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記事 3件
  • 宮台真司×宇野常寛 〈母性〉と〈性愛〉のディゾナンス ──「母性のディストピア」の突破口を探して(後編)

    2018-01-26 07:00  
    540pt

    宇野常寛の著書『母性のディストピア』をテーマにした、社会学者の宮台真司さんと宇野常寛の対談です。後編では、9.11以降に社会学が陥った隘路や『ブレードランナー2049』について言及しながら、母性の圏域を突破する鍵となる概念〈キッチュ〉と〈フェティッシュ〉の可能性について語り合います。
    〈残酷さの回避〉か、あるいはニュータイプか
    ▲『母性のディストピア』
    宮台 ここで『母性のディストピア』の図式を改めて整理します。まず、宮崎駿、富野由悠季、押井守といった戦後日本のアニメ作家たちには、〈母性に庇護されたフェイク父性〉を演じるヘタレ男の男性性を更新するという、共通のテーマがありました。江藤淳や村上春樹も共有していた問題設定だけれど、彼らは皆それに失敗しました。
    他方、〈フェイク父性〉の拠り所である国家を無化するカルフォルニアン・イデオロギーが現れます。それは国境線を消し去り、国家に依らない新たな男性性を打ち立てるかに見えて、挫折しました。なぜならITが実現する「見たいものだけを見る」空間もまた〈フェイク父性〉を支える母性として機能し、〈フェイク父性〉がむしろ劣化したからです。
    最後に処方箋として「中間的なもの」が提出されます。僕はこのイメージが今一つ明確に掴めませんでしたが、ITテクノロジーによる「中間的なもの」の構築によって、市民でも大衆でもない、〈フェイク父性〉にも巻き込まれない存在を生み出し得るとされます。でも、この言葉をブレイクダウンしようとすると、よく分からなくなるのですね。
    現実を見ると、「中間的なもの」に当たるコミュニティは、シェアハウスや私塾からスワッピングサークルまで含め、既にそれなりのボリュームがあります。この本はマクロな社会的劣化を論じていますが、処方箋が中間集団への回帰であれば撤退戦になります。僕自身はマクロな処方箋はあり得ないと判断して、撤退戦にコミットしているのですが。
    宇野 撤退戦だと言われればそうかもしれません。もしかしたら世代的なものかもしれませんが、僕はそもそも中間集団が機能していた時代を知識でしか知らないので、多少なりとも再構成できるなら十二分に希望になり得る、と感じているというのが正直な感想です。
    たとえば僕がこの本で想定している中間的な集団を構成するのは、政治的には都市無党派といわれる層です。しかし、この層はこれまで中間層として機能してこなかった。なぜなら組織化が難しかったからです。その活用に初めて成功したのが、平成の改革勢力です。彼らはテレビポピュリズムを利用して風を吹かせることで都市無党派層を動員し、自民党や共産党の組織票に対抗した。とはいえ結局のところ、ポピュリズムは一過性のものなので、必然的に敗北していきました。しかし、やりようは他にもっとあったはずです。
    たとえば、インターネットがある程度普及した段階で、彼らはテレビポピュリズムを捨てるべきだった。本来、情報技術は柔軟な能動性にアプローチしていくためのもので、たとえば、能動的なメディアの「映画」と、受動的なメディアの「テレビ」がある。それに対してコンピュータはその〈中間〉にあって、常に切り替わっていく人間の能動性に柔軟に対応するメディアです。本来、情報技術は〈中間のもの〉を再構築する場だった。
    宮台さんの世田谷のワークショップや、江田憲司さんが神奈川の高級住宅街でやっていることが、まさにそれに当たるのかもしれませんが、都市部の無党派層を構成する新しいホワイトカラー、脱戦後的なライフスタイルを送る共働き世代、あるいはネット世代のクリエイティブクラスを、新しい中間的な集団として組織化すべきだったと思うわけです。
    この層はこれまでの世代とはライフスタイルが全く違います。家族構成も、住居への意識も、資産の運用方法も、接しているメディアも違う。そして、この層は世界的に増加している。なぜならそこには生活上の要求があるからです。
