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第十三章 人間――悪・可塑性・人種|福嶋亮大(後編)
2024-05-28 07:00550pt
6、可塑性を利用する芸術家――オーウェルの『一九八四年』
架空の全体主義国家オセアニアを舞台とする『一九八四年』では、戦時下の党を率いるビッグ・ブラザーが、テレスクリーンを用いて社会の全体をくまなく監視している。真理省記録局に勤務するウィンストン・スミスは、過去の文書の改竄に従事しているが、やがて魅力的な女性ジュリアと出会ったことをきっかけに党の禁を破る。彼女との性的関係だけが、この息苦しい社会での唯一の避難所となるのだ。しかし、それは本人があらかじめ予想していたように、破局を迎える。逮捕されたウィンストンは、オブライエンの狡猾な拷問によって、心から党への愛を誓う人間に作り変えられてゆく。
もとより、このような常時監視システムにどれほどリアリティがあるかは、検討の余地がある。例えば、アンソニー・バージェスはオーウェルを批評した『一九八五年』のなかで、アメリカがベトナム戦争を遂行しながら、同時にそれを娯楽的なテレビ番組として国民に消費させたことを皮肉っぽく指摘し、オーウェルの社会像の限界を言い当てている[16]。実際、物質的窮乏を国民に強いる架空のオセアニアと異なり、戦後の現実の先進国は、むしろ豊かさや娯楽を統治の手段とした。この点に限っては、同じイギリス人作家オルダス・ハックスリーの『すばらしき新世界』(一九三二年)の描いた管理社会――人間を生物的次元で巧妙にコントロールする快適なユートピア――のほうが、『一九八四年』よりも明らかに予見的であった。
ただ、『一九八四年』にはもう一つの重要なテーマがある。それは、思考および言語の可塑性に関わる問題である。オーウェルが描いたのは、人間を単一のイデオロギーに盲目的に従わせる単純なメカニズムではない。ウィンストンやオブライエンを含めて、オセアニアの人間たちは二重思考(doublethink)の実践者として描かれる。それは党の支配のもとでは民主主義はないと知りながら、党が民主主義の擁護者であると信じる思考様式である。嘘をつくことと信じることを、何ら矛盾なく両立させるアイロニーが浸透したとき、ひとびとは自ら進んで思考を柔軟に調整し、全体主義社会に適応するようになる。
オーウェルはこのアイロニカルな思考様式を、「ニュースピーク」と呼ばれる新しいタイプの人工言語と連携させた。言語が単純化されて、繊細なニュアンスを失えば、思考を社会にあわせて調整し、過去の出来事を都合よく訂正することも容易になるだろう。ウィンストンはまさにそのことに強い恐怖を覚えている。「もし党が過去に手を突っ込み、この出来事でもあの出来事でも、それは実際には起こっていないと言えるのだとしたら、それこそ、単なる拷問や死以上に恐ろしいことではなかろうか」(五五頁)。「歴史は止まってしまったんだ。果てしなく続く現在の他には何も存在しない。そしてその現在のなかでは党が常に正しいんだ」(二三九頁)。
こうして、思考も言語もまさにその柔軟な可塑性ゆえに、党への抵抗力を奪われる。ウィンストンを執拗に虐待するオブライエンは、この仕組みを正しく理解していた。彼の振る舞いは、ある意味ではきわめて洗練されている。かつてスペイン人の征服者が多数のインディオを「破壊」したとすれば、オブライエンは一人の人間のもつ多数の思考を入念に滅ぼした後、別の形態に作り変えるのだ。彼がウィンストンら囚人を閉じ込め、徹底的に洗脳する密室は、まるでゾラ的な実験室のグロテスクなヴァージョンのように見える。そして、このような思考の実験的なジェノサイドが可能なのは、オブライエンが人間の可塑性を熟知しているためである。
