この社会は「空気を読む」という行為で成り立っていて、そしてその社会の成員である僕たちはこの「空気を読む」ことから逃れられないという前提で書いてある。たしかに僕もそう思う。コミュニケーションは原理的に自己目的化するものでしかないと僕も考える。もっと言ってしまえば、自己目的化したコミュニケーション、つまり関係性それ自体にも価値が宿ると僕も考えている。もしかしたら僕のほうが吉田よりも積極的に、美しい存在があるのではなく美しい関係性があるだけだ、と考えている側の人間であるとすら思う。たぶん、僕と吉田の世界に対する理解はほとんど離れていない。しかし、そこから先のアプローチはまったく違う。
この本で吉田はいわば「どんな箱に行っても空気が読めるようになる」テクニックについて考えている。しかし僕は違う。僕は個人が選べる箱のバリエーションを可能な限り増やすことを考えている。
たとえば僕は「いじめ」問題に対する処方箋はひとつしかないと思っている。それは「クラス」という箱をなくすこと、「クラス」という箱から逃げやすくすることだ。小学校低学年から授業選択制を導入し、児童には今より早い段階で「与えられた箱の空気を読む」訓練ではなく、「自分に合った箱」を探す訓練を積ませる。もちろん、ここには「自分に合わない箱とは距離を取る」訓練も含まれる。オールドタイプの日本人には、そんなことでは忍耐力のない子どもが増えるだけだと思われるかもしれない。しかし、それは考えが浅い。自分に合った箱を探すため、複数のコミュニティに接続しながら試行錯誤していくためには与えられた箱の空気を読むためのものとはまったく異なる忍耐と柔軟で強靭な知性が必要だ。
吉田の分析と主張に、僕は完全に同意する。しかし、いやだからこそ僕はできることならば最初から空気なんか読みたくないと思うのだ。コミュニケーションのためのコミュニケーションに時間とエネルギーを使いたくないと思ってしまう。
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世界が「木更津」化したあとに――『ごめんね青春!』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.281 ☆
2015-03-13 07:00220pt※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
世界が「木更津」化したあとに――『ごめんね青春!』
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.3.13 vol.281
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本日のメルマガは、宇野常寛による『ごめんね青春!』批評です。『木更津キャッツアイ』『あまちゃん』などで時代の空気を絶妙に掴んできたクドカンは、今作ではなぜこれまでのような切れ味を発揮できなかったのか? この10年余りの社会状況・情報環境の変化から考えます。
初出:『ダ・ヴィンチ』2015年3月号(KADOKAWA)
クドカンこと宮藤官九朗の最新作『ごめんね青春!』は、主にその低視聴率による「苦戦」で世間に知られる結果になってしまった。しかし、そもそも彼の作品が視聴率的にヒットしたのは東野圭吾原作の『流星の絆』くらいの話で他は良くてもスマッシュヒット、といったところだろう。二度も映画化されたロングセラー『木更津キャッツアイ』も本放送の視聴率はぱっとしなかったし、あの『あまちゃん』でさえも、内容的には凡作としか言いようがない『梅ちゃん先生』に平均視聴率では負けていた。クドカン作品の魅力とは、端的に述べれば広く浅く拡散していくものではなく、深く刺さるタイプのものなのだ。
だから僕は本作をその視聴率的苦戦をもって何か言おうとは思わない。現に僕自身、このドラマを毎週楽しみにしていて、最後まで面白く観ていたのは間違いない。
しかし残念ながらその一方で、僕はこのただ楽しく、面白いドラマに物足りなさを感じていたことも正直に告白しようと思う。もちろん、テレビドラマに楽しく面白い以上の価値は必要ない、という考えもあるだろう。しかし、少なくとも僕はクドカンドラマにそれだけではないものを感じてこれまで追いかけてきたのだ。
