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  • 京都アニメーション 2ストロークのリズム(後編)|石岡良治

    2024-02-29 07:00  

    今回のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「京都アニメーション」論をお届けします。現代アニメシーンとの直接的な接続を見出せるであろう、2010年代の京アニ作品を歴史的にどのように位置付けるべきか。「けいおん!」や「Free!」シリーズ、『氷菓』などをメルクマールとして、ゼロ年代的感性の転換を経た現代アニメ史の一つの系譜をたどります。 (初出:2023年9月29日放送「石岡良治の最強伝説 vol.66 京都アニメーション作品」、構成:徳田要太)前編はこちら:京都アニメーション 2ストロークのリズム|石岡良治
    バンドアニメとしての『けいおん!』から考える時代性
     『けいおん!』についてもう少しコメントすると、これも『CLANNAD』と同じく「2ストローク」のリズムで2シーズンの物語を描いた作品です。個人的にはテンポの良さからして1期のほうが好みではありますが。
     正直当時は『けいおん!』を「バンドアニメ」としては見ていませんでした。いま聞くとサントラのクオリティがとても高いと思うんですが、当時は「いや、これはロックバンドのアニメではないのでは?」と難癖を付けていたタイプですね。2022年の『ぼっち・ざ・ろっく!』との違いは何かというと、『ぼざろ』の楽曲が邦ロックとして完成度が低いなどと言っている人はごく少数派だということです。これはフレームが逆転したと思います。むしろ当時は『けいおん!』の楽曲が「ロックとしてすごい」と言うほうが難易度の高い批評行為だったと思います。
     『映画けいおん!』(2011)はロンドンに行くエピソードで当時は大丈夫かと心配したんですが、しっかりリアリティラインを保っていましたね。裕福な家庭で育った女子高生がフェスで大成功を収めるとかそこまでの達成ではなく、ちょっとした日本にかんするフェスでライブをしたという、あり得る程度の描写に収まっています。ただ、ここはやはり現在とは時代が違っているところもあって、いま『けいおん!』を放送したら貧困キャラがいないことを理由に嫌われていた可能性もあると思います。『ぼざろ』には廣井きくりという風呂なしアパートのお姉さんキャラがいますし、『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』でも主要キャラに貧困キャラがいないと思いきや、まさかの超貧困キャラの存在が最終回で明らかになりますからね。日本のアニメはそこまで変わってしまいました。今だったらいわゆる「きらら系」を含めて、一人くらいは貧困キャラがいないとリアリティーがないと言われてしまう時代だと思うので、隔世の感がありますね。
     このテーマをどこまで遡れるかというと、恐らく『きまぐれオレンジ☆ロード』(1984〜)くらいからでしょう。同作の主要キャラが住んでいるマンションは80年代で言うゴージャスマンションで、いま見ると少し古い、いわゆるバブルマンションです。ちょうどあれぐらいから貧困キャラが減っていって、つまり80年代後半ごろから続いた世界観が、とうとう2010年代に終わったということですね。