    米国の西海岸でUberを展開しているのはギーク出身のエスタブリッシュメントですが、サービスを利用しているのは基本的に移民貧困層で、言語にハンデのある彼らがてっとり早く稼ぐためのインフラとして利用されています。実は日本のタクシー市場もそれに近くて、首都圏では運転免許証以外に資格を持たない層が年収500万円に到達できる唯一の回路となっている。日本は規制の関係でUberの導入は難しいですが、ああいった形でブルーカラー層にリーチし、シェアリングエコノミーを用いて相互扶助のネットワークを拡大していく戦略はありえる。というかこうしたコミットを拡大していくしかないというのが僕の判断です。
    宮台 インターネットのアーキテクチャを用いて非集権的に信用を構築する仕組みは仮想通貨のブロックチェーンを含めて現実的です。中国ではQRコードを使った信用システムが底辺層から拡大しました。信用点数を下げないために悪いことをしないからです。ドゥルーズ的なアーキテクチャ型権力の制御で、市民社会のフィール・グッドな外形が保たれます。 といはえ、信用点数を貯めるためにおとなしく振る舞う底辺の人々が、友達を作れるのか、彼女を作れるのか、仲間を作れるのか、孤独でなくなるのか…というところまで考えると、残念ながら、その効用はベーシック・インカムが果たす機能と同程度の範囲──感情の劣化に関わる経済要因の制御──に留まります。その意味でもやはり撤退戦なのですよ。
    「感情の劣化に関わる経済要因の制御」と言いましたが、経済面で生活に関わる不安があると、人は感情の劣化を被りがちで、そうした状態で政治に参加すれば、経済面での不安定化を促進する政治的選択──戦争──が現実化し、悪循環が止まらなくなります。そうした「経済的劣化ゆえの政治的劣化を食い止める機能」が、そうしてアーキテクチャにはあります。
    宇野 もちろん、友達を作れるのか、彼女を作れるのか、仲間を作れるのか、孤独でなくなるのか、という次元のことをケアしようとするとベーシック・インカムとシェアリングエコノミーだけでは側面支援しかできない。仮にそれ以上の効果を求めるなら、宮台さんがおっしゃるとおり、これは最終的には文化的なアプローチでしか解決しないでしょう。それこそ撤退戦になってしまうでしょうが……。ただ、こうしたものの産む新しいコミュニティなしには、宮台さんのおっしゃる文化的な「撤退戦」も難しいというのが僕の考えです。その上で、その場にどう関わっていくのか、という問題にアプローチしていくしかないでしょうね。
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  • 宮台真司×宇野常寛 〈母性〉と〈性愛〉のディゾナンス──「母性のディストピア」の突破口を探して(中編)

    2018-01-10 07:00  
    540pt

    宇野常寛の著書『母性のディストピア』をテーマに、社会学者の宮台真司さんと宇野常寛の対談を3回にわたってお届けします。中編では、フェイク父性を胎内に囲い込むディストピア的な〈母性〉を超克する可能性を、高橋留美子と『この世界の片隅に』を手がかりにしながら議論します。
    高橋留美子とディストピア化する〈母性〉
    ▲『母性のディストピア』
    宮台 『母性のディストピア』で押井作品を通して論じられた高橋留美子は、僕にとって古くから大切な論点です。『サブカルチャー神話解体』(1992年連載)で書いた通り、70年代半ば以降の松本零士アニメブームに彼女は激怒します。「母なる女に見守られて孤独な男が旅をする」という十年遅れのモチーフが逆鱗に触れたのです。
    ▲『増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』
     『サブカル神話~』で引いた彼女の発言を読むと、60年代で廃れたはずの「母なる女/旅する男」という陳腐な図式が、「大宇宙という非日常」を舞台とすることで──謂わば包み紙を変えただけで──再発されて現に売れてしまっている事実に、フェミニズム的というよりも、創作者の倫理において反発しているのが分かります。
