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【特別寄稿】人類と生活──広義の思考のために|上妻世海
2020-09-24 07:00
今朝のメルマガは、インターネット番組「作ること、生きること ― 分断していく世界の中で」を放送中の文筆家/キュレーターの上妻世海さんによる論考をお届けします。人類は発展の過程で、虚構を媒介に認知の限界を乗り越え、社会集団の規模を拡大してきましたが、それは「生活」からの乖離を伴うものでした。その弊害が現代文明の様々な領域に噴出するようになる中、同じく「オイコス(家)」の語源を持つ経済(エコノミー)と環境(エコロジー)を改めて包摂する「広義の思考」に、私たちの歩みを進めていくためには?※本記事は、「建築雑誌」2020年2月号 No.1733「特集:震災以降の生活の転換者たち」所収の同名論考を採録したものです。
【上妻世海さん出演予定!】9/30(水) 20:00〜 上妻世海「作ること、生きること ― 分断していく世界の中で」 第3回現代美術や建築から人類学・哲学、脳科学・進化生態学まで、さまざまな分野の叡智をたぐり合わせながら、人として「作ること」「生きること」の深淵を思索していく連続講義、第3回目の放送です。ご視聴はこちらから!
生活の審級性とそこからの分離
かつて、三木成夫は、植物や動物との比較によって共通する原型を求め、各段階における変異-変容を探るゲーテ形態学の方法で、生活の核を食と性の営みであると感得した[1]。彼は植物を栄養と生殖に自足しつつ変態する生物として描き、動物を光合成能力と世代交代の欠如として感覚と運動を備えた生物として捉えた。つまり、植物が持つ自律的な生活形式(成長繁茂と開花結実)の欠如-過剰性として、動物の餌と異性に向かう個体運動を理解するのだ。西洋では、植物から動物へ、動物から人間へと、生物は層状に発達してきたと考えられている。そして、僕たちも日常的に、栄養-生殖よりも感覚-運動を、感覚-運動よりも理解-意志を高級なものと考える。しかし、三木の思考は突拍子のないものではない。なぜなら、生活への適応欠如によって進化が促されることは生物一般に当てはまり、我々人類史の中でも散見されることだからである。
たとえば、ホモ・サピエンスは哺乳類でありながら体毛に覆われていないため、衣服を必要しており、母胎内にいるのは9カ月と比較的短い上に、出産後も長期間にわたって自活できないため、他者からの継続的なケアを必要とする。更に、我々は他の哺乳類より狩猟に適していないだけでなく、人類の中でも相対的に貧弱である。アウストラロピテクスは頑丈型と華奢型に分類され、頑丈型アウストラロピテクスは、歯を含めた咀嚼器官の発達によって、サバンナのますます乾燥していく気候に適応し、より硬い果実や植物を食料とすることができた一方、ヒト属の祖先である華奢型アウストラロピテクスは、乾燥化の進展とともにより硬い食料を避け、道具文化を発達させるようになった[2]。弱かった我々の祖先は道具の制作によって環境を改変し、環境からの独立を進めざるを得なかったのである。結果として生き延びたのは弱さであった。栄養-生殖能力の欠如が感覚- 運動能力を促したように、感覚- 運動能力の欠如が理解- 意志という我々の特徴を促したのである。そして、上述の経緯は、サピエンスが具体的生活から分離していく傾向を起源にもつことを示唆している。 進化の過程は生活への欠如- 過剰性によって、既存の生活から別の生活へと生物を促す。生活は食と性の営みであり、『広辞苑 第五版』でも「生存して活動すること、生きながらえること、世の中で暮らしてゆくこと」と定義されている。それは文字通り、栄養- 生殖(植物)、感覚- 運動(動物)、理解-意志(人間)に共通する基礎- 目的なのである。実際、我々が用いている多くの概念も生活を基礎につくられていた。たとえば、経済(エコノミー)という概念は古代ギリシャのオイコノミアーに起源をもち、オイコス(家)+ ノモス(法)であることから、文字通り家の管理を意味する単語であった。オイコノミアーの理論的定義はアリストテレスに帰せられるが、彼が想定していた家は核家族ではなく、「奴隷や従者や職人、農園や果樹園、家畜を備えた有力な大土地所有者が所有する、半ば城壁で囲まれた大邸宅」[3]であった 。そして、「そうした家が目指すべきであったのが自給自足であった。そのためには節約とやりくりの原則に従って、家庭の資産を慎ましく管理することが求められる」[4]。アリストテレスは経済の本質を生活資料を確保する一つの制度化された過程と捉えていた。経済は他者や自然環境への依存を前提とし、生活を継続的に充足するための実質的な意味だったのである[5]。
しかし、現在、僕たちは経済を、市場を前提とした効率や便益を重視する希少性の原理で捉えている。つまり経済を、経済それ自体を目的とした形式的な意味で用いている。経済は生活から分離し、家や共同体のような有限の基礎を持たないため、利益を自己目的化し、無限に拡大再生産を繰り返すことをよしとされる。古代ギリシアでは、交換は共同体の正義として役立つ限り承認されていたに過ぎない。自己目的としての交換は共同体を不安定化するとして忌避され、経済はあくまで良き生活や共同体の正義を導く実質的な手段であった。興味深いことに、市場経済の始祖とされるアダム・スミスの『国富論』にすら、生活資料こそが国民の富であると明記されている[6]。スミスは市場経済の中で需要と供給によって決定される価値(市場価格)と共同体的富(生活資料)を区別していた。そして、生活資料を便益品や奢侈品よりも優先し、食・衣・住の順で捉えるという審級性を打ち立てた。これまで欠如が別の生活を促すとしても、生活から分離することはなかった。僕たちは慣れ親しんだ生活と概念の分離を真剣に再考する必要がある。