     そう考えると『中二病』と『氷菓』(2012)には生活感があると思います。なお『氷菓』のエンディングでは少女キャラのフェチ表現が盛り込まれていて、これが一部視聴者からの顰蹙を買っていました。つまり『ふもっふ』から『AIR』のノリで、男性オタクノリの身体フェチ表現を「エンディングだからサービスしてもいいよね」と思って実践してみたら作風に合わないと判断されたわけです。これは結構重要なことだと思います。実はこれこそが私の現代アニメに対するモチベーションで、2010年代ぐらいから男性向けの女性身体表現、つまり覗き見アングルとボディーパーツ強調表現の扱いが変わっていって、その「終わりの始まり」が『氷菓』に見出せるわけです。
    フロンティアとしてのアニメ表現
     『Free!』にもさらに触れておこうと思いますが、私は凛といういわゆる「ギザ歯」キャラがお気に入りです。なぜギザ歯キャラを好むかというと、恐らく歯列矯正をしいてない人のアレゴリーだからでしょうね。凛は違いますが、かなりの確率で貧乏キャラなんですね。
     『劇場版 Free!-the Final Stroke-』(2021、2022)のネタバレを含みますが、これは終盤のオーストラリアのシーンがポイントです。現地の踏切で電車が通り過ぎたとき、主人公の遥と凛が線路を挟んで向き合うんですね。そして遥と凛がメインカップルのようでいて、必ずそこに真琴が割り込むという構図を最後まで徹底していました。遥が「受け」となっているようでいながらその他のキャラたちを攻略する(ここは解釈がわかれるところですが)、ある種のハーレムラブコメの様相を呈しています。
     作中にはスウェーデン出身のアルベルトという、世界記録保持者が登場し遥と対決するわけですが、この辺りのリアリティラインの保ち方は巧みだと思います。つまり遥は個人種目の100m自由型では敗北するんだけれども、100m×4の団体リレーでのタイムではアルベルトを超えるわけですね。ギリギリファンタジーとして成り立つところに落とし込んでいます。
     『Free!』は長く続いているシリーズなだけあって、京アニ作品では意外と独自の立ち位置を示していると思います。一見するとひたすら上半身裸のメンズたちをサービスし続けるだけの作品に見えるかもしれませんが、私は実はこの作品には出崎統イズム、あるいは梶原一騎イズムとでも言うべき思想が宿っていると思います。つまり『巨人の星』『エースをねらえ!』のようなスポコンものの王道です。昭和期には「世界最強が日本人ではない競技で日本人の天才がどこまでやれるのか」という問題に挑んだ作品がいくつかあって、梶原一騎はその典型でしょう。ところが現代では、大谷翔平や藤井聡太などフィクションのリアリティーラインが書き変わるレベルの競技者が登場しているので、遥の活躍は現実的に許容できる範囲に収まっています。そう考えると『Free!』は実はしっかりスポーツものの作品として作られていたことがわかります。
     また2023年に第2期が始まった『ツルネ』では、女性が嫌悪感を抱かずに済む、それでいてイリーガル感がありそうでない絶妙なラインに落とし込んだ、小学生少女と高校生によるカップリング要素を堂々と展開しています。一度最盛期を極めたアニメスタジオは安定して緩やかに老舗となっていく道をたどると思うんですが、私はこれらの要素はどちらも現在のアニメに求められている表現としては十分フロンティアだと思っています。
    通過儀礼からの超越
     さて、冒頭で紹介した「通過儀礼」および『現代アニメ「超」講義』で論じた彼岸への超越の断念、「川を渡ること」「カップルが同じ方向を見つめているけれど違うものを見ている」という主題は次のようなことに関係しています。
     
