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大西ラドクリフ貴士 世界の〈境界線〉を飛び越える――Q&Oサイト「ヒストリア」の挑戦(後編)(PLANETSアーカイブス)

今朝のPLANETSアーカイブスは、Q&O(クエスチョン&オピニオン)サービス「historie(ヒストリア)」を立ち上げ、国際情勢や歴史認識に関する議論を、新しい切り口で可視化しようとしている大西ラドクリフ貴士さんのインタビューです。後編では、多民族が参加するオンラインスクール事業のアイディアや、物語性を超えた歴史観をいかに子供たちに教育するかについて、お話を伺いました。※本記事の前編はこちら。 ※本記事は2017年7月11日に配信された記事の再配信です。 CGMの限界とオンラインスクールの可能性 宇野 ただ、一つ聞いてみたいのは、いま世界には民主主義の限界を意識せよ、という考え方のほうが説得力を持つ局面があるのは間違いないと思うんですよね。端的に言えば、バカにインターネットをもたせるとロクなことをしない。だから、ネット時代に民主主義は究極的には成立しない。民主主義で決められる範囲をなるべく狭くし、立法ではなく行政、デモクラシーではなくガバナンスで問題解決を試みる方が「賢い」と考えるほうが優勢だと思うんですね。  そんな中で、このhistorie(ヒストリア)はまだ素朴なインターネットへの信仰、つまり発信力を与えることで人間が「群」として賢くなるという幻想に基いているように思えるんですよ。もちろん、それができるなら越したことはないと僕は考えているからこういうことを聞くわけですが、そんな状況の中で、あえてボトムアップのCGM的なサービスに期待するのは、なぜでしょうか? ラド CGMといっても正直なところ、historieの議論のレベルを維持するためには、一般コンシューマーよりも、いわゆる「プロコンシューマー」の意見の方に期待しています。プロコンシューマーというのは専門性や知識を持ってるユーザーのことです。やっぱりある程度の専門性や知識がないと、発言しにくいし支持されるものになりにくいですからね。でも、その一つ一つの意見をジャッジするのは実は一般コンシューマーの方です。現代の世界を解剖するには「プロコンシューマーの意見がどのように一般コンシューマーに支持されているのか?」の集積と分析が重要だと思うんです。  例えば、米国大統領選でのトランプの支持層を見ても、プロコンシューマーではない一般コンシューマーのVote(投票)が最終的な決定権を握っていたわけじゃないですか。こういったネット上では大騒ぎしなくて目立たないような、サイレントマジョリティやサイレントマイノリティの声の受け皿が、いま世の中に必要で。彼らのVote(投票)を受け付けるようなCGMが、非常に重要になると考えています。そういう意味では、ネット上の民主主義にはまだまだ大きな可能性があると僕は捉えています。  少し話が飛びますが、よくインターナショナルとグローバリセーションを対比する議論があるじゃないですか、インターナショナルとは「寛容になる」ということであって、どちらかを選ぶという話ではない。ここにCGMを持ち込めないかなと。 宇野 あえてざっくり整理するならインターナショナルは境界のある世界でお互い頑張って交流しよう、グローバルは境界そのものをなくしてしまおう、という考え方ですよね。前者ではいかに人々が「寛容」になっていかに他者に手を伸ばすかが大事になって、後者では自動的に接続されてしまったものの間をいかに調節するか、もっと言ってしまえばいかに手を離すか、が大事になっていく。具体的には画一化されたプラットフォームの上でどう多様性を実現するかが問われることになる。 ラド まだ上手く言語化できてないですけど、インターナショナルでもない、そしてグローバリゼーションでもない、そのもうひとつ先にある世界があると思っていて、そしてそれを描きたくて、そこにCGMの可能性を見ているんです。世の中にはたくさんの境界線があり、人々は色眼鏡やフィルターを通して世界を見ている。そういった状況に対して、僕らのアプローチは3つあって、「1.境界線を超える」、あるいは「2.境界線を溶かす」、そしてもうひとつ、「3.境界線を上書きする」があると思っています。1はインターナショナル的、2はグローバリゼーション的と言ってもいいかもしれない。そして3は、つまりは、境界線を爆発的に増やすことで、実質的に人々の色眼鏡を無効化するようなものかと。  例えば「中国のことはあまり好きじゃない」というレイヤーに重なるかたちで「でも、中国のFintech(フィンテック)とかって超すごい」みたいなレイヤーで内側に入れる。たとえば「韓国のことはあまり好きじゃない」というレイヤーに重なる形で「K-POPは好き」という発想があってもおかしくない。それって、「K-POPアイドル好き」という趣味性の領域において、境界線の内側に入り込んでいる状態なんですよね。これは、ネット上で動画がシェアされファン層が急激に拡大していくような動きとして現れますが、そのことによって境界線が爆発的に増えて、誰もがお互いに相対化されれば、境界線の内側同士になれるんです。ただし、この方法は、ちょっとだけ境界線が増えても意味がない。爆発的に増えないと意味が出にくいんです。狙いとしては、国籍の上にさらにいろんな境界線がひかれまくってしまうと、わけわかんなくなってきて、その興味分野に関しては自分がナニジンかとかどうでもよくなってしまう瞬間があると思いますから、その演出です。そういう意味でも、CGMのアプローチは未だに有効であると考えています。 宇野 境界線をあえて「増やす」というアプローチですね。