今思えば『池袋ウエストゲートパーク』はモラトリアムの「終わりの始まり」の物語だった。長瀬智也演じるマコトが思春期の終わりに、それまで足場にしていた「ジモト」のホモソーシャルの限界に直面する。そして同じ長瀬智也が主演を務めた『タイガー&ドラゴン』はいわゆる「アラサー」になった主人公が、若者のホモソーシャルとは一線を画した大家族的な共同体に軟着陸していく過程を描いていた。そして長瀬が32歳で主演を務めた『うぬぼれ刑事』は、完全に「おじさん」になった主人公がもう一度、大人のホモソーシャルに回帰していくさまを描いていった。要するに、クドカンは自分よりも8つ年下の長瀬智也の肉体を借りて男性の成熟を、歳の取り方を描いてきた作家でもあるのだ。同世代の同性たちからなる若者のホモソーシャルが加齢とともにゆるやかに解体し、やがて(擬似)家族的なものに回収されていく。しかしクドカンの想像力は教科書的な成熟と喪失の物語を選ぶことはなく、やがて男の魂は新しい、大人のホモソーシャルに回収されていったのだ。
クドカンのドラマから僕がいつも感じるのは、部活動的なホモソーシャルだけが人間を、特に男性を支えうるという確信と、その一方でこうしたホモソーシャルの脆弱さに対する悲しみだ。この確信と悲しみの往復運動が、クドカン作品における長瀬智也の演じるキャラクターの変遷をかたちづくり、あるいは『木更津キャッツアイ』シリーズでクドカンが描いてきた儚いユートピアのビジョンに結実していった。
この視点から『木更津キャッツアイ』について振り返るのならば、人間がこうした部活動的なホモソーシャル、同世代の、同性からなる非家族的な友愛の、「仲間」的なコミュニティに支えられたまま(「まっとうな近代人」の感覚からすればモラトリアムを継続したまま)歳をとって死んでいくという人生観を提示し、しかもそれを幸福なものとして描き出したところが衝撃的だったと言える。そして『タイガー&ドラゴン』以降の作品は、クドカン自身がこの『木更津キャッツアイ』で提示したものを自己批評的に展開していったものに他ならない。
思えばクドカンが台頭したゼロ年代は、「仲間主義」と「ホモソーシャル」の台頭した時代だった。90年代的な恋愛至上主義文化の反動から、恋愛やファミリーロマンスでは人間の欠落は埋められないという世界観が支持を集め、まず『ONE PIECE』的な仲間主義が台頭し、そして「日常系」アニメ(『けいおん!』『らき☆すた』)からAKB48、EXILEまでホモソーシャル(では正確にはない。これらのコミュニティには紅/緑一点の異性すらいない。ミソジニー傾向の代わりに、ボーイズ・ラブ的な友愛の関係性が支配している)の中での非生殖的、反家族的な関係性がジャンル越境的に国内ポップカルチャーにおいて支配的になっていった。そう、今思えば『木更津キャッツアイ』はその後10年に起こることを先取りしていた作品だった。
あれから10年余り、世界はある意味すっかり「木更津」化した。
若者向けのポップカルチャーはすっかり木更津キャッツアイ的な「ホモソーシャル2.0」の原理が支配的になった。『木更津キャッツアイ』は企画当初『柏キャッツアイ』であったことが象徴的だが、彼らがジモトを愛する理由は、そこに地縁と血縁があるからではなく、自分たちの「仲間」の思い出が、歴史があるからだ。だから同作に登場した青年たちは自分たちの内輪ネタとサブカルチャーの「小ネタ」で凡庸な郊外都市である木更津を、自分たちにとっての「聖地」に変えていった。
そして今、こうしたコンテンツ依存のジモト愛の喚起、町おこしはむしろ地方自治体の常套手段と言っても過言ではなくなった。2013年に社会現象的ブームを巻き起こし、後世にはおそらくクドカンの代表作として語り継がれるであろう『あまちゃん』の放映時に、舞台となった岩手県三陸地方がこうした「聖地」化によって大きくクローズアップされたことは記憶に新しい。
そう、この10年余りのあいだに、世界はすっかり「木更津」化したのだ。
クドカンの話に戻そう。クドカンの一連の試行錯誤の集大成が『あまちゃん』だったことは間違いない。クドカンはここで、戦後の消費社会史をアイドルというアイテムを用いて総括した。ここでは前述のクドカンがそれまで培ってきた「ジモト」への視線が、戦後社会の精神史を描く上で大きく寄与していたのだが、本作『ごめんね青春!』では『あまちゃん』では扱われなかった男性の成熟とモラトリアムの問題が再浮上することになった。本作のプロデューサーはTBSの磯山晶、『池袋ウエストゲートパーク』にはじまる一連の長瀬智也主演作品や『木更津キャッツアイ』を担当した人物だ。主役を務めるのは長瀬よりも6歳若い錦戸亮。彼が演じる高校教師が、勤務先の男子校と近所の女子校の合併のために尽力しながら、30歳になっても引きずっている青春の日のトラウマに決着をつける、という物語が展開した。
