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[特別無料公開]『知られざるコンピューターの思想史』第7章 アメリカにとって大学とは何か〜アメリカにおける大学観の変遷|小山虎
2022-07-19 07:00
本日のメルマガは、書籍化が決定した連載「知られざるコンピューターの思想史」より、連載時から加筆修正を加えて一部を無料公開します。現代のコンピューター科学発展の礎を築いた20世紀のアメリカ哲学。その土壌となった「オーストリア的」な知がどのようにアメリカで花開いていったのかを追う本書の第2部、冒頭の第7章を無料公開します。
※PLANETS公式オンラインストアでは、限定特典として著者である小山虎さんが本書のポイントを解説するオンライン講義「100分de(本書のポイントがわかることで、ぐっと読みやすくなる)『知られざるコンピューターの思想史』」に無料でご招待します。ご購入はこちら。
『知られざるコンピューターの思想史』第7章 アメリカにとって大学とは何か〜アメリカにおける大学観の変遷|小山虎
コンピューターの歴史にその名を刻むENIACが開発されたのはペンシルベニア大学である。現在の視点か -
[特別無料公開]『知られざるコンピューターの思想史』第6章 理想主義、観念論、そしてヘーゲル〜19 世紀のアメリカ哲学|小山虎
2022-07-11 07:00
本日のメルマガは、書籍化が決定した連載「知られざるコンピューターの思想史」より、連載時から加筆修正を加えて一部を無料公開します。フォン・ノイマンをはじめとする「オーストリア的」な知がコンピューターサイエンスの礎を築いた過程を追う本書。第2部「アメリカ編」の冒頭に当たる本章からは、「オーストリア的」哲学者たちがアメリカへ移民し、独自の知的風土を築いていく過程を明らかにします。
※PLANETS公式オンラインストアでは、限定特典として著者である小山虎さんが本書のポイントを解説するオンライン講義「100分de(本書のポイントがわかることで、ぐっと読みやすくなる)『知られざるコンピューターの思想史』」に無料でご招待します。ご購入はこちら。
『知られざるコンピューターの思想史』第6章 理想主義、観念論、そしてヘーゲル〜19 世紀のアメリカ哲学|小山虎
1 コンピューター・サイエンスを生み出したア -
[特別無料公開]『知られざるコンピューターの思想史』序章 フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと一枚の写真|小山虎
2022-06-21 07:00
本日のメルマガは、書籍化が決定した連載「知られざるコンピューターの思想史」より、連載時から大幅に加筆修正を加えた序章を全文無料公開します。フォン・ノイマンやゲーデル、タルスキら現代のコンピューターサイエンスの礎を築いた偉人たちの「知られざる」系譜を追う本書。序章では、ノイマン・ゲーデル・タルスキ3人が集ったとある学術会議から、コンピューターと思想史の重なりを明らかにします。
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『知られざるコンピューターの思想史』序章 フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと一枚の写真|小山虎
1 1946年、プリンストン
一枚の写真がある。194 -
ウィーンからニュージャージーへ〜分析哲学へと向かうアメリカ哲学の道のり|小山虎
2022-01-05 07:00550pt
明けましておめでとうございます。今年もPLANETSをよろしくお願いいたします。新年最初の配信は、分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第19回。ついに最終回となる今回は、1984年に米ラトガース大学で開催されたアメリカ哲学の重要会議「デイヴィドソン会議」の背景をめぐり、そこに流れ着いたドイツやオーストリアの知のバトンがどのように受け継がれてきたのかを辿ります。なぜアメリカが今日のコンピューター技術の隆盛をもたらす地となったのか、1枚の写真から始まった道のりを振り返りながら、連載を締めくくります。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第19回 ウィーンからニュージャージーへ〜分析哲学へと向かうアメリカ哲学の道のり
1984年、アメリカ・ニュージャージー州
一枚の写真がある。1984年4月にアメリカ・ニュージャージー州のラトガースという大学で開催された「デイヴィドソン会議(The Davidson Conference)」という哲学の会議での、参加者たちの記念撮影だ。 この会議は当時の哲学の会議としてはかなりの規模のものであり、4日間にわたって開催され、参加者500名以上にもおよんだ。また、参加者の中には、ソ連など共産圏から参加した姿もあった──共産圏の国々は1984年7月、つまり、デイヴィドソン会議の3ヶ月後に開催されたロサンゼルス・オリンピックをボイコットしていることを思えば、なんとも奇妙な光景のように思える。 会議名の「デイヴィドソン」とは、本連載第17回の最後で登場した哲学者ドナルド・デイヴィドソンのことだ。スタンフォード大学哲学科が1953年に実施したスタンフォード価値理論プロジェクトに、当時はまだ無名だったデイヴィドソンが参加していた。それから30年後、デイヴィドソンの名前は全米どころか海外にまで知られるようになり、彼の名が冠された会議にこれだけの人が集まるようになったのだ。 この「デイヴィドソン会議」は、その規模もあいまって、分析哲学がアメリカ哲学の中心となったことの象徴とも言われている。本連載の締めくくりとして、デイヴィドソン会議の背景を、これまでの連載を踏まえて語りたいと思う。
▲ラトガース大学に飾られているデイヴィドソン会議の参加者記念撮影(著者撮影)。詳しくは、ラトガース大学のウェブサイト参照。
19世紀のアメリカ哲学を支配していたのは、ドイツ移民たちがもたらしたヘーゲル主義の観念論あるいは理想主義──すなわち、アイデアリズム(idealism)だった。アメリカを代表する思想であるプラグマティズムもまた、出自はアイデアリズムにあり、それを根本から否定するものではなかったのだ(本連載第8回)。 しかし、20世紀に入ると、それに真っ向から対立する哲学が台頭してくる。実在論あるいは現実主義──すなわち、リアリズム(realism)だ。そしてその背景にあったのは、アメリカの大学のドイツ化であり、それに伴う科学の急速な発展だ。もはや哲学ですら、科学という巨大な現実を無視することはできない。いや、むしろ積極的に取り込んでいかねばならない。プラグマティズムを代表する哲学者の一人ジョン・デューイは、かくして「科学的哲学」、すなわち哲学の科学化を訴えた。 このようなリアリズム哲学の中心地となったのが、ニューヨークだった。もともとオランダ領だったニューヨークは宗教的にも寛容で、ユダヤ人も多く住んでいた。また、貧しい移民でも入学できるニューヨーク市立大学が設立されたこともあり、1930年代に入る頃には、ニューヨークはアメリカ科学哲学の中心地となっていたのだ。その中心となっていたのは、コーエンやネーゲル、フックといった、オーストリアや東欧からのユダヤ系移民だった(第11回)。 しかし、こうしたリアリズム哲学がアメリカ全土に広まったというわけではなかった。ハーバード大学はプラグマティズムの牙城であり続けていたし、イェール大学やカリフォルニア大学バークレー校では、アメリカン・アイデアリズムの伝統が守り続けられていた。そもそも、MITやスタンフォード大学のような現在では世界をリードしている大学は、当時はまだ、ようやく大学院を設置したばかりという状況だった(第16回、第17回)。アメリカ全土を見てみれば、聖職者育成のために設立された「カレッジ」の雰囲気を残したままの大学が数多く残っており、そのような大学に所属する哲学者に期待されていたのは、同時代のヨーロッパで行われていたような最先端の研究ではなく、昔ながらの教育をすることだった。 フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3名、そして彼らと深く関わっていたウィーンの科学哲学者たちがオーストリアからアメリカへと渡ってきた時のアメリカ哲学は、このような状況だったのだ。
