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  • 空虚な中心をめぐる物語としての『KATSU!』| 碇本学

    2021-09-30 07:00  
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    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。21世紀初頭に連載されたボクシング漫画『KATSU!』をめぐる分析の最終回です。主人公の亡き父・赤松隆介が物語における「空虚な中心」となった本作の成否を、現在公開中の映画『ドライブ・マイ・カー』など同型の構造をもつ作品群と対比しながら考察します。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第19回 ③  空虚な中心をめぐる物語としての『KATSU!』
    映画『ドライブ・マイ・カー』に通じる物語構造
    今回は『KATSU!』に通じる現在公開中の映画『ドライブ・マイ・カー』の話から始めてみたい。なぜならば、映画『ドライブ・マイ・カー』の物語の構造が『KATSU!』と近いものがあるからだ。 『KATSU!』はあだち充の兄の勉が亡くなるなどの外的な要因も含めて、プロ編に突入することはせずに物語を途中で切り上げて、新しく編集者となった市原武法と共に次作『クロスゲーム』を始めることになった。 映画『ドライブ・マイ・カー』のような方法論が取れていれば、『KATSU!』はあだち充がフリージャズ的な手法で無意識で描いてしまっていた物語の主軸がもっと活きていたのではないかとも思える。今回は両作品に通じるものはなにかについて論じてみたい。
    映画『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹の短編集『女のいない男たち』に収録された「ドライブ・マイ・カー」を『ハッピーアワー』や『寝ても覚めても』で知られる濱口竜介監督が映像化したもので、2021年開催の第71回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に正式出品され、同映画祭の脚本賞、国際映画批評家連盟賞、エキュメニカル審査員賞、AFCAE賞を受賞した。 短編小説「ドライブ・マイ・カー」は原稿用紙70枚ほどの長さであるが、映画版では『ドライブ・マイ・カー』だけではなく、『女のいない男たち』に収録されている短編小説「シェエラザード」「木野」もモチーフとして使われている。また、演劇作品『ゴドーを待ちながら』や『ワーニャ伯父さん』も劇中劇として取り入れられたものとなっており、上映時間はほぼ3時間と長尺なものとなっている。

    舞台俳優であり演出家の家福は、愛する妻の音と満ち足りた日々を送っていた。しかし、音は秘密を残して突然この世からいなくなってしまう──。2年後、広島での演劇祭に愛車で向かった家福は、ある過去をもつ寡黙な専属ドライバーのみさきと出会う。さらに、かつて音から紹介された俳優・高槻の姿をオーディションで見つけるが…。 喪失感と“打ち明けられることのなかった秘密”に苛まれてきた家福。みさきと過ごし、お互いの過去を明かすなかで、家福はそれまで目を背けてきたあることに気づかされていく。最愛の妻を失った男が葛藤の果てに辿りつく先とは──。〔参考文献2〕

    上記が簡単な作品の流れである。 家福の妻の音が死ぬまでが物語の冒頭パートのようになっており、その2年後、家福が演劇祭で上演される『ワーニャ伯父さん』の演出をするために広島に滞在することになる。そこで演劇祭の事務局が選んだ専属ドライバーとなるみさきと出会う。そこから物語の本編が始まるという構成になっている。
    冒頭パートにあたる妻の音が生きている頃に主人公の家福が『ゴドーを待ちながら』の舞台に出演している場面がある。その舞台終わりの家福の楽屋を音が訪ねてきて、紹介するのが物語のキーマンであり、家福とは対照的な俳優の高槻だった。ここで音を中心にして家福と高槻というふたりの男が出会うことになり、2年後の広島の演劇祭に繋がっていく。 高槻は出演者オーディションに合格し、ワーニャ伯父さん役を家福から指名されることになる。ふたりは稽古の後に何度かバーで一緒に飲むことになるが、高槻はその場にいた一般人がスマホのカメラのシャッター音を鳴らすと、芸能人である自分たちを盗撮したと思って凄むという行動を取ってしまう危なさがあった。その凶暴さやキレる早さに家福は付き合っていれないと思って、当初は深くは関わらないようにしていたが、彼は本番前に大きな事件を起こしてしまう。高槻は音が生きていた時に性的な関係を持っていたであろう人物であり、彼にとって音はある種のメンターであったような発言をしている。そのメンターを失った彼はその夫であった家福に近づいてきたようにも見えるのだ。家福と高槻は同じ女性を愛したが、同時に彼女を失ってしまい、バランスが取れなくなった男性として描かれている。
    演劇『ゴドーを待ちながら』はアイルランド生まれのフランスの劇作家であるサミュエル・ベケットが1952年に発表した2編からなる戯曲であり、1953年のパリのバビロン座で初演された。賛否両論を巻き起こしながらも前衛劇として異例の成功を収めた。 存在しているのかいないのか、来るのか来ないのか分からない「ゴドー」という人物をずっと待ち続けるという内容であり、不条理演劇の元祖ともいわれる。 今作では『ゴドーを待ちながら』と『ワーニャ伯父さん』が劇中劇として取り入れられているが、前者は原作小説には登場しておらず、後者は原作小説にタイトルのみだが登場している。 濱口監督が前作『寝ても覚めても』でチェーホフの『三人姉妹』を使っていたこともあり、原作に『ワーニャ伯父さん』の文字を見つけ、テキストの強度に圧倒されて、ワーニャと家福がシンクロし始めるような事態が監督の中で起きたという。そのため、『ワーニャ伯父さん』はもうひとつの原作と言っていいほどの存在感を映画の中で発揮している。 では、『ゴドーを待ちながら』はなぜ使用されたのかという疑問に関しては、共同脚本を書いた大江崇允に関係があったようだ。 大江はもともと演劇をやっていたこともあり、主に前半部の監督補として、演劇部分のリアリティをチェックしていた。そして、大江が一番好きな演劇が『ゴドーを待ちながら』だと聞いた濱口監督が作中に取り入れるかたちとなった。
    冒頭パートでわずかにしか登場しないこの『ゴドーを待ちながら』は、この『ドライブ・マイ・カー』のテーマのひとつを正確に現している。つまり、いるのかいないのか、来るのか来ないのかわからない「ゴドー」という中心をめぐる物語は、そのまま妻の音という中心を欠いた家福の物語を暗喩している。 大江が好きだという理由だけではなく、この中心を欠くという部分に濱口監督はワーニャと家福を重ねたように、『ゴドーを待ちながら』に登場する浮浪者のウラミディールとエストロゴンと家福を重ねたのではないだろうか。
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  • レゴブロックを花に、そして、ブロッコリーを木に。──「見立て」をつかって日常を豊かにする方法|田中達也×三井淳平