これは言い換えれば、『木更津キャッツアイ』で一度男女を分離した、少なくともロマンチック・ラブ・イデオロギーやファミリー・ロマンス信仰とは異なるかたちの救済を提示したクドカンが、もう一度男女を出会わせようとしたもの、とひとまずは言えるだろう。しかし、残念ながらこのコンセプトは物語前半で空中分解してしまった。
本作では当初激しかった主人公の属する男子校と、合併先の女子校との対立は物語の序盤(第三話)であっさりと解決する。男子生徒嫌いの急先鋒だった黒島結菜演じる女子校側の生徒会長が、自分たちはこれから「男子」と書いて「アリ」と読む、と宣言する。あまり気の利いたセリフ回しではないが、それはまあ、いいだろう。しかし、その後同作はホモソーシャル同士の衝突を正面から描くことはなくなり、端的に言ってただの学園ラブコメになってしまう。もちろん、ただの学園ラブコメであることが悪いわけではない。ただ、この瞬間にどうしてこの複雑な設定が存在するのか、その意味はなくなってしまった。
こうして「再び〈男女〉を出会わせる」というコンセプトを失ってしまった同作は、最終回へ向けて主人公の教師・平助のトラウマの解消、高校時代に犯した罪の告白と清算(彼なりの「青春」への決別)に焦点を移すことになる。そして、最終回で平助は自分が担任していた学年の卒業式に学生服で乱入し、自分の「卒業」を宣言して青春に別れを告げる。思春期の恋が生んだ葛藤にケリをつけて、次のステージに進む。教師をやめ、満島ひかり演じる女子校の教師と結婚し、自分は学校をやめて地元FM局のDJになる。大いに結構だが、ここで提示された「成熟」モデルが、僕にはどうにも魅力的なものには見えなかった。
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ジョーカーなき世界、その後――『インターステラー』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.260 ☆
2015-02-12 07:00220pt※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
ジョーカーなき世界、その後――『インターステラー』
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.2.12 vol.260
http://wakusei2nd.com
本日のメルマガは、「ダ・ヴィンチ」掲載の宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」のお蔵出しです。今回のテーマは、クリストファー・ノーラン監督の最新作『インターステラ―』。なぜノーランは「ジョーカー」を描けなくなったのか?『インセプション』『ダークナイト・ライジング』から今回の『インターステラ―』に至る軌跡を振り返りながら分析していきます。
初出:『ダ・ヴィンチ』2015年2月号(KADOKAWA)
▲インターステラー ブルーレイ&DVDセット(初回限定生産)
・作品紹介
『インターステラー』
監督/クリストファー・ノーラン 出演/マシュー・マコノヒー、アン・ハサウェイ、ジェシカ・チャステイン、マイケル・ケイン
2014年アメリカ、169分/配給:ワーナー・ブラザース映画
一年と少し前、この連載を集めた最初の評論集を出版した(ちなみにこの号が出る頃には二冊目が本屋に並んでいる予定だ)。僕はその自分にとってはじめての評論集に『原子爆弾とジョーカーなき世界』という名前を与えた。もともとこれは、同書に収録した『ダークナイト・ライジング』について取り上げた回につけたタイトルだった。クリストファー・ノーラン監督の手がけたバットマンのリメイク「ダークナイト」トリロジーの最終作にあたる同作は、決して完成度の高い作品ではなかった。しかし、同作におけるノーランのつまずきは、現代を生きる僕たちの想像力の限界を示しているように僕には思えた。映画は傑作とは言い難いが、それとは別の次元でノーランが「ダークナイト」トリロジーを完結させることがなぜできなかったのか、その前作(掛け値無しの傑作である『ダークナイト』)から後退してしまったのはなぜか、どこで壁に突き当たり、そしてどの部分で後退したかを明らかにすることは、とても大事なことのように僕には思えたのだ。だから、僕はあの文章を評論集の本のタイトルに指定した。
