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2作目のハリウッド版ゴジラは「日本的怪獣映画」をどう再解釈したのか? ――切通理作と宇野常寛が語る映画『GODZILLA/ゴジラ』 (PLANETSアーカイブス)
2019-06-21 07:00
今朝のPLANETSアーカイブスは、映画『GODZILLA/ゴジラ』をめぐる切通理作さんとの対談をお届けします。これまで「特撮」についての数多の評論を世に問うてきた2人の批評家は、ハリウッドによるこの2度目のリメイク作をどう観たのでしょうか――?(構成:佐藤大志) ※初出:『サイゾー』2014年10月号 ※この記事は2015年10月24日に配信された記事の再配信です。
切通 今回の『GODZILLA』、面白かったです。本作では、人間の目線の切り取り方がメインになっていて、ずっとゴジラが小出しにされているんですよね。従来の怪獣映画だと、出現の予兆は尻尾だけ映したりして小出しにするけれど、一度登場してしまうとあとはひたすら前面に映され続けていました。それが今回は、ゴジラは登場した後も霧の向こうやビルの陰にいて、少しずつしか見せない。一番すごいと思ったのは、ハワイでゴジラとムートー【1】が戦い始めたら場面が変わって、アメリカ本土の主人公の家庭で奥さんが子どもに「テレビを消しなさい」なんて言ってるのが映されるところ。今はCGでどんな場面も作れてしまいますよね。だからはっきり言って、ゴジラとムートーの戦いをずっとやっていても飽きてしまう。それが本作では、2者が戦い始めて「おっ」と思っている間に画面が変わって、それからまた、建物や空の隙間から戦いが垣間見える、という繰り返しにすることで解消されている。そうしたON/OFFの効いた見せ方は新鮮な感じがしました。これはギャレス・エドワーズ監督の前作『モンスターズ/地球外生命体』【2】でも用いられていた手法だったので、その監督を抜擢してゴジラでこの撮り方をするというのは正解だったと思います。
それから、ラストシーンもよかったですね。海にゴジラが去っていって、その背中を見送った途端にあっさり映画が終わる。僕は平成ゴジラ【3】の、海の底で死んだと思われたゴジラが最後の最後で「ヤツはまだ生きていた!」と終わるエンディングには「またか」と思っていたので「これだよ!」と。
【1】ムートー
本作の敵怪獣。見た目は昆虫に似ている。フィリピンの炭鉱で発見された化石に繭の状態で寄生しており、一匹は日本へ、一匹は卵の状態でアメリカ本土に保管される。日本にやってきた雄は雀路羅市の原発を破壊し、そこで研究機関・モナークの管理のもと隔離されていた。目覚めた二匹は、生殖のためにアメリカ西海岸を目指す。
【2】『モンスターズ/地球外生命体』
監督・脚本/ギャレス・エドワーズ 公開/11年
地球外生命体のサンプルを積んだ探査機がメキシコ上空で大破してから数年後、近辺に謎の生物が多数発生。危険地帯となったメキシコに、カメラマンがスクープを狙って乗り込む。
【3】平成ゴジラ
後述の84年版『ゴジラ』から『ゴジラVSデストロイア』までの7作を指す。
宇野 僕は実際に観るまで、正直に言うとあまり期待していなかったんですね。だけど観てみたら意外とよかった。脚本はもう少し整理できたと思うし、手放しでは絶賛できないですが、全体としてはそれなりに満足している。
今回の『GODZILLA』は、初代『ゴジラ』【4】でも84年版『ゴジラ』【5】でもなく、「VSシリーズ」【6】のリメイクになっていて、それが正解だった気がします。
怪獣映画のルーツにはハリウッドで生まれたキング・コングがあるけれど、日本の怪獣はそこから隔世遺伝的に派生して、ほぼ別物になってしまっている。だからアメリカで再びゴジラを撮ろうとしたら、「怪獣とはなんなのか」を問い直す映画にならざるを得ない。
日本において怪獣は、当初は戦争の比喩として誕生した。ゴジラは原爆や水爆といった国民国家の軍事力の比喩だったし、それが街を襲うのは空襲の比喩だった。戦後日本では直接的に戦争映画を描けなかったので、怪獣というファンタジーの存在を投入することでイマジネーションを進化させていったのが特撮映画だったわけです。それが70年代には戦争の記憶が薄れ社会が複雑化して、その比喩が説得力を持たなくなり、怪獣なのに正義の味方になってしまったり公害の比喩になったりと迷走してしまった。その後、90年代に、当時のリアリティを取り入れる形でゴジラを作り直そうとしてVSシリーズが作られ、そのコンセプトをより徹底させたものとして「平成ガメラ」【7】が生まれた。善でも悪でもなく、敵となる怪獣がやってきたら地球の生態系を守るために戦う「地球の白血球」的存在としてガメラを描こうとしたのだけど、さまざまな理由からスタッフはコンセプトを徹底できなかった。象徴的なのは『ガメラ2 レギオン襲来』のラストですね。瀕死のガメラが子どもたちの祈りによって復活し、結局ヒーローになってしまう。当時のスタッフは、そうしないと怪獣映画をまとめられなかったんだと思うんですね。物語的なカタルシスを、そうしないと作れなかった。だから90年代は日本の怪獣映画にとって、怪獣をシステムとして描こうとして失敗していった時期だった。
そして本作では、ラストシーンで、去ってゆくゴジラを見て「神だ」と言うわけです。今作のゴジラは自然界のバランスを壊すムートーと戦うために現れて、自然の摂理そのもの=神として描かれている。これは日本人にはできない言い切りで、アメリカ人が怪獣というものを真正面から受け止めると、「神」という結論にならざるを得ないんだな、と思いました。だからこそ、ラストでただ去っていくゴジラを見て、VSシリーズを下敷きにした意味がよくわかった。一周回ってベタな設定になっているとは思うけれど、非常に説得力があった。システムとしての怪獣ではなく、「神」としての怪獣王としてゴジラを捉えることで、平成ガメラシリーズの罠を回避しているわけです。まあ、映画全体のつくりは、特に脚本がざっくりしすぎていて、全体的な完成度を考えると、VSシリーズはともかく、平成ガメラを超えたとはちょっと言い難いような気もしますが……。
【4】『ゴジラ』
1954年に公開された第一作目。日本の怪獣映画の始祖。海底に潜む太古の怪獣が水爆実験によって目を覚まし、東京を襲撃するという設定。今回の『GODZILLA』で渡辺謙が演じた芹沢猪四郎博士の名は、この作品のキーマン・芹沢大助博士の苗字と、監督・本多猪四郎の名前から付けられている。
【5】84年版『ゴジラ』
84年公開、ゴジラシリーズ16作目。54年版から時間軸が繋がっており、ゴジラは人類の敵として描かれる。
【6】「VSシリーズ」
89年『ゴジラVSビオランテ』を皮切りに、キングギドラ(91年)、モスラ(92年)、メカゴジラ(93年)、スペースゴジラ(94年)、デストロイアとゴジラが戦う一連シリーズ。
【7】「平成ガメラ」
『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95年)、『ガメラ2 レギオン襲来』(96年)、『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』(99年)の3部作。すべて金子修介監督、樋口真嗣特技監督、伊藤和典脚本。
切通 僕は今作は、今までのすべてのゴジラシリーズを肯定していると思いましたね。初代から『ゴジラ対メガロ』、あるいは84年版『ゴジラ』まで、どれに繋がってもおかしくない。誕生の理由は大きく異なるけれど【8】、それ以外、実はゴジラという存在そのものはベールに包まれていていじってないんです。ムートーは放射能を食べているし、雌雄があって生殖もするけれど、ゴジラは何を食べているか、オスかメスかもわからない。人間に攻撃されるとムートーは反撃するけど、ゴジラは意に介さない。「スターさん」なんだな、と。
