-
ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか|石岡良治(後編)
2023-01-31 07:00
本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「今世紀のロボットアニメ」論をお届けします。「ガンダム」をはじめとして、作中における「死」や「性」的なシーンがしばしば視聴者に衝撃を与えるロボットアニメ。そうした描写を可能にする、ジャンル特有の機能とはどんなものなのでしょうか。前編はこちら。(初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))
ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか|石岡良治(後編)
「宇宙世紀ガンダム」を支え続けるガンプラ市場
現時点(2019年執筆時点)における『ガンダム』テレビシリーズ最新作『鉄血のオルフェンズ』の反響について、ひとつ興味深いことがあります。視聴率やソフト売上という点では必ずしもブランド力に見合っていないとする見解もあるのですが、主役機「ガンダム・バルバトス」をはじめとして、ガンプラの売上という点ではそれなりに好調だったという事実です。 そもそも1980年代のロボットアニメブームはほぼ『ガンダム』の存在や、再放送中に爆発的に売れた「ガンプラブーム」の余波という側面があるのですが、プラモデルというホビーの世界が、アニメから半分自律した世界を形成していたことが、興味深い展開を生みました。 「リアルロボットアニメ」の典型として挙げた『太陽の牙ダグラム』は、もっぱらプラモデルの売上の力によって放送延長となり、75話という長期アニメとなりました。現在では後続の『装甲騎兵ボトムズ』のほうがアニメ作品としての存在感は大きいのですが、1980年代のガンプラブームの直撃世代である私の印象としては、『ダグラム』のプラモデルは、デザイナー大河原邦男の無骨なデザインがいい感じに出ていて、ガンダムをよりリアル寄りにしたメカが魅力的でした。 当のガンプラにかんしても、とりわけ小学生にとって魅力的だったのは、手頃な値段で買えた最小スケールの「1/144」では、マイナーなメカも含めた「コンプリートの楽しみ」が味わえたことです。1980年代前半が社会現象としてのガンプラブームの最盛期なのですが、ガンプラバトルを題材にしたマンガ『プラモ狂四郎』などの存在によって、掲載誌の「コミックボンボン」(講談社)が、『ドラえもん』などが連載されていた「コロコロコミック」(小学館)の部数に肉薄する勢いを持つほどでした。「コミックボンボン」は現在では廃刊となってしまいましたが、『SDガンダム』が展開されていた1980年代末から1990年代初頭には、一時「コロコロコミック」と売上が逆転していたぐらい、ガンダムのホビーとしての力が大きかったことがうかがえます。 ガンプラブームで興味深いエピソードとしては、アニメに登場したモビルスーツが発売され尽くされた後、「ザク」などの派生機を「モビルスーツバリエーション(MSV)」として独自展開していたことが挙げられます。そこでは「ザク」と「グフ」の中間形態や、最後のMS「ジオング」への発展系の「サイコザク」など、モデラーやデザイナーがアニメの設定から膨らませていった様々なモビルスーツが多数発売され、現在に至る「宇宙世紀もの」の派生アニメに出てくるカスタム機の原点となりました。今の私は宇宙世紀派生もの作品の多くはアニメとしては「蛇足」になりがちという印象を持っていますが、これらの作品についてはむしろ「プラモデルをつくる側」から眺めることで、その魅力がわかるのかもしれません。その嚆矢となったのは、カトキハジメがデザインした「Sガンダム」によって知られ、模型誌「モデルグラフィックス」(大日本絵画)で連載されていた『ガンダム・センチネル』(1987~1990)でしょう。 カトキハジメ以後、明らかにプラモデル展開の重点が「ザク」などのジオンMSからガンダム派生機に移動した感があるのですが、それは『センチネル』から『機動戦士ガンダム0083 STARDUSTMEMORY』(1991~1992)、『機動戦士ガンダムUユニコーンC』(2010~2014)に至る作品人気を支えているのが、決してシナリオではなく、根強いガンプラマニアであることを示しています。たとえばしばしば話題になった『ガンダムUC』のテーマ曲「UNICORN」の独特の高揚感は、カトキハジメデザインの主役機「ガンダムユニコーン」の可動ギミックが開示される映像と切り離せないのではないでしょうか。
-
ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか|石岡良治(前編)
2023-01-24 07:00
