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記事 25件
  • 宇野常寛『観光しない京都』第1回 鴨川で早朝ランニング/北大路で過ごす午後 【不定期配信】

    2018-04-27 07:00  
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    本誌・編集長の宇野常寛の連載『観光しない京都』。隔週で京都へ出張している宇野が京都でどう「暮らし」、どう「仕事」をしているのか。滞在中の日課になっている鴨川の早朝ランニングや、北大路でのおすすめのランチスポット、午後の仕事をするカフェの様子をたくさんの写真を交えてご紹介します。 ※前回の記事はこちら。
    隔週で京都に出張しています 
     京都にちょくちょく足を運んで、一体何をしているのか――そう尋ねられると、僕はシンプルにこう答えます。「仕事をしています」と。 
     僕が京都の美大で教えるようになってから、もう5年になります。なのでこの5年間は春学期(4ー7月)は隔週で東京から京都に出張して講義する、という生活を続けているので最低でも1年に8週は、つまり1年の週末の6分の1は京都に出張している計算になります。 

    ▲京都精華大学。僕が2013年から非常勤講師を務めている大学。芸術、デザイン、マンガ、ポピュラーカルチャー、人文の5学部からなる。京都の町外れというか、ほとんど山奥にあるので通学はものすごく不便だが空気はうまい。
     僕は以前7年間京都に住んでいたこともあって、この出張のついでに観光しようとはまったく考えていませんでした。ただ、隔週で通っているうちになんとなく東京に戻りたくなくて、予定の許す範囲でそのまま京都に何泊かしていくことが多くなりました。 
     もちろん、その間ただ遊んでいるわけではありません。ときどき、京都に住んでいた頃の友達とご飯を食べたりすることはありますが、僕はこうして出張ついでに何泊かしている間は基本的に仕事をしていることが多いです。 
     僕の仕事のほとんどは物書きと、自分が立ち上げた小さな出版社の経営です。大学で教えることや、ラジオやテレビで話すことはほんの一部です。なので、僕の日常の大半はみなさんと同じようにデスクワークをして過ごします。ただ、ちょっと違うところがあるとすれば僕はフリーランスの物書きなので、ノートパソコンさえあればどこでも仕事ができることだと思います。誰かと打ち合わせたり、何かに出演したりする予定がない限り東京にいる必要がありません。 
     最初はたぶん、単に東京の現実に戻るのが嫌だっただけなのだと思います。けれど、こうして何度か京都で過ごしているうちに、この京都という街がとても今の自分にとって普通に過ごしやすいことに気づきました。東京にいるときと同じように仕事をして、食事をして、散歩して、本を読む。そんな日常の舞台が京都に移るだけで、なんだかとても気持ちよくいられる。 気がつけばこの京都は、僕にとっていちばんしっくりくる「日常」を過ごせる場所になっていました。 
     なのでここではまず最初に、僕が京都でどう「暮らし」、どう「仕事」をしているかを紹介していきたいと思います。 
    朝は鴨川沿いをランニング 
     僕が受け持っている大学の講義は朝の9時からの1限目です。なので僕は前日の木曜日の間に京都に移動して、一泊してから授業に行きます(そうしないと朝9時には間に合いません)。大学が用意してくれている宿は四条烏丸と烏丸御池の間くらい(京都の街のほぼ中心です)にあって、大学までは地下鉄とタクシーを乗り継いで40分以上かかります。授業の準備を考えると朝の8時には宿を出ていないといけません。それなりに早起きする必要があります。 
     そこで、どうせ早起きしなければいけないのなら、と僕は考えました。 
     どうせなら、思いっきり早く起きて走ってみようか、と。 
     なので僕は授業の準備はなるべく新幹線の中で終わらせて、前日の木曜日の夜は早めに寝てしまうことにしています。そして授業のある金曜日の朝は5時半か6時に目覚ましをかけて、ランニングに出かけることにしています。 
     僕は何年か前から趣味でランニングをしているのですが、朝の鴨川沿いは理想的なランニングコースの一つです。緑が多くて、起伏がなく、視界がひらけていて、そして少し走るだけでどんどん景色が変わるので、何度走ってもまったく飽きません。 

    ▲鴨川鴨川の土手。 やはり御池通より北側が走っていて気持ちのいいゾーンだと思う。ランニングの大敵は毎回同じコースを走ることに「飽きる」問題だと個人的には考えているが鴨川は何度走っても飽きない。
    僕はいつも宿のある御池通りを東に入り、市役所前を走って御池大橋を渡ったところで鴨川に降ります。 
     そしてそのまま鴨川沿いを北に走っていて出町柳の手前、今出川通の鴨川と高野川の合流点、いわゆる「鴨川デルタ」の手前……くらいまで本当は走りたいのですが、実際には丸太町通あたりで引き返し今度は川沿いを南下していきます。これでざっと30分から1時間くらいのランになります。朝の運動にはちょうどいい距離です。 

     この時間(6時台)の鴨川沿いは、とても静かです。市内を走る鴨川は基本的にゆるやかな川なので、余計にそう思います。 
     すれ違う人たちはランナーと散歩をしている人が半々。住んでいる人なのか、観光客なのかは判別がつきませんが、外国の人が多いのが特徴です。あと時々、夜通しで飲み明かしたと思われる大学生たちがぐったりとした、しかしなぜか何かをやりきったような顔をして歩いています。学生(市内人口の1割)と外国人がたくさん住んでいるのが、実は現在の京都の特徴です。 
     ランナー同士は、通りすがりに挨拶を交わすこともあります。最初は少し恥ずかしいですが、すれ違いざまにちょっとした同志感を得るあの感覚はなかなか悪いものではありません。 