  • 京都アニメーション 2ストロークのリズム|石岡良治

    2024-02-27 07:00  

    今回のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「京都アニメーション」論をお届けします。『CLANNAD -クラナド-』をはじめとするゼロ年代の代表作で確立された制作スタイルは、どのように現代まで継承されているのか。近年話題を集めている『響け!ユーフォニアム』最新シリーズ以降の展望も交えつつ、元請スタジオとしてアニメ史に名を刻んだ「京アニ」の約20年間を振り返ります。 (初出:2023年9月29日放送「石岡良治の最強伝説 vol.66 京都アニメーション作品」、構成:徳田要太)
     「京都アニメーション 2ストロークのリズム」というテーマで京アニ作品について分析しようと思います。「2ストロークのリズム」が何かは後述しますが、シンプルに言うと『CLANNAD -クラナド-』(2007〜)と、続編にあたる『CLANNAD 〜AFTER STORY〜』(2008〜)のように、シリーズの第1期終了から少し期間を空けてから続編を展開するパターンをモデルにすることができます。最近の作品では「ツルネ」シリーズもそれにあたります。
     今回はファン・ヘネップ『通過儀礼』(岩波文庫、2012)での論をもとに分析していきます。京都アニメーションの青春もの、たとえば『MUNTOシリーズ』では、あるヤンキーカップルが川を渡り切ったあとで周りのキャラクターたちが拍手するシーンがあるわけですが、ああいうのはまさに通過儀礼ですよね。
     このテーマは青春ものでは重要ですし、それに加えて私は宮崎駿アニメを「ゆきて帰りし物語」としてプロット化するよくみられる慣習も実際には通過儀礼の言い換えだと思っています。儀礼というのは簡単に言うと祭りのことで、まず一般社会から分離して何かイベントを行う。その後もう一度社会に戻ってくるということで、これがいわゆる「ゆきて帰りし物語」ですね。ポイントは「PASSAGE」という言葉で、和訳すると「通過」「通路」といった意味になります。ヴァルター・ベンヤミンの「パサージュ論」の「パサージュ」はアーケード商店街の原型のような場所ですが、、近代における消費の場としての通路の重要性を説いています。これはあらゆる成長モデルを、事実上の通過儀礼モデルとしてみなすことが可能だということです。しかしポイントは「何でも『成熟』でいいのか?」という問題で、この辺りはやはり改めて捉え直してみる価値があると思います。「青春もの」に対して「テンプレ的ないい話」とみなして嫌いな人は一定数いますよね。なぜ嫌うかというと、おそらくは通過儀礼の3区分(分離、過渡、統合)のうちの「統合」に回収されてしまうからでしょう。
     これを典型的に示している京アニ作品といえば『中二病でも恋がしたい!』(2014)、とりわけ主人公の小鳥遊六花です。彼女は『マビノギオン』などのウェールズ神話を読みまくるような世界に閉じこもっていたところから、恋をすることで(一般社会への統合を経て)成熟したわけですよね。その落とし所が「教育的」にみえるのは否めないかもしれません。
     また、逆に「統合が欺瞞である」と主張したい場合には、「終わりなき過渡期」というものに直面する必要があると思います。こうした問題は、子ども向け作品にとどまらないとはいえどこかで「成長」が問われるアニメを語るときには、必ず問われてしまうものだと思っています。
    2023年時点での京アニへの展望
     それでは具体的な作品について、現時点での最新作『特別編 響け!ユーフォニアム アンサンブルコンテスト』(2023)から話を始めようと思います。この作品は京アニにとって良いきっかけになったのではないでしょうか。というのは、同時期に放送されていてわたしをはじめとした一部のアニメファンの話題をかっさらった作品に『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』(2023)があります。こちらのシリーズ構成・脚本を務めた綾菜ゆにこと、『ユーフォ』の原作者・武田綾乃との対談があります(「アニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」綾奈ゆにこ×武田綾乃対談」)が、ここで興味深いのが、武田が『ユーフォニアム』の番外編『飛び立つ君の背を見上げる』では「尖ったことをやっている」と明言していることです。私はこの対談の勢いに乗って、京アニが『飛び立つ君の背を見上げる』をアニメ化すべきではないかとすら思っています。この対談では二人とも「百合」について熱く語っていますが、言うなれば「ドロドロ展開の百合もの」は勢いを増しているように思われるジャンルなので期待しています。京アニの今後の一つのフロンティアとして強く推していきたいところですね。
     もう一つ、2023年6月にKAエスマ文庫に動きがありました。賀藤招二の『MOON FIGHTERS!』と吉田玲子『草原の輝き』が秋頃に同時に発売されるようです。これが何の布石かというと、一時期は停滞していたエスマ文庫からの京アニメディアミックスに動きがあるということです。両方かどうかはわからないとはいえ、どちらかはアニメになるのではないでしょうか。
     正直ここ数年の京アニ作品は、続編と完結編が大半だったと思うんですが、ここにきて新作のアニメ化の可能性が浮上しています。とくに2024年に放映される『ユーフォニアム』の3年生編が終わった後に、いろいろ動きがあるのではないかと思っています。
     それと、『バジャのスタジオ』『バジャのスタジオ〜バジャの見た海〜』二部作についても触れておこうと思います。センシティブな話題になりますが、これは三好一朗(木上益治)が監督を務め、今はなき京アニの第1スタジオに捧げられた作品です。2019年以降NHKで放映されているので、第1スタジオの追悼となってるうえに木上益治の遺作にもなっています。この作品は『MUNTOシリーズ』と並び、この時期、具体的に言うと2019年までの京都アニメーションというのは結局木上益治によって成立していたことを示すベンチマーク的作品でしょう。木上益治はアニメーターとしても名高く、たとえば『AKIRA』(1988)において、金田が下水道に侵入するシーンや、『CLANNAD』の「風子参上」、『日常』(2011)の「校長 VS 鹿」などが有名です。こうしたクオリティの高い作画は大体彼がやっていましたし、京都アニメーションが納期をしっかり守るスタジオで、かつ安定した原画マンもたくさんいたというのは、要するに彼が育成の天才でもあったということですよね。
    「通過儀礼」としての『CLANNAD -クラナド-』
     
  • 第十章 絶滅――小説の破壊的プログラム|福嶋亮大(後編)