われわれが人生をすべてのレベルでコントロールしているのだよ、ウィンストン。君は人間性と呼ばれるような何かが存在し、それがわれわれのやることに憤慨して、われわれに敵対するだろうと思っている。だがわれわれが人間性を作っているのだ。人間というのは金属と同じで、打てばありとあらゆるかたちに変形できる。(四一七‐八頁)
哲学者のリチャード・ローティは『一九八四年』を分析するなかで、オブライエンに「オーウェルの青年時代におけるイギリス知識人の典型的な特徴のすべて」が与えられていると見なし、そこにオーウェルの世代の知的アイドルであったジョージ・バーナード・ショーの面影を認めている。洗練された知識人オブライエンは、その美的な趣味と知的な能力を最大限に発揮して、犯罪者を矯正する卓越した拷問官になった。ローティによれば、オブライエンが知的でありつつ残酷であることは、何ら不思議なことではない。なぜなら「知的な天分――知性、判断力、他への関心、想像力、美への趣味――は性的な本能と同じように可塑的で柔軟なもの」であり「人間の手と同じように、多種多様な形をとりうる」からである[17]。そのことを最も明瞭に自覚していたのがオブライエンなのだ。
そもそも、『一九八四年』は最初から、人間の感情を可塑的なもの、つまり抽象的で無軌道なものとして描いていた。テレスクリーンから定期的に流れる「二分間憎悪」という奇妙なイベント――「人民の敵」とされるエマニュエル・ゴールドスタインへの糾弾が二分間続けられる――のもたらす群衆の熱狂のなかで、ウィンストンの怒りの感情の向かう先は「鉛管工の使うガスバーナーの炎のように」めまぐるしく転換する。
ウィンストンにしても、ある瞬間の怒りはゴールドスタインには少しも向かわず、それどころか、〈ビッグ・ブラザー〉や党や警察に向けられる。そして、そうしたときにはスクリーンに映っている孤独で皆の嘲笑の的である異端者、虚偽の世界における真実と正気の唯一の守護者へと気持ちが傾くのである。ところがその次には、あっという間にまわりの人間と同化し、ゴールドスタインについて言われていることはすべて真実だと思えてくる。そうした瞬間には、彼が密かに抱いている〈ビッグ・ブラザー〉への嫌悪感は敬愛の念へと変化し、〈ビッグ・ブラザー〉は恐れを知らぬ無敵の擁護者として辺りを睥睨する存在であり、アジア人の大群に立ちはだかる巌のように思えてくる。(二六頁)
ここには、ドストエフスキーの登場人物を思わせる二日酔い的な混乱がある。ウィンストンはオブライエンに拷問される前に、すでに変わりやすい感情に支配されていた。「二分間憎悪」においては、ただ感情の激しいアップダウンだけがあり、怒りの矛先は瞬時に切り替えられる――しかも、このアドレス変更はほとんど当人の自覚なしに生じるのだ。この場面は架空の全体主義社会の描写にとどまらず、現実の大衆社会の集合的感情を絵解きしたものにも思える。怒りは群衆の連帯を支える。しかし、それは短時間のイベントに回収され、その怒りの軌道も簡単に変わるのである。
われわれはここで、オーウェルが『ガリヴァー旅行記』についての優れた批評家であったことを思い出そう(第十章参照)。スウィフトが人間の可塑性を強調したように、オーウェルもアイロニカルな二重思考と単純化されたニュースピークという装置のなかで、人間性がいかに変わりやすいかを示した。オブライエンは自らの思考を一切傷つけることなく、きわめて繊細なやり方で党のイデオロギーに順応する。そして、彼はまさにその同じ技術を用いて、ウィンストンの思考を計画的に訂正した。