「日本人とそれ以外」という境界線を心のなかに持っている人に対して、自分自身がもっとたくさんの、複数の境界線が複雑に絡み合ったところに浮かんでくる存在だということを知ってもらう。国民というアイデンティティを相対化することで、ナショナリズム回帰を乗り越えよう、という議論はずっとあったと思うんですが、それをCGMサービスのようなかたちで実践するという発想はなかなかなかったと思います。 ラド CGMの本質はそこにあると思っていて、トップダウンでは方向性が決まってしまって打破できない状況を、ボトムアップの集合知で高速に無効化していく。境界線を跨いでどうしても気になっていたことが、別の境界線が上書きされて囲われることで、無効化、希薄化、中和されて、いつのまにか気にならなくなっていく。そういう意味で象徴的なのは日本のネット文化です。  わかりやすい例としてよく話すのは「初音ミク」とか。こういうことを言うと実際の初音ミクのファンの方は嫌がると思うし、僕自身は純粋なファンではないから言えるんだと思うんですが、僕はウェブサービスの設計者として、初音ミクをあくまでウェブサービスやプラットフォームとして捉えたい。  プロコンシューマーによって、楽曲数という点では、B’zやサザン、秋元康さんといった天才たちをはるかに凌ぐ勢いでが数が増加していくわけですが、そのプロコンシューマーたちって、全然一つの文化圏に収まりきってなかったりして。初音ミクというCGMの前では、自分がナニジンかとかどんな職種だとか、そんなあらゆる境界線が上書きされて、どんどん内側へと入り込んでいく。 ――ニコニコ動画では、動画数が増えすぎると逆に閉塞的になる。初音ミクの話でも、曲が増えすぎて素人にはどれが良い曲かよくわからない。つまり、情報量がある閾値を超えたときに、ピックアップや編集を加えて全体性を仮構しないとオープンな場を維持することが難しいという問題がありますが、そこについてはどうお考えですか? ラド おっしゃる通りだと思います。ただ、このhistorieは、プロコンシューマーが中心となって、世界から有益な情報を吸い上げる装置として機能すればいいと考えています。やっぱりウェブである以上、気になってGoogleで検索するとか、historieをSNSでシェアするような友人が周りにいるとか、興味やコミュニティが無い人々にはなかなか届かないので。意見を吸い上げる装置が、もともと興味ある人とか知識人に閉鎖的になってしまう部分は、ある程度仕方ないと思っています。でも、そこから生まれたいわゆる「良い曲」をしっかりと編集して「アルバム」の形にして届けるのは、また別の作業だと思っていて。  historieで得られた素材を編集して子供たち(大人かもしれませんが)に届けるのは、「バベルスクール」というオンラインスクール事業を計画しています。もちろん、編集が入る時点で公平さを維持できるのかという議論はありますが、僕らはたとえば右翼にも左翼にもフラットで、あくまでも複数の意見を立体化させるためのプラットフォームとして情報を届けていきたい。それが、historieの向こう側にある、国境をまたいだ次世代の教科書や学校事業です。 ――「バベルスクール」では、子供たちに向けてどのようなコンテンツを提供するのでしょうか? ラド まだ構想段階ですが、バベルスクールでは、「オンラインインターナショナルスクール」にチャレンジしたいなと思っています。具体的には、文化圏をまたいだ同世代の子供たちを、オンラインで時差が合う時間帯に集めて、ディスカッションさせる場を作ろうとしています。多民族の小さなクラスルームを作って、たとえば原爆についてのクエスチョンで、「最低限こういうことは調べてきてね」と事前課題も与えた上で議論を行う。そうやって学校や家族に教えられた自分たちの常識的な歴史観が、実は国ごとに全然違っていることを体感できる場を、提供していきたい。  historieという名前で「歴史を教える」と話すと、どうしても歴史上の「過去」を引っ張り出して議論しているように聞こえるかもしれないんですが、むしろ逆だと思っていて、バベルスクールは現代史も含めて「今」や「未来」の世界を考える時間を提供していけると思っています。  History(歴史)って、ほんとは、過去の出来事を教える科目じゃなくて、未来を考える想像力を育てる科目なはずだと僕は思っているので。だから、歴史を学ぶことは、未来を考えること。歴史を教える仕事は、未来をつくる仕事です。歴史って暗記科目じゃないですよ、超クリエイティブです。  近年、シリコンバレーでは、子供にリベラルな教育を与えたいと考える親が増えています。21世紀型のグローバルシティズン力、つまり地球市民としての力がビジネスにおいても問われ始めている。それを教育によって伸ばしていこうという動きがあります。  そういう教育を望んでいる親は、カリフォルニアのリベラル層や富裕層を中心に、世界中、日本にもいます。でも、完全にインターナショナルスクールに通わせるのっていろいろハードル高くて、それをオンラインで私塾的につまみ食いできる場所があればいいなと、ファーストステップとしてはそう思っています。  本当は、届ける人を最大化するためにも、公教育に落とすところまでやっていきたいんですが、それはとてもパワーもかかることだと理解しているので、公教育を進めてこられた有識者の方々のご支援やご指導を受けながら、時間をかけてしっかりと進めて行きたいと考えています。日本国内だけでもディスカッションの場を提供することには意味がありますし、スクールとして非常に価値があることだと思ってます。 物語的な歴史観の限界をいかに乗り越えるか  ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

