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記事 23件
  • 男と食 30|井上敏樹

    2020-09-30 07:00  
    550pt

    平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。今回は骨董品にまつわるエピソードです。京都のある骨董品店で出会った桃山時代の唐津のぐい呑み。友人との約束のため、車が買えるぐらいの値段の貴重な品を抱えて出かけた敏樹先生ですが……?
    「平成仮面ライダー」シリーズなどで知られる脚本家・井上敏樹先生による、初のエッセイ集『男と遊び』、好評発売中です! PLANETS公式オンラインストアでご購入いただくと、著者・井上敏樹が特撮ドラマ脚本家としての半生を振り返る特別インタビュー冊子『男と男たち』が付属します。 (※特典冊子は数量限定のため、なくなり次第終了となります) 詳細・ご購入はこちらから。
    脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第59回 男 と 食 30     井上敏樹 
    先日、私の乗ったタクシーが事故った。路地から飛び出した自転車をはねたのだ。後ろに子供を乗せた母親の、一時停止無視が原因だった。私の脳には、その瞬間の映像が、スローモーションのように刻まれている。まず、運転手が『うおおお』と叫びながら急ブレーキを踏んだ。私もなにか叫んだかもしれない。自転車の母親はタクシーが激突するまでぼんやりとしていた。きっと、なにか考え事をしていて一時停止を忘れたのだ。悲惨なのは子供の方だった。運転手は急ハンドルを切り、結果的に自転車の後ろの方に激突し、子供は宙に放り出された。運転手は車外に飛び出し母子の具合を確認した。母親は無傷だったが、子供の方は頭から血を流して号泣している。運転手は子供を抱き上げて母親に渡した。それでも母親はぼんやりとしていた。ショックのせいなのか、考え事が頭から離れないのか、或いはゾンビだったのかも分からない。救急車とパトカーが到着するまでの約15分の間に子供は大分落ちついて来た。自分の足で立ち、救急車に乗れるのを楽しみにしているようだった。頭から血を流しているのに大したガキ、いや、お子様である。もしかしたらゾンビなのかも分からない。それにしても運転手は私を全く無視しているのが気に食わない。私だって怪我をしているかもしれないではないか。事実、急ブレーキの際、シートに頭をぶつけていたのだ。全然平気だったけど。問題は私の荷物の方だった。私は巾着型のバッグを膝の上に乗せていたのだが、それが足元に落ちたのだ。中には骨董品が入っていた。桃山時代の唐津のぐい呑みである。その日は友人との会食の約束があり、ぐい呑みを愛でながら酒を飲もうというわけだった。正直言って私はゾンビかもしれない母子よりもぐい呑みの方が心配だった。もし割れていたらどうしよう。400年以上もの間人々の寵愛を受けて来た貴重な品を、私の代で駄目にしてしまったら、それこそ切腹ものである。
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  • 完遂できなかった『陽あたり良好!』を進化させた青春群像漫画『ラフ』(前編)| 碇本学

    2020-09-29 07:00  
    550pt

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。今回は、『タッチ』に続く代表作と評される『ラフ』の読解です。少年漫画として青春群像劇の王道を引き受けつつ、あだち充版『ロミオとジュリエット』とも言えるストーリーを展開していった本作の成立背景と魅力を考察します。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第14回 完遂できなかった『陽あたり良好!』を進化させた青春群像漫画『ラフ』(前編)
    国民的漫画となった『タッチ』の陰に隠れて
    あだち充という名前を国民的なものとした『タッチ』のすぐあとに連載が始まったのは、前回取り上げた『スローステップ』だった。その月刊連載と同時期に連載されることになったのが『ラフ』であり、『タッチ』の最終回から4ヶ月後ほどで「少年サンデー」で1987年に始まった週刊連載だった。

    「ラフ」の水泳と寮生活という設定は、自分で決めました。水泳というテーマはもちろん初めてだったけど、何かを準備した記憶はないな。すべての作品において、思いつきで決めて、とりあえず始めちゃうというのはいつも変わらないから。水泳というより、寮生活という発想のほうが先だったかもしれないね。  いろんなジャンルの天才たちを集めて、主人公に何をやらせようかという流れで、水泳になったんだと思う。野球を続けて描くのはないだろうと思ったし、違う絵が描きたかったから。それで絞られていったのが、「ラフ」だったんじゃないかな。  寮生活で「陽あたり良好!」のように、何人かのキャラクターを描きたいと思いました。相も変わらず御都合主義で、男子寮と女子寮を向かい合わせにして、描き易い設定を考えてから始めました。大事なのは思いつき。とりあえずスタートさせちゃえば、なんとかなる……と思っていた。〔参考文献1〕