分離の完結と近代の始まり
そもそも経済と貨幣の機能は多元的であった[7]。市場社会以前は、経済の実質的な意味が共同体に根付いており、統合機能は主に互酬と再分配が担っていた。互酬は対称的な親族集団システムを前提とした、集団間の相対する点の移動として定義され、親密な関係や噂話が流通するローカルな範囲のものとされる。再配分は宮殿や神殿のような分配の中心を前提に、中央に向かい、またそこから出る専有の移動と定義され、集団が巨大化し、機能分化し、皆が皆と知り合いでなくなった時に始まった。貨幣の起源は交換原理からではなく、互酬と再分配を前提にしなければ分からない。貨幣は、第一に、婚姻、犯罪、犠牲の必要など、債務の互酬的支払い手段として、第二に、再分配制度の元で徴収した食料などの尺度標準として、第三に、飢饉に対する備えや軍事力や労働力の支払いに対する蓄積手段として考えられる。僕たちの最もよく知る経済の秩序維持機能は交換と呼ばれ、価格の自己調整を担う市場を前提とし、各自に生じる利得を目指して行われる財の相互移動として定義される。しかし、そもそも交換は共同体の内部ではなく、異なる共同体の間に市場が開かれ、そこで例外的に始まった。しかも、それは元々、互いに危害を加えるつもりがないことを示す儀礼的ものであった可能性が高い[8]。マックス・ウェーバーはそのことを「商業は、同一種族あるいは同一共同体に所属する人々の間にはおこなわらず、むしろ取引はただ種族を異にするものを相手にする場合に限っておこなわれる」[9]と述べ、カール・マルクスは「商品交換は、共同体の終わるところで、共同体がほかの共同体と、またはほかの成員と、接触する点ではじまる」[10]と述べた。貨幣の第四の起源として考えられている交換手段としての機能も、個別的な物々交換の行為からではなく、組織された対外交易と関連して発展した。市場社会を前提にすることで、現在のように、交換手段としての貨幣機能が他のすべての貨幣機能を支配し、一元的に統合するのであり、互酬や再配分が中心の共同体では、貨幣用途に応じてそれぞれの貨幣が制度化され、多元的に用いられていたのである。
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7/30から新番組「上妻世海 作ること、生きること」が始まります!【号外】
2020-07-22 07:30気鋭の文筆家/キュレーターの上妻世海さんが、現代美術や建築から人類学・哲学、脳科学・進化生態学まで、さまざまな分野の叡智をたぐり合わせながら、人として「作ること」「生きること」の深淵を思索する新番組がスタートします! 巨大データ×AIによって人の手を離れつつあるテクノロジーと、ウイルスや気候変動など人外のものたちの作用が世界の分断を加速していく中で、それでも人間が創造的な存在であるためには、どこに知の足場を築いていくべきなのか。 いきなり激動を始めた2020年代の奔流に呑まれず、しっかりと考えていくための連続講義です。
第1回目は7/30(木)20時から!
放送はこちらから
https://live.nicovideo.jp/watch/lv327108990ハッシュタグは「#上妻世海 #作ること生きること」
▼プロフィール 上妻 世海(こうづま・せかい) 1989 年生まれ。おもなキュ -
上妻世海 作ること、生きること — 分断していく世界の中で 第1回 創造性についての覚書 — イメージ思考と抽象思考(増補改訂版)【後編】
2020-02-05 07:00
デビュー著作『制作へ』が話題を呼んだ気鋭の文筆家/キュレーターの上妻世海さんによる、制作という営みの根源に迫る書き下ろし連載の待望の更新。今回は昨年夏に公開された第1回に大幅な加筆・修正を施した増補改訂版の後編です。イメージ思考と抽象思考の協働がいかに創造的な行為に結びつくのか、さらなる探求が続きます。
現在の厚みと過去と未来について
僕は意識を思考の流れに合わせたいと思うことがある。例えば、ある特定の主題について思考を深めたい時など、特に僕はそう感じる。文章を書いたり、読んだりする時には、注意を一点に合わせる集中力がなによりも必要である。しかし、願いとは裏腹に、僕の意識は散漫で、ちょっとした音や動き、あるいは別のイメージに執われる。今、僕は原稿を書くためにパソコンと向き合っているのだが、朝のカラスの鳴き声が僕の無意識を駆り立て、僕は窓の外を眺める/眺めさせられる。YouTubeや各種SNSも僕を誘惑する。その隙に、イメージはまた別のイメージと混じり合い、そのたびごとに異なる未来と過去を作り上げる。これまで述べてきたように、僕たちの記憶は、百科事典のように外的に記述された静的な体系ではなく、その度ごとに物語る不安定で一貫性のない作家なのだ。