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『心が叫びたがってるんだ。』のヒットが示すもの――深夜アニメ的想像力の限界と可能性(石岡良治×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)
2018-08-27 07:00
今朝のPLANETSアーカイブスは、アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』をめぐる石岡良治さんと宇野常寛の対談です。『とらドラ!』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の長井龍雪・岡田麿里・田中将賀が手掛け、興行収入10億円突破のヒットとなった本作と、それを取り巻くアニメ市場の状況。さらに、当時放送が始まったばかりの『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』の展望についても語りました。(初出:「サイゾー」2015年12月号) ※この記事は2015年12月23日に配信した記事の再配信です。
Amazon.co.jp:『心が叫びたがってるんだ。』 ■ 深夜アニメブームが生み出してしまった「お約束(コード)」
石岡 『心が叫びたがってるんだ。』(以下、『ここさけ』)は、予告編の段階では、舞台が秩父だったりで『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』【1】(以下、『あの花』)の二番煎じという印象でしたが、結果的には別物でしたね。
『アナと雪の女王』以降、日本のアニメ業界は『アイドルマスターシンデレラガールズ』【2】や『Go!プリンセスプリキュア』【3】など、プリンセス要素を表面的に取り入れた。『アナ雪』は本当はむしろ、プリンセスモチーフが無効になったことを示していたはずなんだけど。一方、『ここさけ』ではヒロインが憧れるお城を「ラブホテル」というペラペラな空間に設定した。「聖地巡礼」というけれど、実際、北関東でランドマークになるものなんて、こうしたラブホテルぐらいしかないわけです。まず、そうしたところから心をつかまれた。
登場人物たちの才能が高校生としてちょうどいい、というあたりも重要だと思う。つまり、ありもののミュージカルナンバーに歌を乗せる程度の才能というか。実際にこんな子がいたら高校生としては才能ありすぎなんですが、とはいえあり得なくない程度の才能になっていて、『ウォーターボーイズ』的な“みんなでミッションを成し遂げる”系の部活ものとして作られていた。同時に、あからさまなまでにアメリカの王道ハイスクール映画的な、野球部員とチアリーダーをメインキャラに配置してスクールカーストを取り入れたりして、最後は「順ちゃん、まさかその野球部と付き合うのかよ!?」と、ある種のオタクが怒るような(笑)エンディングになっていた。そこまで含めて、よく研究されていると思いました。
一方で、深夜アニメというオタクコンテンツ発の作品がどこまで一般向けにリーチするかの、ある意味マックスの限界がここにあると思った。学園ものアニメでシビアなスクールカーストを描くと、『響け! ユーフォニアム』【4】みたいに「実写でやれ」と言われてしまったりするけど、『ここさけ』を実写にすると、ヒロインの成瀬順がイタすぎて見てられないだろうな、と(笑)。『あの花』の実写版はわりと評判が良かったですが、やっぱりヒロインのめんまだけはコスプレにしかなっていなかった。『ここさけ』では順がそういうキャラクターで、どう考えてもアニメの住人。だからこのキャラがいければOKなんだけど、全然受け付けないと完全にアウトっていう。
【1】『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』放映/フジテレビ系にて、11年4~6月放映、13年劇場版公開:幼い頃は一緒に遊んでいた「じんたん(仁太)」「めんま(芽衣子)」「あなる」「ゆきあつ」「つるこ」「ぽっぽ」の6人。しかしめんまの突然の死をきっかけに距離が生まれ、高校進学時には疎遠になっていた。ひきこもりになった仁太のもとにめんまが現れ、「願いを叶えてほしい」と告げる。アニメファン以外からも人気を獲得し、秩父は「聖地巡礼」の代表格として扱われるようになった。
【2】『アイドルマスターシンデレラガールズ』放映/TOKYO MXほかにて、15年1月~:バンダイナムコによるソーシャルゲームを原案に、今年1月からアニメ化。「シンデレラ」をキーワードに、アイドル養成所に通う少女たちの奮闘を描く。
【3】『Go!プリンセスプリキュア』放映/テレビ朝日にて、15年2月~:2015年の『プリキュア』シリーズ作品(10代目プリキュア)。「プリンセス」をキーワードにした、全寮制の学園モノ。
【4】『響け! ユーフォニアム』放映/TOKYO MXほかにて、15年4~6月:シリーズ3作累計18万部発行のティーンズ小説を、京都アニメーションがアニメ化。弱小高校の吹奏楽部で部活に励む高校生たちの姿を、リアルな青春ドラマとしてシリアスに描くことを志向していた。
宇野 『ここさけ』は、岡田麿里【5】がこれまでやってきた10代青春群像劇の集大成だと思うんですよ。例えば『true tears』【6】では、オタクが持っている“不思議ちゃん萌え”の感情を利用して、自意識過剰な女の子の成長物語を効果的に描いてきた。あのヒロインが主人公にフラれることで、逆説的に自己を解放するというストーリーは今回も若干アレンジされて使われている。あと「鈍感なふりをすることが大人になること」だと勘違いしちゃったハイティーンの青春群像劇、という要素は『とらドラ!』【7】の原作にあったもので、それを岡田さんはうまく自分のものにした。そして『あの花』では、近過去ノスタルジーを描くには、実写よりも抽象度を上げたアニメのほうが威力が高い、ということをマスターしたんだと思う。『あの花』の路線でもう一回劇場作品をやってみた、くらいの企画かと思って観に行ったら、そういう意味で非常に集大成的な作品になっていて、よくできていましたね。
一方、集大成なだけに弱点も出てしまっている。それはどちらかというとクリエイターの問題ではなくて、今のアニメ業界やアニメファンといった環境の問題なんだけど。つまり、今やアニメにおいては「消費者であるオタクとの間にできたお約束(コード)を逆手に取る」というアプローチ以外、何も有効ではなくなってしまっている、という息苦しさがあった。この映画はヒロインが順のようなキャラクターだから成り立っているわけであって、“リア充”感の強い女の子が主役だったら、絶対キャラクター設定のレベルで拒否されてしまう。あるいはエンディングで、ヒロインが野球部の男と付き合うかもしれない、という描写なんて、お約束を逆手に取った明らかな悪意なんだけど、あれがギリギリだと思うんだよね。岡田・長井龍雪【8】コンビくらいの能力があるんだったら、もっと自由にやってほしいなと思うところは正直あった。
【5】岡田麿里:1976年生まれ。脚本家。近年では『黒執事』『放浪息子』『花咲くいろは』『AKB0048』『Fate/stay night』などの話題作・人気作の脚本・シリーズ構成を手がけている。
【6】『true tears』放映/08年1~3月:複雑な家庭に育った少年が、あることから涙を流せなくなった少女と出会い、自身や周囲との向き合い方を考えながら成長していく──という青春成長譚。