オーウェルはもともと、原案では『一九八四年』を『ヨーロッパ最後の人間』と題していたが、この形容はウィンストン以上にオブライエンに当てはまるのではないか。オブライエンは知性的であることと残酷であることを、良心の呵責なく両立させる「最後の人間」(ニーチェの言う末人)である。ローティが言うように、人間の「知的な天分」はそれほどに「可塑的」なのであり、そしてこの可塑性を知り尽くした知識人こそが不正を遂行するのだ。このような暗いヴィジョンをもつ小説家にとって「人生にたいする純粋に美学的な態度」はもはやあり得ない。晩年のオーウェルが「政治による文学にたいする侵犯」を積極的に招き寄せようとしたのは、そのためである[18]。文学もまた、政治による介入を受け入れざるを得ないのだ。
7、可視的な透明人間――オーウェルからラルフ・エリスンへ
ところで、テレスクリーンという装置に象徴されるように、オーウェルは社会の全面的な可視化を想定していた。ウィンストンとオブライエンもまた、お互いの姿をしっかり視認している。そして、このあらゆる私的な秘密を視覚的にあばく透明社会のメカニズムが、思考や言語の管理とコントロールを徹底し、全体主義体制からの逃走を失敗に終わらせる。
しかし、『一九八四年』からまもなくして、一九五二年に刊行されたアメリカの黒人作家ラルフ・エリスンの『見えない人間』では、オーウェル的監視社会とは正反対の状況が描かれている。ウィンストンやジュリアが全面的な可視化にさらされていたとしたら、エリスンの捉えたアメリカ社会の黒人は、むしろ不可視(invisible)だと見なされる。『一九八四年』と『見えない人間』のこの興味深いコントラストは、アフリカ系アメリカ人がヨーロッパの白人とは異なる文学的課題を背負ってきたことを示唆している。
トマス・ピンチョンが『一九八四年』に関する評論で注目したように、オーウェルの描く近未来の国家ではすでに人種差別は撤廃されており、ユダヤ人や黒人、インディオにも入党の資格が与えられていた。ただ、ピンチョンによれば、この「ありそうもない人種的寛容」は、小説のリアリティをいくぶんか損なっている(四九八頁)。逆に、エリスンはアメリカの人種差別の存在を前提として、そこで生じる認識の偏向を問題にした。『見えない人間』の主人公のブルー(憂鬱)な黒人青年――その名は最後まで明かされない――は、その語りの冒頭から白人の「内的な眼」の歪みを批評する。
僕は見えない人間である。かといって、エドガー・アラン・ポーにつきまとった亡霊のたぐいではないし、ハリウッド映画に出てくる心霊体(エクトプラズム)でもない。実体を備えた人間だ。筋肉もあれば骨もあるし、繊維もあれば肉体もある。〔…〕人は、僕の近くに来ると、僕の周囲のものや彼ら自身を、あるいは彼らの想像の産物だけを――要するに、僕以外のものだけを見るんだ。(上・二九頁)
ルイ・アームストロングの歌(どうしておれはこんなに黒くて/こんなにブルーなのか)を聴き、マリファナを吸いながら、彼は「時間の裂け目」に滑り込む。「言いわけになるが、不可視性のせいで僕には人と少し違った時間の感覚があって、完全にリズムにのるというわけにはいかない。進みすぎる時もあれば、遅れすぎる時もある。気づかないほどの時間の速い流れではなく、僕には節目が、つまり時間がぴたりと止まったり先にサッと進んだりする瞬間が分かるのだ」(上・三五頁)。
