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記事 3件
  • 10年目の東北道を、走る|宇野常寛(後編)

    2023-03-21 07:00  

    あの日から10年が過ぎた夏、僕(宇野)は石巻と気仙沼に暮らす二人の知人を訪ねることにした。その中で歩いた仙台、閖上、女川、そして陸前高田。10年後のいま、これらの土地を走ることではじめて見えるものたちとは。いまだ「復興」が続く土地で闘い続けるヒーローたちとの旅の記録。前編はこちら。(初出:『モノノメ 創刊号』(PLANETS,2021))
    10年目の東北道を、走る|宇野常寛(後編)
    石巻のヒーローたち

     石巻は、10年前に僕が歩いた被災地の一つだった。石ノ森章太郎の生家に近く、少年時代の石ノ森は文化の香りを求めて郷里の山村から本屋と映画館のある石巻に通い詰めていたという。このような特別な関係から、石ノ森の愛したこの国の「萬画(石ノ森はマンガという文化の多様化と成熟を理由に、この字を充てていた)」の歴史と精神を伝える美術館が、この街に建てられている。僕が10年前にこの街を訪れた理由の一つが、この石ノ森章太郎と石巻の関係にあった。僕は当時石ノ森が生んだヒーロー──特に仮面ライダー──についての批評を書いていた。震災が起きて、津波が石巻を襲って、たくさんの人が死んだ。この街には石ノ森が生んだヒーローたちの像が街のあちらこちらに立っていたのだけど、その大半がこのとき一度流された。しかしそれでも、ある仮面ライダーの像が奇跡的に残っていた。僕はそのことをある新聞記事で目にして、この街に足を運んでみようと思ったのだ。この手の扇情的な記事に心を動かされたというよりは、その記事に添えられた写真の風景──廃墟に立つ仮面ライダー──を目にしてみたい、という不謹慎な動機が僕を動かしたのだ。  そのときのことを、僕は鮮明に覚えている。僕は友人とタクシーをチャーターして、まだ瓦礫も撤去されていない石巻の街を見て歩いた。そのとき、タクシーの運転手──当時50代半ばに見えた男性──は、津波で壊滅した市街地を案内しながらこう言った。「このあたりは、津波が来る前からダメだったんだ」と。そこは地方都市にありがちなシャッターの下りた、さびれた商店街だった。そこに津波が押し寄せてきてすでに経済的に、文化的に死んでいた街を物理的にも殺したのだ。  あれから10年──「復興」したはずの石巻の街は、やはりさびれていた。あの津波から生き残ったであろう、レトロモダンな店舗兼住宅の大半にシャッターが下りていた。何のために、この街は復興したのだろうか、と僕は思った。この街に来る途中で、僕たちはおそらくは人間が居住するには相応しくないと判断されたであろう沿岸の地区を高台から見下ろしていた。そこは近代建築の白と公園の緑に塗り分けられ、無菌室を思わせるクリーンで、そして無機質な明るさに満ちていた。それは古い漁師町にはお世辞にも似合うものではなかった。しかしこれがこの10年で、この街の人たちが(少なくとも民主主義の建前としては「選んだ」)復興の姿だった。人が住むのは難しいと判断した土地には無菌室のような公園を新造し、そして津波が来る前からさびれきっていた商店街をそのまま復興する。それがこの街の10年だったのだと僕は思った。そしてそんな2021年の石巻の街を、石ノ森章太郎の生み出したヒーローたちが見守っていた。

     石巻の駅の前には大きなビルがある。もともとそこは震災の10年以上前にできたデパートだった。街の外側の資本が強引に、地元の商店街の反対を押し切って進出したものだった。そして、デパートと商店街は共倒れになった。そもそも衰退していた商店街はデパートに客足を奪われてとどめを刺され、そしてデパートもまた想定した利益を上げることができずに撤退した。気がつけば、石巻の商業の中心は少し離れた場所にあるイオンのメガモールに移動していた。デパートは罪滅ぼしのように、店舗ビルを寄付して去っていった。石巻市は市役所機能をそのビルに移したが、1階に何のテナントも入ることなく、「空き家」状態が2年以上続いた。それを見かねたイオンが、半ば土地への救いの手として温情的に入居した。こうして、石巻は駅前にイオンと一体化した市役所が立つ街になった。そしていま、その入り口を仮面ライダーV3が仁王立ちで守っている。仮面ライダーは、ある意味においてまだ廃墟の上に立っていた。