だから僕はノーラン監督の最新作『インターステラー』を、それなりに心待ちにしていた。少なくとも公開日の夜にとしまえんのIMAXシアターで予約して、空いている深夜上映にタクシーで出かける程度には、この作品を大切に待っていたのだ。そして、同作の完成度は僕の期待以上だった。3時間近くの長さを微塵も感じさせない映像の美しさと役者陣の好演には賞賛を惜しむ必要はないだろう。そこで描かれた『北の国から』に勝るとも劣らない父娘の愛情劇に涙する観客も多いだろうし、往年のSF映画ファンの間にはスタンリー・キューブリックの不朽の名作『2001年宇宙の旅』へのオマージュと更新(への意欲)に感心した人もいるはずだ。しかし、僕はこういった要素にはあまり関心を持つことはできなかった。一般論として、ファンタジーを通じてのみ掴み出すことができる人間や世界の本質があると僕は考えている。しかし同作の家族愛や文明論といった主題は少なくともそのレベルでは、宇宙の果てでの五次元的存在との接触といった仕掛けを経なければ描けないものではなかったことは明白であるし、『2001年宇宙の旅』をはじめとする過去の名作群との関連性は世界中の映画史やSF史の専門家が溢れるほどに論じていて、そちらを参照すればよい。
したがって、僕の関心はひとつ。クリストファー・ノーランという作家が「ダークナイト」トリロジーから持ち帰ったものがこの映画の中でどう生きているのか、だった。そして、結論から述べればそれはほぼ完全に失われてしまったと言えるだろう。
物語の舞台は、近未来の地球。異常気象による食料生産の激減で人類は滅亡の危機に瀕している。主人公の宇宙飛行士クーパーは、娘マーフィーのもとに正体不明の存在から届けられた暗号に導かれ、人類の移住先の惑星を探索するプロジェクトに参加する。クーパーは「ウラシマ効果」によって、自分にとっての数年が娘にとっての何十年にも相当してしまう現実に苦しみながらも、ブラックホールの中心部で、人類を導く五次元的存在と接触し、重力制御の論理を時空を超えて過去の娘に伝達する。つまり、物語冒頭で父娘にサインを送ったのはこのときのクーパー自身であることが、ここで明かされる。そして、クーパーはブラックホールから生還し、自分のもたらした知識によって数十年の間に人類が危機から脱したことを知る。そして老齢になったマーフィーと再会したクーパーは、再び宇宙のフロンティアを目指して旅立っていく。
賛否両論の渦巻く本作への批判として代表的なものとしては、その脚本の淡白さがある。たしかに、多くの論者が指摘するように同作は勘のいい観客なら、あるいはSFの愛好家ならば開始15分でほぼ完璧にクライマックスの展開を予測できるだろう。だが、個人的にはこの批判には与しない。というか関心がもてない。なぜならば、過去にあれだけ緻密で意外性に満ちた物語展開で観客を翻弄してきたノーランが、このような淡白さを是とした理由はひとつしかないからだ。ノーランは美しき予定調和のためにこの淡白な脚本を積極的に選択したのだ。そして僕が気になるのは、このノーランの選択した脚本的な淡白さが、そのまま同作の人間観、世界観の淡白さに直結していること、なのだ。
「This is what happens, when an unstoppable force meets an immovable object.(絶対に止めることのできない力が絶対に動かないものに出会ったとき、こういうことが起きるわけだ。)」
これは『ダークナイト』の結末近く、バットマンに捕縛されたジョーカーが口にする台詞だ。「絶対に止めることのできない力」とはジョーカー自身のことであり、そして「絶対に動かないもの」とはバットマンのことだ。同作はこのジョーカーとバットマンにトゥーフェイスを加えた三怪人の対比で成り立っている。
すべてのイデオロギーが(たとえば古き良きアメリカの正義が)、相対的な「小さな正義」でしかないことが前提化した現代によみがえったバットマンは、当然その正義の根拠を問い続ける物語を生きることになる。トリロジーの二作目『ダークナイト』に登場したバットマンは、前作『バットマン ビギンズ』で描かれたように幼き日に両親を悪漢に惨殺されたトラウマを解消すべく戦うヒーローとして登場する。しかしその一方で、その「正義」の執行が半ば自己目的化している。バットマン=ブルースの目的は正義の実現ではなく正義の執行になりつつあるのだ。バットマンの最大の支援者であり、幼なじみのレイチェルはそんなブルースに疑問を抱き、彼ではなくその盟友である正義の検事ハービー・デントを生涯の伴侶に選ぶ。デントはバットマンとは異なり、古き良きアメリカの正義を信じ(それが無根拠なものであっても、あえて)掲げることにためらいがない。「父」を仮構し、演じることにためらいがなく、バットマンのようにその執行が自己目的化もしてはいない。