オーストリア移民をアメリカでも苦しめたユダヤ人差別
アメリカに渡る前のフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキはみな、大学で安定した職に就くのに苦労していた。フォン・ノイマンはベルリン大学で教えていたものの、十分な報酬を得てはおらず、またユダヤ人であるフォン・ノイマンが右傾化するドイツで安定した職に就く見込みは低かった。ゲーデルはユダヤ人ではなかったが、オーストリアがナチス・ドイツに併合されたために、なったばかりの講師の職を失おうとしていた。だが、二人にはプリンストン大学の数学者ヴェブレンという有力な後ろ盾がいた。ヴェブレンのおかげで彼らはアメリカに渡った後、すみやかに安定した職に就くことができたのだ(第13回)。 タルスキは故郷ポーランド時代からユダヤ人差別に苦しんでいた(第6回)。彼が姓を「タルスキ」に変えたのもそのためだ。それでもタルスキは大学に職を見つけることができず、彼の主な収入源は高校の数学教師の職だった。ナチス・ドイツによるポーランド侵攻という事態を受け、思いがけずにアメリカに滞在することになったタルスキだが、ヴェブレンのような強力な後ろ盾を持たない彼にとって、ナチスから逃れてアメリカに来た知識人で溢れかえっていたアメリカで、大学の安定した職を見つけることは困難だった。結局タルスキは、3年間の流浪生活の後、西海岸のカリフォルニア大学バークレー校で落ち着くことになるのだが、その身分は教授ではなく一介の講師にすぎず、また、ロックフェラー財団の助成金のおかげで初めて可能になったものだった(第12回)。 彼らと共にオーストリアからアメリカに渡ってきた科学哲学者たち、特に若手のメンバーは多かれ少なかれ似たような境遇だった。最初にウィーンからアメリカに移住したのは、ハーバート・ファイグルという最年少のメンバーだった。 1902年、オーストリア帝国のボヘミア(現在のチェコ)に生まれたファイグルは、まだウィーン大学の学部生だった19歳の時に相対性理論に関する哲学論文で論文コンテストに入賞するなど、若くしてその才能を知られていた。だが、彼にはオーストリアの大学で教えるには致命的な問題があった。ユダヤ人だったのだ。 ファイグルが博士号を取得した当時のオーストリアは、第一次世界大戦の敗戦により他民族帝国から小国家へと没落していたが、まだカトリック教会が大学に強い影響を与えていた(第2回)。隣国ドイツではナチスが勢力を伸ばしており、タルスキのポーランド同様、反ユダヤ感情が強まる一方だったオーストリアで、ユダヤ人のファイグルが大学のポストを得ることは極めて困難だったのだ。 ファイグルはウィーン大学で哲学の博士号を取得した後、さまざまな学校で細々と講師をすることでなんとか糊口をしのいでいたが、引退してウィーンに滞在していたアメリカ人哲学者ディッキンソン・ミラーと出会ったことがきっかけで、アメリカに移住することを決意する。ファイグルのアメリカ留学を可能にしたのは、やはりロックフェラー財団だった。タルスキやフォン・ノイマンと同様、ファイグルもロックフェラー財団の奨学金を得る。向かう先はアメリカ・ハーバード大学だ。ファイグルがウィーンを離れたのは、彼自身も作成に関わった、ウィーン学団がその存在を国際的に知らしめたパンフレット「科学的世界把握:ウィーン学団」(第4回)が発行される1929年9月のことだった。 ファイグルが得た奨学金は1年間だけのものだったが、彼には帰国する意思はなかった。ハーバードでファイグルは多くの哲学者と知り合う。その中には、当時のハーバードを牽引するプラグマティズム哲学者だったC. I. ルイスや、渋るタルスキをアメリカに招いて結果的に彼の危険から救うことになった哲学者W. V. O. クワインもいた(第6回)。ファイグルは彼らの助けを借りて、アメリカ各地の大学に自らを売り込むのである。 幸いファイグルの就職活動は成功する。1930年、ファイグルは中西部のアイオワ大学に採用されるのだ。しかし、これは彼の心の中に複雑な思いを残すものとなった。採用が決まる前、アイオワ大学の学部長が、ハーバードのルイスに電話をかけてきた。ルイスはファイグルの推薦人になってくれていたのだ。20分ほどファイグルの人となりについて尋ねた後、最後にアイオワ大学の学部長が尋ねたのは、「彼はユダヤ人か?」という質問だった。 当時のアメリカの大学では、ユダヤ人学生の割合が制限されており(第11回)、教授陣の中にも、おおっぴらには言わないものの、ユダヤ人と共に働くのを好まないものもいたのだ。アメリカでも祖国オーストリアと同様にユダヤ人差別を目の当たりにしたファイグルだったが、ルイスの答えは彼にとって生涯忘れられないものとなった。それは、「彼がユダヤ人かどうか知らないが、仮にそうだとしても、何か差し障りがあるのかね」というものだったのだ。
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コンピューター史に名を残すもう一人の「ノイマン」〜イギリスのコンピューター黎明期 |小山虎
2021-10-20 13:00550pt
分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第18回。今回は、英国で活躍した「もう一人のノイマン」の生涯について。ポーランドにルーツを持つユダヤ系イギリス人数学者マクスウェル・ニューマン。ウィーン留学で最先端の記号論理学を学んだ彼が、オーストリア的な知をケンブリッジに播種したことでアラン・チューリングらに薫陶を与え、いかにコンピューター科学の黎明に貢献したかを辿ります。※本日のメルマガはニコニコサービス全体停止メンテナンスのため、13:00配信とさせていただきました。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第18回 コンピューター史に名を残すもう一人の「ノイマン」〜イギリスのコンピューター黎明期
以前、フォン・ノイマンの名前の変遷をたどったが(本連載第5回)、実はコンピューターの歴史にはもう一人の「ノイマン」がいることをご存知の方はおられるだろうか。この「もう一人のノイマン」も、フォン・ノイマン同様、人生の途中で名前を変えることになる。ただし、フォン・ノイマンの方は、生まれた時の姓は「フォン・ノイマン」ではなかったが、アメリカに渡って姓を変え、「フォン・ノイマン」として知られるようになるのとは異なり、この「もう一人のノイマン」は、生まれた時の姓が「ノイマン」であり、姓を変えた後の名前で知られるようになる。また、フォン・ノイマンが主にアメリカで活躍したのとは異なり、「もう一人のノイマン」が活躍したのはイギリスである──そもそも彼はイギリス生まれだ。今回は、この知られざる「もう一人のノイマン」の人生を通じて、イギリスのコンピューター・サイエンス黎明期を眺めてみたい。
もう一人の「ノイマン」のルーツと生い立ち