大西ラドクリフ貴士 世界の〈境界線〉を飛び越える――Q&Oサイト「ヒストリア」の挑戦(後編)(PLANETSアーカイブス)

大西ラドクリフ貴士 世界の〈境界線〉を飛び越える――Q&Oサイト「ヒストリア」の挑戦(前編)(PLANETSアーカイブス)

今朝のPLANETSアーカイブスは、Q&O(クエスチョン&オピニオン)サービス「historie(ヒストリア)」を立ち上げ、国際情勢や歴史認識に関する議論を、新しい切り口で可視化しようとしている大西ラドクリフ貴士さんに、ネット右翼問題をはじめとする人々の認識の断絶、〈境界線〉の問題を、ボトムアップから更新していく取り組みについて、お話を伺いました。 ※本記事は2017年7月10日に配信された記事の再配信です。 もしジョン・レノンが生きていたら、彼もきっと作りそうなプロダクトを  ――最初に、ラドクリフさんが取り組んでいる活動についてお伺いできればと思います。 ラド 5年ほど勤めた前職のRecruitを退職して、the Babels(バベルズ)という新しい会社をこの4月末に立ち上げました。社名は旧約聖書に登場する「バベルの塔」にちなんでいます。この会社のコンセプトは「もしジョン・レノンが今生きていたら、彼もきっとつくりそうなプロダクトを。」です。もし彼が生きてたら、きっと音楽よりもインターネットやスタートアップに夢中になっていたんじゃないかなと、僕思うんですよね。ジョンのプロダクトを勝手に妄想すると、自分のプロダクトの設計思想と近いものを感じていて。だからthe Babelsのコンセプトを人にわかりやすく伝えるときには、もしジョン・レノンが生きていたら彼もきっと作りそうなプロダクトを僕らは手がけていくんだ、と話しています。 また、僕らは「インターネットから世界平和を作るスタートアップ」とも名乗っています。現在の世界には、人種や宗教やジェンダーといった、さまざまな目に見えない境界線が張り巡らされています。その、トップダウンで作られた境界線の内側に陣取っている人たちは、外側の人たちを無意識に色眼鏡を通して見て批判し、どんな酷いことでも言えてしまう空気がある。その結果、表面的なイメージに引っ張られて、判断や意志決定がされてしまいがちです。 でも、それって、非常に20世紀的だなあと思っていて。20世紀までの負の関係性を22世紀にまでダラダラ持ち込ませてたらダメだと思うんですよね。21世紀のあるべき姿から逆算したときこの世界に最も欠けているのは、「境界線の向こう側への想像力」だと思うんです。「色眼鏡を外す力」といってもいいのかもしれない。人々の境界線の向こう側への想像力を育てる仕組みを作りたい。それで会社を立ち上げました。 ▲ the Babels.inc ――具体的に、どのような事業を手がけようとしているのでしょうか。 ラド 歴史的・国際的な問題を議論する「historie(ヒストリア)」というwebサービスを作っていて、6月頭に海外向けにローンチしたところです。たとえば、竹島がどこの国のものなのか。広島・長崎への原爆の投下は正しかったのか。さまざまな議論がありますよね。1つの明確な答えが出にくく、国や民族を跨いで複数の観点があってもいいような、そういった問題に特化したQ&Aサービスです。 ただ、Q&Aサービスってどれも「ベストアンサー」を決めちゃうじゃないですか。the Babelsの会社内部では、自分達はQ&Aではなく「Q&O」(クエスチョン&オピニオン)サービスを作ってるんだと言っていて。これって発明だと思ってるんですけど、歴史とか政治や国際問題って決して唯一の「アンサー」(答え)にならないわけですから、Q&Aじゃダメなんですよね。1つの質問に対して多様な「オピニオン」(意見)を複数同時に見せられる仕組み、UI、デザインを意識してQ&Oサービスを作っています。各ユーザーから寄せられたオピニオンをビジュアライズし、双方の陣営の意見を「見える化」していく。そのことによって、反対意見を持つ人々への想像力を高めるのが目的です。 ユーザーはひとつのトピックについて、自分の立場を選んでからディスカッションを始めます。さまざまな立場のユーザーから投稿された意見が、並列に並んでいるようなイメージです。Q&Aサイトはベストアンサーを返すことが目的ですが、ヒストリアはアンサーをひとつに限定しない。あらゆる事象を平面ではなく立体で捉えたい。意見が分かれそうな質問をどんどん投げて、意見を立体化させます。システム的にもUI的にも非常に難易度高いんですけど、意見のグラデーションをもっとビジュアル化していきたいと思っています。 このサービスを、まずは米国西海岸のリベラルな層に届けていきたいと考えています。僕らはまず何よりもオピニオンメーカーを大事にしたいと思っていて、海外のオピニオンメーカーに1人1人メッセージを送るなど泥臭くアプローチすることから始めています。オピニオンメーカーの意見のうち評判の良いものが重点的に反映されるようにしていきます。プロダクトを初めから全て英語ベースで作ったのも、日本よりも先に米国で展開するのも、米国の方が議論の文化が根付いているからです。米国や欧州で議論される場所として根付いた後で、日本に持って来ようと思っています。   ▲「historie」 ――挑戦的なサービスになりそうですね。このアイデアが生まれたきっかけを教えてください。 ラド 僕は多民族が暮らす地域で育ったのですが、そこでは仲が良い関係にある人々も、民族や国家についての議論になると、平気でお互いディスり合ってしまう。そういった状況を解決する方法をインターネットから作れないかとずっと考えてきました。 学生時代に、世界共通言語をボディランゲージで作るCGMを作っていました。たとえば「お腹が空いた」を表現するボディランゲージを世界中のユーザーにアップして評価し合ってもらい、Facebookのデータから、どの地域・民族で伝わりやすいかを調べて、世界共通のボディランゲージを見つけて増やしていくんです。でもこれって、既に引かれている境界線をいかに飛び越えるかという対症療法的なアプローチにすぎないんですよね。そのとき、そもそもなぜ境界線が生まれているのかが気になったんですね。そこを掘っていくと、どうしても歴史教育にたどり着く。国によってびっくりするくらい教えられている内容が違っていて、そうすると前提が違いすぎますから、子供達が大人になって議論をしようとしても「そりゃ意見も合わないよな」と。 今の歴史教育の形態は本当によくないと思います。もちろん、国や権力者には国民に信じてほしいストーリーがあって然りなので、国によって教えられている歴史が違うのは、構造的に仕方のないことではあるんですよね。ただ、そのワンサイドストーリーだけが子供達にインストールされている状況がよくない。ワンサイドストーリーだけで教えられると、別のストーリーを受け容れられなくなって、むしろ境界線の向こう側への想像力が減退しますから。世界を減退させるための教育なんてかなりクレイジーじゃないですか。バベルズではいずれ、Q&Oで集めたコンテンツを基に、世界中で提供可能な歴史の電子教科書の製作や、境界線の向こう側への想像力を育てるためのオンラインインターナショナルスクルールの運営をやりたいと考えています。いわば「バベルスクール」ですね。 宇野 アイロニカルな名前のスクールだね。旧約聖書の「バベルの塔」といえば分割の象徴だから。 ラド 神からトップダウンで与えられるのではなく、人間たちがボトムアップで手を合わせて乗り越えようとした背景が、僕達の思想に非常に近いと思ったので。 空想的で実現不可能な計画を比喩的に「バベルの塔」と呼んだりしますが、でもどうせスタートアップするなら、そのぐらいがちょうど良い。人類にとって本当に意味のある問題解決に時間を使いたい。 そういう解釈でいいかなと思ってます。 歴史に対して「食べログ」的なアプローチをしたい  宇野 ラドさんがヒストリアを設計するにあたって、CGMという方法にあえて注目したのは、なぜですか? ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

大西ラドクリフ貴士 世界の〈境界線〉を飛び越える――Q&Oサイト「ヒストリア」の挑戦(前編)(PLANETSアーカイブス)

井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第34回 創発的現象としてのゲームの二次的フレーム

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前々回に引き続き、共同注意の概念を通したゲームという現象の読解です。ゲームを成立させている多層的な合理性、その定義の困難は、同時的に複数の水準の要素が発生しながら、分解して分析できない、その特異な性質にあるとします。 4.2.3 創発的現象としてのゲームの二次的フレーム  本編の展開について、だいぶ間をおいてしまって申し訳ない。本筋としては、ゲームにおける学習と、共同注意が同時的に起こるとは、どういうことかについて議論をしていた。  なぜ、この「同時的に起こる」ということが重要なのかといえば、これがゲームに関わるさまざまな矛盾や、パラドクスを解く鍵になるからである。  ある、現象が同時に起こり、より複雑な水準の事態を引き起こすということは、そこに異なる水準の説明を生み出すということだ。そして、異なる水準の説明が可能になるということは、同時に矛盾やパラドクスに満ちた説明を可能にするということともつながっている。  いままで触れてきたとおり、ゲームを遊ぶということには、さまざまな矛盾した事態を内包している。いくつかの矛盾した事態を挙げてみよう。 ・人は、通常においては失敗を避けるものであるにも関わらず、何度も失敗するであろうことが明らかにわかるような「ゲーム」という体験を自発的に遊んでしまう。(Juul,2013)[1] ・日常にしばられることから逸脱するために、ゲームをはじめる。しかし、ゲームをはじめれば、そこではまた別のルールに我々はしばられる。逸脱するためにゲームをしているのに、ゲームをはじめれば、そこではゲームのルールに従順になる。 ・ゲームを終わらせる(クリアする)ために、ゲームを始める。 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第34回 創発的現象としてのゲームの二次的フレーム