【7】『とらドラ!』放映/08年10月~09年3月:当時圧倒的な人気を誇っていた同名ライトノベルのアニメ版。長井・岡田コンビの初タッグ作。高校生のドタバタ青春ラブコメもの。
【8】長井龍雪:1976年生まれ。アニメーション監督・演出家。『ハチミツとクローバーII』で監督デビュー、『とある科学の超電磁砲』などを制作。
石岡 それはさっき僕が言った、深夜アニメ発の想像力は最大限に拡張して『ここさけ』が限界、という話と同じことですよね。
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これから映画はオペラ・歌舞伎化していく――『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』が示す「自己参照の時代」の到来(森直人×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)
2018-08-20 07:00
今朝のPLANETSアーカイブスは、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』をめぐる森直人さんと宇野常寛の対談をお届けします。J.J.エイブラムス監督による本作の「出来の良さ」から見えてくる映画に対する欲望の変化、20世紀の劇映画の名作を参照する二次創作的なアプローチがもたらす新たな課題とは?(初出:「サイゾー」2016年2月号) ※この記事は2016年2月24日に配信した記事の再配信です。
▲Amazon.co.jp『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』 宇野 僕は全然『スター・ウォーズ』マニアではないんですよ。さらに言うと、J.J.エイブラムス【1】も世間ほど高く評価していなかった。『スター・トレック イントゥ・ダークネス』(13年)がそうだったように、脚本のギミックで勝負しようとする作品が多くて、どうにも小賢しく感じていた。映画的な快楽を全然信じていないし使えない人なんだな、と。唯一好きだったのが『SUPER8/スーパーエイト』【2】で、あの作品に現れていた、映画史的なものに対するノスタルジックな視線のほうが、エイブラムスのオタク性が有効に働くと思っていた。今回も彼の二次創作作家としての才能がプラスに働いたんじゃないか。こんなこと言ったらファンに怒られるかもしれないけれど、単純に1本の映画として観た時、シリーズ全7作の中で一番「出来が」いいと思う。これはこれで褒め言葉に聞こえないかもしれないけど(笑)。
【1】 J.J.エイブラムス:1966年アメリカ生まれ。高校・大学時代から映画音楽や脚本に携わり、98年に『アルマゲドン』の脚本に参加。2000年代は『エイリアス』や『LOST』など人気テレビドラマシリーズの脚本を手がけ、05年には『ミッション:インポッシブルⅢ』、その後『スター・トレック』等の監督を務める。
【2】『SUPER8/スーパーエイト』:監督・脚本/J.J.エイブラムス製作/スティーヴン・スピルバーグほか 公開年/11年
79年、オハイオ州で自主制作のゾンビ映画を撮ろうとしていた少年たちは、夜中に線路で貨物列車の炎上事故を偶然撮影する。貨物に積まれていたのは宇宙人であり、彼らの周囲と街全体は恐慌に陥ることに。スピルバーグ監修、エイブラムス監督による『未知との遭遇』『E.T.』へのオマージュ的作品とされる。
森 僕も感想をひと言でまとめるなら「すごく上手」に尽きる。まったくストレスを感じずに楽しみました。とはいえ基本的にそれは想定内で、もしルーカスが監督するんだったら「今度は何をしでかすのか?」と皆ドキドキしていたと思うんですけど(笑)、J.J.がやるとなった時、誰もがある程度安心したんじゃないかな。宇野さんのおっしゃることもよくわかるんですけど、J.J.に対する世間の評価は『スター・トレック』のリブートを優等生的に成立させた時点でかなり固定したと思うので、今回も確実に80点を取ることは予想できていた。でもエピソード7は「無難以上の出来」だったと思う。
宇野 きっちり現代風にアップデートされていましたね。今初期三部作を観ると、恥ずかしくなるくらいストレートに、少年の社会化の物語から始まって父殺しの神話に接続していくというのをやっている。それが今回は、物語構造はほぼエピソード4を踏襲し、主人公格を黒人の青年と若い女の子に分散していて、政治的な配慮と共感のアイコンの分散として非常にうまく機能していた。キャラクター消費として旧来のファンの欲望を満たしつつ、現代の新しい神話として再提示するという役割を果たしていた。その時点でこの映画は、我々の期待しているものをクリアしていたと思う。
もともと『スター・ウォーズ』って、ストーリーは省略が多くて繋がっていないし、ドラマ性もとってつけたような薄っぺらさがあって、脚本・演出共に出来がいいとは言いがたかった。でも発想が新しくてエポックメイキングだからそれでいい、というものだったと思う。新三部作(エピソード1~3)は逆に、現代の技術で世界観を拡張することが望まれていたにもかかわらず、旧三部作と同じテンションで展開されてしまったためにどこか焦点がぼやけていたように思う。今回はその反省から、しっかりとマーケットの要請を押さえていましたよね。加えて、単純に現在の技術で『スター・ウォーズ』をしっかりやると、絵面はそんなに変わらないのにものすごくレベルアップしている。その快楽と、ヒロインの女優がものすごくいいというプラスアルファがあった。まさかエイブラムスの撮った『スター・ウォーズ』で、普通に役者がいいと思うなんてことがあると思っていなかった(笑)。ただ、往年の『スターウォーズ』ファンはこういう「過不足のないつくり」はすごく嫌がるかもしれませんね。まったく「らしくない」とも言えるので。
森 ルーカスは ILM【3】を立ち上げただけあって、デジタルジャンキーな側面があるでしょう。そのせいで新三部作はVFXの進化の過渡期をそのまま表していた。特にエピソード1『ファントム・メナス』(99年)はまだデジタルとフィルム撮影が交じっていて、どこか映像の実験に走っている印象です。でも今作は、シリーズで初めて3Dカメラで撮られたものなんだけど、同時に「旧三部作への回帰」がテーマにあって、映像もアナログの特撮と最新のCGを絶妙に組み合わせている。役者も活きているし、模型フェチ心をくすぐる物質感もあって、最適解と言っていいほどバランスがいい。観賞後は思わずトミカのおもちゃとか買っちゃいますよね(笑)。
J.J.は66年生まれで、エピソード4(77年)をリアルタイムで観ている世代。つまり『スター・ウォーズ』は彼の文化的原体験のひとつです。だからファン目線で批評的に作ることができていて、オールドファンの欲望のツボを突いてくるし、同時にビギナーも感染させる力がある。物語の途中から観てもハマるようにできているのは、J.J.がテレビドラマの仕事で培った話法が大きいのかもしれませんね。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15年)について対談した際に宇野さんは、15年は大作シリーズのリメイクやリブートが多くて、20世紀生まれのキャラクターを消費する段階に入っているという話をされてました。それはさらに進んで、20世紀のキャラクターやコンテンツを21世紀の技術で強化するやり方が本流になりつつある。そういう意味で今作は、破天荒な天才オリジネーターより、“使えるヤツ”的な最優秀フォロワーが重宝されがちな時代の象徴的な成功作であり、J.J.はフォロワータイプの代表選手だと明らかにしたんじゃないかな。