    2024-02-20 07:00  

    6、倒錯的な量的世界――スウィフト『ガリヴァー旅行記』
    『ロビンソン・クルーソー』への自己批評と呼ぶべき『ペスト』からほどなくして、一七二六年にスウィフトの『ガリヴァー旅行記』の初版が刊行される。この奇怪な旅行小説は、一八世紀の初期グローバリゼーションを背景として、人間の可変性や可塑性を誇張的に示した。
    イングランドの政治を批判する一方、故郷のアイルランドをも罵倒した非妥協的な著述家らしく、スウィフトはまさにルカーチ流の故郷喪失者としてガリヴァーを描き出した。海に出ることを「運命」と感じて、医者として船に乗り込んだガリヴァーは、何度も冒険と漂流を繰り返し、そのつど新たな国家に接触しては、ヨーロッパとは異質の文化的習慣を「ありのまま」に記録しようとする。そこには、人間はいかようにも変化し得る動物だというスウィフトのクールでシニカルな認識があった。
    周知のように、ガリヴァーは第一部では小人国リリパットに漂着し、自身の十二分の一サイズの王侯貴族に歓待されるが、第二部では大人国ブロブディンナグで、十二倍の巨人に小さな玩具のように扱われる。第三部では、飛行島ラピュタ(ラプータ)から日本の長崎に到る多くの土地が登場した後に、第四部では奇怪な「馬の国」が舞台となる。そこでは「フウイヌム」と呼ばれる理性的な馬たちが特定の支配者をもたず「集会」によって政治を進める一方、人間は下等な「ヤフー」として使役されている。馬の国にすっかり魅せられたガリヴァーは、ヤフーの皮(!)でカヌーを製造して帰国し、妻子と再会した後も、人間の体臭に耐えられず馬たちと暮らす。
    人間の象徴的な優位性をさまざまな手口で失墜させること――それが『ガリヴァー旅行記』を貫く明晰な悪意である。それは究極的には、ジェノサイドの構想にまで到るだろう[26]。馬の国のフウイヌムは理性の命令に従って、人口を完璧にコントロールする一方、醜悪で悪辣きわまりないヤフーを地上から絶滅(exterminate)させるべきか否かを議論する(第四部第九章)。ちょうどデフォーの『ペスト』と同じく、スウィフトの馬の国でも固有名は蒸発し、生物は操作可能な量に還元される。『1984』の著者ジョージ・オーウェルは『ガリヴァー旅行記』の第三部に相互監視的な警察国家のモデルを認める一方、第四部の「馬の国」を順応主義がすみずみまで行き渡った全体主義体制の予告編と見なし、ヤフーをナチス・ドイツ統治下のユダヤ人になぞらえたが[27]、それもあながち突飛な解釈ではない。
    そもそも、『ガリヴァー旅行記』は子供向けにも思える前半から、すでに人間の量的操作を実行していた。『ペスト』や『ソドムの百二十日』がいわばエクセルのように犠牲者の数値的データを記録したとすれば、『ガリヴァー旅行記』はいわばフォトショップのように図像のサイズを伸縮させた。リリパットでは人間と動植物の「比率(proportion)」が正確に決められている(第一部第六章)。ブロブディンナグでは万物のサイズが大きくなった結果、その図像の解像度も変わり、シラミが異様に拡大され、女性の皮膚の気味悪くでこぼこした様子がクロースアップされるのだ(第二部第五章)。
    かつて批評家の花田清輝が鋭く指摘したように、『ガリヴァー旅行記』の認識と論理は「量的把握という一事につきる」。ガリヴァーの旅行は「量的変化をみちびきだすための力学的位置変化」であり、そこには「人間の質のみを強調するルネッサンス以来の人間主義にたいする批判」が含まれる[28]。この比率の操作された量的世界においては、シラミや皮膚のような平凡なものが平凡なままで吐き気や嫌悪感を催させる[29]――それがフォトショップ的な比率変更の効果なのだ。スウィフトはある意味ではデフォーやサド以上に徹底した悪意によって、倒錯的な量的世界を描き出した。
    さらに、第三部では、テクノロジーの進歩への夢が批評される。天然磁石の力で飛ぶラピュタの住民は、数学と音楽に熱中して周囲を顧みず、ガリヴァーの存在には無関心である。この冷淡なラピュタを去ってバルニバーニの首都ラガードに赴いたガリヴァーは、さまざまな新規プロジェクトを推進するグランド・アカデミーを見学する。そこで「思弁的学問」の自動化を企てる教授は、まるで二一世紀の生成AIの研究者のように「どれほど無知な人間でも、費用も手ごろ、多少の肉体労働を行なうだけで、天賦の才や勉強の助けをいっさい借りずに、科学、詩、政治、法律、数学、神学に関する書物を著すことができるのです」と豪語し、百科全書を自動生成する機械を披露する。

