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  • 「ショートムービー以降」のインターネット(後編)|天野彬

    2023-05-30 07:00  

    本日のメルマガは、マーケターの天野彬さんと宇野常寛との対談をお届けします。 TikTok特有のサービスとしての特徴を分析しながら、「ショートムービー」がコンテンツ業界や言論空間にどのような影響を与えるか議論します。 前編はこちら。 (構成:徳田要太、初出:2022年5月24日(火)放送「遅いインターネット会議」)
    情報との出会い方
    宇野 「タグる」というキーワードが昔からありますが、この本でもすごく重視されていますよね。最初にこの言葉が定着したのはたぶんインスタだと思うんですが、インスタの「タグる」からTikTokの「タグる」への変化について聞いてみたいと思います。
    天野 僕が「タグる」を提唱するようになったのは2016年頃で、リサーチを通じて多くのユーザーがインスタで情報を探すようになっているとわかったんです。それがまず一つ面白いところだなと思ったんですよね。流行りのお店を探すのもGoogleで検索して探すのではなく、インスタで ハッシュタグを使って、パンケーキならパンケーキのお店を「#」を使って探していくと。ハッシュタグを使って自分で情報を手繰り寄せるように探すので、その掛け言葉として「タグる」という言葉がしっくりくると思いました。やはり今はもうGoogleで検索してもいい情報に出会えないみたいな状況がありますよね。それよりもSNSのほうがリアルで、しかも鮮度の高い情報が得られる。なのでみんな「ググる」から「タグる」になっているんだというのが、そこでの議論の要旨です。
     でもTikTokだとあんまりハッシュタグで情報を探すという感じでもなかったりするんですよね。TikTokは良くも悪くも全てが中動態的で、ほぼおすすめに頼るような状態なんです。つまり、能動的にハッシュタグを辿りはするんですが、それが完全に能動的かというとそうとは言い切れなくて、自分が見た動画や「いいね」の履歴からアルゴリズムがレコメンドする動画を受動的に受け取っているだけとも言えます。だから「タグる」というキーワードも、引き続きインスタで使われていたり、Twitterでも「#」をつけた情報が発信されたりするので、従来の形とは少し違う情報体系なのかなという気がします。
    宇野 僕はいつも「どうすれば、ほど良い偶然性を自分の生活や社会にインストールできるのか」ということを考えるんです。どうしたら自分がまだ知らないけれど興味を持っているものに出会えるんだろうと。そこで比較的僕がうまく使えば面白くなるかもしれないと思うのが、恐ろしいことに「アルゴリズム」なんです。もちろんAmazonのレコメンドはダメなんですが、メルカリやヤフオクなどの表示には意外と刺さるものがあって。僕はフィギュアオタクで「仮面ライダー」とか特撮系のものを集めているんですが、時々「このアイテム今まで意識してなかったけれど、意外といいじゃん」みたいなことに気づかされるの。つまり、ああいった中古市場の商品は、ユーザーが自分で写真撮って出品しますよね。だから宣材写真ではないんです。そうすると意外な魅力が伝えられて「あれ、意外とこのシリーズありじゃん。買って集めてみようかな」とか思ったりするんです。だから実は、二次創作とまではいかないけどユーザーが自分なりの視点で撮影したものやアップロードした情報が、アルゴリズムで示されるということが、今のところ僕は有効な気がしてるんです。人間とはまったく違う思考回路で、「人間だったら絶対にこれとこれ共通しないじゃん」というようなものが出てくるのが大事だと思っていて。いかに人の目や意識を排したシステムを組み込んでいくのかということが大事なのかなと思っていいます。
     なんでこんな話をしたかというと、けっきょくこのショートムービーもコミュニケーションの一つのベースになってきているというのは間違いないと思うからです。インスタがスマートフォンで撮影した写真を人間のコミュニケーションのかなりの部分を占める基礎単位にしたのと同じくらいのことは起こるでしょう。その世界の中で、いかにいま僕が言ったように、人間を創造的にする偶然性を、この状況を逆手に取って社会にインストールしていくのか、天野さんはどう思っているのかと聞きたいんですよ。
    天野 メルカリはたまに僕も使うんですけど、ひとつのフォーマットのようなものがある気がしていて。古着はよくチェックするんですが、やはり撮り方や商品の紹介の仕方には型があると思います。型があるということが、多くの人の発信や創造性を引きだしている面はあると思っていて、そういう意味ではショートムービーでは動画を作りやすいという利点があります。発信のハードルを下げて、そこにズレを内包させてどんどんコンテンツを生成させることで、偶然性を招きやすくしているわけですね。セレンディピティが訪れるかどうかは試行回数と密接に関係しているので。
     情報の発信のしやすさが、確率的に良いものを生み出させるうえですごく大事で、TikTokだと音楽を乗せて簡単に誰もが動画を作れるとか、ミームと呼ばれるフォーマットがあったりします。模倣の連鎖によってカルチャーが根付いていったり、みんなの発信の中からわずかな差分で新しいものが出来てきたり、そういうことに繋がっていくのかなという気がしています。もちろんその型の先に守・破・離があることは大事なんですが。
    TikTokと言論活動との相性
    宇野 なるほど。少し視点を変えると、冒頭で「言論活動とショートムービーとの相性をどう思うか」と質問していただきましたが、僕はここに関してかなり危機感を覚えています。今の文字ベースのTwitter言論は明らかに正しく機能していないですよね。だからそこに当然未来はないと思うんですが、じゃあTikTokなりのショートムービーが主体になったときに、僕が思ったことが一つあります。山本太郎と宮台真司が戦ったときに、宮台真司に勝ち目はあるんだろうかと。山本太郎に絶対勝てない気がするんですね。つまり語り口だけが意味がある世界がそこに爆誕した結果、エビデンスや論理性とかいったものがほぼ完全に度外視される世界が到来してしまうんだと思うんですよ。
    天野 そうですね。今の例えがちょっと絶妙すぎて、確かにそうだなと思ってしまいました。あとはいわゆるひろゆきさん旋風もその視点から分析できますね。彼自身が「切り抜き動画の原液」になったことで、ショートムービーの素材になったのが知名度獲得に寄与した。ひろゆきさん特有の話法も効果的だったわけで。やはり短い時間である分、議論の詳細な内容よりはインパクトのあるワードとかパフォーマンスに視聴者がどういう印象を持つのかが重視されますよね。
     あとはTikTokってコメント欄でみんながどう思っているのかがけっこう可視化されるんです。40代か50代くらいの意見がYahoo!ニュースのコメントに象徴されているとすると、10代後半から大学生の子にとってはTikTokがその場になってるんですよね。ニュースのちょっとした映像に対してみんながコメントで何を言っているかによって自分の考え方にある種のバイアスがかかるというか、「みんながこのニュースについてすごい叩いているから、やっぱりこれダメなんだな」というふうに思うようなところがあります。だからそういう意味では話し手のパフォーマンスの印象によって言論の質がかなり影響されやすいと思います。字幕をどう入れるかとか、音楽とか、盛り上がりを映像的にどう表現するかとか、そういう勝負になってしまうんだろうなとは思います。
     TikTok上でいわゆる言論活動をしている人はまだあまりいないですけれど、わりと知識啓蒙系のような人はまぁまぁ出てきていて。多くの人が関心ある、それこそダイエットの話題から、人間関係を良くする心理学とか、そういう知識紹介系の人はいるんですが、やはり専門家からするとエビデンスが怪しいと突っ込まれるクリエーターとかも少なくありません。そういう人たちが耳障りの良いキーワードをでかい級数で字幕に出したりして、ちょっと効果音とかを付けるとどうしても「そうかも。」なんて思ってしまうようなマジックがあったりして。しかもTikTokでは画面占有がそれだけなので没入してしまう。
    宇野 どうしたらいいんですか? 僕らのようなオールドタイプは。ファンネルとか飛ばせないタイプは。
    天野 (笑)。でもTikTokをやりつつも、TikTokだけで完結する人は実はあんまりいなくて。リンクからYouTubeに飛ばす人もいれば、人によってさまざまですが、TikTokはそういうショートムービーの話法は話法としてあるとして、何かそこだけでというよりは、何か別の場に移してコミュニケーションしたり啓蒙したりするケースが多いです。Twitterも同じで、結局140字で語れることには限界がありますが、そこからnoteに誘導するなりすれば伝わる人には伝わるわけですよね。ショートムービーはいろいろなものの入り口ではあるんですけど、そこが本体かどうかはまた違う話で、でも入り口としては有用だということですかね。TikTokだけに全てを背負わせてしまうのも酷かなという気もするので、そういう組み合わせが大事だとは思います。
     