今回の主人公である「もう一人のノイマン」の生まれた時の名は、マクスウェル(マックス)・ノイマンという。まずはノイマン家のルーツについて述べておく必要があるだろう。マックスの父ハーマン・アレクサンダー・ノイマンが生まれたのは、ポーランドのブィドゴシュチュ (Bydgoszcz)という古い都市だ。「ノイマン」という同じ姓を持つフォン・ノイマンと同様、こちらのノイマン家もユダヤ系だった。 ブィドゴシュチュは歴史ある城塞都市であり、ドイツ騎士団やスウェーデンに何度も占領されるほど政治に振り回されていたが、ルヴフがオーストリアに割譲され、「レンベルク」へと改称されることになる1772年ポーランド分割(本連載第6回)で、ブィドゴシュチュはプロイセンに割譲され、「ブロンベルク(Bromberg)」と改称される。ハーマン・ノイマンが生まれたのは、そのプロイセン領時代の1866年のことである。その後、1871年に普仏戦争で勝利したプロイセンがドイツ帝国となるのだった(本連載第2回)。 ブィドゴシュチュがプロイセン領、さらにはドイツ領となることで大きな影響を被ったのが、ユダヤ人である。元々ポーランドにはユダヤ人が多く住んでいた。ノイマン家もそのようなポーランド在住のユダヤ人だったらしい。ポーランド分割によりポーランド領の一部を手に入れたオーストリアでは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートが民族融和主義政策を進め、第一次世界大戦によってオーストリア帝国が解体するまでユダヤ人はとりわけ「オーストリア的」な帝国臣民として自由を謳歌することになるが、プロイセンでは、反オーストリア運動の一環としてドイツ化が進められており、厳格なユダヤ人差別が存在していた(本連載第10回)。ハーマン・ノイマンが両親や家族とともにドイツからイギリスへと帰化したのは1881年、まだハーマンは15歳の少年だった。
さて、今回の主人公マクスウェル・ノイマンは1897年、イギリス・ロンドンで、父ハーマン・ノイマンと母サラ・パイクとの間に生まれる。ノイマンはユダヤ系のイギリス人としてロンドン郊外で育つが、大きな転機が訪れる。そのきっかけとなったのは1914年の第一次世界大戦勃発である。父ハーマンが、敵国ドイツ出身ということで抑留されてしまうのだ。当時ハーマンは48歳、イギリスに帰化してから33年もの年月が過ぎていた。にもかかわらずドイツ人扱いされたことに憤慨したハーマンは、抑留から解放されるや否や、家族を置いて一人ドイツへと帰国してしまう。突然父を失ったノイマンが行ったのは、姓の変更だった。「ノイマン(Neumann)」というドイツ語風の姓から「ニューマン(Newman)」という英語風の姓へと変更するのである。これ以降、彼は「マクスウェル・ニューマン」と名乗るようになる。
1657年のブィドゴシュチュ(ブロンベルク)(出典)
コンピューター・サイエンスの歴史の転換点となったウィーン留学
こうしてマックス・ニューマンとなったノイマン、いやニューマンは、ケンブリッジ大学に進学する。1915年のことだった。彼は大学でも優秀な成績を収めていたが、1年後に休学する。そして第一次世界大戦終了までの3年間、寄宿学校の住み込み教師として働くのである。このまま退学してしまうと思われていたニューマンだったが、1919年、ケンブリッジに戻ってくる。そして1921年、優秀な成績で卒業するのである。 ケンブリッジに戻ったニューマンは生涯の知己を得ることになる。その友人の名は、ライオネル・ペンローズ。2020年にノーベル物理学賞を受賞した著名な物理学者ロジャー・ペンローズの父親である。ペンローズはニューマンより若かったが、ニューマン同様、ケンブリッジ入学後に一時休学し、終戦後に復学していた。二人はそこで出会ったのだ。 ペンローズはバートランド・ラッセルの元で記号論理学を学びたいとケンブリッジに入学したのだが、ラッセルは反戦運動によりケンプリッジ大学講師の職を辞職していた。卒業する頃、ペンローズの関心は論理学と心理学の両方にまたがっており、フロイトのいたウィーンに留学を決意する。そして、親友のニューマンに一緒にウィーンへ留学することを勧めるのである。 裕福だったペンローズ家とは異なり、母子家庭のニューマンに財政的な余裕はあまりなかったが、当時のイギリスは戦勝国であり、敗戦国のオーストリアへの留学に関して、費用面の心配は不要だった。こうして、ニューマンはペンローズと共に、ウィーン大学へ1年間留学するのである。
ニューマンとペンローズがウィーンに着いたのは1922年の秋。それはちょうど科学哲学者モーリッツ・シュリックがマッハやボルツマンの後任としてウィーン大学の科学哲学教授職に就いた年だった。ウィーンでニューマンは、クルト・ライデマイスターという数学者と出会う。ライデマイスターは、アイソタイプと呼ばれる絵文字を科学哲学者オットー・ノイラートと共に開発し、第二次世界大戦勃発後にはノイラートと共にイギリスへ亡命してノイラートの妻となるマリー・ライデマスターの兄であり、また、1930年にはケーニヒスベルク大学の教授として、ゲーデルが不完全性定理を公表した「ケーニヒスベルクの会議」開催に尽力した数学者である(本連載第4回)。 ニューマンとペンローズはライデマイスターから、後にウィーン学団の中心人物となるカール・メンガーやハンス・ハーンのことを知らされる。ハーンがラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』のセミナーを開始するのは1924年だが、ハーンらはそれ以前からラッセルの記号論理学について研究しており、ハーンのセミナーでもラッセルのことが度々言及されていた(本連載第4回)。前からラッセルの記号論理学に関心を持っていたペンローズ、そしてペンローズの影響で記号論理学に興味を持ち始めていたニューマンは、ハーンのセミナーを通じて、記号論理学を深く学ぶのである。そしてこれがニューマンの、ひいてはコンピューター・サイエンスの歴史の転換点となるのだった。
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「西海岸のハーバード」を目指したスタンフォード大学の歩み |小山虎
2021-09-07 07:00550pt
分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第17回。東海岸のMITにならぶ存在として、第二次世界大戦後の西海岸にコンピューター・サイエンスの一大研究拠点を築き上げたスタンフォード大学。もともとは研究大学ですらなかった小さな私立大学がMITと同様に「アメリカン・ドリーム」を成し遂げ、シリコンバレーの礎を築いていく過程と、その波の中で科学哲学・分析哲学が果たした役割について光を当てていきます。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第17回 「西海岸のハーバード」を目指したスタンフォード大学の歩み
前回の連載で取り上げたのは、MITという特異な大学が成し遂げた「アメリカン・ドリーム」だった。じつは、MITの後を追って同様の「アメリカン・ドリーム」を成し遂げた大学がある。それは、人工知能が誕生したダートマス会議の中心人物だったジョン・マッカーシーがMITから移籍して自身の城とも言える人工知能を設立した、スタンフォード大学だ。 スタンフォード大学もまた、MITと同様にその名を聞いたことがない人はいないと言ってよい、世界トップクラスの知名度を誇る大学だろう。各種の大学世界ランキングでも1、2位を争い、マッカーシーのスタンフォード人工知能研究所だけでなく、シリコンバレーを誕生させるなど、コンピューター・サイエンスの歴史にとってスタンフォードの名前は輝かしいものがある。しかし、おそらくあまり知られていないことだが、スタンフォード大学は、第二次世界大戦終戦当時はまだ、西海岸の小さな私立大学にすぎず、研究大学ですらなかった。スタンフォードが現在のような巨大な研究大学へと変貌するのには、MITともまた異なった経緯があった。そして、あまり知られていないが、スタンフォード大学の変貌は、科学哲学や分析哲学のその後にも大きく影響するものだったのだ。
スタンフォード大学は息子を供養するために大富豪が農場跡に設立したものだった