    『タッチ』の終わらせ方について頭を悩ませていたあだち充は、次作について考えている余裕などなかった。しかし、「少年サンデー」側としてはドル箱となった『タッチ』が終わった後にできるだけ間をおかずに新作をあだちに連載してほしいと依頼をしていた。 そうやって始まった『ラフ』は、あだちがインタビューで答えているように、いつものフリージャズ的な手法で始まった。水泳を描くことにした理由のひとつとしては、ヒロインの水着姿が描けるということだった。しかし、『ラフ』のヒロインである二ノ宮亜美は飛び込みの選手であり、競技用の水着はあだちが考えていたよりもエッチなものでなかった。そのためか着替えシーンを描ける更衣室が多くなっていった。 この競泳水着に関しては、『タッチ』におけるヒロインの浅倉南が新体操を始めることにおそらく近いものがあったのではないだろうか。どちらも思春期男子のエッチな欲望が反応してしまうユニフォームでもあった。競技としても得点による勝負であるが、「美」が大きな要素になっている。そう考えると、あだちと「少年サンデー」の若い読者と近い視線だったことも作品へのめり込みやすい要素ともなっていたのだろう。
    『タッチ』と『ラフ』は連載が終了して、10数年経った2000年代になってから実写映画化されるほど、世代を越えて読み続けられているあだち充の代表作である。人気投票すれば一位と二位を争うこの二作品だが、連載中の手応えはまるで逆だったとあだち充は語っている。 『タッチ』は連載中から爆発的な人気になっていたが、『ラフ』はまるで手応えがなかったという。『ラフ』連載中にも前作『タッチ』の余波はずっと続いていた。1987年3月まではテレビアニメ『タッチ』の放映は続いていたし、同年4月にはアニメ映画『タッチ3 君が通り過ぎたあとに -DON’T PASS ME BY-』が公開されており、世間からすれば「あだち充」と言えば『タッチ』一色のままだった。そのためか、あだちは次作で何を描いても文句を言われるだろうと考えて、読者アンケートを気にしないでいた。 結局のところ、それが功を奏した形となった。
    『ラフ』は連載中には爆発的な熱狂を起こすほどではなかったが、連載終了後に評価されることが多くなっていった作品だ。まず、『ラフ』の「少年サンデー」での連載は1987年17号〜1989年40号と約2年という、『タッチ』の余波が引いていくにはちょうどいい時間だった。また、同時期に「少女コミック」で連載していた『スローステップ』はコミックスもヒットしていたが、少女漫画でありながらフリースタイルの「あだち充無双」が過ぎていたため、一般的なものとはならなかったことは、前回述べた通りだ。 対して『タッチ』と『ラフ』は、あだち充なりに「少年サンデー」での自分のポジションなり打率なりといったものを考えた上で連載していたこともあり、王道の少年漫画作品の系譜にあった。そのため、『タッチ』の余波の中で連載期間が終わった『ラフ』は、どうしても『タッチ』的なものを求めた人たちにとっては、なかなかリアルタイムでは魅力に気づきづらい作品であった。 しかし、『ラフ』の次の「サンデー」連載である『虹色とうがらし』の時代劇×SF的な世界観の変化球ぶりが受け付けられなかった読者が、本来読みたかった直球のあだち充作品として読み直していったことで、その魅力が再発見され、連載後の評価に繋がっていった部分がある。
    では、遊びに走った『スローステップ』とは対照的に、この時期のあだち充にとっての「王道」を担った『ラフ』の独自の立ち位置と魅力は何だろうか?
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  • 「書く」という「暮らし」を学ぶ|宇野常寛