  • 【トークイベント】2020年代の日本文化の世界発信|石岡良治×草野絵美×増田セバスチャン×吉田尚記×宇野常寛(渋谷セカンドステージ vol.27)

    2023-05-26 19:00  

    PLANETSよりトークイベント開催のお知らせです!
    「渋谷セカンドステージ」では、渋谷ヒカリエ 8/COURTを舞台に、PLANETSと東急株式会社が共同で、渋谷から新しい文化を発信することをテーマに様々なトークショーを開催しています。今回は2020年代の日本文化の世界発信について議論します。
    ゲストは、批評家の石岡良治さん。 アーティストの草野絵美さん。 アートディレクターの増田セバスチャンさん。 にニッポン放送アナウンサーの吉田尚記さんをお迎えします。
    参加チケットのお申し込みはこちらから。
    ▼イベント概要
    「クールジャパン」という言葉がまったく意味をなさなくなった平成を経て、2020年代の日本文化はどうやって国際競争力を発揮すべきか。アートからアニメ、ファッションや特撮、音楽、あらゆる分野のスペシャリストとともに議論します。
    ▼出演者
    石岡良治(批評家) 1972年東京生まれ。批
  • 「ショートムービー以降」のインターネット(前編)|天野彬

    2023-05-23 07:00  

    本日のメルマガは、マーケターの天野彬さんと宇野常寛との対談をお届けします。 TikTokに代表される「ショートムービー」はインターネットをどう変えたのか。TikTokとそれ以前のSNSとの違いを比較しながら議論します。 (構成:徳田要太、初出:2022年5月24日(火)放送「遅いインターネット会議」)
    宇野 本日は「ショートムービー」をテーマに対談を企画しました。10代を中心に若い世代の消費行動に圧倒的な影響力を持っていると言われる、TikTokをはじめとしたショートムービーですが、僕たちの世代からすると別世界にも思えるこの新世代の利用スタイルをどう受け止めるべきなのか。近刊『新世代のビジネスはスマホのなかから生まれる』で注目の、天野彬さんと議論していこうと思います。天野さん、よろしくお願いします。
    天野 よろしくお願いします。
    宇野 早速ですが天野さんには自己紹介を兼ねて、『新世代のビジネスはスマホのなかから生まれる』の内容を簡単にご紹介いただければと思います。
    天野 はい。それでは本の内容をかいつまんでお話しさせていただいて、この後のディスカッションの材料を提供させていただこうかなと思っております。僕はこれまでソーシャルメディアに関連する調査や、それをもとにしたコンサルティングなどの仕事をずっとしてきました。2019年には『SNS変遷史』という本を出版し、そのときにもPLANETSさんのトーク番組でお話しさせていただくなどして、書籍以外での情報発信活動もいろいろとさせていただいています。
    宇野 こういう紹介をされると、本当に広告代理店の研究スタッフが突然現れたような印象を持たれるかもしれないんですが、天野さんは経歴を細かく見たらわかるように、もともと人文社会系の訓練を受けている人なんですよね。そういうバックボーンがあってマーケティングの世界に入っていったタイプの人なので、僕ともかろうじて話せるみたいな(笑)、そういう関係があるんですよ。
    天野 そうですね。学生時代はいわゆる批評系の本も好きで宇野さんのご著書も読んでおりましたし、そういう人文系のエッセンスはこの本にも現れているかもしれません。帯の推薦文を書いてくださった方にはドミニク・チェンさんや眞鍋亮平さん、徳力基彦さんなど、人文アカデミズム系からビジネス系まで、あまり同列に並ぶことがない名前が載っている、少し不思議な本なのかなと思います。
     帯の裏には「TikTok売れ」とあり、これが本書の一つのキーワードになっているんですが、要するにTikTokで取り上げられたものが売れる、ものが動くということです。コンテンツが流行ったり、商品が売れたり、そういうことがたくさん起こっていて、それがなぜなのかということを大きなトピックとして論じています。
    ​​ この本の狙いとしては、一つには「SNS社会論」として世の中の一般の方々に訴求したいという思いがあります。まだまだTikTokも新しいテクノロジーなので、功罪いろいろな議論があると思いますが、僕としてはこういうものが社会にもたらすポジティブな面をどういうふうに描けるのか、それをどういうふうに見つけるのかというところに主眼を置いています。広告というのは、商品やサービスの良さはどこにあり、それが生活者にとってどんな価値になるのか、それを見つけて最大化してコミュニケーションするのがそもそもの大きな役割ですよね。
     あとはもっと特定の領域にグッとフォーカスしたものになりますけど、第二に「SNSマーケティング」の今の潮流はどうなっているのかという、企業の方々が大変興味がある分野も論じています。これまでの著作で論じてきたことも踏まえつつ、2022年現在の見取り図を提示しています。