【3】ILM:ルーカスが立ち上げた特殊効果・VFXのスタジオ。「インダストリアル・ライト&マジック」の略。ルーカスフィルム買収により、現在はディズニー傘下にある。
宇野 今回、エピソード7への評価とは別に、このSW現象を見ていて、僕らの映画に対する欲望自体の変化を感じた。実際、エピソード7を観てそこそこ満足している自分を顧みたときに、映画に対する欲望がオペラに対するもののようになってしまっているんですよね。映画というのは究極的には20世紀のもので、特に大衆娯楽映画をグローバルに拡大する動きは戦後のものだった。そして今、グローバルな映像産業においては、20世紀のビッグタイトルを温め直す娯楽が興行の中心に来ている。もちろんそうでない映像産業はローカルかつミニマムに移っていくんだけど、少なくともハリウッドはそうなってしまっている。結果、ある程度の規模以上のグローバルな映画はオペラや歌舞伎のように、20世紀のノスタルジーで駆動する名作への二次創作的なアプローチとして、再解釈の精度とユニークさを競う自己参照の時代になっていくんだと思う。
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もはやサブカルチャーは「本音」を描く場所ではなくなった――『バケモノの子』に見る戦後アニメ文化の落日(宇野常寛×中川大地)(PLANETSアーカイブス)
2018-07-09 07:00
今朝のPLANETSアーカイブスは『バケモノの子』をめぐる評論家の中川大地さんと宇野常寛の対談をお届けします。『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』などでヒットを飛ばし、ポストジブリの最右翼と目される細田守監督とスタジオ地図。その最新作が逆説的に示してしまった戦後アニメ文化の限界とは? 初出:「サイゾー」2015年9月号(サイゾー) ※この記事は2015年10月7日に配信した記事の再配信です。
Amazon.co.jp:バケモノの子
大作化で発揮されなくなった細田守の批評性
中川 どうしても面白いとは思えない作品でした。「“夏休み映画”を作らなければ」という形骸的要請ばかりが先だって、ワクワク感が全然なくて。異世界ファンタジーとしての体裁が、ほとんど機能してなかった気がします。
宇野 僕はちょっと評価が複雑で、観ている間はそんなに気にならないんですよ。でも、観終わったあとに何か言おうと思うとまぁ、誰も傷つけずによくできていたな、ということしか浮かばない。
中川 基本的には、シングルマザーの子育てを描いた前作『おおかみこどもの雨と雪』【1】と対の構造になっている。つまり、親が一方的に子を導くのではなく、親の側が子から教えられる相互性とか、熊徹【2】だけではなく、友人の多々良と百秋坊【3】らにも子育てのタスクを分散させるとかで、細田守監督なりの新たな父性や家族像を追求しようとしたわけですね。そのメッセージ性自体にはなんら異論はないのだけれど、『おおかみこども』とセットだと「母にはあれだけ苛酷な運命を押しつけといて、父はここまでユルユルに免責すんのかよ!」という見え方になってしまう(笑)。
【1】『おおかみこどもの雨と雪』
公開/12年7月
細田守のオリジナル長編2作目。
“おおかみおとこ”と結婚し子どもを産んだ女性と、その娘と息子の“おおかみこども”の物語。シングルマザーとなった主人公の花を通じて描かれる母性信仰の強さが、一部から批判を集めた。
【2】熊徹
熊の容姿をした半獣人で、武道家。バケモノの世界で次期宗師の座を猪王山と争っている。人望が厚い猪王山に比べ、荒くれ者で我が強い。蓮を拾い、名前を名乗らなかった9歳の彼を「九太」と名づける。
【3】多々良と百秋坊
どちらも熊徹の幼なじみで、多々良はヒヒの半獣人、百秋坊は豚の半獣人で僧侶。多々良は大泉洋、百秋坊はリリー・フランキーが声を当てている。
宇野 『おおかみこども』では「女性賛美の形をとった女性差別」の典型例みたいなことをやってしまって、ちょっと過剰に叩かれすぎた面もあるけど、まあ、さすがにあれは今の40代男性の自信のなさと、屈折した男根主義が悪い形で全面化して作品を狭くしていた側面は否めない。その反省か、今回、現代的な家族観・コミュニティ観を最小公倍数的にきれいに描いていて、こういう関係が美しいという美学はわからなくもないけれど、今度はその分、批判力のあるファンタジーではなくなってしまった。
中川 まぁ『おおかみこども』での批判に誠実に対応した結果、たまたま男性側の免責に見えてしまっただけかもしれないからジェンダー論的な批判は留保するとして。もっと問題なのは、「渋天街」のイメージの弱さでしょう。『千と千尋の神隠し』的な、この世とは違う理で動く摩訶不思議な異界としての設定も映像的快楽も希薄で、ただステレオタイプな都会としての渋谷に対比させるためだけの、素朴な共同体社会でしかなかった。
宇野 あそこで描かれているものって、完璧に正しくてそこそこ美しいと思うんですよ。でも、いま期待をかけられているスタジオ地図【4】の新作アニメーションで、夏休みの最大のごちそうとしてみんなが観に行って、この作品が出てきた時の物足りなさは否めないと思う。ポスターから想像できるストーリーの半歩もはみ出ていない。
結局細田さんって、美少年というモチーフに一番興味があると思うんですよ。『サマーウォーズ』【5】を観ると明らかじゃないですか。一番思い入れがあるのはカズマだったでしょう。カズマは脇役だったのが『おおかみこども』で“雨”を経て、『バケモノの子』では完全に少年が主役になっている。モチーフレベルでは正直になってきているんだけど、その間に細田守の社会的地位が上がって、表現レベルではどんどん丸くなってしまって、とうとう誰も傷つけない代わりに何もない作品になってしまった。
特に九太が青年になって以降、後半のシナリオが完全に“段取り”になってしまっている。一郎彦【6】が実は人間の子どもだというのは観ていればすぐにわかるし、クライマックスのアクションシーンが必要だからという理由だけで渋谷に出るのも……。あと、九太の社会復帰が、勉強して高認をとって大学に行くことを決意する【7】って展開に到っては、だったらなんのためにファンタジーが存在するのかよくわからなくなってしまう。異世界で修行をすることで、大学では学べないような世界の豊かさを学んできたんじゃなかったのか、と(笑)。この映画の中でいちばん豊かに描けているのって、少年期の修行時代の擬似親子+2人の傍観者(多々良・百秋坊)というあのコミュニティですよね。
【4】スタジオ地図
『時をかける少女』『サマーウォーズ』を手がけたプロデューサーが、細田守と共にマッドハウスから独立して設立したアニメ制作会社。
【5】『サマーウォーズ』
公開/09年8月
17歳の健二が、ふとしたことから憧れの先輩の田舎に共に帰省し、
大家族の仲間入りをする。同時進行でインターネット上の仮想世界「OZ」ではサイバーテロが発生。田舎の大家族とネット上の仮想世界での出来事がリンクしながら進んでゆく。
【6】一郎彦
熊徹と宗師の座を争う猪王山の長男。実は拾われてきた人間の子ども。少年期はさわやかで聡明な子どもだったが、成長するにつれて心に闇を宿し、最後に暴走する。
【7】勉強して高認をとって~
17歳になってから人間社会に再び足を踏み入れた九太は、図書館で出会った楓(後述)の存在をきっかけに勉強を始め、楓の勧めもあって大学受験を考えるようになる。結果、熊徹とぶつかり、渋天街を飛び出してしまう。
