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記事 23件
  • 男と食 27 | 井上敏樹

    2020-06-30 07:00  

    平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。今回は、子供の頃に憧れた高級品・マスクメロンについての話題から、中学生の頃の思い出が蘇ります。友人たちと遊びに行った群馬県の親戚の家に滞在中、地元の女の子たちに目をつけられた敏樹先生。彼女たちとの微笑ましいエピソードとは?
    「平成仮面ライダー」シリーズなどで知られる脚本家・井上敏樹先生による、初のエッセイ集『男と遊び』、好評発売中です! PLANETS公式オンラインストアでご購入いただくと、著者・井上敏樹が特撮ドラマ脚本家としての半生を振り返る特別インタビュー冊子『男と男たち』が付属します。 (※特典冊子は数量限定のため、なくなり次第終了となります) 詳細・ご購入はこちらから。
    脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第56回 男 と 食 27          井上敏樹 
    以前、鮨屋のカウンターで思い切り食べるのが子供の頃の夢だった、と書いた。実は鮨の他にもうひとつ、同じような思いを抱いていた食材がある。メロンである。子供の頃、メロンと言えばプリンスメロンで、マスクメロンは滅多にお目にかかれない高級品であった。子供の舌にも、両者の味の差は歴然としていた。プリンスメロンはなにやら青臭くて苦みがある。マスクメロンに比べて格が低い。外見的にもプリンスの方はつるんとしていて愛想がないが、マスクメロンは複雑な筋が入っていて見飽きない。味にしても見てくれにしても、両者の差は明らかである。あ〜、マスクメロンを腹一杯食いたい、子供の頃の私は何度そう思ったか分からない。そこで、大学生になり、原稿料を貰うようになって実行した。店で売っていた一番高いマスクメロンを買い、夜ひそかにひとりで食ったのである。この、『ひとりひそかに』というのはとても重要なポイントで、間違っても家族や友人にふるまってはならない。ひとりでこそこそやるからうまいのだ。エロ本と同じだ。メロンを真っ二つに切る。種を掻き出す。そうしてスプーンで貪り食った。一気である。果汁がぼとぼとと胸に滴る。食べ終わった瞬間、ベッドに横になり『あ〜、食った〜』と叫んだ。とは言え、この頃の私は概ね甘味は卒業しており、メロンに執着があったわけではない。ただ、子供の頃のささやかな夢を叶えたかっただけだ。さて、メロンと言えば例によって私には忘れられない思い出がある。以前、群馬県は大滝村の親戚の家でサンショウウオを飲んだ話を書いたが、私にはもう一軒、大滝村の手前、万場町というところに親戚がある。
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  • テレビリアリティのゆくえ「笑っていいとも」の終わり|宇野常寛

    2020-06-29 07:00  

    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは2014年3月に放送終了した国民的お昼のバラエティ番組『笑っていいとも』です。『いいとも』に象徴される「楽屋を半分見せる」ことで「東京の業界人」の友達の輪に入れたかのように錯覚させる「テレビ的な」リアリティは、人々の情報環境の変化によって敗北しつつあります。奇しくも『いいとも』終了と同時期、放送作家・福田雄一が手掛けた『指原の乱』から垣間見える、テレビ的想像力に残された僅かな可能性とは? ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
    宇野常寛コレクション vol.26テレビリアリティのゆくえ「笑っていいとも」の終わり
     先日、天気が良かったので気分転換に散歩に出かけた。自宅のある高田馬場からまっすぐ南下して、新宿東口にさしかかったところで平日の昼間とは思えない人ごみに遭遇した。いったい何事かと僕は不審に思ったのだが、「32年間ありがとう」という横断幕を目にしてすべてに合点がいった。その日、31日は国民的お昼のバラエティ番組『笑っていいとも!』の最終回の日であり、そのとき東口のアルタ前はこれからはじまる最後の生放送の現場にかけつけたファンでごった返していたのだ。僕は、その瞬間まで『いいとも』が最終回を迎えることを完全に忘れていたのだ。  そして、僕は、Twitterにアップロードする写真を撮り終えると満足して、その場をあっさりと離れて行った。僕は東口のヨドバシカメラで最近ハマっているドイツの動物フィギュア(シュライヒ)を買うつもりで、ゆっくり選んで打ち合わせの時間までに高田馬場に戻るにはここで無駄な時間を過ごすわけにはいかなかった。
     僕は32年間この『笑っていいとも!』という番組を一度も面白いと感じたことがなかった。他に好きなものがたくさんあったせいか、子どもの頃から相対的に芸能界に関心が薄く、『いいとも』のあの、お互いのキャラクターをいじりあう空間を少しも楽しむことができなかった。僕にとってそれはまるで隣のクラスの内輪ネタを延々と見せられているようで、酷く退屈な代物だった。どうしても「この人たちはどうして自分たちのローカルな人間関係が社会そのものであるかのように振る舞えるのだろうか」と疑問に思ってしまう。  もちろん、今でこそ僕も僕なりにこの番組の持つユニークさとその洗練を理解してはいるつもりだ。教科書的な解説を加えれば、国内において消費社会の進行と同時に、「大きな物語」の失効が顕在化していった80年代はテレビや雑誌といった(当時の文化空間を牽引した)メディアが、ベタに物語を語ることではなくメタ的なアプローチによってメジャーシーンを形成していった時代だった。具体的には『おしん』的な高度成長期のイデオロギーの通用しない都市部のアーリーアダプターたちに対し、メディアの担い手たちは物語のレベルでは「相対主義という名の絶対主義」をもって(80年代的相対主義、面白主義を東京のギョーカイの掲げる絶対的な価値として)振りかざし、そして形式的にはそんな「東京のギョーカイ」が「楽屋を半分見せる」ことで送り手と受け手、ブラウン管の中と外の境界線を曖昧にすることでリアリティを担保していった。糸井重里が本来添え物に過ぎない雑誌の投稿欄を主戦場に変え、秋元康が番組内でそこに出演するアイドルのオーディションの経過を公開していった。そうすることで、本来東京のギョーカイに縁のない僕らも、そことつながっているように感じられたし、そして東京のギョーカイへの憧れも肥大していったのだ。それがこの時期に隆盛した「テレビ的なもの」の本質だ。  こうした手法は「客いじり」と「楽屋落ち」を基本にその笑いを組み立てていった萩本欽一と、彼の手がけた70年代のバラエティに起源を持つという(大見崇晴『「テレビリアリティ」の時代』)。そして70年代に萩本が培った手法はその批判的継承者であるビッグ3によって80年代のテレビシーンを、ひいては文化空間の性格を決定づけるものに成長した。そしてその最大の成果が『いいとも』だったのは間違いないだろう。台本らしい台本が存在せず、ただ、無目的で漫然としたお喋りと茶番じみた余興が、毎日のお昼休みに披露される。それはほとんど「楽屋」そのものであり、そしてその「楽屋」を共有することでその観客と視聴者もまたタモリの「友達の輪」に入っているような錯覚を覚えることができた。相対主義という名の絶対主義が、ギョーカイの内輪受けのおしゃべりという非物語が疑似的な大きな物語として機能することで、この国のテレビ文化は隆盛してきたと言っていい。    だとすると、『いいとも』が成立していたのは、テレビがその圧倒的な訴求力と、それを背景に80年代に形成し90年代を席巻したギョーカイ幻想があってのことだ、ということになる。どれだけ「楽屋を半分見せる」いや、「楽屋そのものを見せる」手法が卓越していても、その楽屋に憧れない人間=テレビ芸能人を人気者だと思わない人間には一文の価値もないのだ。そして、消費社会の進行と情報環境の変化は僕のように感じる人間を飛躍的に増やしていったのだと思う。こうして『いいとも』は過去のものになっていったのだろう。
     実際、インターネットの若者層の間では「テレビっぽい」という言葉が「サムい」と同義で使われはじめて久しい。メディアの多様化はテレビ=世間という等式を崩しつつあり、そこに胡坐をかいた番組作りが東京の業界人の内輪受け以上には映らなくなり始めているのだ。  たぶん、僕が最終回以前に『いいとも』に触れたのは後にも先にも一回だけだったと思う。それは昨年のAKB総選挙で1位を獲得した指原莉乃が、その勝利スピーチのクライマックスを『いいとも』ネタで締めたことに対して、僕は苦言を呈したのだ。  そう、僕はAKB48がテレビに近づいていくことを、あまりいいことだと思っていない。なぜならば、初期のAKB48はテレビとは異なる方法で人を惹き付けることに成功したところにその本質があると考えているからだ。僕が『いいとも』に出てくる芸能人たちには何の思い入れも持つことができない一方で、AKB48を応援することはできるのもそのためだ。楽屋を半分見せられることくらいでは、そもそもかつてほど「東京」の「ギョーカイ」が輝いていない現代、もはや僕らは彼らに憧れることはできない。だから『いいとも』は終わった。しかし、たとえ「クラスで四~五番目に可愛い女子」の集まりでも(いや、だからこそ)総選挙で票を入れ、握手会の列にならんで直接話すことで自分たちもこのゲームに参加しているという実感が得られる。タモリの友達の輪には入れない(入りたいとも思えない)僕も、AKB48には確実に参加できる。だから同じローカルサークルの内輪話でも、「テレフォンショッキング」には興味を持てないが彼女たちのおしゃべりには興味を持つことができるのだ。  
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  • 與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第12回 「近代」の秋:2011-12(後編)