ときに加速し、ときに遅延する主人公の語りは、人生の時間に麻薬的な抑揚を与えている。この不安定なアゴーギク(テンポの変動)のもとで、『見えない人間』は黒人青年の語る長大な「自伝」の様相を呈する。彼はもともと南部のアラバマ州の大学――ツタで覆われ、スイカズラやマグノリアの花の咲く美しい田園として描かれる――の学生であったが、北部出身の白人理事ノートンをうっかり旧奴隷地区、さらには戦争神経症を患った黒人帰還兵の集う酒場に案内するという失態のせいで、大学を追放され、ニューヨークに移住する。ここには大学の欺瞞的なあり方とともに、聖書の「楽園追放」が意識されているのは明らかだろう[19]。
その後、彼はちょうど拷問を受けるウィンストンのように、病院で電気ショックを与えられるという苦難を経て、『一九八四年』の地下抵抗組織「ブラザー同盟」ならぬ「ブラザーフッド同盟」――黒人の自由と能力を解放するために民衆運動の組織をめざすサークル――に参加し、演説の才能を発揮する。しかし、警官に不当に射殺された黒人を弁護したことで、彼とブラザーフッド同盟の関係は悪化してしまう。やがて白人警察に追われるうちにマンホールのなかの黒い石炭の山に転落した彼は、白人専用ビルの地下室の人間、つまり孤独な「見えない人間」となり、ドストエフスキーの『地下室の手記』の自意識過剰な主人公のように、自らの人生を回顧するノートを書くのである。
エリスンはニューヨークの無名の黒人青年を、いわば可視的な透明人間(The visible invisible)として描いた。黒人はその肌の色、つまり可視的・表面的な情報で差別される。そして、まさにそのことによって黒人の状況そのものが不可視化されるというのが、エリスンの提示した逆説であった。それは、全面的な可視化を恐怖と見なすオーウェルの『一九八四年』には欠けていた問題である。
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第十三章 人間――悪・可塑性・人種|福嶋亮大(前編)
2024-05-24 07:00550pt
1、悪の発明――ラス・カサス的問題
文学にとって世界とは何か。私は歴史的な見地から、その問いを初期グローバリゼーションと紐づけた。世界とはたんに空間的な広さを指す概念ではなく、異質なものとの接近遭遇がたえず起こる場である。異なる歴史、異なる習俗、異なる人間との関係の集合体としての〈世界〉――その成立に欠かせなかったのが、アメリカ大陸へのヨーロッパ人の進出であり、「万物の商品化」を加速させる資本主義のプログラムであった。「世界文学とは新世界文学である」(第七章)という私のテーゼは、異質なものとの関係の無尽蔵の発生を、その根拠としている。
その一方、グローバリゼーションの発端にはおぞましい暴力がある。一六世紀スペインの神学者ラス・カサスの『インディオの破壊についての簡潔な報告』は、まさにその暴力を告発した文書である。先住民――ヨーロッパ人の誤認のせいで「インディオ」と呼ばれた――の虐殺のカタログと呼ぶべきその記録は、ヨーロッパの発明した「世界」が、他者との対話や競合ではなく、搾取と破壊から始まったことを証言している。
ラス・カサスによれば、コロンブスがアメリカ大陸に到着した一五世紀末に「まったく新しい、過去のいずれにも似ても似つかない」時代の扉が開いたが、それはただちに黄金に目のくらんだキリスト教徒たちによる、先住民のインディオの殺戮へと到った。スペイン領植民地におけるエンコミエンダ制(先住民を労働力として使役する権利を征服者に認めた制度)を神への違反として厳しく批判した他のドミニコ会士とともに、ラス・カサスは「人間の破壊」という激越な言葉を使って、スペインの植民地政策の非合法性を訴えた。彼が批判したのは、インディオを「絶滅」させることも厭わない残酷さであり、それを促した数々の社会的不正である[1]。
