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  • 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第41回 第5章-7ハブとしての循環概念を評価する|井上明人

    2024-08-28 07:00  

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。 
    「遊び-ゲーム」の分節を説明できる理論はいかにして可能なのか。「インタラクション」「学習」「循環」といった概念でそれを記述する困難を確認しつつ、改めて「遊び-ゲーム」を分節化すること自体の意義を問い直します。

    井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて第41回 第5章-7 ハブとしての循環概念を評価する
    5.7 ハブとしての循環概念を評価する5.7.1 包含関係によるハブ概念としての循環概念
     前回、「遊び-ゲーム」に関わる現象を観察する4つの観察モデルが、さまざまな遊び-ゲームを捉える説明(学習説や非日常説)の多くに適用可能なものであることを示してきた。
     これは、いわば複数の要素間の循環のような現象がゲームを説明する鍵を握っているのではないかということを示すものだった。こうした複数の重要概念が、この4つの観察モデルを通して並列させてみることができるとは一体どういうことなのかを考えてみたい。
     「遊び-ゲーム」にとって中心的な概念とは何か、という基本的な問いを考えたとき、その対象となる行為を幅広く説明可能なものとして、第三章では、ゲームを学習として考えるという発想を論じてきた。それと同様に、循環もまた遊び-ゲームに関わる概念を幅広く説明可能なものとなっている。学習説の概念が多様な概念と先後関係を持つというような形で機能し、複数の概念間をつなぐハブとして機能しうるからではないか、というのが現時点での見解だった。
     前回までの議論から言えることとして、 ここで循環のモデルとして取り上げた概念系も、そうした性質をもっているということだ。多様な現象を記述できる媒介となりうる性質をもっている。これは遊び-ゲームについての「循環」系の概念を使った説明が、遊び-ゲームのほとんどの領域を記述可能な万能理論的な性質をもっているということを示しているといっていい。それゆえに、ガダマーも、ボイデンディクも西村清和も、多くの論者が循環的な性質の意義を強調してきたと考えてもいいだろう。
     では、循環のモデルはハブ概念として、学習説と比較して、どのように評価できるだろうか?  循環的な側面を強調することは、学習説とは異なっている側面がある。
     第一に、循環のモデルを用いて遊び-ゲームに関わる諸概念を記述することはできる。しかし、「記述できる」ということは、因果関係や相関関係、先後関係といった仕方で諸概念と関係しているといったことではない。
     さまざまな概念を「記述できる」ということは、遊び-ゲームに関わる様々な概念が循環に関わる属性を共通して備えているということである。
     言い換えれば、それは遊び-ゲームに関わる様々な概念が、循環に関わる概念の(1)部分集合であるか、(2)もしくは積集合(共通部分)としての性質を持っているということだと考えられる。可塑的な複層構造をもったものは様々なものがあるが遊び-ゲームはその一例となりうるし、循環参照的な推移をするものも様々なものがありうるが遊び-ゲームはその一例となりうる。
     すなわち、何らかの包含関係という形で循環に関わる概念は遊び-ゲームの諸概念のハブとなっていると考えられる。
     部分集合であるか積集合であるかはさておくにせよ、遊び-ゲームの諸概念を幅広く含むかたちで、循環系の概念は位置づけることができる。学習説が現象の移行するプロセスに着目していたのとは違った関係性によって循環系の概念は概念のハブとしての性質を持っていると見做すことができる。
    5.7.2 循環概念は遊び-ゲームだけを含むのか
     包含関係的なハブであるということは良いとして、これが何らかの包含関係によるものなのだとすれば次に起こる問題は、これがどこまで広い現象を説明するものなのかということだ。
     学習説は、「学習」と省略して呼んではいるが、実際にはフロー体験のような比較的、限定された学習のケースを想定している。では、可塑的な複層構造や循環参照的な順序といったものはどうなのか。
     素朴に考えれば、可塑的な複層構造のような話は、記述可能な範囲が広すぎると言っていい。構造化が徐々に進むやや複雑なプロセスをもったような現象を含むものであれば、だいたいのものはこのモデルで記述できてしまう。生命の進化プロセスでも、法の制定過程でも、組織の秩序化が行われるプロセスでも記述できる。記述できる幅が広すぎる。
     20世紀後半に多くの学問分野で、オートポイエーシスやシステム論が注目され、それらの理論は、生命システムから社会システムまでかなり広範な領域を説明してきた。こうした一般性の高い話との切り分けをしなければいけない。
     説明力は高く、確かに循環のような現象は遊び-ゲームの記述において有用であるが、遊び-ゲームの領域固有の特徴を限定するための説明モデルとしては適切な粒度であるとは言い難い可能性がある。
    5.7.3 適切な限定を加えることはできるか?
     これは、適切な限定をすることが不可能であると言っているわけではない。
     概念範囲の広さをめぐる論点は、ビデオゲーム研究に限定した話をするならば、「インタラクティビティ」概念が、ビデオゲーム特有の性質を適切に記述する概念たりうるのか? という議論でも似たような議論がなされてきた。インタラクティビティの概念と「循環」の概念が同じであるかどうかはやや注意すべき点もあるが[1]、可塑的な複層構造や、固定的な複層構造、あるいはその中間のような複層構造は、一般に「インタラクティビティ」という語彙によって想定される範囲とほとんど重なるものだろう。
     「インタラクティビティ」はビデオゲームに特有の性質を持つ語彙として、しばしば注目されてきたが、「インタラクティビティ」のあるものはビデオゲーム以外にも、ゲーム以外のPCのソフトウェアや、若干の複雑な挙動をする機械の多くに当てはまる性質である。そのため「インタラクティビティ」をビデオゲーム固有の性質として見做すことはしばしば批判を受け[2]、そして、適切な範囲の限定を加えるための議論も蓄積してきた。
     興味深いことに、インタラクティビティの範囲を限定する際に行われる概念化は、しばしば学習説やコミュニケーション説の要素を部分的に採用しているように解釈できるものが多い。
     たとえば、オーセット(1997)は「エルゴード的(ergodic)」という概念を導入し、読者が読み通すために「小さくない努力(nontrivial effort)」を要するものだという限定を加える[3]。また、スマッツ(2009)Smuts, A. 2009. What Is Interactivity?. The Journal of Aesthetic Education, 43(4), 53–73.は、反応を返すもののうち、完全にコントロールするものではなく、完全にコントロールされるものでもなく、完全にランダムな仕方では反応しないもの[4]という限定を加える。プロのテニスプレイヤーがまともに勝負にならない程度に下手な相手とプレイするようなときは、あまりインタラクティブな状況とは言えず、何かを習得することが難しいようなときには、その何かが最もインタラクティブであるのだという[5]。こうした概念化は、遊び手による主体的な状況の関わりについての概念化であり、とりわけスマッツによる概念化はインタラクションの議論と学習説の議論を融合させた議論のように読める。
     また、クロフォードによるインタラクティビティの概念化は、会話をモデルとしたものになっている。クロフォードによれば、インタラクションとは「二人の行為者が交互に聞き、考え、話す循環的プロセス」だと言う[6]。
     ここまで、遊び-ゲームのハブ概念として、学習説、コミュニケーション、インタラクティビティといった概念が強力に機能しうることを述べてきたが、いずれも、インタラクティビティの概念化のために、深く関係を持ちうる学習説やコミュニケーションような概念ハブの特質を借りてくることで、概念の範囲を絞ろうとしているように思われる。
     こうした概念の限定の仕方は、遊び-ゲームに関わる範囲を限定する上で、学習やコミュニケーションが強力なハブ概念として機能しうる限りにおいて、説得的な限定にはなりうるだろう。
     ただし、ここで与えたい限定は、学習説やコミュニケーションのようなハブ概念に頼らないかたちでの概念の限定がありうるのか? ということである 。学習説やコミュニケーションなどを再記述するものとしての「循環」の適切な概念化のために、学習説やコミュニケーションの概念を借りてしまってはトートロジカルな説明になってしまわざるを得ないため、それらに頼ることはできない。
     学習説ほとんどそのものではなくても、学習説の一部を構成する――たとえば「自発性」――のような心的態度を条件の限定に持ち込んで、「自発的に循環の中で揺蕩うこと」あるいは「循環の中で揺蕩うことを拒否しないこと」といった形で限定すれば、それなりに限定できるかもしれない。ただし、循環の観察モデルのなかに心的態度を持ち込むことを正当化できる根拠を筆者はここで持ち出すことはできない。
     循環や「インタラクティビティ」といった概念を扱うことの難しさの一つは、「会話」や「学習」といったものに比べると、こうした概念が指し示す範囲についての日常的な意味の範囲というものが日本語ではあまり明確に存在しているとは言い切れないという点がある。「インタラクティビティ」などは英語圏ではかなり日常的な語彙になっているようだがそれでも1960年以後のことであり、非西洋圏では、いまだ日常的な語彙とは言えず、言語圏によっては、かなり専門的な語彙にさえ響く[7]。いわば「日常概念」であるのかどうかのボーダーライン上にあるものだと言える。
     それゆえ、この概念が適切な範囲をもった日常概念たりうるかどうかは、現在の原稿執筆時の2024年時点では、議論すること自体がおそらく難しい。この概念がハブ概念として適切な範囲を持ちうるかどうかは、100年後の議論に委ねても良いかもしれない。
     2024年の現時点では、「適切な概念範囲の限定を与えることが難しい概念なのではないか」ということを確認するに留めたい[8]。  
     