     そして第三に「TikTokのすごさの分析」。ショートムービーの代表的なサービスであるTikTokのすごさがどこにあるのかということを、ユーザーベネフィットや、ユーザーの楽しさや価値、マーケティングオポチュニティの点から論じました。また「ソーシャルインパクト」という言葉を使いましたが、TikTokは若い人にとってはある種のカルチャーだったり、社会的影響を与える手段として使われている部分もあります。日本だとそうでもないですが、アメリカではソーシャルアジェンダや政治的なメッセージを発する場としても使われています。
     それぞれの視点から深堀りをしていって、せっかくなので宇野さんのようにTikTokを使ったことのない人にも興味を持ってもらえるような、そんな本にしたいなというふうに思って執筆しました。
     今日はせっかくの機会なので、4つほど宇野さんにお聞きしたいことを考えてきました。一つが、「そもそもTikTokってどうですか?」と。TwitterとInsagram、Facebookあたりは使っていらっしゃるのを存じ上げていますが、あまりTikTokは使われていないような印象があります。
     二つ目は率直に、この本のご感想も聞いてみたいということ。
     三つ目が、言論活動というものと、TikTokを含めたショートムービーとの相性、あるいはそれらが影響し合う環境をどうとらえているのか。このあたりはまさに「遅いインターネット」の問題と深く関係するところかなと思っております。
     最後に、TikTokが、広く日本のカルチャー内で流行ることによって、みんながこれを見たり発信したりすることによってどのような影響があるのか、お考えを聞いてみたいです。長くなりましたが、僕からは以上です。
    TikTokの持つ「中間性」
    宇野 まず最初の質問から答えると、ほぼ触ったことがないに等しい。本当に僕の私生活にも仕事の中にも入ってこない。でも、天野さんの本を読むとどれだけ流行っているのかわかりますよね。はっきり言うと自分の老いをすごく感じさせる存在です。僕の8歳下の天野彬としては、これは自然と触れるものなのか、それとも仕事として触れるものなのか、聞いてみたい。
     
    天野 そこは半々かもしれないですね。流行り始めたころに一度ダウンロードはして、コンテンツはいろいろ見ていました。でもたぶん宇野さんと同じ感想というか、「これはあんまり自分に縁がないものなのかな」と思ったところはあって。ただ、ユーザーが増えていくにつれて、「職業柄これはキャッチアップせねばならん」という、もう半分は義務感があったかもしれません。
    宇野 僕が普段どういうふうにSNSを使っているかというと、一番使っているのはFacebook。これは大半が仕事の連絡用です。Twitterはほぼ告知専用で、単に「今日は○○があります」とか「何日にこんな記事が出ます」と淡々と告知しています。インスタは完全に個人的なもので、ランニング中の風景や食べたもの、おもちゃの模型ばっかりを上げていて、要するに僕の好きな世界や僕の考える美しいものだけが並んでいるんですよ。主に使っているSNSはこの3つですね。
     こういう使い方をしてると、TikTokは完全に視界の外側にあるんです。だから、誰がどういうふうにこのSNSを使って、どう伸びてるのかというところを、いま僕が言ったような文脈を加味しながら話してほしいと思っています。
    天野 そうですね。Instagramは、いままさに好きなものだけを載せているとおっしゃいましたけれど、やはりみんなが好きなものをシェアしたり、それを深掘りしたりする場所ですよね。Instagram自体も公式で「好きと欲しいを作るメディア」だという説明をしています。そういう意味では、たとえば日本人はストーリーズ更新がアクティブですし、パーソナルなコミュニケーションに使われていますよね。
     Twitterはそういうパーソナルなものというよりは、やはり世の中全体の視点が入ってくる。「いまみんなが何を話してるのか」「何が話題になっているのか」とか、話題になっているものに対してのほかのユーザーリアクションを見たり、そこに入って盛り上がるみたいな、世の中視点が強いのがTwitterの特徴だと思います。
     TikTokは、おそらくどちらかというとTwitterに近いんですよね。みんながいま何に興味があるのかという視点がある。でもやはりTwitterとは決定的に違うところがあって、たとえば多くの一般的なSNSは自分がフォローしたアカウントを見るのが一般的な仕組みですが、TikTokはそういうわけではなく、ユーザーは「おすすめ」(タブ)を見るんです。つまり「いまこれが流行ってるよ」とか「あなたはこれが好きですよね」と機械がおすすめしたものを見る割合のほうが高いという調査結果が出ているんです。それはつまり、それまでのSNSのように好きなアカウントをフォローして見るというよりは、いま流行ってるものとか、自分が好きだと機械がおすすめしてくれるものをずっと見続けることで時間が溶けてしまうという視聴体験になっているわけです。自分からコンテンツを探さなくていい、ある種の手軽さがあって、少しテレビと通じるところがありますよね。インターネットは自分の欲しいものが探せる良さがあったわけですが、この両者の中間的な部分をカバーしています。つまり自分が今まで見てきたデータに基づいて、受け身でもたくさん情報が得られる。受動態・能動態に対して、國分功一郎氏の議論を踏まえて「中動態」と表現するのが適していると思いますが、、そういう新しい情報の体験になっているところもこれまでのサービスに対して優位性を持っているところです。
     
