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脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第26回「男と怪我3」【毎月末配信】
2017-03-31 07:00
平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。ようやく歯の怪我から回復しつつある敏樹先生ですが、今回は過去の「骨折」にまつわるエピソードを語ります。
男 と 怪 我 3 井上敏樹
さて、一応、歯の報告をしておく。京都から帰って来て医者に行った。やはり想像通りだった。折った前歯群はそれなりに根づいてはいるものの不完全であるという。奥歯を使えば食事はなんとかなるが、前歯はいずれ根が死に脱落するらしい。そんなわけで結局インプラントにする事にした。来週、抜歯である。歯を抜き、土台となるインプラントを骨に埋め込み仮歯を入れる。その後、土台が落ちついたら本歯を嵌め込む。全ての治療が終わるのは五カ月後だと言う。先は長い。今回の事と言い、もしかしたら私は怪我をしやすい体質なのかもしれない。要するに不注意だということだ。私自身にはそんな自覚はない。寧ろ注意深い方ではないだろうか。夜道を歩いていて足音がすれば素早く振り向く。殺し屋かもしれないからだ。バレンタインに貰ったチョコは人に食わせてからいただく。毒が入ってるかもしれないからだ。とは言え思い当たる節もある。それは私の仕事に関する癖のようなもので確かに不注意を招くものだ。ある日、電話がかかって来たので出てみると相手は銀行である。あなたは昨日、ATMで金を降ろさなかったか、と尋ねて来る。確かに、と私。すると向こうは、あなたはその際金を取らずに立ち去ったのではないのかと畳かける。私はカチンと来た。いくらなんでも降ろした金を残したまま銀行を後にする馬鹿がいるものか。が、怒鳴りつける前に一応念のために財布を確認する事にした。財布は空っぽだった。そう言えば、と思い出した。私は銀行に行った時、仕事の事で頭がいっぱいだったのだ。次のストーリーの殺人事件がめまぐるしく頭の中で展開し、現実が見えていなかった。私が平身低頭電話の相手に謝ったのは言うまでもない。
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ヴィジュアル系「差別」の歴史を考える(市川哲史×藤谷千明『すべての道はV系に通ず』第8回)【不定期連載】
2017-03-30 07:00
80年代以降の日本の音楽を「V系」という切り口から問い直す、市川哲史さんと藤谷千明さんの対談連載『すべての道はV系に通ず』。今回は、ヴィジュアル系バンド・ファンに対する「差別」がテーマです。90年代の「J-ROCK」からゼロ年代の「邦ロック」へと至る過程で起きた〈分断〉とは――?(構成:藤谷千明)
「90年代V系はアリ」という空気になってきた2010年代
藤谷 前回予告したとおり、今回は〈ヴィジュアル系と差別〉といいますか、「ヴィジュアル系」という言葉やジャンルそのものに対しての反応の変遷を追ってみたいんですよ。
昨年秋に開催された『VISUAL JAPAN SUMMIT』三日目にMUCCの逹瑯(Vo)がMCで「いつからヴィジュアル系がかっこ悪いとされるようになったんだろう」と言ってたじゃないですか。「ファンやミュージシャンもヴィジュアル系やってるって胸張って言えるような未来にしていきたい」とも。
市川 うん。使命感を背負った者って、常に美しいねぇ(←遠い目)。
藤谷 MUCCのメンバーと私は多分ほぼ同世代だと推測するのですが、私くらいの世代からしたら「よくぞ言ってくれた!」みたいな感覚なんです。けれども私よりずっと若い人、いわゆる〈ネオV系〉世代のファンの知り合いが「ちょっと言ってる意味がわかんない、だって私はこれまでヴィジュアル系をかっこ悪いと思ったことがない」ということを言ってて。
市川 それは戦後生まれか戦中生まれで戦争の解釈が異なる、みたいな話なんじゃないの?
ましてや私のようなV系における〈戦前生まれ〉だと、きっとそれ以上に違うわけで。
(参考:金爆は「最後のV系後継者」!? "V系の父"市川哲史ロングインタビュー)
藤谷 《J-ROCK》と呼ばれていた90年代のことを思い出すと、大概のリスナー側はXもLUNA SEAもイエモンもミッシェルもブランキーも普通に聴いてたと思うんですけど、これがゼロ年代に入って《邦ロック》と呼ばれる時代になると、分断されてしまったというか。そもそもゼロ年代ヴィジュアル系がインディーズばかりで外のジャンルから見えにくくなったからなのか、逆に「ジャンルの壁を超えていこうぜ!」みたいな話が出てくるようになるんですよ。〈異種交流〉的に銘打ったイベントで、V系とそうでないジャンルが同じステージに立ったり――でもぶっちゃけ、「どっちのCDもタワレコで売ってるじゃん?」ってことじゃないスか!