    表の面には、おおよそ骰子の大きさの――ただし一部はもう少し大きい――木片が並び、細い針金でたがいにつながっています。どの木片も、すべての面に紙が貼られ、それらの紙に、この国の言語の全単語が書いてあります。あらゆる時制、語形変化、直接法や仮定法等々すべての叙法も網羅していますが、ただし順番はバラバラになっています。[30]

    この木片の並んだ装置を弟子たちが回転させると、そのつど新たな文が出力される。単語を網羅的にデータ化し、その膨大な順列組みあわせを試して、あらゆる分野の書物を自動生成する機械――それはAIの夢を先取りするものだろう。
    この教授をはじめ、ラガードの学者たちは人間の労力を減らすための「進歩」に駆り立てられているが、それをスウィフトは諷刺的に描いている。オーウェルが注目したように、第三篇で描かれるプロジェクトが、言語の全体主義的なコントロールに通じることは確かだろう。『ガリヴァー旅行記』では、人間のみならず言語も量的なものであり、いかようにでも操作され変形される。
    その後、ガリヴァーは降霊術を用いるグラブダドリッブ島で、偉人の亡霊(ホメロス、アリストテレス、デカルト……)に出くわした後、ラグナグ島で「ストラルドブラグ」と呼ばれる不死の人間たちを目撃するが、彼らは老醜をさらけ出し、身体も思考能力もむざんに衰え切っている。死ぬに死ねない不気味なゾンビのような不死人間たちは、長寿のおぞましさをその全身で表現していた。『ガリヴァー旅行記』において、ポストヒューマンな人工知能と不死の身体は、ときに滑稽で、ときにグロテスクなものとして描き出される。
    すでに『ガリヴァー旅行記』に先立って、ライプニッツとニュートンが近代科学の礎を築いていた。スウィフトの驚くべき先進性は、この科学の欲望の帰結――人工知能からアンチエイジングまで――を見通し、諷刺の対象にしたことにある。後にゲーテが『ファウスト』で描いたように、近代の知的冒険はいずれ、人間の枠組みを超越したポストヒューマンな存在を生成するだろう。世界の量的操作をアカデミックな「プロジェクト」に仕立てた『ガリヴァー旅行記』の第三部は、この超越の運動が希望のない世界に到ることを暗示していた。
    こうして、『ガリヴァー旅行記』の読者は馬の国で悪辣なヤフーに出会う前に、身体・知能・言語が可塑的なものであり、いかようにでも作り変えられるというクールでシニカルな認識を何度も突きつけられる(この人間の可塑性を全体主義的支配の前提と見なしたのが、後のオーウェルの『1984』である)。人間の象徴的な優位性をしつこく転覆するスウィフト的な教育――その極限に、ヤフー=人間を物理的に「絶滅」させようとする忌まわしい議論が現れるのだ。
     
  • 第十章 絶滅――小説の破壊的プログラム|福嶋亮大(前編)

    2024-02-16 07:00  

    1、冒険の形式、絶滅の形式
    小説をそれ以前のジャンルと区別する特性は何か。この単純だが難しい問いに対して、ハンガリーの批評家ジェルジ・ルカーチは『小説の理論』(一九二〇年)で一つの明快な答えを与えた。彼の考えでは、小説とは「先験的な故郷喪失の形式」であり、寄る辺ない故郷喪失者である主人公は「冒険」を宿命づけられている。

    小説は冒険の形式であり、内面性の固有価の形式である。小説の内容は、自らを知るために着物を脱いで裸になる心情の物語であり、冒険を求めて、それによって試練を受け、それによって自らの力を確かめながら、自らの固有の本質性を発見しようとする心情の物語である。[1]