中川 映像的には、細田さんが自分の本当に得意な表現を純粋抽出して組み合わせることで構築されてますよね。要は『サマーウォーズ』でも好評だった対戦格闘アクションを核に、『おおかみこども』での人獣のメタモルフォーゼの要素を盛り込むなどの手法で、ドラマの軸線を作った。熊徹からの見取り稽古をアニメーションのシンクロで示した修行時代や、猪王山とのバトルなどは、すごく良かった。
渋天街のイメージの弱さも、肯定的に捉えるなら、これまでの細田作品における現実社会と異世界──『デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム!』【8】や『サマーウォーズ』ならデジタル空間だったり、『おおかみこども』なら狼たちの自然世界だったり──とを等価に描く表現の延長線上に発想されたがゆえの帰結ともいえる。渋天街って、設定上は人間界の渋谷の地形と対応している〈拡張現実〉的な世界ということなので。そういう感じで、異世界を人間社会とフラットに捉えて特別視しない点が、自然/空想賛美的なジブリ作品に対する、細田守の現代的な作家性だったわけです。
しかし今作については、画面を見ていても2つの世界の対応が全然伝わらないし、作劇上も活かされていない。結局、世界観構築に際しての批評性が弱いので、前半と後半でファンタジー世界と現代社会を対置するプロットが作劇意図ほどには機能していないんですよ。それが“段取り”感につながっているのだと思う。
【8】『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』
公開/00年3月
細田守監督作品。ネットに出現した新種のデジモンの暴走を止めるべく、少年たちが戦いに乗り出すストーリーで、『サマーウォーズ』公開当初から類似性が指摘されていた。
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【特別再配信】『心が叫びたがってるんだ。』のヒットが示すもの――深夜アニメ的想像力の限界と可能性(石岡良治×宇野常寛)
2017-08-07 07:00
今回の特別再配信では、アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』をめぐる石岡良治さんと宇野常寛の対談をお届けします。『とらドラ!』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の長井龍雪・岡田麿里・田中将賀が手掛け、興行収入10億円突破のヒットとなった本作と、それを取り巻くアニメ市場の状況について語りました。
(初出:「サイゾー」2015年12月号/本記事は2015年12月23日に配信した記事の再配信です )
(出典)
▼作品紹介
『心が叫びたがってるんだ。』
監督/長井龍雪 脚本/岡田麿里 出演(声)/水瀬いのり、内山昂輝、雨宮天、細谷佳正ほか 制作会社/A-1 Pictures配給/アニプレックス 公開/9月19日
幼い頃に憧れていたお城(=ラブホテル)から父と女性が出てくるのを見て、それを母親に話したことから、両親が離婚した順。そのとき、妖精によって順は「しゃべると腹痛が生じる呪い」をかけられ、そのまま成長する。高校生になっても、そのせいで携帯のメールでしか会話できない。あるとき彼女は、クラスメートの坂上拓実、田崎大樹、仁藤菜月と共に「地域ふれあい交流会」の実行委員を担当するよう担任に指名される。それぞれが事情を抱えながら、交流会のミュージカル上演に向けて進んでゆく。大ヒット作『あの花』のメインスタッフが最集結し、同作と同じ埼玉県秩父市を舞台にした高校生の青春群像劇。
深夜アニメブームが生み出してしまった「お約束(コード)」
石岡 『心が叫びたがってるんだ。』(以下、『ここさけ』)は、予告編の段階では、舞台が秩父だったりで『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』[1](以下、『あの花』)の二番煎じという印象でしたが、結果的には別物でしたね。
『アナと雪の女王』以降、日本のアニメ業界は『アイドルマスターシンデレラガールズ』[2]や『Go!プリンセスプリキュア』[3]など、プリンセス要素を表面的に取り入れた。『アナ雪』は本当はむしろ、プリンセスモチーフが無効になったことを示していたはずなんだけど。一方、『ここさけ』ではヒロインが憧れるお城を「ラブホテル」というペラペラな空間に設定した。「聖地巡礼」というけれど、実際、北関東でランドマークになるものなんて、こうしたラブホテルぐらいしかないわけです。まず、そうしたところから心をつかまれた。
登場人物たちの才能が高校生としてちょうどいい、というあたりも重要だと思う。つまり、ありもののミュージカルナンバーに歌を乗せる程度の才能というか。実際にこんな子がいたら高校生としては才能ありすぎなんですが、とはいえあり得なくない程度の才能になっていて、『ウォーターボーイズ』的な“みんなでミッションを成し遂げる”系の部活ものとして作られていた。同時に、あからさまなまでにアメリカの王道ハイスクール映画的な、野球部員とチアリーダーをメインキャラに配置してスクールカーストを取り入れたりして、最後は「順ちゃん、まさかその野球部と付き合うのかよ!?」と、ある種のオタクが怒るような(笑)エンディングになっていた。そこまで含めて、よく研究されていると思いました。
一方で、深夜アニメというオタクコンテンツ発の作品がどこまで一般向けにリーチするかの、ある意味マックスの限界がここにあると思った。学園ものアニメでシビアなスクールカーストを描くと、『響け! ユーフォニアム』[4]みたいに「実写でやれ」と言われてしまったりするけど、『ここさけ』を実写にすると、ヒロインの成瀬順がイタすぎて見てられないだろうな、と(笑)。『あの花』の実写版はわりと評判が良かったですが、やっぱりヒロインのめんまだけはコスプレにしかなっていなかった。『ここさけ』では順がそういうキャラクターで、どう考えてもアニメの住人。だからこのキャラがいければOKなんだけど、全然受け付けないと完全にアウトっていう。
宇野 『ここさけ』は、岡田麿里[5]がこれまでやってきた10代青春群像劇の集大成だと思うんですよ。例えば『true tears』[6]では、オタクが持っている“不思議ちゃん萌え”の感情を利用して、自意識過剰な女の子の成長物語を効果的に描いてきた。あのヒロインが主人公にフラれることで、逆説的に自己を解放するというストーリーは今回も若干アレンジされて使われている。あと「鈍感なふりをすることが大人になること」だと勘違いしちゃったハイティーンの青春群像劇、という要素は『とらドラ!』[7]の原作にあったもので、それを岡田さんはうまく自分のものにした。そして『あの花』では、近過去ノスタルジーを描くには、実写よりも抽象度を上げたアニメのほうが威力が高い、ということをマスターしたんだと思う。『あの花』の路線でもう一回劇場作品をやってみた、くらいの企画かと思って観に行ったら、そういう意味で非常に集大成的な作品になっていて、よくできていましたね。
一方、集大成なだけに弱点も出てしまっている。それはどちらかというとクリエイターの問題ではなくて、今のアニメ業界やアニメファンといった環境の問題なんだけど。つまり、今やアニメにおいては「消費者であるオタクとの間にできたお約束(コード)を逆手に取る」というアプローチ以外、何も有効ではなくなってしまっている、という息苦しさがあった。この映画はヒロインが順のようなキャラクターだから成り立っているわけであって、“リア充”感の強い女の子が主役だったら、絶対キャラクター設定のレベルで拒否されてしまう。あるいはエンディングで、ヒロインが野球部の男と付き合うかもしれない、という描写なんて、お約束を逆手に取った明らかな悪意なんだけど、あれがギリギリだと思うんだよね。岡田・長井龍雪[8]コンビくらいの能力があるんだったら、もっと自由にやってほしいなと思うところは正直あった。
