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記事 30件
  • 中川大地 『ひぐらしのなく頃に』が到達したところ――「共同性」と「公共性」の相克の果てに(PLANETSアーカイブス)

    2019-08-30 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、中川大地さんによる『ひぐらしのなく頃に』論のお蔵出しです。のちの「カゲロウプロジェクト」や「ダンガンロンパ」シリーズ、『僕だけがいない街』など、10年代のヒットコンテンツにも大きな影響を与えたと言われる「ひぐらし」。当時としては珍しく、同人作品から出発しアニメ化など多数のメディアミックス展開も行なわれたこの作品のインパクトを改めて振り返ります。(初出:『パンドラvol.3』講談社BOX、2009年) ※本記事は2015年3月6日に配信された記事の再配信です。
    ■はじめに〜「放送中止騒動」から考える
     
     2007年9月、京都府京田辺市で16歳の少女が手斧で父親を殺害した事件の発生を機に、当時放映中だったアニメ版『ひぐらしのなく頃に解』に対し、作中の残酷な描写が事件を連想させることなどを理由に、いくつかの放送局で打ち切りや放送自粛の措置が執られた。これを受け、同時期のアニメ『School Days』の最終回放送中止と並んでそれなりに物議を醸したことは記憶に新しい。
     もちろん、そのこと自体はアニメやゲームに限らず、その時代時代のサブカルチャー表現が事あるたびに陥ってきた、凡庸なトラブルの一つでしかない。事件と『ひぐらし』に直接的な影響関係などないことが公判の経緯からも明らかであったのは案の定であったし、逆に「何か犯罪があればすぐアニメやゲームをスケープゴートにするマスコミの偏向報道」に憤り、自分たちの愛好ジャンルが置かれている不当な地位の低さを受動的に嘆くオタク側の論調も旧態依然としたもので、取り立てて新たな状況や議論の深まりをもたらすものでなかったことは、今となっては明らかである。
     というよりも、世間なんていうのは、そんなものだ。もし『ひぐらし』ファンとして、あの騒ぎでの作品の扱いに不当さを感じ、つい“公憤”めいたものを抱いてしまった人がいたとしたら、逆に自分が興味も利害関係もないローカルな領域の社会的事象について、いかに自分が無理解な「世間」の一部としてしか存在しえないかに思いを馳せてみたらいい。
     
     ただ、一見あまり幸福でないこの“接触事故”が逆説的に示しているのは、02年の夏コミでの原作ゲーム発売以来、基本的にはコアなオタク的感性の極致にあるところから始まり発展していった『ひぐらし』のメディアミックス展開が、見知らぬ世間のまなざしに出会えるだけの広がりの獲得に成功していたという事実だ。だからこそ、あの時点において、『ひぐらし』は一部ファンダムの島宇宙内で評価される狭い共同性の範囲を超え、「中高生への悪影響を懸念される」だけの資格を得はじめていたのだとも言える。
     つまり07年の騒動は、『ひぐらし』ムーブメントが、ある意味では社会的な責任を問われるまでの成熟を遂げた、ささやかなメルクマールとしてあったと思ってみるのも、一つの手だと思う。
     
     実際、騒動を受けたあるネットインタビューで、原作者の竜騎士07はこんなことを語っている。

    「自分たちの作品はメッセージがくどすぎる、メッセージ性が強すぎる、と言われることが多いんです。批評家の方々にも、「道徳の本じゃないんだから、価値観を強く押し付けるな」と怒られてきた。でも、今回のことで思ったのは、くどいと言われても自分なりのメッセージを書き切ってよかったと思います。京都の子がもし『ひぐらし』をプレイしてくれたら、今回の事件は起こす前に、それが正しい行為であるか考えてくれたのでないかと思うことがあります。」(『OhmyNews』07年11月9日記事「[ひぐらしのなく頃に解]放送中止騒動 竜騎士07さんインタビュー(中)」より)

     説教上等……!
     
     生真面目なこの原作者は、ゲームやアニメの立場の弱さを糾弾する前に、無理解・無関心な世間なり社会なりと本気で切り結ぶためには、たとえ批評家風情がいかに表現形式上の洗練のなさを厭おうと、メッセージの鮮明さこそが何よりの武器となることを確信しているのである。
     そしてその確信どおり、『解』の正味の作品性に鑑みて、アニメの放送を打ち切った局よりも、OP映像の一部差し替えなどによって放送を続けた局の方が多かった。そんなもう一面の事実に注視してみれば、受け手である私たち一人一人にとって、あの騒動の経験を、より有用なものとして捉え返せるのではないだろうか。
     