     高橋留美子が嫌悪した「母なる女が身守る旅する男」図式は、宇野さんが批判する〈母性に庇護されたフェイク父性〉図式と同一で、僕が知る限り宇野さんと同じ苛立ちを最初に表明したのは高橋です。彼女は凡庸な図式の反復に対抗すべく、奔放に生きるラムを描きました。僕の言葉だと、母なる女=〈便所女〉、ラム=〈奔放女〉です。
     最初に断ると、僕の言葉は性的に積極的な女が〈便所女〉と〈奔放女〉に分類される事実に注目したもの。僕の言葉が汚いのは〈便所女〉が大多数なのを告発するためです。〈便所女〉は高橋が嫌悪する「旅する男を身守る母なる女」で、宇野さんが批判する〈フェイク父性を庇護する母性〉です。こうして宇野さんと僕の問題設定は通底します。
     『サブカル神話~』で示したように、(1)「旅する男を身守る母なる女」を切断すべく「大世界&非日常」の結合から「小世界&日常」の結合へとシフトした高橋に対して、(2)これをパロって「小世界&非日常」の結合へとエロ化したのがコミケ的二次創作で、(3)高橋世界の再解釈で「大世界&日常」の結合を持ち込んだのが押井守です。
    ▲『サブカルチャー神話解体』第3章 青少年マンガ分析編から (なおローマ数字は、各象限が出現した歴史的順序)
     僕の言葉で言えば、高橋留美子は、男視点の〈便所女〉に代えて女視点の〈奔放女〉の形象を持ち込んだのですが、宇野さんの問題設定に引きつければ、そのことで戦後=〈フェイク父性を庇護する母性〉を切断したのです。彼女はフェイク父性を退けるために、男視点にありがちな「大世界=大宇宙」と「非日常=戦争」を共に退けた訳です。
     そんな文脈を持つ「小世界&日常」を誤読、「終わりなき日常=戦後のぬるま湯」と解釈したのが押井守です。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で彼は、「小世界&日常」という母の胎内で男はどう生きるか、つまり、去勢された男がいかに自己回復を遂げ得るかを考えた。高橋留美子がこの作品を嫌ったのは有名です。

    ▲『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
     すると、高橋が「小世界&日常」、押井が「大世界&日常」となるのは、必然的です。高橋も押井も「小世界での戯れ」を微に入り細に入り描きますが、高橋の場合は「小世界が閉じている」のに対し、押井の場合は「小世界の外に大世界がある」。そして「本当は歴史が大きく動いているのに、我々は小世界から出られない」となります。
     宇野さんも御存じの通り、そもそも僕の「終わりなき日常」概念自体、「戦後のぬるま湯」への苛立ちという麻原彰晃的=オウム的な男視点を切断すべく、「まったりとした援交女子高生」という女視点を賞揚したもの。僕は〈まったり革命〉と呼んでいました。宇野さんがそれを〈フェイク父性を庇護する母性〉の切断という歴史的所作として再確認してくれて、感謝しています。
     『サブカル神話~』と『終わりなき日常を生きろ』(1995年 )が典型ですが、僕は「男になる」「近代になる」という問題設定を否定します。その意味で僕の出発点は高橋留美子ですが、宇野さんの出発点が高橋留美子なのか押井守なのか微妙です。押井守的な男視点を否定しつつ、高橋留美子的な女視点を肯定する訳でもないからです。
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  • 宮台真司×宇野常寛 〈母性〉と〈性愛〉のディゾナンスーー「母性のディストピア」の突破口を探して(前編)

    2018-01-04 07:00  
    540pt

    宇野常寛の著書『母性のディストピア』をテーマに、社会学者の宮台真司さんと宇野常寛の対談を3回にわたってお届けします。第1回では、戦後のパラダイムが過去のものとなり、〈近代〉のプロジェクトの頓挫が明らかになる中、劣化する社会への処方箋となりうる「戦後サブカルチャーの遺産」について議論します。
    近代社会を覆い尽くす「母性のディストピア」の原理
    ▲『母性のディストピア』