    2020-06-26 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」の第12回の後編をお送りします。挫折した民主党政権に替わる、トップダウンで改革を進める小泉路線の新たな担い手として維新の会の橋下徹に注目が集まっていた2012年。その「橋下旋風」の下、意識を経由しない「直観」によるスピーディーな決断が支持されるようになっていきます。混迷する国内の政治状況の中、わずかに残っていた「自公民」三党での大連立の可能性は、東アジア体制の変動と、歴史を軽視しナショナリズムを煽る「自分を抑えない」政治家によって打ち砕かれてしまいます。
    與那覇潤  平成史──ぼくらの昨日の世界 第12回 「近代」の秋:2011-12(後編)
    機動戦幻想の蹉跌
     2012年の4月、研究室で献本の封筒を開けた私は、文字通り椅子から転げ落ちました。入っていたのはPHP研究所の論壇誌『Voice』で、特集名はなんと「橋下徹に日本の改革を委ねよ!」。橋下氏の盟友である松井一郎氏(当時、大阪府知事)や、かつて「平成維新の会」を組織した大前研一氏(第3回)はいかにもな人選ですが、前月放映のテレビでご一緒したばかりの意外な名前が混じっていました。
     宮崎哲弥さん(評論家)を司会役にした鼎談で、萱野稔人さんは行財政のスリム化のためには「『ポピュリズム』以外に有効な手法があるかといえば、疑問」。当時、大阪維新の会が国政進出に向けて検討中の公約案(維新八策)でうたったフラットタックスについては、飯田泰之さん(経済学)いわく「経済学者は全員、賛成でしょう(笑)」[24]。全体を通読すると、手放しの礼賛ではなく懸念の指摘も見られるとはいえ、挫折した民主党政権に替わる「新たな改革」の担い手として、橋下維新に期待する基調があることは拭えません。
     もっとも世の中には上手がいるもので、同誌が再度同様の特集を組んだ11月号には竹中平蔵氏が登場。いわく、取締役会がCEOを解任できるように「独裁を制御する仕組みさえあれば、強いリーダーの登場を期待しても、まったく問題はないはず」で、バラマキ政策ではなく国民の自立を促しているから、「小泉〔純一郎〕さんも橋下さんも、ポピュラーですが、ポピュリズムではありません」[25]。さすがにこれは本人も恥ずかしい論法ではと思いますが、それだけ橋下氏を通じた小泉路線の再生に期するところがあったのでしょう。
     同じ年の9月9日、国政政党樹立に向けた維新の公開討論会には北岡伸一氏が出席。「一部の教科書には自衛隊や安保条約には(憲法問題で)問題が多いとゆがんだ例をあげている」と戦後教育への批判を展開し[26]、まるで「つくる会」のような口吻だと歴史学者の界隈で波紋を呼びますが、個人的には少子化問題を「ナショナリズムで解決する」「日独伊で少子化が深刻なのは敗戦国で、国のプライドが未回復だから」なる発言の方に[27]、これが一流の政治学者の構想かと哀しくなります。
     なぜこうまでして、学者が「時の政治家」に近づきたがるのか。ヒントになる思想家に、イタリアの社会主義者だったアントニオ・グラムシがいます。ロシア革命のみが成功して西欧の共産化は挫折し続けた戦前、グラムシは「東方では国家がすべてであり、市民社会は原初的でゼラチン状であった」から、機動戦で中央政府の権力を奪取するレーニン主義が成功したが、「国家が揺らぐとただちに市民社会の堅固な構造が姿を現」す西ヨーロッパでは、むしろ長期的に左派系の中間団体を育成し、文化や価値観の面でも支持を調達していく陣地戦が必要だったと反省しました[28]。この発想は戦後、イタリア共産党のユーロコミュニズムに受け継がれ、日本でも革新自治体を支える理論になりました(第11回)。
     ところが平成期には、1993年の──北岡・竹中氏らが支えた──小沢一郎氏のクーデター、2001年からの小泉純一郎政権という形で、「一気に首相官邸を握って、上から改革を進める」手法こそが有効に見えてしまった。ロシア革命に比せるかはともかく、結果として国民の政治意識も「非・西洋民主主義的」な方向へと、大きく傾いた側面があります。2012年10月に刊行した池田信夫さんとの対談本では、当時邦訳書が刊行され注目の集まっていたダニエル・カーネマン(2002年のノーベル経済学賞受賞者)の概念を踏まえて、こうした政治情勢を論じました。

    「與那覇 橋下さんは政治というものを徹底して『勝つか、負けるか』のモデルで捉えているわけじゃないですか。  池田 やっぱり彼はそういう庶民のシステム1のところを捉える本能的なマーケティングを知っているんですよ。  與那覇 逆に、橋下さんがツイッターで連日罵倒している、リベラルと呼ばれる人々が考えてきた政治は、まさしくシステム2だったわけです」[29]

     システム1・2とは、心理学者でもあるカーネマンが命名した人間の脳機能の二層構造を指すものです。システム1は、意識を経由しない「直観」による判断で、反射神経や動物的な本能に近いスピーディな決定を下すもの。対してシステム2は自覚的に行う「推論」による思考法で、幅広い情報を対照することで先入見を抑制し、合理的な結論を出そうとするもの。「西洋近代のすごかったところは、条件反射的なシステム1の作動を『抑制する機構』をかなりがっちりと作って、それがいわば社会的なシステム2なのではないか」と述べているとおり(発言者は與那覇)[30]、橋下旋風の下で起きているのは日本の西洋化の終焉だというのが、当時の私の判断でした。
     ──「近代」の秋、だな。
     三島由紀夫の盟友と呼ばれた批評家の村松剛が、三島の自死にまで連なる日本人の死生観を探究した『死の日本文学史』(1975年)に、「『中世』の秋」と題する章があります。歴史家ホイジンガの名著として知られる『中世の秋』(1919年)を意識しつつ、「中世ということばには、ヨオロッパ時代区分のにおいがしみついていて、室町時代を中世の後期と呼ぶことには多少のためらいが感じられる」ので[31]、応仁の乱を描く際にはカギカッコをつけて「中世」の秋。そのひそみにならえば、そもそも日本史上に十全な近代化があったかといえば怪しいが、それでも一応は近代を範としてきた時代がおわるという意味では、いまはカッコつきの「近代」の秋なのだろう。
     ホイジンガの著書はルネサンス期を扱うフランス/オランダの文化史ですが、タイトルが『近代の春』ではないことがポイントです。新しい何かが始まろうとするポジティヴな時代としてではなく、むしろ既存の体制が爛熟するとともに煮詰まり、限界に直面し、滅びの予感に包まれてゆく。脱原発デモの高揚や個性派首長の挑戦に「日本が変わる」との期待が託されていた時期、こうしたメランコリック(鬱的)な視点で同時代を描く識者は少なかったのですが、その後の展開は私の正しさを証明したように思います。
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  • 與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第12回 「近代」の秋:2011-12(前編)

    2020-06-25 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」第12回の前編です。2011年3月11日に発生した東日本大震災と、その翌日に明らかになった福島第一原発事故によって終焉を迎えた「後期戦後」。反原発を旗印に盛り上がったネット連動型の市民運動は「アラブの春」などの世界的な潮流とも呼応し、戦後日本の一大転換になるかと思われましたが、それは具体的な展望を欠き、やがて政治の領域の破裂に繋がります。
    與那覇潤  平成史──ぼくらの昨日の世界 第12回 「近代」の秋:2011-12(前編)
    デモへと砕けた政治
     まさか、こんな日本を目にする日が来るとは。
     「戦後日本」の平和と安定に慣れ親しんできた多くの人々がそう感じた機会は、平成のあいだ、必ずしも少なくはありませんでした。1993年と2009年の非自民政権への交代、95年のオウム真理教によるテロ、03年のイラク戦争への自衛隊派遣。しかしそれらすべての衝撃を合わせても、平成23(2011)年の3月11日に及ぶことはないでしょう。
     14時46分18秒、宮城県沖で地震とそれに伴う津波が発生。モーメントマグニチュードは9.0Mwで観測史上空前、記録された最大震度はもちろん(95年の阪神・淡路大震災で初めて適用された)震度7。しかも波高10メートルにも及ぶ巨大津波の襲来のため、被害の広範さは阪神大震災とは比較になりませんでした。2019年末の警察庁の統計では、死者約1万6000名、行方不明者約2500名。
     混乱に輪をかけたのは、翌12日に原子炉建屋が爆発して全国民に知られる福島第一原発事故です。地震に伴い原子炉自体は緊急停止したものの、停電時に用いる非常発電機が津波で浸水し、全電源を喪失。核燃料の冷却ができなくなったのです。前日のうちから近郊に出ていた避難指示は、収束の目処が立たない中で徐々に拡大し、かつ電力不足から首都圏でも計画停電が実施されたため、地震の被害は軽微だった地域にも甚大な影響が及びました。
     宗教的な黙示録か、ほとんどSF作品を思わせる光景があらゆる国民を絶句させたのですが、私にとっての「こんな日本」の感じ方は、周囲とだいぶ違っていたようです。震災発生から一か月後の4月10日、都内で初めて1万人を超える反原発デモが発生。実は、もともとサブカル的な軽いテーマを想定して事前に申請していた企画を、震災を受け急遽看板を掛けかえただけだったらしいのですが[1]、火のついた民意は止まらず、ピークとなった翌2012年には(主催者発表で)最大時に20万人とも呼ばれる群衆が、毎週金曜に首相官邸を取り巻く事態となっていきました。
     ──ああ、原点に返るんだ。戦後の。
     2008年度からずっと、大学で日本通史を講じていた私の目に当時浮かんでいたのは、ニュースフィルムの抜粋を教室で上映していた1947年1月、2.1ゼネストに向けた皇居前広場での大会でした[2]。30万とも報じられた労働者が赤旗を振るなか、司会は戦前、人民戦線事件で投獄されても反戦を貫いた加藤勘十(社会党左派)、演説はモスクワ・延安に亡命して日本の帝国主義と戦った野坂参三(共産党)。そんなものを見せても、ふだんは誰もなにも感じないのが歴史なき社会ですが、ポスト3.11の「眼前に似た風景があった季節」には、学生が息をのむような表情を浮かべていたのを思い出します。
     震災の年を代表する話題書になった開沼博さん(社会学)の『「フクシマ」論』が指摘するように、ほぼすべての原発は1960年代の高度成長下に誘致が始まっています[3]。都心部への労働力の流出によって過疎化が進むなか、原子力政策への協力によって(補助金で)地域を維持する体制は、田中角栄首相―中曽根康弘通産相が主導して74年に整備された電源三法交付金制度に結実しました[4]。実は、当初は原発導入に積極的だった社会党をはじめとする革新勢力が、「反核」を掲げて反対に転じるのも70年代初頭になってからで[5]──86年のチェルノブイリ事故直後の反原発ブームを除くと──おおむね憲法論争ほかと同様の、「いつもの定番の争い」として長く聞き流されてきた。その意味で日本での過酷事故の発生による原発問題の顕在化は、不可視の場所で作られるエネルギーに支えられた穏和で生ぬるい「後期戦後」の終焉を、象徴するものでもありました。
     いつまでも55年体制下の自社対立という「おなじみの構図」では、もはや対応できない課題が広がっていく。その問題意識は細川非自民政権に先んじて、金丸信による自社連立の構想から存在していたことに以前触れましたが(第4回)、中道政党出身の菅直人が率いた震災発生時の政権は、そうした平成の宿命を継ぐものとも言えました。震災直前の2011年1月、もともと自民党の重鎮だった与謝野馨が(たちあがれ日本を経て)電撃的に経済財政相として入閣し批判を浴びますが、与謝野は日本原子力発電の出身で、政界入りは1968年に中曽根の秘書として(初当選は76年)。消費増税から逃げない社会保障財源の安定化を持論とし、前年夏には参院選敗北後の菅首相にも、自民党との大連立を説いていました[6]。変節の誹りを覚悟で入閣を決めた理由は1938年生、当時72歳という年齢。下咽頭がんの後遺症に悩まされ、政策実現に残された時間は長くないと覚悟してのことで[7]、大臣退任後の12年には一時発声不能に陥り、17年に亡くなります。
     しかし、そうした後期戦後以来の問題意識をあざ笑うかのように、福島事故はコントロール不能に陥ります。震災から一夜明けた3月12日の朝、東工大卒で一定の知識を持つ菅首相はヘリコプターで直接事故現場に飛び、情報の掌握を図りますが、私は「スリーマイルだ」とすぐにわかりました(1979年の米国での原発事故。当時大統領のジミー・カーターは工科大出身で原子力潜水艦の開発にあたった経験があり、現地を視察して民心の安定に努めた)。ところが帰京後に、起きるはずのなかった建屋の爆発が発生して菅氏は激昂、以降の東京電力に対する敵対的な姿勢については、いまも評価が分かれています。
     相当数の国民が期待したように、このとき危機対応のための「挙国一致内閣」として、民主・自民で連立を組む可能性はある程度あったようです。民主党きっての実務家として急遽、官房副長官に復帰した仙谷由人が自民党副総裁・大島理森(現衆院議長)と、また「加藤の乱」以来の加藤紘一の仲介をへて菅自身が谷垣禎一総裁と、それぞれに大連立の構想を協議(3月16~19日)。しかし二つのラインは調整がついておらず、不信感を抱いた自民党側は申し入れを拒否。前年の官房長官更迭以来、菅・仙谷の二人は関係が微妙だったようで、当初は仙谷氏が就くと見られた復興相(6月末に新設)は結局、松本龍防災相の兼務となりますが、「九州の人間だから東北の何市がどこの県か分からない」など信じがたい暴言を吐きわずか9日間で辞任[8]。もはやむちゃくちゃと評するほかはない国政の惨状でした。
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  • 「単一神話論」構造を持つ「王道」少年漫画としての『タッチ』| 碇本学