     たとえば、放映中止の憂き目に遭ったアニメ版『解』の第12〜13話といえば、「皆殺し編」中盤のクライマックス部分。つまり前原圭一たち主人公メンバーが過去の編で繰り返してきた短絡的な殺人の惨劇の過ちに自発的に気づき、仲間の北条沙都子を苛烈なDVから救い出すため、互いの相談と連帯によって、見事に社会的な勝利を勝ち取るくだりの直後である。具体的には、「部活メンバー」−「学校全体」−「雛見沢連合町会」と、順を追って協力者コミュニティの規模を拡大しながら、市の児童相談所に地道な陳情闘争を行っていくという展開だった。
     ここに立ち現れているのは、内輪の幸福を追求する「共同性の論理」が、その共感範囲の線引きを可能なかぎり外へ外へと拡げていくプロセスの果て、容易には共感しあえない他者と出会い、生存資源の配分を調停する「公共性の論理」に直面していくという主題性だ。
     そしてこの作中展開は、同人ゲームの小コミュニティから始まって漫画やアニメや実写映画と、空前のメディアミックス展開を遂げた果てに、まったく予期しなかった社会事件に直面することになった、このときの『ひぐらし』ムーブメントの成長過程そのものにも、重ね合わせることができるのだ。
     
     このような具合で、言葉で語られるメッセージに耳を傾けるだけが能ではない。『ひぐらし』というコンテンツには、作品面でも現象面でも、「共同性の論理」と「公共性の論理」の相克を、様々なレベルで見出すことができるのだ。さしあたりはそんなお題でもって、私たちの『ひぐらし』体験の諸相を、段階的に腑分けしていってみたいと思う。
     
    ■同人ノベルゲーム発の「メディア・シャッフル」展開
     
     まず、物語を載せる「器(メディア)」のレベルに焦点を当て、外堀を埋めておきたい。
     『ひぐらしのなく頃に』という物語作品は、同人制作によるパソコン用の「ノベルゲーム」と総称される種類のデジタルメディアで提供されるコンテンツとして、誕生した。
     改めて確認しておけば、ノベルゲームとは、小説形式で逐次的に表示されるテキストを、描写シークエンスに対応した登場キャラクターの絵や背景画、およびBGMや効果音といった視聴覚要素によって演出するというスタイルで、プレイヤーに物語を体験させるソフトの通称である(作品で力点の置かれる演出要素の違いによって「サウンドノベル」「ビジュアルノベル」等と呼称することもあり、『ひぐらし』の場合は「サウンドノベル」をジャンル名としている)。
     1990年代後半以降に発展したノベルゲームが歴史的に積み重ねてきたコンテンツ傾向として、タイプの異なる多数の美少女キャラクターそれぞれとの恋愛や交遊を疑似体験する「美少女ゲーム」の媒体に使われるケースがほとんどであった。つまり、目標とするヒロインを「攻略」するため、いかに正しい選択肢を選び続けて思惑通りのシナリオに進んでいくか、という試行錯誤の過程をゲームとして遊ぶわけである。そのため、基本的にプレイヤーは全ヒロインのシナリオ分岐を制覇すべく、何度も繰り返しプレイするのが、こうしたジャンルのソフトにおける当然の受容形態となっていったのである。
     さらに、プレイヤーによるこうした能動的な繰り返しの体験性に順応してきた00年代初頭になると、今度はその順応を逆手に取って、「世界が超越的な力によってループしている」ことを劇中の登場人物が自覚していることを示唆するメタフィクション的な描写を行ったり、あえて選択肢を排除することでプレイヤーに無力感を味わわせたりするようなトリッキーな作劇によって、ある種の前衛性を表現したかのようにみえる作品群が登場してきたのである。
     
     以上、少々クドいおさらいとなったが、『ひぐらし』もまた、こうした一連の流れの中に系譜づけられる一作であることは間違いない。「鬼隠し編」から「祭囃し編」までの全8話の連なりを通じて、昭和58年6月近辺の雛見沢世界が何度も繰り返されるという特異な趣向や、その要因となる古手梨花や羽入の存在は、特殊なノベルゲームの発展史抜きには、まず考えられなかった設定だ。つまり、この物語はメディア自体の性格がもたらすきわめて強力なコンテンツ干渉性と、そのユーザーコミュニティの強固な文脈依存性とが帰結した、「共同性の論理」の結晶のような産物と言えるのである。
     しかし『ひぐらし』が画期的だったのは、そうしたノベルゲーム的なリアリティへのリテラシーがなければ理解しがたい全体構造と物語の同一性はそのままに、個々の各編を別々の作家・版元から出版してみせた漫画版や、全編をシリアルに配列したアニメ版、そして実写映画版まで、表現特性の振れ幅が極端に広いメディアミックス展開を成功させたことだ。
     結果として、メディアとコミュニティの垣根によって従来きわめて狭いレンジでしか受容されることのなかったハイコンテクスチュアルなノベルゲーム的作劇が、ほぼ初めて一般エンターテインメントのフィールドに解放されるかたちとなった。
     そうした仕掛けが、最終的にどこまで受け入れられるのかは、各メディアでの展開がまだ途上である現在のところはまだ未知数だ。しかし、すでに従来のノベルゲームのユーザー層からすれば、世代や性別を越えたはるかに多様な文化トライブに属する人々が多様な入り口からファンとなり、裾野が広がっているのは間違いない。
     こうしたメディア・シャッフル状況は、もはや単なる「共同性の論理」の拡大の域を越え、幅広い受け手たちの間で『ひぐらし』の物語が「公共性の論理」として機能するような、横断的なインフラを提供しつつあるのではないだろうか。
     
