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  • ジョーカーなき世界、その後――『インターステラー』 (PLANETSアーカイブス)

    2018-08-17 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、クリストファー・ノーラン監督の映画『インターステラ―』論です。なぜノーランは「ジョーカー」を描けなくなったのか? 『インセプション』『ダークナイト・ライジング』から『インターステラ―』に至る軌跡を、振り返りながら分析していきます。初出:『ダ・ヴィンチ』2015年2月号(KADOKAWA) ※この記事は2015年5月12日に配信した記事の再配信です。
    Amazon.co.jp:『インターステラー』
     一年と少し前、この連載を集めた最初の評論集を出版した(ちなみにこの号が出る頃には二冊目が本屋に並んでいる予定だ)。僕はその自分にとってはじめての評論集に『原子爆弾とジョーカーなき世界』という名前を与えた。もともとこれは、同書に収録した『ダークナイト・ライジング』について取り上げた回につけたタイトルだった。クリストファー・ノーラン監督の手がけたバットマンのリメイク「ダークナイト」トリロジーの最終作にあたる同作は、決して完成度の高い作品ではなかった。しかし、同作におけるノーランのつまずきは、現代を生きる僕たちの想像力の限界を示しているように僕には思えた。映画は傑作とは言い難いが、それとは別の次元でノーランが「ダークナイト」トリロジーを完結させることがなぜできなかったのか、その前作(掛け値無しの傑作である『ダークナイト』)から後退してしまったのはなぜか、どこで壁に突き当たり、そしてどの部分で後退したかを明らかにすることは、とても大事なことのように僕には思えたのだ。だから、僕はあの文章を評論集の本のタイトルに指定した。
     だから僕はノーラン監督の最新作『インターステラー』を、それなりに心待ちにしていた。少なくとも公開日の夜にとしまえんのIMAXシアターで予約して、空いている深夜上映にタクシーで出かける程度には、この作品を大切に待っていたのだ。そして、同作の完成度は僕の期待以上だった。3時間近くの長さを微塵も感じさせない映像の美しさと役者陣の好演には賞賛を惜しむ必要はないだろう。そこで描かれた『北の国から』に勝るとも劣らない父娘の愛情劇に涙する観客も多いだろうし、往年のSF映画ファンの間にはスタンリー・キューブリックの不朽の名作『2001年宇宙の旅』へのオマージュと更新(への意欲)に感心した人もいるはずだ。しかし、僕はこういった要素にはあまり関心を持つことはできなかった。一般論として、ファンタジーを通じてのみ掴み出すことができる人間や世界の本質があると僕は考えている。しかし同作の家族愛や文明論といった主題は少なくともそのレベルでは、宇宙の果てでの五次元的存在との接触といった仕掛けを経なければ描けないものではなかったことは明白であるし、『2001年宇宙の旅』をはじめとする過去の名作群との関連性は世界中の映画史やSF史の専門家が溢れるほどに論じていて、そちらを参照すればよい。
     したがって、僕の関心はひとつ。クリストファー・ノーランという作家が「ダークナイト」トリロジーから持ち帰ったものがこの映画の中でどう生きているのか、だった。そして、結論から述べればそれはほぼ完全に失われてしまったと言えるだろう。
     物語の舞台は、近未来の地球。異常気象による食料生産の激減で人類は滅亡の危機に瀕している。主人公の宇宙飛行士クーパーは、娘マーフィーのもとに正体不明の存在から届けられた暗号に導かれ、人類の移住先の惑星を探索するプロジェクトに参加する。クーパーは「ウラシマ効果」によって、自分にとっての数年が娘にとっての何十年にも相当してしまう現実に苦しみながらも、ブラックホールの中心部で、人類を導く五次元的存在と接触し、重力制御の論理を時空を超えて過去の娘に伝達する。つまり、物語冒頭で父娘にサインを送ったのはこのときのクーパー自身であることが、ここで明かされる。そして、クーパーはブラックホールから生還し、自分のもたらした知識によって数十年の間に人類が危機から脱したことを知る。そして老齢になったマーフィーと再会したクーパーは、再び宇宙のフロンティアを目指して旅立っていく。
     賛否両論の渦巻く本作への批判として代表的なものとしては、その脚本の淡白さがある。たしかに、多くの論者が指摘するように同作は勘のいい観客なら、あるいはSFの愛好家ならば開始15分でほぼ完璧にクライマックスの展開を予測できるだろう。だが、個人的にはこの批判には与しない。というか関心がもてない。なぜならば、過去にあれだけ緻密で意外性に満ちた物語展開で観客を翻弄してきたノーランが、このような淡白さを是とした理由はひとつしかないからだ。ノーランは美しき予定調和のためにこの淡白な脚本を積極的に選択したのだ。そして僕が気になるのは、このノーランの選択した脚本的な淡白さが、そのまま同作の人間観、世界観の淡白さに直結していること、なのだ。