心理学者マイケル・コーバリスは興味深い実験をしている(*18)。彼は被験者に知識や過去の出来事を思い出してもらい、人物、モノ、場所を新たに組み合わせて、未来の出来事を想像してもらうよう指示した。被験者は、例えば友人のタケシが電信柱に衝突したり、アユミがコーヒーをパソコンにこぼしたり、マサアキが女にこっぴどく振られる場面を想像した。もちろん、それらは実際に生じなかった出来事である。しかし、僕たちは比較的容易にそれらを想像することができる。 興味深いのは、コーバリスがこの実験で、過去の出来事を思い出すときに活性化する脳領域と、未来の出来事を想像するときに活性化する脳領域を記録していたことである。彼はその結果、過去を思い出す時と未来を想像する時に活性化する領域がほぼ重なっていることを発見した。過去も未来も、知識と出来事の組み合わせとして、そのたびごとに現在において生成されているのである。 さらに彼は、この事実をより明らかにするために、海馬を損傷し健忘症を長く患っている被験者を対象に同様の課題を行った(*19)。海馬は新たに記憶を作る場所であり、仮に摘出したとしても、論理的な思考にも、IQにもさほど変化はもたらさない。そして、驚くべきことに、摘出以前の物事であれば、彼らは思い出話に花を咲かせることもできる(*20)。本実験でも、被験者は自分とは関係のない質問であれば過去と未来、どちらの質問にも応えることができた。そして、この時も被験者はMRIに横たわっていて、活性化した脳領域はほぼデフォルト・モード・ネットワークに対応していることが分かった。前者の実験との違いは、本実験では被験者が健忘症を患っており、海馬を損傷していることである。被験者は新たな記憶を作り出すことができない。しかし、彼らは過去も未来も想像できる。そして、彼らのイメージする過去と未来、どちらを想像していても活性化する領域はかなり重複していた。彼らは損傷以後の知識と出来事を私に紐づけることができないのにも関わらず、未来と過去を生成できるのである。 もちろん、ここでいう過去と未来は損傷以前の時間軸に限定される。しかし、もし損傷後の過去や未来について質問したら、彼らはどのように応えるのだろうか。すでにこれに関する実験は行われている。例えば、先ほどの被験者に「昨日何をしていましたか」と質問する。理性が現実を冷静に分析することを主としているとすれば、「昨日のことは何も覚えていません」と応えるのが筋であろう。しかし、彼らは、マイケル・ガザニガの実験と同じく、損傷以前の想起可能な過去を組み合わせて一貫した物語を語り始める。神経学者デイビッド・J・リンデンは、彼らは「『昨日のこと』と称して、『古い友人を訪ね、一緒にレストランに行って昼食をとった。私はコンビーフサンドとピクルスを食べた。その後、公園まで散歩したら、スケートをしている人がいた』くらいの話をすることはあり得る」(*21)と言う。このことから分かる事は、過去と未来はあくまで現在において作り出されているということ。そして、彼らは過去と未来を奪われたわけではなく、現在の厚みを増すことができないということである。それは新たな経験を自分に帰属できないことを意味している。経験は現在という倉庫に新たな素材を付け加えたり、倉庫にある素材を変化させる事である。新たな経験を現在に蓄積できないことは、結果として、過去を書き換え、新しい未来を紡ぎだすことの喪失を意味している。彼らにとって過去と未来は損傷以前の現在から紡ぎ出される組み合わせの物語なのである。
【新刊】宇野常寛の新著『遅いインターネット』2月20日発売!
インターネットは世の中の「速度」を決定的に上げた一方、その弊害がさまざまな場面で現出しています。世界の分断、排外主義の台頭、そしてポピュリズムによる民主主義の暴走は、「速すぎるインターネット」がもたらすそれの典型例といえます。インターネットによって本来辿り着くべきだった未来を取り戻すには今何が必要なのか、提言します。
宇野常寛 遅いインターネット(NewsPicks Book) 幻冬舎 1760円
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上妻世海 作ること、生きること — 分断していく世界の中で 第1回 創造性についての覚書 — イメージ思考と抽象思考(増補改訂版)【前編】
2020-02-04 07:00
デビュー著作『制作へ』が話題を呼んだ気鋭の文筆家/キュレーターの上妻世海さんによる、制作という営みの根源を探求する書き下ろし連載の待望の更新。今回は昨年夏に公開された第1回に大幅な加筆・修正を施した増補改訂版の前編です。「作ること」や「書くこと」を可能にする思考の正体について、脳神経科学の知見を武器に迫ります。
書く道具は進化してきた。便利になったことは言うまでもない。僕自身、特殊な事例でない限り、紙とペンで原稿を書くことはない。しかし、書くことそれ自体は以前のままのように思える。本文で示しているように、書くことは読解、修正、加筆の循環運動であり、編集者はその循環運動の手助けをし、読者は循環運動を作品化したものを読む。紙の本はその形を物質化したものだ。ウェブ上に文字があり、それを印刷することで紙の本になる。これは、逆に言えば、ウェブにある限り、ある意味では試作段階にあると言えるのではないか。紙になった本は修正できない。加筆もできない。しかし、ウェブ上の記事は未だ循環運動を行いうる潜在的可能性を湛えている。 この修正版は2019年7月2日に書かれたものを再度循環運動に載せてみた、また別の作品化である。
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われわれにとって唯一なわれわれの世界とは、そこに万物が存在しかつ万物の変化し流転しつつあるこの空間即時間的な世界である。生物は死んだ瞬間からその身体が解体をはじめるであろう。生物がもし生きたものとしてこの世界に存在しようとするならば、この解体に抗してその身体を維持し、その身体を維持するためにはその身体を絶えず建設して行かねばならぬ。そこに生物とはみずから作るものであり、生長するものであるといわれるとともに、それがまた生きているということにもなるのである。
-- 今西錦司『生物の世界』
制作の始原としての書くことをめぐって