スタンフォード大学の正式名称は、「リーランド・スタンフォード・ジュニア大学(Leland Stanford Junior University)」という。設立したのは、カリフォルニア州の実業家リーランド・スタンフォードとその妻ジェーン・スタンフォード。スタンフォード大学の正式名称は、若くして亡くなった彼らの息子リーランド・スタンフォード・ジュニアに因むものであり、大学自体もリーランド・スタンフォード・ジュニアを偲ぶために1891年に設立されたものだ。 ニューヨーク生まれのリーランド・スタンフォードは、ゴールド・ラッシュで財を成した大富豪であり、カリフォルニア州知事や連邦上院議員も務めたほどの大物だった。亡くなった息子のリーランド・スタンフォード・ジュニアは幼少期から好奇心旺盛で、文化や芸術にも親しんでいた。スタンフォード夫妻は、息子の名を冠した大学の設立こそが、息子の供養になると考えたのだ。しかし、当時のアメリカではドイツ式大学教育の導入が本格化していたものの(本連載第9回)、その波はまだ西海岸にまでは及んでおらず、東海岸のエリートたちにとっては、「カレッジ」ではなく「大学」を設立することは夢物語か、単なる無駄遣いでしかないように映っていた。 大学を設立すべきか悩んだスタンフォード夫妻は、ハーバード大学の学長だったチャールズ・エリオットに相談する。エリオットは、ハーバードを研究大学へと改革した伝説の学長だ(本連載第9回)。彼は夫妻に予定通り大学を設立することを勧め、必要な費用や土地、建物などについて助言した。こうしてスタンフォード大学は、リーランド・スタンフォードがカリフォルニア州パロアルトに所有していた農場があった場所をキャンパスとして開校するのである。「農場(Farm)」は現在でもスタンフォード大学の愛称となっている。 20世紀に入るとスタンフォードは大学院を整備し、研究大学としてのかたちを整える。夫のリーランド・スタンフォードは、スタンフォード大学開校からわずか2年後の1893年に死去してしまうが、妻のジェーンはエリオット・ハーバード学長の助言に従い、「西海岸のハーバード」となるべく大学に支援を続けていた。しかし、スタンフォードが我々の知るような世界トップクラスの大学となるのは、すでに述べたように、それから半世紀以上後になってからだった。
▲農場時代から現在まで残っている建物の一つ、「赤倉庫(Red Barn)」。現在では馬術センターとして用いられている。(出典)
シリコンバレーの父、フレデリック・ターマンによるスタンフォード大学改革
MITが大きく変貌を遂げたのは、元副学長のヴァネバー・ブッシュが第二次世界大戦開戦前夜に当時の大統領フランクリン・ルーズベルトとかけあって設立させた「全米防衛研究委員会」、およびその後身であり、マンハッタン・プロジェクトをはじめとする戦時巨大プロジェクトを実施していた「科学研究開発局」から、膨大な資金を獲得したからだった(本連載第16回)。一方、スタンフォードは、MITだけでなくハーバードやプリンストンをはじめとする当時アメリカの著名大学がこぞって参加していたこの流れからは完全に外れていた。軍から獲得できた資金も極めて僅かな額に過ぎず、マンハッタン・プロジェクトに関わった研究者は一人もいないというありさまだった。当時のスタンフォード大学は、設立当初のMITのような、予算不足でいつ吸収されてもおかしくないという状態でこそなかったが、あくまで地方の一私立大学に過ぎず、中堅クラスの大学だという評価を拭い去ることはできないままだったのだ。 そのような状況を変えたのは、もっぱら一人の人物の尽力による。彼の名はフレデリック・ターマン。「シリコンバレーの父」とも呼ばれるターマンこそ、スタンフォードを現在のような世界的な研究大学へと育て上げた中心人物である。 スタンフォード大学で教えていた心理学者を父に持つターマンは、自身もスタンフォード大学に入学するが、大学院はMITに移り、博士号を取得する。ターマンはMIT史上8番目の博士号取得者であり、指導したのは誰あろうヴァネバー・ブッシュだった。ブッシュの薫陶を受けて博士号を取得したターマンは、博士号取得後はスタンフォードに戻り、無線工学や真空管の研究に取り組む。そしてもっぱらターマンの活躍により、スタンフォードは西海岸では無線工学の中心地として知られるようになる。 ターマンはスタンフォードで数多くの学生を教えることになるが、その中にウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードがいる。コンピューター会社のヒューレット・パッカード──関数電卓に逆ポーランド記法を採用したことで、コンピューターの歴史にポーランドの論理学者ウカシェヴィチの名前を残すことになる(本連載第6回)──を設立する二人だ。 ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードは、どちらもターマンの電気工学の授業をとっており、そこで二人は知り合う。ヒューレット・パッカードの創業地は、当時パッカードが間借りしていたアパートのガレージ。ただ、創業当時のヒューレット・パッカードはコンピューター会社ではなかった。ヒューレット・パッカードの創業は1939年、ENIAC以前のことであり、まだ商用コンピューターは存在していなかった。創業当時のヒューレット・パッカードはオシロスコープなどの電気機器メーカーだったのだ。 ターマンの教え子がヒューレット・パッカードを創業したのは偶然ではなかった。むしろ逆だ。ターマンが彼らに起業を勧めたのだ。ターマンはMITでブッシュから多くを学んでいたが、産業界との連携の重要性もその一つだった。ブッシュが当時のMIT学長コンプトンと共に推進した産学協同は、大恐慌で経営危機に陥ったMITを救うためのものだった(本連載第16回)。スタンフォードは私立大学であり、MITのような経営危機にまでは陥らなかったものの、大恐慌による財政危機は深刻なものだった。そこでターマンはブッシュにならい、スタンフォードで産学協同に取り組むのだ。彼が特に力を入れたのが、産学協同が容易な大学発のベンチャー企業であり、ヒューレット・パッカードは最初の成功例だったのだ。ターマンにより、スタンフォードは「西海岸のMIT」のような存在になるのだった。
▲ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードがヒューレット・パッカードを創業したガレージ。「シリコンバレーの生誕地」とも言われている。(出典)
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「大学」でない大学MIT〜戦争によってもたらされたアメリカン・ドリーム |小山虎
2021-06-16 07:00550pt
分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第16回。今日では、コンピューター・サイエンスをはじめ世界の科学技術研究を牽引するエリート大学として名高いMIT(マサチューセッツ工科大学)。19世紀後半の開学以来、ドイツ型の研究大学を目指した創立者ウィリアム・ロジャースの理念はなかなか実現の契機に恵まれず、「大学」としては二流以下の地位に甘んじてきました。しかし2度の世界大戦による軍学複合の波をとらえた工学者ヴァネバー・ブッシュの手腕により、MITは大きな「アメリカン・ドリーム」を成し遂げていくことになります。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第16回 「大学」でない大学MIT〜戦争によってもたらされたアメリカン・ドリーム