市川 どーどーどー。というかその話、私にはぴんと来んなぁ。その昔、ジャパメタだったりV系だったりアイドルロックだったりが差別された時代はたしかにあったけども、そうした差別を生んだ諸悪の根源は雑誌メディア――音楽誌の存在だったと思う。総合系も専門系も「○○は本誌に合う/合わない」「載せる/載せない」と勝手に垣根を作ったからこそ、ファンもバンドもレコード会社もマネジメントも〈区別〉するようになった。でも時は流れて音楽誌文化もすっかり廃れ、強いて言うならフェスの時代なんだろうな。だってV系とその他のロックを未だに区別してるメディアは、もはや『ロッキング・オン・ジャパン』だけなんじゃない? その『ジャパン』が自社フェス頼みの現状っていうのがまた、象徴的だったりするんだけども。
だから話は逸れちゃったけども単純な話、『ロッキング・オン・ジャパン』に載ることだったバンドやレーベルやマネジメントのかつてのゴールが、「フェスに出てるロックバンドが恰好いい」に変わっただけのことなんじゃないのかなぁ。風潮的に。
藤谷 ヴィジュアル系バブルが終わった直後は、ヴィジュアル系に影響を受けたミュージシャン、たとえばORANGE RANGE(の周囲)がV系に影響を受けていることを伏せさせていたというエピソードが、市川さんの『私が「ヴィジュアル系」だった頃。』にもあったじゃないですか。それが2010年代に入ると、見るからに90年代V系の影響が濃く、後にLUNATIC FEST.(本連載第2回参照)にも出演することになる凛として時雨や9mm Parabellum Bulletだけじゃなく、Base Ball Bearみたいな一見音楽性も離れているようなバンドのメンバーも、Twitterで2010年のX JAPAN東京ドーム3DAYS公演やLUNA SEAのREBOOT宣言についてつぶやいたんですよ。さっきのORANGE RANGEの話のようにV系は黒歴史扱いされてたからこそ、凛として時雨のピエール中野さんのTwitter上での発言「LUNA SEAは日本のバンドマンに1番影響を与えているかもしれない」をよく憶えています。そして世の中的に、LUNA SEA・Xみたいな90年代V系はアリという空気になっていたわけですよ。
市川 すべてが水に流れちゃったというか、流されちゃったというか。
藤谷 そしたらメディアも掌くるりんぱしたというか。なんだかゼロ年代のヴィジュアル系冷遇時代を耐えてきたこちらとしては、「へぇ〜〜」みたいになるわけですよ。
90年代、週刊誌によるV系茶化し記事の横行
市川 実は見落としがちなんだけどそもそもバンドブームの時点で、化粧してるバンドは沢山いたわけ。しっかり化粧してたもの、BOΦWYだってRED WARRIORSだってTHE STREET SLIDERSだって。たしかに日本のロック黎明期からRCサクセションとかYMOとか化粧してたけど、それまで洋楽畑で仕事してた私としてはびっくりぽん(←死語)だったね、「なんで?」と。だってあのデヴィッド・ボウイですら、地方都市の中高校生から〈化粧してる男はオカマ〉呼ばわりされてたのが日本の70年代の実情だもの。
ところがやがて、メイクはヤンキー少年たちにとって〈希望〉そのものになった。だってどんなに細い目だって地味な顔だって化粧したら綺麗に見えるじゃん、女子みたく。まあ未だに全国で流行ってるYOSAKOIとかソーラン節とか、メイクすれば非日常に簡単に行ける素敵なヤンキー文化なわけでさ。誰だって恰好よくなれちゃうんだから。
藤谷 それはわかるんですけど、「化粧をしてる」っていうことと「ヴィジュアル系というジャンルである」ってことって、微妙に重なってないと思うんですよね。中性的なメイクもですけど、ある種のナルシシズムが分水嶺になっているというか。
ちょうど手元に1997年の『週刊プレイボーイ』の《いーかげんにしとけよ〈ヴィジュアル系〉自己陶酔バンド》というV系茶化し記事があるんですけど、いきなりリード文から〈BOΦWYまでは許せたけどRYUICHIのような自己陶酔ロックはダメ〉みたいな(苦笑)。合計4ページに渡って〈愛用ブランドはゴルチエとルナマティーノ〉〈少女漫画ロック〉と、今となってはDisなのかよくわからないDisが続く内容です。
市川 内容以前に、よくそんなもんまで見つけてくるよねぇ藤谷さんは……。
藤谷 違うんですよ違います違います! 国会図書館で〈ヴィジュアル系〉で雑誌検索するとこういうのばっかり出てくるんです!! 好きで探してるわけじゃないんです……。
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invitation to MAKERS 第5回 VAQSO VR――香りをデザインして仮想世界に連れて行く新型デバイス VAQSO Inc. 川口健太郎【不定期連載】
2017-03-29 07:00
新進気鋭のクリエイターたちを紹介する「invitation to MAKERS」。第5回は、VAQSO Inc.のCEO川口健太郎さんへのインタビューです。同社が開発した、VR用ヘッドマウントディスプレイに装着することでVRコンテンツと連動させた匂いを再現できる「VAQSO VR」の紹介とともに、VRコンテンツがもたらすイノベーションの可能性や香りがユーザーにもたらす心理的効果、まだ見ぬ未来への展望まで語っていただきました。(構成:高橋ミレイ)
▲VAQSO Inc. CEOの川口健太郎さん
――今回、「VAQSO VR」のお話をお伺いしたいと思います。まず最初に「VAQSO VR」の製品についてのご説明をお願いします。
川口 「VAQSO VR」はVRの映像やゲームコンテンツと連動して匂いが出てくるデバイスです。シューティングゲームの時に銃の火薬の匂いがしたり、恋愛ゲームで女の子に近づいた時に女の子の髪の香りを漂わせることなどができます。今までのVRコンテンツに匂いという感覚が付加されることにより、よりリアリティが高まったり不思議な感覚を体験することができます。私たちの会社VAQSO Inc.が2017年1月17日に設立され、その日に開催した記者向けの発表の記事が、世界約20カ国、約500媒体近くのメディアに掲載されて日本だけではなく海外でも大きく話題になりました。これまでのゲームで得られるユーザー体験は視覚情報と聴覚情報、コントローラーの振動の3つの感覚だけでした。今再現されていないのは、匂いの部分と味覚の部分です。我々はその部分を開拓できればと思っています。
「VAQSO VR」は、お菓子の「スニッカーズ」と同じくらいの大きさで非常にコンパクトなデバイスです。3箇所ある小さい穴から、あらかじめセットされたカートリッジから匂いが個々に出てくるようになっています。3種類のカートリッジをセットした時は、それぞれの香りが楽しむことができます。今さまざまなVRデバイスが出ていますが、「VAQSO VR」は、どのデバイスにも装着できます。たとえば「Oculus Rift」や「HTC Vive」「PlayStation®VR」といった少し高めでハイスペックなヘッドセットや、「ハコスコ」や「Google Cardboard 」のような簡易的なヘッドセットにも装着できます。
カートリッジについてですが、開発できる香りのラインナップはBtoB向けとBtoC向けの2通りあります。BtoC向けはあらかじめ既成の匂いを用意して、その中からお客さんが選びます。BtoB向けはクライアントに依頼された香りを作っていくオーダーメイドです。BtoC向けの発売は年内を予定しています。
――ありがとうございます。「VAQSO VR」は、どのような動機から開発されたのでしょうか?