    2020-06-24 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。代表作『タッチ』の分析の第3回目は、本作がなぜ世代を越えて読み継がれる普遍的な野球漫画になったのかの構造とその歴史的な意義を、マイケル・ジョーダンの伝記との対比と「単一神話論」モデルを通じて分析します。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第12回 「単一神話論」構造を持つ「王道」少年漫画としての『タッチ』
    「神様」の死と生(象徴的な死)
    1993年7月23日、葬儀から帰る途中にノースカロライナ州ランバートン近くのハイウェイで昼寝をしていた黒人男性が二人の男に殺され、彼が乗っていた赤いレクサスが犯人たちに盗まれた。8月13日に同州サウスコールの沼地から黒人男性の遺体が見つかったが、身元不明人として同州の条例に基づいて火葬された。彼は家族に行き先を告げずに何日も留守にすることが多かったためにすぐには捜索願を出されていなかった。その後、家族から提供された歯科記録で身元が判明した。彼は56歳の一般的な黒人男性だったが、そのニュースは全米を駆け巡って大きな話題となった。 なぜなら、彼の息子はアメリカ中、世界中の人たちを魅了するスーパースターであり、「バスケットボールの神様」とも言われていたマイケル・ジョーダンだったからだ。父であるジェームズ・ジョーダン・シニアが殺害されたのはマイケル・ジョーダンがシカゴ・ブルズで三連覇(スリーピート)を達成したあとのシーズンオフのことだった。 父・ジェームズは息子・マイケルの試合にはいつも駆けつけて観客席から彼のプレーを見守り続け、息子がアスリートになるため大きな役割を果たした人物であり、父と息子の信頼関係は揺るぎないものだった。 1984年にシカゴ・ブルズに入団したマイケル。ジョーダンはランニングシューズで一部の人にしか知られていなかったNIKEとの契約を嫌がっていたが、それを後押ししたのも父であった。
    当時のNBAではコンバースが市場を独占していた(トップ選手のラリー・バードやマジック・ジョンソンたちほとんどと契約していた)ため、新人のジョーダンを特別扱いはしないと彼のエージェントに伝えてきた。また、二番手のアディダスは経営不振のため契約が結べなかった。 NIKEだけはマイケル・ジョーダンの価値を信じ、エージェントが交渉していたシグネチャー・モデルを作ると約束して新人では考えられない契約金を提示した。父が「この条件を断るのはバカだ」と息子に伝えた。それが決定打となる。NIKEがマイケル・ジョーダンのために作ったシグネチャー・モデルが「エア・ジョーダン」である。 マイケルの活躍とともに売れに売れたこの「エア・ジョーダン」によって、NIKEはその後NBAでも市場を独占し始めることになる。また新進気鋭だったスパイク・リーにCMを作らせることによってファッションアイテムとしても認知されたこのバッシュは爆発的にヒットしていった。現在世界中でスニーカーが履かれている起爆剤のひとつは間違いなく、「エア・ジョーダン」であり、世界中で今もなお一番多く履かれ続けている人の名前のついたスニーカーになっている。
    30歳で1960年代のボストン・セルティックス以来の三連覇を果たし、選手としては全盛期にあったマイケル・ジョーダンは、突如引退会見を開いてNBAから去ること伝えたことで全米に衝撃を与えた。 また、その頃の彼はギャンブルについて一部のメディアからのバッシングが相次いでいた。マイケルは全スポーツ選手でも年棒やスポンサーからの契約金は最高峰のものであり、一般人からすれば年収のような金額ですらマイケルにとっては賭け事に使えるほどの金額ですらあった。父も莫大な金の賭けゴルフなどをしていたとされる。そういう背景もあり、ギャンブル依存症ではないかという報道もされていた。マイケルが父への殺害を依頼したなどの嘘や憶測などの報道も飛び交っていたのも、そうとうなストレスになっていたという。そして、三連覇を達成したあとにもう目指すものがなくなっていたことも引退を決意させたのだとマスコミは推測し、報道はさらに過熱していった。
    現在、Netflixで『マイケル・ジョーダン:ラストダンス』(全10回)が配信されているのでまだ観てない人にはオススメしたい。二度目の三連覇を果たしたマイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズの最後の一年に密着し撮影した素材をメインに、マイケルのデビューから引退までで構成されている素晴らしいドキュメンタリー作品だ。チームを率いたフィル・ジャクソンコーチの指導や選手への理解などはビジネス本を何冊も読むよりも有効であり、かなりの見どころではないだろうか。 ここでももちろん父の死は語られている。
    NBA引退後に突如、マイケル・ジョーダンがMLBへの挑戦を表明。野球への転向は再度全米に衝撃を与えた。父・ジェームズはバスケットボールの大ファンでもあったが、同時に野球ファンでもあり、かつてはマイケルが野球のスターになることが夢だったと語っていた。 マイケル・ジョーダン自身も「最初の優勝の後に父親と約束した夢」だと述べた。父親を殺されたマイケルが子供の頃に父と夢見ていた野球を、父を失ったことで傷を癒すために挑戦しようとしているのだと誰もが考えるようになっていった。しかし、『マイケル・ジョーダン:ラストダンス』の中でジョーダンと旧知の中であるスポーツジャーナリストは、三連覇を達成する前の二連覇後のシーズンオフの頃に、ジョーダンから三連覇を達成したらバスケをやめて野球に挑戦するつもりだと言われていたと答えている。 父が殺害されたことも大きなきっかけになっているが、野球に挑戦することは三連覇を達成する一年前にはすでにマイケルの中で固まっていたということだ。だが、父が殺されてしまったことで、野球に挑戦するというわかりやすいストーリーができてしまった。多くの人はその理解しやすい物語を彼に望んだのだとも言えるかもしれない。
    シカゴ・ブルズと同じくシカゴに本拠地を持っていたシカゴ・ホワイトソックスのキャンプに参加し、ホワイトソックスの傘下AA級バーミングハム・バロンズにマイケル・ジョーダンは入団した。ここでも、野球選手としては活躍できないマイケルは幾度となくマスコミからのバッシングを受け続け、スポーツ新聞などでこき下ろされ続けた。バスケと野球ではもちろん鍛えるべき部位などの違いもあり、野球用の体に鍛え直していき、徐々にスイングスピードも上がりホームランも打てるようになっていった。しかし、メジャーリーグには上がれないままだった。 シカゴ・ブルズのチームメイトだった選手に声をかけられて練習に参加したマイケルはその後、1995年3月にシカゴ・ブルズに復帰しNBA選手として再スタートを切った。背番号はそれまでの「23」ではなく、マイナーリーグでつけていた「45」をつけて再出発した。

    「新しい挑戦の始まり。だから、新しい背番号とともに復帰することにした。ブランクがあったから緊張していたけど、コートに戻れてとても嬉しかった。野球経験を通じて人生観が変わり、バスケの向き合い方も変わった。自分自身、そしてチームのためにプレイできることが何より楽しかった。自分が選んだ道だしね」