  • 第二章 小説の古層――ゴシップ・ガリレイ的言語意識・百科全書|福嶋亮大

    2023-05-16 07:00  

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。小説の「起源」を探るべく、人類が言語以前から持ち続けていたコミュニケーション様式を振り返りつつ、言語と小説の進化史について考察します。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、ゴシップの人類学的意味
     小説の起源をいつ、どこに求めるかは難題である。ただ、人類史的な視点から言えば、ストーリーを語ろうとするコミュニケーションの意欲が人類に備わっていることが、あらゆる小説の必要条件であることは確かに思える。もし人間が「語る動物」でなければ、小説が生まれることもなかっただろう。 その一方、語る動物であるからといって必ず小説を生み出すわけでもない。どんな共同体にも物語はあるが、それが小説という形態をとるようになったのは、比較的最近の現象にすぎない。小説とは語りのコミュニケーションの大海に浮かぶ島嶼のようなものであり、ゆえに≪世界文学≫の進化を考えるには、まずは語りの条件を明らかにする必要がある。この点については、文学研究の外部に手がかりを求めるのがよい。 例えば、人類学者のロビン・ダンバーは、人間の言語的なコミュニケーションを猿の毛づくろいと類比している。霊長類の社会は多くの時間を毛づくろいに費やすことによって、集団的な結束や帰属感を高めてきた。しかし、群れが大きくなれば、毛づくろいに費やせる時間は限られ、社会の結合が保てなくなる。ダンバーの考えでは、この限界を突破するためにこそ、言語が必要とされた。対面の毛づくろいにかかる膨大な時間を省略しながら、それでも巨大な群れを維持するために、いわば音声的な毛づくろいとしての言語的コミュニケーション、とりわけゴシップ的な話題が求められた。ダンバーは大胆にも、人間に噂話をさせるためにこそ言語が進化したと結論づける[1]。 実際、ダンバーが言うように、人間の会話は知的・専門的な内容を含んでいたとしても、すぐに卑近な人間関係の話題へと転じてしまう。われわれは既知の人間も見知らぬ人間も遠慮なくゴシップの話題にのせながら、集団の結合を確保し、集団における自らの位置をもたえず確かめている。このような社会生活のあり方はインターネット時代になっても変わらないし、むしろ顕在化している。ネットのユーザーは誰某がこんな悪事を働いたとか、誰某と誰某が決裂したとか、その種のくだらない週刊誌的なゴシップに飢えている。このような性向は、人間の言語がそもそもそのような噂話の交換のために進化したことに基づく。 ゴシップはもっぱら人間の評価に関わるが、より広く言えば、人類はたえず環境の評価(アセスメント)をやるように仕向けられている。例えば、あの果実は食べられるのか、彼とは友人になれそうか、あの部族は敵対的か、明日の天候はどうなるか、狩猟にどれだけの労力が必要か――われわれの先祖はたえずそのような評価を下し、それを仲間に語りながら生存してきた。今日の大衆社会のゴシップは、そのような環境の評価を見ず知らずの他人にまで拡大したものである。 もとより、ゴシップの多くは有名人の評判の低下を狙っている。やっかみや嫉妬によって加速する大衆社会のゴシップは、たいてい下劣であさましい。にもかかわらず、ダンバーが示すように、われわれの噂話は恐らくその根底においては共同生活に資するもの、つまり協力的=利他的なコミュニケーションを促すものである。ひとが噂話に熱中するのは、それによって何らかの利益を他者と分かちあおうとするからである。 霊長類学者のマイケル・トマセロによれば、人間の幼児のやる指さしは、早くも情報のシェアの意欲を示している。幼児は大人たちが指さしに何とか反応しようとすることを知っており、だからこそしきりに対象を指示し、大人とその情報を共有しようとする。言葉を話す前から、手ぶりや身ぶりで外界を指示し、いわば大人を教育しようとする幼児のコミュニケーションは、他の霊長類と比較しても際立った特性を示している[2]。トマセロはこの前言語的なふるまいこそが、言語の進化の基礎にあると考えた。彼によれば、共同体に有益な情報を伝え、他者と「協力」するという「生活形式」(ヴィトゲンシュタイン)に深く依存して、言語は進化したのである。 逆に、言語がもっぱら「競争的」に、つまり他者を攻撃するために用いられるとしたらどうか、と想像してみるのも面白い。トマセロの考えでは、そのとき、言語の形式はわれわれの想像を絶したものになる。
    さらに注意を引くのは、もしも協力でなく競争というコンテクストで進化していたなら、人間の「言語」はどんな風になっていただろうか――それを「言語」と呼びたいなら、の話だが――と想像してみることである。この場合、共同注意も共通基盤もないことになるから、指示するための行為を人間のようなやり方では行えなくなる。とくに視点や、その場に存在しない指示対象に関してはまず無理である。お互いに協力的であるという想定の下での伝達意図は存在しないし、それゆえどうしてある人が自分とコミュニケーションをしようとしているのかを一生懸命に見つけようとする理由もない――またコミュニケーションの規範もない。慣習とは人々が協力に基づく理解と関心を共有している場合にしか生じないものだから、慣習もないことになる。[3]
     この空想上の「競争的」な言語は、今の言語とは似ても似つかないものになるだろう。トマセロによれば、それはフィクションも生み出せないし、協働の道具にもならない。そこからは慣習も発生せず、他者の意図を読み取ろうとする動機も生じない。この競争的な言語でもコミュニケーションは可能かもしれないが、それは協力的な言語によるコミュニケーションに比べれば、ひどく貧弱なものとなるに違いない。 
  • なぜ人は映画を早送りで観るようになったのか(後編)|稲田豊史