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』番外編 幸福な善人の異世界物語

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は番外編として、ウェブ小説の新ジャンル「幸福善人系」について考察します。物語制作上不可欠とされるはずの、主人公の欠落や進行上の障害を全て排除し、ひたすらストレスフリーを徹底した作品群。その指向性の先にあるものは……? 究極のストレスフリーとしての幸福な善人の話  さまざまな異世界もの物語の中でも、ここ数年になって「幸福善人系」とでも呼ぶべき一群の作品が増加している。アニメ化までいった作品としては、吉岡剛『賢者の孫』(2015-)がこうしたタイプの代表格だが、もとから恵まれている幸福で善良な人間が、スーパーマンとして大活躍する話である。私見では、この「幸福善人系」の作品群の台頭は、一時期の「空気系」の作品が登場してきたときのそれに近いインパクトを持っているように思う。そのインパクトというのは、何なのかということを説明したいと思う。  さて、こういったものが増加してきた経緯のそもそもは、ウェブ小説界隈で近年よく意識されるようになってきた「ストレス展開」の排除だとか、「ストレスフリー」などという言葉が関係している。つまり、主人公が喪失や挫折を経験したり、差別に苦しめられたり、誰かとの深刻な対立を経験したりすることのない小説である。7,8年前であれば、この傾向はそこまでは顕著ではなかったが「ストレスフリー」は、ウェブ小説の中での流行りを意識する書き手にとっては、近年かなり意識されている。「異世界転生」「チート」「ハーレム」といった要素に次ぐ、もう一つのウェブ小説の鉄板要素なのではないかといった感すらある。「ストレスフリー」自体ネタとしたメタ小説(注1)まで書かれている状況だし、もちろん、コミカライズされている作品も数多い。  もっとも、これといって強いストレスのない物語それ自体はそこまで珍しいわけではない。初期『ドラゴンボール』だってそうだ。ただ、そういった最強主人公モノは何かしら変わった人格──いわゆる「キャラが立っている」人物──であったり、設定の面白さをもっていたりする。  つまり「ストレスフリー」展開の話を順当に面白くしようと考えた書き手たちの考えることの一つは、ヒキの強い設定やキャラ立ちをさせようという発想に落ち着くことになる。  ホモ・サピエンスという種族がエルフやドワーフといった種族を遥かに超える伝説的な種族だったという設定の柑橘ゆすら『最強の種族が人間だった件』(2016-2018)だとか、あまうい白一『俺の家が魔力スポットだった件~住んでいるだけで世界最強~』(2015-)などは、タイトルだけでもすでに極端なストレスフリーっぷりがうかがえる、ヒキの強い設定をもっているストレスフリー作品であり、こうした作品は数多くなされている。  たが、こういった設定や、キャラクターのヒキの強さで話を面白くしようとする努力とは、逆方向にストレスフリーの作品のあり方を突き詰めてできあがったきたのが、「幸福な善人」たちの話である。  これらは、キャラクターや設定のヒキの強さで話を面白く盛りあげない。キャラクターや設定も含めて、刺激の低い作品であり、ある意味で究極のストレスフリーを目指した帰結とも言える。 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』番外編 幸福な善人の異世界物語

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第十章 人と人工知能の未来 -人間拡張と人工知能-(後編)

ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。第十章の後編では、人工知能が人類の芸術や歴史に及ぼす影響について考えます。ネット空間で人間に代わり活動を始めるAIたち。そして「余暇」を得たAIが文化を生み出す可能性とは――? (5)時代と文化に干渉する人工知能 これまで歴史や文化を作ってきたのは人類だけでした。シュールレアリスム(超現実主義)のように無意識の領域さえ使って、我々は人類の歴史、人類の意思による芸術を作り上げて来ました。 しかし、大袈裟な言い方をすれば、人工知能を作るということは、人工知能を起点としてもう一つの文明を作り上げることでもあります。なぜなら、人工知能に息吹を与えようとする根源的な欲求の中には、我々人間全体をそこにコピーしておきたい、という本能的なものがあるからです。個人、集団、そして文明は、長い目で見れば「人工知能社会に写されていく=人工知能に模倣されていく」ことになります。 人工知能を作り出すことは、人間の内にあるものを一度外部化することで眺めてみたい、ということでもあります。外部化の究極の形は、人工知能の自律化であり、人工知能と人間の対等化です。人工知能開発者にとっては、人間を超えるまで開発を進めるということになります。 個人の知能を人工知能に移した次は、人間社会を人工知能社会に移すことになります。この分野は、前章で説明したように「マルチエージェント」とか「社会シミュレーション」と言われる分野です。この分野の成果はやがて、現実世界に人工知能社会を実現するために用いられることになります。我々は自分自身を知るために、人工知能を作り続けます。デジタルゲームが作られる動機の一端もそこにあります。画家が風景を写すように、ゲーム開発者は世界の運動(ダイナミクス)をゲームに移し、人をプレイヤーとして招き、人間の行為をゲームのプレイヤー行為として再現するのです。 既に物理世界とネット世界の二重世界を生きる我々は、二つの世界が分かち難く結びついていることを知っています(図9)。しかし、我々はデジタル世界ではあまりにも無力です。そこで人工知能エージェントの助けを借りて活動しているのが現在のネットの在り方です。しかし、本来ネットワークの世界は人間よりも人工知能が活躍しやすい世界です。ここからは人工知能開発者の中でも意見が分かれるところですが、私は最大限の自由度を人工知能に与えたい、と思っています。人工知能が作る社会、人工知能社会が生み出す文明を、そして芸術を見たい、という欲求があります。そして、それを自分自身の手で生み出したい、と思っています。 ▲図9 物理空間とネット空間の二重構造 (6)人工知能エージェントの作る世界 ネットの世界が人工知能エージェントの世界になるのは、それほど遠い先ではありません。それはネットの世界においても、エッジ(個人の端末)においても、です。人間の手によってようやく保たれているネットの世界もエージェントたちよって保たれるようになります。荒れ放題のSNSも人工知能の介入により見えざる手によって調停され、目の離せないソーシャル・ゲームの運営も、エージェントたちに任せることができるようになります。 現在は、人がネット世界に張り付いてネット世界を動かしています。人は今、直接ネットの世界に参加しているような感覚ですが、それはインターネットの過渡期の一時的な状況に過ぎません。やがて、自分の分身であるエージェントを介して、ネットに参加するようになるでしょう。そして、物理世界はネット世界とますます連動の度合を高め、現実世界と同等のスケールのネット世界ができることで、あらゆる場所は物理世界とネット世界の座標を持つことになります。現実世界を変えることはネット世界を変え、ネット世界を変えることは現実世界を変えることになる、そんな未来が待っています。 2010年以降、IT企業がネットビジネスで得た資金で、ロボット企業を買収しています。工場ロボット以外のロボットはビジネスの目算が立てにくかったところに、ITネット産業がドローンやロボットの企業を買収することで、ネット世界から現実世界へと干渉の領域を広めつつあります。エージェントという視点から見れば、ネットやアプリ内の見えないネットエージェントから、現実世界の見えるエージェントへと変化したことになります。人工知能という視点から見れば、チェス、囲碁、将棋、デジタルゲームという揺籠で育まれて来た人工知能が、いよいよボディを持って現実世界に進出する、ということになります。 現実世界への人工知能エージェントの進出は、たどたどしい一歩です。しかし、ロボットやエージェントたちは単なる労働力にとどまりません。人工知能を持った存在として、現実の中で知的活動を果たすことができます。スマートシティという観点からすれば、それは街全体を管理する人工知能の手足となります。人間が目指す社会のデザインは、人間だけで成し得るのではなく、人工知能と共にデザインして行く必要があります。 人工知能企業の中にはエージェント技術を前面に出す企業も現れるでしょう。実はこの動きは00年台前半にも「エージェント指向」という名前で盛り上がろうとした分野でした。しかし、あまり世間では流行ることなく基礎技術の一つとしてブームは終わってしまいました。「エージェントアプローチ 人工知能」(1997年、第二版2008年、Stuart Russell 、Peter Norvig 著、古川 康一監訳)をはじめ、たくさんの良書も出ましたが、ユーザーのレベルまでは人口に膾炙することはありませんでした。しかし、どんな技術にも周期があります。だからこそ、エンジニアは技術を公開し積み上げておく必要があります。エージェントはこれからの人工知能社会を構築する単位となります。 (7)芸術と人工知能 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第十章 人と人工知能の未来 -人間拡張と人工知能-(後編)