これから本連載にて、僕は様々なテーマについて書いていくことになる。 僕はその時々に惹きつけられたことについて書く。身体の内側から書きたいと思うだけでなく、外側から誘惑されることによって書かされる。僕は思考を、内部にではなく、外部に記す。持って生まれた脳神経系という内部記憶装置にだけでなく、紀元前3000年頃に発明された「書き言葉」を用いて、外部記憶装置(紙やハードディスク)に安定させる。
なぜだろう。そもそも、なぜ、僕は書きたいのか。 それは、一方で思考が流れであり、他方で僕の集中力と記憶力が脆弱だからだ。もちろん、その脆弱性は柔軟性と言い換えることもできて、そのおかげで、例えば、後ろからイノシシが突進してきても、無意識が音を通じて反応し、僕は差し迫る危険にいち早く意識を向ける/向かわされることができるし、記憶はテキストファイルとしてフォルダに保存されるのではなく、常に脳内で様々な可能性へと組み替えられる。記憶のあり方は固定的なものではなく、常にぐにゃくにゃと形を変えながら、可能性を模索する実験室である。
例えば僕が友人と同じ経験をしたとしても、二人が全く異なる記憶を持っていることがある。両者の記憶の差異は、その体験を共有する時、つまりお喋りを通じて明らかになる。僕が「あの時、すごく面白かったよな」と言っても、「え、そんなことあったっけ」なんて返答があることはザラである。 これは記録と記憶の差異であり、文化としての記録と脳神経系としての記憶の違いとも言える。前者が相対的に安定しているとすれば、後者は相対的に不安定である。文字は紀元前388-389年に書かれたプラトンの著作を読むことを可能にしている一方で、僕の記憶は昨日の朝ごはんを思い出すこともできない。ご飯程度なら良いが、寝起きに閃いた物凄い?アイデアも布団の中でうとうとしている内に消え去ってしまう。しかし、思考はこの不安定な記憶を基盤としていて、ある意味それによって創造の余白があると言える。思考は、意識が設定した枠組みを超え出て連想されるからである。
まさに今、僕が書いていることは、当初打ち合わせしたこととは完全に異なることである。人類における「制作」の始原性について書き始めていると、「なぜ書くのか」という問いが僕を捕らえ始めた。そうすると、次に僕はイメージ思考と抽象思考について考えさせられていて、昔読んだ本の内容が次々に連想されていき、会うたびにエピソードを少しずつ変える知り合いのことが思い返された。 僕の注意はテーマを超え、書くことすらも通り過ぎる。その少し虚言癖のある知り合いのイメージが、昨日食べた焼き魚を、焼き魚が学生時代の友人との楽しかった記憶を想起させ、それがなぜか先月見た映画のワンシーンを顕にする。僕は、意識のどこかではこのエッセイについて考えなければならないと思っているのに、映画のワンシーンが次に連鎖したオムライスのイメージによって、僕は身体的に食欲を刺激される。
イメージ、この傍若無人なるもの
僕がイメージという言葉を用いるとき、それは深層心理学で用いられている定義、つまり、情動を伴った「私」への現れのことを指している(*1)。イメージは「私」への現れであり、だからこそ表現を通じて共有されなければ、その齟齬も確認しえない。 もちろん、ここで言う表現には、先ほどのようにエピソードを話し合うという方法もあれば、小説や絵画、映画のような手段も存在する。芸術作品の多くは「私」への現れの複雑さを、多様さを、芳醇さを僕たちに教えてくれる。それを単に齟齬などと呼ぶのはおこがましい。 もちろん、このイメージの定義は常識的な定義と異なる。日常会話ではイメージを画像や網膜像として考えることが多いからだ。心理学者・河合俊雄も、僕たちがイメージについて考える際には、まずイメージがどの定義で用いられているか配慮するよう促している。常識と同じく、実験心理学でもイメージを「『外界の模像』または『知覚対象のない場合に生じる視覚像』のようなものとして考え、あくまで外的現実との関連において考えようとする」(*2)。両者に共通するのは、イメージは単なる視覚的像あるいは画像として捉える傾向であり、外側に物質的正しさ、基準があり、あくまでイメージは外的現実との関連で正しい/間違っていると判断されるということだ。もちろん、その定義は私と対象を分ける客観性を軸に添えており、イメージが主観的な場合、間違いであり、イメージが客観的対象と一致する場合、正しいとされる。その定義は前提からして問題を抱えているが、日常会話は主客の分離を前提とした方が円滑に会話が進むようであるし、再現性のある科学、少なくとも知覚心理学のいくつかの発見に寄与したに違いない。
【新刊】宇野常寛の新著『遅いインターネット』2月20日発売!
インターネットは世の中の「速度」を決定的に上げた一方、その弊害がさまざまな場面で現出しています。世界の分断、排外主義の台頭、そしてポピュリズムによる民主主義の暴走は、「速すぎるインターネット」がもたらすそれの典型例といえます。インターネットによって本来辿り着くべきだった未来を取り戻すには今何が必要なのか、提言します。
宇野常寛 遅いインターネット(NewsPicks Book) 幻冬舎 1760円
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本日20:00から放送!オールフリー高田馬場 2019.9.26
2019-09-26 07:30本日20:00からは、オールフリー高田馬場
今夜20時から「オールフリー高田馬場」生放送です!「オールフリー高田馬場」は、既存メディアや世間のしがらみにとらわれず、政治、社会からカルチャー、ライフスタイルまで、魅惑の週替わりナビゲーターとともにあらゆる話題をしゃべり倒す〈完全自由〉の解放区です!今夜の放送もお見逃しなく!