  • 勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」|池田明季哉(後編)

    2024-08-27 21:00  

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は『勇者警察ジェイデッカー』について分析します。女性性の強いキャラクターデザインの主人公・勇太のビジュアルを引き合いに、戦後ロボットアニメが提示してきた「父性」「母性」のあり方を本作がどのように更新したのか考察しました。
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」
    母なる勇太、父たるレジーナ
    ファイヤージェイデッカー誕生は、次のような展開を通じて行われる。
    かつてデッカードを倒したチーフテンは、紆余曲折を経て再びブレイブポリスの前に立ちはだかる。もともとは相棒を失ったことを悲しむ心を持っていたチーフテンは、しかし創造主たるビクティムが「強い者が全てを手にする」という「悪の心」を徹底させたことで、片方が片方を殺害し、そのパーツを吸収するかたちで一種の「グレート合体」を果たす。
    これに対抗するためにデッカードとデュークもまた合体しようとする。しかしここで、合体してしまうとどちらか一方の人格が消えてしまうという問題が発生する。そこにはさまざまな設定的理由があるのだが、物語世界においてドラマを成立させるためのエクスキューズにすぎないため、いったん置いておこう。重要なのは、象徴的なレベルにおいて、この対立がいかなるものであるのかだ。
    結論から言えば、ファイヤージェイデッカーは「母」であった勇太が「父」となり、そして「父」であったレジーナが「母」となることによって完成する。
    どういうことか、順番に見ていこう。まず、デッカードが「人間の心」を得るきっかけとなったのは勇太その人であった。そして勇太はデッカードに、そしてブレイブポリスのロボットたちに、無条件といえるような承認を与えていく。勇太は常に、心を持ったブレイブポリスたちを丸ごと受け入れる。その一方で、そのあまりの愛情の深さゆえに、しばしば警察組織たるブレイブポリスのボスとして正しくない判断をすることもある。レジーナが勇太のことを「悪い手本」と指摘するのは、勇太にロボットたちを正しい方向に導き、上司として職務を遂行させようという父性が欠如しているからだ。
    実際、これまで主人公を務めてきた少年たちに比して、勇太には際立って女性的なキャラクターデザインが与えられている。眉の太さなどいくぶんか男性的な記号も入っているものの、基本的にはふたりの姉にそっくりな顔立ちで、美少女の文法としてデザインされていると見てよいだろう。また女子中学校への潜入捜査のために女装するエピソードがあるのだが、これは劇中で似合っているともてはやされ、実際に違和感なく潜入を成功させる。こうしたデザインが物語に先立っていたのか、それとも物語に対して適切なデザインがこうであったのかを論じることは難しい。しかしいずれにせよ結果として、勇太は勇者シリーズにおいて、かつてない母性的な側面を持った主人公だといってもよいだろう。
    一方でより「成熟した」デザインを与えられたレジーナが、警察組織におけるロボットの理想像を徹底しようとしてきたことはすでに論じてきた。デュークが「人間の心」を持つことを認めず、あくまで「善の心」だけを持つよう厳しく求めてきたレジーナは、強い父性を持ったキャラクターとして配置されているといえる。
    ファイヤージェイデッカーへの合体は、勇太とレジーナが、その欠落した部分――勇太にとっては父性、レジーナにとっては母性を獲得することによって、はじめて成立する。
    先にレジーナの側から見ていこう。超AIから悪の心を取り去り善の心のみを持たせたいというレジーナの動機は、その過去に由来していることが明かされる。ロボット研究者であったレジーナの母親は、違法ロボット兵器にかかわったことで犯罪者となってしまった。そして警察官であった父親は、情に流され母親を逃がしてしまったことで職を追われていた。レジーナはそんな自分の両親に対する悲しみと憎しみ――すなわち「悪の心」を封じ込め、かつて遂行されなかった「父性」を貫徹しようとしてきたのだった。レジーナを想うデュークは、次のように問いかける。「人間には、自分を作った者に対する愛情はないのか?」。この言葉をきっかけに、レジーナは自分自身もまた思っていたほど成熟した存在でなかったこと、自らも「善の心」と「悪の心」、愛と憎しみが複雑に絡み合った「人間の心」を持つことを受け入れる。これによって、デュークが「人間の心」を持つこともまた肯定される。すなわち自分の過去に向き合うことで、デュークを丸ごと受け入れる愛情を認めていくことになっていくのだ。
    一方、勇太はデッカードあるいはデュークが消えてしまうことから、当初は合体を躊躇する。しかしレジーナの指摘を真摯に受け止めることで勇太は成長し、ときにリスクをおかしてでも犯罪を止めなくてはならないと覚悟する。
    ゆえに、勇太は人格消滅のリスクを飲み込んだ上で、ファイヤージェイデッカーへの合体を命じる。そしてレジーナはデュークを失いたくない愛情ゆえに、一度これを止める。ここに至って、母性からスタートした勇太と父性からスタートしたレジーナは、それぞれ父性と母性を得てその立場を逆転させているのだ。
    合体に際して、デッカードとデュークは次のように誓いを立てる。デッカードが消えた場合は、デュークが勇太を守る。デュークが消えた場合は、デッカードがレジーナを守る。憎しみの裏側にあるこうした思いやり――デュークの言葉を借りれば「愛情」――を持ったことによって、人格消滅のリスクを彼らは奇跡的に乗り越えるのである。
    「母性」をまとうジェイデッカー
    ファイヤージェイデッカーをめぐる想像力が、勇者シリーズにもたらした画期はふたつある。ひとつは親子の関係が逆転していること。もうひとつはそこに「母性」の論理が持ち込まれたことだ。
    勇者シリーズの前身となるトランスフォーマーVは、スターセイバーという「父」とジャン少年という「子」の物語からはじまっていたのだった。これまで理想の成熟を体現していたロボットは、象徴的な意味では「父」として存在してきた。勇者シリーズはそうした理想像であるロボットに対して命令する権利を与えることで、子供たちの地位をロボットと対等なものに格上げし、命じる者/行う者として相補的に機能させることで、「父子」から「兄弟」へとその関係を対等なものとして描き直してきた。ジェイデッカーにおける勇太少年とデッカードの関係も、当初はこうした構造を確認している。
    一方で、デュークのレジーナに対する想いは、レジーナの両親に対する想いと「自らを生み出した者」という条件によって重ね合わされている。これまで「大人」として描かれてきたロボットは、ここではむしろ「子供」の立ち位置を与えられている。ジェイデッカーにおいて、人間とロボットは単なる対等な友人なのではない。それは創造主と被造物の関係であり、この物語における「愛情」とは、創造主から被造物へと与えられる無条件にして無限のものなのだ。
    ファイヤージェイデッカーは、パトカー・トレーラーと、救急車・消防車のグレート合体であった。犯罪を取り締まる警察は父性を、命を救わんとする救急・消防は母性を象徴しているということができる。グレート合体が対立するふたつの要素を統合することによって成立するのなら、ファイヤージェイデッカーの誕生は、男性的・父性的成熟を目指してきたサイボーグの美学が、その半身に女性的・母性的成熟を取り入れた瞬間なのだ。
    ▲「大警察合体ファイヤージェイデッカー」。その象徴的存在感に見合う威容。勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p37
     