    宮台 『母性のディストピア』を読ませていただきました。宇野さんのこれまでの著書の中では一番の力作だと思います。冒頭では、戦後史の総決算を、敢えて政治的言説として展開しておられます。印象的なのは「政治を扱うのはもはや政治的ではない」という諦念の宣言。全く同感です。
     僕なりに理由を言えば、政治的コミュニケーションの動機が「皆のためになることを決める」という公的動機から離れ、「鬱屈した輩がスッキリしたいだけ」という私的動機に頽落しているから。政治的コミュニケーションが、状況に向けて研ぎ澄まされた表現でなく、「うまく生きられない、ギャー!」のごとき表出に堕しています。
     「ギャー!」と叫ぶ輩の鬱屈の原因は、誤解されがちだけれど、貧困ではありません。ネトウヨとかぶるコアな安倍晋三支持層が実は「コガネ持ちでモテナイ人たち」(『週刊プレイボーイ』2014年3月31日号)であることが問題の一端を指し示します。結論的に言えば、神経症的な「不安の埋め合わせ」に過ぎないということです。
     そこを最近出した性愛論(『どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント』)で分析してみました。性愛の志向は一般にコントロール系(=フェチ系)とフュージョン(=ダイヴ系)に大別されます。でも、これは性愛に関わる志向の分類というより、実はコミュニケーション一般に関わる志向の分類です。
     コントロール系に育ち上がった人は、コントロールできない物事が多数あると感じる境遇に陥ると、強い不全感や劣等感に陥ります。そして、そうした不全感や劣等感を埋め合わせるために、コントロール感を得ようと、弱い者を見つけて噴き上がりがちです。排外主義的なウヨ豚(ネトウヨ)とは、そうした存在にすぎません。
     ▲『どうすれば愛しあえるの:幸せな性愛のヒント』
     御存じのように、ブルセラや援助交際の存在を朝日新聞で紹介した1993年から、「社会の問題」と「実存の問題」を混同し、「実存的に許せない物事」を「社会的に許せない物事」であるかのように語る連中を、僕は「ヘタレ」と呼んできました。そのように批判することが、実は問題を明るみに出した動機の一つだったんですね。
     25年前から既に「社会システムの問題」と「パーソンシステムの問題」とが、現になされるコミュニケーションの中で区別されなくなります。「社会という主語や目的語があるから社会のことを語っている」と思うのは勘違いになりました。それを指摘し続けてきた経緯があるので、宇野さんの問題設定は実に素晴らしいと感じます。
     一見すると戦後文化史や大衆文化論の本ですが、「公的ないし政治的」に見える論説も、所詮はマザコン野郎の「私的ないし家族的」な噴き上がりに過ぎないと断じるこの本こそ、真の政治論であり社会論だと思います。「政治論を政治論として、社会論を社会論として展開すると、間違うぜ」という診断が、本書の出発点ですね。
     まず伺いたいのは、「母性のディストピア」という問題は日本だけのものか、他国についても言えるのか、です。問いの背景は、今世紀に入って目立つようになった或るシフト、つまり、「欧米が進んでいて、日本が遅れている」のではなく「日本が課題先進国で、欧米が日本の後を追いかけている」という新しい理解へのシフトです。
     仮に、新しい理解が正しく、先進国だと思われてきた国々が、どのみち日本の後を追いかけるしかないのだとすれば、戦後一貫して「母性のディストピア」を刻印されたアニメを含めた日本の表現群の存在を──それらを享受することの意味を──世界的にどう考えたら良いのか、という質問になります。
    宇野 この本を書いているときは、正直、戦後日本の40年間のことだけを徹底的に考えていましたが、これは原理的な問題なので、今後、世界のあちこちで反復されうるでしょうね。
     この本は戦後日本の精神史をアニメーションから考える、というかたちではじまってそこから後半はグローバル経済や情報社会の問題を論じていくわけですけれど、それはまさにこの日本の壊滅的な状況が世界のあちらこちらで起こり得ると僕が考えているからです。