    2020-09-28 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回は現在毎月開催中の「PLANETS School」開講に寄せたエッセイです。SNSの普及により、誰もが発信者になってしまう現代において、情報に溺れず、価値ある発信を行っていく「発信する」、「書く」という生き方を伝える本講座。では、宇野はいつその生き方を学び、この講座を開講するに至ったのか。そのエピソードをお届けします。※本記事はnoteでの有料マガジン「宇野常寛の個人的なノートブック」で配信した内容の再録です。
    9/29(火)19:30〜 PLANETS School「推敲の方法」2020年から開校している宇野常寛の「発信できる人になる」講座、通称"PLANETS School"。 9月は推敲の方法を学びます。文章を書き終わったあと、一体どんなポイントで読み直し、ブラッシュアップすればよいのでしょうか?PLANETS編集長・宇野常寛が余すことなく教えます!※本イベントはPLANETS CLUBメンバー限定Facebookページにて生中継いたします。また、後日アーカイブ動画配信・レジュメの配信を行います。PLANETS CLUBへのご入会はこちらから。
    宇野常寛コレクション vol.27「書く」という「暮らし」を学ぶ
     先日から「発信できる人になる」をテーマに、僕のもっているスキルをシェアするための講義をはじめた。人にスキルを教えるというのは、やりがいがあるけれどとても、難しい。それもこの講座は単にスキルを受講生に覚えてもらうというだけではダメで、この誰もが発信者になってしまう現代の情報社会において、価値ある発信を継続的に続けていける足腰の鍛え方、大げさに言えば「発信する」という生き方のようなものをみんな求めてきているのを強く感じるのだ。
     僕が物書きとしての経験から、そしてインディペンデントなメディアを15年近く運営してきた経験から得られた氾濫する情報との距離感と進入角度、発信するときの語り口、世界に対する問いの立て方といったものを総合的に伝える講座を僕は考えているし、そうではないと受講生たちの期待を裏切ってしまうことになると思う。本当に伝えなきゃいけないのは、「発信する」という生き方であり、ライフスタイルであり、世界との向き合い方なのだと思う。
     なぜそう思うのかというと僕もかつてある人物に出会って「発信する」という、「書く」という「生き方」を学んだからだ。より正確に言えば、彼と出会って僕は物書きになろうと思ったのだ。それは、一部の読者が期待するような「業界」の有名人とのドラマチックなエピソードではない。彼は僕が最初に勤めた京都の会社の上司だった。上司といっても、それは僕と彼の二人だけの部署で、僕が彼の仕事をアシスタントするというか、彼が僕の仕事を監督するという関係だった。仕事の内容はその会社の運営していたウェブサイトの読み物の編集制作で、僕は彼から執筆と編集のイロハを学んだ……はずなのだけど、そこはあまり記憶に残っていない。どちらかと言えば僕が彼から学んだのは、社会との距離のとり方とか、対象への進入角度の調整方法だった。いや、間違いなく技術的なことも教わっているのだけれど、そうではない部分の方こそが大事だったといまでは思うのだ。
     そもそも僕と彼との出会いは、甚だ不幸な偶然の産物だった。僕は大学卒業後、1年以上ブラブラしたあとにその会社に就職した。そして僕を採用した最初の上司(僕はその人物のアシスタントとして採用された)は、僕の入社の約1ヶ月後に僕の目の前で社長と大ゲンカして退職してしまった。「こんな会社辞めてやる」「お前なんかクビだ」というやり取りを本当に目の当たりにして、こんな小さな会社でもサラリーマン漫画のようなやりとりが実際あるんだなと思う一方で、直接の上司が最初の1ヶ月でいなくなってしまうという緊急事態に、人並みに途方に暮れた記憶がある。実際にこのままでは編集長と、採用されて1ヶ月のそのアシスタント=僕の二人しかいない編集部はたちまち機能を半ば停止することは明らかだった。そして僕以上に途方に暮れたであろう(ケンカの当事者である社長を除く)経営陣は、仕方なくかつてその辞めた編集長を自分の後任として推薦した前編集長を呼び戻すことにした。要はお前が推薦したやつがケンカしてすぐに辞めたので、責任をとって戻って来いと迫ったのだ。そして、最初は固辞したものの推薦責任もあるので週3日ならなんとか……としぶしぶ引き受けて戻ってきたのが、僕が生涯の師と仰ぐことになる豊田素行さんだった。
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  • 【今夜21時から見逃し配信!】矢野和男「多様化する〈幸福〉とテクノロジー」

    2020-09-26 12:00  
    今夜21時より、新会社ハピネスプラネットをリードし、「幸福の可視化技術」を追求する矢野和男さんをお招きした遅いインターネット会議の完全版を見逃し配信します。
    24時までの期間限定となりますので、ライブ配信を見逃した、またはもう一度見たいという方は、ぜひこの期間にご視聴ください!
    矢野和男「多様化する〈幸福〉とテクノロジー」 アーカイブ期間:9/22(火・祝)21:00〜24:00配信URL: https://www.nicovideo.jp/watch/so37537860
    著書『データの見えざる手』から6年。新会社ハピネスプラネットをリードし、「幸福の可視化技術」を追求する矢野和男さんと一緒に、データサイエンスを前提とした社会における人間の「幸せ」について議論します。
    ※冒頭30分はこちらからご覧いただけます。https://www.nicovideo.jp/watch/159851
  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉 第八章 人工知能にとっての言葉(後編)

    2020-09-25 07:00  
    550pt

    (ほぼ)毎週金曜日は、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信しています。今朝は第八章「人工知能にとっての言葉」の後編をお届けします。人工知能と人間の間で自然な会話を行おうとするときに、大きな障壁となるのがが「フレーム問題」です。言語は人工知能に「意思」を与えうるのか。禅や華厳哲学の認識論をヒントに、その可能性を探ります。
    言語世界から逃れて
     人は生まれてから学習し続け、その人の世界には意味が満ち、意味が固形化していきます。そこから逃れる手段を、東洋では「禅」と呼ばれる営みによって発展させてきました。いわば「禅」とは固形化・形骸化した知の体系から逃れること、世界の意味の網を外す、という行為です(図8.6)。自らの知の体系を壊し、言葉ではなく体験を重んじる手法です。  しかし、こうした言語化することが困難な意味の世界を、西洋はさらに言葉を重ねていくことで探求していきます。その結果、言葉が言葉を生み出し続ける現象が現れます。ヴィトゲンシュタインは、多くの哲学が「言語によって語り得ぬもの」に対して言語を使っていると批判しました。意味で溢れた世界はとても危険です。ありもしないものをあると信じ、そのせいで人が人類史上、未曾有の規模で争いあったのが20世紀の歴史です。人は意味を浴びますが、それはある時には呪いとなり、浄化する必要があるのです。