    と語った。元々は尊敬する兄が学生時代につけていた背番号が「45」であり、「23」は兄の半分以上は上手くなりたいという想いからマイケル・ジョーダンが自ら選んだものであった。 年の離れた兄たちに幾度となくワンオンワンで負け、その悔しさから人の何倍も練習することで、マイケル・ジョーダンは心身ともに成長していった。また、NBAで活躍を始めても、彼はその負けん気を自らの核として燃やし続けて、ラリー・バードやマジック・ジョンソンなどのスター選手たちに挑み続け、彼らに勝つことで自分の時代を作り上げていくことになった。 1995年の最後17試合に参加し、地区のプレーオフに進むものの、カンファレンス・セミファイナルでは若手の中でも有望株だと期待されていたシャキール・オニールとアンファニー・ハーダウェイという新星を軸に、勢いのあったオーランド・マジックと対戦することとなった。マジックには三連覇を共に果たしたチームメイトのホーレス・グラントがいた。 最初の一戦の残りわずかな時間でマイケル・ジョーダンがニック・アンダーソンにボールを奪われ、最後にはホーレス・グラントにダンクを決められ残り6秒で逆転負けをしてしまう。 試合後にアンダーソンがリポーターに「45番は23番とは違う。23番が相手だったら、ボールを奪えなかったかもしれない」と答えたことで、それ以降の試合ではマイケル・ジョーダンは再び背番号を「23」に戻すことになった。しかし、番号が戻ってもかつての縦横無尽に、どこからでもシュートを決めることのできた神様・マイケル・ジョーダンの姿はなく、チームは敗退することとなった。また、ホーレス・グラントに負けたことが負けん気の強いマイケル・ジョーダンを奮い立たせることになった原因とも言われている。
    翌年の1994−95シーズンに向けてマイケル・ジョーダンはバスケ用に体を鍛え直し、映画『スペース・ジャム』の撮影中には特別な練習施設を撮影所に隣接した場所に作ってもらい、撮影が終わり次第、ライバル選手や若手の有望株だった選手たちを呼んで一緒に練習することで試合の勘を取り戻していった。 このシーズンからは、かつてマイケルやブルズの優勝をずっと阻んできたデトロイド・ピストンズから、「バッドボーイズ」と呼ばれていた同チームの選手陣の中でも最高峰のディフェンダーであり、リバウンド王であったデニス・ロッドマンがブルズに移籍し、チームメイトとなる。最恐の敵が最強の味方となったわけだ。これによりマイケル・ジョーダン、「史上最高のNo.2」と評されていたスコッティ・ピッペン、デニス・ロッドマンという最強の三人組が揃い、このシーズンから1997−98シーズンまで二度目の三連覇を果たしマイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズはNBAの伝説となった。そして、マイケル・ジョーダンは二度目の引退を発表しコートを去っていった。
    『千の顔を持つ英雄』から考える
    なぜ「あだち充論」なのにバスケの、マイケル・ジョーダンの話をしているのだ、こいつは?と読んでいる人は思っているに違いない。 今回は『タッチ』における重要キャラである「原田正平」について取り上げるつもりだったが、彼がどういう存在であるのかは、上記に書いたマイケル・ジョーダンの個人史と上杉達也との共通点、正確には共通している物語についてから話していくことで、より理解が深まると考えているからだ。
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  • 「国家安全法」と香港のいま|周庭

    2020-06-23 07:00  

    香港の社会運動家・周庭(アグネス・チョウ)さんの連載『御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記』。香港の民主主義を大きく揺るがす「国家安全法」はなにが問題なのか。現地からアグネスさんが語ります。(翻訳:伯川星矢)
    周庭 御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記第35回「国家安全法」と香港のいま
    私はここ数年のメディアインタビューでいつもこう言っています、香港の「一国二制度」はすでに「一国1.5制度」になっていると。けれど、最近の出来事を振り返り、私はまた別の表現を使うことにしました。香港のミニ憲法《基本法》に記載されている「一国二制度」は、完全に「一国一制度」に成り果てたのです。

    もし皆さんが直近のニュースをご覧になっていたら、中国本土の中央政府が議会のプロセスと一国二制度の取り決めを無視し、香港で《国家安全法》の立法を強行しようとしたことを
  • 楽器と武器だけが人を殺すことができる『海の底のピアノ』| 宇野常寛

    2020-06-22 07:00  

    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、本メルマガで『男とxxx』を連載中の井上敏樹先生による小説『海の底のピアノ』です。『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー555』から、小説『海の底のピアノ』へ引き継がれた問題意識とは?そして、『衝撃!ゴウライガン』で示された、世界を変えるための想像力とは? ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
    宇野常寛コレクション vol.25楽器と武器だけが人を殺すことができる『海の底のピアノ』
     井上敏樹は1959年、脚本家・伊上勝の長男として埼玉県に生まれた。伊上勝は『隠密剣士』『仮面の忍者 赤影』など日本のテレビ草創期から児童向けの時代劇や冒険活劇などを手掛けるヒットメーカーとして知られた存在だった。(ライターの岩佐陽一は「主人公の必殺技にリスクがあり、敵がそこを攻めてくる」「敵が裏切りを偽装して主人公に接近するが、それをきっかけに改心し任務と心情の狭間で苦悩する」「リタイアした歴戦の勇士が悪の組織に人質を取られ、心ならずも主人公に戦いを挑む」といったヒーロー番組に頻出するプロットを伊上の「発明」だと指摘している。)そんな伊上の最大の代表作は1971年に放映開始された『仮面ライダー』シリーズだった。仮面ライダーは社会現象と言えるブーム(第二次怪獣ブーム/変身ブーム)を起こし、70年代を通して国民的ヒーロー番組に成長していったが、作家としての伊上は70年代の末には壊死しつつあったという。  晩年の伊上は酒に溺れるようになり、そして、当時大学生だった井上敏樹は「借金しか残さなかった」父親を傍らに家計を助けるという目的もあってアニメの脚本を手掛け始めた。やがて井上敏樹の名前は『鳥人戦隊ジェットマン』(1991~1992年)、『超光戦士シャンゼリオン』(1996年)など、東映特撮ヒーロー番組を通してファンの間に知られるようになる。その作風は1話完結パターンの発明と再利用に長けた父親のそれとは真逆のものだった。井上敏樹が得意とするのは特撮ヒーロー番組の長い放映期間を活用した複雑な群像劇の展開と、パターン破りによる問題提起的なストーリーだった。
     そして2001年、井上敏樹は父・伊上勝の手がけた仮面ライダーについにメインライターとして関わることになる。井上は『仮面ライダーアギト』(2001~2002年)にて全51話中50話を手掛けた。僕の知る限り、「アギト」は90年代を席巻したアメリカのサイコサスペンスドラマ(『ツイン・ピークス』がその代表例だろう)のノウハウの輸入とローカライズにもっとも成功した作品である。三人の仮面ライダー(主人公)を軸に膨大な登場人物が絡み合いながら、ある客船の遭難事件に端を発する巨大な謎を解き明かしていく。しかも、三人の主人公の三つの物語は互いに絡み合いながらも、物語の後半まで決して合流しない。そしてクライマックスでの合流の後、エピローグでは再び三つに分かれていく。僕の知る限り、こんなアクロバティックなドラマを一年間(全50話)展開し、破綻なく描ききった作家はいない。  しかし、それ以上に僕が衝撃を受けたのは、井上が本作で示した人間観と世界観だ。同作には複数の仮面ライダー(劇中では「アギト」と呼ばれる)が登場するが、この「アギト」とはいわゆる超能力者のことだ。そしてこの超能力者(アギト)たちが、自分の居場所を発見していく過程が物語の軸になる。  ここで僕たちは初代「仮面ライダー」が(特に石森章太郎の原作版で)「異形」のヒーローとして描かれていたことを思い出すべきだろう。原作漫画において仮面ライダー1号=本郷猛は感情が高ぶるとその顔面に改造手術で受けた傷跡が浮かび上がる。その醜い傷を隠すために本郷は仮面を被り、自らを拉致しサイボーグにしたショッカーと戦うのだ。  そして同作に登場する超能力者たちもまた、ことごとくその過去の体験から精神的外傷(トラウマ)をもつ。この世界ではトラウマと超能力が、比喩的に深く結びついているのだ。その結果彼らはその傷を埋め合わせるために力(超能力)を行使し、そしてその結果ことごとく命を落としていく。そしてその一方で、この物語には「いま、ここ」にある快楽に全力でぶつかっていく人々が登場する。彼らは生活自体を楽しみ、ことごとくよく食べる。そして彼らは劇中においてまったく命を落とすことなく、ほぼ全員が最後まで生き残っていく。そして彼らは全員アギト「ではない」普通の、超能力を「もたない」人間として設定されているのだ。  特に「食べる」というモチーフに井上の意図は明確に表れている。『仮面ライダーアギト』はヒーロー番組とは思えないくらい、食事のシーンが多い。登場人物たちは、何かにつけて家庭の食卓を囲み、外出先でサンドウィッチをむさぼり、屋台のラーメンを啜り、そしてストレスが溜まると焼肉屋で飲み明かしそれを発散する。そしてこれらの「食べる」という行為はどれも生き生きと描かれ、視聴者の食欲を誘う。(特に焼肉については、当時狂牛病問題で牛肉の消費が下がっていたため同番組は関連機関から感謝状を贈られているほどだ。)  そして、ほとんど毎回のように描かれる食事のシーンが、前者(超能力者=アギト)にはほとんどなく、後者(非超能力者)に集中しているのだ。  そんな哀しき超能力者=アギトの中で唯一例外的な存在として描かれるのが主人公の津上翔一(仮面ライダーアギト)だ。翔一は、この物語の中で唯一トラウマを持たない。と、いうかそもそも記憶喪失で過去のことをほぼ覚えていない。しかし、そのことを本人はあまり気に留めておらず、居候先での「主夫」生活を楽しんでいる。趣味は料理を作ることで、毎日のようにユニークな創作料理を手がけ、他人に振る舞おうとする。当然、自身の食事シーンも多い。  そう、翔一は劇中に登場する唯一の「もの食う」超能力者だ。そもそも記憶のない翔一は、トラウマに捉われない。したがって自身の超能力(仮面ライダーへの変身能力)にもこだわりはなく、警察の尋問にあっさりと「実は僕、アギトなんですよ」と答えてしまう。物語の終盤、記憶を取り戻してからもその佇まいは変わらない。「津上翔一」とは記憶喪失中に仮に与えられた名前だが、彼は物語後半に判明した本名にも関心がなく周囲の人間には好きなように呼ばせてしまう。翔一は、世界に与えられたもの(記憶、名前、超能力)に関心を示さない、ある種超越した存在だ。彼を支えるのは「食べる」ことが象徴する、「いま、ここ」の世界から快楽を、生きる力を汲みだす思想だ。そして物語では、ほとんどの仲間たちが死にゆく中、翔一に感化された超能力者たちだけが生き延びていく。  かつて伊上勝は石森章太郎の描く悲劇的なドラマツルギーを、痛快娯楽活劇の「パターン」に落とし込むことで事実上無効化していった。しかしその息子の井上敏樹は、石森的なものを継承しながらも、その世界観を完全に反転させたのだ。
     そして『仮面ライダーアギト』と双子の関係にあるのが、井上が全50話の脚本をすべて手掛けた『仮面ライダー555(ファイズ)』(2003~2004年)だろう。同作には、「アギト」同様、超能力(モンスターへの変身能力)をもつ人類の亜種が登場する。オルフェノクと呼ばれるその亜種は、人類を特殊な方法で殺害する。そして殺害された人類は一定の確率でオルフェノクとして蘇る。こうしてオルフェノクたちは密かに勢力を拡大していく。主人公の青年・乾巧は偶然手に入れたベルト(仮面ライダーへの変身能力を付与する)を用いて、人類を襲うオルフェノクたちと戦うことになる。
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  • 『ダンガンロンパ』は「バトルロワイヤル的想像力」をどう更新したのか?──西尾維新、ゲーム的リアリティ、“ダークナイト以降”のキャラ造形から考える (井上明人×中川大地)【PLANETSアーカイブス】