川口 「VAQSO」という会社をアメリカに登記するまでは、「ZaaZ VR」という製品名でした。私が「ZaaZ」という匂い関係の製品やサービスをたくさん作っている会社を経営していましたから(「ZaaZ」と「VAQSO」は資本関係のない別会社)。その中で、VRが今トレンドですごく伸びてきているので、VRデバイスを作ったらいいと思って作りました。
――「ZaaZ」を設立した時から匂いへの関心を持って会社を立ち上げたのですか?
川口 そうです。最初に設立した「ZaaZ」は、私が大学6年の時に立ち上げました。その頃にチャールズ・ダーウィンの「種の起源」を読んで、インスピレーションを得て、生物もコンテンツも企業もオリジナルが一番強いという「オリジナル論」というロジックを作りました。たとえばフィンセント・ファン・ゴッホの絵を、パブロ・ピカソが同じように描いたとしても、ゴッホが描いたひまわりの絵をなかなか超えることができない。音楽でもThe Beatlesの曲を優れたバンドマンが同じように演奏したとしても、やっぱりオリジナルを超えた作品にするのは難しいと思います。これと同じことが、ビジネスでも言えると思っています。
ビジネスのオリジナルは人間の感情が動いた時に生まれます。その感情の源泉となるのが五感です。五感のうち、視覚に訴えるビジネスはメディアの産業や広告の部分など、味覚は飲食業、肌は美容やマッサージ、耳だと音楽などがあります。では嗅覚でどんなビジネスがあるか考えると、お香や香水、アロマセラピーなどがあります。嗅覚に関わるビジネスに共通しているのがBtoCのモデルだということ。ですから、まだ参入者が少ない匂いに特化したBtoBビジネスに可能性を感じました。その領域を切り開くためのキラーコンテンツが、いろいろな食べ物の匂いが出るデバイスです。それを自力で考えて作ることで会社になりました。
――過去の事例など何もない状態から匂いに関わる事業を起こすために、どのようなジャンルを勉強されましたか?
川口 私は4歳から10年ほどアトリエで絵を習っていたのですが、絵の具を混ぜることと匂いを作るのって似ているんです。たとえば、絵の具の赤と黄色を混ぜたらオレンジ色になりますが、オレンジ色にもいろいろなバリエーションがあります。絵をやっていると「この感じのオレンジ色を作りたい時にはこのくらいのバランスで色を混ぜればいい」というようなことがフィーリングでわかります。色と同じように、匂いはカクテルみたいにケミカルを混ぜて作っていきます。絵を習っていたことで、匂いの調合の感覚がわかりやすかったんです。
――匂いの元となる化学物質があって、それらをミックスするためのノウハウがあるんですね。
川口 そうです。ミックスしたものが香水でいうところの原液になります。それをエタノールで希釈した時の濃さによって、パルファムやオーデトワレになります。
――ビジネスが軌道に乗るまでは何年くらいかかりましたか?
川口 そうですね。2009年に始めたのが最初で、その頃はハードウェアやスタートアップという言葉が今ほどスタンダードではなく、「ものづくり」と言われていました。3Dプリンターもメジャーではない頃、最初はどういう風に作ればいいかを模索しながら設計を考えて、加工業者を自分で探して話を詰めていきました。
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犬飼博士 安藤僚子 スポーツタイムマシン 第2回 「山口のライフサイズをさがして」【不定期連載】
2017-03-28 07:00
犬飼博士さんによる連載「スポーツタイムマシン」。今回から制作のパートナーでもある安藤僚子さんが執筆に加わります。全く新しいeスポーツのための装置「スポーツタイムマシン」を作ることになった二人がタッグを組んだ経緯や、山口で活動を始めた頃の様子を安藤さんが振り返ります。
はじめまして、空間デザイナーの安藤僚子です。
連載第1回では、2013年のお正月に私が犬飼博士さんを焚きつけて、山口情報芸術センター(YCAM)の10周年記念祭で企画された公募展示「LIFE by MEDIA国際コンペティション」への応募案として、「スポーツタイムマシン」のアイデアが誕生。同年4月、審査を経て見事に受賞するまでの発端の経緯を、犬飼さんが語ってくれました。
今回は私の視点から、山口を初めて訪問していよいよスタートした、スポーツタイムマシンの作りはじめの時の様子を振り返ってみたいと思います。
しかし、その前にまず、私と犬飼さんがタッグを組んだ経緯を、すこし遡ってお話ししておきます。
▲完成した「スポーツタイムマシン」の様子
凸凹タッグのはじまり
2013年のお正月に犬飼さんを焚き付けた、これがそのメールです。
スポーツタイムマシンの始まり | スポーツタイムマシンで走ろう! Sports Time machine Blog
今は2017年の3月なので、もう4年前です。どうしてこんなメールを送ったかというと、このころ私が抱いていたある不安と希望からでした。
私は店舗などの商業施設の設計の仕事をしているのですが、IT時代に実店舗よりもECサイトにお金をかける企業も多くなり、私のような実空間をデザインする仕事はそのうち必要とされなくなるのだろうか、という不安を感じていました。
でも私たちの身体は、この実空間にある……。情報と空間をうまく融合させることが、今後の自分の大きな課題になると考えていました。犬飼さんと一緒に仕事をした、日本科学未来館の常設展示「アナグラのうた」の開発で、その思いは一層強くなりました。このプロジェクトは、まさに空間情報科学がテーマでした。
私のような物質空間(アトムの世界)でモノをつくっている人と、犬飼さんのように情報空間(ビットの世界)でモノを作っている人同士が対話し、考え、モノを作ることに、豊かな未来の可能性と希望を感じたのです。
一方で、「アナグラのうた」がある場所は国立の科学館です。お金を払い、科学を学ぶ意識のある人しか訪れない特別な場所です。誰もが普通に生活をしている場所に「アナグラのうた」のような空間と情報を融合させた幸せな場をつくることはできないのだろうか。もっと実生活に落としていかないと意味がないのではないか、という満足しきれない思いも生まれました(もっとも、それは今だからこそ言える言葉で、2013年当時の私は、そんな悩みを言語化することさえできない状態だったのですが……)。
ともあれ、漠然とした思いで悶々とする中、「LIFE by MEDIA国際コンペティション」の公募を見つけ、犬飼さんにメールを出したことから、前回の経緯にあるように、「スポーツタイムマシン」はスタートしたのでした。
受賞決定! まずはブログをつくろう
そして、受賞の連絡が来たのが4月の頭、正式発表が4月中旬。
その時の感想を正直に言うと、「えっ、本当に決まっちゃった!?」
私たちが受賞したコンペは、賞金として制作費100万円と1往復分の交通費が支給され、山口での滞在場所は用意してもらうという、いわゆるレジデンスアーティストと呼ばれる滞在制作型の公募でした。
しかし、スポーツタイムマシンの構想は、実のところ100万円では機材費も開発費も足りません。それは、選んだYCAM側も承知の上でのことでした。
さらに、LIFE by MEDIAの開催日は7月6日。制作期間は、ほんの2ヵ月ちょっと。
お金も時間も足りない、なんとも無計画なアイデアを作ることになってしまいました。どこから手をつければよいのだろうか?