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第十章 人と人工知能の未来 -人間拡張と人工知能-(前編)

ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。最終章となる第十章では、人間と人工知能の未来の関係について考えます。人間を拡張するAIと、自律的な知性として存在するAI、両者は相互に影響を与えながら、より高度な社会を構築していきます。 (1)人工知能と人類の未来 人工知能は人類の未来に深く干渉しようとしています。ここでは、人工知能がいかに人間の文明を変えていくかを考察して行きます。 この300年近くの人類の技術の歴史を振り返ってみましょう。それはあるレベルの技術の飽和と、そこからの飛躍の歴史です(図1)。まず機械の蔓延が、それを制御するコンピュータを生みました。コンピュータの蔓延はそれをつなぐネットワーク世界を呼び寄せました。ネットワークの上の膨大な情報の海が人工知能の温床となりました。飽和は質的な変化を生み出す土壌です。量が質を生みます。では人工知能の蔓延は次に何を生み出すのでしょうか? ▲図1 技術の階梯 人工知能の飽和は、いたるところ(ユビキタス)に人工知能の機能が飽和することです。ちょうど機械がいたるところにあるように、コンピュータがいたるところに置かれているように、ネットがあらゆる場所でつながるように、人工知能があらゆるところで機能するようになります。それは次の二つのものを生み出すと予想されます。 人工知能の技術が実装される場所は、大きく分けて二つあります(図2)。一つは身体に付随する場所・空間・社会へ「知的機能」(インテリジェンス)として実装されます。それは人の身体から始まって、人を囲う空間に人工知能を埋め込み、人の行為と知覚を拡大します。それは人の身体を拡張すると同時に、人の作用する空間を変容させ、最後に人の意識を変化させます。例えば、遠くにあるものを瞬時に認識し操る、靴が行き先の方向へ導いてくれる、本の表紙を見ただけで要約が表示される、視線を動かすだけでコンピュータを動かす、スケッチしただけできちんとした絵に修正される、全ての言語が瞬時に訳される、などです。それはあたかも、人間の知的能力(知能)と身体能力が拡張されたように思えます。これを「人間拡張」(Human Augmentation)と言います。つまり人間を中心として世界に向かって人工知能が実装されていきます。それは現在から見れば、人間と人工知能が融合して人間が拡張されることを意味します。 もう一つは人間とは関係ありません。これまで蓄積されて来たあらゆる技術が結晶し、人工知能として結実します。人間以外の存在として、新しい知的擬似生命が生まれます。これを「ロボット」と名付けることにすれば、人工知能を集約した人格ロボットたちを人は生み出すことになります。それは、人工生命と人工知能の融合の先にあります。つまり、人間の外に人間とは違う知能が出現することになります。つまり純粋な人工知能の自律的結晶体です。 ▲図2 人工知能と人間の未来 人工知能時代の先には、技術を人間側に集積し人の知能を拡大した「人間拡張」と、技術を人間と対照な位置に集積し、一つの自律した知的擬似生命体として人工知能技術が集積した「ロボット」(自律型知能)があることになります。そこでは、現在の「人間-人工知能」のたどたどしい関係が、「拡張された人間(Augmented-Human)-自律化した人工知能(Autonomous AI)」という関係にアップデートされます。実はこの関係のアップデートこそが、レイ・カーツワイル氏の著作「ポスト・ヒューマン誕生」(2007年、NHK出版)にあるように、人間と人工知能が新しい関係に移る、という本来の意味のシンギュラリティなのです(図3)。 そこでは世間で流布しているような、人工知能が人間を超える、という議論が意味をなくします。拡張された人間と、人工知能の集積であるロボットがあり、人工知能はそのどちらの文脈にも吸収されることになります。人工知能技術は人間をより高次の存在へ押し上げると同時に、もう一方で、その巨大な蓄積を結晶させ、自律した一つの高度で有機的な人工知能を生み出すことになります。 人間と人工知能はこれから、一旦は乖離しつつも、シンギュラリティのラインを超えた場所で再び新しい関係を結ぶことになります。それは、現在の人間と人工知能のたどたどしいコミュニケーションではなく、超高速で密度の濃い、かつ抽象度の高いコミュニケーションとなるでしょう。テニスに喩えるなら、現在の人間と人工知能のやりとりがゆるやかなボールの打ち合いだとすれば、シンギュラリティを超えた場所での拡張人間と人工知能のやり取りは、現在の人間の目には留まらない速さでラリーを続けているようなものになるでしょう。 ▲図3 人間と人工知能の関係のアップデート 「BLAME!」(弐瓶勉、月刊アフタヌーン、1997-2003)では、遠い未来で、人間は自らに埋め込んだ「ネット端末遺伝子」によって人工知能と対話していました。しかし感染症によってその遺伝子が次第に失われて行くことで、人類は人工知能と対話ができなくなります。そして人工知能が管理する都市世界で異物として排除されながら、逃走しつつ生き延びざるを得なくなります。残された数少ない「ネット端末遺伝子」を持つ人間を主人公は探し続けます。これはディストピアではありますが、人間と人工知能の高度な関係性を前提としています。 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第十章 人と人工知能の未来 -人間拡張と人工知能-(前編)

猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉第34回「密度を活かしてアートを〈自然〉に高めたい」