    2023-05-09 07:00  

    本日のメルマガは、ライターの稲田豊史さんと宇野常寛との対談をお届けします。 稲田さんの著書『映画を早送りで観る人たち』を引き合いに、「コミュニケーション消費」が前面化している現代のクリエイティビティと作品の鑑賞態度はどうあるべきか議論します。 前編はこちら。 (構成:佐藤賢二・徳田要太、初出:2022年5月10日(火)放送「遅いインターネット会議」)
    ■4.20世紀の映像文化の方が特例だった
    宇野 僕が何を言いたいかというと、映像作品に対して「コミュニケーション」が優位になっている状況は、制作者側が賢くなるとか供給側の人間が何かもっとクレバーにやっていくだけでは覆らないと思うんです。これは残酷な話だと思うけど、そもそも20世紀後半のように多様なポップカルチャーがマスメディアに流通していたのは、けっこう奇跡的な状況だったんじゃないか。それは、まだコンテンツ消費に対してコミュニケーション消費が優勢になってない時期だから成り立ったといえます。しかも、映像系のポップカルチャーが生まれて100年ぐらいの若い時代だからこそ成り立ったわけです(映画の発明は1895年、TV放送の普及は第2次世界大戦後)。なおかつ、パクス・アメリカーナ的に、戦後の西側先進国に広い中流層が形成されて、世界が有史以来もっとも階級的に分断していない状態があったという、この3つの条件が揃ったときに初めて可能な奇跡だったんだと思うんですよ。そのことを認めるべきだと僕は思います。
    稲田 20世紀後半の文化のほうが、じつは歴史的には特別だったと。
    宇野 実際に、第2次世界大戦が終わった1945年から、先ごろの2022年に起こったウクライナ戦争まで、のちの歴史では大国同士の戦争がなかった特別な時代と言われる可能性も高いですよ。今にして思えば、20世紀後半の西側先進国にだけ奇跡的に成立した、安定した中流社会とテレビ以降・インターネット以前の情報環境、この2つが掛け合わさった条件下でのみ、僕らの愛したような、作家主義的で、表現に重きを置いた多様なポップカルチャーが成立したんじゃないか。
    稲田 そうかも知れない。近代以前はエリート文化と大衆文化も分かれていたし、長い歴史の中で見ると、20世紀後半みたいに中流文化が豊かな時代は本当に一瞬だったんですよね。そういう時代の表現物を少年期から青年期の多感な時期に浴びて、それが普通だと思ってしまってるおじさんたちには、今の状況は受け入れられないでしょうね。
    宇野 今となっては信じられないかも知れないけれど、僕はドラマやアニメだけでなくスポーツ鑑賞も好きな子どもで、じつは野球のナイターとかを毎晩見ていたんですよ。べつに自分からスポーツする子ではないけど、テレビの試合はよく見ていた。それで、「ここでピッチャー変えるのはないだろ!」とか、「ストライクいらないのに、なんでど真ん中に放るかなあ」なんて画面に毒づいている奴だった。振り返ってみると、これも20世紀の映像の世紀だけに成立した文化で、モニターの中の誰かに感情移入することが一番の娯楽だった時代なんですよ。王貞治も長嶋茂雄もウルトラマンと同列のヒーローだった。  今の僕は自分で走ることには興味があるけれど、もう全然スポーツ鑑賞とかには興味がなくなっている。それは、たとえが古くて申し訳ないけど、松井秀喜のすばらしいバッティングを見るより、自分の拙いランのほうが楽しいんですよ。これは覆らないと思うんですよ。よっぽど強烈なものじゃない限り、他人の物語が人間の関心の中心にくることはけっこう難しいんですよね。ファスト映画を消費する人たちは、自分がしゃべるネタとして必要だから作品を見ている。人間は、どんなに洗練された他人の物語でも人の話を聞くより、どんなに凡庸でも自分の物語を話すほうが楽しいじゃないですか。そういう困った生き物なんだと思うんですよね。  この「他人の物語」と「自分の物語」の2つのバランスが、情報環境的には逆転しています。20世紀後半は、まだ自分の話をする相手が家族や友達しかいなかった。余暇の時間を過ごすとき、今でいう費用対効果とかタイムパフォーマンスに対して得られる快楽を考えると、メディアを通じて洗練された他人の物語を取り入れるほうが、効率が良い時代だったんだと思うんですよ。でも、今は違うじゃないですか。自分の話を聞いてもらうことって簡単になってますよね。別に何万人もフォロワーがいなくても、友だちにLINEすればいい。そういう時代になると、倍速視聴みたいな現象が起きてしまうことは避けられないと思うんですよね。
    稲田 「他人の物語」とおっしゃいましたけど、本当に他人の物語に興味がない人が増えている気がしてならないんですね。結局、映画の何が一番魅力なのかには議論がありますけど、自分がまったく知らない世界とか、まったく聞いたこともない、理解しにくい価値観の人が何かをしている姿を、動物園の珍獣を眺めるように見ることが一つの楽しみだと思うんです。しかし、今の観客はそれだとよくわからない、感情移入できない、だから嫌だって話になっちゃう。そういう恐るべき他者に対する想像力のなさみたいなものが、増えていくことになってしまう。  少し前、ある雑誌で高校生を対象にした座談会の構成をやったんです。そこに来ていた17歳ぐらいの3、4人の男女は、ちょっと意識の高い子というか、わりとイケてる感じの子でした。そこで、「オタクについてどう思いますか?」と聞いたんですね。昔だったら、「オタクはキモい」とか「ちょっと嫌です」みたいな感じのことを言ってもよかったんだけど、彼らはすごく大人っぽい態度で、「いや、別に彼らは彼らだからいいっす」みたいなことを言う。これは一見すると、誰にでも人権を認めているとか、多様性を認めてるように聞こえるんだけど、そうではないと思ったんですよ。だって、多様性を認めるというのは、もっと掘り下げていくと、自分とは違う価値観の人が、一体どういう価値観であるかを、分け入って対話するなりして理解して、「俺とは違うけど、この世界に共存している」ことを心から認める状態に持っていくことだと思うんです。でも、彼らはそうじゃなくて、相手に触れず放置したまま許容した気になってるんですよね。なぜかというと、触れてトラブルになると面倒だから。だから、本質的には自分とは違う価値観の人に興味を持とうとしない。それがお互いを認め合うことみたいに、都合よく変換されてるように見える。  これはある面では、今の教育の成果でしょう。つまり、学校で建前上は「自分と違う価値観の人を否定してはいけません」って教育を受けてきた世代の子たちだから、確かにそういう対応をするのが正しいんですよ。でも、本当は多様性を認めるという考え方を因数分解していけば、「相手の価値観を学びましょう」っていう要素も含まれてるはずなんですね。ところが、自分と異質な他者を学ぶ前に、「触らぬ神にたたりなし」と切り捨てて、自分と違う世界観の人は触れないのが良いことだという考え方になってる。  それはやはり、今やインターネットでいろんな価値観の人が一か所に全部集まっているなかで、誰かの機嫌を損ねたら、炎上したり大変なことになるじゃないですか。それを見ているから、やっぱり触れない。波風が立つことは言わないし、違う価値観の人には触らないというのが一つの処世術になっている。だから、他者性がない、他人の物語にそこまで興味がないということにもつながってるんじゃないか。
    宇野 こういう時代状況になったのは誰が悪いかと言えば、別に誰も悪くないんだけど、しいて言うなら、多分僕らが悪いんですよ。僕ら今の現役世代のメディアとかコンテンツの関係者が、この状況を頭でわかっていても、後手後手に回ってきたんですよね。この本を読んで、それは間違いないなと思った。
     