    2021-09-29 07:00  
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    本日のメルマガは、ミニチュア写真家・見立て作家である田中達也さんと、レゴ認定プロビルダーの三井淳平さんとの特別対談をお届けします。ミニチュアグッズやレゴブロックを何気ない日常の風景に見立てるとき、クリエイターの視点から世界はどのようにみえているのでしょうか。二つのクリエーションに通底するメカニズムと鑑賞者の抱く共通感覚から、人間が持つ普遍的な想像力の輪郭に迫ります。(司会:山口未来彦・中川大地、構成:徳田要太)
    レゴブロックを花に、そして、ブロッコリーを木に。──「見立て」をつかって日常を豊かにする方法|田中達也×三井淳平
    日常の風景をミニチュアパーツで見立てることの刺激
    ──今日はレゴ認定プロビルダーの三井淳平さんと、ミニチュア写真家・見立て作家である田中達也さんをお呼びしました。日常の何気ない事物や現象を「見立て」の力によって作品にしているお二人に、コロナ禍以降自宅や近所での楽しみ方が問い直されているいまだからこそできる、「見立て」の力で生活を豊かにする方法をお伺いできればと思います。
     まずはこれまでのご活動をご紹介いただきつつ、実際にどういうふうに作品づくりを行っているのかと簡単にお話しいただければありがたいと思っております。では、三井さんからお願いできますか?
    三井 はい。私はレゴ認定プロビルダーといって、レゴブロックを使った創作活動をしています。主に企業から依頼を受けて、その会社の商品や関連するものをレゴブロックで作ることが多いです。今年でプロになって10年目になりましたが、創作を始めたのは大学院生のころで、その後会社員を経て独立し、今は法人として活動しているというかたちです。
    田中 10年目! 僕と一緒ですね。
    三井 あ、そうなんですか!
    田中 お互い節目のタイミングですね(笑)。
    ──記念すべき対談になりそうな感じですね(笑)。
    田中 僕はミニチュア写真家・見立て作家として、見立てをテーマにした作品を毎日SNSで発表しています。今年で10年目になります。元々はデザイナーとして働いていて趣味で始めたこの活動ですが、継続するなかでいろいろなところから注目されはじめ、展覧会や企業の依頼を受ける機会が増えてきました。
    ──お二人はもともとご面識があったんですよね?
    三井 はい。私も一人のファンでして、一度展覧会にお伺いしたことがあります。
    田中 そうなんですよ。スタッフもみんなびっくりして、「えー!」「招待券送らなくてよかったのー?」なんて言っていました。次また東京で開催するときには招待券を送らせていただきますので。
    三井 ありがとうございます。ぜひぜひ(笑)。
    ──三井さんから見た、田中さんの作品の魅力はどういうところにあるのでしょうか?
    三井 細かい目のつけどころやアプローチはもちろんなんですけれど、それを継続して更新されているところです。もうネタ切れになるんじゃないかと心配してしまうようなペースで製作しているのに、それでも毎回その期待を裏切って、どんどんどんどん新しい発想が出てくるところだと思っています。
    田中 ありがとうございます。こうやって皆さんに言っていただけるから続けられるところもあって。それと、創作を続けていると皆さん目が肥えてくるので、さらにその期待を超えられるレベルを出すということが楽しみにもなっています。
     もちろん自分でも新しい発想ができたと思えるときとそうでないときはあるんですが、逆に毎日継続してやっているからこそ変に気負わず実験的な制作を行える部分もあって、今は毎日やるということがいい方向に働いていると思っています。だからSNSのフォロワーさんたちを飽きさせないために毎日やるというよりは、どちらかといえば修行や筋トレに近い感じがしますね。
    ──「ネタ切れが心配になる」というのは見ている皆さんがけっこうそう思われることかなと思うんですが、田中さんのアイデアの源のようなものはどこから生まれるのでしょうか?
    田中 日々思いついたことをメモするようにしています。メモといっても、スマホにただ一行「○○で××」というふうに書くだけですが。たとえば代表作のブロッコリーで見立てた木の作品の場合、「ブロッコリーで木」と書いただけです。「レゴブロックで作った世界遺産展」に出展したときも「このレゴのパーツで○○」とだけ書きました。そのワンモチーフ・ワンアイデアのメモから「明日はどれにしようかな?」とその日の気分で創作内容を決めています。だから作品を作るときにも、土壇場で考えるというよりはすでにある選択肢から選んでいる感覚のほうが近いです。
    ▲『MINIATURE LIFE』©Tatsuya Tanaka
    ▲実際の撮影の様子
     こういう仕事なので、何をしていても大体頭の片隅には「見立て」のことを考えていて、食事をしたり買い物をしたり、一人で何かを考えてられるときには特にアイデアが生まれやすいですね。もちろん遊びに夢中になっていたり誰かと会話をしたりするときはあまり発想が働かなかったりしますけど、三井さんはこの辺りはいかがでしょうか?
    三井 そうですね。やはり外を歩いているときなどが、一番アイデアが出るかもしれないですね。たとえば建物や風景を見たときに「どういうレゴの組み方をしようか」というようなことを考えます。
    田中 そのときにはなにか写真を撮ったりメモをしたりして記録に収めることはあるんですか?
    三井 どちらかというと僕は頭の中にイメージを蓄積していくタイプなんです。たとえばビルにしても、有名なものであれば世の中に写真がたくさん出回っていると思うんですけれども、よく目にする典型的なビルこそジオラマで表現したくなってしまうので、そういう「ありきたりなビルってどんなものなんだろう」というような考えを普段から自分の中で蓄えていて。それらの共通項を抽出して「こういうものだとビルっぽく見えるんだ」とか「こうすれば当たり前の景色が作れるんだ」というようなところに意識が向くことが多いですね。逆に共通項がみえていれば、その共通項からのブレを探すという意味で特徴的なビル作るときにも参考になるんです。
    ──おもしろいですね。何か具体的なビルを真似するというよりは、いくつものビルを見てなんとなくある「ビル像」を形成していくということですよね。
    田中 あー、僕もその考え方に近いですね。「これを見立てたい」と思ったときには、一度「みんながイラストを描くとしたらどういうふうに描くだろうか」ということを考えます。たとえばヨットを描くというと、三角形を描いてその下に半円を描く、といったイメージがあるじゃないですか。ならその形の組み合わせがあれば何でもヨットに見立てられるわけで、三角形のものと半円のものを探そう、という発想で簡単な形や色に落とし込みます。だからたとえばいまおっしゃったようなビルを表現したいときには、「長方形に穴が空いているもの」「何層かに分かれている物体」「その一番下がポカンと空いているもの」といった特徴を満たせばなんでもビルに見えるのかな、というようなことを考えます。
     これは自分の創作スタイルにもつながることなのですが、僕はなるべく手数を増やしたくなくて、「見立て」というのは手数が増えると逆に伝わらなくなってしまうんですよね。手数を増やして何かを忠実に再現するというよりは、ある対象をなるべく少ない数のものだけで見立てるのが最良のパターンだと思っています。だからレゴビルダーさんがしていることの逆を向いているところもある気がしていて、というのもレゴビルダーさんはものすごく大量のレゴで大きな作品を作りますよね。もちろんときには少ないパーツのものもありますが、僕の場合はその必要最小限のパーツで対象を表現することのほうに興味が向きます。自分がレゴで遊んでいても大量のパーツから建物を作り上げるということはできなくて、そこまでの構造を考えられない。逆にそういうものはどうやって作るのか気になっています。
    三井 いまおっしゃったように「たくさんのブロックで大きいものを組むタイプ」と「小さくて少量のパーツで見立てをするタイプ」というのは実際にどちらもジャンルとして確立していて、ある意味派閥に分かれてるようなところがあったりします。
    田中 あ、そうなんですか! 「俺はこっちが好きだぜ」というような言い争いが起きたりはしないのでしょうか。
    三井 そうですね。若干対抗意識があるというか、「たくさんブロックがあったら当然作れるでしょ」といったことを言う人もいたり、逆に「少ないパーツだから、簡単にできるんじゃないの」というようなことを思う人もいたり、多少のライバル意識がある気がしています。私はどちらかというと大きさを求められる作品を依頼されることが多くて、個人的には小さいブロックを見立てることで作品を作るというのも好きなんですが、仕事としてなかなかやる機会がなくてあまり表に出せていないですね。
    田中 なるほど。今まで見た中で一番印象に残っている作品はありますか?
    三井 そうですね。かなりシンプルなところでは、一番スタンダードなタイプで2×4の長方形ブロックがありますよね。あれの白いブロックの上に赤いブロックを重ねて「お寿司」に見立てた作品があります。お寿司といえば「白いものの上に何か色のあるものが乗っている」という情報だけで、それだけで完全に記号として成り立っていますし、シンプルさと相まってけっこうインパクトのある作品です。
    ▲お寿司に見立てたレゴブロック
    田中 なるほど。そういうタイプの作品がアートとして認められて展示されるようなことはないのでしょうか?
    三井 少量のパーツをアート作品とみなすのは、レゴの世界ではけっこう少ないかなという気がします。それこそ田中さんのように、「コンスタントに10年続けています」というくらいのレベルになってきたらアイデンティティーとして認められる可能性はあるんですけれど、何個か作品を出したことがある程度だとアートとして認知されるにはなかなか至らないかもしれないですね。
    田中 そういうのを集めてみる展示もおもしろいかなとたまに考えるんですけどね。
    三井 あ、おもしろそうですね。私からいくつかの形のパーツをお送りして、いろいろと見立ててもらうなんてこともおもしろそうです。田中さんの目線で見ていただくと、新しい発想がどんどん出てくると思います。レゴのパーツは形だけでも数千種類ありますから。
    田中 そうですよね。建物の作品などを見ていても「この装飾にこのパーツ使うか……!」ということが勉強にもなります。あのようなパーツの使い方は「誰々が最初に発見した使い方だ」というような歴史があるんですか?
    三井 ありますあります。「何々式」というような手法がありますね。レゴの世界ではファンたちが組み方をネット上で共有して集合知を作っていくカルチャーがあるので、その手法を真似すること自体はぜんぜん悪いことではないとされています。
    ──いま「白と赤のブロックでお寿司」という話をされたときに「なんで今まで気づかなかったんだろう」と思ったんですよ(笑)。白と赤のレゴブロック自体はかなり多くの人が見たことあるはずなんですが、それがお寿司に見立てられるということに気づくにはどうしたらいいのでしょうか。
    三井 小さい子どもほどそういう発想は出てくるので、遊び心がすごく大事かなと思います。
    田中 うちの子どもは小学生なんですけれど、まさにその「白と赤でお寿司」というようなことは、もう制作のたびに毎回言われます。無理矢理なのものもありますけれど、やはり子どものほうがそういう発想はすごくうまいです。おままごとなんてまさにそうですもんね。
    ──おままごとは、大人が使っている道具を子供でも使えるサイズに、まさにミニチュアとして見立てる行為ですよね。そうするとどうしても実物との間に齟齬が生まれるわけですが、作品をつくる際に実物のどの部分を残してどの部分を残さないかというような基準は持っているのでしょうか?
    田中 実物とまったく同じだと全然おもしろくないと思うんですよね。実物とはかけ離れているんだけど、脳が補完するとなぜかそのものに見えてしまう、そのギリギリのラインがおもしろいと思うんですよ。たとえばさっき言われたのは白いブロックの上に赤のブロックがあれば「寿司」に見立てられるということですが、その隣に小さい人なんかを配置すれば実は「家」にも見えてくるかもしれない。そういうふうに脳の補完が誘発される瞬間が気持ちよくて、「これだけのパーツで、なんでそれに見えてしまうんだ!」というような驚きが頭の中で働くと、ドーパミンか何か、わからないですけど頭の中を駆け巡りますよね。そういう意味では、その脳の補完があればあるほどおもしろいと思うので、実物とはなるべく違うほうがおもしろいと思いますね。
    三井 田中さんの作品の中で特に印象深いものの一つで、ホチキスの芯をビルに見立てている作品がすごく好きで。あれはまさに題材の大きさとしてもギャップがすごく大きいし、細かい線が横に入っているのもすごくビルっぽく見えて、写真をぱっと見たときは最初ホチキスの芯だと気づかなかったんですよ。でもよく見ると「あ! すごいな」という発見があって、いまおっしゃっていただいた脳が補完するときの快楽のようなものも発生しますし、すごく好きな作品です。
    ▲『芯シティ』 ©Tatsuya Tanaka
    田中 ありがとうございます。そうですよね。その補完の瞬間が楽しいですよね。レゴの作品を作るうえで僕の作品を生かせそうな部分はあるんでしょうか。
    三井 ありますよ。レゴの世界でもやはりパーツを見立てて落とし込んでいくような部分はあって、ただそれが作品のメインになるというよりは細部にそういう表現をさりげなく使うようなやり方なんですね。普段制作を続けていると、できるだけ使いやすいシンプルなパーツで構成して作品がワンパターンになりがちなので、田中さんの作品にみられるような発想を取り入れて、普段使わないパーツも使っていったほうがパンチの効いた作品を生み出せます。それこそ見た人が「こんなところにこのパーツ使うんだ……!」という刺激のある作品になるので、田中さんのような発想は意識的に取り入れたいなと思うときが多いです。
    ──最近のレゴの製品で言うと、2030年までにブロックを100%持続可能な素材に置き換えるという環境目標の一環で「フラワーブーケ」を再現するというシリーズがありますよね。あれは生花や造花のように贈答したり部屋に飾ったり、実際の花の用途として使えるものを、あえてレゴブロックで置き換えることにチャレンジしているという、いわば大人版のおままごとのようなものじゃないですか。ああいった作品をユーザー側の見立てによる制作に先んじて、公式が商品として売り出していくことに対しては、どうお考えですか?
    三井 レゴを買う方の層はすごくレンジが広いので、ああいう遊び心の要素があると、初めて手に取った方がよりおもしろいなと感じて入り込むきっかけになると思います。いろいろな人のフックになる要素が最近のセットには増えてきたのは、レゴの会社の将来としてはすごくいいことだなと思っています。
    田中 ここ10何年かで、僕が子どものときに知っていたようなレゴと比べると、製品自体もものすごくパワーアップしてきていますよね。そうしたツール側の発展にも触発されるかたちで僕も創作を続けていくなかで、もし20年後、30年後にかけてみなさんの「見立て」の目が肥えていったときに、どれほどのレベルの作品が出てくるになるのかと、僕も創作を続けていくなかで期待しているところがあります。たとえば、壁にめりこませてレゴを作るアーティストがいるじゃないですか。あれも「うまいことやったな!」と思いますよね。
    三井 まだまだネタの余地はありますよね。
    躍動感や物語を作品に落とし込むことでみえてくるもの
    ──今までお話しいただいたものは建物などの静物でしたが、生き物を作るときは少し違うところがあるのではないでしょうか。たとえば素人考えですが、生き物の場合は躍動感のようなものが加わってくるのではないかという気がするのですが、そういったものを制作するときはどんなことを考えますか?
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  • PL学園野球部の淵源? 明治期のトップエリートを育んだ「籠城主義」「校友会」というキャンパスカルチャー|中野慧