    「This is what happens, when an unstoppable force meets an immovable object.(絶対に止めることのできない力が絶対に動かないものに出会ったとき、こういうことが起きるわけだ。)」
     これは『ダークナイト』の結末近く、バットマンに捕縛されたジョーカーが口にする台詞だ。「絶対に止めることのできない力」とはジョーカー自身のことであり、そして「絶対に動かないもの」とはバットマンのことだ。同作はこのジョーカーとバットマンにトゥーフェイスを加えた三怪人の対比で成り立っている。
     すべてのイデオロギーが(たとえば古き良きアメリカの正義が)、相対的な「小さな正義」でしかないことが前提化した現代によみがえったバットマンは、当然その正義の根拠を問い続ける物語を生きることになる。トリロジーの二作目『ダークナイト』に登場したバットマンは、前作『バットマン ビギンズ』で描かれたように幼き日に両親を悪漢に惨殺されたトラウマを解消すべく戦うヒーローとして登場する。しかしその一方で、その「正義」の執行が半ば自己目的化している。バットマン=ブルースの目的は正義の実現ではなく正義の執行になりつつあるのだ。バットマンの最大の支援者であり、幼なじみのレイチェルはそんなブルースに疑問を抱き、彼ではなくその盟友である正義の検事ハービー・デントを生涯の伴侶に選ぶ。デントはバットマンとは異なり、古き良きアメリカの正義を信じ(それが無根拠なものであっても、あえて)掲げることにためらいがない。「父」を仮構し、演じることにためらいがなく、バットマンのようにその執行が自己目的化もしてはいない。
     一方でジョーカーは力の行使が自己目的化しているバットマンのそのさらに先を行く存在だ。本作におけるジョーカーは登場するたびに自分が怪人と化すに至った過去のトラウマを饒舌に語るが、その過去はその都度異なっている。そう、つまりそれらは「嘘」なのだ。そしてジョーカーには金銭や権力やトラウマの解消といった「目的」や「動機」が存在しない。本作におけるジョーカーは「世界が燃えるのを見て楽しむ存在」と規定される。バットマンが正義の執行自体を半ば自己目的化しつつあるように、ジョーカーにとって悪それ自体が「目的」なのだ、それもより徹底されたかたちで。すべてのイデオロギーが相対化された「小さな正義」でしかない世界、「正義」の成立しない世界では同時に「悪」も存在できない。『ダークナイト』は、ジョーカーはそんな世界における究極の正義/悪の存在を掴み出そうとした作品なのだ。
     そしてデントは回帰的であるがゆえに、やがてジョーカーに利用され、怪人トゥーフェイスに堕落する。デントは「父」であることに拘泥するあまり、その可能性が失われたことへの絶望につけ込まれ、連続殺人鬼に変貌するのだ。ここに同作の三怪人は一直線に並ぶことになる。もっとも家族回帰的であり、物語回帰的であるデント=トゥーフェイスがもっとも「弱く」、そして正義/悪の自己目的化がもっとも進行したジョーカーがもっとも「強い」。そして私たち観客=バットマンはその中間に、トゥーフェイスが立つ古い世界と、ジョーカーの体現する新しい世界の中間に立っているのだ。
     続く『インセプション』ではどうだったか。他人の夢の世界に侵入する特殊な企業スパイを生業とする主人公のコブは、夢の世界への侵入とコントロールを濫用した結果、最愛の妻を結果的に自殺させてしまったという過去をもつ。そして彼は現在もその罪悪感から亡き妻の亡霊に悩まされている。妻殺しの容疑者として誤解され、子どもとも引き離されたコブは、家族を取り戻すために危険な仕事に身を投じることになる。そう、ここで問われているのはいわばトゥーフェイスのレベルの問題だ。トラウマが成立せず、すべてのコミュニケーションが自己目的化した現代の臨界点=絶対に止まらないもののレベルに存在するジョーカーの問題でも、そんな新しい世界に直面し、迷い続けるバットマンのレベルでもない。こうした新しい世界の出現によって失われてしまったものを追い求めるゾンビのような主体、前作で言えば「父であること」に拘泥するトゥーフェイスと同じレベルでコブは生きている。
     そして、物語の結末、コブはミッション中に妻の亡霊を振り切り、「父であること」を回復するために夢の世界から現実への帰還を試みるがその成否はオープンエンド的に宙づりにされる。
     そう、ここでノーランは夢の世界の連鎖を切断し、トラウマを回復し、現実に帰還するという結末を明確には描かなかった。いや、描けなかった。なぜか。ノーランは『インターステラー』に際するインタビューでこう語っている。
    スマホ世代に僕の『インセプション』(10年)が人気なのは、あれが心の内側へ内側へと向かっていく話だからだと思う。『インセプション』は内側に向かってばかりじゃダメだ、という話なんだけどね。だから『インターステラー』では外に、宇宙に向かうんだ。(『映画秘宝』2015年1月号)
     ここから分かるのはノーランが情報社会を「人々を内向的にするもの」と考え、そして『インセプション』における夢の世界に侵入し、それをコントロールすることを同じように自分の内面の問題に拘泥し、外部性を失った閉鎖的な行為として捉えているということだ。
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