  • なぜ人は映画を早送りで観るようになったのか(前編)|稲田豊史

    2023-05-02 07:00  

    本日のメルマガは、ライターの稲田豊史さんと宇野常寛との対談をお届けします。稲田さんの著書『映画を早送りで観る人たち』を引き合いに、映像作品をめぐる「消費」の現状について議論します。 (構成:佐藤賢二・徳田要太、初出:2022年5月10日(火)放送「遅いインターネット会議」)
    ■1.「ファスト視聴」蔓延の理由
    宇野 今日の対談のテーマは「映画を早送りで観る人たち」です。YouTubeによく上がっている、「ファスト映画」と呼ばれる動画をご存知の方も多いと思います。商業的な映画作品をダイジェストにして、5分か10分で結末までわかる、予告編のちょっと長くなったバージョンみたいなものです。著作権的には完全にアウトなんですけど、こういうものが今、けっこうはびこっている。そして実際、「映画はもうそれでいいじゃん」と考えるタイプの視聴者が、特に若者層に広がっている。そういったことが2022年に入る前後から話題になりはじめています。その現象について、実際に映画業界にいたり、映像関係の業界誌の編集をしていた稲田豊史さんがいろいろな角度から切り込んだのが『映画を早送りで観る人たち』です。
    『映画を早送りで観る人たち  ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』 (光文社新書) 
    稲田 どうも、稲田豊史と申します。宇野さんとの関係を説明しますと、僕は2012年、東日本大震災の翌年にとある出版社を辞めて、もうボロ雑巾みたいになってたんですけど、そのときに最初に「うちの仕事を手伝いませんか」と声をかけてくれたのが宇野さんだったんです。それで少しPLANETSさんのお手伝いさせてもらって、その後とある会社に転職したんですけれどまた辞めて、その後フリーランスになってからもいろいろなプロジェクトでお手伝いさせてもらいました。宇野さんは恩人みたいなものです。
    宇野 うちからは稲田さんの著書として、『ドラえもん』を論じた『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』を出させてもらいました。それだけでなく、裏方としていくつも本の制作を手伝ってもらって、僕は頭が上がらない、尊敬する先輩編集者の一人です。こちらこそ恩人みたいな感じですね。ここ数年は、稲田さんはどちらかと言うと編集よりライティングのほうの仕事の比重が大きいですよね。
    『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(PLANETS) 
    稲田 そうですね、ルポとかの文筆が多いですね。
    宇野 この稲田さんが、近年ではウェブサイト「現代ビジネス」の記事でたびたび「倍速視聴」問題を取り上げていて、僕の身の周りの出版業界の人や、当事者である映像業界の人たちからすごく大きな反響がありました。それがこのたび単行本になって、さらに大きな反響を呼んでいます。そこで、今回は稲田さんがファスト映画問題を取り上げたこの本をベースに、僕らにとって今日の映像作品とか、コンテンツ産業はどのようなものになっているかを、世代論、情報社会論といった、いろいろな視点から語っていきたいです。
    稲田 よろしくお願いします。まずは本の内容を手短にサマリーするかたちで進めていきたいです。まさに僕の本の「ファスト読書」ですね(笑)。最初に、作品を「コンテンツ」と呼ぶことの意味について話したいです。
    宇野 本来コンテンツって「中身」のことですからね。
    稲田 そうなんですよね。コンテンツって言葉が今のような使われ方をするようになったのは、いつごろでしょうかね。僕は「コンテンツ」ってさかんに言われるようになった時期から、なんだかモヤっとしていたんです。そうした点も含めて本の内容をざっと説明しますと、まず、映像作品を頭から終わりまでずっと1.5倍速や2倍速で見たり、あるいはつまらないシーンや冗長なシーンを10秒スキップで飛ばしながら見たり、あるいは先にネタバレサイト、結末を知ってから見始めるような人が、どちらかといえば、若年層に増えていることを指摘したものです。ここで注意が必要なんですが、これは単に「今の若者はけしからん論」ではないんですよ。じつは、そういうファスト視聴は、今や30代、40代の人も当たり前のようにやっている。それが、どちらかといえば若者に多いという話です。  最初は「現代ビジネス」で2021年3月に、「映画を早送りで観る人たちの出現が示す恐ろしい未来」という記事を書いたんですね。じつは最初に「現代ビジネス」の編集者に記事の企画案を話したとき、すでに一冊の本になるぐらいのネタがあったんです。それで1本目を書かせてもらったらけっこう反響が大きくて、そのあとも何本か書かせてもらったわけです。本の内容はウェブの記事をまとめただけではなくて、じつはウェブの記事だけだと全体の文章量の3分の1ぐらいです。そこに追加取材で肉付けしたんですね。  2021年3月の段階で、民間調査会社のデータによれば、20歳から69歳でコンテンツを倍速視聴する経験がある人は約3割でした。そして年齢が下がるほど、その比率は上がっていて、20代男性では54.5%、20代女性では43.6%、20代全体だと半数ぐらいが倍速視聴経験者となります。その後僕は本を書くため、2021年12月に青山学院大学の2年生から4年生を対象に独自調査しました。19歳から22歳ぐらいの学生128人にアンケートをとったら、3人に2人が倍速視聴を「よくする」か「ときどきする」と返答してます。10秒飛ばしをする人はもっと多くて、4人に3人です。なぜ10秒飛ばしの方が多いかというと、単純にNetflixは倍速視聴できるけど、Amazon Primeはできないからです。
    宇野 ネット視聴の拡大が影響してそうですね。