    ■「ジャンルの転調」が実現する「真のゲーム的リアリズム」
     
     続いて、物語がまとう「様式(ジャンル)」のレベルに話を進めよう。
     『ひぐらし』原作のゲームジャンル名である「サウンドノベル」と銘打たれた初めてのゲームは、1992年チュンソフト発売の家庭用ゲームソフト『弟切草』である。先述の通り、やがてほとんど成人向け美少女ゲームの代名詞のようになっていく90年代後半以降のノベルゲーム全体の傾向とは異なり、この作品は基本的には万人向けのサスペンスホラーであった。しかし、「元祖」であるこの作品が特徴的だったのは、プレイヤーの選ぶ選択肢によって、描かれる物語のジャンル性格そのものが、推理ミステリーから心霊ホラー、スパイ冒険ものやスラップスティックコメディ等々、登場人物の設定から何から根こそぎ変わってしまうという、分裂症的なシナリオ分岐を持っていたことだ。分岐した物語相互に何の関連性もなければ、選択肢を選んだ後の物語の変化にも特に必然性や整合性はない。完成度の高い本格推理ホラーとしてヒットした次作『かまいたちの夜』等に比べて、黎明期ゆえの自由すぎる粗削りな作品だったと言うほかないだろう。
     
     筆者が思うに、本来はチュンソフトの登録商標である「サウンドノベル」の名を継承した『ひぐらし』の物語の転調スタイルは、どこかこの『弟切草』を彷彿とさせる、「面白ければ何でもアリ」な横紙破り的性格への“原点回帰”を果たしているような気もするのである。
     というのは、第4話までの出題編に対応して各編の物語を裏返していく後半の『解』のスタイルは、従来のミステリーという物語ジャンルの約束事を、大きく打ち破るものだったからだ。
     『解』の冒頭を飾る第5話「目明し編」こそ、出題にあたる第2話「綿流し編」の双子トリックを、犯人側の視点から見るかたちで真相を示していくという、ミステリー的にオーソドックスな「解答」の体を為していた。しかし、続く第6話「罪滅し編」以降の展開は、そうしたストレートな意味での「解答」の体裁を捨て、かわりにノベルゲーム的な「世界ループ」の設定と主題が立ち現れてくる。この点こそ、本作への賛否が大きく分かれるポイントになっているのは、周知の通りである。
     
     確かに、ミステリーという様式的な伝統の蓄積が、物語の構成性を高め、コアなミステリーファンだけでなく、多くの人々にとってもなじみやすいオープンなエンターテインメントの作法として定着している実績は見過ごせない。実際、メディアミックス化が進んでいる『ひぐらし』の前半パートは、そうしたミステリーとしての趣向性の高さに支えられて、大きな支持を得ているのは間違いないからだ。
     しかし、だからといってミステリーというジャンルの「大きな共同性」に沿った方が、ノベルゲーム的な世界ループ系の「小さな共同性」よりも普遍的で公共性に近づけるのかというと、事はそう単純ではない。稲葉振一郎が『モダンのクールダウン』において、近代フィクションにおける「(SFやミステリーなどの)ジャンル小説」と「純文学」の理念的な本質性を区別してみせたように、ジャンルの島宇宙の規模が大きかろうが小さかろうが、一定の様式や約束事への同調をはかるという意味で、共同性は共同性である。対して本来の文学の持つ公共性とは、あくまで異なる約束事同士の間を、メタレベルから関係づけることだ。特定の共同性がともすれば陥ってしまう排外性や暴力性に警鐘を鳴らし、その共同性の外部にある他者への共感の芽を担保することこそが、その役目である。
     