    2020-06-19 07:00  

    ▲『ダンガンロンパ』生誕10周年記念トレーラー

    今朝のPLANETSアーカイブスは、第1作発売から10周年を記念し、ゲーム研究者の井上明人さんとPLANETS副編集長・中川大地が、人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』を語った対談記事をお届けします。2010年の第1作『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』(以下『1』)、2012年発売の続編『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』(以下『2』)はともに20万本を超える堅調な売上を記録し、2013年にはテレビアニメ化。若い世代のコスプレや二次創作シーンにも定着し、2010年代の家庭用ゲーム発の国産IPとしては特異な存在感を誇るタイトルになった本作。「ゲーム」の範囲にとどまらないこの作品の文化史的/批評的ポテンシャルを改めて語り尽くします。※この記事は2014年10月10日に配信した記事の再配信です。

    ※ネタバレが重大なゲームですので、ゲーム未プレイ/アニメ未視聴の方は注意してお読みください。

    ※この記事は、2014年9月3日にPLANETSチャンネルで放送されたニコ生番組を加筆・再構成したものです。
     
    ▼『ダンガンロンパ』とは
    学級裁判の中で相手の矛盾を論破し、殺人事件の犯人を暴いていくゲーム。ハイスピードでテンポよく展開する学級裁判の中、捜査パートで集めてきた証言や証拠を弾丸としてトリガーにセットし、相手の主張の矛盾をアクションゲームのように撃ち抜くことで論破する。推理とアクションの融合により、これまでにない。まったく新しいエキサイティングなゲーム体験を表現。(公式サイトより)
     
    ▼ストーリー
    舞台は、あらゆる分野の超一流高校生を集めて育て上げる為に設立された、政府公認の特権的な学園「私立 希望ヶ峰学園」。国の将来を担う希望を育て上げるべく設立されたこの学園に、至極平凡な主人公、苗木誠もまた入学を許可されていた。 平均的な学生の中から、抽選によってただ1名選出された超高校級の幸運児として……。入学式当日、玄関ホールで気を失った誠が目を覚ましたのは、密室となった学園内と思われる場所だった。「希望ヶ峰学園」という名前にはほど遠い、陰鬱な雰囲気。薄汚れた廊下、窓には鉄格子、牢獄のような圧迫感。何かがおかしい。 
    入学式会場で、自らを学園長と称するクマのぬいぐるみ、モノクマは生徒たちへ語りはじめる。──今後一生をこの閉鎖空間である学園内で過ごすこと。外へ出たければ殺人をすること。──主人公の誠を含め、この絶望の学園に閉じこめられたのは、全国から集められた超高校級の学生15人。生徒の信頼関係を打ち砕く事件の数々。卑劣な学級裁判。黒幕は誰なのか。その真の目論見とは……。
    (『1』のAmazon商品説明より)

    ポスト「逆転裁判」の系譜と「西尾維新」的文芸センスの融合 
    中川 今回は、PLANETSチャンネルで連載中の「中川大地の現代ゲーム全史」の番外編として、新作『絶対絶望少女』が発売されたばかりの人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』について、ゲーム研究者の井上明人さんをお招きして、いま改めて語ってみようという企画です。井上さん、よろしくお願いします。
    井上 よろしくお願いします。
    中川 この『ダンガンロンパ』シリーズですが、まず第1作が発売されたのは2010年末ですよね。2010年といえば、ソーシャルゲーム市場が急激に成長して、家庭用ゲームがどんどん不振に陥っていった時期です。つまり『怪盗ロワイヤル』などが登場して一般のゲームユーザーの可処分時間を圧迫していった時期に、この『ダンガンロンパ』はクラシックなパッケージゲームの新作シリーズとして登場しつつ、比較的若い世代のライトオタク層を掴んで健闘したタイトルだった点が特徴です。井上さんが最初に『ダンガンロンパ』に注目されたきっかけは何だったんですか?
    井上 実は体験版が出た最初の段階で、ちょっと話題になっていたのでやってみたんですよ。僕はプレイステーション・ネットワークのストアで体験版を漁る習性があるんです(笑)。それでプレイしてみたら「あっ、これは『逆転裁判』をすごく意識して、変種を打ち込んできたぞ」と思いました。体験版のときは難易度調整に若干失敗気味だったんですが、非常に野心的な試みだと思いましたね。
    中川 やっぱり僕らのような30代ゲーマーからすると、まず思い浮かぶのが『逆転裁判』からの脈絡ですね。あれは第1作が出たのが2001年ですが、ゲームボーイアドバンスを代表する最初のオリジナルヒットシリーズでした。殺人事件の聞き込みや証拠品集めなどをする捜査パートと、容疑者や証人の証言の矛盾を指摘したり証拠を突きつけあったりする論争を通じて真相がつまびらかになる裁判パートの繰り返しで進行していくという構成のルーツは、ここから来ています。実際には「裁判」というよりも、ミステリーの王道の真犯人当ての形式的な趣向を置き換えただけだったわけですが、推理アドベンチャーゲームの作劇と体感性を大きく変えました。
     

    ▲『逆転裁判123 成歩堂セレクション』(発売元:カプコン/ニンテンドー3DS)
     
    その後、『逆転裁判』のフォロワーがなかなか出てこなかった中で、10年を経てようやく新しい意匠とシステムで出てきたのがこの『ダンガンロンパ』シリーズなのかなと思うんですが。
    井上 いや、『逆転裁判』のフォロワー的なタイトルは、売れていなかっただけで実はあるにはあったんです。たとえば、『有罪×無罪』『遠隔捜査 真実への23日間』なんかですね。少し離れたところでは『銃声とダイヤモンド』なんかはすごく良かった。『銃声とダイヤモンド』は、『街 〜運命の交差点〜』『かまいたちの夜』の麻野一哉さんがシナリオを手掛けていて、ゲームシステム自体もよくできていたんだけど、主要登場人物がおっさんが多めというのもあり(笑)やや渋めで、あんまり売れなかった。でも、『銃声~』はほんとにすごい作品でした。そういう作品も過去にはあったんですが、それらと『ダンガンロンパ』が何が違ったかといえば、『ダンガンロンパ』はシステム、キャラ、シナリオ、グラフィックなど多面的にK点越えをしていてグイグイ引っ張れる要素が本当にたくさんあった。ほんとに、いい作品なので、売れてよかったなぁという感想を持ちましたね。
    中川 そんな中、『ダンガンロンパ』は推理パートと裁判パートで進むゲームシステムを『逆転裁判』から継承しつつ、そこに2000年代初頭から大きく盛り上がった講談社BOXや西尾維新の一連の作品のような、フリーキーなキャラクターたちが常識ではありえないフィクショナルな状況での推理を繰り広げる、いわゆる「新伝綺」と呼ばれるミステリーとライトノベルの中間領域のような文芸センスを導入してみせたことで、それまでのフォロワータイトルとは一線を画する支持を獲得した。
    井上 『ダンガンロンパ』ですごいなと思ったのは、非常にアイロニカルで批評性があって問題意識がグネグネしたものなのに、『1』『2』ともそれぞれよく売れて、マニアックなサブカルっ子以外にもちゃんと受け入れられたことですね。それは素晴らしいことだと思う一方で、『ダンガンロンパ』や、その先駆者である西尾維新もそうだけど、グネグネしたことをやっていそうでいて、実はそんな難しい問題意識を持っていなくても楽しめるようにもなっている。そこの両立の仕方というのがすごいな、と。
    中川 単純にキャラクターコンテンツとして秀逸です。男性と女性両方のファンがついていて、ノーマルなカップリングを喜ぶ層もいるし、男どうしあるいは百合カップルでの組み合わせの要素もあるし、全方位に向いていて、10代から20代までの若い層にも受けていますよね。それに加えて、ムダに豪華な声優陣の存在もありますよね。
    井上 これは本当に豪華ですよね。
    中川 やっぱりなんといっても特筆すべきは、マスコット兼悪役で、生徒どうしのコロシアイを操るモノクマ役への大山のぶ代さんの起用。ドラえもんの声に新たなイメージを付け加えたのは、この『ダンガンロンパ』シリーズの功績(?)ですよね。
    井上 今のドラえもんの声優は水田わさびさんに代わっていて、今の子どもたちは大山のぶ代のドラえもんを知らない可能性もあるぐらいですよね。
     