4月中は2人でそんな話を繰り返しながら、まだ「つくる」という実感を持てない、モラトリアムな期間だったように思います。
そんな中、犬飼さんから「まずはブログをつくろう。」という提案がありました。犬飼さんのすごいところは、なんでも動画で記録をするところです。映画監督をやっていたからかもしれないのですが、すぐ録画して、youtubeにアップして、ブログで公開する。
デザイナーの私は、「作品は形になってから発表するもの」という固定観念があったので、まだできるかどうかもわからないアイデアを公開するという提案には驚きました。
4月26日、スポーツタイムマシンのブログがスタートします。
今後スポーツタイムマシンで起こっていくことを記録していくため、これから出会う人々に私たちが何をしているのか説明するため、私たち自身が何をしているのかを整理するために。
これでもう、後戻りはできなくなりました。
初めてのYCAM訪問で受けたプレッシャーと衝突
そんな凸凹タッグで、いよいよ山口に行ったのは5月7日。
私も犬飼さんも、地方でありながら優れたテクノロジーと研究能力を持ち、先進的なメディアアートを発信することで有名なYCAMの存在は知っていましたが、実際に訪問するのはこれが初めて。メディアアートの作品を見るためだけに山口へ行くほどではなかったし、山口で作られた作品がその後東京で上演させることも多いので、気になる施設だけど、なかなか訪れる機会がなかったのです。
いろいろ不安はあったものの、国際コンペで選ばれたことは純粋に嬉しく、初めて訪れる場所で、しかも招かれて行くという、ちょっとした旅行気分もありました。そして、なんだかんだ作ることが好きな私は、憧れのメディアアートのセンターで創作の場をもらえることに、ワクワクした気持ちでYCAMに向いました。
▲山口情報芸術センター(YCAM)全景
しかし、実際に現地に到着し、LIFE by MEDIAの企画者である田中みゆきさんとの打ち合わせが始まると、旅行気分は一気に吹き飛びます。
彼女の要望はたった一つ。
「YCAMの10周年祭として、ふさわしいクオリティの作品にしてください」。
突きつけられる現実。私たちとしては、「実際この予算では作れないのは明確なんだから、100万円で作れる規模に縮小したプランで制作します」と言うと、YCAMとしては「そんなもののために100万円払えません。応募してきたんだからちゃんとつくってもらわないと困る」となる。まあ、当然ですね……。
制作費が足りない、時間がない、土地勘がない。
そんなことは、受賞したときから分かっていました。それに加えて新たに重くのしかかったのが、スポーツタイムマシンというまだ形のないアイデアによって、私たちの思いだけでなく、山口の人々のためのフェスティバルを盛り上げないといけないという使命をも背負ったことです。
この使命に対して、私は考え始めました。「与えられた予算で、なんとか実現するにはどうしたらいいか?」と。
ところが、犬飼さんの感想は全然違ってました。
「なぜ山口市民でもない僕たちが市民を楽しませなきゃならないの? なぜスポーツタイムマシンをYCAM10周年という3ヶ月だけのお祭りを盛り上げるために作らないといけないの?」
びっくしりた私は、その後、5月21日のブログにこんなことを書いています。
「安藤です。今日、考えた事を書きます。私と犬飼さんの2人で始めたプロジェクトですが、実は2人はかなり考え方が違うタイプであること。
犬飼さんはアーティストで、私はデザイナーであると思う。
アーティストは社会に問題を提議し、デザイナーは社会の問題を解決するとよく言われる。職能が違うと言うか、考え方のアプローチが全く違う。
私と犬飼さんもそうで、2人の考え方は違うことが多いです。
犬飼さんは、スポーツタイムマシンという新しいスポーツのあり方を山口の人にインストールできれば、後は本来は山口の人達でこのマシンを作るのが良いと言う。私はあくまでも作ることにこだわっていて、私たちで考えて真剣に作ったものを山口の人たちに体験してもらって、初めて何かを伝えられるのだろうと思っている。
この2人の禅問答のような膨大な話し合いの先にどういうタイムマシンが生まれるのか!?」
(アーティストとデザイナー | スポーツタイムマシンで走ろう! Sports Time machine Blog)
凸凹タッグではじめたスポーツタイムマシンは、これほど考え方が違う2人でつくるという宿命も背負っていたのでした。初めての山口への訪問は、犬飼さんとのバトルの日々の始まりでもあったのです。
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HANGOUT PLUSレポート 宇野常寛ソロトークSPECIAL (2017年3月20日放送最終回)【毎週月曜配信】
2017-03-27 07:00
毎週月曜夜にニコニコ生放送で放送中の、宇野常寛がナビゲーターをつとめる〈HANGOUT PLUS〉。2017年3月20日の放送は、宇野常寛ソロトークSPECIALをお送りしました。(構成:村谷由香里)
※このテキストは2017年3月20日放送の〈HANGOUT PLUS〉の内容のダイジェストです。
突然の最終回と海外出張のお土産話
オープニングトークで重大発表がありました。HANGOUT PLUSは今回が最終回。4月からは木曜日に放送時間を移し、新番組としてリニューアルします。
最後のHANGOUT PLUSは海外出張のお土産話から始まりました。先週まで、台湾とシンガポールに出張していた宇野さん。台湾では國分功一さんと一緒に淡江大学で開かれたカルチュラル・スタディーズの学会に参加し、『君の名は。』『シン・ゴジラ』『この世界の片隅に』を比較しながら「震災後の想像力」について講演。中興大学の陳國偉准教授と対談しました。
初めて訪れた台湾の印象を「懐かしい感じがした」と語る宇野さん。特に講演を行った淡水の街は、昭和50年代頃の日本の匂いを感じたといいます。グローバルな消費文化が入り込んでいる首都・台北に対して、地方都市である淡水の人々にはある種の田舎臭さが残っていて、とても好感を抱いたそうです。