     そう考えれば、『解』の展開がミステリーの縛りを捨てて、世界ループものや青春もの、そして明朗な冒険活劇へと、次々とジャンルを転調していったこともまた、明らかだ。ジャンル小説的手法であろうが自然主義的リアリズムであろうが、ひとつの物語ジャンルを採用するとき、それは必ず描写リアリティの性格を規定し、描きうるテーマやストーリーの拘束条件となり、特定の共同性に回収される慣性を帯びてしまうのが、ポストモダン時代のフィクションの宿命である。
     だからこそ、描くべきテーマが優先されるものとしてあるとき、『弟切草』という原点の時点で萌芽的に示しされていた、複数のジャンルを並列化できるノベルゲームのメディア特性が威力を発揮する。すなわち、単にプレイの繰り返しで世界をループさせられるというだけでなく、同一パッケージの作品世界に対して、異なるジャンル的リアリティをもつ複数のシナリオで重層的にアプローチすることで、現実のもつ多面性や全体性を体感させる手法が採りうること。
     余談になるが、この特性こそ、東浩紀が想定した概念よりもさらにベーシックで一般性の高い、真の「ゲーム的リアリズム」と名づけられるべきものではないだろうか。90年代後半以降の美少女ゲームしか見なかった東の場合、あくまで閉塞したループ世界にプレイヤーの立場を重ね合わせるセカイ系的な感傷(=「感情のメタ物語的詐術」)という特殊な事例にのみ、この概念を限定してしまっていた。しかし、ゲーム史的な観測点のスパンを遡ることで、「リアリズム」と呼称すべき文学的性質がよりハッキリするかたちで概念をアップデートできるのではないかと、もののついでに提案しておきたい。
     
     ともあれ、個々のジャンルの共同性に限定されないメタな立場から、現実なるものの多面性を感得することこそ、すなわち公共性にほかならない。サウンドノベルの忘れられていた原初的性格に則るかたちで、『ひぐらし』というコンテンツがジャンル転調的な作劇手法を採用していたこともまた、本作が「公共性の論理」を志向してゆく諸相の一面であるのは、まぎれもないことではないかと思う。
     
    ■「雛見沢症候群」は「ミステリー」を内破する
     
     『ひぐらし』が進めた「様式」破壊の意味を、もうすこし詳しく掘り下げてみたい。
     『ひぐらし』が昭和58年の雛見沢村という、祟りへの信仰の残る村落共同体の舞台設定を採用し、凄惨な猟奇殺人事件をめぐるストーリーを展開しているのは、横溝正史に代表される田舎の前近代的な共同体の因習や怨念を犯罪の背景に用いた、典型的な日本ミステリーの類型の踏襲にほかならない。
     こうした、戦後の高度経済系長期に確立された横溝ミステリーの王道は、奇異な前近代的風習や、超自然的な祟りの実在を示唆する言い伝えなどによって一見おどろおどろしく殺人事件がカモフラージュされているものの、最終的にはあくまでも動機を持った人間による現実的なトリックとして推理され、すべての謎が解かれるというのがお約束だ。ここから、ミステリーという物語様式の批評的な意味での本質を敷衍すれば、犯罪という前近代的な不条理に対し、近代主義的・人間主義的な理性に基づく論理的な推理によって立ち向かい、屈服するという形式だと定義することができる。つまり、基本的には「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的なかたちで、前近代的な共同体社会の迷妄や抑圧性を否定し、人々を啓蒙主義的な理性に基づく近代社会の公共価値に馴致させるためのイデオロギー装置としての骨格を持っている。
     ただし、犯罪トリックや犯罪者の描き方によっては、逆に近代合理主義の暴走を、時代に取り残されたマイノリティの側から告発する作品が紡がれる場合もある。笠井潔などの立場によれば、もともとミステリーやSFといったジャンル小説の批評的な存在意義は、突き詰めれば「公共性」を僭称する無自覚な「共同性」でしかない近代の「裸の王様」ぶりを相対化し、自然主義的リアリズムの閉塞を打ち破りうる点にあるとされている。要は古典的な近代−反近代という対立軸のスキームを提示できるフォーマットだということだ。
     
     だが、こうしたミステリーという表現形式が、近代主義の理想を掲げたり、逆にその暴力性を衝いたりするビビッドな機能を保っていたのは、まだ日本各地に田舎の古い共同体社会のリアリティが残っていた、せいぜい1980年代くらいまでのことだろう(だからこそ、『ひぐらし』の舞台は、昭和58年に設定されている)。そうした現実の前近代の圧力がなくなり、古典的な近代主義の理想がもはや理想たりえなくなったポストモダン社会たる現在では、もはやミステリーは愛好者たちの島宇宙内で“ネタ”として安全に消費されるバロックとしてしか存在しえないのだ。
     そうした認識に立ったとき、物語を真に受け手の現実に届くものとして機能させようとするなら、ミステリー的な約束事の遵守などは、もはや二の次の問題ではないだろうか。
     
     その意味では、『ひぐらし』の物語の前半の惨劇の原因となる「雛見沢症候群」という、人間の内面的な狂気を描く猟奇ミステリーの醍醐味を台無しにしてしまうSFめいた“反則設定”の導入にさえ、ジャンルのお約束を内破する積極的な意義を見出すことが可能かもしれない。 
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  • 本日20:00から放送!オールフリー高田馬場 2019.8.29