前回は、「人工知能」という言葉が誕生したことで知られるダートマス会議に焦点を当てた。ダートマス会議で一堂に会したジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、アレン・ニューウェルの3名はみな、ヴェブレンによって全米に名を轟かせるようになっていたプリンストン大学数学科出身であり、コンピューター・サイエンス発展の立役者として活躍することになるのだった。 ところで、彼ら3名のうち、マッカーシーとミンスキーはダートマス会議以前にニューイングランド計算センターで再会しており、また一時期はMITで同僚だった。このように、MITはコンピューター・サイエンスの創成期に重要な位置を占めているのである。 MITの名前を聞いたこともないという読者はなかなかおられないのではないだろうか。MITは日本でも広く知られているアメリカの大学の一つであるだけでなく、多数のノーベル賞受賞者を輩出しており、世界でも有数の研究機関の一つだ。その正式名称は「マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology)」という。お気づきになったかもしれないが、日本語では「工科大学」と訳されているものの、MITは正式名称では「大学(university)」でも「カレッジ(college)」でもないのである。しかも、MITは「工科大学」であるにもかかわらず、人文学でもアメリカ有数の研究機関であり、あるランキングでは世界2位にランクインしている。科学技術にだけでなく、人文学ですら世界でもトップクラスの大学が、厳密には「大学」ではない。奇妙なことのように聞こえるが、事実、創設されてからかなりしばらくの間、MITはいかなる意味でも大学とは言えない存在だったのだ。
「大学」でも「カレッジ」でもないMITの創世記
MITの創設は1861年にさかのぼる。当時マサチューセッツ州ボストン在住だったウィリアム・バートン・ロジャースという地質学者が、科学技術の進展と普及を目的とする学校をボストンに設立する運動を推し進めていた。アメリカにドイツ式の研究大学が持ち込まれるのは1865年の南北戦争終結後であり、当時の大学のほとんどは教育を中心とした「カレッジ」だった(本連載第9回)。ロジャースは、ボストンにやってくる前はヴァージニア大学で地質学の教授を務めていたのだが、当時のアメリカの大学では、彼が追い求める科学技術を中心に据えたカリキュラムは難しかった。だからロジャースは、新たな学校を設立しようとしたのだ。やがてロジャースの運動は広く認知されるようになり、最終的にマサチューセッツ州政府はロジャースの提案を受け入れ、設立のために多額の資金を援助する。こうしてMITは創設されるのである。もちろん初代学長はロジャースだ。
ところが、誕生まもないMITにいきなり試練が訪れる。創設から2日後の1861年4月12日、サウスカロライナ州のサムター要塞に南軍が攻撃を仕掛ける。南北戦争が始まったのだ。戦争により誕生したばかりのMITはいきなり資金不足に陥ることになる。結局MITで最初の授業が開かれるのは、南北戦争が集結した1865年のことだった。開校から戦争の影響を受けたことは、その後のMITの運命を暗示していたのかもしれない。 MIT初代学長ロジャースが目指したのはドイツ型の研究大学だった。彼は、科学技術の進展とそのための人材育成にとって実験室での研究が不可欠だと考えていた。研究大学でない当時のアメリカの大学では、科学の授業であっても講義が中心であり、実験室を備えてあったとしても、日本の高校の理科室のように教科書に書かれていることを確認するのが一般的だった(本連載第9回)。ロジャースは、このような教科書を中心とした教育では科学技術の進展には不十分だと考えていた。そこで彼が注目したのが、実験室での研究を中心としたドイツ式大学教育だ。 そもそも、研究と教育をいかにして両立させるかは大きな問題である。いかに優秀な学生であろうとも、学生は学生であり、科学者としては半人前だ。そうした学生が卒業後には科学者として研究に従事できるように育てるにはどうしたらよいのか。この問題を解決するのが実験室だ。最先端の研究が可能な実験室があれば、学生は教授の指導のもと、実験室で自ら実験を行うことができる。十分な成果が得られたら、学生はそれをまとめて論文として発表する。大学は、自ら実験を行い、成果を出して論文にするという経験でもって、学生が科学者として最低限の技量を備えていると認定する。つまり博士号は、科学者として一人前になった証しなのである。
ロジャースがドイツ型の研究大学を目指したために、創設当初のMITには寮がなかった。現在のアメリカの大学制度は、イギリスのカレッジ制大学をモデルにした、もっぱら教育を担当する「カレッジ」の上に、ドイツの研究大学をモデルにした「スクール」と呼ばれる大学院が乗っかっているという構造をしている(本連載第9回)。イギリスのカレッジ制大学はもともと修道士を養成する寄宿学校が起源であったため、「カレッジ=寮」、すなわち、大学に入学したら入寮するというイメージがアメリカでは一般的である。これはMIT設立前も変わらなかった。寮を持たないMITは、まさに「Institute of Technology」の名称どおり、大学とは一線を画した新しい教育機関だったのだ。 ロジャースの壮大な夢の実現として誕生したMITだったが、設立当初から長らくMITの財政状況は悪く、財政は学生からの授業料頼りという有様だった。設立から40年目の1900年になると財政的には改善されていたが、それは教養教育を削減し、産業界の要望に合わせた人材育成に特化することによって達成されたものだった。寮もなく、学部教育も貧弱であり、名前に「大学」も「カレッジ」もない当時のMITは、いわば専門学校のような存在であり、創設者ロジャースが構想していたドイツ式の研究大学とは大きくかけ離れたものになってしまっていたのだ。
創設の理念から逸れてしまったMITにさらなる危機が訪れる。20世紀に入ると、すぐ近くにあるハーバード大学との合併が画策されるようになるのだ。当時のハーバードの学長は、チャールズ・エリオット。ハーバードに大学院を設置し、また男女共学を実現するなど、ハーバードを「カレッジ」から「大学」に変えた伝説の学長だ(本連載第9回)。エリオットはMITで教鞭をとっていたこともあり、ロジャースの理念に強く共感していた。ハーバードが世界に名だたる研究大学になったのは、ロジャースの理念を実現したエリオットのおかげといってもよいだろう。エリオットが大きな反対を知りつつもMITとの合併を目指したのも、自分に大きな影響を与えたMITを財政危機から救うためだった。 両者の合併は、1914年に一度は正式に告知されたものの、最終的には破談となる。それ以降もMITとハーバードとの合併(あるいは後者による前者の吸収)は何度も検討されるが、結局実現することはなかった。 1917年、ハーバードとの合併話がなくなったちょうどその年、MITがそれまでの単なる「ボストンの専門学校」から脱皮するきっかけとなる出来事が発生する。アメリカが第一次世界大戦に参戦したのだ。
▲MIT設立に合わせて建築されたビル。この建物は後に創設者の名をとって「ロジャース・ビルディング」と呼ばれることになる。(出典)
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プリンストンで出会った3名が再会した会議と再会しなかった会議〜人工知能の誕生|小山虎
2021-04-20 07:00550pt
分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第15回。今ある情報社会の欠かせないインフラになっている人工知能(AI)技術。その確立の立役者となったアメリカ生まれの3名の科学者、ジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、アレン・ニューウェルもまた、中欧から落ちのびてきたフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと同じく、1949年にプリンストンで出会っていました。第二次世界大戦後、軍産学複合体制によるコンピューター・サイエンスの発展基盤が整えられるなかで、世代と出身の異なる二つの三人組が交錯した軌跡を辿ります。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第15回 プリンストンで出会った3名が再会した会議と再会しなかった会議〜人工知能の誕生