    2021-09-28 07:00  
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    ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の‌第‌14回「PL学園野球部の淵源? 明治期のトップエリートを育んだ「籠城主義」「校友会」というキャンパスカルチャー」をお届けします。東京大学教養学部の前身とされる一高のキャンパスカルチャーから、現代の「野球エリート」たちを育む環境の淵源について考察します。
    中野慧 文化系のための野球入門第14回 PL学園野球部の淵源? 明治期のトップエリートを育んだ「籠城主義」「校友会」というキャンパスカルチャー
    〈文明化〉とはなにか
     本連載の第12回で少し触れたが、20世紀にドイツとイギリスで活躍した社会学者ノルベルト・エリアスは『スポーツと文明化』のなかで、「近代におけるスポーツの発展は暴力が抑制されていく過程である」と論じている。  そもそも私たちは、〈闘争〉〈暴力〉をエンターテインメント(娯楽)として消費する性向がある。戦後日本では高倉健や菅原文太の任侠映画が人気を博してきたし、現在もたとえば暴力に明け暮れる不良少年たちの抗争を描いた『HiGH&LOW』シリーズや、『東京リベンジャーズ』などの作品が高い人気を得ている。
    ▲『東京リベンジャーズ』(2021)(出典)
     人類史を遡ると、古代ローマでは奴隷どうしを「剣闘士」として戦わせたり、または剣闘士と猛獣を円形闘技場(コロッセオ)で戦わせたりしていた。中世ヨーロッパでは街の中心部で行われる犯罪人の処刑が、市民の日常の楽しみとして行われた。  古代ローマでは「ハルパストゥム」という、サッカーやラグビーなどのフットボールの原型となったゲームが行われていたが、殴る蹴るもOKで敵陣にボールを運ぶことを競うという、暴力的な色彩の非常に濃いゲームであった。このゲームはルネサンスの時期にイタリアで復活し、「カルチョ・ストーリコ(カルチョ・フィオレンティノ)」という名で現代も残っている。
    ▲現代も行われているカルチョ・ストーリコ。動画を見るとわかるが、ほとんど素手で戦う戦争のようである。
     この民衆で行うフットボール(マス・フットボール)は、中世にフランス、イギリスへと北上し、村同士の戦いという形式を取り、あまりに過激化するので国王から禁止令も出された……というのはすでに述べたとおりである。  マス・フットボールは民衆娯楽としては優れていたが、暴力的すぎるという欠点があった。そこでルールを整備することにより暴力性を逓減させ、〈楽しみ〉=つまりスポーツへと純化させていったのがサッカーやラグビーである。  エリアス曰く、スポーツは民主主義社会でしか生まれないという。  人類史上最初に、現代のスポーツに通じる文化が生まれたのは古代ギリシアで行われた古代オリンピックだ。古代ギリシアでは、市民権を持つ男性たちが共同で政治に参加する「民主主義」に基づいた統治が行われていた(もっとも、民主政とはいっても基本的に女性や奴隷が排除されていたという点が、現代と大きく違うが)。普段は抗争に明け暮れるギリシア都市国家どうしが4年に一度、一時休戦をし、市民たちによる徒競走や円盤投げ、レスリングや戦車競走などで勝ち負けを競い合い、それを通じてゼウスをはじめとしたギリシアの神々を祀る宗教行事が古代オリンピックだった[1]。だが2世紀以降、地中海世界でキリスト教が普及したことにより、古代オリンピックは「異教の祭典」ということで白眼視されるようになり、やがて終焉を迎えた。  それから1500年ほど下って19世紀後半、普仏戦争でプロイセン(のちのドイツ)によって蹂躙されたフランスでは、「ドイツに復讐すべき」という世論が盛り上がっていた。そのときに「やられたやりかえせ、では真の平和は訪れない」という危機感を持ったフランス貴族のピエール・ド・クーベルタンが、かつてギリシアで行われていたという古代オリンピックにヒントを得て、「スポーツという平等なルールのもとで競い合う国際イベントを開催してはどうか」と考え、近代オリンピックを創始したのであった。古代オリンピックはゼウスらギリシアの神々を祀る祭典だったが、クーベルタンはその代わりに「世界平和」という理念を込め、近代オリンピックは現在にまで続いている。  こうしたフットボールやオリンピックの歴史を見ていくと、人間が持つ〈闘争〉〈暴力〉への渇望を、統一的なルールを定めるなどして暴力的な要素を取り除き、純粋な楽しみへと昇華させていく努力こそが、近代スポーツの歩みの本質であると言える。暴力性や乱雑さが濾過され、民主的な近代社会へと向かうプロセスこそがエリアスの言う〈文明化〉であり、スポーツはその重要な要素のひとつだった。近代スポーツの発生は、そうした大きな流れのなかに位置づけられるのである。
    明治期、なぜサッカーやラグビーではなく「野球」が人気になったのか
     野球が日本に入ってきた時期は、すでに述べたように近代化の波が押し寄せていた明治時代である。だが野球とほぼ同時期に、現代では野球よりも人気スポーツになりつつあるサッカーやラグビーなども入ってきていた。近代化以降に流入した舶来のスポーツのなかで、なぜ野球の人気だけが高まったのだろうか?  この点に関しては「バットが刀に似ているので日本人に理解しやすかった」などさまざまな俗説があるが、日本のスポーツライターの草分け的存在である玉木正之(1952年〜)が、著書『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう! 』(春陽堂書店、2020年)のなかで興味深い説を述べていたので紹介したい。  玉木曰く、日本の武家社会では、平安時代に行われた源平合戦の時期から、最終的に「一騎打ち」で雌雄を決するという形式が好まれるようになっていった。  しかし当然ながら、人々どうしの紛争を解決する手段として暴力を用いる際に、雌雄を決するのは一騎打ちではない。相手をいかにして欺き、味方どうしでいかに連携して戦うか、つまり権謀術数と組織戦こそが勝利のためには必要であり、それが戦争のリアリズムである。  ところが血で血を洗う戦国時代を経て、江戸時代という平和な時代(パクス・トクガワーナ)になり、剥き出しの荒々しい暴力、勝つための組織戦=チームプレーが必要であるというリアリズムが鳴りを潜め、日本人たちの「戦い」そのものへの観念がフィクショナルなものへと変化していった。特に、戦国時代に行われたという上杉謙信・武田信玄の一騎打ちなどが文学や浄瑠璃で盛んに語られることで、庶民のあいだでも「戦い=一騎打ち」という観念が浸透していった。江戸時代という長い平和の時代を経て、日本人は「チームプレー」というものを理解するフレームワークを長らく失ってしまっていたのだ。  明治期に入ってきた舶来のスポーツのなかでも、サッカーやラグビーは前述のとおり、より本来の「戦い」のリアリズムに近いものだった。サッカー、ラグビーは「流れ」があり、チームプレーの側面もかなり強くある。このチームプレーというものの面白さが、当時の日本人には理解されなかった。しかし野球には投手と打者がいて、「一騎打ち」の性格が強く見られる。だから当時の日本人が持っていた戦い=一騎打ちというフレームで理解しやすかった、というのである。  逆に言えば野球は、そうした本当の戦いのリアリズムから離れたフィクショナルな部分が、ある意味で「平和ボケ」していた当時の日本人たちの心を捉えることができた、と見ることができる。こうして「平和ボケした日本人」の観念に合致し、人々の心をいったんは掴んだ野球はしかし、ここから「近代化」の荒波のなかに否応なく放り出されることになっていったのだ。
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  • アイデア幻想術 ①アウトプットベースでインプット ──(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革 第18回〈リニューアル配信〉