  • 世界文学のアーキテクチャ 終章 時間――ニヒリズムを超えて|福嶋亮大

    2024-08-27 21:00  

    1、近代小説に随伴するニヒリズム
    一八八〇年代に書かれた遺稿のなかで、ニーチェは「ニヒリズムが戸口に立っている。このすべての訪客のうちでもっとも不気味な客は、どこからわれわれのところへ来たのであろうか」と書き記した。ニーチェによれば「神が死んだ」後、人間の基準になるのはもはや人間だけである。しかし、神の死によって生じたのは、神のみならずあらゆる価値を崩落させ、意味の探究をことごとく幻滅に導く「不気味」な傾向であった。ニヒリズムとはこの「無意味さの支配」を指している。
    ハイデッガーの解釈によれば、ニーチェの哲学において「意味」は「価値」や「目的」とほぼ等しい。つまり、意味は「何のために」とか「何ゆえに」という問いと不可分である。意味を抹消するニヒリズムが支配的になるとき、世界の「目的」や「存在」や「真理」のような諸価値もすべて抜き取られる。ニーチェが示すのは「諸価値を容れる《位置》そのものが消滅」したということである。われわれは世界に価値や意味を嵌め込んできたが、今やそれを進んで抜き取っている――このようなニヒリズムの浸透は、世界に「無価値の相」を与える[1]。目的をもたなくなった世界で、人間は確かに価値の重荷から解放されるが、それは幸福を約束しない。
    ここで文学史を回顧すれば、すでにニーチェ以前に「ニヒリズムという不気味な客」の来訪する予兆があったことが分かる。宗教が世界に意味や価値を嵌め込んだのに対して、デフォーの『ペスト』やスウィフトの『ガリヴァー旅行記』を筆頭とする一八世紀の近代小説は、意味の探究を超えた不確実性に傾いてきた。小説は安定した意味のシステムを自らくり抜き、一種の「壺」として自らを造形したが(前章参照)、特に絶滅やジェノサイドへのオブセッションは、小説という壺に底なしの空虚をうがち続けてきた。小説にとって、ニヒリズムは不意の来客というよりも、むしろ長期にわたって共生してきた伴侶なのである。
    そう考えると、ニヒリズムがニーチェに先立って、まずロシア文学において結晶化したことも不思議ではない。ツルゲーネフは一八六二年の『父と子』で若き医師で唯物論者のバザーロフをニヒリストとして描き、この概念を広く普及させた(第十章参照)。宗教的な救済のヴィジョンを内包したロシア文学は、人生の意味の飽くなき希求によって、かえって世界の無意味さの深淵に足を踏み入れた。その後もロシア文学は、哲学とは異なるやり方で、ニヒリズムに応対したように思える。その興味深い例として、一八六〇年生まれのアントン・チェーホフを取り上げよう。
    2、二〇世紀最初の文学――チェーホフの『三人姉妹』
    生粋の一九世紀思想家ニーチェは一九〇〇年に亡くなるが、その翌年の二〇世紀最初の月すなわち一九〇一年一月に、チェーホフの戯曲『三人姉妹』がモスクワ芸術座で初演された(以下、チェーホフの作品の引用は松下裕訳[ちくま文庫版全集]に拠り、巻数と頁数を記す)。その第二幕に、雪の降る日に父をなくした三人姉妹の一人マーシャが、正教徒の軍人トゥーゼンバッハとやりとりをする場面がある。もう一人の軍人ヴェルシーニンが、未来の新しい幸福な生活のために働くべきだと言うのに対して、トゥーゼンバッハは百万年後にも生活の法則は変わらないと断言する。マーシャは、世界を無意味と見なす彼の態度に懸念を示す。

    マーシャ それでも意味は?
    トゥーゼンバッハ 意味ねえ……。こうして雪が降っていますがね。どんな意味があります?
    (間)
    マーシャ わたしはこういう気がするの。人間は信仰を持たなくてはいけない、すくなくとも信仰を求めなくてはいけない、でなければ生活はむなしくなる、むなしくなる、って……。生きていながら知らないなんて、なんのために鶴が飛ぶのか、子どもたちが生まれるのか、空に星があるのか……。なんのために生きているのか知らねばならないし、さもないと何もかもがつまらない、取るにたらないものになってしまうわ。
     (間)
    ヴェルシーニン それにしても残念でたまらない。青春の過ぎ去ったのが……。(第二巻、二四七‐八頁)