     ちなみにこれが7時台になると鴨川沿いは少し賑やかになります。通勤、通学で川沿いを足早に歩く人や、自転車で軽快に走っていく人たちとたくさんすれ違っていくことになります。街中を走る鴨川の土手は、信号がなく自動車の走っていない便利な通勤・通学路でもあります。京都といっても当然のことですが名所旧跡や文化施設ばかりではありません。この街に暮らす人の大半は(僕たちがそうであるように)そういったものとは直接関係のない生活を送っている人が大半で、そんな彼らにとってこの街は日常の、生活の場です。 
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  • 脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第37回「男と食 8」【毎月末配信】

    2018-04-26 07:00  
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    平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。美食を愛し、あちこちで食べ歩きをしている敏樹先生は、行く先々で様々な珍事に遭遇します。今回は、ある中華料理屋で見舞われた、これまででダントツの珍事をご紹介します。
    男 と 食  8   井上敏樹
    時々、無性に中華料理が食べたくなる。それも、四川。辛い奴だ。やや疲れ気味な時に、体が四川料理を求める気がする。炎の力と強烈な香辛料が元気をくれるのだ。ただし、とっても疲れている時は無理だ。体が四川のパワーを受けきれない。私は辛い物に目がないが、実はトウガラシアレルギーで、その上、胃腸が弱い。従って、四川料理を食べる時は色々と大変である。抗アレルギー薬と胃腸薬を持参しなければならない。さもないと翌日が悲惨である。下半身の柔らかい所に湿疹が出来る。下痢になる。胃腸薬を飲んでも、辛さによっては下痢は免れない。そんな時はトイレでうんうん唸りながら神に誓う。『神様、もう辛い物は食べません。だからこの腹を治してください』と言うわけだ。それでも辛い物への嗜好はやみがたく、誓いを忘れる。その繰り返しだ。
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  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.4.25

    2018-04-25 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
    21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
    既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
    今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「ゴールデンウィーク」今週の1本「パシフィック・リム: アップライジング」アシナビコーナー「ハセリョーPicks」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日4月25日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:長谷川リョー(ライター・編集者)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
    ▼おたより募集中!
    番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へ
  • 猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉第29回 新しいパブリックを実現した都市をつくりたい!

    2018-04-25 07:00  
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    チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は、フィンランド・大阪・お台場……と、様々な場所でもうすぐ始まる展覧会を紹介していただきました。そして中国・深センで行うチームラボ初の「都市開発」の構想についても紹介! その都市で実現しようとしている、「新しいパブリック」のあり方とは――?(構成:稲葉ほたて)
    フィンランドの新しい美術館に展示する「巨大な滝」
    猪子 今日は最初に報告があるんだ。以前に話したパリのラ・ヴィレットでの展覧会「teamLab : Au-delà des limites」の日にちが決まったよ。まもなく5月15日から9月9日まで開催します。みんな遊びに来てね。▲2018年5月15日(火)から9月9日(日)まで、フランス・パリのラ・ヴィレット(La Villette)にて、開催されるチームラボの展覧会「teamLab : Au-delà des limites」(意:境界のない世界) 
    それから二つめ。Amosというフィンランドで一番大きい私立美術館が新しい美術館を建ててリニューアルしていて、その新館Amos Rexが今年の8月30日にオープンするんだけど、そのオープニングエキシビジョンがチームラボなんだよね。8月30日から来年1月6日までの、長い展覧会なんだ。
    ▲Amos Rex(フィンランド)のオープニングエキシビジョンで展示される作品(Untitled)
    【動画】Amos Rex opening with a teamLab exhibition in August 2018 from Amos Rex on Vimeo.

    【参考記事】 ・"Aos Rex -museo avaa upottamalla kävijät toiseen todellisuuteen – japanilaiset poikkitaiteilijat täyttävät museon villillä digitaalimaailmalla"(yle , 25 Jan 2018) ・"AMOS REX’ OPENING EXHIBITION PRESENTS THE ART COLLECTIVE TEAMLAB"(Amos公式サイト) 