    2021-09-27 07:00  
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    (ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。いまだ実現していない働き方改革を思い描くためには、現実世界の様々な事象を高い解像度で記憶する必要があります。今回は、坂本さんがオタクならではの方法で情報を記憶に定着させるコツについて解説します。
    (意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第18回 アイデア幻想術 ①アウトプットベースでインプット
    あらすじ
     いま目の前にある働き方には存在しない、新しいやる事・やり方・やる力の選択肢を思い描き、細部まで具体的にイメージを固めていく「幻想力」を高めるためにはどうすべきでしょうか。 私の結論は「現実には起こっていないことを、細かいことまで妄想する習慣をつける」です。 今回は、その習慣づくりの一つのテクニックとして、「人の脳の性質」に着目した、アウトプットベースでインプットするという手法をご紹介します。
    幻想の素は蓄積された記憶
     幻想とは、現実ではない世界をまるで現実世界のように具体的に細部まで思い描くことです。ということは、幻想の世界を精緻なものにするには、現実世界の様々な事象を記憶していることが不可欠です。  幻想の世界をジオラマとすると、記憶とはそのジオラマを構成する様々なパーツです。 たとえば電車が走る風景のジオラマであれば、車両や線路はもちろん、樹木や河川、信号機や民家、看板や電柱、動物たちといった部材があればあるほど、リアルなものになっていきます。 幻想力があるということは、脳内に多様な部材(記憶)がたくさんあり、それらを引っ張り出してきて、今とは異なる世界を作り上げられることです。 どんなに突拍子もない世界であっても、「知らないもの」からは生まれません。その人が過去に収集・蓄積した別々の記憶が少し変わった組み合わせ方で関連づけられることで新しい世界が生まれるのです。 たとえば、資料の仕上げや作成代行を行うコンシェルジュという仕組みも、ゼロから生まれたわけではありません。アニメ制作において、一人がすべての作画をしているわけではないように、コンテンツというものは複数の人で手分けをして作ることができるという記憶があったからこそ、資料についても同様に途中から別の人(コンシェルジュ)が受け持つことはできるという考えに至ったわけです。
    記憶は忘れ去られていくもの
     幻想というパズルを完成させるには記憶のピースが潤沢にあることが大事ですが、「人は忘れていく生き物である」と言われます。 どんなに必死に詰め込んだ数式も、世界の歴史も、受験が終わればどんどんと脳から消えていきます。日々出会った人との会話も、わざわざ高いお金を払って受けに行ったセミナーの内容も、ふと気がつけば忘却の彼方に追いやられています。  どんなに「アンテナ脳」を鍛え、自然といろいろな情報に意識・注意(Attention)を払えるようになったとしても、それらを記憶領域に「知」として留めておけなければ意味がありません。 逆にきちんと知として認識・記憶し続けることで、それらを多様な知を組み合わせて私の働き方改革につながる新しい選択肢(やる事・やり方・やる力)を生み出すことにつなげられるようになります。 しかしながら、私自身あまり記憶力が良い方ではなく、周りからも三歩歩くたびに何か一つ忘れていく困った人扱いをされています。アニメの声優さんの過去出演作品とか、『銀河英雄伝説』の登場人物名とか、ポケモンなど二次元の世界のことがらはやけに覚えていてスラスラと挙げることができるのですが、他のこと、とくに現実世界のこととなるとからっきしダメです。 人名もほとんど覚えられないので、人と会話するときに間違えるのが怖くて名前を呼べず、よそよそしい会話になってしまいます。チームメンバーに声をかけるときすら、名前がすっと出てこないので呼びかけることができずに通り過ぎられてしまったりして凹んでいます。 とはいえ、意識高い人のように常にメモ帳を持ち歩いて欠かさず記録を残すということも億劫ですし、そもそも手帳を持ったこともありません。時々手帳を買ってしっかりメモする人間になろうと思い立つこともあるのですが、文具店に行く途中に目的をすっかり忘れてしまい、アニメグッズのくじ引きを大人買いしてはホクホク顔で大荷物を抱えて帰り道についてしまっています。ついでに言うと、ペンもすぐどこかに置き忘れてなくしてしまいます。
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  • Daily PLANETS 2021年9月第4週のハイライト