    トゥーゼンバッハはここで、生の意味を否定するニヒリストのように振る舞う。雪が降るように、人間が生まれ死ぬだけなのだとしたら、人生に意味や目的を求めるのは無益だろう。ここで思い出されるのは「雨の降るごとく死が降る」と記した哲学者のドゥルーズである。ドゥルーズはたんに雨が降るという「非人称的」な出来事を人間的な意味づけに優先させたが[2]、トゥーゼンバッハの考え方はそれに近い。
    逆に、マーシャは世界に意味や目的がなければ、人間の生が取るにたらないものになることを恐れている。ただし、このマーシャの発言は誰かに賛同されたり反論されたりするわけではない。ひとしきりの「間」があってから、話題は別の方面に移り変わる。トゥーゼンバッハもマーシャも、この件で口角泡を飛ばして議論しないし、自説に固執もしない。彼らの思想は、ティータイムの前の退屈しのぎとして語られるにすぎない。
    ツルゲーネフの『父と子』における若い男性知識人たちの熱っぽい会話とは対照的に、およそ四〇年後の『三人姉妹』では、意味と無意味に関する問いは、空白やためらい、退屈や倦怠の気分のなかに控えめに浮かんでいる。すでに青春を過ぎた彼らの口調は、決然とした強さをもたない。彼らは他者を声高に説得しようとする意志を欠いたまま、会話の「間」に滑り込んで、つぶやくようにして自らの考えを語る。
    この慎ましさにおいて、チェーホフは明らかに反ドストエフスキーないしポスト・ドストエフスキーの作家である。ドストエフスキーの登場人物は、経験的にはふつうの人間と何ら変わらないが、その存在には「形而上学的な次元」が随伴している。ドストエフスキーを特徴づけるのは、経験的なレベルと形而上学的なレベルの「神秘的な一体化」である[3]。逆に、チェーホフは生と思想をむしろ乖離させる。自己の思想を論文や文学を動員してまで述べようとするラスコーリニコフやイワン・カラマーゾフのような熱意を、チェーホフ的人間は初めからもちあわせていない[4]。
    二〇世紀最初の文学である『三人姉妹』が「意味」の問題を提示したこと、これは非常に示唆的である。ただ、チェーホフの独自性は、人生の意味ないし無意味というテーマを、ニーチェやドゥルーズのような「哲学」としてではなく、人間の頭上を鳥のように通過するあいまいな思念や気がかりとして示したことにあった。トゥーゼンバッハに言わせれば「渡り鳥、たとえば鶴などは、ただひたすら飛んで行くだけで、高遠な思想やちっぽけな思いが頭のなかに浮かんだとしても、飛んで行きながら、やっぱりなぜ、どこへ飛んで行くかを知りはしない」(第二巻、二四七頁)。彼にとっては、いかなる思想も人間の頭脳には根づかない。チェーホフ的人間は、思想の所有者ではなく、思想の一時的な止まり木なのだ。
    アメリカの哲学者コーネル・ウェストは、チェーホフの文学の根幹に「世界との不一致」があり、それが彼の喜劇性の源泉になっていると指摘した。「彼は最も洗練された知性的なやり方で、知性の失敗と不十分さについて語る」[5]。『三人姉妹』の人間たちは、彼らにとって価値あるものが過ぎ去った時点にたたずんでいる。このuntimelyな――反時代的で時機を失した――チェーホフ的人間たちは、世界に対して遅れてやってくる。思想と生とが乖離してしまう、このチェーホフ的な「不一致」の情景においては、世界は有意味とも無意味とも断定されない。ニヒリズムは文字通り「客」であり、人間の生に定住はできない。
     