    2019-08-29 07:30  
    本日20:00からは、オールフリー高田馬場

    今夜20時から「オールフリー高田馬場」生放送です! 「オールフリー高田馬場」は、既存メディアや世間のしがらみにとらわれず、 政治、社会からカルチャー、ライフスタイルまで、 魅惑の週替わりナビゲーターとともに あらゆる話題をしゃべり倒す〈完全自由〉の解放区です! 今夜の放送もお見逃しなく!
    ★★今夜のラインナップ★★impulse buy「トミカ製 トヨタ ジャパンタクシー 東京2020 オリンピック・パラリンピック」週替りナビゲーターコーナー「制作への雑談」2回目の登場となるナビゲーター・上妻世海さんが、日々の随想を深く掘り下げていくエッセイ・トーク。この夏、モンゴルの人類学調査に同行して新たな異文化接触を重ねた上妻さんによる珠玉の“雑談”に、乞うご期待!and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日8月29日(木)20
  • 脚本家・井上敏樹エッセイ 男と××× 第51回「男と食 22」【毎月末配信】

    2019-08-29 07:00  
    550pt

    平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。子供の頃は食が細かった敏樹先生ですが、数少ない好物のひとつがトウモロコシでした。母が茹でたトウモロコシを食べながら登校していた敏樹少年の、初恋をめぐる思い出を語ります。
    男 と 食  22      井上敏樹 
    小学生の頃、クシャミをしたら鼻からトウモロコシが飛び出した。と、いうわけで今回はトウモロコシの話である。今でこそ食い道楽を自認している私だが、子供の頃はどちらかと言えば食べる事が嫌いだった。出来る事なら食べるという行為をせずに生きていきたいと思っていた。これは、食事を残してはならないと言う昔ながらの親の教育の影響が大きい。一粒の米も残してはいけない、お百姓さんが一生懸命作ったのだからという、例のあれである。こうなると、食事が苦痛な儀式になってしまう。本当なら、出される範囲で食事を楽しみなさい、無理に食べる事はないんだよ、というのが正しい教育だと思うが、そんな鷹揚な親はなかなかいない。私も鷹揚でない母親の教育の犠牲者だったわけだが、それでも好きな食べ物がいくつかあって、そのうちのひとつがトウモロコシだった。私の子供の頃の思い出で、トウモロコシの味は、最も鮮烈な美味の記憶として残っている。
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  • 御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記 第29回 過激化する香港デモの真実

    2019-08-28 07:00  
    550pt

    香港の社会運動家・周庭(アグネス・チョウ)さんの連載『御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記』。長期化しつつある香港の騒乱。日本のテレビでも過激なシーンが流れていますが、それは香港人の一面にすぎないといいます。(翻訳:伯川星矢)
    今この瞬間(2019年8月18日)、わたしはビクトリアパークで行われるデモに参加しようとしています。
    これは6月以降、何度目になるかわからないデモです。実際に6月から毎週の土曜日と日曜日、そしてたまに平日に、わたしたちは「5点要求」[1]を求めて、デモや集会を行っています。8月5日、私たちは返還後最大級のジェネラルストライキを成功させ、35万人が7つの地区でストライキと集会を行いました。
    ▲香港国際空港での集会の様子
    しかし、今日に至っても、政府は香港人の訴えを無視しています。
    多くの日本人にこう聞かれます、香港のデモは過激化したのか?暴力化したのか? 確かに、テレビニュースの放送は、必ずもっとも「ジューシー」な画面を選んで放送しています。それによって香港デモが過激化したのではないかと感じられるのかもしれません。でも、みなさんには「過激化」と結論付ける前に、なぜ香港デモがここまでになってしまったのかを、ぜひ理解して欲しいです。
    ▲ストライキの記者会見
    前回の連載でも話しましたが、香港人はここ数ヶ月、あらゆる平和的手段を使い尽くしています。署名収集、新聞広告掲載、合法デモ集会、ストライキなどなど。わたしたちも最初から急進的な方法で抗議活動をしていたわけではありません。だが、権力者はいかなる平和的手段にも動じない以上、わたしたちもそれ相応な対応を考えねばなりません。
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  • 今夜20:00から生放送!最上和子×宇野常寛「映像は身体を表現し得るか ──ドーム映像『HIRUKO』をめぐって」2019.8.27/PLANETS the BLUEPRINT

    2019-08-27 07:30  
    今夜20時から生放送!「PLANETS the BLUEPRINT」では、 毎回ゲストをお招きして、1つのイシューについて複合的な角度から議論し、 未来の青写真を一緒に作り上げていきます。 今回のゲストは、舞踏家の最上和子さん。身体の内奥からの表現を追求する「原初舞踏」の担い手であり、アニメーション監督の押井守さんの実姉としても知られる最上さんは、現在公開中のドーム映像作品「HIRUKO」で主演を務めています。同作が試みる舞踏表現と映像メディアの融合のほか、最上さんが取り組んできた様々な活動の来歴を通して、現代を生きる私たちの「身体観」の問題を深く議論していきます。 ▼放送日時放送日時:本日8月27日(火)20:00〜☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者最上和子(原初舞踏家) 宇野常寛(評論家 / 批評誌「PLANETS」編集長) ファシリテーター:長谷川リョー(編集者 / 株式会社モメン
  • 近藤那央 ネオアニマ 第3回 ネオアニマがいる日常