2018年最後の配信は、チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は上海の燃油タンク跡地をリノベーションした美術館・TANK Shanghaiでオープニングを飾るチームラボの展覧会がテーマです。工業地帯からIT都市へと生まれ変わりつつある地区に、なぜ今、現代アートが集結しているのか。議論は都市とアートの関係から、密度や混ざり具合の違いが人間の認識や行動に与える影響にまで広がっていきます。 ▲チームラボは、中国・上海のTANK Shanghai(上海油罐芸術中心)にて、オープニング展「teamLab: Universe of Water Particles in the Tank」を開催中。会期は8月24日まで。 上海で燃油タンクが美術館になる意味 宇野 今回は上海で3月23日から始まった「teamLab: Universe of Water Particles in the Tank」に来ているわけだけど、まずは、この展覧会のコンセプトの話から聞きたいな。 猪子 この美術館、TANK Shanghaiは、燃油タンクの跡地の建物をそのまま使ってつくられたもので、そのオープニングのエキシビジョンのオファーがチームラボに来たんだよね。この美術館は私設なんだけど、オーナーの喬志兵(チャオ・ジービン)氏が世界でトップ200に入るような、中国を代表する現代アートのコレクターなんだ。そんな彼が燃油タンクをリノベーションして現代美術館にしたんだよね。 この西岸(ウェストバンド)エリアは、もともと川崎みたいな工業地帯だったんだけど、都市が拡大したことで工業地帯が移転して、今はアート地区みたいになってる。有名どころだと、火力発電所の跡地を国立の美術館にした上海当代美術博物館とか、現代アートの美術館の龍門雅集とか。六本木ヒルズに蜘蛛みたいな大きな彫刻があるでしょ。あれを作ったルイーズ・ブルジョワの大規模な回顧展をこの前まで開いていた龍美術館とかがある。あと余徳耀美術館(Yuz Museum)には『レイン・ルーム』が常設されてる。Random Internationalというアート集団の、雨の中を歩いても濡れないという作品ね。あれが常設されているのは以前はここだけだったんだよね。今はドバイにもあるらしいけど。 とにかく、ルイーズ・ブルジョワにしても『レイン・ルーム』にしても、世界的に見てもすごい作品で、それらを展示するパワフルな美術館が集まってる。この一帯は今後さらにパワーを持つエリアになっていくと思う。 TANK Shanghaiはその地区の一番端になるんだけど、敷地内にあるタンクのうちの一つでチームラボは個展をしています。あとの二つは、中国を代表する現代アーティストたちのグループ展と、アルゼンチンを代表するアドリアン・ビジャール・ロハスの展覧会になってますね。 会場は2フロアあります。まずは2階に上ってもらうと、燃油タンクの形状をそのまま使った、『Universe of Water Particles in the Tank, Transcending Boundaries』(以下『滝』)と『花と人、コントロールできないけれども、共に生きる、Transcending Boundaries - A Whole Year per Hour』(以下『花と人』)という作品を展示しています。燃油タンクって本当に巨大で円形だから、その中に一つの小宇宙を作りたいと思って、水の流れと生と死を繰り返す花の作品が共存している空間を作った。 ▲『Universe of Water Particles in the Tank, Transcending Boundaries』 ▲『花と人、コントロールできないけれども、共に生きる、Transcending Boundaries - A Whole Year per Hour』 そして、燃油タンク沿いに階段をおりていくと、1階では『Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる』という波の作品を公開していて、来場者がさまよって方向感覚がわからなくなるような空間の中で、さらに三つのディスプレイ作品を展示している。大枠で言うとそういう展覧会です。 ▲『Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる』 宇野 まず作品の外側の話から始めたいんだよね。猪子さんが意識しているかはわからないけど、場所に意味が出ちゃうっていうこと。つまり、なぜあのタンクが美術館になったかというと、中国の沿岸部が経済発展してるってことだよね。燃油タンクって20世紀的な工業社会の重工業の象徴で、それがITを中心とした新しい産業の都市の中心にあるってことだから。 猪子 まさにその通りで、燃油タンクの目の前に超巨大IT企業の上海オフィスが建設されている最中なんだよ。 宇野 ITって実体を持たないじゃない? 工業社会では燃油タンクや工場といった目に見えるアイデンティンティがあったけど、IT社会ではそれを持てないから、代わりにアートで確立しようとしてると思うんだよね。ただ、自分たちのアイデンティティを、建物というモノによって記述するのは、その発想自体が工業社会のセンスだと思う。 チームラボがシリコンバレーやシンガポールに招かれたのも、それらの都市がアイデンティティを求めていたからで、都市が新しいステージに上がって自信をつけようとしたときに、それにふさわしいアートを備えようとするのだと思う。この地域に新しい美術館がつくられているのは、情報社会に生まれ変わった上海の新しいアイコンになろうとしているからだと思う。かつて燃油タングが並んでいた場所だからこそ、たとえばアリババやテンセントみたいな巨大IT企業の支社ができなきゃいけないし、新しい美術館ができないといけない。これは猪子さんが意図していなかったとしても、結果的にそういう意味が後から追いかけてくると思う。 猪子 なるほどね。もちろん建物を壊さずにそのまま使うのがカッコいいという、世界的なリノベーションの流れもあると思うけどね。彼らには日本のような20世紀へのノスタルジーは全くないし、世界の中心は自分たちだと本気で思っている気がする。ただ事実として、宇野さんの言うように、かつての工業地帯が今は美術館エリアになっているし、IT企業のオフィスがつくられている。 宇野 今後、IT企業のオフィスができたとき、この地区は新しい意味を持った場所になると思う。それこそ工業社会から情報社会に移り変わったことの象徴としてのね。そのときに、巨大IT企業の支社だけでなく美術館があるというのが現代的だよね。 以前、映像圏のカルチャーからもう一度、アートに揺り戻しが来るんじゃないかという話をしたけど(参照)、そういうことだと思うんだよね。アートというのは、鑑賞者にとっては固有の体験になるから。20世紀は、モニターの中で皆が同じ夢を見るということばかりを追求していた100年間だったんだけど、その揺り戻しが明らかにきている。そういう意味で、あそこに美術館がいくつもあることには意味があると思うよ。 作品に「360度」包まれる 宇野 しかしここの展示、つまり2階の、まさに燃油タンクの中にあたる部分の展示は圧巻だね。球形の空間の内壁がそのまま作品になっていて、鑑賞者が360度包まれるというのは、実は今まではあまりやってこなかったよね。いまだに僕も消化しきれていないんだけど、これはいろいろ応用できる気がする。 猪子 ちょっと近いのが豊洲(「チームラボプラネッツ TOKYO」)のドーム(『Floating in the Falling Universe of Flowers』)だよね。でもそちらは、ドームであることすら感じさせない作品だけど、今回はタンクの形状をより意図した作品だから。 宇野 豊洲ではどこに壁があるのかわからないような空間に没入させられるけど、今回は明確に球体の内側に閉じ込められていることを自覚せざるを得ない。視覚的にも新しいし、あの閉じ込められている感覚は面白い。床と壁が全部作品で、ぐるっと包まれている。この表現が正しいかはわからないけど、妙な安心感があるよね。 猪子 一つの小宇宙というか、箱庭みたいだよね。 宇野 僕はジオラマが好きなんだけど、あの感覚に近いなと思っていて。世界をまるごと手に入れたかのような錯覚。チームラボの一連の作品は自然のようなエコシステムを作り上げているわけなのだけど、それに360度囲まれるというのは、自分が一つの小宇宙を手に入れたような感覚がある。今回の作品はタンクの建物に合わせた、素材の面白さを引き出すためのアプローチを取ったのだと思うんだけど、すごく応用可能性があると思う。これは大事なことで、パリ展とかボーダレスのような大規模展示を見ちゃうと、全部あれの部分輸出に見えちゃうわけ。そうじゃない戦い方をするには街の文脈と対決する、つまり、この場所でこういう展示をするのはどういう意味があるかを追求するか、あるいは建物という素材に徹底的に向き合うかしかない。それは今後、チームラボが世界中のいろいろな都市で作品を展開していく上で重要なことだと思うんだよね。そこからはまた別の意味が出てくると思うし。 今回の作品でいうと、この地域でやっていることの意味と、360度という作品のコンセプトがうまく組み合わさると、より重層的になるのかなと思った。場所と建物に、今回の展示は結果的にかもしれないけれどしっかり向き合ったものになっていると思う。 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉第34回「密度を活かしてアートを〈自然〉に高めたい」