    ▲図 8.6 分節化の網を外してあるがままを観る
     人工知能は物の見方を人間から指定されます。これをフレームと言います。人工知能はフレームを与えられて初めて駆動します。人工知能はフレーム内で知識を整理する能力がありますが、それを拡張する力はありません。フレームは固定されたままです。人工知能が自らフレームを作り出す能力、フレームを拡張する能力がない問題を「フレーム問題」と言います。そこで意味は固定され、世界はフレームの中でのみ意味を持つことになります。  人工知能はフレームから逃れることはできません。人工知能は人間に与えられたフレームの中でのみ生きるのです。仮に間違ったフレームを与えられても、人工知能はフレームを修正できず、その中で活動するしかありません。  たとえば、「リンゴを取る」というフレームで、人間が頑張って、腕の伸ばし方や、リンゴの位置の特定といった問題設定を探求して人工知能に与えたとします。しかし実際にロボットを動かすと、足がリンゴの机に引っ掛かって手がそもそも届かないかもしれません。そのとき、人間であれば足の痛みから問題設定が足りなかったことがわかり、それを是正することができます。つまり、人間にとって身体は、間違ったフレームに本来あるべき足りなかった変数を教えてくれる、クリエイティブな源泉であるのです。
    「クリエイティブな行為の基盤にあるのは、認識枠を臨機応変に広げたり狭めたりする賢さであることを、さまざまな事例で論じてきた。身体で世界に触れること(現象学の言葉で言えば、「現出」を意識に上らせること)を通じて、身体がそれまで想定外だった変数(着眼点)にふと意識を向けることで、それは可能になると論じた。」 「街でからだメタ認知を実践する習慣がつくと、最初は定番の変数群しか意識が及ばないかもしれない。しかし次第に、些細な、自分だけしか気づかないような変数にも意識が及ぶようになる。…自分の街の些細な変化に、そして身体に生じる体感の微妙な差異に、気付くようになる。」(諏訪 正樹 『身体が生み出すクリエイティブ』ちくま新書、2018年 (P.190-191))
     このように人間は身体を伴った行動が、間違ったフレームの夢を覚まし、狭い了見を広めてくれるのです。「行動せよ、そうすれば、見えてくる」という格言が示すのは、思考だけでは逃れることができないフレームの制約から身体が開放してくれる、ということでもあるのです。  しかし、世界に根差さない身体、また認識と分離してしまった身体しか持たない人工知能では、身体のエラーからフレームを拡張することはできません。そもそも、人工知能はフレームを生成しないので、そのフレームが足りなくても、「あらかじめ含まれていないこと」を含ませることができないのです。 「禅」はいわば、フレームを外すことです。知識を規定している枠そのものを乗り越えることです。東洋的思想の極と言えるでしょう。意味のある世界と、意味のない世界を自由に行き来するのが「禅」の行為です。それは意味を超越し、意味を相対化することです。世界に対する意味の網を自由にはめたり、はずしたりすることは、とても危険なことですが、禅はそれを可能にする行為です。
    (3)社会的な言葉、個人的な言葉
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  • 【特別寄稿】人類と生活──広義の思考のために|上妻世海