★★今夜のラインナップ★★今週の1本「HELLO WORLD」北村匠海主演、伊藤智彦監督、グラフィニカ制作のアニメーション映画。主人公が10年後の自分と共に、事故死するするヒロインを助けるため、未来を変えようと奔走するSF青春ラブストーリー。2027年の京都が舞台である今作について、京都を愛する宇野常寛が語ります!週替りナビゲーターコーナー「制作への雑談」現在「作ること、生きること ― 分断していく世界の中で」を弊社で連載中の上妻世海さんが、日々の随想を深く掘り下げてい -
本日20:00から放送!オールフリー高田馬場 2019.8.29
2019-08-29 07:30本日20:00からは、オールフリー高田馬場
今夜20時から「オールフリー高田馬場」生放送です! 「オールフリー高田馬場」は、既存メディアや世間のしがらみにとらわれず、 政治、社会からカルチャー、ライフスタイルまで、 魅惑の週替わりナビゲーターとともに あらゆる話題をしゃべり倒す〈完全自由〉の解放区です! 今夜の放送もお見逃しなく!
★★今夜のラインナップ★★impulse buy「トミカ製 トヨタ ジャパンタクシー 東京2020 オリンピック・パラリンピック」週替りナビゲーターコーナー「制作への雑談」2回目の登場となるナビゲーター・上妻世海さんが、日々の随想を深く掘り下げていくエッセイ・トーク。この夏、モンゴルの人類学調査に同行して新たな異文化接触を重ねた上妻さんによる珠玉の“雑談”に、乞うご期待!and more…今夜の放送もお見逃しなく!
▼放送情報放送日時:本日8月29日(木)20 -
本日20:00から放送!オールフリー高田馬場 2019.7.25
2019-07-25 07:30本日20:00からは、オールフリー高田馬場
今夜20時から「オールフリー高田馬場」生放送です! 「オールフリー高田馬場」は、既存メディアや世間のしがらみにとらわれず、 政治、社会からカルチャー、ライフスタイルまで、 魅惑の週替わりナビゲーターとともに あらゆる話題をしゃべり倒す〈完全自由〉の解放区です! 今夜の放送もお見逃しなく!
★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「海外旅行」今週の1本「トイ・ストーリー4」週替りナビゲーターコーナー「制作への雑談」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
▼放送情報放送日時:本日7月25日(木)20:00〜21:00☆☆放送URLはこちら☆☆
▼出演者
宇野常寛上妻世海(文筆家・キュレーター)
▼ハッシュタグ
Twitterのハッシュタグは「#オールフリー高田馬場」です。
▼おたより募集中!
番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組 -
【新連載】上妻世海 作ること、生きること — 分断していく世界の中で 第1回 創造性についての覚書 — イメージ思考と抽象的思考
2019-07-02 07:00※7/2配信の下記記事に誤りがありましたため、修正して再配信いたします。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。
昨年秋、初の論考集『制作へ』で読書界に鮮烈なインパクトを与えた気鋭の文筆家/キュレーターの上妻世海さんによる、待望の新連載がはじまります。現代美術や人類学・哲学における最先端の思索と実践を下敷きに、制作という営みの根源に迫った前著の刊行から9ヵ月。「書くこと」への徹底的な自己内省と、現代における最も外部化されたメタ認知たる脳神経科学との烈しい交錯が、さらなる探求の扉をこじ開けます。
上妻さんの過去記事はこちら 【対談】上妻世海×宇野常寛 『遅いインターネット計画』から『制作』へ( 前編| 中編 | 後編)
われわれにとって唯一なわれわれの世界とは、そこに万物が存在しかつ万物の変化し流転しつつあるこの空間即時間的な世界である。生物は死んだ瞬間からその身体が解体をはじめるであろう。生物がもし生きたものとしてこの世界に存在しようとするならば、この解体に抗してその身体を維持し、その身体を維持するためにはその身体を絶えず建設して行かねばならぬ。そこに生物とはみずから作るものであり、生長するものであるといわれるとともに、それがまた生きているということにもなるのである。
-- 今西錦司『生物の世界』
「制作」の始原としての「書くこと」をめぐって
これから本連載にて、僕は様々なテーマについて書いていくことになる。 僕はその時々に惹きつけられたことについて書く。身体の内側から書きたいと思うだけでなく、外側から誘惑されることよって書かされる。僕は思考を、内部にではなく、外部に記す。 持って生まれた脳神経系という内部記憶装置にだけでなく、紀元前3000年頃に発明された「書き言葉」を用いて、外部記憶装置(紙やハードディスク)に安定させる。