前回は、フォン・ノイマンがコンピューター開発に関わることになった経緯をたどった。フォン・ノイマンという高名な数学者が関わったことで、コンピューターの開発は計算機の性能向上にとどまらず、コンピューター・サイエンスという新たな科学の誕生につながったのだが、その背景にあったのは、第二次世界大戦であり、アメリカ軍部、加えて、戦争に積極的に関与したアメリカの大学の姿があったのだった。 ところで、こうしたアメリカの軍産学複合体によって産み出された科学はコンピューター・サイエンスだけではなかった。コンピューター・サイエンスと縁の深い人工知能はその代表例である。今回は人工知能の発展の中心人物のなかから、ジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、アレン・ニューウェルの3名に焦点を当てたい。同年代の彼らは1949年にプリンストンで初めて出会っている──そういえば、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3名もまた、1946年にプリンストンで初めて出会っていた。もしかするとこれは、偶然のことではないのかもしれない。
1956年夏、ニューハンプシャー州ハノーヴァー
「ダートマス会議」のオリジナル提案書の1ページ目。2行目に「人工知能(ARTIFICIAL INTELLIGENCE)」の文字が見える(ダートマス大学所蔵)。 AI Magazine 2006年冬号(Vol. 27, No. 4), p. 13(出典)
「人工知能(Artificial Intelligence, AI)」という言葉を作ったのは、プログラミング言語LISPの開発者ジョン・マッカーシーである。マッカーシーがこの言葉を初めて用いたのは、1956年に開催された、のちに「ダートマス会議(Dartmouth conference)」という名で知れ渡ることになる会議だ。人工知能という分野は、このダートマス会議において誕生したとされているのだが、マッカーシーは、その中心人物だった。 1927年生まれのマッカーシーは、若い頃から数学の才能に秀でており、1944年にカリフォルニア工科大学の数学科に入学する。卒業前に第二次世界大戦に従軍することになるが、復帰後に彼の人生を変える出来事がある。フォン・ノイマンとの出会いである。 1948年、カリフォルニア工科大学を卒業し、同大学の大学院に進学したばかりのマッカーシーは、あるシンポジウムに出席する。そこで講演していたのは、フォン・ノイマンだった。フォン・ノイマンの講演を聞いたマッカーシーは、機械で人間の思考を実現するという構想を思いついたのだ。マッカーシーはすぐさま、プリンストン大学の大学院に移籍する。プリンストン高等研究所にいたフォン・ノイマンの教えを乞うためだった。 フォン・ノイマンは若き俊英の野望を大いに励ましたものの、進捗ははかばかしくなく、結局マッカーシーは違うテーマで博士号を取得する。マッカーシーが本格的に「人工知能」へと向かうようになったのは、1955年ダートマス大学に職を得てからのことである。
ダートマス大学(Dartmouth College)は、アメリカで9番目に古い大学であり、その設立は、独立前の1769年にまで遡る。つまり、ダートマスもまた、ハーバード大学やプリンストン大学と同じく、植民地時代のアメリカで設立された「カレッジ(college)」の一つなのだ(本連載第9回参照)。ハーバードを始めとする植民地時代に設立された他の大学とは異なり「大学(University)」へと正式名称を変更していないことからもわかるように、ダートマス大学は研究大学ではあるが、かつての「カレッジ」が担当していた教養教育に力を入れた大学である。 「ダートマス」という名称は、イギリスのダートマス伯爵にちなんだものである。また、大学がある街は「ハノーヴァー(Hanover)」というのだが、当時のイギリス王家が、ドイツ(正確には、神聖ローマ帝国)のハノーファー(Hanover)選帝侯を兼任するハノーヴァー朝だったことに由来する。このように、ダートマス大学はイギリス植民地時代と縁が深いのだが、マッカーシー、および後の人工知能の発展にとっては、このことが大きく影響することになる。
1955年、ダートマス大学の数学科は、4人の教授が一斉に退職してしまったために、4人分の後任を探していた。だが、優秀な人材を一度に何人も揃えるのは明らかに困難な作業だった。白羽の矢が建てられたのは、プリンストン大学である。当時、ヴェブレンの指導のもと、プリンストン大学数学科は全米でトップレベルの数学科として広く知られるようになっていたからだ(本連載第13回)。最初に雇われたのは、ジョン・ジョージ・ケメニーという数学者だった。 のちにプログラミング言語BASICを開発することになるケメニーは、フォン・ノイマンと同じくハンガリーからの移民であり、誕生時の名前は、ケメーニ・ヤーノシュ・ジェルジという(本連載第5回でも述べたように、ハンガリー語では姓が名の前に来る)。ユダヤ人でもあったケメニーは、1939年にポーランドがナチス・ドイツに侵攻されたため(本連載第6回)、ハンガリーも同様に危険があると考えた父とともに、13歳の時に一家でアメリカに移住する。他のユダヤ人同様、ニューヨークで育ったケメニーは数学の才能を発揮し、プリンストン大学に入学するが、第二次世界大戦中の終わり頃に陸軍に招集され、マンハッタン・プロジェクトに関わることになる。ここでケメニーは、同郷のフォン・ノイマンと出会うのである。戦後、プリンストン大学でチャーチの指導のもと博士号を取得したケメニーは、プリンストン高等研究所でアインシュタインの助手をしていたのだが、フォン・ノイマンとアインシュタインの推薦により、ダートマス大学の教授となる。なんと27歳の若さだった。
一方マッカーシーはといえば、1951年に博士号を取得した後、いくつかの大学を点々としていた。ところが、ダートマス大学数学者の後任候補としてリストアップされる。ケメニーが、よく知っている後輩のマッカーシーを推薦したためだ。こうしてマッカーシーは、ダートマス大学に勤務することになるのである。 ダートマス大学で働き始めたマッカーシーに、さらに思いがけない出来事が生じる。1955年の夏、IBMがニューイングランド計算センター(New England Computation Center)を設立したのだ。このセンターはボストンにあるMITのキャンパス内にあったのだが、当時売り出し中だったIBM 704──IASコンピューターを元に設計されたIBM 701の後継機だ(本連載第14回)──が設置されており、ニューイングランド地域の大学の利用が許されていた。ニューイングランドとは旧イギリス植民地のことだ(本連載第11回)。ハーバード大学やMITのあるマサチューセッツ州もそうだが、マッカーシーにとって幸運なことに、ダートマス大学のあるニューハンプシャー州もニューイングランド地域の一部だったのだ。 ニューイングランド計算センターでマッカーシーには重要な出会いがあった。まずは、大学院時代の友人、マーヴィン・ミンスキーだ。ミンスキーはのちにマッカーシーとともにMIT人工知能研究所を作ることになる高名な人工知能および認知科学の研究者だ。 マッカーシーと同じ1927年生まれのミンスキーは、ユダヤ人であり、ユダヤ人の多いニューヨークで生まれ育つ。高校卒業時が第二次世界大戦まっただなかの1944年だったこともあり、卒業後にミンスキーは海軍に入隊する。終戦後、ハーバード大学に入学し、大学院はプリンストン大学に進学。ここでマッカーシーと出会うのだ。博士号を取得した後、ミンスキーは母校であるハーバード大学で働いていたのだが、彼もまた、IBM 704を求めてMITのニューイングランド計算センターにやってくるようになっていたのである。再会した彼らの友情は生涯のものとなる。 マッカーシーはニューイングランド計算センターで、IBM 701の設計者であるナサニエル・ロチェスターとも知り合う。彼ら3人に、マッカーシーが博士号取得後に一時的に働いていたベル研究所で知り合った、情報理論の生みの親クロード・シャノンを加えた4名が、ダートマス会議の発起人になるのである。