一方でジョーカーは力の行使が自己目的化しているバットマンのそのさらに先を行く存在だ。本作におけるジョーカーは登場するたびに自分が怪人と化すに至った過去のトラウマを饒舌に語るが、その過去はその都度異なっている。そう、つまりそれらは「嘘」なのだ。そしてジョーカーには金銭や権力やトラウマの解消といった「目的」や「動機」が存在しない。本作におけるジョーカーは「世界が燃えるのを見て楽しむ存在」と規定される。バットマンが正義の執行自体を半ば自己目的化しつつあるように、ジョーカーにとって悪それ自体が「目的」なのだ、それもより徹底されたかたちで。すべてのイデオロギーが相対化された「小さな正義」でしかない世界、「正義」の成立しない世界では同時に「悪」も存在できない。『ダークナイト』は、ジョーカーはそんな世界における究極の正義/悪の存在を掴み出そうとした作品なのだ。
そしてデントは回帰的であるがゆえに、やがてジョーカーに利用され、怪人トゥーフェイスに堕落する。デントは「父」であることに拘泥するあまり、その可能性が失われたことへの絶望につけ込まれ、連続殺人鬼に変貌するのだ。ここに同作の三怪人は一直線に並ぶことになる。もっとも家族回帰的であり、物語回帰的であるデント=トゥーフェイスがもっとも「弱く」、そして正義/悪の自己目的化がもっとも進行したジョーカーがもっとも「強い」。そして私たち観客=バットマンはその中間に、トゥーフェイスが立つ古い世界と、ジョーカーの体現する新しい世界の中間に立っているのだ。
続く『インセプション』ではどうだったか。他人の夢の世界に侵入する特殊な企業スパイを生業とする主人公のコブは、夢の世界への侵入とコントロールを濫用した結果、最愛の妻を結果的に自殺させてしまったという過去をもつ。そして彼は現在もその罪悪感から亡き妻の亡霊に悩まされている。妻殺しの容疑者として誤解され、子どもとも引き離されたコブは、家族を取り戻すために危険な仕事に身を投じることになる。そう、ここで問われているのはいわばトゥーフェイスのレベルの問題だ。トラウマが成立せず、すべてのコミュニケーションが自己目的化した現代の臨界点=絶対に止まらないもののレベルに存在するジョーカーの問題でも、そんな新しい世界に直面し、迷い続けるバットマンのレベルでもない。こうした新しい世界の出現によって失われてしまったものを追い求めるゾンビのような主体、前作で言えば「父であること」に拘泥するトゥーフェイスと同じレベルでコブは生きている。
そして、物語の結末、コブはミッション中に妻の亡霊を振り切り、「父であること」を回復するために夢の世界から現実への帰還を試みるがその成否はオープンエンド的に宙づりにされる。
そう、ここでノーランは夢の世界の連鎖を切断し、トラウマを回復し、現実に帰還するという結末を明確には描かなかった。いや、描けなかった。なぜか。ノーランは『インターステラー』に際するインタビューでこう語っている。
〈スマホ世代に僕の『インセプション』(10年)が人気なのは、あれが心の内側へ内側へと向かっていく話だからだと思う。『インセプション』は内側に向かってばかりじゃダメだ、という話なんだけどね。だから『インターステラー』では外に、宇宙に向かうんだ。〉
『映画秘宝』2015年1月号
ここから分かるのはノーランが情報社会を「人々を内向的にするもの」と考え、そして『インセプション』における夢の世界に侵入し、それをコントロールすることを同じように自分の内面の問題に拘泥し、外部性を失った閉鎖的な行為として捉えているということだ。
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本日のほぼ惑は、「ダ・ヴィンチ」に掲載されている宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」のお蔵出しをお届けします。今回は『ニッポン戦後サブカルチャー史』『アオイホノオ』という2つの作品から、この国のサブカルチャーの〈思春期の終わり〉と〈向かうべき未来〉を、雑誌『Newtype』を手がかりに考えます。