    この前、まだ工事中の会場で、新しい美術館の記者会見を、Amos館長とAmos Rexを設計した建築家と一緒にやったんだ。とても光栄なことだよね。
    ▲2018年1月25日 に行われた記者会見の様子
    宇野 これは美術館の地下が展示場所になるの?
    猪子 そうそう。すごく不思議な形をしているでしょ。地上は子供たちも遊べるドーム状の広場で、その地下が展示場になるの。今回チームラボは、このドームの内側の天井に、水が逆流する巨大な滝のデジタルアート作品を展示しようと思ってる。天井には地上と繋がっている穴が空いていて、そこに渦を巻きながら地上方向に流れ込んでいくんだよ。つまり、地上の天窓方向に力がかかっている状態で、この美術館の形状によって決定された水の動きで作品を創っているんだ。
    ▲地上からみたAmos Rexの完成予想図
    宇野 なるほど、この巨大な空間全体が滝に包まれるようになっているわけだね。
    「波」の迷路で鑑賞者を迷わせたい
    猪子 そして夏には他の展覧会の予定もあるんだ。今年の7月14日から9月2日まで、大阪の堂島リバーフォーラムの開館10周年特別企画で依頼をもらって、日本画家の千住博さんとのコラボレーション展をやるの。堂島リバーフォーラムにはずっとお世話になっていて、「Music Festival, teamLab Jungle」もやったし、堂島ビエンナーレ2011ではチームラボは「百年海図巻」を展示したりしているの。そもそも最初の滝の作品である『憑依する滝』のデビューも堂島ビエンナーレ2013なんだよね。
    千住博さんは、代表作の『ウォーターフォール」は1995年ヴェネツィア・ビエンナーレで名誉賞を受賞されていて、滝のシリーズが有名なんだ。もちろん、僕も、若い頃、直島にある千住さんの作品を若いころ初めて観て、ものすごく感動したんだよね。
    宇野 芸術家一家で知られる千住家の人だよね。千住博さんは日本画家、千住明さんは作曲家で、千住真理子さんはバイオリニストという。
    猪子 すごいよね。今回、千住さんの巨大な滝の作品と一緒に、チームラボは『Black Waves』という波の新しい作品を創っているの。北京の展覧会で展示した『花の森、埋れ失いそして生まれる』のように、歩いているうちにまるで波の中で自分を失って作品で迷ってしまうような感覚になったらいいなと思って創っているんだよ。
    ▲堂島リバーフォーラム開館10周年特別企画 千住博 & チームラボ コラボレーション展「水」で展示される新しい作品 http://10th.dojimariver.com/https://www.teamlab.art/jp/e/waterness/
    宇野 さっきのフィンランドの滝の作品もそうだったけど、空間ごと水に包まれていくような演出になっているわけだね。特に『Black Waves』って平面だからこそ成り立っている作品だったわけで、それが人間を包むように再現されているのは面白いね。つまり、この単純な配置の仕掛けによって、この作品が表現する「平面と立体の中間性」がより明確に伝わってくると思うんだよ。それって、配置を参考にした北京の『花の森、埋れ失いそして生まれる』で目指していた「観客を会場で迷わせることで鑑賞者の空間把握を殺す」というコンセプトとも親和性が高いと思う。
    猪子 実は北京の展示中に、夜の時間を使って、会場で色々な実験をしていたんだ。この「波」の迷路もそのときに実験したことがあるよ。他にも色々と試していて、例えば「書」の作品の実験もやってるんだよね。
    ▲実験中の作品たち
    宇野 この実験だと、文字が読めないようになっているんだね。わりとこの「書」の作品って、読めるか読めないかが重要だと思うよ。
    猪子 どういうこと?
    宇野 これまでの連載で「書というものは立体と平面の中間だ」という話はしてきたけど、その上で、ここに表れている漢字=表意文字って、いわば「言葉と絵の中間の存在」とも言えると思うんだよ。だから、単純に考えれば、文字が読めた方が漢字のその中間的な本質をより表現できるというふうに言える。ただ逆に、漢字から言葉の要素を抜き取る方が、むしろ人間が実空間で描いた痕跡を剥ぎ取られるから良いという見方もできるなとも思ったんだよ。どちらも別の面白さがあると思う。
    猪子 なるほどね。実は読める文字ばかりの作品も作ろうかなと思ってたんだよね。
    宇野 それにしても猪子さん、ある時期「なんでこんなに北京に行ってるんだろう?」と思っていたけど、夜中にこんなことしてたんだね。
    猪子 空間があるうちに色んな実験をしたくてね。『クリスタル ユニバース』の次回作をつくるときとか、わざわざシンガポールに実験しに行ったり、そういうことは結構やってる。
    宇野 常に昼が展覧会で、夜は実験場なんだね。なんというか、チームラボらしい戦い方で僕は好きだよ。
    深センで実現する「パーソナルなものがパブリックになる」都市とは?
    猪子 そして今、チームラボの新しい取り組みとして、中国・深センでの大規模な都市開発があるんだよね。のべ床面積が300万平米と、かなり大きな規模になるんだよ。
    ▲2018年4月21日に行われた、記者会見の様子。

    【参考記事】 ・中洲湾C FutureCity 未来城市 发布启航(深圳房地产信息网 szhome, 23 Aril 2018) ・水晶森林 – teamLab与中洲集团在深圳共造个性化城市(goooood, 24 April 2018) 

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  • 【対談】與那覇潤×宇野常寛「鬱の時代」の終わりに――個を超えた知性を考える(前編)