    必要なのは「復興」ではない
     そして、僕たちはそのさびれたものをそのまま復興した商店街の中のある場所を訪れていた。「IRORI 石巻」と名付けられたそこは、「石巻2・0」と名付けられた運動の拠点だ。この旅の目的の一つが、この10年間、この運動を主導してきた人物──松村豪太さん──に会うことだった。
     
  • 10年目の東北道を、走る|宇野常寛(前編)

    2023-03-14 07:00  

    あの日から10年が過ぎた夏、僕(宇野)は石巻と気仙沼に暮らす二人の知人を訪ねることにした。その中で歩いた仙台、閖上、女川、そして陸前高田。10年後のいま、これらの土地を走ることではじめて見えるものたちとは。土地と人間の関係について改めて考える旅の記録。(初出:『モノノメ 創刊号』(PLANETS,2021))
    10年目の東北道を、走る|宇野常寛(前編)
    10年目の、旅のはじまり

     2021年の夏がはじまろうとしていたある日、僕は編集部のスタッフたちと東北地方へ旅立った。より具体的には、あの地震と津波で被災したいくつかの土地に向けて出発した。10年の時間が過ぎて、3月11日の節目が終わって、復興予算も削られて、復興を旗印に誘致されたはずのオリンピックからはいつの間にか復興という主題が消し去られてしまって、あらゆる意味で忘れられようとしている土地を、僕たちは訪ねることにしたのだ。  僕たちの旅は、最終的には二人の人物に会うことを目的にしていた。一人は、僕の高校の先輩にあたる人物で、もう一人は個人的に参加している研究会で知り合った人物だった。そしてどちらも、民間に生きる市民の立場から津波の被害を受けた地元の街の復興に携わっていた。僕は彼らの話を、彼らが暮らす街に身体を運んだ上で率直に聞いてみたい。そう考えたのだ。  そして僕は地図を広げて、二人の暮らす石巻と気仙沼を中心にその周辺に足を伸ばす計画を立てた。旅に出る前に最初に決めたことがある。それは「いい話」とか、「ひどい話」を探しに行くことは絶対にしない、ということだ。ただその土地を歩いて、目にして、耳にして、触れたものを淡々と記録すること。その上で、その意味を考えることをこの旅のルールにした。  そして結論から述べると、僕たちが触れた東北の街は、山は、海は、とても美しかった。両親ともに東北(青森と山形)の生まれで、自分も八戸で生まれている僕は夏の東北──と言っても、あの広大な地域のひとつひとつの土地はそれぞれまったく違う顔を持っていて、僕が知っているのはそのうちいくつかに過ぎないのだけど──が、とても気持ちのいい場所であることを経験している。しかし、そこに展開されていた人間の世界は、人間同士のネットワークは閉じていて、ねじれていて、不必要に絡まっていて、その結果としてその土地に暮らす多くの人々と、その土地との関係もひどくゆがんでしまっている。そう、僕は改めて感じた。  ここに載せた写真は僕たちが目にした土地の姿をそのまま写し取ったもので、そして僕の文章はその土地の姿を直視できない、どこかでゆがんでしまった人間の世界のことを記述したものだ。カメラのレンズと人間の目、このふたつの視界の間にある落差を、感じてもらえたらと思う。そして、このふたつの視界をどう結び直すかを、一緒に考えてもらえたらと思う。
    荒浜と閖上──異界の海と空