一方、猪子寿之さんと過ごしたシンガポールは、東京よりも洗練された都市だといいます。都市の空気や文脈を読まなくても、Google翻訳とUberとクレジットカードで全てが済んでしまう。言語に依存しなくても快適に過ごせる多民族国家ならではの環境を、宇野さんはかなり気に入ったようで、執筆作業に集中するための長期滞在に良いかもしれないと語りました。
淡水とシンガポール、対照的な二つの都市ですが、どちらにも共通していたのは、東京よりも暮らす人たちの顔が明るかったということ。海外を訪れたことで、改めて日本の閉塞感を実感したと宇野さんは振り返りました。
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【対談】中川大地×遠藤雅伸「日本ゲームよ、逆襲せよ『ゼビウス』から『ポケモンGO』への歴史を超えて」(前編)
2017-03-24 07:00
好評発売中の、評論家・編集者の中川大地さんによる大著『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』。その刊行を記念し、2017年1月27日に下北沢B&Bで、中川さんとゲームクリエイター・大学教授の遠藤雅伸さんの対談が行われました。今回は、その模様を再構成してお届けします。伝説のシューティングゲーム『ゼビウス』の開発に携わり、日本ゲームの黎明期から業界を見続けている遠藤さんと、独自の視点からゲーム史を語り尽くします。(構成:籔和馬、中野慧)
『ゼビウス』の革新性と歴史的影響
中川 『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』を出すことができたのは、ゲーム史のキーパーソンとして、『ゼビウス』(1983年)を出された遠藤さんがいらっしゃるからでもあるんです。『ポケットモンスター』(1996年)を作られた田尻智さんをゲーム業界に導く大きなきっかけを作ったのが『ゼビウス』だったんですよね。そして遠藤さんと田尻さんが積み重ねたものの上に、今の『ポケモンGO』(2016年)の世界的なブームがあると思います。そこで本書の刊行イベントを行うのであれば、ぜひとも遠藤さんをお招きしたいと思い、今回お声がけをさせていただきました。
社会学者の見田宗介さんが、戦後をおおよそ15年ごとに、「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」という3つの時期に区分していますよね。これは、現実が何と向かい合っていたかによって、戦後の文化史・精神史を記述しようという試みだったわけです。『現代ゲーム全史』ではこの見田さんの見立てにヒントを得ながら、ゲームとテクノロジーの発展を書いています。
そこで、まずはそれぞれの時代において、遠藤さんがどのようにゲームやコンピュータテクノロジーに取り組まれていったのかを、前半の話の軸にしていきたいと思います。
まず1945-1960年の「理想の時代」。第二次世界大戦の時代に原爆開発の物理的なシミュレーションのために生まれたのがコンピュータで、その開発の中から、スピンアウト的にコンピュータゲームは発展していきました。
次に1960-1973年の「夢の時代」。巨大だったコンピュータが小型化し、『Spacewar!』(1962年)という宇宙戦争を題材にしたゲームが出ましたよね。これが、直接の触発例になって、ノーラン・ブッシュネルが『Computer Space』(1971年)という世界初のアーケードゲームを作りました。
そして1973年から始まる「虚構の時代」。ノーランがアタリ社を設立し、『PONG』(1972年)を出しました。コンピュータを使ったゲームがアーケードゲームに入り込んで、初めて収益的にも大きな成功をしたんです。コンピュータ自体もこの時代になると民生用の家電として普及し始めましたよね。1972年に家庭用テレビゲームも生まれ、アタリがソフト交換式のゲーム機「Atari VCS」を出しました。遠藤さんがゲームに関わり始めたのはこの時代からですよね?
遠藤 僕がゲームで遊び始めたのはこの頃からでしたね。『スペースインベーダー』(1978年)を大学生時代にプレイしていたんですよ。70年代末の大学生文化で『スペースインベーダー』は非常にポピュラーなものでした。
それと同時期に「Atari VCS」の上級バージョンで、ゲームが遊べる「Atari 800」というパソコンをお金持ちの友達が持っていたので遊ぶことができて、それでアタリファンになりましたね。
中川 その時期のパソコンは、ある種の特権階級の人しか持てないものでしたよね。その後、80年代に入って、ようやく日本でも「マイコンブーム」と呼ばれる、最初のパソコン普及期が訪れるわけです。今のように生活必需品ではないので、ゲームを遊べる環境の格差がありましたよね。その格差を変えるきっかけになったのが、任天堂の「ゲーム&ウォッチ」(1980年)です。これを大当たりさせた任天堂が、さらに3年後に「ファミリーコンピュータ」(1983年)を出しました。それ以前はエポック社の「カセットビジョン」などがありましたけど。
遠藤 いくつか出ていたけど、今も残っているのはファミコンくらいですね。
中川 ファミコン登場以前には戦国時代のような状況だったんですよね。これの一つ前の時代だと、『ポン』みたいなテニスゲームや、ブロック崩しのようなシンプルなゲームが主流でした。この時代になってようやく一般の子供たちが、アーケードで遊べる『パックマン』のようなゲームと似たような水準で遊べるテレビゲーム時代が始まります。
この時期に遠藤さんもゲーム制作を始められたと思うのですが、遠藤さんがゲームを作る側になるプロセスは具体的にどういったものだったんですか?
遠藤 僕自身は、高校で演劇、大学で映画をかじっていました。でも当時は今と違って、そのどちらも産業としては成り立たないレベルでした。創造的なものの未来を考えたときに、ビジュアルとサウンドを載せたものが今後新たな総合芸術になる可能性を感じていたんですが、その頃に就職活動に失敗したんです。それで何か面白いことをやりたいと思い、コンピュータとゲームに関係した仕事を探していたました。で、アタリに行きたいと思ったんですが英語ができないので、アタリジャパンの親会社である「ナムコ」に行って自分を売り込んだ結果、働かせてもらえることになったんですよ。
中川 コンピュータスキルはあったんですか?