    2021-09-25 09:00  
    おはようございます、PLANETS編集部です。
    いよいよ新雑誌『モノノメ』が発売され、すでにお手元に届いている方もいらっしゃるかと思います。創刊記念トークショーをはじめ、さまざまなイベントが盛りだくさんの9月、今後ともよろしくお願いいたします!
    さて、今朝のメルマガは今週のDaily PLANETSで配信した3記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの概要をご紹介します。
    今週のハイライト
    9/21(火)【連載】横断者たち暮らしにもっと植物を、都市に土の手触りを|鎌田美希子(前編)

    編集者・ライターの小池真幸さんが、「界隈」や「業界」にとらわれず、領域を横断して活動する人びとを紹介する連載「横断者たち」。今回は、プランツディレクターの鎌田美希子さんに話を伺いました。「土から離れて暮らしてしまっている」都市において、私たちはいかにして植物との関係性を取り結んでいけばよいのか。「
  • ここが全ての始まり、太平洋のインフォーマルマーケット|佐藤翔

    2021-09-24 07:00  
    550pt

    国際コンサルタントの佐藤翔さんによる連載「インフォーマルマーケットから見る世界──七つの海をこえる非正規市場たち」。新興国や周縁国に暮らす人々の経済活動を支える場である非正規市場(インフォーマルマーケット)の実態を地域ごとにリポートしながら、グローバル資本主義のもうひとつの姿を浮き彫りにしていきます。中央アジアから地中海を抜け、七つの海をつなぐ世界のインフォーマルマーケットを巡ってきた本連載も、いよいよ最終回。地球の隅々にあらゆる商品を提供する太平洋の両岸、アメリカと中国での非正規市場のあり方に迫ります。21世紀の世界経済を牽引し、表の市場が非正規市場を駆逐しつつあるように見える両国での存在感を確かめながら、これからの世界でのインフォーマルマーケットの役割を考察します。
    佐藤翔 インフォーマルマーケットから見る世界──七つの海をこえる非正規市場たち第9回(最終回) ここが全ての始まり、太平洋のインフォーマルマーケット
    太平洋は、アメリカや日本といった国々が面する巨大な海です。中国の沿岸にあるのは黄海や東シナ海、南シナ海といった海であり、太平洋には直接面してはいないものの、環太平洋の国々に含まれることが多いです。商業航路となった歴史は大西洋や地中海よりも短いですが、現代では経済大国に囲まれ、世界で最も重要な経済圏の一つとなっているのは間違いありません。
    南シナ海と同様、太平洋も華僑の活躍が著しい地域です。北米の中華モールは、彼らの活動が太平洋の西側だけではなく、東側にも及んでいる証拠です。今回は主に太平洋を挟む二つの大国、アメリカと中国について、これらの国々のインフォーマルマーケットがどのような構造になっているのかをお話ししたうえで、各地のインフォーマルマーケットが今後どのようになっていくのかについて、私なりの予測を述べたいと思います。
    アメリカ・カナダにもあるインフォーマルマーケット
    アメリカは、言うまでもなく世界最大の経済大国です。最強の経済力を持つ国家の政府にとっては、インフォーマルマーケットは自国企業のビジネスの邪魔にしかなりません。これまでにも何度も取り上げてきたアメリカ通商代表部は、各国のインフォーマルマーケットを敵視し、アメリカの様々な業界団体から情報をかき集め、毎年「悪質市場リスト」の一覧を発表している、インフォーマルマーケットの格付け機関でもあります。
    さて、このようにビジネスにおいても世界の警察官たらんとしているアメリカ合衆国、その国内には、インフォーマルマーケットは存在しないのでしょうか? アメリカのインフォーマルマーケットはFBIや内国歳入庁、ウォルマートが皆根絶やしにしてしまったのでしょうか? 答えは否です。
    アメリカは世界中から様々な人が集まる超大国です。長大な国境と海岸線を持ち、膨大な数の人々が出入りする国です。不法移民の処遇は社会的なイシューとして頻繁に取り上げられています。私がかつてアリゾナ州の大学院に留学していた際、夜にヘリコプターがサーチライトで地上の何かに照明を当て続けているのを見たことがあります。近くの人に、「あのヘリコプターは何をしているんですか?」と聞くと、「Man Hunt!」という答えが返ってきました。メキシコに接するアリゾナ州では、メキシコからアメリカに強行突破で入ってくる人々がいるそうなのです。このように、ヒトの移動ですらインフォーマルな流れが起きているのに、モノの移動にインフォーマルな流れがないわけがありません。
    アメリカのインフォーマルマーケットの規模についてよく引用されるのが、やや古いですが、Richard J. CebulaとEdgar Feigeによる「アメリカの無申告経済」という2012年の論文です。彼らは、2009年のアメリカにおいて、1.8~2.4兆ドルの収入がアメリカの内国歳入庁に申告されていない、と述べています。1ドル=110円として日本円にすると198兆円~264兆円、約100兆円程度とされる日本の一般会計歳出よりもずっと大きいのです。
    この中には当然、大企業による申告漏れのようなものも含まれているわけですから、私たちがこれまでに見てきたインフォーマルマーケットの定義にこの収入規模の全てが当てはまるわけではありませんが、アメリカの経済がフォーマルマーケットだけで成り立っていない、ということはこの数値からよくわかります。アメリカが麻薬の大消費国であり、中南米からアメリカに大規模なコカインの流通網がある、というのはよく知られているかと思いますが、このような完全なアンダーグラウンドの商品以外でも、新興国で見るような偽物商売はアメリカでもきちんと(?)成り立っているのです。一番わかりやすい例はアメリカの大都市の各地で定期的に開催されているフリーマーケットでしょう。
    フリーマーケットを不用品交換会、swap meetと呼ぶこともあります。ロサンゼルスですと、毎年年初にカレッジ・フットボールの試合が行われることで有名なローズ・ボウルで毎月第二日曜日に開催されるフリーマーケットがヴィンテージ品や古着、各種中古品の販売市として有名です。入場料の存在、高価な場所代などもあって、このローズ・ボウルのフリーマーケットはカリフォルニアの数あるフリーマーケットの中でも最も秩序があり、フォーマルマーケットとインフォーマルマーケットの限界事例のような存在になっています。
    ▲ロサンゼルス郊外のフリーマーケット。フリーマーケットはアメリカでは最も身近なインフォーマルマーケットかもしれない。
    ▲フリーマーケットで販売されていた中古ゲームの類。
    自動車大国であるアメリカでは、郊外のドライブインシアターでフリーマーケットが開催されることがしばしばあります。特にカリフォルニア州のようにメキシコと国境を接する州では、メキシコ人のトレーダーがこうしたマーケットに訪問し、商品を売りさばいています。
    アメリカのインフォーマルマーケットがどのような状態になっているのかは、ロサンゼルスのような、日本人がよく行くような大都市でも観察することができます。特に見つけやすいのは都市中心部の問屋街と問屋街の間にある隙間地域です。一例を挙げましょう。ロサンゼルスには、トイ・ディストリクトという玩具問屋地区があります。この卸売店が立ち並ぶストリートの中に、狭い路地があります。この路地を抜けていくと、パラソルを指した露店が立ち並ぶ裏通りに出るのです。ここでは、ゲームや映画の海賊版製品が多く売られているのを目に出来ました。北米ではオンラインのコンテンツ流通が整備されているので、こうした海賊版製品はハリウッドのメジャーな作品などではなく、現地のヒスパニックに人気のある音楽や映像作品が販売の主力になっていました。
    ▲ロサンゼルス、トイ・ディストリクトの裏路地の露店街。
    ▲ロサンゼルスの露店で売られている映像作品やゲーム類の海賊版。
    アメリカの隣国であるカナダも先進国扱いされる国の一つですが、インフォーマルマーケットはやはり存在します。有名なのが東部の五大湖の一つ、オンタリオ湖に面するトロントにある、パシフィックモールです。このモールは商人がテナント式でオーナーから区画を買い、店を開く仕組みになっており、中国製の海賊版や偽物商品が売られる店がたくさん存在することで知られてきました。こうした状況ゆえ、ショッピングモールは2018年にUSTRによって「悪質市場」の一つに指定されました。カナダで唯一悪質市場の認定を受けたことで、ショッピングモールのオーナーは強くショックを受けたことを表明し、偽物を取り扱う商人の取り締まりに協力することを表明しました。
    ▲カナダのパシフィックモール。(出典)
    新興国の市場においては、USTRにこうした指定を受けてもなかなか変化がないものなのですが、このショッピングモールの場合には海賊版ビジネスは本当に消えていったようです。北米でオンラインでのゲーム・映画等コンテンツの流通が早期に整備されたことが前向きに働き、映像作品の海賊版ビジネスそのものが成り立ちにくくなったのです。このショッピングモールの場合は、先にロサンゼルスの話で出てきたような、ヒスパニック向けの映像作品といった、オンラインのコンテンツプラットフォームの恩恵を受けにくい層に刺さるニッチ市場の海賊版製品も少なかったようで、こうした商売が成り立たなくなってきたところに強い取り締まり要請があったことが、海賊版ビジネスが収束する要因になりました。
    しかし、海賊版ビジネスは鳴りを潜めたものの、偽物商品は相変わらず一定量扱われているようです。一旦商人がモール内の区画を買ってしまった後に、海賊版や偽物を売り出すようになってしまうと、通報でもない限り、ショッピングモールのオーナーは手出しができないからです。このパシフィックモールは、USTRの「悪質市場」にこそ掲載されなくなりましたが、欧州委員会(EC)の偽物・海賊版ウォッチリストには2020年版に相変わらず掲載されており、服や履物、玩具、カメラ、スマートフォン、コンピューター、電化製品、化粧品、宝飾品といった様々な分野の偽物がこのショッピングモールで扱われていることを警告しています。
    ちなみにこの欧州委員会のレポートによると、パシフィックモールのほかに、欧州のケベックのSaint Eustache Flea Market、オンタリオの747 Flea Marketといった市場が偽物商品を扱っている市場として警告を受けており、カナダ全土にこうした偽物商売の拠点があることがわかります。
    「世界のインフォーマルマーケットの元締め」中国
    世界各国のインフォーマルマーケットで扱われている商品は、最先端の製品、汎用品を問わず、中国製のものが多い、という話はどの地域でも見てきた通りです。では、それらのインフォーマルマーケットの商人は中国のどこから商品を仕入れているのでしょうか?
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  • 暮らしにもっと植物を、都市に土の手触りを|鎌田美希子(後編)