    2019-08-27 07:00  
    550pt

    ロボットクリエイターの近藤那央さんが、新しいロボットのかたち「ネオアニマ」が実現する社会について考察する連載「ネオアニマ」。第3回は、都市におけるネオアニマとの生活をシミュレーションしていきます。もしも朝起きて、ネオアニマが隣にいたら、果たしてどんな一日になるでしょうか?
    第2回では、都市に代表されるような現代社会においては、人がたくさんいて、便利な機械が自分たちの生活を楽にしているのにもかかわらず、市民は孤独を感じているという問題を指摘したうえで、人間にとって便利なことはしないが自律的に“いきもの”らしく振舞っているネオアニマがいることで、無機質な都市、現代社会に自然と暖かさを持ち込めるのではないか……という話をしました。
    そこで、今回は私が今「ネオアニマ」について具体的に構想しているいくつかのアイディアを、イラストや写真とともに説明していきたいと思います。多くの話が今日の技術レベルでは実現できないものではありますが、こういった未来の話を想像するときは、あえて現実の枠を外してSF的に考えてみることが重要だと思っています。実際ネオアニマの製作では、最初はなるべく自由に考え、後からそれを実現するために主に技術の点でどのようにするか考えるようにしています。こうすることで、従来のロボット像にとらわれないネオアニマという存在を作る事ができると考えています。
    ネオアニマがいる日常
    ではまず、ネオアニマがいる世界を朝起きてから順に想像してみましょう。私のベッドには様々な人形がいて、みんなスヤスヤ一緒に寝ていますが、実はその人形たちはネオアニマです。私は寝起きが悪いので、おそらく彼らが私の顔の上に乗るでもして起こしてくれるでしょう。柔らかなクラゲのようなカサをつけた寝室のライトもネオアニマ で、カサの形を自在に変えることで、光量や光の方向を決めていたら面白いです。徐々に朝日が登るように、だんだんと明かりがゆらゆらとついてくるのも心地よいかもしれません。

    リビングに出ると、様々な姿形のネオアニマがまだ寝ていたり、起きてじゃれ合っていたりします。彼らは別に、寝ている間に家事をしてくれているわけではありませんが、そこにいるだけで、複数のいきものとの豊かな生活が感じられるはずです。
    前庭の道端に夜道を照らすため置いてあるライトは、ただのライトと思いきや、うにゅうにゅと動くネオアニマ 。顔や手はなく、ナマコやウミウシのような容貌です。夜に誰かが通るときは、協力して道を照らしたり、ウェーブのような光のうごきをつくってくれたりしたら、こちらが勝手に感情移入してしまうでしょう。

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  • 長谷川リョー 考えるを考える 第18回「世界最難関」のミネルバ大学にパスした初の日本人、片山晴菜が見据える新しい「教育」