なぜだろう。そもそも、なぜ、僕は書きたいのか。 それは、一方で、思考が流れであり、他方で、僕の集中力と記憶力が脆弱だからだ。もちろん、その脆弱性は柔軟性と言い換えることもできて、そのおかげで、例えば、後ろからからイノシシが突進してきても、無意識が音を通じて反応し、僕は差し迫る危険にいち早く意識を向ける/向かわされることができるし、記憶はテキストファイルとしてフォルダに保存されるのではなく、常に脳内で様々な可能性へと組み替えられる。記憶のあり方は固定的なものではなく、常にぐにゃくにゃと形を変えながら、可能性を模索する実験室である。
例えば僕が友人と同じ経験をしたとしても、二人が全く異なる記憶を持っていることがある。両者の記憶の差異はその体験を共有する時、つまりお喋りを通じて明らかになる。僕が「あの時、すごく面白かったよな」と言っても、「え、そんなことあったっけ」なんて返答があることはザラである。 これは記録と記憶の差異であり、文化としての記録と脳神経系としての記憶の違いとも言える。前者が相対的に安定しているとすれば(例えば、文字は紀元前388-389年に書かれたプラトンの著作を読むことを可能にしている)、後者は相対的に不安定である。そして、思考はこの不安定な記憶を基盤としていて、ある意味、それによって創造の余白があるとも言えるのだ。思考は、意識が設定したテーマを超え出て連想される。
まさに今、僕が書いていることは、当初打ち合わせしたこととは完全に異なることである。人類における「制作」の始原性について書き始めていると、「なぜ書くのか」という問いが僕を捕らえ始めた。そうすると、次に僕はイメージと抽象的思考について考えさせられていて、昔読んだ本の内容が思い出され、会うたびにエピソードを少しずつ変える知り合いのことが思い返された。 僕の注意はテーマを超え、書くことすらも通り過ぎる。その虚言癖のある知り合いのイメージが、昨日食べた焼き魚を、焼き魚が学生時代の友人との楽しかった記憶を想起させ、それがなぜか先月見た映画のワンシーンを顕にする。僕は、意識のどこかではこのエッセイについて考えなければならないと思っているのに、映画のワンシーンが次に連鎖したオムライスのイメージによって、僕は身体的に食欲を刺激される。
イメージ、この傍若無人なるもの
僕がイメージという言葉を用いるとき、それは深層心理学で用いられている定義、つまり、情動を伴った「私」への現れのことを指している(*1)。イメージは「私」への現れであり、だからこそ表現を通じて共有されなければ、その齟齬も確認しえない。 もちろん、ここで言う表現には、先ほどのようにエピソードを話し合うという方法もあれば、小説や絵画、映画のような手段も存在する。芸術作品の多くは「私」への現れの複雑さを、多様さを、芳醇さを僕たちに教えてくれる。それを単に齟齬などと呼ぶのはおこがましいほどである。 しかし、もしかしたら、このイメージの定義はイメージを画像や網膜像として考える一般的な定義とは異なるかもしれない。心理学者の河合俊雄も、僕たちがイメージについて考える際には、どの定義で用いられているか考えるよう促している。彼が言うには、実験心理学はイメージを「『外界の模像』または『知覚対象のない場合に生じる視覚像』のようなものとして考え、あくまで外的現実との関連において考えようとする」(*2)。 要するに、そこでは、イメージは単なる視覚的像として考えられており、外側に正しさ、基準があり、あくまで内側のイメージはそれとの関連で正しい/間違っていると判断されるということだ。もちろん、その定義は私と対象を分ける客観性を軸に添えており、そういう意味で再現性のある科学、少なくとも知覚心理学のいくつかの発見に寄与したに違いない。
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【対談】上妻世海×宇野常寛 『遅いインターネット計画』から『制作』へ(後編)
2019-01-15 07:00
今朝のメルマガは、文筆家/キュレーターの上妻世海さんと宇野常寛の対談の後編をお届けします。後編は来場者との質疑応答です。対話によって生成される場からは何を持ち帰りうるのか。スケールと距離感から考える新しい都市論の構想。従来的な教養主義がもたらす二項対立を乗り越える〈実践〉のあり方について議論しました。※本記事は2018年10月27日に青山ブックセンター本店で行われたトークイベントを記事化したものです。 ※本記事の前編はこちら、中編はこちら
☆お知らせ☆ ただいま青山ブックセンター本店さんにて、宇野常寛責任編集『PLANETS vol.10』特集を展開していただいています! 特典として「遅いインターネット」計画に関する宇野のロングインタビュー冊子がついてきます。いま冊子が読めるのはこちらの店舗さんだけ。ぜひお立ち寄りください!