     僕たちが最初に訪れたのは、仙台市の郊外の荒浜だった。震災前、ここは夏に海水浴客で賑わう場所だった。およそ800世帯、2100人ほどが住んでいた集落は、10年前の津波でほぼ完全に流され、約1割にあたる186人が死亡した。集落は復興されず、住民は内陸に移住し、海水浴場も閉鎖されたままだ。避難場所として多くの住民の生命を救った荒浜小学校は廃校となり、その校舎の遺構を中心とした公園開発が進行している……ということだったが、実際に足を運んだ僕たちが目にしたものは端的に述べれば廃墟、だった。いや、それは廃墟ですらないだろう。すべては10年前に流されてしまって、そしてその流された跡は最低限の地ならしがされただけで(計画はあるのかもしれないが)放置されていた。そこにあったのは、ただただ広い空と、砂浜と、そしてその砂浜から続く平坦な荒れ地だった。仙台は市街地を抜けるとすぐ田園が広がっているのだけれど、その水田が海に近づくと麦畑になり、そしてある地点からこの放置された荒れ地になる。その先に、このかつて海水浴場だった砂浜が広がっている。砂浜には名前の知らない雑草が密集していて、それらが黄色い穂をつけて揺らいでいる。圧倒的な空白がそこにあって、それを松たちが見守っている。10年前の津波で、不自然にある地点から下の枝を失って、歪んだ松たちだ。自然のもたらした不自然な空白。明るい異界。人間の世界と地続きなのだけれど、切り離された土地。明らかにそこは、僕たちの生活世界とは異なる論理で記述された場所だった。僕はそこを歩きながら考えた。もし自分がこの土地に暮らしていて、中学生か高校生くらいの年齢だったらときどき、自転車に乗って一人でここを訪れて本を読んで過ごしていただろう、と。そして、この異界は誰か意図して作り上げたものではない。ただ、自然がそうしただけのものを、人間の知恵と力が追いつかなくて放置していた結果そうなっているだけだった。

     僕たちはその足で名取市の閖上(ゆりあげ)という土地へ向かった。ここもあの津波で集落がほぼ丸ごと流されて、跡形もなくなっていた場所だった。犠牲者は700人以上に達した。僕たちは復興のアイコンとなった「かわまちテラス閖上」と名付けられた、土地の食材を扱う店舗を中心としたショッピングモールを見学した。そこは、たぶんありったけの祈りと、被災をバネにこの土地をもっと豊かで、気持ちのいい場所にしたいという前向きな願いがぎゅっと詰まったような、細部までしっかりデザインされた空間と建物だった。しかしコロナ禍の影響か人影はまばらで、印象的なのはその周囲の、荒浜と同じように事実上放棄された荒れ地のほうだった。  そこには、大量の消波ブロックが並べて保管してある場所や、整地だけされて何年も放置されているであろう雑草の目立つ場所が点在していた。人間たちはこの土地に暮らすことを諦めていた。そして暮らす代わりに、何かを作ろうとはしているようだった。しかし、10年経ってもそれがかたちにはなっていなかった。流されたあとに、何を作ってよいかわからない。そのことが、この国が直面している貧しさのすべてを表しすぎているように僕には思えた。

     僕たちは荒れ地を抜けて、近くの大きなイオンモールに入って、スターバックスのラテとユニクロでセール中だった春物のアウターで冷えた身体を温めた。その日は夕方が近くなると、海風は一気に冷たくなって、僕たちの手足の筋肉はすっかり固くなっていた。荒れ地の中に設けられた広い道路を走ると、「津波ここまで」と書かれた標識があって、そしてそこを通り過ぎて少し走ると見慣れた風景が──ロードサイドに大型の量販店が立ち並ぶ、あのどの地方にも見られる変わり映えのしない風景──が広がっていた。しかしその見慣れた景色が、疲れた僕の身体には少し優しく映った。
     
  • 「紙の雑誌」を続けることで、「ゆっくり」考える場を守りたい。──宇野常寛責任編集・雑誌『モノノメ #2』クラファン実施中です

    2022-01-31 08:00  
    ただいまPLANETSでは、今春の刊行を目指して雑誌『モノノメ #2』クラウドファンディングを実施しています。
    「検索では届かない」をコンセプトに昨年創刊した『モノノメ』、第2号も創刊号に引けを取らない内容の濃さを目指して制作に励んでおります。
    第2号は「身体」についての特集をはじめ、「観光しない京都」のすすめや「水曜日は働かない」提案、映画『ドライブ・マイ・カー』に関する濱口竜介監督・佐渡島庸平さんとの鼎談、東京・小金井にある就労支援施設「ムジナの庭」への取材記事、47都道府県再編計画などの企画や、前号から続く連載など、盛りだくさんでお届けします。
    ぜひご支援のほど、よろしくお願い致します。
    目次・プロジェクト詳細はこちら。■編集長・宇野常寛より
    改めて問います。いまの報道は、批評は、おもしろいでしょうか? それは果たして、考える場として機能しているでしょうか?  僕にはそうは思えません