    2019-08-26 07:00  
    550pt

    編集者・ライターの長谷川リョーが、(ある情報を持っている)専門家ではなく深く思考をしている人々に話を伺っていくシリーズ『考えるを考える』。今回インタビューするのは、合格率わずか1.9%、世界最難関と言われているミネルバ大学に、日本人として初めて合格した片山晴菜さん。同大学の生徒は、4年間で世界7都市を移動し、オンラインで授業を受けながら、各地で地元の公共団体やNPO、企業と連携して社会課題の解決に取り組みます。 スタートアップライクに「教育を再定義」するミネルバ大学とは、一体どのような場所なのでしょうか。アメリカでも異例の手厚い選考プロセスを経て、ディスカッション重視の「反転学習」で学び、日常的に“生殖の未来”を議論する一方、都市探索で過去と対話するユニークなキャンパスライフ。片山さんが構想する、“超エリート”と地方を架橋し、「想像力の格差」を解消する新しい「高校」の全容から、正義が乱立するサンフランシスコで身につけた、「目の前にあるものを、目に見える形で見ない」思考法まで迫ります。(構成:小池真幸)
    ディスカッション重視の教育を、属人性を排したかたちで。ミネルバ大学で実施される「反転学習」とは?
    長谷川 まずは、ミネルバ大学について聞かせてください。世界7都市を移動しながら、オンラインで授業を受けているんですよね?キャンパスのない大学、ということでしょうか。
    片山 はい。一応サンフランシスコに本拠地はありますが、ミーティングルームしかない、ただのオフィスです。
    片山 移動先の都市での、行動スケジュールも組まれています。今後グローバル化が進み、ますます世界が狭くなっていくなかで、さまざまな人たちと共同生活をしていかなければいけなくなるはず。そうした環境変化を背景に、「どうせキャンパスにいる必要がないのであれば、みんなで一緒に動いてください」と、他の文化に接する機会を持たせてくれているんです。
    長谷川 オンラインの授業は、どういったスタイルで行われているのですか?MOOCのようなイメージでしょうか。
    片山 「反転授業」という形式を取っています。事前に資料や課題を読み込んできたうえで、授業の最初に理解度を確認する記述式のテストを実施します。そのテストで一定の結果を残せなければ、出席とみなされないんです。
    授業のメインはディスカッションです。成績評価のためのテストがないので、議論で良い発言をしないと、平常点がもらえません。授業が行われるオンラインプラットフォームには、先生たちのファシリテーションをアシストしてくれる機能もあります。時間を見て「ディスカッションを一回やめて次に行きましょう」とナビゲートしてくれたり、生徒の発言量などが表示されたりするんです。たとえば発言量が少ない生徒には赤い枠が、多い生徒には緑の枠が映ります。
    長谷川 知識の習得は授業前に済ませ、授業ではディスカッションに集中しているんですね。ファシリテーションがシステム化されている点も面白い。
    片山 全体的に「属人化した教えにしない」思想で運営されており、授業の流れも、あらかじめ定められています。もちろん個々の教師の経験則はシェアされるべきですが、だからといって、教育の質に差が出てしまうと困るので。
    授業後は毎回、先生たちがそれぞれの生徒にフィードバックをコメントしなければいけないのですが、その評価も属人化しないように。個々のスキルに対する判断基準がしっかりと定められています。
    長谷川 先生はどういった人たちなのでしょう?一般的な大学と同じように、博士課程を取っている方が多いのでしょうか。
    片山 そうですね、多い印象はあります。先生方は、現在も教育に従事している方と、そうでない方がいらっしゃいます。前者はスタンフォード大学など他の学校でも教えている研究職または教授職の方、後者は現役の経営者やNGO運営者、または以前教育機関に従事していた方が多いです。どちらかといえば、前者の現役研究職または教授職の方が多い印象がありますね。
    アメリカでも異例、3フェーズの手厚い選考プロセス。徹底した公平性の担保と、「全世界70〜80ヶ国」の多様性
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  • 【チャンネル会員割引あります!】9/11(水)開催!伊藤和真×音喜多駿×隅屋輝佳×宇野常寛×たかまつなな (それでも)情報技術で「政治」を変えるには ☆号外☆

    2019-08-24 13:00  

    チャンネル会員向けのお得な会員割引価格をご用意しております!ぜひご参加ください!
    渋谷から新しい文化を発信することをテーマに様々なトークショーを開催している「渋谷セカンドステージ」。9月11日(水)開催の最新回は「情報技術と政治」がテーマです!
    投票率の低迷やポピュリズムの台頭など、政治的な課題がますます山積しているように見えるこの頃。 これに対して、テクノロジーは、有権者と政治の関わり方をどうアップデートできるのでしょうか?
    実際に第一線で活躍する政治家の方や、社会起業家の方たちを迎えて議論します。
    PLANETSチャンネル会員向けの特別割引も実施中!
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    ▼イベント概要 Hikarie +PLANETS 渋谷セカンドステージ vol.22 (それでも)情報技術で「政治」を変えるには
    ▼出演者(敬称略) 伊藤和真(株式会社PoliPoli 代表取締役社長)音喜多
  • 『火花』“解像度”を上げて現実に対抗するフィクション――メガヒット小説映像化にNetflixが選ばれた理由(成馬零一×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)