本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「今世紀のロボットアニメ」論をお届けします。20世紀のロボットアニメブームを概観し、ブームの要因となった特徴と今世紀におけるアニメファンと「ロボットもの」との距離感について考察します。(初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))
ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか|石岡良治(前編)
戦後アニメ史と並走してきたロボットアニメ
「アニメーション」一般から区別される意味での日本の「アニメ」が、1963年1月1日放映開始の『鉄腕アトム』にはじまるという見方は比較的共有されていると思います(もっとも当時は「アニメ」とは呼ばれていなかったわけですが)。興味深いのは同年秋に『鉄人28号』(~1966)もアニメ化されていることで、数多いアニメジャンルの中でもロボットアニメは、日本のアニメ史とほぼ重なる歴史的広がりを持っています。とはいえ現在ロボットアニメとみられる作風の原点は『マジンガーZ』(1972~1974)でしょう。このあたりの事情は、宇野常寛さんの『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版社)で詳しく解説されています。 多くの場合、自律型ロボットであることは稀で、主人公が操縦する乗り物としての性質をもつ超兵器であることも重要な特徴です。このジャンルの代表作『機動戦士ガンダム』が「モビルスーツ」という呼称を用い、厄介なロボット定義論から距離を置いているにもかかわらず、総称としてはざっくりと「ロボットアニメ」としてまとめられてしまうのも興味深いところです。それはおそらく、『ガンダム』のヒットを受けて1980年代に数多く作られた後続作が、それぞれの世界観に合わせて「アーマードトルーパー」(『装甲騎兵ボトムズ』1983~1984)や「オーラバトラー」(『聖戦士ダンバイン』1983~1984)といった名称を増殖させすぎたことも一因でしょう。「要するにこれらは全部ロボット」なのだという直観のほうが、正確な定義に勝ったわけです。 私がロボットアニメにおいて重要だと考えているのは、ミリタリーの想像力をかすめつつも、そこから逸れていく展開がしばしばみられるところです。本稿の話題の一部は『視覚文化「超」講義』の4‐3「ロボットアニメの諸相とガジェットの想像力」で語ったことと重なるのですが、一点だけ要点をまとめると、しばしば男性オタクの欲望と重ねられてきた「メカと美少女」というキーワードとの関係を追うことで、ロボットアニメの現状を考えることができるのではないかという見通しを持っています。ロボットアニメは現在でも数多く制作され続けていますが、特に若いアニメファンのニーズと合致することが少ないジャンルとなっている上、「アニメファン=男性オタク」の等式を作れるという幻想がそもそも成り立たなくなっています。そうした現状を踏まえつつ、今回は「今世紀のロボットアニメ」について分析してみたいと考えています。
前世紀の「基準作」だった『ガンダム』と『エヴァ』
「今世紀のロボットアニメ」というテーマを考える上で、やはり前世紀の1990年代までの展開を簡単に整理しておく必要があると思います。とりわけ私が注目したいのは、20世紀ロボットアニメの「ガジェット性」です。 1960~1970年代のロボットアニメは、少年(後に少女も)を軍隊とは別の手段で活躍させるために最適な枠組みとして選ばれていたように思います。少年探偵ものが、警察に属することなく捜査を行うのと似ていて、軍隊組織に属さない一種の「特殊部隊もの」としての性格を帯びた作品が多いんですね。少年少女が大人以上に大活躍しなければならないというジャンル的な要請は、昔も今も「不自然だ」として嫌われることが多く、しばしばミリタリーマニアが「おっさんが活躍するアニメ」を求める声を上げているのをネットなどでは目にします。ですが、実際のところ、日本ではダイレクトな軍隊ものにはせずにそこを「やや迂回する」ほうが好まれているわけです。このことは萌えミリタリージャンル最大のヒット作『ガールズ&パンツァー』が徹頭徹尾「部活物」として描かれていることをみれば明らかでしょう。というのも、ここをリアリズム寄りで突き詰めていくと、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』における少年兵のようなタイプの悲惨さが前面に出ることになってしまうからです。
-
身体というフロンティア|最上和子
2023-01-17 07:00
本日のメルマガは、舞踏家・最上和子さんの特別寄稿をお届けします。数々の公演やワークショップを通じて「身体」の探求と模索を行う最上さん。今回は稽古場で「身体」の内側と向き合うことで得た、「自意識」が後退していく体験について綴っていただきました。(初出:『モノノメ 創刊号』(PLANETS、2021)バナー画像出典:「FULLDOME HIRUKO」)