  • 世界文学のアーキテクチャ 第一四章 不確実性――小説的思考の核心|福嶋亮大

    2024-08-27 21:00  

    1、不確実性を思考する
    本連載もそろそろ終わりに近づいている。私はここまで、世界文学の中心を占める小説を、広義の人類学的対象として捉えてきた。人類の諸文化がそれぞれ世界理解の型をもつように、小説もいわば特異な人工知能として、世界を思考し、解釈し、再構成する力をもつ。人類と小説はドン・キホーテとロシナンテのように、異質な隣人として共生関係を結んだ。人間は小説を利用して、世界を了解し直す。その一方、小説は人間の利用を利用して、その流通の版図をグローバルに拡大してきたのである。
    小説とは、隣人である読者=人間の心を巻き込みながら、思考を引き延ばす装置である。それは人間の心そのものではないが、人間の心の諸機能(知覚、想像、情動、想起、予測……)を擬態する能力をもつ。私は小説を、人間の心の動きを言語的なレベルに翻訳した《心のシミュラークル》と考えたい。この心の似姿は、ときにかえって本物の心以上に複雑怪奇な多面体として現れるだろう。心と言語を結合させた小説が、ウイルスのように流行し、人間の思考の不可欠の隣人になったのは、それ自体が人類学的現象として注目に値する。
    心のシミュラークルとしての小説の流行は、ヨーロッパ近代において、思考の意義が更新されたこととも関わる。その指標として、思考そのものを思考した一七世紀のパスカルの『パンセ』を挙げておこう。
    パスカルは「人間の尊厳のすべては、考えのなかにある。だが、この考えとはいったい何だろう。それはなんと愚かなものだろう」と記した。彼によれば、思考は人間の尊厳の根拠になるほどには偉大であり、それでいて非常に愚かで卑しいものである。思考は確実なものや堅固なものは何一つ与えない。ゆえに、人間が多くの不確実なもの、具体的には「航海」や「戦争」に賭けるのは当然である。「人が明日のため、そして不確実なことのために働くとき、人は理にかなって行動しているのである」[1]。デカルトが懐疑の果てに、思考しつつある我(コギト)という根源にたどり着いたのに対して、パスカルは存在の根源にいわば「賭け続ける我」を発見した。
    もとより、パスカル自身は小説家ではないが、彼の洞察はその後の小説の時代の予兆になっている――近代小説の歴史はまさに航海と戦争という「賭け」によって導かれたのだから。思考はもはや確実な地盤に到る技術ではなく、不確実性の海における賭けの連続に等しいのではないかというパスカル的な問いに、小説というジャンルは新たな活力を与えた。小説とは、さまざまな不確実性を織り込んで思考し続けるための装置なのである。
    では、小説という特異な思考装置は、いかなる進化史をたどって構成されたのか。それが私の取り組んできた問いである。この問題にアプローチするにあたって、私は文学史をさまざまな角度からリプレイし、得られた結果を多層的に重ね書きするようにして記述してきた。この作業を世紀の区切りを基準として、もう一度実行しておきたい。
    2、《場を超える場》としての海――ダンテからメルヴィルへ
    一四世紀のダンテの『神曲』地獄篇第二六章で語られるオデュッセウス(ユリシーズ)の物語は、強い印象を与える。「この世界を知り尽くしたい」という知の欲望に駆り立てられたギリシアの英雄オデュッセウスは、家族を捨てて仲間たちと禁断の航海に出るが、地中海をめぐり、スペインやモロッコを横目にジブラルタル海峡を越えようとしたとき、神意によって船を転覆させられる。「やがて私たちの上には海がまたもと通り海面を閉ざした」[2]。不確実性への賭け=航海は、神の力によって封印されたのである。
    西に向かう「狂気の疾走」を強制終了され、神の禁止を破った罪によって地獄の火で焼かれるダンテ版のオデュッセウス――その苛酷な姿は、不吉とされた西方にあえて旅立ったコロンブス以降のヨーロッパ人の存在様式を、見事に先取りしている。ダンテはここで、未来の探検の時代を明晰に「予言」しつつ、峻厳に「拒否」したのだ[3]。のみならず、『神曲』のオデュッセウスは後の文学上の冒険者たち、特に『白鯨』のエイハブ船長の先駆けにもなった。ボルヘスが指摘したように、両者はともに「刻苦と豪胆さによってわが身の破滅を招く」のであり、その最期の言葉まで似通っているのだから[4]。
    ただ、『神曲』の場合、世界=海への欲望は、地獄・煉獄・天国から成る三位一体の神学的構造のなかに拘禁された。ダンテは〈世界〉への欲望を予告しつつ、それを厳しく断罪した。オデュッセウスの船が沈められ、海が閉ざされたとき、世界もまた閉ざされたのだ[5]。