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アナログからデジタルへ〜「ノイマン型」コンピューターの誕生|小山虎
2021-02-10 07:00550pt
分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第14回。現在では「コンピューターの父」として知られるジョン・フォン・ノイマン。ただし、最初期の電子計算機であるENIACやEDVACの開発への関与は限定的で、ノイマン一人が名声を受けることへの疑義や軋轢は当初からありました。そうしたなか、ノイマン自身が果たしたコンピューター黎明期における功績の本質とは何だったのかを改めて探ります。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第14回 アナログからデジタルへ〜「ノイマン型」コンピューターの誕生
前回述べたように、フォン・ノイマンは、ENIACが開発されたアバディーン性能試験場の弾道研究所の顧問を務めていたが、ENIACの開発に最初から関わっていたわけではなかった。フォン・ノイマンがコンピューターの開発に関わるのには、複雑な経緯と様々な偶然があったからである。今回は、その経緯をたどってみたいと思う。 ところで、ENIACは世界初のコンピューターだとされることもあるが、厳密には「世界初の汎用電子計算機(コンピューター)」の方が正確である。同じように、いわゆる「ノイマン型コンピューター」についても、それが何を指すのかは、実のところあまり明らかではない。この名前は、フォン・ノイマンによるEDVACの報告書で提示されたことに由来するが、その内容は、フォン・ノイマン個人というよりは、ENIACおよびEDVAC開発チームによるところが大きい。だから、その意味では「ノイマン型」という名称はあまり適切ではない。また、ノイマン型コンピューターの特徴とされるプログラム内蔵方式についても、現在では、それを最初に考案したのはフォン・ノイマンではないと考えられている。
ということは、本当はフォン・ノイマンは、世間で言われているようなコンピューターの歴史に輝く重要人物などではなかった、ということなのだろうか。必ずしもそうとは言えない。もし「ノイマン型コンピューター」を、フォン・ノイマン自身が構想していたようなコンピューターだと考えるのであれば、それは確かに存在するだけでなく、コンピューターの歴史において極めて重要な地位を占めるようなものなのだ。 そのような「ノイマン型コンピューター」とは何か。それを説明するために、まずはどうして弾道研究所でENIACが開発されるに至ったのかの話から始めよう。そこで重要な役割を果たすのは、「アナログ」のコンピューターである。
アメリカ陸軍とペンシルベニア大学を結びつけた「アナログ」コンピューター
これも前回触れたことだが、アバディーン性能試験場は第一次世界大戦中に設立されたものである。当然ながら、終戦後はその中心的な役目が失われたため、予算は大きく削減されていた。試験場の弾道学部門は、戦争中にヴェブレンが戦後も継続的に研究することを推薦する報告書を残していたこともあり、規模は小さくなりながらも削減されることなく残されていたのだが、1935年に他の部門と合併し、一つの研究所となる。それが弾道研究所(Ballistic Research Laboratory)だ。 研究所になったとはいえ、予算やスタッフが増員されたわけでもなく、相変わらず細々と研究が続けられていたのだが、数年後に転機がやってくる。第二次世界大戦の勃発である。 1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。ちょうどそれは、タルスキがアメリカ・ハーバード大学で開催される科学哲学の国際会議に出席するために母国ポーランドから旅立ってまもなくのことだった。開戦により生き別れになった家族とタルスキが再会するには、それから7年もの歳月が必要だった(本連載第6回)。 アメリカはすぐには参戦せず、様子をうかがっていたものの、実際にヨーロッパで戦争が始まると、アメリカ国内への影響は少なからずあった。特に弾道研究所は、戦争勃発の恩恵を大いに得る。1940年から1945年にかけて、弾道研究所の予算とスタッフ数は十倍以上に膨れ上がるのだ。ENIACの開発も、この戦争による弾道研究所の規模拡大がもたらしたものなのである。
ところで、以前にも触れたが、実際にENIACの開発を担当したのはペンシルベニア大学だ(本連載第9回)。つまりENIACは軍産複合体の産物である。それが可能になったのは、ペンシルベニア大学と弾道研究所には、ENIACの開発以前から結びつきがあったからだ。 コンピューターの誕生以前、弾道の計算には機械式のアナログ計算機が用いられており、弾道研究所では「微分解析機(Differential Analyzer)」というものが使用されていた。ペンシルベニア大学はペンシルベニア州の州都フィラデルフィアにあるのだが、フィラデルフィアは研究所のメリーランド州アバディーンから車で行ける距離であり、より高性能な微分解析機を所有していた。そこで、陸軍が資金を出し、ペンシルベニア大学の電気工学部──といっても日本の大学の「学部」とは違い、ロー・スクールやメディカル・スクールと同様、専門家を養成する大学院であり(本連載第9回)、正式名称も「ムーア電気工学スクール(Moore School of Electrical Engineering)」というのだが──が互いの所有している微分解析機の性能を向上させるという共同プロジェクトが行われていたのだ。
ペンシルベニア大学で用いられていた微分解析機(1942-1945年ごろ)(出典)
このような大学と軍の共同プロジェクトは、当時は珍しいものではなかった。むしろ、推奨されていたと言ってもいい。なぜなら、第一次世界大戦中に米軍から資金援助を受けることで大きくなった大学がいくつもあったからだ。その代表例が、マサチューセッツ工科大学(MIT)である。1861年に設立されたMITは、当初はカレッジですらない専門学校のようなものであり、経営も安定せず、近くにあるハーバード大学の工学部に何度も吸収されそうになるほどの弱小大学だった。それが、第一次世界大戦中に海軍の航空機パイロット訓練プログラムを請け負うことで一変する。軍や関連産業に協力することで教育研究を充実させ、経営の安定化や規模拡大を実現する。これが第一次世界大戦後のアメリカの大学では、主流のビジネスモデルだったのだ。
ペンシルベニア大学は弾道研究所以外にも様々なプロジェクトを受注していたが、1942年、かつてないほどに性能を向上させるプロジェクトとして、デジタルの計算機(コンピューター)の開発がペンシルベニア大学から弾道研究所に提案される。これがENIACとなるのである。 ENIACの開発を提案した中心人物は、ジョン・モークリーという若い物理学者だった。モークリーの専門は天体物理学であり、天体の軌道計算と弾道の計算の両方で微分解析機を駆使していた経験から、より高性能な計算機を求めており、大学院生のジョン・プレスパー・エッカートと協力し、ENIACを構想したのだ。モークリーとエッカートの二人は、ENIACの開発者として、コンピューター・サイエンスに名を刻むことになる。 ところで、ENIAC開発を提案した当時、モークリーはまだペンシルベニア大学に来たばかりだった。彼がペンシルベニア大学に来るきっかけも戦争だった。