ラス・カサスは新大陸で受けた精神的な衝撃を、神学的かつ法学的な枠組みのなかで厳密に思考し直した。二〇世紀ペルーの神学者グスタボ・グティエレスによれば、ラス・カサスの企ては「掠奪と不正の上に築かれた社会で福音を宣べ伝えること」にあった。彼は聖書の教えに従い、断固として貧しきものたち、つまり先住民(インディオ)の側に立った。本来、キリストの教えでは、神と富に同時に仕えることはできない。キリスト教徒たちはインディオを、異教の神々をあがめる偶像崇拝者として蔑んだが、ラス・カサスに言わせれば、富(マモン)を行動の基準とし、富にすべてを捧げた自称キリスト教徒たちこそが、本物の神をフェイクの神に取り替えた最悪の偶像崇拝者にほかならない[2]。
黄金という「偶像」に惑溺したキリスト教徒が、おぞましいジェノサイドに駆り立てられる――この植民地でのトラウマ的な「人間の破壊」は、悪の新たな形態の出現、つまり悪の発明と呼ぶにふさわしい。ラス・カサスは大部の『インディアス史』において、この数々の邪悪な行為を歴史家として緻密に再現する一方、『インディアス文明誌』では非ヨーロッパ人のインディオがいかに理性的な人間であるかを、主にアリストテレスの哲学に拠りながら論証しようとした。そこには、人類社会のさまざまな差異とその深層の同一性をスキャン(走査)する文化人類学的な要素がある[3]。
アリストテレスの考えでは、あらゆる人間は政治的動物である。ラス・カサスが論証したのは、それはインディオも例外ではないということである。ラス・カサスに続いて、ホセ・アコスタの驚異的な著作『新大陸自然文化史』(一五九〇年)になると、アリストテレス哲学の限界が厳しく指摘され、あわせてアメリカ大陸の自然誌(気象、動植物、鉱物等)およびインディオの多様な文化についての詳細な分析が記された。それは、ヨーロッパ人に根強くあった新世界=怪物の住む土地という迷信を解体し、理性的な人間の住む範囲をヨーロッパ以外にも広げる企てであった[4]。《世界》に直面したスペイン人は、人間を破壊する暴力と、人間を発見する体系的な知を、ともに進行させたのである。
2、リハビリテーションの技法としての小説
ところで、新世界が「まったく新しい時代」を開いたと言われるのは、それが「旧世界」にも無数の変化をもたらしたからである。スペイン史の泰斗ジョン・エリオットによれば「アメリカを発見したことによって、ヨーロッパは自らを発見した」。アメリカは大量の新しい事実を、ヨーロッパの人間に示した。アメリカはたんに「新しい」世界であるばかりか、自然や文化に関してもヨーロッパとは「違った」世界であった[5]。ゆえに、ヨーロッパ人は新世界の人間や風土を理解するのに、自らの認識の土台――聖書やアリストテレスの哲学も含めて――に遡り、理性や信仰の問題を根本的に再検討するように強いられたのである。
新世界との出会いは、旧世界=ヨーロッパの自己認識に少なからぬ影響を及ぼした。そして、このヨーロッパにおける自己の再発見は、小説の認識の基盤にも重大な作用を及ぼしたように思える。繰り返せば、新しい「世界」の成立は、新しい「悪」の発明でもあった。それは人間――というより人間以下とされた存在――を組織的に破壊するという悪であり、富の増進のために貧者を資源として酷使するという悪である。
このようなジェノサイドの光景は、ヨーロッパの近代小説において変奏された。デフォーの『ペスト』やスウィフトの『ガリヴァー旅行記』、そしてサドの一連のリベルタン小説から、ドストエフスキーの『死の家の記録』、コンラッドの『闇の奥』、ソ連の強制収容所(ラーゲリ)を告発したソルジェニーツィンの『収容所群島』等に到る小説は、人間のシステマティックな「破壊」というラス・カサス的問題を執拗に反復してきた(第十章参照)。ここからは、近代ヨーロッパの発明した「世界」および「世界文学」が、人間の脆弱さや傷つきやすさへのオブセッションを抱いてきたことがうかがえる。