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第33回 叙述的共同注意のネットワーク

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ネット上に存在している他者との親密な関係の生成を促すシステム。ゲームは同様の媒介性を備えながら、同時に他者との衝突を本質とする面も持ち合わせています。容易には接合しえない諸要素からなるゲームの本質、その概念的な整理を試みます。 4.2 叙述的共同注意のネットワーク 4.2.1コミュニケーションとルール  一時期、他人のひどくプライベートな話を様々な人から集中的に聞いていたことがあった。虐待から逃げてきた子の話、障害のある弟を抱える姉の話、トランスジェンダーの人の話。糖尿病で苦しんでいる人の話。同性愛者の人が結婚した人の親(義理の親)がまた同性愛者で、その義理の親にレイプをされていて悩んでいるという話を一晩じっくり聞いたこともあった。  カウンセラーの仕事をしていたわけではない。その話を聞いていたのはインターネットの中でも、とりわけ匿名性の高いチャットサービスに出入りしていた時のはなしだ。私とは、なにか全く違う人生を歩いている人たちが、同時代の日本のなかにこれほどいるのか、ということを知ることができるということが衝撃で、一時期はほんとうに毎晩通っていた。  性、病気、家族、借金。そういった、私的領域に関わることを、多くの人が私にむかって話してくれた。そこで、信頼されていたのは彼/彼女らにとって、見知らぬ私ではない。信頼されていたのは、私ではなく匿名性を担保するシステムのほうだ。  このサービスの匿名性はTwitterの匿名とは質が違う。Twitterでは固定のIDを原則として使い、人によっては実名と紐づけたアカウントを利用している。このサービスでは、固定のIDもない。ログも残らない。名乗り出ない限り、実名に辿り着かれることはなく、誰も実名を名乗らない。Pfitzmannらの概念【1】を借りるのであれば、リンク不能であり到達不可能【2】という意味での強い匿名性が担保されたサービスだということになるだろう。完全な「名無しさん」同士が会話をするというスタイルのサービスだ。別の例をいうのならば、「王様の耳はロバの耳」と叫ぶための穴のようなものだ。誰かに話してしまいたい自分の秘密を叫ぶための穴のような場所が、インターネットにはいろいろな形で存在している。  そこで話される話は、5chやはてな匿名ダイアリーにはたまに書かれることはあっても、Twitterや、Facebookにはなかなか出てこない話だ。かつての2ch(現5ch)には獣姦や、自慰などについての具体的な体験談を綴った「名作」と言われる過去ログがある。確かに、獣姦が趣味だという人に会うことはまずないし、たとえ会うことがあったとしてもカミングアウトされることもまずない。極限まで匿名性が高く担保されたようなサービスは、ニュースになることはないが、インターネットのどこかで、今日も盛んに話されているはずだ。  よく知られているように、我々のコミュニケーションは、対話をする環境に大きな影響を受け、そのありようを変化させる。  フェイクニュースや炎上の問題など公共的な領域に関わる議論はもちろん、さきほど述べたように私的な領域にわたっても起こっている。初対面の私に向かってプライベートなことを話はじめる人はほとんどいないだろうが、高い匿名性が担保された場所であれば、人はふつう言えないようなことも言ってしまう。  行為を行わせる環境を信頼して行為の構造を変える、というのはネットサービスに限った話ではなく、むろんゲームでも起こっていることだ。  初対面の相手とトランプなどのゲームを通して仲良くなったという経験がある人は多いだろう。それほど社交力のない人にとっては、初対面の相手と仲良く話すというのはそれなりに面倒なことでもあるが、ゲームはその面倒な部分をうまくやらないでいいようにしてくれる。ババ抜きをするときに、相手にババを引かせたからといって相手の心証を悪くする心配はしなくてもいいし、自分が何者なのかといった自己紹介を相手の興味を測りながら話すようなこともしなくていい。多くのゲームでは、見知らぬ他人とゲームをすることは、それほど苦労のいることではない。法や、貨幣といったコミュニケーションを媒介する環境が、我々の社会におけるコミュニケーションの焦点を変化させ、複雑性を縮減するのと同様な形で、ゲームのコミュニケーションも機能していると言っていい。【3】 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第33回 叙述的共同注意のネットワーク

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第九章 社会の骨格としてのマルチエージェント(後編)

ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。前編に引き続き、役割を与えられた人工知能・エージェントについての議論です。人工知能に欠落している社会的自我と実存的自我の統合による「主体性」の獲得、そしてその先にある、人間の代わりに人工知能によって構成された社会のあり方について構想します。 (5) 社会的自我(me)と実存的自我(I)を持つ人工知能エージェント マルチエージェントとして外側から役割を与えられたエージェントと、自律した世界に根付く人工知能には乖離があります。これは、社会の側から要請する知能と、存在としての根を持つ知能には乖離があるからです。人間誰しも、外側から期待される自分と、個として内側から実存する自分の間のギャップに苦しんだことがあるかと思います。   ジョージ・ハーバード・ミード(1863-1931)はその論文「社会的自我」(1913年)の中で、社会に対して持つ自我を社会的自我、それを meと名付けました。また、個として深く世界に根ざす自我をIと言いました。 社会的自我(me)と実存的自我(I)は常に緊張関係にあり、混じり合わず、その間に溝があります。知能の持つ自我には、この二つの極があり、その極の緊張関係によって、我々の知能は巧みなバランスの中で成立しています。  社会的自我と実存的自我は知能に二面性をもたらします。しかし、どちらも自分の真実の姿なのです。二つの自我は衝突しながらも、緊張関係を生み出します。一つは存在の根源から、一つは社会的・対人的な場から生成されます。我々は時と場合により、どちらかを主にしながら、さまざまな局面を乗りきります。そのような二つの自我はお互いを回る二重惑星のように回転し、とはいえ、外から見れば一つのシステムとして機能します。 ▲図8 社会的自我(me)と実存的自我(I) 人工知能の開発においては、自律型知能としては「実存的自我」(I)を、マルチエージェントの研究としては「社会的自我」(me)を探求して来ました。人工知能の研究はこの二つを無意識のうちに別々に研究して来ました。歴史的にはこれはある程度は計算パワーやメモリの制限によるものでしたが、現在ではそれを言い訳にすることはできません。この乖離は実際の知能の像とは遠いものです。人の知能はある程度自律的に育ちつつ、社会や他者から影響を受けながら形成されるものだからです。そして、まさにそのことこそが、人工知能の研究の進捗を阻害している一因でもあります。乖離している二つの自我を統合しつつ、総合的な知能を作ることが、これからの人工知能を導くことになります(図8)。 自律型エージェントが自律型知性に至るということは、単に外側から与えられた役割を遂行する人工知能ではなく、内面からの人工知能と外面からの人工知能をつなぐことになります。  エージェントの役割は外から与えられます。まさにそのことによって、エージェントは最初から社会的な存在です。エージェントを社会に、そして世界にどれだけ食い込ませることができるかが、マルチエージェントとしての知的機能の高さということになります。そのような社会的自我を持つエージェントに、実存的自我を融合させるということは、与えられた役割による人工知能を脱することではありますが、それを放棄する訳ではありません。また単に独立した存在となることでもありません。社会に連携した存在であると同時に、世界に自律した根を持つ存在となることでもあります。無意識から立ち上がる実存的意識と、社会的自我の意識から押さえ付けられる社会的自己の意識の相克を人工知能に持ち込むことが、新しいステップへ人工知能を導くことになります。 (6)人工生命とエージェント ■ PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第九章 社会の骨格としてのマルチエージェント(後編)