遠藤 まったくなかったです。なので、1ヶ月くらいでプログラミングを覚えました。プログラム言語は頭にあるものを記述するだけで、表現が簡単だったんです。当時のゲームのプログラム量は、今の画像1枚より少ないですからね。
中川 遠藤さんのゲーム業界への入り方も画期的だったと思います。遠藤さんより以前の時代、ゲームクリエイターといえばコンピュータ技術者でしたが、遠藤さんの場合はむしろ映像や演劇に造詣が深いわけですよね。
遠藤 綺麗なもの、新しいものを見せたいということをずっと考えていました。だから、同じ系統の作品は連作していません。
中川 1980年代前半の段階では、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』をきっかけとするアニメブームが勃興していて、他にも様々なカルチャーが盛り上がりつつありました。橋本治さんはそういった様々なカルチャーの立ち上がりを、政治闘争から文化闘争に社会のパワーがシフトしたという意味で、「80年安保」と呼んでいたりします。
遠藤さんは1983年、ちょうどファミコン発売と同年に『ゼビウス』を世に送り出されました。『スペースインベーダー』などそれまでのゲームがあくまでも画面上で展開される反射神経的快楽だけで作られていたのに対し、『ゼビウス』はビジュアル的にも体感的にもゲームの画面の先に不可視の世界があることを感じさせるバックストーリーをあらかじめ作られていたり、敵キャラが個性的な動きで出てきたりします。富野由悠季監督がアニメのカルチャーを変えていった空気を吸収されて、ゲームの方へ持ってこられましたよね。遠藤さんは80年代前半の同時代カルチャーをどのように見ていたんですか?
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『逃げるは恥だが役に立つ』――なぜ『逃げ恥』は視聴者にあれほど刺さったのか?そのクレバーさを読み解く(成馬零一×宇野常寛)【月刊カルチャー時評 毎月第4木曜配信】
2017-03-23 07:00
話題のコンテンツを取り上げて批評する「月刊カルチャー時評」、今回は2016年10月から年末にかけて放送されていたヒットドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』をめぐる成馬零一さんと宇野常寛の対談です。「恋ダンス」の流行でも話題を呼んだ本作が、いかにしてテレビドラマの文脈の中で優れた作品となりえたのかを論じます。(構成:橋下倫史/初出:「サイゾー」2017年3月号)
▼作品紹介
『逃げるは恥だが役に立つ』
原作/海野つなみ 脚本/野木亜紀子 演出/金子文紀、土井裕泰、石井康晴 出演/新垣結衣、星野源、石田ゆり子ほか 放送/TBS系にて、毎週火曜22:00~22:54(16年10~12月/全11話)
心理学の大学院まで出たが就職活動に失敗し、派遣で働いていた森山みくり(新垣)。派遣契約を切られて嘆いていたところ、父親の知り合いである津崎平匡(星野源)の家の家事代行として働くことになる。その後両親が東京を離れることになり、困ったみくりは就職としての結婚を平匡に提案。2人の奇妙な契約結婚生活がスタートする。最終話の視聴率は20・8%に到達。原作は「Kiss」(講談社)にて連載されていた。
成馬 本作の感想は「良いドラマだった」の一言に尽きます。2016年にこの作品があって本当に良かったと思いました。今のテレビドラマは、物語が複雑で敷居の高いドラマと、『ドクターX』(テレビ朝日)のような単純でわかりやすいドラマの二極化が進んでいる。その中にあって、『逃げ恥』はちょうど中間だった。「ガッキー可愛い」「星野源可愛い」「恋ダンス楽しい」という軽いノリで入ってくる人たちでも楽しめる敷居の低さで視聴者を引きつける一方、深く観ていくとフェミニズムや今の社会問題を扱っていることがわかってくる。大絶賛する人もいる一方で、「この程度の作品」と低く見る人もいるけど、この幅の広い観られ方が、最終的に視聴率20%に到達した理由だと思う。だから単純に「面白い」とか「好き」というより、「正しいドラマ」という感じがします。「今面白いドラマを作りたいなら、最低限これはやらないといけない」ということをちゃんとやっていた。旬の俳優である新垣結衣と星野源を主演に起用して、脚本は『重版出来!』で注目されつつある野木亜紀子【1】、演出家は金子文紀・土井裕泰・石井康晴【2】というTBSのエースを3人揃えるという座組みの見事さ。
それとやっぱり「恋ダンス」ですよね。1話放映後に完全バージョンをYouTubeでオフィシャルに公開して、「踊ってみた」をやる人のために星野源の所属レーベルが「ドラマの放映期間中は音源の使用を認める」と発表したことで爆発的に広がった。これも、アニメの世界では『涼宮ハルヒの憂鬱』で10年前に起きていたことだけど、ドラマの場合は芸能界的なしがらみがありすぎてできなかった。そういう、今の時代に作品を観てもらうために、やらなくてはいけないことをちゃんとやったことが、勝因だったと思います。
宇野 そのあたりは、嫌な言い方になるけど、民放ゴールデンタイムのドラマがやっと21世紀基準に追いついたともいえる。堀江貴文さんやひろゆきさんが「もっとわかっている人がネット回りをやれば、『恋ダンス』は『恋するフォーチュンクッキー』になれたのに、テレビ局や芸能事務所は頭が固くてそこまでいかなかった」と批判していたけど、その通りだと思う。TBSのアナウンサーが恋ダンスに出てきたのは、本当にサムいからやめたほうがいいと思ったし。
『逃げ恥』自体の感想は僕も、とにかく良くできたドラマだと思った。キャストもいいし演出も適切だし、しっかり作り込んである。原作を読んでなかったので、第1話を観たときはちょっと良妻賢母思想への回帰というか、保守反動的じゃないかと思ったんですよ。高学歴ニートみたいなヒロインが家事代行をやるうちに本当の恋愛に発展する、というような。それがアイロニーでわざとやっているということが1話を観たときにはあまりわからなかったんだけど、観ていく内に、これはフェミニズムの成果を一通り受け止めた上で、それをどう現代に軟着陸させるかという話なんだ、とわかった。フェミニズムへの距離の取り方と取り込み方が、いい意味でクレバーでいやらしくて、非常に感心した。