石岡 それはさっき僕が言った、深夜アニメ発の想像力は最大限に拡張して『ここさけ』が限界、という話と同じことですよね。
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【特別再配信】『ズートピア』――ディズニーの自己批評路線が作り上げた、嫌になるくらいの完成度(イシイジロウ×宇野常寛)
2017-07-10 07:00
今回の特別再配信では、映画『ズートピア』をめぐるイシイジロウさんと宇野常寛の対談をお届けします。高い完成度のシナリオで右肩上がりのヒットとなった本作。絶妙なさじ加減で盛り込まれた政治性と、3DCGが可能にした柔軟な映画作りの可能性、そしてディズニー買収後のピクサーが失ったテーマ。その完成度の高さの理由とディズニーアニメとしてのすごさを語りました。(構成:須賀原みち/初出:「サイゾー」2016年7月号(サイゾー)/2016年7月27日に配信された記事の再配信です)
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(出典)
▼作品紹介
『ズートピア』
監督:リッチ・ムーア/バイロン・ハワード 脚本:ジャレッド・ブッシュ/フィル・ジョンストン 制作:ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ 公開:2016年4月23日(日本)
進化によって、肉食動物と草食動物が仲良く共存できるようになった世界の大都会「ズートピア」。ウサギ初の警察官となったジュディと、この世界にあっても嫌われ者のキツネゆえひねくれた詐欺師ニックのコンビが、ズートピアで起きる連続行方不明事件の調査に当たる。その過程で変わってゆく2人のバディ的関係を軸に、種族を超えた共存が可能になってもなお続く差別や偏見を明確に描く。
イシイ 『ズートピア』、自分のようなクリエイターからすると、鼻につくぐらいよくできていましたね。「(ジョン・)ラセター【1】、ここで絶対ドヤ顔してる!」って思うところが何度もあって(笑)、嫌になるくらいの素晴らしさでした。これまでディズニーが作り上げてきたアーカイブを破壊するような邪道的なことをやりながら、エンターテインメントの文法にしっかり則っているから観客にも伝わるし、エンタメ作品として成立している。完成度が高すぎます。
宇野 アニメーション映画の宣伝って、「このキャラクターが動くところが観たい」と思わせるのが重要じゃないですか。『ズートピア』はそのルックスが地味で、どうなのかな?と思っていた。でも実際に観てみたら、とにかく感心しましたね。設定や筋立ては結構いい加減なところもあると思うのだけど、そういう穴をかなり露骨に現実の比喩だと宣言することで無効化してしまう、というやり方でしょう? ディズニーがファンタジーの力を使って現実のヤバさをえぐり出してくるタイプのものを、このレベルで出してくるとは。
イシイ 僕もコマーシャルを見ただけだとそんなに惹かれていなくて、「ステレオタイプなバディものだな」って思いながら観に行った。しかも、主人公のジュディが、最初は理想主義すぎて印象が良くないんですよ。ところが、10分も観ていると彼女を応援せざるを得ない気持ちになってしまう。その演出とシナリオの積み上げ方のうまさとテーマ性がセットになっていて、よく効くようになっていた。
宇野 後味のコントロールが絶妙なんですよね。物語の中ではすごくキレイに完結してスッキリしている半面、例えば会見のシーン【2】で「自分がジュディの立場だったらどう答えたか?」とか、現実に持ち帰って考えさせるようにしている。政治的なメッセージが鼻につくという人もいるかもしれないけど、現実の問題を作品に取り込むことで、非常に奥行きの深いアニメーションを構築していたと思う。程よくモヤモヤを持ち帰らせているのがとにかくうまい。アニメに現代の現実を持ち込むと、作品の世界が壊れてしまうことも多いけど、本作は、そのバランス感覚が巧みだった。もともとディズニーはこういうことが苦手な印象があったんですよ。ディズニーランドじゃないけど、“夢の国”を作るのがディズニーで、社会的なものを取り込むのはピクサー、という感じで。
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【特別再配信】『聲の形』――『君の名は。』の陰で善戦する京アニ最新作が、やれたこととやれなかったこと(稲田豊史×宇野常寛)
2017-06-12 07:00
「特別再配信」の第9弾は話題のコンテンツを取り上げて批評する「月刊カルチャー時評」、映画『聲の形』についての稲田豊史さんと宇野常寛の対談をお届けします。
後半失速した漫画原作を、統一感のある劇場向けアニメとして見事に再構成した本作。聴覚障害者を記号的な美少女として描くことで、00年代的な「萌え絵」を生々しい「現実」と対峙させる、その試みの是非について論じます。
(構成:金手健市/初出:「サイゾー」2016年12月号/この記事は2016年12月22日に配信した記事の再配信です)
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(画像出典:映画『聲の形』公式サイトより)
▼作品紹介
『聲の形』
原作/大今良時 監督/山田尚子 脚本/吉田玲子 制作/京都アニメーション 出演(声)/入野自由、早見沙織、悠木碧ほか 配給/松竹 公開/16年9月17日
聴覚障害を持つ硝子は、普通学級に転入したが、クラスメイトからいじめや嫌がらせを受ける。その中心になっていた男子児童・石田だったが、ある日学校側からいじめを指摘されたことをきっかけに、今度は石田がいじめられる側に回ってしまう。硝子はその後転校し、石田は心の傷を抱えたまま高校生になった。ある時、硝子と石田は再会し、周囲の友人たちも含めて徐々に関係を深めていく。原作は作者のデビュー作であり、2011年に「別冊少年マガジン」にて読み切り版が掲載された際に、大きな反響を呼んだ(その後連載化)。
宇野 前提として、僕は原作(連載版)を読んでいたときに、後半になるにつれて舵取りに失敗した作品だと思っていたんですよね。聴覚障害を持つヒロインを萌え系の絵で描くというある種露悪性のあるギミックを使って、取り扱いの難しい題材にどこまで深く切り込めるか、少年マンガの枠組みの中で挑んだ、かなり偉大な冒険作ではある。具体的には、どうしてもどこかの部分で絶対的な断絶がある存在と、あるいはどうしても消せない過去とどうやって向き合っていくのかを描きたかったんだと思うんですよ。コンセプトも面白いし、志も高かった。
でも、原作マンガの後半は明らかに失敗している。あの『中学生日記』ならぬ『高校生日記』みたいな青春群像劇はないでしょう?この設定を用いている意味がない内容だし、描写も凡庸。そして何より、前半で提示したテーマが、この展開で雲散霧消してしまっている。
作者としては、読者の感情移入の装置として群像劇にすることで、この物語を他人事じゃなくて自分事として捉えられるようにしようとしたんだと思うんだけど、結果、それが作者に対して高いハードルからの逃避として機能してしまったというのが、僕の原作理解です。その原作をどう映像化するのかというときに、劇場版では取捨選択がそれなりにうまくいって、結果として『聲の形』という作品自体をかなり救済したんじゃないか。