    2020-09-24 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、インターネット番組「作ること、生きること ― 分断していく世界の中で」を放送中の文筆家/キュレーターの上妻世海さんによる論考をお届けします。人類は発展の過程で、虚構を媒介に認知の限界を乗り越え、社会集団の規模を拡大してきましたが、それは「生活」からの乖離を伴うものでした。その弊害が現代文明の様々な領域に噴出するようになる中、同じく「オイコス(家)」の語源を持つ経済(エコノミー)と環境(エコロジー)を改めて包摂する「広義の思考」に、私たちの歩みを進めていくためには?※本記事は、「建築雑誌」2020年2月号 No.1733「特集:震災以降の生活の転換者たち」所収の同名論考を採録したものです。
    【上妻世海さん出演予定!】9/30(水) 20:00〜 上妻世海「作ること、生きること ― 分断していく世界の中で」 第3回現代美術や建築から人類学・哲学、脳科学・進化生態学まで、さまざまな分野の叡智をたぐり合わせながら、人として「作ること」「生きること」の深淵を思索していく連続講義、第3回目の放送です。ご視聴はこちらから!
    生活の審級性とそこからの分離
     かつて、三木成夫は、植物や動物との比較によって共通する原型を求め、各段階における変異-変容を探るゲーテ形態学の方法で、生活の核を食と性の営みであると感得した[1]。彼は植物を栄養と生殖に自足しつつ変態する生物として描き、動物を光合成能力と世代交代の欠如として感覚と運動を備えた生物として捉えた。つまり、植物が持つ自律的な生活形式(成長繁茂と開花結実)の欠如-過剰性として、動物の餌と異性に向かう個体運動を理解するのだ。西洋では、植物から動物へ、動物から人間へと、生物は層状に発達してきたと考えられている。そして、僕たちも日常的に、栄養-生殖よりも感覚-運動を、感覚-運動よりも理解-意志を高級なものと考える。しかし、三木の思考は突拍子のないものではない。なぜなら、生活への適応欠如によって進化が促されることは生物一般に当てはまり、我々人類史の中でも散見されることだからである。
     たとえば、ホモ・サピエンスは哺乳類でありながら体毛に覆われていないため、衣服を必要しており、母胎内にいるのは9カ月と比較的短い上に、出産後も長期間にわたって自活できないため、他者からの継続的なケアを必要とする。更に、我々は他の哺乳類より狩猟に適していないだけでなく、人類の中でも相対的に貧弱である。アウストラロピテクスは頑丈型と華奢型に分類され、頑丈型アウストラロピテクスは、歯を含めた咀嚼器官の発達によって、サバンナのますます乾燥していく気候に適応し、より硬い果実や植物を食料とすることができた一方、ヒト属の祖先である華奢型アウストラロピテクスは、乾燥化の進展とともにより硬い食料を避け、道具文化を発達させるようになった[2]。弱かった我々の祖先は道具の制作によって環境を改変し、環境からの独立を進めざるを得なかったのである。結果として生き延びたのは弱さであった。栄養-生殖能力の欠如が感覚- 運動能力を促したように、感覚- 運動能力の欠如が理解- 意志という我々の特徴を促したのである。そして、上述の経緯は、サピエンスが具体的生活から分離していく傾向を起源にもつことを示唆している。  進化の過程は生活への欠如- 過剰性によって、既存の生活から別の生活へと生物を促す。生活は食と性の営みであり、『広辞苑 第五版』でも「生存して活動すること、生きながらえること、世の中で暮らしてゆくこと」と定義されている。それは文字通り、栄養- 生殖(植物)、感覚- 運動(動物)、理解-意志(人間)に共通する基礎- 目的なのである。実際、我々が用いている多くの概念も生活を基礎につくられていた。たとえば、経済(エコノミー)という概念は古代ギリシャのオイコノミアーに起源をもち、オイコス(家)+ ノモス(法)であることから、文字通り家の管理を意味する単語であった。オイコノミアーの理論的定義はアリストテレスに帰せられるが、彼が想定していた家は核家族ではなく、「奴隷や従者や職人、農園や果樹園、家畜を備えた有力な大土地所有者が所有する、半ば城壁で囲まれた大邸宅」[3]であった 。そして、「そうした家が目指すべきであったのが自給自足であった。そのためには節約とやりくりの原則に従って、家庭の資産を慎ましく管理することが求められる」[4]。アリストテレスは経済の本質を生活資料を確保する一つの制度化された過程と捉えていた。経済は他者や自然環境への依存を前提とし、生活を継続的に充足するための実質的な意味だったのである[5]。
     しかし、現在、僕たちは経済を、市場を前提とした効率や便益を重視する希少性の原理で捉えている。つまり経済を、経済それ自体を目的とした形式的な意味で用いている。経済は生活から分離し、家や共同体のような有限の基礎を持たないため、利益を自己目的化し、無限に拡大再生産を繰り返すことをよしとされる。古代ギリシアでは、交換は共同体の正義として役立つ限り承認されていたに過ぎない。自己目的としての交換は共同体を不安定化するとして忌避され、経済はあくまで良き生活や共同体の正義を導く実質的な手段であった。興味深いことに、市場経済の始祖とされるアダム・スミスの『国富論』にすら、生活資料こそが国民の富であると明記されている[6]。スミスは市場経済の中で需要と供給によって決定される価値(市場価格)と共同体的富(生活資料)を区別していた。そして、生活資料を便益品や奢侈品よりも優先し、食・衣・住の順で捉えるという審級性を打ち立てた。これまで欠如が別の生活を促すとしても、生活から分離することはなかった。僕たちは慣れ親しんだ生活と概念の分離を真剣に再考する必要がある。
    分離の完結と近代の始まり
     そもそも経済と貨幣の機能は多元的であった[7]。市場社会以前は、経済の実質的な意味が共同体に根付いており、統合機能は主に互酬と再分配が担っていた。互酬は対称的な親族集団システムを前提とした、集団間の相対する点の移動として定義され、親密な関係や噂話が流通するローカルな範囲のものとされる。再配分は宮殿や神殿のような分配の中心を前提に、中央に向かい、またそこから出る専有の移動と定義され、集団が巨大化し、機能分化し、皆が皆と知り合いでなくなった時に始まった。貨幣の起源は交換原理からではなく、互酬と再分配を前提にしなければ分からない。貨幣は、第一に、婚姻、犯罪、犠牲の必要など、債務の互酬的支払い手段として、第二に、再分配制度の元で徴収した食料などの尺度標準として、第三に、飢饉に対する備えや軍事力や労働力の支払いに対する蓄積手段として考えられる。僕たちの最もよく知る経済の秩序維持機能は交換と呼ばれ、価格の自己調整を担う市場を前提とし、各自に生じる利得を目指して行われる財の相互移動として定義される。しかし、そもそも交換は共同体の内部ではなく、異なる共同体の間に市場が開かれ、そこで例外的に始まった。しかも、それは元々、互いに危害を加えるつもりがないことを示す儀礼的ものであった可能性が高い[8]。マックス・ウェーバーはそのことを「商業は、同一種族あるいは同一共同体に所属する人々の間にはおこなわらず、むしろ取引はただ種族を異にするものを相手にする場合に限っておこなわれる」[9]と述べ、カール・マルクスは「商品交換は、共同体の終わるところで、共同体がほかの共同体と、またはほかの成員と、接触する点ではじまる」[10]と述べた。貨幣の第四の起源として考えられている交換手段としての機能も、個別的な物々交換の行為からではなく、組織された対外交易と関連して発展した。市場社会を前提にすることで、現在のように、交換手段としての貨幣機能が他のすべての貨幣機能を支配し、一元的に統合するのであり、互酬や再配分が中心の共同体では、貨幣用途に応じてそれぞれの貨幣が制度化され、多元的に用いられていたのである。
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  • キャラクターデザインによる場とコトのプロデュース|筒井一郎/イアン