その反面、近代小説はラス・カサスの言説と同じく、富の発明した悪への批判、つまり富の有害さの暴露という一面をもった。われわれはここで、小説が悪からのリハビリテーションという仕事を自ら背負い込んだことに、注意を払っておこう。
現に、ラス・カサスの告発からほどなくして、フェリペ二世の統治時代(一六世紀半ば)のスペインではピカレスクロマンが流行し、無一物の「貧しきもの」の視点から、社会の富める主人たちの欺瞞があばかれた(第十一章参照)。スペインは新大陸から膨大な富が流入していたのに、財政的には赤字が膨らみ、苦境にあった。この繁栄のなかの危機を背景として、当時のスペイン社会では上から下まで、貧しきピカロの精神が浸透し、スペイン人の「人生哲学」を形成するまでになった[6]。財貨を軽蔑し、名誉を求める遍歴の騎士ドン・キホーテは、まさにこの哲学の延長線上に位置している。新世界に最初に進出したスペインが、小説の原初的なプログラムとして富=偶像への批判を明確化したことは、その後の小説の進化を方向づけるものであった。
さらに、『ロビンソン・クルーソー』や『ブーガンヴィル航海記補遺』で新世界と旧世界の対話的なつながりを創出した一八世紀のデフォーやディドロの言説は、アメリカ大陸におけるスペインの暴虐、いわゆる「黒い伝説」への厳しい批判を含んでいた。異文化の人間との友好的な対話を描いたデフォーやディドロは、スペインの悪魔的な「進出」と自らを差異化しようとする――そのとき彼らの小説は、ヨーロッパ人の発明したトラウマ的な悪からのリハビリテーションの場になった。
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6/26(水)開催! 日本人はもう「田舎」には住めないのか? 「地方創生」の理想と現実を身も蓋もなく議論する|家入一真×宇野常寛×占部まり×たかまつなな×牧野圭太(渋谷セカンドステージ vol.28)
2024-05-10 19:00
PLANETSよりトークイベント開催のお知らせです!
渋谷ヒカリエ 8/COURTを舞台に、PLANETSと東急株式会社が共同で、渋谷から新しい文化を発信することをテーマに実施している「渋谷セカンドステージ」、次回の開催が決まりました。
今回のテーマは「地方創生とまちづくり」です。
2010年代以降「地方創生」が叫ばれてきた一方、 都心部と地方との分断が加速しつづけた現代に必要な再建計画はど のようなものか。「ワークアズライフ」としての地方移住、 都市部の広告戦略を応用した地方のブランディング、 地方医療としての少子高齢化対策…… さまざまな形で地方でのプロジェクトを持つプレイヤーたちをお招きし、2020年代の地方創生について語り合います。
参加チケットのお申し込みはこちらから。
▼出演者
家入一真(株式会社CAMPFIRE 代表取締役)2003年株式会社paperboy&co -
勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」|池田明季哉(中編)
2024-05-07 07:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は『勇者警察ジェイデッカー』について分析します。人間と同じ「心」を持つ、デッカードをはじめとしたブレイブポリスたち。もはや人が「乗り込む」ロボットとして存在する必然性が薄れた結果、本作が直面した課題とは──?