    ▲ゲームを操る「モノクマ」中川 そう。別格感あふれる大山さんをはじめ、声優陣は豪華は豪華ながら、実は懐かしい感じのラインナップだった。たとえば『1』の主人公の苗木誠くんを演じたのは『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役の緒方恵美さんだし、『2』の主人公の日向創役はコナンで有名な高山みなみさん、メインキャラの一人である十神白夜役は同じく『エヴァ』の渚カヲルとか『ガンダムSEED』のアスランで有名な石田彰さん等々、主に1990〜2000年代のヒットアニメを代表作とするベテラン勢が中心。かろうじて現役の声優ヲタの文脈に訴求する若手と言えるのは、霧切響子役の日笠陽子さんや『2』の七海千秋役の花澤香菜さんくらいですかね。
    でもこういった今時の深夜アニメ等での旬よりは一回り年齢層高めなレジェンドクラスが起用されたことで、われわれ団塊ジュニア世代のオタク教養的なものと、近年の10-20代のニコニコ世代というか、ジュブナイルライトオタク層との共通言語ができた側面もある気がします。かつてのアニメやマンガなどの小ネタを縦横無尽に引用して詰めこみながら、それを若い世代向けに届けることに成功しているという意味では、やはり西尾維新とも通ずるところがありますよね。
    「学級裁判」が体感させる“推理”と“理不尽”の詐術
    井上 『逆転裁判』との比較をさらに掘り下げてみましょうか。『逆転裁判』の場合は、単に選択肢を選ぶのではなくて、選択肢を選ぶことに対して「なぜこの選択肢の方がいいのか」という合理的推論をする仕組みが提供されてましたよね。これは、ものすごい発明だったわけです。
    まず第一に現実のコミュニケーションを簡単なゲームシステムに変換するということが難しいわけです。で、とりあえずアドベンチャーゲームは、選択肢で会話をするという方式をだいぶ初期につくりだしたわけです。ただ、その次にどの選択肢が正解か、ということについて、納得感をどう演出するか、というのが難しい。すごいゲームデザインというのは、ここの納得感の演出というのが神がかっているわけです。
    たとえば今僕はこうやって中川さんと話していますが、僕が「中川さん、最近どうですか」とか言ったときに中川さんからいきなり「ボンッ! 不正解だ!」みたいなことをバシッと言われたら困るわけです。中川さんがそれを言ったら「この中川さんって人はちょっと、イっちゃった人だな」って感じがしますよね?
    中川 なるほど(笑)。裁判ならそれを言ってもいい、という。
    ▲『ダンガンロンパ』の学級裁判パート
     
    井上 そうです。そこまでが『逆転裁判』が切り開いた地平です。
    さらにその上の第三の地平があるわけです。『逆転裁判』との違いは、『ダンガンロンパ』って学級裁判パートがリアルタイム制であることですね。リアルタイムで議論しているなかで議論の進め方のおかしな点を指摘しないといけなくて、それがゲームとしての緊張感を生んでいた。ちなみに『逆転裁判』も最初はリアルタイム制にしようとしていたらしいんですが、ただし、さすがにそれだと難易度が高すぎるということで実装しなかった。『ダンガンロンパ』はそれをある程度、なんとか遊べる形にしてしまった。
    中川 まあ、ミスをすれば同じ議論が再びループするので、厳密な一回性という意味でのリアルタイムではなく、静的な『逆転裁判』のテキストメッセージに比べ、『ダンガンロンパ』の方が、1ターンの中のタイミング演出が動的になったというだけのことではあるんですが、アクション性が大きく高められたのは間違いない。こういう難易度調整の考え方って、基本的にアクションRPG的だと思うんですよ。ターン制のRPGは静的なパラメータに規定されていて、レベル上げやアイテム収集などプレイヤー本人の腕前によらず根気があれば誰でもできる反面、臨場感に欠ける。対して、ただのアクションゲームの場合は本人にアクションの腕前がないとゲームを進められない。
    アクションRPGはその中間で、パラメータ管理とプレイヤー本人のアクションの腕前をミックスしたゲームデザインになっている。この折衷性が、2000年代以降は『モンハン』シリーズやオープンワールド系RPGでの標準になっていますよね。それと似たようなことを、ストーリーゲームの領域でやったのがこの『ダンガンロンパ』のシステムだったんじゃないのかな。
    捜査パートで他のキャラクターと親しくなると、学級裁判でのアクションを有利にできるアイテムをもらえたりするあたりとかも含め。
    井上 今まで混ざっていなかった「アクション」と「謎解き」のふたつの要素を混ぜて、何とかいい感じに納めたのは偉業と言っていいと思います。
    中川 あと学級裁判パートで面白いのは、推理のプロセスを別種のミニゲームで置き換えていることですね。つまり、いくらプレイヤーに自分の頭で推理するリアルタイム論争に近づけると言っても、所詮は与えられた選択肢から正解を選んで一定のストーリーをなぞっていくAVGとしての本質は変わらない。そのお仕着せ感を軽減すべく、本来なら主人公が能動的な思考をするところを、パズルゲームや音ゲーなどの異なるゲーム的障壁を乗り越えていく体感性で代替して疑似体験性を補っているわけです。
    コンシューマーゲームでは、『ファイナルファンタジー』シリーズぐらいから全体のゲームシステムと関係ないさまざまなミニゲームを入れ込む流れがあって、特に『レイトン教授』シリーズは、大きな推理ストーリーの骨格の中に「脳トレ」的なクイズを組み込むことで、自分が謎解きのプロになった気分を味わえるロールプレイングの詐術を使ったのは大きかった。ああやってゲーム内にミニゲームの多様性を入れ込み「体験を体験で置き換えていく」手法は、ストーリー演出のエフェクトとは無関係なゲーム的要素をすべて取り払っていく方向にAVGシステムを特化させていった1990〜2000年代のPCノベルゲームの台頭に対する、コンシューマーならではのリアクションでもあったのかなと。
    井上 あー、ただ学級裁判のミニゲームに関してはちょっと僕は悩ましい気持ちになりましたね。特に『2』で出てきた「ロジカルダイブ」と称したスノボゲーム(下図参照)とか、さすがに「これは推理のスキルと関係が何もないのでは?」というところがありますよね。
     

    ▲『ダンガンロンパ2』に登場するゲーム内ゲーム、「ロジカルダイブ」の画面
     
    ゲームデザインにおいて、プレイ中にずっと同じことをしていると飽きるので、刺激の多様性は必要なんだけど、そこの多様性の与え方って難しいポイントなんですよね。完全に別ゲームにすると、「関係ないことをやらされるストレス」が発生しやすくなってしまう。経験としては連続していて、かつ多様な展開というのが重要なわけですが、『ダンガンロンパ』に関しては、そこは少し振り切りすぎてしまって、もう完全に別のミニゲームになっているな、とは思いました。もちろんトータルで素晴らしいゲームであることは前提として、ですがこのゲーム設計はちょっとダメなストレスの与え方だな、と感じました。
    中川 なるほど。ただ、あのスノボゲームに関して無理やり深掘りすると(笑)、『FFⅦ』でヒロインのエアリスが死んだあと、ものすごい衝撃を受けて悲しい気分になっているときにスノボゲームをやらされましたよね。それを彷彿とさせるところがあって。で、『ダンガンロンパ』ってそもそも理不尽なゲームをやらされているゲームですよね。
    井上 ああ、なるほど、あれも含めてモノクマの陰謀であると。たしかにそれなら、一貫性がとれてますね(笑)。
    『ダンガンロンパ』に埋め込まれたゲーム史的な自己言及性
    中川 『ダンガンロンパ』って、ゲーム内で『ジョジョの奇妙な冒険』や『るろうに剣心』など、団塊ジュニア以降の世代が親しんできたサブカルネタをちょくちょくぶっこんできているわけですが、その中でゲーム自体の言及もすごくあったりするので、あのスノボゲームも『FFⅦ』のオマージュなんじゃないか、なんてことも思ったりするんですよね(笑)。
    これがあながち邪推すぎるわけでもないかと思うのは、『2』に『トワイライトシンドローム』っていう妙なサイドビュー画面のゲーム内ゲームが出てくるじゃないですか。実際、本作を制作したスパイクの前身の会社が同名のシリーズをちょうど1990年代後半にPSで出していて、さらに後には『夕闇通り探検隊』という伝説的な後継作品にもなっていますが、そういうセルフオマージュを入れてきているわけです。
     