    2020-09-23 07:00  
    550pt

    NPO法人ZESDAによる、様々な分野のカタリスト(媒介者)たちが活躍する事例を元に、日本経済に新時代型のイノベーションを起こすための「プロデューサーシップ®」を提唱するシリーズ連載。第9回目は、株式会社ヌールエ デザイン総合研究所の筒井一郎さんです。プロデューサー名「イアン」として手がけた絵本『どうぶつ環境会議』の制作を機に、同作から生まれたキャラクター「のら猫クロッチ」を通じて周囲を巻き込みながら様々なプロジェクトを動かしていく、場とコトのプロデュース手法が語られます。
    プロデューサーシップのススメ#09 キャラクターデザインによる場とコトのプロデュース
     本連載では、イノベーションを引き起こす諸分野のカタリスト(媒介者)のタイプを、価値の流通経路のマネジメント手法に応じて、「inspire型」「introduce型」「produce型」の3類型に分けて解説しています。(詳しくは第1回「序論:プロデューサーシップを発揮するカタリストの3類型」をご参照ください。) 今回はカタリストの第3類型、すなわち、イノベーターに「コネ」や「チエ」を注ぐ座組を整える「produce型カタリスト」の事例の第4弾として、イアンこと筒井一郎氏をご紹介します。  前回の伊藤公法氏は、アイドルをどういう「キャラクター」で売り出していくか、どういう座組を組んでいくかを考える上で最初に行う「コンセプト」づくりについて語ってくれましたが、今回の筒井一郎氏は、逆に「キャラクター」を先に立ててから、様々な「コンセプト」に対応していく、という手法をとります。筒井さんが創出した「のら猫クロッチ」や「動物かんきょう会議」の動物たちといったキャラクターたちは、子供たちやNGO等によって与えられた「コンセプト」を体現するべく、ストーリーを紡いでいきます。そのストーリーの形成過程が、そのまま、イベント運営や、キャンペーン、環境教育事業の展開と重なっていくのです。その中で、出版やアニメ制作などのコンテンツビジネスが生まれ、同じ「キャラクター」を中心として「コンセプト」ごとに異なる座組が組まれていきます。  また、これまでご紹介してきた「produce型カタリスト」はみなさん、当然ながら、実在する他者がプロデュース対象でした。桐山登士樹氏なら富山県の中小企業群。田辺孝二氏なら島根県のベンチャー企業。伊藤公法氏ならアイドル。実在する他者にカネやコネやチエを注ぐ座組を組んで(=プロデュースして)きました。他方で、筒井さんは、直接的には、自分で創造した架空のキャラクターたちに、カネやコネやチエをかき集めて、注ぎ込んでいます。そして、彼の生んだキャラクターたちが、様々なコンセプトや事業の下で、様々な顧客に対して、それまで蓄積してきたカネやコネやチエを注いでいきます。  架空のキャラクターを間に介した入れ子状のプロデュース。架空のプロデューサーを創出してメタ・プロデュースするという、もはや幽玄の域にあるこの離れ業を実現する強烈な空想力こそ、筒井さんの真骨頂であり、「自分一流のデタラメ」なのです。非常にユニークです。(ZESDA)
    テーマは「異文化コミュニケーション」
     はじめまして、株式会社ヌールエ デザイン総合研究所代表の筒井です。プロデューサーとしてはイアンを名乗っていますので、ここから先はイアンで進めさせてください。今日は「のら猫クロッチ」というオリジナルキャラクターをプロデュースしていく中で気づいた「プロデュースとは何か?」について考えてみたいと思います。
     私のプロデューサー観についてお話しするまえに、軽く略歴をお話します。私は、10代、20代のころ、対人関係、コミュニケーションがとても苦手で、帰国子女だったという過去の環境のせいにしながら悶々としていました。学生時代にインドを旅して衝撃的な体験をし、これまで外部環境のせいにしてきた自分自身を反省しました。そして、自分にとって難題の「異文化コミュニケーション」を自ら探求すべき研究テーマとすることにしたのです。
     私が今、力を入れているプロジェクトは4つありますが、そのすべてがプロデュースしていくストーリーの中で繋がっていきます。ベースとなるストーリーは1997年からプロデュースしている『動物かんきょう会議』という作品です。わが社は1997年設立ですので、設立以来21年間一緒に歩んできています。 わが社はデザイン企画制作での売上げから、創業者自身によるオリジナルプロジェクトに投資している会社です。とはいえ、会社をつくった頃はとにかく暇でした。ですから、その時間を使って、自分たちの作品を創作していたというのが現実です。