    2021-09-22 07:00  
    550pt

    編集者・ライターの小池真幸さんが、「界隈」や「業界」にとらわれず、領域を横断して活動する人びとを紹介する連載「横断者たち」。今回は、プランツディレクターの鎌田美希子さんに話を伺いました。後編では、ビジネスと研究、アートと領域横断で「人と植物の距離をもっと近づける」活動に取り組んできた鎌田さんの歩みに迫ります(前編はこちら)。 ※「横断者たち」の第1回~第4回はPLANETSのWebマガジン「遅いインターネット」にて公開されています。今月よりメールマガジンでの先行配信がスタートしました。
    小池真幸 横断者たち第5回 暮らしにもっと植物を、都市に土の手触りを|鎌田美希子(後編)
    多肉植物は誤解されている──空間緑化ツールを開発した理由
     自らが生まれ育った環境と、都市部の「土から離れた」環境との違いに驚き、「人と植物の距離を近づけたい」という問題意識を抱くようになった鎌田さん。その活動の端緒は、オフィス向けの緑化を手がけるところからはじまった。先述のように自然に囲まれて育った鎌田さんは、「大好きな植物の研究をしてみたい」という想いから、大学では農学部に進学。生命科学を専攻し、農学研究科を修了したのち、野菜の種を開発するメーカーに就職した。その会社を辞めて東京に出てきたのが、20代半ばのときだ。
    「東京にはいろんな人がいて、いろんな刺激的な世界があって、とても楽しかったです。でも、やっぱり自然が少ない。コンクリートだらけだし、毎日朝から晩まで、とても無機質なオフィスで過ごしている。何かが足りない、これは何かおかしいのではないか。そう感じるようになって、もう一度原点に返り、植物を広める仕事をしたいと考えるようになりました。植物が感じさせてくれる、ワクワクや楽しさ、癒やしをもっとみんなに気づいてもらい、生活の中に取り入れてほしいなと」
     まずは働きながら、室内に植物を飾るための「インドアグリーン」の知識を学ぶための学校に一年間通った。その後、はじめは知り合いベースで、オフィスや家の緑化を手がけるように。仕事の傍らフリーで行っていたこの活動の延長で、現在のロッカクケイ合同会社での緑化事業を本業とするようになった。  ロッカクケイが手がけたプロジェクトの一つが、多肉植物たちのユニークな形や魅力を再現した室内緑化ツール「TANICUSHION®︎(たにくっしょん)」だ。たにくっしょんを立ち上げた2015年当時、園芸業界は空前の多肉植物ブームに湧いていた。多くの人々が多肉植物の面白さやかっこよさに惹かれ、高価なサボテンも流通するようになったが、「水をあげなくても育つ」「室内だけで育てられる」といった謳い文句に、違和感を覚えていたという。
    「当時、私も『オフィスにサボテンを置きたいんだよね』という相談を受けることが増えました。ただ、多肉植物にまつわる知識が、正しく伝わっていないもどかしさを感じまして。サボテンは本来、雨が少なくて、直射日光がガンガン当たる場所で生き抜くために、あのような水を貯めやすい形で進化しているんですね。だから、日本のような高温多湿な気候にはあまり向いていません。それから、室内に置くと太陽の光量が少なくて、丸かったものが途端にひょろひょろとして(徒長して)いき、やがて枯れてしまいます。『サボテンは外で生きる植物。室内に置きたいなら、代わりに多肉植物をリアルに再現したクッションを置きましょう』という想いから、室内緑化ツールのたにくっしょんを作ることにしたんです」
    ▲「たにくっしょん」には、アガベやエケベリア、ダシリリオンなどの種類がある。抱きしめたときに心地よい素材感や、一つひとつの植物にそっくりなフォルムにも徹底的にこだわり、日本の職人が心を込めて手作業で作りあげているという。
     その他、クッションで祝い花を表現した『Iwai-bana』なども手がけ、植物の施工などにも手を広げたが、「好き」という気持ちだけでビジネスを成立させることに限界も感じるように。オフィス向けの緑化サービスとしては、レンタルの貸鉢やリースの植物を置き、週に一度だけ業者がメンテナンスし、弱ったら知らないうちに取り替えられているというものが主流だという。しかし、鎌田さんは「そういうことはしたくなかった」。「植物を愛でて、一緒に生活する仲間として迎え入れてほしい」という想いが根底にあったからだ。  とはいえ、植物に触れてこなかった人々にとって、継続的に適切な世話をすることは簡単ではない。そもそも、経営判断としては、「植物にコストをかけよう」というジャッジを下すこと自体が難しい。感覚的に良さは感じるものの、メンテナンスの手間をかけてまで導入する根拠を示しづらいのは、想像に難くないだろう。
    研究でエビデンスを示し、アートで直感に訴えかける
     クッションを作ったのは一つの“代替案”であり、本来やりたかったのは、本物の植物を扱うことだ。その上、緑化ビジネスは費用対効果が示しづらい──そんな閉塞感を覚えていたとき、目の前に現れた新たな選択肢が「研究」だった。  知人がベンチャー企業を経営しながら博士号を取得したということを聞き、「え? そんな選択肢があるの?」と驚いた鎌田さん。調べてみると、植物が人に及ぼす効果を研究する「人間・植物関係学会」の存在を知る。もともとバイオ系の研究室出身の鎌田さんにとって、園芸セラピーやオフィス緑化、病院緑化の効果についての研究は、とても新鮮に映った。
    「研究というアプローチを使えば、緑化ビジネスの効果を証明するエビデンスが見つけられるかもしれない。そう思って、強く興味を持ちました。たまたま近い時期に、人間・植物関係学会が秋田で開催されると知って、一人で飛び入り参加。小さな学会なので、みなさん良くしてくださって、その中にいま私が所属している千葉大学大学院園芸学研究科の研究者がいたんです。それでゼミにお邪魔するようになって、受験して入ることになりました」
     千葉大学大学院の園芸学研究科は、国立大学法人としては日本で唯一の園芸学の研究科だという。千葉大学のキャンパスの多くが置かれている西千葉ではなく松戸に単体のキャンパスを構え、遺伝子組み換えからランドスケープまで、学際的な観点から植物の研究がなされている。  鎌田さんが選んだ研究テーマは、オフィスにおける植物の効果。オフィスに植物が置かれていることで、働く人のストレスや仕事に対する印象がどう変わるのか、心理テストやアンケート調査、印象評価、ストレスホルモンなどの生理的な指標をもとに研究している。執務スペースのみならず、休憩室に着目して、そこに植物を置くことによる効果も研究しているという。  研究対象をオフィスにしたのは、「緑化ビジネスに活かしたい」という直接の動機によるところもあるが、何よりかねてより鎌田さんが抱いていた「都市における人と植物の距離を近づけたい」という問題意識に直結するものだ。国連の予想によると、今後もますます都市人口は増えていき、2050年までには世界人口の数十%が都市に住むようになる見込みだという。だからこそ「いかに自然に戻すか」ではなく、「どうすれば都市の中に自然を取り入れていけるか」という研究に意義を感じ、都市の中でも多くの人が一日のうちの大半を過ごすオフィスを選んだのだ。  そしてビジネスと研究に加えて、鎌田さんの3つ目の軸となっている活動が、アートである。
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  • 暮らしにもっと植物を、都市に土の手触りを|鎌田美希子(前編)