    ▲ゲーム内ゲームとして登場する『トワイライトシンドローム』の画面。
     
    ここにはちょうど、『FFⅦ』までのPS第一世代的なローポリゴンの不気味の谷(3D表現の進化過程で人間の造形が中途半端に再現されると妙に不気味に感じられる段階があること)や構成のチグハグさ、操作系の未洗練さなどが結果的に恐怖や理不尽さの表現として独特の味わいを醸し出していた時代のゲーム史的な記憶を、意識的に埋め込む姿勢が感じられるんですよ。
    井上 『moon』(1997年にラブデリックが開発しアスキーが販売したPS用ゲームソフト。王道RPGやゲームそのものを批評的に捉え返した名作とされる)と同じく、ゲーム内ゲームを構築して、その中でゲームに対する批評性みたいなものをちゃんと獲得していくというやり方ですよね。
    中川 そもそも『ダンガンロンパ』という作品全体が、ゲーム内で登場人物たちが理不尽なデスゲームをやらされているという二重構造になっていて、それに対する言及が1作目のときからキモだったんだけど、それをさらにメタ視点で捉え返すかたちで2作目がつくられていますからね。
    プレイしていて思い出したのが『メタルギアソリッド』の1、2の関係です。メタルギアは第1作の主人公・スネークがシャドーモセス島事件でああいう経験をして、2作目の主人公の雷電はその1の体験のコピーを仕組まれたゲームとしてやらされていて、それを1の主人公だったスネークが最後に解き明かして導いていくという構造があった。これはまさに『ダンガンロンパ』の1、2作目の作劇構造と同じですよね。
    井上 なるほど。ただ僕としては、中川さんとは少し違う感想を持っていて。『ダンガンロンパ』は1作目の時点ですでにリアリティショー(台本や演出なしで素人の出演者がさまざまな状況に直面するさまをドキュメンタリー形式で放送するテレビ番組の一形態)として、中のコロシアイの様子が全世界に中継されていたわけですよね。続く『2』ではそのリアリティショーをさらにバーチャルリアリティに嵌め込んでいるというわけのわからないことをやっていて、これは「お約束をことごとく覆していく」という意味で、すごく西尾維新的な構造だなと思ったんですよ。
    中川 たしかにそうですね。『1』では、閉鎖空間でコロシアイをさせられている学園内がディストピアだと思っていたら、実は世界全体のほうがすでに絶望病に冒されていて『北斗の拳』みたいな終末的な世界になっていて、むしろ学園のなかのほうが守られていた、というどんでん返しがあるわけです。そこにさらにモノクマが登場して学園をコロシアイの舞台にしてリアリティショーとして外の世界に中継していた、という。
    『ダンガンロンパ』に結実した「バトルロワイヤル」な想像力の系譜
    井上 これは『ダンガンロンパ』に限らない話ですが、バトルロワイヤルとリアリティショーはなんでこんなに相性が良いのか、というのも論点の一つかもしれないですよね。
    中川 2000年代以降に台頭してきたバトルロワイヤル的な想像力って、学校やクラスの狭い人間関係の持つ日常の残酷さの表象として、クローズド・サークルのなかで疑心暗鬼になってコロシアイをさせられるというようなものですよね。で、そもそもバトルロワイヤル系の語源である『バトル・ロワイアル』(高見広春による小説。1999年刊で2000年に映画化され大ヒットした)がまさに、「少年たちがバトルする様子を大人たちが見て楽しむ」という構造でしたよね。僕の考えでは、00年代前半の時点ですでにゲームの体験がある程度、人々のリアリティに刷り込まれていたからこそ、殺し合いとリアリティーショーを結びつけるバトルロワイヤル系の想像力が出てきたのかな、と。その感覚が映画や小説に波及して、それをもう一回ゲームのほうに持ち帰ってきたのが『ダンガンロンパ』だったとも位置付けられるんじゃないでしょうか。
    井上 なるほど。ゲーム発だったどうかかは、はっきりと断言できないですけど、その説明は説得的だと思います。
    ちなみに僕の知り合いの20代前半の子が『ぼくらの』とか、バトルロワイヤルものがすごい好きで「こういうものにこそ人間の真実があると思うんですよ」ということをずっと言っていたんですよ。で、案の定『ダンガンロンパ』にはドハマりをしていました。20代前後の子が「ここにこそ人間の真実が!!」という感想を持つのは、頭では理解できなくはないけど、直感的には今ひとつピンとわからない。おそらく、僕が1990年に生まれていたら理解できたのかもしれませんけれど、そこの感覚が今ひとつ腑に落ちる感じがありません。中川さんはどうですか?
    中川 やっぱり1970年代生まれの自分自身のリアリティとして、そういう感覚はないですよ(笑)。でもそれこそ、宇野君が『ゼロ年代の想像力』で書いていたように、『新世紀エヴァンゲリオン』以降の世代にとっては、ある種のバトルロワイヤル的な想像力が身の周りの社会をイメージする上での前提的なリアリティになっていて、まだ引きこもる余裕のあった『エヴァ』以前に思春期を過ごした世代にはその感覚があんまりわからない、というのはあるんじゃないですか。
    80年代に実現された高度消費社会って、あくまで誰かに構築された偽物で、これはいつ壊れてもおかしくないものであるという感覚があり、それは『トゥルーマン・ショー』のような「この平和な日常は本当は存在しない、仕組まれたバーチャルなものなんだ」という想像力を生み出しましたよね。その一方で、旧ソ連が崩壊する前までは「核戦争が起こって世界が終わる」ということにリアリティがあって、そういった終末世界を描くフィクションもたくさんありました。
    つまり『ダンガンロンパ』を規定している構造として、子供たちの2000年代以降のリアリティ(教室内でのバトルロワイヤル)を、大人が構築した1980年代的リアリティ(トゥルーマン・ショーと終末的な世界)が取り巻いている、という重層的な構造があるとも言える。
    井上 ただ、今日び「終末後の世界」をそこまで気合を入れて描く気はないのだろうなっていう感じもしませんでした? 「人類史上最大最悪の絶望的事件」って、えらくざっくりとした表現ですし……。
    中川 まあ、そこにはリアリティはないですよね(笑)。ポスト『エヴァ』の想像力としてバトルロワイヤル系と比肩される、いわゆるセカイ系的な想像力の流行って、新海誠のアニメやノベルゲームのような個人レベルのミニマムな制作環境と親和性が高かったと思うんですよ。他方、集団制作を前提としたコンシューマーゲームだと、もうすこし大勢のキャラクターを表現できるという事情もあって、教室レベルのクローズドな人間関係を主題化するリアリティサイズが表現できた。
    しかし、その外側は後景としてボンヤリとせざるをえないあたりは共通している。それでも2000年の『高機動幻想ガンパレード・マーチ』なんかは、教室外のマクロな世界の戦争状況をうっすらとパラメータ化して関連させていたわけですけどね。
    井上 セカイ系という物語形式って、要は「世界が滅ぶ/滅ばない」という大きなスケールの話が、主人公の周りのローカルな人間関係と直結するというものでしたよね。で、同学年の同じ部活の友達だけで楽しく過ごす日常を描いた『けいおん!』のようなものを「空気系」というわけですが、実は近場の人間関係だけ選んでいるという意味ではバトルロワイヤルものもそうで、この二つは近い関係にあるのかなと思ったりするんですけど。
    中川 まさに、その二つは表裏一体ですよね。近場の人間関係のユートピア感だけを取り出すと空気系のぬるい世界になり、逆に残酷な面を戯画化して描くとバトルロワイヤル系になるという。『2』は最初に、(後でモノクマの妹という設定に無理やりされる)「モノミ」というキャラが出てきて、「みなさん、この南国の島で、修学旅行を永遠に楽しみまちょうね〜」って言っていて、実際に本編とは別にモノクマが登場しない平和な日常を楽しく過ごす「アイランドモード」というモードもありますが、それはまさに空気系的な世界観が表裏一体の構造として、この作品に埋め込まれているということの証左でもありますよね。
    2010年代的なキャラクター造形とゲームの形式的必然が生んだ「黒幕」
    井上 ……と、裏のほうから「キャラの話をしてくれ」というオーダーがきているので、すこし強引な振りになりますが(笑)、『ダンガンロンパ』が空気系的な構造すらも取り込んでいるとすると、空気系においてやっぱり重要なのはキャラ描写ですよね。『ダンガンロンパ』は本当にキャラづけが強いゲームだということがあると思いますが、
    中川 『逆転裁判』の頃から成歩堂くんとか真宵ちゃんみたいな感じで記号的かつフリーキーにキャラを立てていく流れがありましたが、『ダンガンロンパ』はその傾向をさらに押し進めつつ、2010年代のボカロ世代や「カゲロウプロジェクト」好きなどにも通ずる、ジュブナイルライトオタク層の感性に適した元ネタをぶちこんだキャラクター造形へとアップデートできた点に勝因がありました。ちなみに井上さんが一番好きなキャラは?
    井上 僕は『2』に登場する超高校級の飼育委員・田中眼蛇夢くんが、ペットであるハムスターを「破壊神暗黒四天王」と呼ぶ、あのパッケージングが好きですね。ハムスターだけ出されてもげんなりですが。
    中川 なるほど(笑)。まさに彼なんかは、「厨二病」という2000年代後半以降のライトオタク層が自嘲的に共有するに至った属性を取り込んだ典型例ですね。実際人気も高いですし。僕は男性キャラでは、やはり『2』の狛枝凪斗くんの造形に度肝を抜かれました。狛枝くんは名前が1作目の主人公の苗木誠のアナグラムで、声優も同じ緒方恵美さんだし「超高校級の幸運」というところも同じなのに、第1話でいきなり前作の記憶のあるプレイヤーの予期を覆してみせる攪乱者ぶりが見事すぎました。彼のクライマックスである第5話でもそうだけど、彼の能力をああいうかたちでトリックに活かすというのも狂っていたし。
    井上 たしかに狛枝くんのあのトリックは、本当にゲームデザインとシナリオを融合させた非常に素晴らしい、歴史に残したいトリックといってもいいですね。
    中川 シナリオ自体が強烈にキャラクター性を引っ張っていましたよね。このシリーズを手がけている小高和剛さんのシナリオライターとしての力をすごく感じさせられたキャラだった。
    一方、女性キャラでインパクトが強かったのは『1』の大神さくらちゃんですね。明らかに『北斗の拳』のラオウや『グラップラー刃牙』の範馬勇次郎みたいな格闘マンガのラスボスをムリヤリ女子高生化したネタキャラ枠なのに、それをシナリオの力で最後にはあれだけ可憐な乙女っぽく思わせたのも圧巻でした。
    井上 さくらちゃんはすごい露骨ですけど、超高校級のアイドルとか、超高校級の野球選手とか、超高校級の文学少女とか、全部マンガ違いのキャラですよね。そういうジャンル違いのキャラクターを一同に会させてバトルロワイヤルさせるというのがこのゲームのコンセプトでもあった。
    中川 キャラクターの話が出たので、重大なネタバレですが、ここからはあのキャラクターの話をしましょうか。
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  • 『ぶあいそうな手紙』──手紙からはじまる優しい心の処方箋|加藤るみ

    2020-06-18 07:00  

    今朝のメルマガは、加藤るみさんの「映画館(シアター)の女神 3rd Stage」、第5回をお届けします。今回は、7月公開のブラジル映画『ぶあいそうな手紙』をご紹介します。孤独で頑固な老人とブラジル娘が、手紙の代読・代筆を通じて交流していく様子を描いた本作。凝り固まってしまった老人の心をほぐしていく、その優しい世界観の魅力とは?
    加藤るみの映画館(シアター)の女神 3rd Stage第5回『ぶあいそうな手紙』
    皆さま、おはようございます。 加藤るみです。
    最近オンライン試写で、気鋭の独立系制作スタジオA24の新作を観ました。 ちょっと奇妙な映画だったんですが、『ヘレディタリー/継承(2018)』や『ミッドサマー(2019)』などを制作してきたA24らしく強烈なインパクトが残る映画だったので、メインディッシュの前に少しだけご紹介します。
    タイトルは『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』という作品です。
    ▲『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』(画像出典)
    ハリー・ポッターのダニエル・ラドクリフが死体役で出演したことで話題となった『スイス・アーミー・マン(2016)』という映画をご存知でしょうか? 死体のオナラをエンジンに海をブンブン駆け抜ける、あの作品です。 ぶっ飛んだ設定にもかかわらず、監督をつとめたダニエル・シャイナートとダニエル・クワンのコンビ(ダニエルズ)が多くのMVを手掛けてきたからか、謎に感動してしまう美しい画を魅せてくれる、危険な怪作です。
    余談ですが、旦那がまだ彼氏だった頃、アレを観に映画デートに誘ってしまったことがあります。 今でも忘れない、ジメジメとした夏の終わり。 当時、中野に住んでいた私たちは、新宿で乗り換えるのが面倒くさいからと、電車ではなく、バスで40分ほどかけて池袋のシネマロサへ行ったのでした。 そう、死体のオナラでブンブン海を駆け巡り、口からゲロのように飲料水を出して、男2人(うち1人は死体)が無人島でサバイブする映画を観るために。 まだ付き合いたてほやほやの時期にアレを観に行ったことは、深く後悔した出来事でした。 私は大好きなポール・ダノを観れたしそれなりに映画を楽しんだのですが、 観終わったあと「るみちゃん……これが観たかったの?」と、豆柴のような瞳で不思議そうに見つめてきた旦那が忘れられません。 後悔した映画デートではありますが、語るまでもなく“私と付き合うということはこういうことだ“と旦那に証明できた出来事だったなと今では思っています。
    話は逸れてしまいましたが、そんな私の失敗映画デートの記憶に残る1本『スイス・アーミー・マン』のダニエル・シャイナート監督の単独監督となる新作が『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』です。 もう、一言で言うと“激ヤバ“な映画でした。 タイトル通り“ディック・ロング“の死の真相を突き止めるクライムコメディなんですが、 この映画の秘密が隠された“珍騒動“がとにかく不穏でファンタスティック。 しかも、驚くほど集中して観させられる作りになっていて、めちゃくちゃ大真面目に丁寧に進んでいくからこそ、その秘密を知った時、「やってくれたな!!!!」と叫びたくなるのです。 物語の衝撃的な展開に圧倒される、凄まじい映画でした。 ちなみに、タイトルにある名前の“ディック(Dick)“は「イチモツ」という意味の俗語で、直訳すると壮大な下ネタタイトルになっているんですね。 観終わったあとにこの隠された俗語に気づき、より不快になったんですが、やはり「やってくれたな!!!!」と、降参してしまいました。 ダニエル・シャイナート監督は『スイス・アーミー・マン』に続き、とんでもないトンチキ映画を作ってくれました。(褒めてます) 彼の映画をカップルで観るのはお勧めしませんが、その奇想天外な発想は、怖いもの見たさではあるものの「次は、どんな新しいものを見せてくれるのか」と、期待しかないです。
    さて、そろそろ本題に入りましょう。打って変わって今回は、ブラジル発のじんわりくるハートウォーミングな映画をご紹介します。
    タイトルは『ぶあいそうな手紙』という作品です。
    ▲『ぶあいそうな手紙』(画像出典)
    視力を失いつつある独居老人・エルネストが偶然出会ったブラジル娘・ビアに手紙の代読と代筆を頼むことに。 78歳のエルネストと23歳のビアが世代やジェンダーの違いを乗り越える、愛にあふれた物語です。 ラテンアメリカの音色も心地よく、「こんな今だからこそ観たい」と思える優しい世界を描いた映画でした。
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  • 海外日本人ネットワーク「和僑会」のめざすグローカリゼーション | 永野剛