    稲田 それで、10秒飛ばし派にも言い分があります。人によっては腹が立つ話なんですけれど、まず「金を払ったんだから、どう見ようと勝手」という意見ですね。最初に「現代ビジネス」に記事を書いたときも、早送り視聴の是非について述べると「はい、老害の押し付けきました!」みたいなリプがたくさん来たんですね。次に「作り手のエゴを押し付けないでください」という種類の意見があります。Twitterは怖いなあって思った。あと、「倍速でも内容を100%理解できてるから問題ないです。キリッ」「セリフがないシーンは飛ばしてもかまわないでしょう。ストーリーが進んでないんですから。キリッ」って感じで、自信たっぷりの意見も多かった。この話を聞いているおじさんたちの怒りが手に取るようにわかります。あるいは「時間がない。だから等倍速で見たらとても本数をこなせないんです」という意見もありましたが、そこまでして見なきゃいけないなんて、この人は一体何の仕事をしているんでしょうね。それから、最近話題になった事例で「普段から大学の講義も2倍速で聞いてるから、ドラマや映画が等倍速だとまどろっこしい」という意見も。すごいですよね、ひと昔前の感覚ならSFの世界ですよ。そして「ドラマ部分がうざい。俺が見たいのはアクションなんだ、だからそれ以外は飛ばす」とか、「推しの俳優だけが見たいんだから、それ以外のシーンは不要」という意見もけっこう多いです。  こうした言い分がある中で、なぜこんなことが起こるのかという理由を3つ、本の冒頭であげたんですね。第1に、先に挙げたように等倍で見ていると時間がないのはなぜかというと、供給作品が多すぎる。定額制動画配信サービス、Amazon Prime、Netflixなどがここ数年ですごく普及したから、とにかく視聴できる作品数が多すぎて、もう飛ばさないと見きれない。第2が”タイムパフォーマンス”です。時間のコストパフォーマンス、つまり”タイパ”を求める人が増えた。短い時間でたくさんのものを味わうのが頭の良いやり方で、そうでないのは情弱だという考え方の人が増えた。そして第3に、セリフですべてを説明する映像作品が増えた。そうなると、間や風景描写で訴えようとする映画やアニメって、もう、見てられないわけですよ。そういう人たちからしてみると。
    宇野 最近だと、アニメ映画の『バブル』(2022年5月13日公開)とかそうですよね。
    『バブル』 
    稲田 1つずつ説明すると、第1の供給作品が多すぎる問題は、先ほど話したようにサブスクの影響で、もう無尽蔵に作品が見られてしまう状況がある。あと、若者に多い傾向で、流行っているコンテンツを見ないと話題に合わせられない、LINEとかで話題に参加できない。たとえば『鬼滅の刃』のアニメが流行ったら2クールの26話分を見ないといけない、あるいは『ゴールデンカムイ』なら、3シーズンあるから全36話ぐらいでしょう(対談時時点)。もうとても見るのに時間が足りない。さらに最近の大学生には本当に同情すべきことなんですけれど、貧乏暇なし。仕送り額は1990年代から下がり続けていますし、昔の大学生とか若者に比べて使えるお金が圧倒的に少なくて、バイトしないと学費が払えないような状況もある。時間もない、お金もないとなると、定額制動画配信サービスは一番安くてコスパの良い趣味なんですよね。月に数百円で見放題ですから。そういう背景がある。  そして、当たり前なんだけれど、かつては映像作品への思い入れが強い人がたくさんの本数を見ていた。ところが、動画配信サービスが普及したことによって、世の中が変わってしまって、そんなに映像作品への思い入れが高くないのにたくさんの作品を見る人が増えてしまったわけです。こういう変化が起きてしまったから、そのギャップから倍速視聴者が生まれる。そんなに映像コンテンツが好きなわけではないのに、毎月映画を何10本も見てるという人が生まれちゃった。  この前、宇野さんが「プレジデントオンライン」でインタビュー受けてましたよね。そこで、いまコンテンツを消費する快楽の何割かは、みんなが褒めているものを自分も褒めて、「みんなと同じでいること」を確認する共感の快楽が占めているという趣旨のことを語っていたと思います。
    宇野 そうですね、僕らと稲田さんが関係の深いところでいえば、ジェンコの真木太郎さんがプロデュースした映画の『この世界の片隅に』がありましたね。あれはすごくいい作品で、僕も大好きなんだけれど、作品をめぐって翼賛的な空気があって、クラウドファンディングから、実際の公開まで悪口を言っちゃいけない雰囲気がちょっとありました。  僕は原作のこうの史代さんの大ファンでもあって、それだけにいろいろ言いたいこともあるわけですよ。特に、映画で終盤のヒロインの戦争に対する態度とか、戦後に対してのわりと無自覚な礼賛的なトーンとか、そういう側面にはもっと議論があってもいいと思うんだけど、そういった視点の批評を一切言えない空気があったじゃないですか。そういう無言の同調圧力的な感じが、この数年で拡大してきた気がするんですよね。
    稲田 そうなんですよね。勝ち馬に乗らないとネットで叩かれたり劣勢になるから、皆がいいって言っているものをいいと言うのがとりあえず無難。みんなが良くないと言っているものを褒めたり、あるいは逆にみんながいいって言っているものを逆張りで悪いと言うと、SNSでは風当たりが強いですよね。その風当たりの強さが一番嫌だと思っているのが、Z世代などと呼ばれる今の若者なんです。だから、無用に叩かれるぐらいだったら、みんながいいと言っているものを同じように消費しないといけなくなる。そこは一つのサヴァイヴ手段ともいえる。  次に第2の問題、タイムパフォーマンス、つまりタイパを求める人が増えた。要は効率主義なんですけれど、やっぱり2000年代くらいから、職場とか学校ですごく効率とか時短を求めるように広まってきてる。
    宇野 僕は“タイパ”って言葉は、この本で初めて知ったんですけれど、ショックでしたね。