    逆に、およそ五〇〇年後の一九世紀の『白鯨』になると、海=世界はもはやこのようなリジッドな構造に収容されず、むしろ不確実性に満ちた不定形の時空として現れる(第六章参照)。海をワープするように移動する鯨の出現は、確率的に推測するしかない。鯨を追跡するエイハブは、オデュッセウスのように特定の場(地獄)に束縛されず、船員たちもろとも《場を超える場》、つまり脱領土化された海に没入してゆく。『白鯨』には土台を失った〈世界〉における、ほとんど愚かしいとも言える賭けの連続が記録されている。不確実性を思考するメルヴィルは、尊厳と愚かさが「賭け」において両立するというパスカル的問題を、小説の核心に据えたのである。
    3、〈世界〉に響くダイモンの声――ラブレーと海
    ここで、ダンテとメルヴィルのあいだに一六世紀のフランソワ・ラブレーを挿入してみよう。ラブレーの奇想天外な小説『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の「第四の書」(一五五二年)では、巨人族のパンタグリュエル一行が神託を求めて航海に出る。彼らは後のガリヴァーのようにさまざまな部族の住む国を巡り、その奇妙で珍しい習慣や暮らしぶりを記しながら、当時の反動的な教会や医者に対して、強烈な批判を浴びせてゆく。
    この文化人類学的な探検は断片的なエピソードの連続であり、『神曲』のような厳格な構造をもたない。大船団を組織したパンタグリュエルらは「出エジプト」の詩編の朗誦に見送られ、暴風雨にさらされながら未知の島に気安く上陸し続けては、ときに巨大な鯨を退治し、ときに派手な戦争も引き起こす。この聖書のパロディのような多産多死の航海は、陽気であり、しかも危険に満ちている。パンタグリュエルの考察によれば、航海者は「死にながら生きており、生きながらも死んでいる」[6]。ラブレーの海は生にも死にも属さない別の人間、オルタナティヴな人間を浮上させる。そして、この生と死のあいだを放浪する航海の終わりに、パンタグリュエルの心に突然謎めいた声が響く。

    「ううん、なにやら」と、パンタグリュエルがいった。「急に、後ろから引っぱられるような気持ちがしてきたぞ。〈この場所に上陸するなかれ〉と命じる声が、遠くから聞こえてくるような気がするのだ。心のなかで、そのような気持ちの揺れを感じるたびに、わたしは、こうやって引き止められた方向に進むのをあきらめて、その場所を立ち去ったことを、それでよかったのだと思ったし、あるいは反対に、わが心が勧めた方向に従って進んでいった場合もあるけれど、それもまた、それでよかったと思っているのだ」

    パンタグリュエルは祝祭的な船旅の終わりになって〈この場所に上陸するなかれ〉という禁止の声を耳打ちされる。興味深いことに、彼の部下は、この不思議な声を「ソクラテスのダイモン」として説明する[7]。プラトンの『ソクラテスの弁明』によれば、ダイモンはソクラテスが間違いを犯しそうになったとき、それに「反対」する神霊の声として現れた。この不可視の霊的な声は、ソクラテスに「何をすべきか」は一切教えず、その代わり「何をしてはならないか」を告げたのである。
    『神曲』のオデュッセウスを束縛した神の厳格な禁止とは違って、「ソクラテスのダイモン」の唐突な声は、内的であり謎めいている。だが「その行為は間違っているから引き返せ」という内なる否定の力は、パンタグリュエルの旅の性質を劇的に変える。この宣告に従うようにして、世界を陽気に航海してきたパンタグリュエルの物語は、慌ただしく閉じられる。そのとき、快活な探検の旅は終わり、進むべきとも退くべきとも決められない根源的なあいまいさが立ち現れてくる。
    世界進出に反対する「ソクラテスのダイモン」の声をきっかけとして、パンタグリュエルの心に未知の揺らぎや迷いが生じること――この奇妙な展開は、ラブレーとほぼ同年に生まれたラス・カサスが、新世界の悪を批判したことを思わせる。ラス・カサスはヨーロッパの言論空間に「その行為は間違っているから引き返せ」というダイモンの声を、キリストの霊とともに響かせたと言えるだろう。この見地から言えば、陽気なパンタグリュエルをあいまいな心境に導くダイモンの声は、新大陸でのジェノサイドを引き起こした黒い歴史への応答ではなかったか。
    この内的な禁止の声を振り切るには、ときに常人離れした異常な意志が要求される。現に、ダンテ版のオデュッセウスの狂気を引き継いだ『白鯨』のエイハブは、慎重さを求めるスターバックの声を無視して、決然と海に乗り出した。裏返せば、狂気の力なしには、自己はただちにあいまいさや不確実性に呑み込まれてしまう。それが〈世界〉との接触の帰結である。
    一四世紀のダンテは神学的な構造のなかで、不確実な〈世界〉への誘惑を断ち切った。しかし、ポスト神学時代になると、〈世界〉は「ソクラテスのダイモン」のような不可解な力、禁止を発する超自我の声を呼び覚ます。小説は確かに人間を中心にするが、その人間は自己とは別の力によってあらかじめ規定されてもいるのだ。私は先ほど、小説を「さまざまな不確実性を織り込んで思考し続けるための装置」と呼んだが、その思考は人間を超えた霊的な声に先行されている。
     