稲田 長めのコミック原作モノの映画化でありがちなのが、原作を読んでいなくても、エピソードを端折った部分がなんとなくわかっちゃうということ。「このシーンの前後が本当は描かれていたけど、尺の都合でカットした結果、描き込みが足りなくて説得力がなくなってるな」とか。でも、『聲の形』にはそれが全然なかった。僕は原作を読まずに劇場に行ったんですが、1本の映画として過不足なくまとまっていて、いくつかのエピソードは端折ったんだろうけど、そのことが作品の本質をまったく傷つけていないのが伝わりました。
観る前は、「障害者差別の話とそれに関する贖罪の話なのかな」程度の認識だったんですけど、実際はその数段上をいっていた。それをはっきり感じたのは、高校生になった植野【1】と硝子【2】の観覧車のシーンです。聴覚障害者の硝子を疎ましく思っている植野が、硝子に対して「あんたは5年前も今も、あたしと話す気がないのよ」と言う。「障害者を差別する側が100%悪い」という一般的な認識が絶対多数である中、ともすれば「いじめられていた障害者側の“非”を糾弾する」とも取られかねない、なんなら炎上しかねない展開ですが、ものすごく説得力がありました。
実際、硝子はなんでもすぐに謝ってしまうし、態度はずっと卑屈です。植野が示した不快感は「健常者だろうが障害者だろうが、卑屈なのは良くない」という、現実社会においてはなかなか口に出しては言えない心の叫びだった。だから終盤に硝子が飛び降り自殺を図ったときに、観客はそれが彼女の絶望から来る行動というよりは、「人として身勝手な行動」だという解釈に納得できる。それまでに説得力あるシーンを重ねたからこそ、そこに到達できるんです。
もうひとつ、若者コミュニケーション論的な部分にも目がいきました。この作品、とにかく登場人物がすぐ謝るんですよね。「ごめんなさい」のセリフがすごく多い。登場人物たちも含む“さとり世代”以降の世代に特有の、「深い人間関係を築いて不協和音に苦しむよりも、さっさと謝って距離を取ったほうが楽」というやつです。それに対して、「もっと深く関わらないと駄目なんだ」ということを描いている点は、非常に批評的だと感じました。
こういった主張や批評を実写でやったら、主張が剥き出しすぎて実に空々しくなってしまうと思うんですよ。でもアニメという様式美を通すことで、観客はストレートな主張や批評にも聞く耳を持つ。素直に受け入れられる。今後、いわゆる“文芸”と呼ばれるような、人間を描こうとする映像ジャンルは、実写よりアニメで伝えたほうが伝達効率がいいんじゃないか、とすら思いました。少なくとも若者層に対しては。
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【春の特別再配信】 『この世界の片隅に』――『シン・ゴジラ』と対にして語るべき”日本の戦後”のプロローグ(中川大地×宇野常寛)
2017-05-29 07:00
第7弾となりました「2017年春の特別再配信」、話題のコンテンツを取り上げて批評する「月刊カルチャー時評」をお送りします。今回のテーマはアニメ映画『この世界の片隅に』です。戦時下の一人の女性の視点を通して個人と世界の対峙を描き、大好評を博した本作。しかし、その出来の良さゆえに逆説的に明らかになった「戦後日本的メンタリティの限界」とは?(構成:須賀原みち/初出:「サイゾー」2017年1月号/この記事は2017年1月26日に配信した記事の再配信です)宇野常寛が出演したニコニコ公式生放送、【「攻殻」実写版公開】今こそ語ろう、「押井守」と「GHOST IN THE SHELL」の視聴はこちらから。
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(出典)
▼作品紹介
『この世界の片隅に』
監督・脚本/片渕須直 原作/こうの史代 出演(声)/のん、細谷佳正ほか アニメーション制作/MAPPA 配給/東京テアトル 公開/16年11月12日より全国順次
1944年の広島県呉市。広島市で育ったすずは、知らない青年のもとに嫁いできた。戦争が激化し、呉もたびたび激しい空襲を受ける中で、絵を描くことが好きで得意だったすずが生活を守ろうとする姿と、ある出来事によってふさぎ込んでゆくさまを描く。
08年に単行本が刊行された、こうの史代の代表作のアニメ化。劇場版製作に至るまでのクラウドファンディングという手法も話題となった。
中川 本作は、『シン・ゴジラ』と対にして語るのに今年一番適した作品だと思いました。『シン・ゴジラ』は日本のミリタリー的な想像力が持ってきた最良の部分をリサイクルして、従来日本が苦手といわれてきた大局的な目線での状況コントロールに対する夢を描いていた。一方で、『この世界の片隅に』は『シン・ゴジラ』で一切描かれなかった庶民目線での大局との向き合い方を描ききった。この両極のコンテンツが2016年に出てきたことは、非常に重要です。
すでに多くの人が語っていますが、雑草を使ってご飯を作るような戦時下の生活を“3コマ撮りのフルアニメーション”に近い手法で丹精に描くことにより、絵として表現できる限りの緻密さと正確さで日常描写を追求するという高畑勲の最良の遺産を、見事に現代的にアップデートしていた。そうした虚構の力によって、劣化していく現実へのカウンターを打てていたのは、素晴らしいと思う。
宇野 片渕さんは高畑勲的な「アニメこそが自然主義的リアリズムを徹底し得る」というテーゼを、一番受け継いでいる人なんだと思う。高畑勲が前提にしていたのは、自然主義とは要するに近代的なパースペクティブに基づいた作り物の空間であるということ。だからこそ、作家がゼロから全てを生み出すアニメこそが自然主義リアリズムを貫徹できるという立場に立つ。対する宮﨑駿は、かつて押井守が批判した「塔から飛び降りてしまうコナン」問題が代表する反自然主義的な表現、彼のいう「漫画映画」的な表現こそがアニメのポテンシャルであるとする。
片渕さんの軸足は高畑的なものにあるのだけど、『アリーテ姫』【1】や『マイマイ新子と千年の魔法』【2】がそうであったように「アニメだからこそ獲得できる自然主義リアリズム」をストレートに再現するのではなく、常に別の基準のリアリズムと衝突させることでアニメを作ってきた。比喩的に言うと、本作はその集大成で、“高畑的なもの”と“宮﨑的なもの”がひとつの作品の中でぶつかっていて、しかもそれがコンセプトとして非常に有効に機能している。そういう意味で、戦後アニメーションの集大成と言ってもいいんじゃないかと思いますね。
【1】『アリーテ姫』:01年公開の、片渕監督の出世作。制作はSTUDIO 4℃。
【2】『マイマイ新子と千年の魔法』:09年公開。片渕監督の代表作。制作はマッドハウス。
中川 そうした大前提の上で、原作が持っていたコンセプトとのズレや違和を語るなら、こうの史代の幻想文学性とでもいうべきものが、映画では児童文学性に置き換えられて失われてしまった部分もある。片渕さんは「子どもだから見ることのできる世界」といった児童文学的なものへのこだわりが非常に強く、これはむしろ“宮崎的なもの”に近い。
『この世界の片隅に』は、周りから大人になることを押し付けられて嫁に行ったすずさんの日常の鬱憤が、最終的に戦争という理不尽さの受け止め方につながる構造になっている。映画では周作と水原哲に対するすずさんの目線は、子どもでいたかった人が大人の性愛関係を拒絶するように描かれている。それは、片渕さんがすず役の声優として、『あまちゃん』以来ユニセックスなイノセンスを持ち続けているのんという女優にこだわったことにも表れています。でも、こうのさんはミニマムな人間関係の中で表出する世界の残酷さに対する感性が非常に高い人で、『長い道』【3】でも描かれたように、こうの作品のヒロインは大人の性愛関係を前提に織り込んだ上で、男性との間の丁々発止のバーター関係を築いている。その違いが、片渕さんによるこうの史代解釈の限界とも感じました。