    2018-04-24 07:00  
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    『知性は死なない――平成の鬱をこえて』を上梓した、歴史学者の與那覇潤さんと宇野常寛の対談の前編をお届けします。「中国化」がもたらす科挙的な能力主義、あるいは平成という「鬱(うつ)の時代」を乗り越えるための知性とは……? 與那覇さんが闘病の中で見出した「新しい知性」のあり方について議論しました。
    書籍情報
    『知性は死なない――平成の鬱をこえて』 平成とはなんだったのか!? 崩れていった大学、知識人、リベラル…。次の時代に、再生するためのヒントを探して―いま「知」に関心をもつ人へ、必読の一冊!
    『中国化する日本』の世界観を乗り越える
    宇野 與那覇さんの新刊『知性は死なない――平成の鬱をこえて』(文藝春秋、4月6日刊)を読ませていただきました。素晴らしい内容で、非常に勉強になりました。いくつも話したい点はありますが、まずは、この本を書くことになったきっかけやコンセプトについてお伺いしたいと思います。
    與那覇 もちろん直接的なきっかけは、躁うつ病(双極性障害)にともなう激しいうつ状態の体験ですが、病気とはまったく別に、「いつかは同時代史を書きたい」という気持ちは歴史研究の過程で強く持っていたんです。「自分たちが生きてきた、平成とはどんな時代だったのか?」という問題意識ですね。 元々そう思っていたところに、病気と休職・離職を経験したことで、「大学教員などの知識人が、自身の知見を広く社会に還元することで、人々を啓蒙し、日本をよりよい国にしていく」といった理想が、自分もふくめてことごとく失敗していった時代として、平成を総括しようと考えるようになりました。どこでつまずいたのか、それを分析して、反省すべき点を次の時代につながなくてはいけない。そうすることが、大学はやめても、「知性」に対して自分ができる最後のご奉公だろうと。
    宇野 躁うつ病という個人的な体験を掘り下げることが、結果的に平成という「鬱の時代」を論じることに繋がっている。そこに非常に説得力を感じました。 この本には、與那覇さんがうつ状態で仕事を辞めざるをえなくなり、闘病生活を送った記録、病気によって自分自身の世界観そのものが打ち砕かれていった過程が記されています。うつは複合的な症状をもたらしますが、そのひとつは知的能力が大きく低下してしまうことで、この体験を結節点として究極の近代主義としてのネオリベラリズムに対する、そして同時に『中国化する日本』で與那覇さんが提示したネオリベラリズムの進化系というか、その本質の露呈としての「中国化」を乗り越えるための思考が展開されるわけですね。それは具体的には人間の能力は個人の内側にあるのではなく、共同体や個人の関係性の中で発動するものだという能力観の転換として提示されるわけです。 『中国化する日本』では、歴史的にグローバルな「中国化」とローカルな「江戸化」の間で揺れ動いてきた日本が、今、否応なしに「中国化」への対応を迫られていることが指摘されています。この傾向は著者としては決して望ましくはないが、その状況に対応するしかないことを半ば宣言しているという、非常に挑発的な本でした。 『中国化する日本』をいま僕なりに読み返すと、中国的な血族主義はネオリベラリズムに対して有効なセーフティネットになるのだけれど日本的なムラ社会、ご近所コミュニティや昭和の大企業共同体はなすすべもなく解体されてしまったし、一時期日本でも流行っていたグラノヴェッターのいう「弱いつながり」がそれを代替するには、まだまだ環境が整っていない。さあ、どうするんだという挑発で終わっているのだけど、対してこの『知性は死なない』では「中国化」と「江戸化」のどちらでもない「第3の道」が見出されているわけですね。
    與那覇 ありがとうございます。同書も色々な誤読をされた本ですが、『知性は死なない』に一番つながる観点で振り返るなら、「中国化」とは人類最初の本格的メリトクラシー(能力主義)、つまり宋以来の伝統である「科挙」の価値観が全面化した社会のことですね。 自分も病気で、一時は日常会話にも不自由するようになって身にしみたけど、公正な社会の条件でもある能力主義は、「能力が低い」人にとっては地獄そのものなわけです。だから、それ「だけ」では社会を維持できないので、必ずバッファー(緩衝材)がいる。  緩和策として伝統中国で採用されたのが、宗族(父系血縁集団)という親族体系で、要は「能力がないやつは、能力のある親戚にタカって暮らせ」という発想ですね。しかしこれが、今日の共産党にいたるまで、政治腐敗の温床になった。宗族ってものすごい人数の血縁集団で、そこからたった一人の秀才に投資して官僚になってもらい、残りの凡人全員がぶらさがって暮らすということだから、いくら不正蓄財しても足りなくなってしまう。  逆に日本の江戸時代は、身分制度が残った点では中国より「遅れて」いたわけですが、能力主義が徹底しない分、いまでいう核家族に近い小規模の家族経営で、親の仕事を見よう見まねで続けていけば、そこそこ食べられる仕組みだった。皮肉にもこれが相対的には、近代化に向いていたんです。数人の家族を食わせるだけでいい分、官吏がそこまで汚職をしなくてすんだというのが、京極純一さんの『日本の政治』での分析でした。 『中国化する日本』を「中国システムを礼賛し、ヨイショする本だ」と誤解する人が多かったので、当時講演を頼まれたりしたときは、この京極説を紹介して中和したりしてたんですよ。必ず聴衆がどっと笑って、「なんだ。やっぱり中国は二流、日本が一流じゃん。安心した」みたいな空気になる。でも、その後ぼくが病気で寝ているあいだに、もうそんなことを言っていられない情勢になったようで…。
    宇野 『中国化する日本』が刊行された2011年は、中国はグレート・ファイアウォールに囲まれ、グローバルスタンダードから外れた特殊な国という理解をされていたと思うんです。あれから5年以上経った今、たぶん僕たちが生きている間はずっと世界経済の中心は中国であり続ける可能性が高い。20世紀後半がアメリカを中心とした「西側諸国」と「それ以外」に(安易な見方をすれば)区分できる時代だったとするのなら、これからは「中国」と「それ以外」の時代になるわけです。政治的には欧米型リベラル、経済的には資本主義の組み合わせでやっているアメリカやEU、そして日本は中国という新しいスタンダードから外れた「周辺」になることも十分考えられるわけです。良くも悪くも。そして今でこそ経済誌などを中心にこうした中国観は珍しくないのだけど、與那覇さんは当時からグローバル化とは、実は「中国化」であると指摘していたわけですね。
    與那覇 同書を出した頃は、ネットには叩く人も相当いましたね。「こいつは『最新の学問の成果』を詐称して、中国が先進国だなどとトンデモを広めている!」みたいな感じで。たしかに当時、たとえばサムスンの韓国製スマホやタブレットは日本でも広まっていたけど、ファーウェイなんかは無名でしたよね。  でも病気から起き上がってみたら、IT企業で日本は中国に完敗、コンテンツ産業もそのうち抜かれそう、権力者を恐れて官僚が公文書を偽造だなんて「もう中国並みだ」みたいな記事がネットに溢れていて…。もし同書をいま出していたら、「学問、学問って偉そうなくせに、内容が平凡すぎる」と逆から叩かれそうですね(笑)。
    宇野 テンセントやアリババも、今のような巨大な存在感を示していませんでしたからね。
    與那覇 今回、自分なりの平成史をまとめてみて再認識したのですが、いちおうは歴史研究者をしていたこともあって、やっぱり発想が後ろ向きなんですよね。あの本にしても、「中国はどんどん伸びる!将来は世界を支配するぞ!」みたいなことには、あまり関心がない。  ぼくはむしろ、そうして「中国的になってゆく世界」に合わせなきゃ競争に負けるぞ!、というかけ声の下で、どんどん日本社会が機能不全に陥ってゆく、そのなかで失われてゆくものの方を見ていたんだなと思います。ただし保守派の人たちと違うのは、それを「古きよき日本が外圧で奪われた」とは捉えずに、むしろ中途半端に日本の「悪いところ」が残り続け、それが中国的な競争社会のダークサイドと癒合して、奇っ怪な病理的症状を呈していると考えた。「ブロン効果」【※注】という言葉で指摘したものですね。
    ※注 ブロン効果:星新一の短編『リオン』に由来する概念。メロンとブドウをかけ合わせ、巨大な実がたくさんなる新品種を作ろうとしたら、ブドウのような小さな実がメロンのように少数できる品種になってしまった。このエピソードから、両者の「良いとこ取り」を狙ったにも関わらず、結果的に「悪いとこ取り」になってしまう現象のことを指す。
    宇野 そしてこの本では、「中国化」と「江戸化」の対立の中で、「中国化」を批判的に受容しながら上手く舵取りをしていくべきだった大学が、言葉の最悪の意味で「江戸化」していった。個人の研究では相応の実績を残しながら、組織としては日本的なムラ社会以上の機能を果たしてない今の大学の状況が、克明に描写されていたと思います。
    與那覇 認めるのはつらいことですが、まさにそうです。あの頃、宇野さんとはテレビの討論番組とかの「若手論壇」的な場でずいぶんご一緒したけど、だいたい、似たような話になったじゃないですか。日本の戦後社会を支えてきた、典型的には終身雇用企業的な「中間集団」は、これからも要るのか、むしろ崩してしまうべきなのか、みたいな。  「もう崩しちゃえよ」って言ったほうが一貫するのはよくわかっていたけど、そういう場で自分がなかなかそう言えなかったのは、やっぱり所属していた大学というものへの信頼というか忠誠心と、期待があったんです。知性によって選抜された人たちが、議論に基づいて運営してゆく大学というものが、いまの日本で一番、いわば「理想の中間集団」みたいなものに近いところにいるのではないかと。そんなの、お前が当時は准教授をしてたことから来るだけのナルシシズムだろ、と言われたら、それまでかもしれませんが…。  そういう虚妄に賭けて、みじめに失敗したことはよくわかっているのだけど、でもそこで見聞きした実態をぶちまけるだけでは、ただの露悪的なゴシップになってしまう。どうしたら、そうではなく自分の体験を普遍性のある考察につなげられるかと考えたときに、見えてきたのが「能力」の概念、能力主義の意味を根底から組み替える再考察、という一本の筋だったんですね。
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  • ディズニー/ピクサー的CGアニメは「宮崎駿的手法」を取り込むことができるか?――落合陽一、宇野常寛の語る『ベイマックス』(PLANETSアーカイブス)