身体というフロンティア|最上和子
私のしている舞踏は自分の外側に動きの形をつくるのではなく、まず最初に自分の身体の内部と徹底的に向き合う。世界にはバレエ、日舞、フラメンコ、伝統芸能、民族舞踊などたくさんの舞踊があるが、そのどれとも違い、方向が逆になっている。それは踊りをする前に内部を見出すという大きな課題があるからだ。 身体の「内部」とはどういうことか。私の行っている基本の稽古に「床稽古」というのがある。身体の力を抜いて一〇分間床に横たわり、一〇分かけて立ち上がり、次に一〇分歩く。一行程三〇分のこの稽古で身体と意識状態に驚くべき変化が起こる(起こらない場合もあるが)。 まず身体の力を抜くのが難しい。抜いたつもりになっているだけという場合がほとんどだ。力を抜いて横たわるとは、無防備に自分を投げ出すということ。社会的な武装を解くということなのだ。力を抜くためにはそれなりの仕掛けが必要だが、ここでは割愛する。
-
宇野常寛インタビュー<情報過多の時代に市民(=主体)はどうあるべきか>
2023-01-10 07:00
明けましておめでとうございます。今年もPLANETSをよろしくお願いいたします。新年最初のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の特別インタビューをお届けします。最後のフロンティアとして20世紀末に登場したインターネットが、逆に人々を閉じ込めている現代社会。その「外部」はどこにあるのか、長いコロナ禍の中で熟成させてきた思考を展開してもらいました。(初出:「週刊読書人」2022年11月4日号(3463号))
情報社会における市民=主体はどうあるべきか
──パンデミックの蔓延、人々のインターネットへの常時接続、未曾有の状況の前に放棄された思考、民主主義という制度に支持された監視と統制……閉塞した現状をいかにして開くことができるのか。その思考実験が、異人たちの人生と思想を通じ、弛まず繰り返される本でした。
宇野 この本はコロナ禍の中で書かれた本で、その影響はやはり大きいです。ただ、僕の関心はたぶん世間とはかなり変わっていて、このパンデミックがインフォデミックに支えられていたことにあります。たとえば「コロナは風邪に過ぎない」とか、「特定の国家の生み出したウイルス兵器だ」といったデマや陰謀論が随分と流布し、影響力を持ちました。これらの言葉を信じた人は、単に愚かだったというよりは「わからない」ことに耐えられなかったのだと思います。二〇二〇年の時点で、COVID-19は人類にとって未知の存在でしたが、それをどうにかして理解可能なものにして受け止めるために、デマや陰謀論に縋ったのだと思います。また、「新しい生活様式」は新しい格差を生むと批判する人たちは、「新しい再分配」を進めるよりも「古い生活様式」に回帰することを主張しがちです。格差を批判する割には、感染爆発のときエッセンシャルワーカーがまっさきに犠牲になることには無頓着です。これは一例ですが、こういう端的に愚かな言説が支持を集めてしまうのは、要するに人間がウイルスという問題そのものにはほとんど関心をいだいていない、というか直視できなかったという現実があったように思います。人間は、新型コロナウイルスという未知の物事との手探りのコミュニケーションから逃避して、代わりに正解のわかっている人間間の相互評価のゲームに逃避したのだと思います。
ただ、正確には、コロナ禍はこの傾向を加速しただけで、それ以前から現代人はSNSの相互評価のゲームに没入して、物事そのものには触れられなくなっていたはずです。SNSのプラットフォームが普及して以降、人間はある問題に対してその解決法を探ったり、問題そのものの妥当性を検討するよりも、どう解答すると他のプレイヤーから評価を獲得できるかを考えるようになった。これが、ほとんどのプレイヤーが情報発信の能力を持つ社会を支配する相互評価のゲームです。たとえばこの国の民主主義にしても、この国の第二極は、支持者向けの言論ポルノとして第一極への対決姿勢を示し過ぎている、と批判されます。ところが真の野党を作らなければいけないと主張する第三極も、結局同じことをしている。第一極に対し劣勢な第二極を後出しジャンケン的に嘲笑することで、コンプレックス層を動員することに夢中になってしまっている。しかし残念ながら、全ての人が発信能力を持つこの相互評価のゲームにおいては彼らの戦略は有効なものでほとんど定石と言っていい。