【3】『長い道』:訳ありで結婚した夫・壮介と妻・道の、穏やかだが奇妙な生活を描いた短編連作集。01~04年連載。
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【最終回】加藤るみの映画館(シアター)の女神 2nd Stage ☆ 第12回『カフェ・ソサエティ』『スウィート17モンスター』【毎月第2木曜配信】
2017-05-18 07:00
バラエティに富んだ趣味を生かして活躍中のタレント・加藤るみさんの映画コラム『映画館(シアター)の女神』は、今回で最終回を迎えます。紹介するのは現在上映中の2作品、ジェシー・アイゼンバーグの出演作『カフェ・ソサエティ』と、アメリカン青春コメディが大好きなるみさんが「傑作」と太鼓判を押す『スウィート17モンスター』です。
どうも、初夏という言葉が好きです。加藤るみです。
最近、夏はもうすぐそこにあるというくらい、温かい気温に恵まれた日が続いていますね。
私は田舎で生まれ育ったせいか、すでに半袖一枚で過ごす日があるほど……。
早すぎ? 夏が待ち遠しい、今日この頃です。
さて、
今回のコラムは、私の“好き!!”が詰まった2本をオススメします。
ウディ・アレン監督最新作『カフェ・ソサエティ』と、
こじらせ女子に贈りたい青春コメディー映画『スウィート17モンスター』をご紹介。
只今、劇場で上映中の新作映画。
ぜひ、観に行ってもらいたい私のイチオシです。
~大人のためのおとぎ話~
『カフェ・ソサエティ』(出典)
ここ最近のウディ・アレン作品の中で最もゴージャスな仕上がりとなったのが、本作『カフェ・ソサエティ』である。
豪華なキャストはもちろんのこと、ハリウッドとニューヨークを舞台にビター&スウィートな世界に酔いしれることは間違いない。
そして、毎度ながらのお楽しみであるウディ・アレン節が炸裂する人生&恋愛の教訓はクスクス笑えるポイントが満載だ。
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【春の特別再配信】『君の名は。』興収130億円でポストジブリ作家競争一歩リード――その過程で失われてしまった“新海作品”の力(石岡良治×宇野常寛)
2017-05-15 07:00
「2017年春の特別再配信」第5弾は、話題のコンテンツを取り上げて批評する「月刊カルチャー時評」から、映画『君の名は。』についての石岡良治さんと宇野常寛の対談をお届けします。コアなアニメファン向けの映像作家だった新海誠監督が、なぜ6作目にして大ヒットを生み出せたのか。新海作品の根底にある“変態性”と、それを大衆向けにソフィスティケイトした川村元気プロデュースの功罪について語ります。(構成:金手健市/初出:「サイゾー」2016年11月号)
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▼作品紹介
『君の名は。』
監督・脚本・原作/新海誠 製作/川村元気ほか 出演(声)/神木隆之介、上白石萌音、長澤まさみほか 配給/東宝 公開日/8月26日
東京都心で暮らす男子高校生・瀧と、飛騨の山奥の村で暮らす女子高生・三葉は、ある時から、互いの肉体が入れ替わる不思議な現象を体験する。入れ替わって暮らす際の不便の解消のために、別の身体に入っている間に起こった出来事を互いに日記にし、その記録を通じて2人は次第に打ち解けていく。だがある日、突然入れ替わりは起きなくなり、瀧は突き動かされるように飛騨へ三葉を探しに行く。そこで彼は意外な事実を知り──。新海誠の6作目の劇場公開作品にして、まれに見る超メガヒットとなった。
宇野 まあ、身もふたもないことを言えば、よくできたデート映画ですね、という感想以上のものはないんですよね。本当に川村元気って「悪いヤツ(褒め言葉)」だな、と思わされました。新海誠という、非常にクセのある作家の個性を確実に半分殺して、メジャー受けする部分だけをしっかり抽出するという、ものすごく大人の仕事を川村元気はやってのけた。
新海誠の最初の作品である『ほしのこえ』【1】は、二つの要素で評価されていた作品だと思う。ひとつは、キャラクターに関心が行きがちな日本のアニメのビジュアルイメージの中で、背景に重点を置いた表現を、それもインディーズならではのアプローチで再発掘したという点。もうひとつは、後に「セカイ系」と言われるように、インターネットが普及しつつあった時代の人と人、あるいは人と物事の距離感が変わってしまったときの感覚を、前述のビジュアルイメージと物語展開を重ね合わせてうまく表現していたところ、この二つです。ただ、それ以降の新海誠は、背景で世界観を表現しようというのはずっと続いていたけれど、ストーリーとしてはそうした時代批評的な部分からは一回離れて、ある種正当な童貞文学作家というか、ジュブナイル作家として機能していた。
今回、久しぶりに過去作を見返したんですけど、意外とというかやっぱりというか、あの気持ち悪さがいいんですよね(笑)。例えば『秒速5センチメートル』【2】でのヘタレ男子の延々と続く自己憐憫とか、『言の葉の庭』【3】の童貞高校生の足フェチっぷりとか。どっちも女性ファンを自ら減らしに行っているとしか思えない(笑)。でもそんな自分に正直な新海先生が愛おしいわけですよ。1万回気持ち悪いって言われても自分のフェティッシュを表現するのが『ほしのこえ』以降の新海誠作品であり、基本的に彼はそこを楽しむ作家だったと思う。
それが『君の名は。』では、その新海の本質であるところの気持ち悪さの残り香が、三葉の口噛み酒にわずかに残っているだけで、ほぼ完全に消え去ってしまった。おかげで興行収入130億円を達成したわけだけど、あの愛すべき、気持ち悪い新海誠はどこにいってしまったのか。まぁ、それも人生だと思いますが(笑)。
石岡 僕が新海作品でずっと興味を持っているのは、エフェクトや背景の描写です。彼が日本ファルコム在籍時に作った、パソコンゲーム『イースⅡエターナル』のオープニングムービーは、ゲームムービーを刷新した。この当時から空や背景の描写はとんでもなく優れているんですが、自然に迫る美しさとは違っていて、ギラギラした光線をバシバシ見せつけるような、人工的なエフェクトの世界を高めていくものだった。宇野さんが言った「気持ち悪さ」でいうと背景自体も気持ち悪いというか、その方向へのフェティッシュも濃厚でした。なぜ彼の作品が童貞文学的になってしまうかというと、圧倒的な背景描写に対して、キャラクターをあまり描けなくて動かせないからなんですよね。でもその結果、豊かな背景を前に、キャラクターが立ち尽くす無力感が背景そのものに投影されて、観る人はそれに惹かれる仕組みがあった。
一方で今回は、キャラクターがよく動く作画でありながら、新海監督には由来しない別の気持ち悪さが生まれていると思う。去年この連載で『心が叫びたがってるんだ。』を取り上げた時、田中将賀【4】さんのキャラデザは中高年以上を描けないんじゃないか、という話をしましたよね。『君の名は。』も田中さんなんだけど、作画監督・安藤雅司【5】の力によって、三葉の父親や祖母はさすがにうまく描かれていた。だけどその代わりに、日本のアニメーター特有の病というか、演出的にはいらないはずのシーンでついパンチラを描いているあたりには、また別種の気持ち悪さがあるんじゃないか。
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