    2018-04-23 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは『ベイマックス』をめぐる落合陽一さんと宇野常寛の対談です。『アナ雪』大ヒット以降のディズニー/ピクサーが、「CGテクノロジーの進化」と〈宮崎駿的なもの〉という2つの課題にどう向き合ってくのかを考えます。(初出:『サイゾー』2015年3月号(サイゾー)/構成:有田シュン) ※この記事は2015年3月24日に配信した記事の再配信です。
    ▼作品紹介
    『ベイマックス』
    監督/ドン・ホール、クリス・ウィリアムズ 脚本/ジョーダン・ロバーツ、ドン・ホール 原作/『ビッグ・ヒーロー6』 製作総指揮/ジョン・ラセター 配給/ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ 公開/14年12月20日
    “サンフランソウキョウ”に住む天才少年ヒロ・ハマダは、兄タダシに見せられた工科大学のラボや、彼が作ったケアロボット「ベイマックス」に衝撃を受け、飛び級入学のための研究発表会に参加する。見事合格を勝ちとるが、直後に会場で火災事故が発生。残されたキャラハン指導教授を助けるべく、タダシは火の中に飛び込んでいった。兄を亡くした失意からヒロは心を閉ざしてひきこもるが、タダシが残したベイマックスと再会し、さらに自身が研究発表会のために製作したマイクロボットが何者かに悪用されていることを知り、タダシの死に隠された真相があるのではないかと疑問を抱く。ベイマックスのバージョンアップと、兄のラボの友人たちにパワードスーツや武器等を製作し、共に敵の陣へと乗り込んでゆく。
     東京とサンフランシスコを合わせたような都市が舞台だったり、主人公たちが日本人とのハーフだったり、設定からして日本の要素が多く取り入れられた、ディズニーアニメ。
    落合 『ベイマックス』は予告編の印象と全然違って【1】、『アイアンマン』(08年)万歳! と思っているような理系男子の話をアニメで作るとこんな感じかな、と思っておもしろく観ました。ヒロがキーボードを叩いて、3Dプリンタとレーザーカッターでなんでもつくれる万能キャラという非常にコンティニュアスに成功したナードとして描かれているのは新しいし、研究と開発が一体化していることに誰も疑問を抱かないところを見ると、観る人の科学に対する意識がアップデートされているのかなとも思えた。頭のいい奴が手を動かせば、そのままモノをつくれるというイメージがつくようになったのはすごくいいなと思う。登場人物たちが、極めてナチュラルにモノをつくっているんですよね。ディズニー映画の製作期間はだいたい4~5年くらいと聞くから、『ベイマックス』はちょうど2010年代前半につくられたとすると、ちょうどプログラマーという人が簡単に社会変革を起こすものをアウトプットできるようになった時期なんですよね。だから、このタイミングでこういう作品というのは必然なのかもしれない。
    【1】予告編の印象と全然違って:日本で公開されていた予告編では「少年とロボットのハートフルストーリー」のように見せられていたが、実際のところはアメコミ原作だけあってヒーローものになっている。
    宇野 ゼロ年代のディズニー/ピクサーだったら、兄貴がラスボスになっていたと思うんだよね。対象喪失のドラマという要素をもっと前面に出して、科学のつくる未来に絶望した兄貴と、科学の明るい未来を信じるヒロ君が対決する。単純に考えたらそっちのほうが盛り上がったと思うけど、今回のスタッフはその方向を取らなかった。個人的な動機に取りつかれた教授が暴走【2】する話になっていて、ヒロと科学をめぐる思想的な対立をしていないんだけど、そこは意図的にそうしたんじゃないかな、と。ピクサーの合議制のシナリオ作り【3】の中で兄弟対決が挙がらなかったわけはないんだよね。そういうあえて選択された思想的な淡白さが、今回のひとつのポイントだと思う。