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』番外編 2018年の「推し」ゲーム 三選

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、井上明人さんが2018年にプレーしたゲームの中から「推し」のタイトルを紹介します。。国内外・ハードを問わず、ゲーム研究者ならではの鋭い考察と、いちゲーム好きとしての愛情に溢れた視点から語ります。  今回の原稿は、2018年に出会った「推し」ゲームというでお届けさせていただきたい。というのも、2018年は、個人的に、相性の良い「推せ」る作品に出会えた率がかなり高かった。なので、今回は、そういった「推し」作品を中心に2018年に触れた作品について述べさせていただきたい。  なお、今回紹介させていただくものは、基本的にリリースのタイミングではなく2018年に筆者が遊んだ作品なので、2017年以前の作品も含まれている(とはいえ、あまりに古い作品は省いた)。  今年遊んだものの中で、特に印象に残った作品名だけ、まずザラッっと挙げておこう。  まずは、ニッキー・ケースの作品群である『We Become What We Behold』『Coming out Simulator』『the wisdom and/or madness of crowds』。すでにインディー系ではだいぶ注目が集まっているものとしては『Deltarune』『My Child Lebensborn』『Florence』『CHUCHEL』。国内でほとんど知られていない作品としては『カウンターヒーロー第1章』『Attentat 1942』『Unmanned』。また、ボードゲームとしては有名どころであるが、『キャットアンドチョコレート 日常編』。2018年に出たコンシューマー系からは『Detroit』。時間をもっとも費やしてしまった作品として『ダンジョン・メーカー』。  なお、積みゲーにしてしまっていたもので今年になって時間をかけて遊んだもの(ごめんなさい…)としては『Her Story』『Splatoon』『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』『THE PLAYROOM VR』『Undertale』あたりである。  全ての作品をとりあげるわけにもいかないので、今回は、この中から『We Become What We Behold』、『カウンターヒーロー第1章』『My Child Lebensborn』の三作品を取り上げたい。  なお、「XXXを挙げていないのはわかっていない」系の定番のご批判はもちろん、ありうるだろうと思うが、網羅的なものは全く目指していないというか、目指せない。その点はご容赦いただきたい。  また、媒体の性質上、ネタバレは基本的についてくるものだと思っていただきたいので、ネタバレをされたくない読者は注意していただきたい。 不幸な均衡への自発的加担を経験させる:ニッキーケース(Nicky Case)の作品群  さて、まずニッキー・ケースの『We Become What We Behold』である。これは今年もっとも印象に残ったと言うだけでなく、人生全体の中でもトップクラスに入る強い印象を残した。  この作品については、PLANETS vol.10でも少し取り上げたが、作品のタイトルは「我々は、我々が注目するものになっていく」というような意味だ。  遊び始めたプレイヤーができることは、フィールドのなかで写真を撮影することだ。ただ、ほかの写真撮影系のゲームと違うのは、フィールドの中心に撮られた写真を投影するための大きなモニターがあることだ。ゲームの中のNPCたちは、みな、そのモニターを見ている。  プレイヤーがフィールド上の好きな場所を撮影し、それを皆が注視しているスクリーンに映し出すことができる。問題は、「どのような風景を撮影すべきなのか」ということだ。人々にスクリーンに注目させ、ゲームを進行させていくためには、何かしら人々が惹きつけられるような写真を撮影しなければいけない。NPCは最初は、ちょっと変わった程度のものならば何でも見てくれる。しかし、次第にNPCは刺激を求めるようになってくる。手当たり次第に撮影してみると、わかってくるのは、どうもケンカなどの揉め事の風景を撮影していると、注目を集めやすいということだ。とても残念なことだが、殺伐としたシーンが注目を集めやすく、大きな影響力を持ちやすいことに気づいたプレイヤーは、気がつけば殺伐とした写真を撮ってしまうことになる。  そして、プレイヤーが殺伐とした風景を撮れば撮るほどに、その写真をみたNPCの人々には、隣人への疑心暗鬼への心が育っていってしまう。遊べば遊ぶほどに世界は疑心暗鬼に満ちたものになり、プレイヤーは、世界に憎しみを植え付けるプロセスに、自ら加担してしまっていることを知ることになる。  この作品が優れているのは、面白く、かつ啓発的であるというだけではない。普段、忌み嫌っているはずの、悲劇の連鎖に加担することに、自らが嬉々として工夫した挙げ句にいつのまにか入り込んでしまうということだ。自らの創意工夫の結果として、悲劇の連鎖に加担してしまうというのは『伝説のオウガバトル』で味わった経験と同様のものだ。  面白く、啓発的で、そしてデジタルゲームというメディアにしかなしえない表現を達成しえている。ネット上で遊べるフリーゲームなのでぜひ、英語の読める人はぜひとも実際に遊んでみてほしい。 ▲『We Become What We Behold』  ニッキー・ケースはフリーゲームの作り手として他にも素晴らしい作品を数多く作っている。日本語化されているものでいえば、自らがゲイであることを家族に公表した時のことをゲームとして表現した『Coming Out Simulator』、SNSでも話題を呼んだ、集合知のメカニズムをインタラクティヴに理解できる『群衆の英知もしくは狂気』なども面白い。  他にも、ニッキー・ケースの作品は無料で公開されており、ほとんどの作品がオススメである。 ▲『Coming Out Simulator』 ▲『群衆の英知もしくは狂気』 全ては入れ替え可能:『カウンターヒーロー』  さて、次の『カウンター・ヒーロー』も、インディー作品であり、(少なくとも本稿執筆時点では)無料で遊べる。QROSTARというチームが作成したもので、現時点では第1章しか公開されておらず、1時間強ぐらいで遊ぶことができる。  この作品は、プレイした感覚を、なるべく短く言うのであれば「スキルチート系のなろう小説を、本当にゲームとしてプレイしたような感じ」といったところだろうか。 ▲『カウンター・ヒーロー』 ■ PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』番外編 2018年の「推し」ゲーム 三選
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