1942年、フィラデルフィア〜戦争のために分野を越えて集まった4人の開発者たち
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どうしてフォン・ノイマンとゲーデルはアメリカにやってきたのか──アメリカ学問の中心地プリンストンの誕生|小山虎
2020-12-15 07:00550pt
分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第13回。ヒトラーのナチス総統への就任がせまる1930年代、いち早く渡米してアメリカの学術研究の中心地になるプリンストン高等研究所に所属することになったフォン・ノイマンとゲーデル。二人をこの地に招き寄せ、結果的にのちのコンピューター技術発展の立役者になった先達の数学者らの足跡を追いかけます。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第13回 どうしてフォン・ノイマンとゲーデルはアメリカにやってきたのか──アメリカ学問の中心地プリンストンの誕生
前回はアメリカに来てからのタルスキに焦点を当てた。では、フォン・ノイマンとゲーデルはいつ、どのようにしてアメリカにやってきたのだろうか。フォン・ノイマンが初めてアメリカ・マンハッタンの地を踏んだのは、1930年にまで遡る。タルスキの9年前、アシモフの5年前だ。プリンストン大学に招聘されたフォン・ノイマンは、それから数年、アメリカとドイツを行き来する生活をすることになる(本連載第1回)。そして、1933年に設立されたプリンストン高等研究所の最初のメンバーとなり、ここを拠点にして様々な活動を行う。コンピューターの開発に関わり、ノイマン型アーキテクチャーを考案するのもその一つだ。 ゲーデルの最初の渡米は、フォン・ノイマンより3年後の1933年の秋。アシモフのコロンビア大学面接(本連載第11回)より1年半ほど前のことである。その時ゲーデルは、フォン・ノイマンのいるプリンストン高等研究所のメンバーとして1年間滞在し、オーストリアに帰国する。その後ゲーデルは2度アメリカを訪れるが、最終的に1940年に渡米した後、アメリカ市民権を取得して永住することになる。 だが、どうして彼ら二人はアメリカに、そして同じプリンストンという土地に来ることになったのだろうか。そのためには、アメリカに来て以降のフォン・ノイマンとゲーデル両名の終生の地となったプリンストンの歴史をひもといてみる必要がある。
研究大学としてのプリンストン大学の誕生
プリンストンといえば、まず思い浮かぶのはプリンストン大学だろう。プリンストン大学は、世界の研究をリードするトップクラスの名門大学の一つであり、我が国でもその名は広く知られている。だが、意外かもしれないが、フォン・ノイマンとゲーデルが初めてプリンストンにやってくるよりも前の1920年代までのプリンストン大学は、決して現在のような世界的にも高名な大学ではなかった。 プリンストンは、ニューヨーク州の西隣にあるニュージャージー州の決して大きくない町である。ニュージャージー州は、隣接するニューヨーク州がもとはオランダ領だったこともあり(本連載第11回)、オランダ移民が多く、彼らが建設した入植地が数多くあった。プリンストンもその一つであり、その名もオランダにちなんだものだ。現在のオランダ王家は、オラニエ=ナッサウ(Oranje-Nassau/Orange-Nassau)家というが、オラニエ=ナッサウ家では、代々の当主が「オラニエ公(Prins van Oranje/Prince of Orange)」という肩書きを受け継ぐしきたりになっている。プリンストンという名は、そのオラニエ公の町、すなわち、「プリンス(公)のタウン(町)」ということで、「プリンストン(Princeton)」と呼ばれるようになったとされているのだ。
「プリンストン大学」という名前は、所在地であるプリンストンという町に由来するものだが、最初から「プリンストン大学」だったわけではない。もともとプリンストン大学は、ニュージャージー州の最初の大学として1746年に設立されたものであり、当初は「カレッジ・オブ・ニュージャージー(College of New Jersey)」という名称だった。本連載の読者であれば、カレッジということから推測できるかもしれないが、アメリカ最古の大学であるハーバード大学と同じく、当初は聖職者養成を目的としたものであり、現在のような研究大学ではなかった(本連載第9回)。 カレッジ・オブ・ニュージャージーは設立10年目の1756年に、プリンストンに引っ越してくる。だが、「プリンストン大学」という名前になるのはもっと後になってからだ。1896年、創立150周年を迎えたカレッジ・オブ・ニュージャージーはそれを機に、所在地に合わせ、名称を「プリンストン大学(Princeton University)」と変更する。そして改名と歩調を合わせるかのように、プリンストン大学は、現在我々の知る世界的な研究大学への道を歩み始めるのである。
プリンストン大学が研究大学へと変わるきっかけとなったのは、1902年、後にアメリカ大統領となるウッドロー・ウィルソンがプリンストン大学の学長に就任したことだ。ウッドロー・ウィルソンはプリンストン大学の卒業生であり、ジョンズ・ホプキンス大学大学院で政治学を学んで博士号を取得した後、母校プリンストン大学に教授として帰ってくる。そしてウィルソンは、母校をジョンズ・ホプキンスのような研究大学へと変えることを目指し、学長に就任するのである。プリンストン学長としての手腕を評価されたウッドロー・ウィルソンは政治家に転身し、ニュージャージー州知事となる。そしてさらには第28代アメリカ大統領となる。博士号を持ったアメリカ大統領は彼が最初だ。
ジョンズ・ホプキンス大学はアメリカ最初の研究大学だった(本連載第9回)。ウィルソンは、自らが博士号を取得したジョンズ・ホプキンスを参考に、プリンストンに大学院を設置し、研究大学への道を進ませる。それを実現するためにウィルソンは教授陣の数も倍増させる。また、それまでプリンストンにはいなかった、ユダヤ人やカトリック教徒の研究者も迎え入れる。ウィルソンの大胆な改革には、保守的な旧来の教授陣や同窓生からの抵抗も大きく、これがウィルソンの政治家転身のきっかけでもあったのだが、ウィルソンによる一連の改革がなければ、いま我々が知るようなプリンストン大学がなかったことは疑いない。
プリンストン大学最古の建物ナッソー・ホール(Nassau Hall)。この名称もまたオランダ王家オラニエ=ナッサウ(Oranje-Nassau)家から来ている。(画像出典)
アメリカの数学を変えた男、オズワルド・ヴェブレン
さて、ウッドロー・ウィルソンによる大学改革により、一人の数学者がプリンストンに職を得ることになった。彼の名はオズワルド・ヴェブレン。ヴェブレンこそ、フォン・ノイマンとゲーデルをアメリカに招いた張本人である。彼ら二人以外にも、例えばアインシュタインを招いたのもヴェブレンであり、ヴェブレンがいなければ、こうした数学や物理学の歴史で一、二を争うような学者がアメリカに来ることは、おそらくなかっただろう。それだけではない。様々な意味でヴェブレンは、アメリカの数学を大きく変えた人物なのである。
【いよいよ本日まで!】オンライン講義全4回つき先行販売中!三宅陽一郎『人工知能が「生命」になるとき』ゲームAI開発の第一人者である三宅陽一郎さんが、東西の哲学や国内外のエンターテインメントからの触発をもとに、これからの人工知能開発を導く独自のビジョンを、さまざまな切り口から展望する1冊。詳細はこちらから。
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