    2020-06-17 07:00  

    NPO法人ZESDAによる、様々な分野のカタリスト(媒介者)たちが活躍する事例を元に、日本経済に新時代型のイノベーションを起こすための「プロデューサーシップ®」を提唱するシリーズ連載。第5回目は、海外でビジネスを行う日本人たちの支援ネットワーク「和僑会」で活動する永野剛さんです。母国を離れてもたくましく生きる華僑にならい、日本人ならではの強みを活かした国際社会での活躍を、どのようにプロデュースできるのか。業種を超えたケーススタディを通じて、グローカルに生き残っていく明日の日本人像を探ります。
    プロデューサーシップのススメ#05 海外日本人ネットワーク「和僑会」のめざすグローカリゼーション
     本連載では、イノベーションを引き起こす諸分野のカタリスト(媒介者)のタイプを、価値の流通経路のマネジメント手法に応じて、「inspire型」「introduce型」「produce型」の3類型に分けて解説しています。(詳しくは第1回「序論:プロデューサーシップを発揮するカタリストの3類型」をご参照ください。)
     今回はカタリストの第2類型、すなわち、イノベーターに「コネ」を注ぐ「introduce型カタリスト」の事例の第2弾として、和僑会で活躍する永野剛氏をご紹介します。
     前回の堂野さんは、ローカルなコミュニティを運営し、その内側で異業種を繋いで価値を生み出すカタリストでしたが、今回は、国境をまたいで複数のローカルなコミュニティをintroduce(紹介)するカタリストです。
     永野さんは、海外在住の日本人のコミュニティネットワーク「和僑会」のメンバーとして、数々の国際的なビジネスを成功させています。縦横無尽に、国内外、各領域を飛び回り、非常に多様な人々を繋いで回る永野さんは、グローバルなintroduce型カタリストの典型例を提出してくれます。永野さんから学べるポイントは少なくとも2点あると思われます。信頼概念に対する確固たる哲学と、マルチ・リテラシーの養い方・活かし方です。
     まず、信頼概念について。introduceにおいては、紹介者であるカタリストの「信頼」の付与がカギになります。紹介によって結び付けられる双方が、紹介者を信頼しているからこそ、紹介を受け入れ、スムーズにシゴトの話に入ることができます。知らない者同士がゼロから信頼を構築するコミュニケーション・コストを圧縮してくれるわけです。永野さんは、組織や地位の「格」による値踏みでビジネスを進めがちな日本人が、中国市場で失敗する例を多く見てきた経験を踏まえて、「縁」という概念から、信頼とは何か、組織とは何か、を説き起こします。
     また、永野さんのカタリストとしてのパワーの源は、「和僑会」に加えて「日本の地方」「中国」「イベント企画」「観光」「アカデミア」の少なくとも6種類の領域において「マルチ・リテラシー」を有している点にあります。例えば、「観光」を切り口に「日本の地方」に入り込み、「中国」人を連れてくる「イベントを企画」し、学びを「アカデミア」で発表したり、海外で「日本の地方」を売り込む「イベントを企画」する際には、「和僑会」のチカラを借りつつ「観光」の観点からマーケティング戦略を考えたり、と、6つのマルチ・リテラシーをフル活用して、人々をintroduceし、付加価値を出している様子がよくわかります。そして、永野さんは、各コミュニティ内の一定の役職を引き受けて「細くとも長く」各領域との人間関係を維持することによって、マルチ・リテラシーを維持発展させている点にも要注目です。
     さらに、国際的カタリストとして大活躍する永野さんは、「グローバル人材には、むしろローカルさが必要」と喝破します。グローバルという領域が多くのローカルを包んでいるのではなく、ローカルとローカルの間にしかグローバルは存在しないという見地は、カタリストのリアリズムを感じさせてくれるとともに、グローバル人材論にも一石を投じてくれます。
     本文で紹介する事例は、永野さんの実績のほんの一部ですが、introduce型カタリストの核である「信頼」概念とマルチ・リテラシーの養い方・活かし方を学ばせてくれます。(ZESDA)



    「和僑会」とは何か
     みなさま、はじめまして。永野と申します。和僑会とグローカリゼーションのお話をするにあたって、まず私の社会活動の来歴から入らせてください。(資料1参照)私は、学生時代から、いずれ経営者になろうという気持ちはありましたが、急いではいなかったので、一部上場の商社で3年ほど勤務しました。その後、起業家マインドを持つ会社にも身を置きたいと考え、大手人材サービス企業に勤めました。それから、リーマンショックが起きた頃、経営学を体系的に学びたいと考え、会社を辞めてMBA(経営学修士)を大学院で学びました。そして、2010年頃、就職活動を兼ねた海外進出関連のセミナーで、中小企業の海外展開をサポートする東京和僑会という組織に出会いました。直観的に、ここにこそ、私が求めている環境があると感じました。そこで大学院卒業後は、東京和僑会に身を置き、企業の海外進出の現場を学ぶ機会を得ました。その後2014年に海外進出支援の会社を立ち上げ、海外市場調査などをする仕事を始めるようになりました。
     また、認定NPO法人東京都日本中国友好協会の副理事長を2019年6月から仰せつかり、日本で中国のファンを増やす活動をしています。私が中国に関心を持つようになったきっかけは、大学1年生の時に9.11アメリカ同時多発テロが起きた時、中国人の留学生とアツい議論をしたことでした。周りから見るとケンカのようだったと後で聞きましたが、アツく深い議論の途中から、意見と意見のぶつかりがとても面白く感じられるようになりました。周りの日本人学生は相手を傷つけない程度の意見しか言わなかったので、この中国人留学生との議論は私にとって非常に衝撃的な経験でした。この経験がきっかけとなり、中国社会に興味を持ち、留学したいと考えるようになり、西北大学という中国内陸部の大学に入学しました。
    <資料1>

     それから、アジア・国際経営戦略研究学会にも所属しています。学会活動は私にとって主には、アウトプットする場です。もちろん学会の場では、他大学の教授からお話を聞く機会もたくさんありますが、学生時代から研究していた国際観光について発表する機会があり、その度、自分の中で研究成果が整理できたと思っています。  さらに、十日町市水沢商工会の観光委員も務めています。これについては、後ほど詳しくお話します。  このように、私の社会活動は、産学官と多岐に渡っています。これは、様々な情報を主体的に取りに行き、自分のやりたい事とリンクさせていくために必要だと思ってやっています。それぞれの「場」が持っている強みを、自分自身の軸にリンクさせていくのです。例えば観光学会だったら観光知識を得る場。中国と日本の交流であれば日中友好協会。起業家や現地経営者の繋がりであれば和僑会。地方経済の実情を知るには十日町市水沢商工会、といったように、です。
     さて、本日の主題のひとつである和僑会の話題に入っていきます。和僑会とは一言で言いますと、“華僑”(かきょう)の日本人版です。本国を離れ他国にいる中国人が華僑ですが、その概念の日本人版が和僑(わきょう)です。その和僑たちが創った組織を“和僑会”と呼んでいます。
     華僑の存在は有名ですが、アジアには華僑以外にもいろいろと母国を離れた人たちによるネットワークが存在しています。シンガポール人のネットワークは“星僑”(せいきょう)。ベトナム人だと“越僑”(えっきょう)。韓国は韓僑(かんきょう)、インドは印僑(いんきょう)などという名称で、アジア各地で僑という漢字で彼らの存在が示されています。そうした名所と同列が日本人のネットワークが“和僑”です。私たち和僑会メンバーが作った造語です。
    <資料2>

     <資料2>をご覧ください。各僑のだいたいの人数です。ところで、私は中国のパワーの本質は人口だと思います。人口は日本の10倍以上です。さらに、僑のネットワークにおいては40倍以上です。日本人の多くは、この圧倒的な人口が持つ本当の意味を、よく理解できていないと感じています。北京だけでも約1,600万人、重慶にいたっては約3,000万人います。ちなみに韓国は5,127万人です。そして、そのうち13%が海外に根付いた生活を送っています。これに対して、日本人は100人に1人ぐらいしか海外在住者がいません。まずはこの事実をしっかりおさえる必要があります。
     さて、いよいよ“和僑会”とは何かについて説明していきます。華僑の人たちの特徴を捉えることで和僑の在り方も見えてくるので、比較しながらお話していきたいと思います。
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