     おそらく今後に日本は課題先進国ですらなくなっていくでしょう。しかし今はまだ、違う。これから日本が終わっていくとしても、戦後日本の一時期にサブカルチャーの世界だからこそ生まれたユニークな思想や美学や技術を、それ自体が終わっていったとしてもどこか違う場所や領域でその遺伝子が生き残り、応用されていればいい、くらいのつもりで書いています。
    宮台 確かに日本が終わるだろうということは誰もが明瞭に感じているでしょう。だからこそ、不安を埋め合わせるために「日本が一番」みたいなクズ本やクズ番組が、まじでペストのように蔓延している(笑)。実際それがフロイトやそれを下敷きにしたフランクフルト学派の学説に従ったオーソドックスな診断になります。
     とはいえ、米国や欧州の没落も昨今では誰もが明瞭に感じています。単なる偶然ではありません。近代社会の全てが「母性のディストピア」なのではないか──。そんなふうに本書を拡張できるだろうと僕は思うのです。それには、「母性」の概念を「無自覚な依存」「見たくない依存」というふうに拡張すればいいだけです。
     僕が「九条平和主義左翼」や「対米ケツナメ改憲右翼」を揶揄して来たように、日本は意識化を否認しつつ米国にドップリ依存して来ました。思えば、ウォラーステインの世界システム論が「先進国/後進国」図式を揶揄して来たように、「先進国」も意識化を否認しつつ周辺地域を含む世界システムにドップリ依存してきた訳です。
     日本に限れば、米国支配ゆえに政治的独立が不可能な日本で、市民社会として自立したフリをするのが左翼、国家として自立したフリをするのが右翼です。左翼ゴッコと右翼ゴッコのフェイク。コスプレ左翼とコスプレ右翼のコミケ政治です。ならば、全てがフェイクであるような現実に耐えてどう尊厳を保つかが問題になる。
     これが戦後のアイロニカルな──壮大な主題が矮小なモチーフに対応づけられる──課題であり、DVに耐える妻に依存する江藤淳も、無力な男を女が裏で助ける村上春樹も、少女だけが飛翔する宮崎駿も、未熟男子の成長への焦りに満ちた富野由悠季も、子宮の如き終わりなき日常に苛立つ押井守も、同じ課題の反復だ──。
     本書を一言でまとめればそうなります。この反復を日本に特殊だと捉える発想に立つなら、「母性のディストピア」的な「無自覚な依存」「見たくない依存」から解き放たれた理想の「自立した近代」がどこかにあると想定する構えになります。でもそんな想定はデタラメじゃないかという理解が、既に世界に広く拡がっています。
     経済学者ダニ・ロドリックが言う通り、理想の〈近代〉は、登場した順に言えば、主権国家と資本主義と民主主義のトリニティ。でも理想が可能だと思われていたのは、世界システムへの依存を「見ないフリ」ができた短期間だけ。グローバル化で各国で中間層没落が始まる90年代後半には、〈近代〉の不可能性が気づかれ始めます。
     それから20年。「先進国」は今も〈近代〉が可能であるかのようなフリをしていますが、先にお話ししたトリニティなどあったタメシがない日本は、20年以上前からそんなフリができなくなっています。日本が落ちこぼれだからじゃない。〈近代〉がそもそもフェイクである事実が、「弱い輪」である日本で最初に露出しただけの話です。
    宇野 その民主主義と資本主義の幸福な結託、具体的には「戦後中流」という階層とライフスタイルというものは究極的にはマーシャルプランとGHQの産物、第二次世界大戦後の西側社会でのみ成立した、極めて政治的に醸成された状況に過ぎない、ということですよね。
     そういった構造が、戦後日本においては意図的に忘却されていた、または忘却したふりをされていた。これがこの本で僕が述べている「母性のディストピア」的な状況であるわけですが、そう考えたときに、つまりそれが政治的な作為に基づいたものであったと自覚し得る社会と、政治的な作為であることを忘却したふりをし続けてきた社会とのどちらを参照するのか。  まがりなりにも市民社会という建前が成立していた西ヨーロッパを参照していかにすればその奇跡的な状況が維持できるのかを考えるのと同じくらい、市民社会が成立しないままズルズルと社会を回してきた日本を、もちろん反面教師的に参照すべきだと思います。
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