主客二元論から対話的な共生関係へ
宇野 質問があれば何でもどうぞ。
質問者1 先ほど、言語と身体の繋がりや速度についてお話されていましたが、たとえば私は今、初めてお二人に向けて喋っているので、私の話す速さについても初めて体験されていると思います。そのときに、この人は何を考えているんだろうとか、他人の走る速度とか喋る速度とか、そいういうことを立ち止まって考える時間や、あるいは俯瞰的視点についてはどのように考えているのか、お聞きしてもいいでしょうか。
上妻 今日は社会的な事象を中心に話しました。僕は社会についてだけでなく、美術やテクノロジーについて話すときも、能動的・受動的という二項対立は使わないようにしています。人が能動的になにかを行うということも、受動的に動かされているんだということも、共に幻想だと思っています。例えば、人間は遺伝子を乗せた乗り物にすぎないという話や、それに対する反論として自由意志というものがあるんだといった議論です。僕が提案したいのは、能動/受動といった二項対立的な議論ではなく、「対話的」であることです。一方的にリズムを押し付けるのでもなく、相手に完全に同期するのでもなく、対話する中でお互いのリズムがその度ごとに立ち上がってくる。今、質問してくださっていますが、質問という形式だと、どういうリズムや速度で話すべきなのか、共有できていない部分が大きいと思います。そこには構造的問題が横たわっています。 お分かりのように、今、質問する人/応答する人という二項対立が存在しています。しかしながら、これは対談とその後の質疑というシステム上仕方ないですが、非常に特殊な状況ですね。実際、もしあなたと僕が、制作環境の只中で対話していく場合、毎日、1〜2時間話す、3日後にまた同じくらい話すといった対話を繰り返していくと思います。そうすれば、あなたも僕のことがわかるし、その逆も然りです。そして、その中でお互いに変化していくと思うんですね。影響を受けたり与えたり、その中で対話のリズムが生まれていきます。俯瞰的視点に関しては、まさにそういった対話のリズムの中でズレが生じたり、うまくいかないことが生じた時に、反省する中で発生するものです。ハイデガーは人がモノそのものについて考えるのは、そのモノが持つ機能が壊れた時だと言います。 例えば、コンピュータで原稿を書くことに集中している時、「何故、キーボードを打ったら文字がディスプレイに表示されるんだろう」などと考えたりはしません。しかし、キーボードを打っても、うんともすんとも反応しなくなった時、「どこが悪くなったんだ、どうすれば動くようになるんだ、そもそもどうしてディスプレイに文字が表示されるんだ」と思考が始まります。対話も同様に、上手くいっている時は反省はしません。しかし、なにか違和感を感じた時、「あの時は意見を押し付けてしまっていたな」とか「相手の表情をしっかりみれていなかったなあ」などと対話を抽象的に仮説的な第三の目で振り返る。それが次の対話での準備になります。そういった関係性を整えることが、ある種の制作的環境を整えるということでもあります。 つまり、この質問でのやりとりのような、突発的に発生した対話で「あなたのリズムが分かります」みたいな超能力のようなことは一切ない。共に継続的に生きていく、共に制作していく、その中に加わり、そこにいるメンバーと対話的に会話し、各々のリズムと同期し、同期しながらも変化し、コンテンツや作品を作っていくというのが、僕のやり方です。それは短時間ではわからない。質問してくださった方も、今は質問するリズムになっちゃってるじゃないですか。それと同様に、宇野さんも今はトークモードになっていて、プライベートではこんな早口な人じゃないと思いますよ。
宇野 僕はプライベートでも早口ですよ(笑)。
質問者1 先ほどタイムラインや発信についてのお話をされていましたが、思考は理解はできてもリアクションができるかとか、こういった共有の場で参加できるのか、そういった感性を持ち合わせているのか。社会的な背景やこれまでの教育とか含めて、やり方を知っている人と知らない人がいると思うんです。そのあたりは自己責任になるしかないのかなと……。
上妻 僕だって最初から今日のように話せたわけではなくて、100回くらいトークイベントをやった上で、今ここに来ている。だから、沢山の人の前で自信をもって話せるわけです。今日初めてここに来た人に「僕たちが早口で喋ったことを処理できないのは自己責任だ」なんて言うつもりはもちろんありません。人間は、様々な経験や、書籍を読むことを含めていろんな人と話すことで段階的に変化していくものです。 実は僕は元々すごく恥ずかしがり屋で、初めて人前で話すことになったとき、緊張しすぎて、iPodでいかついヒップホップとか聞きながら「俺はできる、俺はできる」って自己暗示かけてました(笑)。なんだって最初からできるわけではなくて、プロセスを経れば、いつかはできるようになると思いますよ。
宇野 それって今日のランニングの議論に近いと思う。ここで二人の議論を整理しながら理解し、言い間違いも修正した上で頭の中に叩き込むのは不可能だと思うし、する必要もないと思うんだよね。ここでのトークを一字一句、漏らさずに聞いてメモを取って、そうやって身につけたロジックをTwitterに投稿してドヤ顔しているような人と、ここで得たキーワードやフレーズや思考法を自分のテーマとして持ち帰って、自分の現場で実践している人と、どちらが消費的でどちらが制作的かといえば、答えは明らかだよね。 要するに並走する訓練ができているか否か。コピペじゃなくてね。読解の自由というのは、そういった人間にしか発生しないと思ってる。僕が走ることが好きなのは、歩いたり乗り物に乗ったときの世界に対する速度は一定なのに対して、走っている時が一番スピードをコントロールできるんですよ。それと同じことかなと思っています。
上妻 いかに実践に繋げるか、身体が動くかについては、今日話を聞いたから、すぐにできるようになるといった話ではないですよね。別の人のトークイベントに行ったり、登山したり、旅行に行ったり、そういう時に繋がったりするんですよ。「そういえばあのとき上妻が何か言ってたな」みたいな。
宇野 「あのとき言ってたことって、もしかしたらこういうことじゃない!?」ってなったら、世界の見え方がちょっと変わりますよね。それで十分かな。
上妻 今日、話を聞いたことで即時的に変わるというよりは、これからいろんな体験をしていく中で、記憶の深くにあったものが急にリンクして、ガーッといろんな繋がりが発生したときに「あ、わかった!」みたいなことが起きて、それによって身体がちょっと動く、みたいな形だと思います。
宇野 これまでは「放っておくと変わらない人間をいかにして変えるか」「そのためにもっと他者と触れ合おうぜ」といった議論をしていたんだけど、その前提も変化していて、現在は情報環境の発達によって、人間は放っておいても他者に侵入されて変わってしまう。そんな自分に対してどう向き合うかという方向に、ゲームのあり方自体が変化している、という話を今日はしていたんですよ。人によって理解度や関心があるポイントは違うかもしれないけれど、「変わってしまう自分」に対して、どう向き合うかという方向に思考をチェンジしたほうが、持ち帰れるものは大きいと思いますよ。
〈国家〉でも〈家族〉でもない〈都市〉の可能性
質問者2 P10の解説集に、次号のP11は都市がテーマになるかもしれない、と書かれていて、すごくいいなと思いました。宇野さんはどういう直感や論理から、そのテーマを選ばれたんでしょうか?