    【2】教授が暴走:事故で兄タダシと一緒に死んだと思われていたラボの指導教官。ロボット工学の天才博士が、ある個人的な動機に基づいてヒロの発明品を悪用しようとしていた。
    【3】合議制のシナリオ作り:ディズニー/ピクサー作品においては、複数のスタッフがストーリー会議を行って脚本をつくり上げているのが有名。

    落合 もういまや科学技術批判が意味を持たない、ということが重要なんだと思う。科学技術批判、コンピューター批判してられないだろうっていうのは、『ベイマックス』のひとつの重要なファクター。今までの流れだったら、ヒロ君が作ったナノボットが知恵を持って暴走して人間に攻めてくる、みたいなシナリオもありだったと思うんですよ。でもそっちにはもういけないよね、と。
    宇野 ピクサーは、特にジョン・ラセター【4】は『トイ・ストーリー』(95年)から一貫してイノセントなもの、たいていそれは古き良きアメリカン・マッチョイズムに由来する何かの喪失を描いてきた。アニメでわざわざ現実社会に実在する喪失感を、それも一度過剰に取り込んで見せて、そして作中で限定的にそれを回復してみせることで大人を感動させてきたのがその手口。『バグズ・ライフ』(98年)も『ファインディング・ニモ』(03年)も『Mr.イングレディブル』(04年)も『カーズ』(06年)も全部そう。そして『トイ・ストーリー3』(10年)は、そんなラセターのドラマツルギーの集大成で、あれは要するに観客=アンディにウッディとの別れを告げさせることで、ピクサーが反復して描いてきたものが映画館を出たあとの現実社会には二度と戻ってこないことを、もっとも効果的なやり口で思い知らされる。
     しかし、その後のディズニー/ピクサーはこの達成を超えられないでいると思う。『シュガー・ラッシュ』(12年)はガジェット的にはともかく内容的にはほとんどセルフパロディみたいなもので、『アナと雪の女王』(14年)は、保守帝国ディズニーでやったから現代的なジェンダー観への対応が騒がれたけど、要は思い切って非物語的なミュージカルに舵を切ったものだと言える。そしてこの流れの中で出てきた『ベイマックス』は、ラセターが持っていた強烈なテーマや思想を全部捨ててしまって、ほとんど無思想になっている。単にこれまで培ってきた「泣かせ」のテクニックがあるだけで、これまで対象喪失のドラマに込められてきた「思想」がない。そこで足りないものを補うために、今回はアニメや特撮といった日本的なガジェットをカット割りのレベルで借りてきている。言ってしまえば、定式化された脚本術と海外サブカルチャーの輸入だけで、ピクサー/ディズニーの第三の方向性としてこれくらいウェルメイドなものがつくれてしまったということにも妙な衝撃を受けたんだよね。