    ルカーチによれば、近代小説の主人公は「神に見捨てられた世界」でさまざまな試練をくぐり抜けながら、固有の魂を探し求める存在である。今でも多くの小説は、欠損を抱えた主人公の冒険の物語として書かれる。揺るぎない根拠を喪失し、世界とのギャップ(疎隔)を抱えた「ホームレス・マインド」(社会学者ピーター・バーガーの表現)が、冒険によって固有の何かを獲得したり、あるいは獲得し損ねたりする――このような精神の運動が小説というジャンルには刻印されている。
    ゆえに、近代小説は安定した意味の宇宙をあてにできない。ルカーチが言うように、神に見捨てられ、世界との「疎遠さ」を宿命づけられた小説的冒険は「絶対的に解消されない不協和」を内包している。いかなる「生」も世界とぴたりと意味的に一致することはない。この本質的なギャップゆえに、ルカーチの言う「冒険の形式」はセルバンテスの『ドン・キホーテ』以降、デモーニッシュな狂気と不可分であった[2]。絶対的な根拠=故郷をもたないまま、自己を脱ぎ捨てて冒険に乗り出す試みは、それ自体が狂気じみたエネルギーを要求したのだ。
    精神的なホームをもたない小説の主人公は、自己の魂の探究と再創造という冒険に向かう――ルカーチがこの仕組みを理論的に明示したことの価値は揺るぎない。ただ、彼の力点はあくまで冒険者の「生」(主観)の側にあり、冒険のなされる「世界」の様相については深く考察されなかった。第一次大戦とロシア革命という大事件の後、祖国ハンガリーからの亡命直後にルカーチが刊行した『小説の理論』は、確かに「世界の崩壊とその不完全さ」や「世界構造の脆弱性」に言及するものの[3]、この黙示録的なテーマはあくまで理論の周縁に留め置かれた。
    この弱点を修正するために、私は冒険の形式の裏面に、もう一つの別の形式を想定したい。それを今「絶滅の形式」と呼ぼう。その前駆的形態はやはりセルバンテスの作品に認められる。
    アルジェでの捕虜生活から解放された帰還兵セルバンテスは、『ドン・キホーテ』で名声を得る以前の一五八〇年代に、紀元前二世紀のスペインを舞台とする歴史劇の傑作『ヌマンシアの包囲』を書いた。小スキピオ率いるローマ軍に包囲されたスペインの都市ヌマンシアは、飢餓と病気が蔓延し、すでに勝利の見込みをなくしている。そのとき、占領の恥辱を受けることを潔しとしないヌマンシア人は、すべての財産を燃やし、家を焼き払い、街の全員を自ら殺戮し、統治者も自ら火中に身を投じることを決断した。その結果、スキピオ将軍の部下の報告によれば「ヌマンシアは赤い血の湖と化し、みずからの苛酷な決断によって殺された無数の死骸に埋まっています。彼らは恐怖をかなぐり捨て、迅速な大胆さを発揮して、他に類を見ないほど重くも辛い隷属の鎖から逃れることができたのです」[4]。
    これはまさに自分自身に対して行使されたジェノサイドである。後の『ドン・キホーテ』は汲めども尽きぬ旺盛な語りの力によって、幻想の解体と再生産を推し進めた。逆に、古代ギリシア演劇にも通じる風格をもつ『ヌマンシアの包囲』は、そのようなアイロニカルな「語り」そのものを殲滅する過酷な暴力性を前景化する。ヌマンシア人の迅速にして徹底した自己破壊は、ローマ軍の勝利すら空虚な敗北に変えてしまう。「ヌマンシア人は、みずからの敗北から勝利を引き出しました。驚嘆すべき意志と志操の固さを発揮して、将軍の手から勝利を奪い去ったのです」[5]。つまり、この作品の根幹には、都市の絶滅だけが解放=勝利につながるという恐ろしい逆説がある。
    この勝利と敗北の反転は、後の『ドン・キホーテ』では狂気とユーモアによって遂行される。ラマンチャの憂い顔の騎士は、語りによって事象を引き延ばしながら、外見的にはみじめな敗北を勝利として解釈する。他方、戯曲『ヌマンシアの包囲』のジェノサイドは、一切の遅延や躊躇なしに、既定のプログラムとして粛々と実行された。『ドン・キホーテ』が近代小説の祖だとしたら、『ヌマンシアの包囲』で作動する自己破壊のプログラム(フロイトふうに言えば「死の欲動」)は、近代小説に先立つおぞましい原風景と呼べるものである。セルバンテスにおいて、冒険と絶滅はコインの裏表の関係にあった。