  • 21世紀のジャポニズム 陰影「礼賛」から陰影「退散」へ(ニューヨークのイノベーションシーンについて 後編#2)|橘宏樹

    2024-08-27 21:00  

    現役官僚である橘宏樹さんが、「中の人」ならではの視点で日米の行政・社会構造を比較分析していく連載「現役官僚のニューヨーク駐在日記」。今回はニューヨークで活躍する日本人のイノベーターとして、増田セバスチャンさんの近年のプロジェクトについて紹介します。「いま最もホットなレストラン」として現地で話題を集めている「Sushidelich」の「kawaii」コンセプトはどのような影響力を持っているのでしょうか。
    橘宏樹 現役官僚のニューヨーク駐在日記第13回 21世紀のジャポニズム 陰影「礼賛」から陰影「退散」へ(ニューヨークのイノベーションシーンについて 後編#2)
    こんにちは。橘宏樹です。本稿では、前々回に引き続き、ニューヨークにイノベーションをもたらしている日本人をご紹介したいと思います。▲「ニューヨークのイノベーションシーンについて(後編)#1」で紹介した「Sakura Collectio
  • 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第40回 第5章-5.4 遊び-ゲームにおけるルールを循環モデルとして再記述する|井上明人

    2024-08-27 21:00  

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。 
    ビデオゲームに内在するプログラム構造に対して、大会のレギュレーションなどの可塑的なルールといった「二層構造」の「ルール」があると言えるゲームについて、その構造をモデルとして抽象化し、遊び/ゲームの体験性の本質に迫ります。

    井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて
    5.5.4 遊び-ゲームにおけるルールを循環モデルとして再記述する
     一見すると構造が固定されているようなルールやゴールについても、循環モデルで記述しなおすことができる。
     構造として固定されているものを、ルールやゴール、ソースコードといったゲームのメカニクス部分だと考えたとき、そこからその都度、算出されるのは一回ごとの試合などのゲームプレイにあたる部分になるだろう。
     ビデオゲームのハードウェアやソースコードの改造が難しいような形で提供されているクラウド型のオンラインゲームのようなものでは、ゲームプレイを通じて固定された構造を変化させることは難しい[6]。ビデオゲームをこのように観察するならば、ビデオゲームは固定的層をもった構造と、それから算出されるものというモデルによって捉えられることになる。
     しかし、ビデオゲームにとってのルールとは実際にはもう少し緩やかに決定されていくような性質ももっている。すでに何度か触れているとおり、大きな格闘ゲームの大会や、RTAの大会などでは、どのキャラを使ってはいけないか、いわゆる「裏技」のようなものをどこまで使用してもよいかなどといったことが、大会が会を重ねるごとに少しずつ調整されて変化していくことがある。
     ビデオゲームの大会の場合は、ソースコードとして固定された部分と、長期で見た場合にはある程度の可塑性がある大会のレギュレーションという二段構えだが、スポーツの大会などでは後者のようなレギュレーションがベースであるため長期的にはスポーツのルールは可塑的なものであるといえる。
     実践を通じて、ルールに変化が加えられ、調整が働いていくプロセスは我々の日常的な慣習や、共同体内での規範、法といったような様々なルールにおいても見られる側面である。
     これらのプロセスを順序として観察するのであれば、ルールの書き換えられるプロセスということになる。つまり、試合における想定外の発生→ルールの書き換え→想定外の発生→ルールの書き換え→……といった形として整理できる。
     また所与のルールで処理できない行為がなされた場合には、それは「不正」とみなされたり、ゲーム自体に関わりのない行為とみなされることになる。ビデオゲームのルールの特徴として、現時点のセンサリング技術等によって定量化したり、入力情報として評価が可能な程度のものでなければ評価ができないという特性がある[7]。複雑な意味の解釈が困難になるケースが多いというのが、ビデオゲームのようなメディアにおいては一つの特徴となっている。一方で、TRPGや『キャットアンドチョコレート』のようなアナログの会話ゲームでは、捻ったユーモアのような、意味的にかなり複雑なものであってもゲームの要素として判定が可能である。行為の評価者が人間であることによって、はじめてそれは可能になっている[8]。
     下記に同じくまとめておく。
    ・観察困難:無秩序/ゲーム外の行為/不正・順序として観察:試合における想定外の発生→ルールの書き換え→想定外の発生→ルールの書き換え→…・可塑的な複層構造として観察:制度(慣習、ルール)―試合・ゲームプレイ・固定的な複層構造として観察:ゲームプログラム―試合・ゲームプレイ
     
  • 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第39回 第5章-5 ゲームを循環として再記述する|井上明人