    【4】ジョン・ラセター:ピクサー設立当初からのアニメーターであり社内のカリスマ。06年にディズニーがピクサーを買収し、完全子会社化したことでディズニーのCCOに就任。ディズニー映画にも多大な影響を及ぼしている。

    3つに分岐したCG表現の矛先
    落合 『モンスターズ・インク』(01年)の頃までのピクサー映画は、いかに新しいレンダリング技術を取り入れて映画を作るかがサブテーマだったんです。『トイ・ストーリー』の頃はツルツルしたものしかレンダリングできなかったけど、『モンスターズ・インク』はモッサリした毛の表現ができるようになった。そこからしばらくはそうした技術の進化を楽しむ作品がなかったんだけど、『アナ雪』では雪のリアルな表現ができるようになった。あの雪の表現をつくるために書かれた論文があって、それなんか本当にすごい。雪をサンプリングして一個一個の分子間力を分析することで自然のパウダースノーをレンダリングするっていう。またこれで技術を見せる作品が続くのかな、と思ったら『ベイマックス』には何もなかった。だから、またそういう時代が数年続いて、その後にまったく新しいものが出てくるんだろうと思っています。
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  • 本日20:00〜第7期募集開始!「PLANETS CLUB」宇野常寛と「価値」をつくるコミュニティ

    2018-04-21 08:00  

    3月20日に始動した宇野常寛とPLANETSのオンラインサロン「PLANETS CLUB」は、現在第6期までの募集の受付が終了いたしました。本日4月20日(土)20:00より、第7期のメンバーの募集を開始します! PLANETS CLUBに参加したい方は、このチャンスをお見逃しなく!
    PLANETS CLUBでできること
    ・限定Facebookグループへ参加できます・月1回の宇野常寛による生講義へ参加できます(オンラインサロンメンバー限定生放送あり)・月1回の定例会(交流会)へ参加できます(オンラインサロンメンバー限定生放送あり)・PLANETSの雑誌/書籍刊行時に、どこよりも早く会員限定価格で購入できます・PLANETS主催のイベント等に割引価格で参加できます・【初回入会特典】PLANETS刊行の書籍を1冊プレゼント!(書籍タイトルはご入会後にお選びいただけます)
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第三回 チームラボと「秩序なきピース」(後編)(1)【金曜日配信】

    2018-04-20 07:00  
    550pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。今回も引き続き、人間と事物との境界をアートで消失させようと試みるチームラボ代表・猪子寿之さん作品とその意義を分析します。徐々に平面から立体へと進化していくことにはどのような意味があるのでしょうか。 (初出:『小説トリッパー』 冬号 2017年 12/30 号)
    11 「棚田」としてのアート
     前回の復習からはじめよう。グローバル化への対応としての多文化主義と、情報化を牽引する思想としてのカリフォルニアン・イデオロギー――二〇世紀末の「政治」的アプローチと、二一世紀初頭の「経済」的アプローチ――がともにつまずきを見せたのが、ブレグジットとトランプが体現する世界的なアレルギー反応だった。これはグローバル/情報化に対するアレルギー反応としての国民国家への回帰、すなわち「境界のない世界」の進行に対しての「境界を引き直す」ことでのアレルギー反応であり、いま私たちが手にしている武器では立ち向かえないことを証明してしまったことを示す。
     こうした政治的/経済的敗北を超えて、文化的なアプローチでこの「境界のない世界」の進行を擁護すること――それが前回取り上げた猪子寿之率いるアーティスト集団チームラボの掲げる使命だ。猪子にとって、融解させるべき境界線は三つある。まず一つ目は人間と人間を隔てる境界線であり、二つ目は人間と事物、人間と世界との間の境界線だ。その情報技術をコンセプチュアルに応用した作品群は、人間の(非言語的な)身体性にアプローチして、これまでとは異なる方法で人間と世界とを接続する。あるいは、その応用で二〇世紀的な人文知が説く他者像を更新する。現在において他者とは、ときに理不尽で、不愉快で、理解不可能な対象であるがその苦痛を甘受して歓待せよ、と説かれるものであるが、猪子はその他者を情報技術とアートの介入によってむしろ(身体的な知のレベルで)心地よいものに変換させることを試みるのだ。
     猪子はこうした試みを棚田に喩える。

    〈それこそ、棚田の水田なんて、他者が一生懸命田んぼをつくってくれてるから、自分のところに水が来るわけじゃん。まあ、この棚田は例として分かりやすいだけで、基本的には社会が高度で複雑化するまでは、全てがそうだったはずなんだよ。隣人の行為のおかげで自分が存在することは、かつてはもっと見えやすかったはずだと思う。(1)〉

     つまりここで猪子は、近代という制度のもたらした「個」という概念が現代の息苦しい他者像を形成していると指摘しているのだ。棚田から都市へ移行する中で、彼らの作品は私たちが失ったものを部分的にでも回復するための機能を備えているとも言えるだろう。
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  • 今、本当に「地方」を「創生」する条件とは?(NPO法人ZESDA主催「山菜の、知られざる魅力」イベントレポート)【全文無料公開】