初出:『ダ・ヴィンチ』2015年1月号(KADOKAWA)
先日、テレビをつけたら劇作家・宮沢章夫を講師に迎えた『ニッポン戦後サブカルチャー史』という番組がNHKで放送されていた。それは、よく考えると奇妙な光景だった。まだ関係者の大半が生存している、たかだが数十年前のことが「歴史」として語られているのだ。現代社会の爆発的な文化発信量の増大、情報そのものの肥大がこのような近過去の文化史の受容を生んでいるのは間違いない。そこには確実に必要性がある。だが、僕にはここにそれだけに留まらない意味があるように見えた。
そしてほぼ同じ時期に、僕はテレビ東京系で放映されていたテレビドラマ『アオイホノオ』を毎週楽しみに観ていた。これは、漫画家の島本和彦の自伝的マンガを福田雄一が脚色、自ら監督を務めたテレビドラマで、島本が在籍した1980年代初頭の大阪芸術大学を舞台に、漫画家を目指す主人公(島本自身がモデル)の奮闘を、そして同時期に在学した庵野秀明、赤井孝美、山賀博之らが岡田斗司夫ら在阪のインディーズ作家たちと合流し、後のアニメ制作会社「ガイナックス」につながる活動(自主アニメ制作)で台頭していく過程を描いている。そして僕は、まるで戦国時代を扱った大河ドラマを見るような気持ちで、このドラマを毎週楽しんでいた。島本和彦や岡田斗司夫といった「歴史上の人物」たちがかかわる、かつて彼らの著作で知った「歴史上の事件」が、どう解釈されて描かれるのかをWikipediaを引きながら待ち構えていた。
そう、同作は奇しくも『ニッポン戦後サブカルチャー史』の、いや、正確には同番組の下敷きになった宮沢の著書『80年代地下文化論講義』と同時代の大阪の、もうひとつのサブカルチャーが勃興していく時代を描いているのだ。そう、東京の渋谷でモンティ・パイソンのローカライズが行われていた時代、大阪の片隅ではやがて海をわたってファンの心をつかんでいく『エヴァンゲリオン』につながるアニメ作品が産声を上げつつあったのだ。
《メインカルチャーとメジャーの権威をも文化資本は解体しつつあり、マイナーが分衆として資本に取り込まれるにはまだ間があった七六~八三年という転形期にあった、低成長下のサブカルチャーは奇妙な活性化をみせていたのだ。『すすめ!!パイレーツ』に『マカロニほうれん荘』。『LaLa』に『別マ』に『花とゆめ』。萩尾望都、大島弓子、山岸凉子。『JUNE』に『ALLAN』。諸星大二郎、ひさうちみちお。『ビックリハウス』『POPEYE』『写真時代』に『桃尻娘』に糸井重里。椎名誠。藤井新也。つかこうへいに野田秀樹。タモリとたけし。鈴木清順。異種格闘技戦に新日本プロレス。パンクにレゲエ、テクノ・ポップ、ニューウェーヴ、サザン、RCサクセション。YMO、『よい子の歌謡曲』『スター・ウォーズ』。ミニシアター。『ガンダム』に新井素子。世界幻想文学大系やラテンアメリカ文学。メジャー不在の大空位時代にあっては、あらゆる新しいものがマイナーのままメジャーであった。正義も真理も大芸術も滅び、世の中は、面白いもの、かっこいいもの、きれいなもの、笑えるもの、ヒョーキンなものを中心に回るしかない。この幸福な季節を、橋本治と中森明夫は八〇年安保と呼ぶ。》 浅羽通明『天使の王国 平成の精神史的起源』
これらの番組で描かれていた80年代初頭は、後に「80年安保」と呼ばれるポップカルチャーの量的爆発が発生した時代だった。そして、宮沢の紹介する「サブカル」と、島本が描く「オタク」が明確に分離していく時代だった、と言える。
紙幅の関係でものすごく大雑把な整理をすることを許してほしい。「一般的には」前者はインターナショナルなライブカルチャーで、後者はドメスティックなメディアカルチャーだとされている。前者は基本的に輸入文化であり欧米のユースカルチャーに対して敏感であり、その洗練されたローカライズを競うものだったと言えるだろう。ジャンル的にはその中心に音楽があり、そして演劇が独特の位置を占めていた。対して、マンガ、アニメ、ゲームなどを中心とする後者は「一般的」には国内の漫画雑誌とテレビアニメを基盤とする国内文化だったと言える。僕が思春期の頃は前者こそがサブカルチャーであり、後者は80年代末の幼女連続殺人事件の犯人がいわゆる「オタク」だったことの影響もあり、ほとんど犯罪者予備軍のようなイメージで見られることも多かった。それが、世紀の変わり目のあたりで逆転した。インターネットの普及を背景に、若者のサブカルチャーの中心は後者に移動し、国の掲げる「クールジャパン」は政策的に空回りしているが、日本のオタク系サブカルチャーがグローバルに支持を集めている現実が広く知られるようになり、ドメスティックだと思われていた後者の文化はむしろグローバルな輸出文化としての期待を帯びるようになった。