    2024-08-27 21:00  

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。 
    ゲームに「飽き」ることや「上達」「特殊プレイ」開始の過程、あるいは対戦/協力プレイヤー同士のコミュニケーション、それらに共通する構造をモデル化し、ゲーム/遊びの体験の普遍性に迫ります。

    井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて
    5.5 ゲームを循環として再記述する
     さて、「循環」の概念を捉えるための道具立てとして四つの観察モデルが整ったところで、ようやく「循環」の概念がなぜゲーム全体を統合的に捉えるキー概念なのかを示したい。
     一言で言えば、ゲームを遊ぶというプロセスは、多様な循環プロセスであると言えるからだ。それゆえ、これまでの各章で議論してきた内容の多くを、循環プロセスとして再記述することが可能だという性質をもっている。
     ここまで示してきた四つの観察モデルを用いて、ゲームの循環プロセスが実際にどのような形であてはまるのかを示したいと思う。この作業を通して、遊び-ゲームに関わる様々な概念が相互にどのように関係しているのかの関係性を理解することができる。すなわち、どのように様々な概念が繋がっているのか、ということが「循環」の概念を通して理解ができる、ということだ。なお、下記で再記述する対象とする学習説のプロセスや、非日常、コミュニケーション等の話は、いずれも第三章で一度長めに言及した概念である。
    5.5.1 学習説のプロセスを循環モデルのバリエーションとして再記述する
     まず、改めて学習説的なプロセスを四つの観察モデルによって整理してみよう。
     本連載の中心的な論点の一つだった、ゲームの学習プロセスについて、そこで現れる様々な様態を四つの観察モデルによって、記述することができる。
     基本的には、ゲームを遊ぶことはプレイヤーの認知が可塑的に変化していくプロセスである。[1]ゲームの学習説を純粋に認知プロセスの説明として見直した場合は、可塑的な複層モデルとして観察される。ここまで説明してきたように、気ままにゲームを遊ぶプレイヤーの多くは遊ぶ目標も、その手段も、ゲームへの理解へのあり方も、遊ぶうちに徐々に更新されていく。
     その中でも、ゲームの学習の方策が固定的になったり、ゲームの上達の目標事態が固定的になるかどうかといった点については、ゲームプレイヤーによって異なり、可塑的な構造の中にも、変化を拒む構造が現れる。プロのゲームプレイヤーになろうという人は、どのようなゲームであれ、ゲームの大目標がある程度固定された形でゲームに向き合う態度を持つことになる。
     学習することとは飽きることと、上達が交互に繰り返し、循環するプロセスとして記述することができる。
     学習説が類似の行為の繰り返しから成り立つことは、学習説を論じる上での前提として提示してきた。学習説的な事態の中には、再帰的な反復によって、あるゲームに上達していくプロセスが含まれている。そして、また学習が止まったとき、そこには「飽き」が訪れやすくなるという前提にたっている。
     「飽き」たときに、上達プロセスそのものから降りてしまい、ゲームをやめてしまうこともあるが、飽きた後にいわゆる「やりこみ」のプロセスに入ることもある。そもそものルールを少し改変した状態でゲームをしてみたり、少し似た別のゲームを開始するといったプロセスはまさにこれだ。
     こういった「逸脱」は、「遊び」の領域における中核となる概念としてしばしば位置づけられる[2]。二次的現実からの逸脱(飽き)は、一次的現実からの逸脱(ふざけること、油を売ること)とは区別すべきものだが、前項で述べたように大きく「逸脱」という視点を設定したとき、両者は概ね似たようなものとされることが多い[3]。
     「逸脱」(≒遊び)は、一次的現実からの逸脱であるにせよ、二次的現実からの逸脱であるにせよ、繰り返しの習熟プロセスにいったんリセットをかけて、別の形でプロセスを再起動させるための契機として機能しうるものでもある。そのため、逸脱それ自体に循環的な側面はない。「それ以上、上達をしなくなったとき」にフォーカスの方向性を変えることで「新たな上達プロセス」を開始することができる。新しい領域に向かわせるような機能をもっている。
     そして、こうした様態は、逸脱行為(怠けてゲームをはじめる)→適応行為(ゲームに上達する)→逸脱行為(通常のゲームに飽きる)→適応行為(特殊ルールでのゲームプレイに上達)→…といった順序的プロセスとして適応と逸脱のプロセスを記述することができる。
     もちろん、遊びはじめたゲームの中で何をやればいいのかわからないという、「どうやってゲームを遊んだらよいのか、わからない」という状態も当然あるし、上記のゲームにハマって、ゲームに飽きて…とかいうプロセスの中で、今までやっていたことをやめるという状況は具体的に、次に何をやろうか、というような行為の焦点が構成されないことももちろんある。
     上達に向けてゲームプレイヤーが自己の身体を統御していくプロセスも、ゲームに飽きて逸脱をしていくプロセスも、いずれもゲームを遊ぶという行為の循環のうちの一側面としてここでは記述可能になる。適応と逸脱、シングルループとダブルループ、学習IIと学習IIIといった学習をめぐる様々な概念系を、いったんこの四つのモデルによって整理することができる。
     上記の議論を簡単にまとめておこう。・観察困難:(解釈が難しい逸脱)・順序として観察:逸脱行為(怠けてゲームをはじめる)→適応行為(ゲームに上達する)→逸脱行為(通常のゲームに飽きる)→適応行為(特殊ルールでのゲームプレイに上達)→…・可塑的な複層構造として観察:きままにゲームに上達するプロセス・固定的な複層構造として観察:(※大目標が固定されたケースとしては、プロプレイヤーなど)