    稲田 ショックでしたか(笑)。まあ、すごく浸透している単語ではないですけれど、あちこちでそういう言われ方をしています。年配層のロマンチックな言い方として、「人生には回り道も無駄じゃない」といった精神論みたいなものがあるわけですが、それを信じていいのかという部分があるわけですね。もちろん、そういう考え方を一掃しちゃっていいわけではないですよ。でも、2010年代からライフハックという言葉がすごく浸透してきてもいます。僕はそれにも弊害があったと思ってるんですね。たとえば、役所とかでExcelには自動計算の機能があるのに、入力した数値を電卓で計算してるような、ブルシットジョブ的な無駄な仕事がありますね。「タイムパフォーマンス」というのは本来、そういう無駄を一掃していくとか、仕事の効率アップをさす言葉だったんですね。最小の労力で最大のリターンを得るとか、効果があるものを頭良くこなしていくことが優秀なビジネスマンだといった言説が広まった。それは大人の世界の仕事の話なんですけれど、ネット上でそう言われると、若者は影響を受けて、「あー、なるほど、回り道するのはバカのすることなんだ、情弱なんだ」と、あるいは「無駄は悪いことなんだ」と受け止めてしまう。  2000年代以降のキャリア教育というのは、時短とか効率を求める傾向があって、自分が望む職業に就くためにはこれを勉強した方がいいよという選択と集中の話なんですね。本来、学校にいる時は無駄かどうかなんて関係なく学びたいものを思いっきり学ぶのが理想ですよね。でも、キャリア教育の考え方を突き詰めていっちゃうと、やはり早いうちから、高校生とか大学生になってからも将来を考えて効率的に学ぶ内容を選択することになる。本当は文系の学問で学びたいことがあるにもかかわらず、理系の方が就職率が高いから理系を選ぼうといった話になったりする。だから、こういった効率を求めるキャリア教育の普及が、タイパを求める人が増えた背景にあるんじゃないか。  そして、Z世代に多く見られるネタバレを知ったうえでの消費も、時間の効率という考え方がある。すごく時間を費やしてある作品を最後まで見たのにつまんなかったら、その時間が無駄だったってことになるわけですよ。そうすると、無駄な時間を過ごしてしまった自分がすごくだめな人間ということになってしまうので、どうしても避けたい。だったら、先に面白いってわかっているもの、あるいは結末がわかっていて安心して乗れる作品を消費したいということになる。若者の間では、ネタバレ消費は普通にある状況ですよね。ここは世代間ギャップが大きいだろうと思います。  そして第3の「セリフですべてを説明する映像作品が増えた」という点。10秒間沈黙が続く映画なりドラマなりのシーンというのは、そこに演出意図があるんですけれど、もう本当に誇張抜きに、彼らは「セリフがないってことは、スキップしていい」という発想なんですよ(笑)。早送り視聴をしている人に、どれだけ「その沈黙に意味があるんじゃないんですか」と言っても、宇宙人と話しているみたいでね。「いや、そこに情報ないじゃないですか」と返されてしまう。セリフ以外の表現の意義が本当に通じない。  だから、説明セリフがない少ない作品を発表すると、視聴者から「意味がわかりませんでした」という感想が返ってくるわけですよ。たとえば、相手に対して好きだって気持ちがあるならセリフで「好きだ」と言わないとわからない。本当はドラマとか演出って、そういうことじゃないんですけどね。でも、それで伝わらない人が出てくると「あの人の気持ちがわからなかった」って感想が出てくる。そしてその感想はSNSに乗ってみんなに知られて、制作者にも届く。すると制作者はわかんなかったって言われてしまったから、次の脚本からはセリフで「好きだ」って書くように指示する。簡単にいうとそういうことになっていて、脚本家さんもそういうことを気にするようになってる。  テレビ番組のテロップ洪水なんかも根っこは同じですよね。もう画面の四隅が全部テロップじゃないですか。情報バラエティ番組って、音声を消してても何が行われているか大体わかりますよね。それに慣れた視聴者には、物事は全部文字やセリフで説明されるものだという感覚が定着する。物心ついたときからそうだったら、そうじゃないものの受け取り方がわからなくなるのは当然なんですよね。そういう視聴者にとっては、もう映画の『ドライブ・マイ・カー』とか、まったく意味不明なんじゃないですかね。
    宇野 そうですね。タバコを掲げているシーンで無言ですからね。この場面は意味ないっていうジャッジをされてしまう。すると、もうタバコをつけた瞬間に次のシーンで、北海道ついているみたいな感じになってしまう。
    稲田 そうです。むしろ、「ストーリーの意味がわからないから、プロットを説明してくれ」と言われると思うんですよね。実際に、先に最後までのあらすじを読んでから、作品を見る人もいます。そうはいっても、ワークショップ中の長いくだりとか、説明のしようがないじゃないですか。
    宇野 そういうタイプの人は、劇中での家福の演劇をどう見るんですかね。
    稲田 もう何も受け取れないんじゃないですかね。だから皮肉なことに、あれはアカデミー賞で話題になったから、普段ああいうのを見慣れてない人もいっぱい見に行ったんですよね。それで僕の周りでも「見たけどまったく意味わかんない」という人がいっぱいいました。ある意味では大事故ですね。でも、僕はそこで若者批判がしたいんじゃなくて、年齢の高い層でもそういう観客はいっぱいいたんです。これは別に非難するわけではなくて、普段そういう映画を見てないから、ただ見方がわからないということですね。
    宇野 でも、そういう人たちは演技とかをどう考えてるんですか?
    稲田 よくわからないです。前年、ネットで僕の記事が広まったとき、菅田将暉さんが「オールナイトニッポン」か何かで倍速視聴を話題にして、当たり前ですけど「やっぱり演者としてはちょっとね」というようなことを言っていたそうです。倍速だと、自分のせっかくの演技が早回しでチャカチャカと動いているわけですから、微妙な間も何もないですよね。だから話の流れ以外の、演技や間はどうとも考えてないんじゃないですか。