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更科修一郎 90年代サブカルチャー青春記〜子供の国のロビンソン・クルーソー 第6回 高田馬場・その2【第4水曜配信】
2017-03-22 07:00
〈元〉批評家の更科修一郎さんの連載『90年代サブカルチャー青春記~子供の国のロビンソン・クルーソー』、今回は高田馬場編の2回目です。更科さんが美少女漫画雑誌の編集者として働いていた出版社・白夜書房とポルノグラフィの変遷を通じて、80年代のアンダーグラウンドカルチャーが90年代にサブカルチャーに至る流れを振り返ります。
第6回「高田馬場・その2」
高田馬場――神田川沿いのエリアは、貸ビルと古い民家が混在し、住宅街でもなければ商業地区でもない独特の雰囲気がある。
東京の出版社の多くは、新宿区市谷加賀町の大日本印刷と文京区水道の凸版印刷を中心に点在している。人文系だと、神保町の古本屋街――東側へ寄る傾向もある。
本というものは、出版社と印刷所があれば作れるものではない。
どちらかへ内包できない業務を請け負う中小企業が、周辺にいくつも存在しており、「出版業界」という群体を形作っているのだ。
たとえば、00年代にDTPが普及する以前は、電算写植というものがあった。
指定紙を写植屋へFAXで送り、発注すると、職人が電算写植機で文字列を作り、一日数回のバイク便で印画紙が届く。それを漫画原稿へ切り貼りして、版下を作成するのだが、写植屋は印刷所の近くにあるため、出版社が遠くにあるとバイク便の巡回範囲に入らない。単行本ならいざ知らず、月刊誌では致命傷だ。
そう考えると、新宿区内ではあるが、西側の高田馬場にある白夜書房は、かなり辺境の出版社であった。
筆者が勤めていた頃も、比較的部数の多い雑誌は大日本印刷を使っていたが、凸版印刷は使っていなかったと思う。
DTPとweb経由のデータ入稿が普及したことで、そのような土地的な制約はなくなったのだが、電算写植を請け負っていた写植屋の多くは仕事を失った。
では、潰れてしまったのかというと、さにあらず。アナログ漫画原稿のスキャンや組版へ転業し、しっかり生き残っている。
筆者は電算写植を漫画原稿へ切り貼りしていた最後の世代だが、00年代に入ると、DTP化され、原稿をコピーした指定紙に書き込むだけになったので、寂しい気持ちになった記憶がある。
24ページでだいたい一時間ほどかかる作業が省略され、実務負担が軽減されたのだから、喜ぶべきなのだが、若い頃の筆者は完全にワーカホリックだった。
編集部と仮眠室を往復し、タイムカードが一週間繋がっていたこともあった。
特に90年代の筆者は、編集者という仕事に異様な情熱を傾けていた。
何が楽しかったのか、今ではよく分からないが、これも良い機会だ。ぼやけた記憶を遡り、そもそもの動機を確かめてみたい。
話は脱線するが、しばしお付き合い願えれば。
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かつて、ポルノグラフィが新しい文化の触媒となっていた時代――80年代という時代があった。
アンダーグラウンド文化、それ自体は敗戦直後のカストリ雑誌時代から存在していたし、戦前の『新青年』まで遡れるかも知れないが、初期のそれは、ハイカルチャーの息苦しさから逃げるように生まれた「文化的やつし趣味」だった。
高等遊民が怠惰な貧乏生活でナルシシズムを満たすようなそれは、戦前から厳然として存在し続けていたハイカルチャーへのカウンターであり、換骨奪胎していた舶来文化自体が、60年代以降、急激に変化した影響もあった。たとえば、ビートルズとロックの台頭とか。
ただ、70年代までの日本のアンダーグラウンド文化は、ハイカルチャーの存在を踏まえた上での戯れだったように思う。
筆者が勤めていた白夜書房という出版社も、元はそういう会社だった。
『月刊ニューセルフ』や『ウィークエンドスーパー』のような扇情的なエロ写真誌を作る一方で、イタロ・カルヴィーノの小説や人文系の真面目な本も出していた。
これは、澁澤龍彦の薔薇十字社にいた福田博人氏が創業メンバーの一人だったからだが、マイナージャンル同士、互いの要素が交わることで、この時代のアンダーグラウンド文化は形成されていた。
雑誌という媒体が、正しく「雑」誌として機能していたのだ。
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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第14回 ゲームにおける「能動性」という神話:あらためて『FF15』について【不定期配信】
2017-03-21 07:00
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、FF15のキャラクターの移動シーンをヒントに、〈能動性〉を本質とするゲームにおいて、プレイヤーの意識の外にある、〈ぼんやりとした〉行為がどのような意味を持つのかについて検討します。
「なぜ俺は『FF15』を遊んでしまうのか?」
「『FF15(Final Fantasy XV)』のような、わけのわからないゲームを俺はなぜこんなに長時間やってしまうのか…」という告解をここ数ヶ月で複数人の口から聞いた。
少なからぬゲーマーにとってこの経験は、衝撃的…というか、何か特殊な困惑のようなものを引き起こしているようだ。
なぜ、そのような困惑が引き起こされるのかといえば、それは彼らにとっての「面白いゲーム」の価値観を揺らがすようなものだからだ。少なくとも『FF15』のシナリオは30代、40代の中年ゲーマー向けではない。ゲームの流れも、刺激的な時間が延々と続くというようなものではなく、息をつく暇もなく興奮が連続するようなものではない。今時の売れ筋大作ゲームと比べると、かなりまったりとした時間の流れるゲームだ。
これは、ある種のゲーマーに戸惑いを生むのは当然といえば当然だろう。
どのようなゲームを「面白いゲーム」だと捉えるかには派閥があるが、一つの派閥は「能動的に」やることがたくさんあって、飽きさせないようなものこそが面白いゲームだというような派閥だ