    2019-08-23 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、『火花』をめぐる成馬零一さんと宇野常寛の対談をお届けします。地上波ではなくNetflixで映像化されたピース・又吉直樹による小説『火花』。脂の乗った映画監督たちを起用して作られたこのドラマが、Netflixオリジナル作品だからできたこと、そして、現在のテレビが置かれている状況について語りました。(構成:橋本倫史/初出:「サイゾー」2016年9月号) ※この記事は2016年10月12日に配信された記事の再配信です。
    成馬 小説『火花』がベストセラーになったときは、「お笑い芸人が書いた小説が芥川賞を受賞した」という話題が先行していて、内容面にまで話が及んでいなかった印象がありました。実際、小説ではわかりにくい部分があったのですが、ドラマ版を観ていると、『火花』が描いていたことがなんだったのか、よくわかります。
     全10話で、1話につき1年分くらいの時間経過で描かれるじゃないですか。舞台は2001年から10年頃で、つまりこれってゼロ年代の青春ドラマなんだな、と。微妙な懐かしさがありました。基本的には徳永(太歩)と神谷(才蔵)という2人の若手芸人の話で、彼らはゼロ年代以降のお笑いブームの中で、そこで生まれたルールに則ったゲームを戦わされている大勢の芸人のうちのひとりにすぎないんだ、という小説ではわかりにくかったことが、ドラマ版ではよくわかる。
     神谷は、もしかしたら松本人志になれたかもしれなかった天才型の芸人だったけど、ゼロ年代以降、キャラクター文化がお笑いに流入したことで、芸人の生き残り手段が「面白いキャラをどう演じるか」という勝負になってしまって、芸人を作家として捉える文化が総崩れしてしまった。『M-1グランプリ』のようなコンテストがその比重を高めていく中で、神谷のような芸人がどうなっていくのか、というのがドラマの基本になっていたと思う。
     もしゼロ年代にこの作品が作られていたら、神谷が最後に死んで、残された徳永が思い切りキャラを押し出して売れて成功する、という終わり方になっていたと思うんですよ。でも、そこで終わらずに、それよりも少し先まで描かれるのが面白かった。そこに多分、又吉が芥川賞を獲ったことと、この作品がNetflixで作られたことの意味が透けて見えるんじゃないかな、と思います。
    宇野 原作の小説については僕は、特に興味はないんですよね。ただ、このドラマ版はなかなか面白かった。どこが面白いかというといろいろあるんだけれど、原作の処理で言うと、この小説家デビューによってマルチタレントへと舵を切った又吉が無意識のうちに書いてしまっているところを拾って再解釈することで、ぐっと射程が長くなったと思う。
     徳永=又吉は、芥川賞を獲ったことで究極のキャラ芸人の道を歩み始めたと思うんだよね。ピースのコントは誰も知らないけど、又吉の文芸キャラだけは世間に伝わっていて、芸人として生き残れなくても文化人として生き残るであろうことは、ほぼ確定している。又吉は賢い人間だから、そんなことは百も承知でやっているはずで、「生存戦略として、これを受け入れたんだな」と思った。これって実は、フィクションより現実に起こっていることのほうが面白いという、インターネット以降に世界中で起こっていることを示すひとつの大きな例なんだよね。つまりNetflixは、小説『火花』の存在を凌駕して面白くなってしまっている“又吉現象”と戦わなければいけなかった。そこでどういう戦い方をするのかな、と思ったら、1話60分×10話という長尺を活かして、ほんのわずかなエピソードもめちゃくちゃ時間をかけて描くことで、ひたすら解像度を上げるという勝負に出た。
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  • 池田明季哉 マンガの国のアリスと二匹のウサギ――大英博物館マンガ展レポート

    2019-08-22 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、池田明季哉さんによる大英博物館マンガ展レポートをお届けします。伝統ある大英博物館で初めて開催されたマンガの大規模展覧会。賛否がある中で、日本のマンガ文化はどのように紹介されたのか。現地の展示の様子を報告しながら、そのキュレーションの意図を読み解きます。
     こんにちは。デザイナー/ライターの池田明季哉です。現在ゆえあってイギリスに在住しており、大英博物館で行われたマンガ展に足を運んだので、レポートをお届けしたいと思います。  この特別展「The Citi Exhibition Manga」[1]は、日本国外で開催されたものでは最大級のマンガ展であり、大英博物館という権威あるミュージアムで行われたことで大きな話題を集めました。とはいえ、この展覧会が賛否両論を呼んでいることも事実です。  たとえばイギリスの大手新聞「The Guardian」のウェブサイトには、この展覧会に対する痛烈な批判が掲載されています。この記事では印象派などにも大きな影響を与えた伝統的な日本美術を高く評価しつつ、以下のように述べています。
    この展覧会は大英博物館のもっとも大きな展示室を使用している。これはエジプトの巨大彫像や、アッシリア宮殿の禍々しい栄華のために作られた場所だ。そんな場所を、コミックで埋めることなどできるだろうか? 結局できはしないのだ。泡が飛び散った絵が描かれたページが壁にぽつんとあって、ディスプレイボードがただただマンガを見せていて、爆発のシーンが垂れ幕みたいに下がっている。単調で、馬鹿げている。[2](引用者訳)
     いっぽう、同じくThe Guardianにはこの展覧会を擁護する(より穏当なトーンの)記事も掲載されており、このように書かれています。
    もし大英博物館が歴史に捧げられた公的施設だというのなら、マンガはこれから歴史となっていく過程にある、由緒あるメディアなのだろう。[3](引用者訳)
     このふたつの発言は対立していますが、結局はひとつの質問への異なる回答です。それは「マンガというカルチャーは、果たして大英博物館という権威あるミュージアムにふさわしいのか?」という問いです。  実際、筆者も同じ問いを胸に展覧会に向かいました。もちろんひとりのマンガファンとしてマンガ文化を愛していますし、今回の展示を喜ばしく光栄なことだとも思っていましたが、どう考えても避けて通れない上記の問いにキュレーターはどう答えたのか、ということは、大変大きな疑問でした。  そこで本稿では、レポートとして展示の全体をまず紹介し、それから振り返って、キュレーションの意図について分析してみようと思います。
    ムンクの『叫び』と並ぶアシㇼパ
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