    2018-04-19 10:41  



    本記事の一部の表現に誤りがあったため、修正致しました。記事をお読みくださった皆さまにはご迷惑をおかけし、深くお詫び申し上げます。【4月19日9時50分追記】2018年3月24日(土)、地方創生の貴重な成功例として注目を集めている能登町・春蘭の里と山菜アドバイザーの荻田毅さん、そして宇野常寛の異色の(!?)コラボレーションイベントがNPO法人・ZESDAの主催により実現しました。世界農業遺産に登録された奥能登里山の山菜料理を実際に味わいながら、それぞれの視点から地方創生の可能性を探った本イベントの様子をレポート形式でお届けします。全文無料公開です。

    春も近づくある日、弊誌編集長の宇野常寛はNPO法人のZESDAから舞い込んだある依頼に、しきりに首をかしげていました。「まさか人生で山菜のイベントを経験するなんて……。山菜だよ!? このコラボレーション、いったいどうなるか全くわからない…
  • 長谷川リョー『考えるを考える』 第6回 インナーテクノロジー探究家・三好大助が語る、“自らの全体性を祝福する技術”の可能性

    2018-04-18 07:00  
    550pt

    編集者・ライターの僕・長谷川リョーが(ある情報を持っている)専門家ではなく深く思考をしている人々に話を伺っていくシリーズ『考えるを考える』。前回は東工大の美学者・伊藤亜紗さんの身体論から、「分かる/分からない」の境界に迫りました。今回はグラミン銀行やGoogleを経て、「インナーテクノロジー(人間の内的変容に関する理論)」を探求する三好大助さんにお話を伺います。近年、日本でも耳にすることが増えた「瞑想」や「マインドフルネス」、はたまた「U理論」や「メンタルモデル」。内面を扱うこれらの技法は総称としてインナーテクノロジーと呼ばれ、各々の関連性や体系化が近年進んできています。自らの職務経験を通じて感じた”課題解決パラダイム”の限界や、組織力学から発生する負の連鎖。それら普遍性の高い問題に対して、再現性をもって扱える時代になったと説く三好さん。“自らの全体性を祝福する技術”の可能性を語っていただきました。※学問的な正確性、関係者に対しての不適切な表現があったため、著者の意向により一部内容を修正しました(2024年4月25日)。
    自己統合を促すインナーテクノロジーの可能性
    長谷川 日本ではまだあまり聞き慣れない「インナーテクノロジー」。まずはその概要からお伺いしてもよろしいでしょうか?
    三好 インナーテクノロジーとは、人間の内面を扱う手法全般に対する呼び名の一つです。マインドフルネスやメンタルモデル、NVC(Non-violent Communication=非暴力コミュニケーション)など、世界には内面を扱う様々なアプローチがありますよね。
    現在ではこれらのアプローチ一つ一つの体系が深まっているのと同時に、必要に応じてアプローチを組み合わせることで、人間の内的変容プロセスをサポートしやすくなってきています。
    僕自身は、どうしたら人間がその人本来のエネルギーで生きられるようになるのかに興味があって。自分なりに可能性を感じるインナーテクノロジーを収集して体系化しながら、企業や個人に分かち合う活動をしています。
    長谷川 あえて「テクノロジー」と銘打っているということは、ある種スピリチュアルに対するアンチテーゼも込められているのでしょうか。万人が汎用的に用いることのできる技術体系を目指す意味合いも込められているというか。

    三好 アンチテーゼかは分かりませんが。この「テクノロジー」という単語で呼称している人たちの話を聴くと、「それにアクセスして学ぶことができれば、誰もがある程度再現性をもって恩恵を受けられる」、そうした方法論にリスペクトと祈りを込めて「テクノロジー」と呼んでいるそうです。その捉え方に共感したので、僕も「テクノロジー」という言葉を使っています。
    また「U理論」をはじめとして、人間が自分自身を抑圧したり自己分離していくプロセスと、そこから自己統合をしていくプロセスは、ある程度共通した過程を辿ると捉えられています。今自分がどんなプロセスの中にいるのか自己理解できて、その時にどんなインナーテクノロジーの手法が役立つのかが分かる。そうした状況がつくれたらいいなと思って活動しています。
    長谷川 そもそも自己統合の前の、人間が自己分離していくプロセスとは、一体どのようなものなのでしょうか?
    三好 あくまで僕の解釈も交えた整理なのですが、まず子どもは誰しも家庭や学校といった既にある世界に適合しようとします。特に親から分離しないよう無意識に頑張るわけですね。でも生きている以上、体験としての分離はやってきてしまいます。「期待した形で受け入れてもらえなかった」「見てもらえなかった」という風に。そして痛みを味わうことになる。僕であれば、悪いことをすると親から地下室に閉じ込められていて。幼い時は自分が親から切り離されてるようで、その時間がとても辛かったのを覚えています。
    その状況で子どもは何をするかというと、無意識下でその痛みが起きた理由付けをするという風に見ているんです。僕の例であれば「自分は家にいなくてもいい存在だから、こんなことされるんだ」というように。そうやってドラマに浸ることで、地下室の暗闇にいる間でもその痛みに直面するのを回避できるわけですね。
    長谷川 なるほど。そうした幼児期の行動はだんだんと分かってきているんですね。
    三好 科学的に解明されているわけではありませんが、「メンタルモデル」という体系の一説によると、こうしたプロセスを繰り返すことで、つくり出された理由は真実ではないにも関わらず潜在意識へ刻まれ、人生を左右する無自覚な信念になっていくと言われています。僕であれば「自分はこの世界にいなくてもいい存在なんだ。だから親や人はこんなことをするんだ」といった感じですね。
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