この相互評価のゲームでは、既に大勢の人が話題にしている内容にコミットすること、そしてその話題についての主流派の意見に対してYESと言うかNOと言うか、潮目を読んでどちらかの意見を扇情的に投稿することが、最も簡単に承認を得る方法です。そのことに危機感を持って『遅いインターネット』では、二十一世紀初頭におこった送り手と受け手が明確に分かれていたメディアの時代から、全てのプレイヤーが受信者と発信者を兼ねるプラットフォームへの変化について、メディアの立場から介入してみたいと考えました。そして今回の『砂漠と異人たち』は、そこから一歩推し進めて、情報社会における市民=主体は、どうあればよいのかを考えてみようとしたのです。
今までとは違う言葉で話すこと
──民主主義とは「承認の再分配の装置」であり、Somewhereにとっての「世界に素手で触れる手触りを与える装置」だとも書かれていました。
宇野 この社会をとりまくゲームは二層構造になっています。イギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートは現代のクリエイティブ・クラスのような「どこでも」生きていける人々のことをAnywhere、前世紀の労働者のような「どこかで」しか生きていけない人々をSomewhereと呼んでいます。
現代の資本主義社会で、世の中を自分の手で変え得ると実感できるのは、グローバルな情報産業や金融産業のごく一部のプレイヤーだけです。彼らは国民国家という枠を超えて、グローバルな資本主義にコミットし、求心力の強いサービスや商品を投入することで、世界中の人々の生活を直接変えていきます。
かつてはTBSの日曜劇場のような世界観が生きていて、モノづくりを中心とした作業に従事することで、一労働者が国の経済発展に寄与し世界に関われていると実感できていた。しかしいまは、世界を前進させている産業はグローバルなものに変っています。このような社会では民主主義が、Somewhereが世界に素手で触れるための数少ない回路になっているんです。
人々が政治的に声をあげることは、一概に否定すべきことではありません。ただ自分が世の中に関わり得る証のために、手段ではなく目的として、政治的発言を消費する人たちはまた別の話です。敵対勢力への攻撃的な政治的発言を通し、ほかのプレイヤーから承認を得ようとするときに、デマや陰謀論に取り込まれやすい。こうした動きが現在世界中で観察されています。
──「ハラリの語る妥当さの無力と、ウエルベックのパフォーマンスの哀しい空回りのあいだに、いま僕たちは生きている」とありました。多くの人が、自分が信じたいものを信じ発信する時代に、シンプルな主張を伝えることがいかに難しいのか、つくづく感じるところです。
宇野 たぶんハラリも、正しい言葉が人を動機付けないことなどわかっているんです。ただ一方にオードリー・タンのような彼から見ればやや踏み込みすぎた技術主義者が現れたときに、自分たちの現状を確認するための良心的で常識的な発言を、国際的な知識人として繰り返さざるを得なくなっている。対してウエルベックの露悪的なパフォーマンスは二〇世紀文学の言葉が、この現実に対して無力であることを自覚しているためのものだと思うのだけれど、結局は自分はなにもかもわかっている人間なのだと自分に言い聞かせたい人の、幼稚なナルシシズムへのヒーリングにしかなっていない。
世代の違う二人のパフォーマンスは、いままでとは違う言葉で話さなければ、この状況の突破口を探すことは難しいと感じさせます。僕はハラリと同世代ですが、ハラリのような責任は幸いにして負っていないので、もっとミーハーで不真面目な言葉も用いて、この状況に一石を投じられないかと考えているんです。
──第二部のロレンス篇は、一緒に走らせてもらったかのような読後感でした。この旅の過程でどんどん景色が変わり、時には景色を堪能するために速度を落としたり、回り道したり……。そして、衝撃の結末が待っていました(笑)。
宇野 そこはぜひ、本で読んで楽しんで欲しいです(笑)。
高校生のときに、映画『アラビアのロレンス』を観て以来、ずっと興味をもっていて、いつかロレンスについて書きたいと思っていました。コロナ禍でロレンスのことをより考えるようになったのは、彼が世界の「外部」を目指して、砂漠に向った人物だったからです。現在のインターネットによってもたらされる閉塞とは、外部幻想の飽和なのだと思うのです。
そもそもコンピュータは、フロンティアの果ての西海岸で生まれた、革命の世紀の敗北の落とし子です。自己の内面の変革から世界の見え方を変えようとした、ヒッピーカルチャーの一ジャンルがシリコンバレーの源流の一つです。サイバースペースはそもそも、資本主義の外部を捏造するはずだった。それが二十一世紀に入り、新たなフロンティアとして資本主義に取り込まれ、結果人類をより強く縛り付ける繭になった。インターネットはその成立ちから、社会の外部にはなり得ぬ装置だという皮肉です。
僕の中で外部幻想によって自壊した人間の象徴がロレンスだったので、彼について書くことで、シリコンバレー的夢の破綻に、現代人はどう向き合うべきかが探れるのではないかと考えました。
1 / 1