上記のような要素に反するようなつまらなさを感じさせるのは、RPGのレベル上げだとか、「おつかいクエスト」の連続などだろう。90年代中盤以後、多くの人が「一本道RPG」とか「一本道シナリオ」といった要素をだめなゲームの代表格であるかのように呼んだように、海外でもGonzalo Frascaは、ゲームプレイの際におけるこうした側面をErrand boy syndrome(使い走り症候群)と呼んでいる。同じようなことをただ延々と繰り返すだけのほとんど頭を使わない、ロボットになったかのような時間は、多くのゲームプレイヤーにフラストレーションを感じさせてきた。それゆえに、能動的に様々なことを考え、刺激にあふれたようなゲームこそが面白いゲームなのだという言説は、洋の東西を問わず、強固な位置を占めている。そして、FFシリーズはこういったタイプのゲーマーからはしばしば目の敵にされる代表的なシリーズだったといってもよい(なので、この派閥のゲーマーであったにも関わらず、いまだにFF15をプレイして「意外とよかった」とか言っている人々はかなり付き合いのいい人達でもある)。
こういう派閥のゲーマーたちは、ある時期には自覚的に「ゲェム右翼」と名乗ったこともあった。
ただ、こうした主張が、常に妥当なものではないということはすでに多くの人の実感によって、更新されたはずだ。それだけが本当に面白いゲームの要素なのであれば、ゲームにかかわる説明できない現象がある。
反例としてのソーシャルゲーム
その一つは、言うまでもなく「ソーシャルゲーム」と名指される一群のゲームだ。本連載を読んでいる人には、あまり多くの説明を要しないと思うが、ソーシャルゲームは常に刺激的、というよりも、たまに刺激的なゲームであるという程度のものに過ぎない。
SNSやスマートフォンといったインフラを介して評価を得たゲームにはこうしたものが多い。とある放置系のアクションRPGを指して「ゲームとして楽しいかどうかはわからないけど、やることに対するハードルがあまりにも低いからやめられない」と述べた米光の言葉はある種のゲーマーの実感を見事に示しているように思う。
そして、このような刺激の低いゲームプレイを可能たらしめているのは、ゲームデザインの巧みさだけではなかった。多くの人が指摘するように「スキマ時間」を使ったゲームプレイが可能であるということだ。常時起動のFacebook上や、iPhone上でゲームをするという体験と、TVモニターの前に陣取ってゲーム機を起動して「さぁ、やるぞ」という意識で画面に向き合うのとでは、ゲームに向き合うときの態度がまったく異なっている。
ただ、ソーシャルゲームをプレイするときに刺激が弱くてもよい。刺激が弱くてもゲームプレイが成り立つ。というのはもはや目新しい話ではないだろう。世界中の数億の人が体験したことだ。
能動的な関わりだけが楽しい時間なのか?
ソーシャルゲームのような反例があったのにも関わらず、『FF15』は改めて困惑を生んだ。なぜかといえば、『FF15』はSNSのゲームでも、スマートフォンのゲームでもなかったからだ。
『FF15』の特異なところはいくつかある。その特異性を指す表現の一つは、「『FF15』は『水曜どうでしょう』ではないか」という説だ。この説は、発売直後に評判を呼んだものだが、緊張感のない男数人がだらだらと話しながら車で移動するのも、旅の途中で本来の目的を忘れて釣りだとか、どうでもいいことに力を入れ始めるのも、いかにも、人気旅番組の『水曜どうでしょう』の風景と似ている。というのがこの説のいわんとするところだ。このような説が評判を呼んだことからも明らかなとおり、『FF15』の移動は実にダラダラとした感触を与える。しかしながら、そのダラダラは、ゲームプレイヤーにとって肯定的に捉えられている。
こういった「ダラダラとした移動」がゲームにとって肯定的に語られるというのは、かなり新しい事態だといっていい。
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HANGOUT PLUSレポート 猪子寿之×宇野常寛「teamLab in シンガポールSPECIAL」(2017年3月13日放送分)【毎週月曜配信】
2017-03-20 07:00
毎週月曜夜にニコニコ生放送で放送中の、宇野常寛がナビゲーターをつとめる「HANGOUT PLUS」。2017年3月13日の放送は、初の海外からの生中継でお送りしました! チームラボの常設展「FUTURE WORLD: WHERE ART MEETS SCIENCE」が公開されている、シンガポールのマリーナベイ・サンズのアートサイエンス・ミュージアム。閉館後の展示室でチームラボの代表・猪子寿之さんに60分間たっぷりお話を伺いました。1500平米の巨大展示空間作品が表すもの、そしてチームラボのこれからについて猪子さんはどのように語ったのでしょうか。(構成:村谷由香里)
※このテキストは2017年3月13日放送の「HANGOUT PLUS」の内容のダイジェストです。
2016年の敗北と、21世紀のアートに残された希望
今回の放送は〈HANGOUT PLUS〉初めての海外生中継! シンガポールにあるマリーナベイ・サンズのアートサイエンス・ミュージアムからのお届けです。昨年3月にスタートした、猪子寿之さん率いるチームラボの常設展「FUTURE WORLD: WHERE ART MEETS SCIENCE」。3月14日からの展示リニューアル直前のタイミングに生放送を行うことができました。閉館後、15の展示作品のひとつである「お絵かきタウン」の前で猪子さんご本人に直接お話を伺うという豪華な内容です。本メールマガジンの連載〈人類を前に進めたい〉でも毎月対談をしている猪子さんと宇野さん。今回も対談の和気藹々とした雰囲気を彷彿とさせる放送となりました。
宇野さんはチームラボの作品を含めた21世紀のアートを語る前提として、2016年に人類が迎えた敗北について解説します。イギリスのEU離脱とトランプ大統領の当選で大きく世の中の価値観が揺らいだが、その内側には二重の敗北があった。一つは20世紀の政治的なリベラリズムの出した最適解としての多文化主義の敗北。もう一つはカリフォルニアンイデオロギー、つまり政治的なアプローチではなく、グローバルな市場に商品やサービスを投下することで世界を変える思想の敗北です。ブレグジットもトランプも、カリフォルニアン・イデオロギーの推進する「境界のない世界」への反動であり、こうして政治的なアプローチも、経済的なアプローチも絶望的な状況になった今、残された希望はアート、つまり文化的なアプローチだけである。その希望の中心にチームラボがあるのではないかと評します。
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