▲『PLANETS vol.10』
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【対談】上妻世海×宇野常寛 『遅いインターネット計画』から『制作』へ(中編)
2019-01-09 07:00
今朝のメルマガは、文筆家/キュレーターの上妻世海さんと宇野常寛の対談の中編をお届けします。否応なしにネットワークに接続されタイムライン化する世界認識の中で、〈身体〉に基づいたノード的な存在として自立するためにはどうあるべきか。〈制作〉と〈ランニング〉から、模倣論・メディア論へと議論は広がっていきます。※本記事は2018年10月27日に青山ブックセンター本店で行われたトークイベントを記事化したものです。 ※本記事の前編はこちら
☆お知らせ☆ ただいま青山ブックセンター本店さんにて、宇野常寛責任編集『PLANETS vol.10』特集を展開していただいています! 特典として「遅いインターネット」計画に関する宇野のロングインタビュー冊子がついてきます。いま冊子が読めるのはこちらの店舗さんだけ。ぜひお立ち寄りください!
▲対談直前の上妻世海さんと宇野常寛
ネットワークに流されない〈身体〉の構築
上妻 『PLANETS Vol.10』(以下P10)で面白かったのが、後半にいろんな人のインタビューが載っていて、必ずしもメディアで注目されているわけではないけれど、宇野さんが面白いと思う人たちが集められている。こういう人たちがどんどん出てくる世の中になるといいと思っているんです。必ずしも大衆受けしなくとも、「制作」はそれ自体意義のあるものですし、もしかしたら、いつか、どこかで、結果的に社会的にも重要な価値を持つかもしれません。そういう人に早い段階で焦点を当てるような機能、あるいは勇気付けるような機能が雑誌には求められますし、とはいえ、かなりそういう質を持った雑誌は少なくなってきているようにも思えますが、P10ではそれに成功していたと思っています。 先ほどまでは「身体制作」≒「制作」であるという図式を提示していたのですが、一度その段階を経てしまうと、次に制作者は、隠喩としての「走ること」を通じて「身体制作」を行うこととその外在化として作品化することのギャップにも向き合わなければなりません。そのレベルになって、ある意味、生活を整える目的でのランニングという側面が際立ってくる。P10では第一段階である「身体制作」≒「制作」の段階から第二段階であるその分離までを幅広く扱っていると感じました。分離とはいえ、もちろんそれは切り離せないものではあるのですがそのコントロールが重要になってくる。P10での例で言えば、「身体制作」はロボットを作ってる女の子にとって、継続的可能な制作のための、ある種の準備運動になってくる。
▲『PLANETS vol.10』
宇野 準備運動というか環境整備みたいなものだと思うんだよね。彼ら彼女らにどんな気持ちでインタビューしたかというと、僕を中心とするPLANETSのコミュニティに接続することで、上妻さん的な意味での制作環境を整えて欲しいと思った。それは単に、批評家としての僕に刺激を受けて制作が捗るとかではなくて、P10に参加して知識を共有することで、ランニングによって世界の見え方が変わるように、閉じながら同時に開いているような環境に身体を置いてくれるといいなと思ってやっていたんだよ。 それはインターネット第一世代への僕なりのアンサーになっているんですよね。彼らはリアルとバーチャルを対立項として捉えていて、だからこそリアルにバーチャルが侵入することに快感を覚えていたし、秋葉原の巨大ビジョンで踊る初音ミクに未来を見たわけだよね。もちろん僕もボカロカルチャーにリスペクトはあるけど、ただ、そこに関して限界を感じていたことも確かなんだよね。 実際に、あれから10年経って起きたのは、もうすこし複雑で面白い、そしてタチの悪い現象で我々の日常の中に、かつてバーチャルと呼ばれていたものが侵入して、そのことによって我々のリアルな空間が多重化している。我々の身体はすでに情報化されきっている。そして以前は虚構的な空間にあったものが、カジュアルに持ち歩ける日常の一部になり、そのことで批判力を失っているんだよね。それって押井守が『イノセンス』で突き当たった行き詰まりと全く同じなんだよ。 サブカルチャーの世界でいうと、アニメからアイドルへと中心点が移る地殻変動がまさにそれだった。その結果、みんなが文化的に豊かになったかというと、半分はそうだけどもう半分はそんなことはない。我々がタイムラインを延々と見続けているときのように、一見、多層的で多様ではあるけれど、どこにも切れ目のない、のっぺりとした世界が広がるようになってしまった。 それに対して、物書きやハイカルチャーの担い手の多くは、ネットワークから切り離されて再び孤独に戻れという。しかし、繰り返しになりますが、これはアナクロニズムへの回帰に過ぎない。 僕が、上妻用語でいう「制作」、宇野的にいうと「走るひと」の立場に立つのは、かつて虚構と呼ばれていたものが批判力を持たなくなったこの世界に対して、いかにして多様性や拡張性を回復するかを考えているからなんだよね。
▲この人と始める〈これから〉のはなし
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