    ▲『動物かんきょう会議』 https://animalconference.com
     40歳を前にした2004年に閃きがあり、自分自身の《クリエイティブする力》、《プロデュースする力》を地元目白で試してみたい! と思い立ちました。集まった3人のプロデューサーとともに音楽祭イベントをプロデュースしたのです。これはデザインの力、コンテンツの力、ヒトの力で山手線沿線の中で最も降りる理由のない駅のひとつ「目白」に集客するためのブランディング事業でした。このような地域活性化事業は、個人で取り組むには難易度はとても高く、プロデュース力が要求されるものでした。 私はバロック音楽が好きです。バッハやヴィヴァルディ、モンテヴェルディとかが活躍した時代の作品で小さなジャンルです。この音楽祭では、モーツァルトなどの馴染みのある音楽家や有名な曲、著名なアーティストの力に頼らずに、無名で馴染みはなくとも魅力ある音楽、そして特徴ある演奏家にこだわりました。コンセプトを力強く発信するために、目白というバ(=場)に、ロック(=挑戦的)な人が集まる音楽祭と定義し、「目白バ・ロック音楽祭」とネーミングデザインしました。 また目白という地元地域を舞台にした背景には、社会のIT化が進み、人との関係性が希薄になっているからこそ、「人と人とが真剣に向き合う場、リアルコミュニティを創出したい」という想いもありました。

    ▲目白バ・ロック音楽祭 https://ba-rock.org/
     この音楽祭を4年間やりました。目白地域の教会や歴史的建築物、巨匠による名建築など12会場を中心に計93回にわたる「演奏会」をはじめ、「シンポジウム」「展示会」「講座」「まち歩き」などを開催しました。出演した日本人アーティストは延べ189名。海外からの招聘アーティストは13名です。有料公演へのご来場者は1.2万人、入場率は83%です。2008年には地元目白界隈からの参加者が50%を越え「新たな目白ブランド」と呼べるまでに成長し、さらに後援3区のひとつ豊島区は文化芸術創造都市として平成20年度文化庁長官表彰を受賞しました。4年目でやっと黒字になりましたがプロデューサーとしてかなりの額の損失を被りました。
     この体験から学ぶことはたくさんありました。例えば、音楽祭では海外のアーティストを招聘したのですが、彼らは私たちの窮状を見て「こんな始まったばっかりの音楽祭だったら集客困るよね、予算もないんだろ? じゃあ俺がチケットを売るよ」と目白のビジネスホテルに泊まりながら、昼は練習の合間に街中で、夜はカフェに出没して、「私は、音楽祭でこんなのやるんだ」ってチラシを配るんです。そして、ハグして、バイバイってするものだから、目白の人たちも喜んでくれてライブにも来てくれるといういい流れが生まれ、追加公演にもなりました。そんな彼らのコミュニケーション力、臨機応変の行動力は私たちを励まし、彼らのためにも成功させようというモチベーションになりました。 音楽祭後の疲弊した状況下、私は「相手の心に愛情を持って飛び込んでいく、行動力ある理想像(コミュニケーター)」を探し求めるようになりました。求めるイメージは「人間」ではありません。人の心は変化してしまうからです。 そんな中、「のら猫クロッチ」というキャラクターが生まれました。もともとは作品『動物かんきょう会議』のサブキャラクターとして誕生していたのです。原作者かりにゃんが2007年に生み出し、私は約11年間この個性の強いキャラクターと向き合い、プロデュース活動をしています。

    ▲「のら猫クロッチ」 https://krocchi.com
     このように「目白バ・ロック音楽祭」を実行委員長としてプロデュースした体験がきっかけで、「のら猫クロッチ」という次なるコンセプトが誕生しました。さらに2015年『動物かんきょう会議』は、日本と世界の子供たちが創発するSDGsアクティビティ「せかい!動物かんきょう会議」へと進化しました。以上が私の4つのプロジェクトとプロデュースの関係性です。
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  • 【今夜21時から見逃し配信!】牧野圭太「広告がなくなる日」はいつ訪れるのか?