    2021-09-21 07:00  
    550pt

    編集者・ライターの小池真幸さんが、「界隈」や「業界」にとらわれず、領域を横断して活動する人びとを紹介する連載「横断者たち」。今回は、プランツディレクターの鎌田美希子さんに話を伺いました。「土から離れて暮らしてしまっている」都市において、私たちはいかにして植物との関係性を取り結んでいけばよいのか。「人と植物の距離をもっと近づける」ための方法を考えます。 ※「横断者たち」の第1回~第4回はPLANETSのWebマガジン「遅いインターネット」にて公開されています。今月よりメールマガジンでの先行配信がスタートしました。
    小池真幸 横断者たち第5回 暮らしにもっと植物を、都市に土の手触りを|鎌田美希子(前編)
    コミュニケーション過剰な時代に、意思疎通できない「植物」と共に暮らす
     ここ数ヶ月、人生で初めて、「園芸」というものに興味を持つようになった。近所の小さな園芸ショップの店先を眺め、たまに小さな観葉植物の鉢を買っていくだけなのだが、これがけっこう楽しい。一つ数百円の小鉢が、日によって少しずつ違うラインナップで並べられており、「今日はどんな植物が出ているのだろう?」とささやかなワクワク感が得られる。気に入ったものがあれば、買って帰り、部屋に置くようにしている。  そして何より、植物を育てるという営みの奥深さ。といっても、たまに水をあげたり、日に当ててあげたりくらいしかしていないのだが、これが意外にも難しい。植物によって、水をあげるべきタイミングや、日に当てるべきかどうかが異なる。さらには、知らぬ間に葉っぱが茶色くなっていたりと、日によってコンディションが上下する。  もちろん、言語的コミュニケーションは一切通じない。かなり面倒な同居人であることはたしかだ。しかし、常にSNSやインターネットに接続され、意思疎通の海に溺れそうになる現代だからこそ、であろうか。コミュニケーション不可能な他者とのかかわりが、なぜだか心を落ち着かせる。毎日数分だけでも世話をすることによって、生活に彩りと安息が加えられている感覚がある。それも、たった数百円で、枯れない限りずっと楽しめる優れものだ。  周囲の知人からも、コロナ禍を機に植物を育てるようになったという声を、ちらほらと聞く。筆者は首都圏のベッドタウンで生まれ育ち、現在も都市部に住んでいる。幼少期はいわゆる昆虫少年で、カブトムシやクワガタに目がない時期もあったが、基本的に、自然にはあまり触れ合わずに生きているタイプの人間だと思う。しかし、ここにきて約20年ぶりに、生き物と共にある生活のみずみずしさを味わっている気がする。
     筆者がいままさに体験している、都市部において、いかに「自然」とのかかわりを紡ぐか。都市化が進行しつつある昨今、重要性がますます高まるであろうこの問いを考えるべく、ある人物をたずねた。話をうかがったのは、「人と植物の距離をもっと近づけたい」という想いのもと、ビジネスと研究、アートを〈横断〉しながら活動している、プランツディレクターの鎌田美希子さん。「多肉植物ブーム」への問題意識から立ち上げたクッション『たにくっしょん®︎』などを通じた空間緑化事業を手がけるロッカクケイ合同会社を経営しながら、千葉大学大学院園芸学研究科博士課程で、オフィスにおける植物の効果を研究。2019年にオフィスを植物による植物のための空間とした展示『Office Utopia』、2020年に微生物を主題として初の個展『(in)visible forest』を開くなど、アーティストとしても活動中だ。  マクロトレンドとしては都市化がますます進行しつつある中で、私たちはいかにして植物との関係性を取り結んでゆけばいいのか? 「土から離れて暮らしてしまっている」都市における、人と自然のあるべき関係を議論した。
    現代人が直面する「プランツ・ブラインドネス(植物への盲目)」
    「20代半ばで東京に出てきて最も驚いたのが、人々の植物への無関心さです。多くの人が植物に興味がなくて、私が植物の話をしても、『ああ、草ね』くらいのリアクションしかされない。昔から植物が心の底から好きだった私にとって、とてもびっくりさせられることでした」
     鎌田さんは穏やかな口調で、こんな経験を語ってくれた。筆者はこの言葉を聞いたとき、周りを見渡しながら「あぁ、そういうことか」と、深い納得感を得ていた。  というのも、鎌田さんの生活そのものが、「植物のことを心の底から好き」を体現していたからだ。今回の取材は、鎌田さんのご厚意により、(もちろん十分に感染対策を講じたうえで)自宅にお邪魔するかたちで行われた。取材前は、いちインタビュアーの分際でパーソナルな空間に足を踏み入れることに、恐縮する気持ちもあった。しかし、お邪魔した途端、そんな気持ちも吹き飛ぶほど驚いてしまった。室内の所々に観葉植物などが置かれているのはもちろん、まるで植物園のように、さまざまな植物が敷き詰められた壮観なベランダがあったのだ。