このヘゲモニーの移動には様々な背景が想定されるが、ここでは特に前回論じた情報社会化による地理と文化の関係性の変化に注目してみたい。
たとえばこの20年の原宿のあり方を考えてみよう。90年代に歩行者天国を中心にコミュニティが発生し、そこから育っていった少女文化(いまでいう原宿「カワイイ」系文化)は、歩行者天国の廃止や地価の高騰などにより一度衰退する。しかし現在においては、同文化のグローバルな拡散を背景に、まるでかつての原宿的なものを「コスプレ」するかのように登場したきゃりーぱみゅぱみゅがアイコンとなり、現在の原宿もまた同時にかつての原宿を「コスプレ」し始めている。同じような指摘が、2005年の『電車男』ブーム以降の観光地化していった秋葉原にも可能だろう。
要するにかつては地理が文化を生んでいたのに対し、ここでは文化が地理を生んでいるのだ。このパワーバランスの変化はインターネットがもたらしたものだ。2008年に秋葉原連続殺傷事件が発生した際、秋葉原の一時的衰退はオタク系文化そのものの衰退につながる可能性はなくはなかった。しかし、そうはならなかった。理由は明確で、当時既にオタク系文化のコミュニティはインターネット上に移動していたからだ。当時の秋葉原は、むしろインターネット上のオタク系文化を「コスプレ」する観光地になりつつあった。そう、情報化はボトムアップの文化を生む場をストリートからソーシャルメディアに移動させたのだ。その結果、地理が文化を生むのではなく、文化が地理を決定するようになったのだ。
こうして考えてみたとき、メディア上の表現に基盤を置くオタク系文化の量的な優位は当然発生することになる。その結果、前者(サブカル)の側は自分たちを正当と見做す「正史」を主張することでのヒーリング(『ニッポン戦後サブカルチャー史』)を求め、後者(オタク)はミーハーに歴史上の人物たちの偉業に目一杯「萌え」狂うこと(『アオイホノオ』)になったのが現代のサブカルチャー状況であるとひとまずは言えるだろう。
以上が、非常に大雑把な僕流の戦後日本サブカルチャー史(のごくいち側面)だ。そしてこのサブカルチャーの「歴史化」を象徴する二つの番組の魅力、特に後者の福田雄一によるアプローチの素晴らしさについては語り尽くしても尽くせないものがあるが、僕がここで問題にしたいのはもう少し別のことだ。
それは、これらの番組が支持される背景に存在するのは、はっきり言ってしまえば日本社会自体が中年に、いや「熟年」になろうとしているということなのではないかと僕は思うのだ。 -
宇野常寛がこの一年半の「ダ・ヴィンチ」連載を振り返る!――『楽器と武器だけが人を殺すことができる』発売記念メタコメンタリー ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.226 ☆
2014-12-19 07:00
宇野常寛がこの一年半の「ダ・ヴィンチ」連載を振り返る!――『楽器と武器だけが人を殺すことができる』発売記念メタコメンタリー
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.12.19 vol.226
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本日、「ダ・ヴィンチ」誌での宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」をまとめた単行本第2弾、『楽器と武器だけが人を殺すことができる』が全国の書店・Amazonで発売されます。
チームラボ、ドラ泣き、風立ちぬ、多崎つくる、UC……数々の作品を扱ってきたこの連載。本日のほぼ惑では、裏話なども交えながらこの一年半を振り返るインタビューをお届けします。
▲宇野常寛『楽器と武器だけが人を殺すことができる』 (ダ・ヴィンチBOOKS)
2014年12月19日発売
◎聞き手・構成:中野慧
■01.〈失われた未来〉を取り戻すため
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