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」
「人間」になっていくロボットたち
ダ・ガーンは地球の意志ともいえるような超存在にその人格の根拠を置いていた。しかしジェイデッカーのブレイブポリスは、あくまで超AIという人間が生み出したテクノロジーである。これ自体はマイトガインの勇者特急隊にも存在した設定だったが、それはあくまで旋風寺舞人が所有する旋風寺コンツェルンのテクノロジーのひとつにすぎず、超存在「ではない」意志の根拠として設定されただけで、掘り下げられることはなかった。
しかしジェイデッカーは超AIによって生まれた人格そのものを主題にしていく。デッカードをはじめとしたブレイブポリスは、主に人間たちとの絆を通じて「心」を獲得していく。単なるAIではなく、人間と同じ「心」を持つがゆえに、ブレイブポリスはスペックを超えた能力を発揮する。「心」を獲得することで、デッカードたちは「成熟」していくのだ。
ところがこれは難しい問題を呼び込んでしまう。「心」は勇気や愛といったポジティブな感情を通じて力を与えるが、同時に怒りや嫉妬といったネガティブな感情ももたらす。となれば、警察組織に所属するロボットという暴力装置が、そうしたネガティブな感情を持ってしまうことになる。実際に、ビクティムやフォルツォイクロンといった敵となる犯罪者たちは、超AIを持ちながら悪の心を持ったロボットを創り出す。デッカードたちは自らと同じ、心を持ったロボットたちと戦っていくことになるのである。
ロボットが心を持つとき、そこには人間と同じように善悪が生まれる――サイエンス・フィクションとしては、これは論理的で正当な展開といえる。ジェイデッカーはこの主題をベースにして、これまでの勇者シリーズと比較してもシリアスで重厚なエピソードを多く展開している。このような物語構成が玩具の販促としてどれほど効果的であったかを正確に検証することはほとんどできない。しかし少なくとも玩具を契機にしたアニメーション作品としては、シリーズの中でももっとも完成度が高いシナリオを持つもののひとつであるといって差し支えないだろう。
スコットランドヤードからの使者
そしてジェイデッカーは、デュークという「2号ロボ」、そしてレジーナというヒロインの存在を通じて、この問いを深く掘り下げていく。
▲「救急合体デュークファイヤー」。伝統的なイギリス警官の卵型の帽子、梯子を鞘とした長大な剣、消防車と救急車による赤と白、そして赤十字をイングランドと結びつけた優れた象徴的デザイン。勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p35
再び物語を見ていこう。勇太と絆を育み「心」を得たデッカードはブレイブポリスとして活躍するが、やがて強敵「チーフテン」と対峙することになる。チーフテンは2体1組のロボットで、デッカードたちブレイブポリスと同様、超AIに心を宿している。しかし異なるのは、彼らが宿しているのが「悪の心」であるという点だ。本作では、心を宿すゆえにブレイブポリスはそのスペック以上の性能を発揮すると説明されてきた。同様に心を持った敵は、同格の強敵として――むしろ「悪の心」によって純粋に戦いを好むゆえに、ブレイブポリスを上回る力を持った存在として立ちはだかるのである。デッカードたちは敵が心を持つ自分たちと同じ存在であるがゆえに、戦うことを躊躇する。しかしチーフテンは「ブレイブポリスを倒して最強になりたい」という競争心・闘争心から戦い、ゆえに投降することはない。そしてデッカードは戦いの末チーフテンたちに敗北し、殉職してしまう。デッカードを倒されたブレイブポリスたちは怒りと悲しみを抱き、冷静さを失っていく。
自らが心を持つゆえに、同様に心を持った相手を思いやってしまうこと。そして怒りや悲しみゆえに、ときに判断を誤ること。それはデッカードたちブレイブポリスの脆弱性――「未成熟さ」として描かれる。
「2号ロボ」となるデューク、およびそのパートナーとなるレジーナ・アルジーンは、そのことを鋭く指摘する存在として現れる。デューク(と、その強化形態であるデュークファイヤー)は、デッカードを破ったチーフテンをあっさりと破壊し勝利する。
レジーナは12歳にして博士号を持ち、デュークを開発した天才研究者として現れる。ショートカットにイヤリング、勇太より高い身長、肩が出たタイトなボディスーツというデザイン――明らかに勇太と比較して「大人っぽさ」を与えられたレジーナは、勇太とブレイブポリスを正面から否定する。曰く、人間は怒りや悲しみなど、ネガティブな心を持ち合わせるがゆえに、不完全な存在である。暴力装置であるブレイブポリスは、そうした悪しき心を持たない完全な存在であるべきだ。そして勇太やレジーナといった人間はその手本となるべきであるから、怒りや悲しみを表に出してはならない。これを聞いた勇太はこう悲鳴をあげる。「じゃ、じゃあ、僕がデュークの悪い見本だっていうの!」
▲友永勇太。未成熟な部分に焦点が当てられ、半ばヒロインとしても機能する。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p139
▲レジーナ・アルジーン。友永勇太とのデザインの対比に注目したい。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p140
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