     こうしたかたちで植物とかかわっていたら、東京に住む人々が植物に「無関心」だと感じてしまうのも当然だろう。しかし一体、鎌田さんはなぜ、ここまで植物に惹かれているのだろうか? 一般に植物の良さといえば、癒やしやかっこよさ、かわいさといったポイントが思い浮かぶ。しかし、鎌田さんには、それらよりも先に来る感情があるという。
    「植物は面白いんですよ。私は東北の田舎で生まれ育ったのですが、当たり前に自然に囲まれた環境で育つ中で、植物が大好きになりました。自宅には花やサボテンがたくさんあり、すぐ横に小さな畑がある。母の実家は農家で、田畑に連れていってもらうこともありました。小学校には、田んぼのあぜ道や林の中を通りながら、30〜40分かけて歩いて通学。学校の裏には大きな雑木林があって、放課後は毎日そこで遊んでいました。植物好きが高じて、小遣いを貯めて食虫植物を買い集めたりするようにもなりましたね。変わった子どもだったと思うのですが(笑)、親もけっこう付き合ってくれまして。ドングリを植えるための植木鉢を一緒に焼きもので作ってくれたり、『あそこの山に生えいている、ギンリョウソウという腐生植物が見たい』と言うと、その場所に連れていってくれたり。最初は食べられるものから興味を持ったのですが、キイチゴがたくさん林になっていたり、ブドウが8月頃になるとやわらかくなったりと、毎日いろいろな植物を見て、触れて、時には口に入れて、その変化を感じられるのが、とても面白かったんです」
     こうした植物に対する好奇心は、本来は万人が兼ね備えている可能性があるものだと、鎌田さんは考えている。かつて、レイチェル・カーソンは『センス・オブ・ワンダー』において、​​子どもは誰でも「センス・オブ・ワンダー = 神秘さや不思議さに目をみはる感性」を持っている点を指摘した。しかし、現代においては、人が植物に対して過小評価をする傾向を示す「プランツ・ブラインドネス(植物への盲目)」が問題視されているという。たとえば、家が壊された跡地の土に雑草が生えていても、多くの人は気にもとめない。そもそも、地球上の生物の総量のうち、植物は約9割を占めるという。その植物たちが光合成によって酸素を生み出すことで人間が生きられているにもかかわらず、「火災によって山林が大きく失われた」という一大ニュースでもない限り、あまり意識にのぼってこない。
    「植物とかかわりたいという欲求は、多くの人が持っていると思うんです。人間は本能的に自然とのつながりを求めるとする『バイオフィリア』という概念があり、私たち人間は、生命に対して愛着を持つ本能があると言われています。コロナ禍に際しても、自宅で過ごす時間が増えた影響で、家で植物を育てたいという人が増えましたよね。知り合いの鉢の卸売業者さんも、コロナ禍でとても忙しくなったと言っていました。たまたま幼い頃の私がそうだったように、自然とのインタラクションを重ねる中で、植物の面白さに気づくことができれば、無関心ではいられなくなるはず。たとえば、ちょっとでも自分で育ててみるようになれば、自ずと周りの植物が気にかかるようになると思います」
     この鎌田さんの言葉は、園芸超初心者の筆者としても、大いに実感できるものだ。曲がりなりにも自身の手で育てるようになってから、道端の草木や近所の家のガーデニングの豊かさに、出会い直した感覚がある。ライターの村田あやこは“路上園芸鑑賞家”として、住宅や店舗の前などで営まれる園芸や路上空間で育まれる緑を「路上園芸」と名付け、その撮影・記録を行っているが、まさに「路上園芸観察」の魅力を知った気がするのだ。
    ▲村田あやこ『たのしい路上園芸観察』
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  • Daily PLANETS 2021年9月第3週のハイライト

    2021-09-17 07:00  
    おはようございます、PLANETS編集部です。
    ついに編集部に、刷り上がった新雑誌『モノノメ』が到着しました。ご購入された方は、お届けを楽しみにお待ちください!
    さて、今朝のメルマガは今週のDaily PLANETSで配信した4記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの概要をご紹介します。
    今週のハイライト
    9/13(月)【連載】(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉働き方イノベーターは幻想が得意|坂本崇博‌

    (ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。働き方改革が実行されたあとの環境を詳細に思い描くことができる、「幻想力」とも言うべき能力。その資質を
  • 上野駅から上野公園、不忍池まで 〈前編〉|白土晴一

    2021-09-16 07:00  
    550pt

    リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回は、古くから庶民の行楽地としてにぎわいを続けてきた上野公園を歩きます。ランラン・カンカン来日から半世紀。江戸期の花見の名所から始まり、近代以降の博覧会場としての利用や動物園開業を経て、パンダ文化がどんなふうに上野の「地場産業」になっていったのかを振り返ります。
    白土晴一 東京そぞろ歩き第6回 上野駅から上野公園、不忍池まで 〈前編〉
     私は鳥瞰図に目がない。  鳥瞰図というのは、その名前の通り、飛んでいる鳥の目から見たような眺めを描いた図のこと。衛星写真や航空写真が一般的ではない時代に描かれた鳥瞰図は、描くものの技量によって表現方法が違うので面白い。それを描く人間の空間把握能力と表現方法によって、その鳥瞰図の個性が変わってくるのでついつい細かく見てしまう。  Google mapのような技術とは違う、個人の能力が強く介在した鳥瞰図を見つけると思わず購入したくなるのだ。
     先日も、日本海海戦25周年を記念し、昭和5年(1930年)に上野で開催された「海と空の博覧会」を描いた鳥瞰図を購入してしまった。
    ▲日本海海戦二十五周年記念 海と空の博覧会鳥瞰図(著者蔵)
     現在は上野動物園のある会場には巨大なパヴィリオンが建設されたこの博覧会は、空の知識を啓蒙し、産業発展を促すことを目的としていたが、時代もあって軍事的な展示も多かった。 この鳥瞰図の下の方、何やら水飛沫が上がっているが、これは不忍池で行われた水雷発射実験場を描いていると思われる。 この水雷発射の展示が実際にどういう形で行われたかはわからない。まさか本物の機雷や魚雷を爆発させたとは思えないが、何やらそれを模したような仕掛けをしたのだろう。この鳥瞰図に描かれたような、実際に水飛沫が上がる展示だったのかもしれない。 「上野の不忍池でそんなことをやっていたのか!」と驚くかもしれないが、明治から戦前までは最新で大規模な仕掛けがある展示会や博覧会は、上野公園不忍池の周りで行うことが多かった。 広い空間があって派手なデモンストレーションを行うには最適な場所と思われていたようで、1909年12月には元フランス海軍士官ル・プリウールと日本海軍士官相原四郎が製作したグライダー実験が不忍池で行われたこともある。  以後航空機の展示などで上野不忍池が使用されることは度々あり、第一次世界大戦の終結を記念して開催された大正11年(1922年)の「平和記念博覧会」でも、不忍池で水上飛行機の飛行デモが行われた。
    ▲国会図書館デジタルコレクションより(出典)
     こう考えると上野公園は、ハイテクな技術や産業の展示を行う場所、今の幕張メッセや東京ビッグサイトのような役割を担った場所だったのである。  現在、コロナのためにイベントの多くが中止され、私も2年ほどは大きなイベントに行っていない。最新技術の展示会が好きで、以前は「国際航空宇宙展」や「防水技術展」などの開催と聞くと、嬉々として見学しに行った。 こうした大規模イベントが中止される状況の中、その代わりと言ってはなんだが、かつて行われた巨大な博覧会の匂いを嗅ぐため、上野公園に行くのも悪くない。  そう思うと街歩きの虫が疼き出し、さっそく上野公園に行ってみることした。
     まず、新しくなったJR上野駅公園口から上野公園へ向かう。  2017年から始まった改修により2020年からは公園口改札口は100mほど北側に移設されている。JR東日本リテールネットが運営している駅ナカの商業施設「エキュート」も好調な様子で、コロナ禍でも多少の賑わいを見せている。

     そして、毎度上野に来るといつも思うのだが、ここの地場産業は「パンダ」(当然ジャイアントパンダのことだが、以下パンダと略す)なのではないかと感じてしまう。
     上野といえばパンダ、パンダといえば上野という感じで、周囲にパンダが溢れている。上野のお土産はパンダを冠したものが多く、看板や公園内の郵便ポストですらパンダである。



     上野駅公園口を降りた向かいにある売店「パークス上野」さんには、「パンダのうんこ」なんて商品もある。麩菓子なのだが、パンダならばうんこと名付けてもお土産になるらしい。 上野のパンダの力は絶大である。


     でも、パンダは地元にどれほどの利益になっているのだろう?
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