    2020-09-22 12:00  
    今夜21時より、カラス代表/エードット取締役副社長の牧野さんをお招きした遅いインターネット会議の完全版を見逃し配信します。
    24時までの期間限定となりますので、ライブ配信を見逃した、またはもう一度見たいという方は、ぜひこの期間にご視聴ください!
    牧野圭太「広告がなくなる日」はいつ訪れるのか? アーカイブ期間:9/22(火・祝)21:00〜24:00
    SNS上のターゲティング広告が常態化し、そして、問題化されつつある現在。かつて、時代を牽引したマスメディア型の広告の遺産から、現代の表現者たちはなにを継承すべきなのでしょうか。カラス代表/エードット取締役副社長の牧野さんと議論しました。 ※冒頭30分はこちらからご覧いただけます。https://www.nicovideo.jp/watch/1597910103
    ▼放送と合わせて、こちらもお楽しみください文鳥社・牧野圭太 「人を人らしくする」文化
  • 【号外】(見逃した人のために)遅いインターネット会議の限定再公開、はじめます。

    2020-09-18 20:00  
    みなさん、こんにちは。PLANETS編集部です。
    皆様からの声を受け、今月から「遅いインターネット会議」を火曜夜のライブ配信に加え、休日夜限定で再公開することが決定しました!
    今月は、8月にライブ配信した、小倉ヒラクさん、牧野圭太さん、矢野和男さんご出演の「遅いインターネット会議」をお届けする予定です。
    ライブ配信を見逃した、またはもう一度見たいという方は、ぜひこの期間にご視聴ください!
    【プレミア公開スケジュール】小倉ヒラク「思想としての発酵/発酵する思考」 アーカイブ期間:9/19(土)21:00〜24:00
    話題をあつめた『発酵文化人類学』や、各地のユニークな発酵食品を集めた専門店「発酵デパートメント」の開業など、世界でただひとりの「発酵デザイナー」として精力的に活動する小倉ヒラクさん。目に見えないものたちとの協働が育む思考や世界各地の発酵文化の魅力など、「発酵」を通じて見えてくる
  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉 第八章 人工知能にとっての言葉(前編)

    2020-09-18 07:00  
    550pt

    (ほぼ)毎週金曜日は、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信しています。今朝は第八章「人工知能にとっての言葉」の前編をお届けします。人間の世界認識の根幹となる「言語」を、人工知能はいかにして実装しうるか。前編では、西洋哲学における言語論の蓄積を踏まえながら、言語的な認識の構造のモデル化を試みます。
    序論
     言葉とはなんでしょうか? 人間にとっての言葉と、人工知能にとっての言葉があります。両者はどのように違うのでしょうか?  言葉の機能には2つの側面があります。自分の内面を言語によって構造化するという側面と、他者に対して自己を表現・伝達するという側面です。この2つは独立ではなく、連携した関係にあります。世界を指し示すにしろ、自分自身を表現するにしろ、一度、自分の中で世界や自己を対象化する必要があるからです。  そして、これが相手に伝わるためには、世界については共通のモデル(「コモングラウンド」)を、自己については、相手もまた自分と同じような内面の構造を持っているという信念を必要とします。シモーヌ・ヴェイユは後者のことを次のようにみごとに表現しています。

    「同じ言葉(たとえば夫が妻に言う「愛しているよ」)でも、言い方によって、陳腐なセリフにも、特別な意味をもった言葉になりうる。その言い方は、何気なく発した言葉が人間存在のどれぐらい深い領域から出てきたかによって決める。そして驚くべき合致によって、その言葉はそれを聞く者の同じ領域に届く。それで、聞き手に多少とも洞察力があれば、その言葉がどれほどの重みをもっているかを見極めることができるのである。」(『重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄』田辺 保 (訳)、ちくま学芸文庫)

     人が人と話すとき、ある言葉は相手の心の浅瀬まで、ある言葉は深い心の海まで届きますが、それが一体、どのような機構によるものなのか、まだわかっていません。会話する人工知能の最も遠い目標は言葉によって人と心を通わすこと。そこにあります。  しかし、言葉によってだけでは不可能なのです。そこに存在がなければならない。そこに身体、あるいは実際の身体でなくても、同じ世界につながっている、という了解があってはじめて、人工知能は人の心に働きかけることができます。それは言葉だけを見ていていては、見えないビジョンですが、我々は言葉を主軸に置きながらも、その周りに表情を、振る舞いを、身体を、そして社会を持っています。  人が人に接するということは、大袈裟に言えば、その背景にある、あるいは、その前面にある世界を前提にしています。言葉というエレガントな記号だけで情報システムは回っているために、どうしても人間のネットワークもそのように捉えたくなります。しかし、それは世界の根底ある混沌の表層であるとも言えます。発話者の存在が、また一つひとつの言葉が世界にどのように根を張っているか、また根を張っていない流動的な自由さを持っているか、が、何かを伝える力を言葉に宿すことになります。  言葉だけ見ていてはいけない、しかし、言葉を見ないといけない。言葉は人間関係と社会の潤滑油であり、ときに、言葉が伝えられる、という事実そのものが、その内容よりも重要なことがあります。暑中見舞いの葉書が来るだけでも、その人が自分を気にかけてくれるとわかります。LINEのスタンプだけでも暖かさを感じます。言葉という超流動性を獲得することで、人は、世界の存在の深い根から解放されお互いに干渉することができます。しかし、同時に言葉はいつもそんな人間の根の深い部分へと降りて行くのです(図8.1)。

    ▲図8.1 言語の持つ二つの方向
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