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三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第九章 社会の骨格としてのマルチエージェント(前編)

ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。今回は、ある役割を与えられた人工知能・エージェントの振る舞いについて考えていきます。自律的かつ複数で協働するマルチエージェントは、やがて人間と似た「社会」を構築し、「文化」に似た情報の集積を行うようになります。 エージェントとは何か? エージェントとは、役割を持つ人工知能のことです。それは小型の自律型人工知能を意味します。つまり、自分で感じ、考え、行動する人工知能のことです。自律型エージェントとも言います。この自律型エージェントを相互作用させることが、多様な知能の創生につながって行きます。これをマルチエージェントと言います(図1)。  エージェントの相互作用にはさまざまな型があります。上下関係をつけて司令官が全体の指揮を取る方法や、それぞれがそれぞれコミュニケーションを取るという方法です。  ゲームでは『高機動幻想ガンパレード・マーチ』(アルファシステム、ソニー・コンピューターエンターテインメント、2000年)という複数のキャラクターの相互作用からなるゲームがあり、「マルチエージェントシステム」(厳密な意味でアカデミックなマルチエージェント技術ということではなく)と言われる場合があります。また『NOeL NOT DIGITAL』(パイオニアLDC、1996)というゲームは画面越しに女子高生の姿をしたエージェントたちにアドバイスを行うことで、事件を解決させていきます。 ▲図1 エージェント、マルチエージェントとは また『ポケモン』(ポケットモンスター、Nintendo/Creatures Inc. 、GAME FREAK inc.)のポケモンたちもエージェントです。プレイヤーの代わりに彼らが戦ってくれるからです。「デジモン」(東映アニメーション、BANDAI)も同様です。プレイヤーがエージェントを行使し、エージェント同士が戦い、ドラマが生まれて行くという図式を生み出しました。  現実世界でエージェントが活躍するには、ユーザーエンド側にも、ある程度のコンピューティングパワーが必要であり、それらをサーバーを通して連携させる必要があります。つまり高速で大容量の通信環境と、エージェント固有の豊富なコンピューティングリソースが必要とされます。人間と同じ速度で動作するために、2019年という時代まで待つ必要がありました。  今やエージェントたちは、携帯電話の中の対話エージェント、ドローン、ロボット、デジタルサイネージ上のキャラクターなどの形で世に放たれつつあります。  エージェントとマルチエージェントは世界を、社会を具体的に変える技術力です。社会の仕組みの一つになると同時に、人間と人間の間に入り込み、個人の環境をも変えて行きます。本章では、そのようなエージェント指向の開く世界の可能性を紐解いていきましょう。 (1)世界に溢れるエージェントたち 「エージェント」は役割を持って、人間の代わりに役割を遂行してくれる人工知能です。人間そのものの知能を再現しようとするのが人工知能ですが、エージェントは単一かいくつの役割を果たすために作られた人工知能です。人間の「代わりに」役割を果たすのでエージェントと名付けられています。単体では一つの役割を果たすだけでも、複数のエージェントたちが協調してより難しい課題を克服できるはずです。これを「マルチエージェント」と言います。エージェントがある程度の自律性を持ちながらも、全体として協調するという点が、個別性と全体性を兼ね備えたシステムを可能にします。 「マルチエージェント」の考え方は90年代を通して流行しました。逆に「エージェント」単体は90年代後半に一度隆盛がありました。Windows(マイクロソフト社)シリーズのOSのインストールや、アプリのヘルプで、イルカや魔法使いなど解説用のキャラクター・エージェントが現れていたことを覚えている方もおられるでしょう。 人工知能の協調は、エージェントの考えが基本となります。一つ一つのエージェントが明確に定義された単一の役割を持ち、それを組合すことで、より大きな役割を果たすマルチエージェントになります。 エージェントが急激な進化を遂げたのは、インターネット環境が世間に広がった1990年代でした。インターネット上を動き回るエージェントを「WEBエージェント」と言います。2000年前後には人工知能学会でも、書籍でも、よく「WEBエージェント」と言う言葉を目にしました。もちろん、現在でも発展を続けています。 ▲図2 分散オブジェクトシステムとマルチエージェント ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第九章 社会の骨格としてのマルチエージェント(前編)

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第32回 行為と、行為を思惟するシステムーー心の存在を想定する

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、前回登場した「叙述的共同注意」の概念を掘り下げます。注意の共有自体が目的となるにらめっこの不思議や、「ガチ勢」「エンジョイ勢」の関係性を参考にしながら、これまで紹介してきた「学習説」とは相容れない「遊び」の定義について思考を深めます。 心の存在という前提 ―にらめっこ  約十年ほど前に、「最もコンピュータ・ゲームにしにくい遊びの一つは、にらめっこではないか」ということを書いたことがある[1]。  コンピュータ・ゲーム全般というより、特に一人向けのコンピュータ・ゲームに限ったほうが適切かもしれない。にらめっこにはコンピュータ・ゲームという形式に変換することの難しさがある。  にらめっこがなぜ、コンピュータ・ゲームにしにくいのか、とその理由を問うたとき、直感的に多くの人が考えるであろうことは、ゲームの中のキャラクターにプレイヤーが心の存在を感じないから、ということだろう。一人用のRPGやAVGのなかでうごめくキャラクターは、知性をもっているらしき振る舞いはする。定義次第によっては知性をもっているとも言えなくはない。ただ、ほとんどのキャラクターはドラえもんやアトムのような、強いAIと呼べるほどまでの心をもった存在ではない。  そして、コンピュータ・ゲームのキャラクターが心をもっているように思えない、という前提を受け入れるにしても、この答えは新たな問いを生む。なぜ、相手が心らしきものを持っていないことが、遊びが成立するかどうかにとって重大な問題になってしまうのだろうか?レースゲームの対戦相手が心らしきものを持っていなくても問題にはならない。FPSも格闘ゲームも、遊びとして成立しないということはない。将棋やチェスのAIも、恥ずかしがったり、笑ったりしないが将棋やチェスのAI相手にゲームをすることは問題なくできる。多くのゲームは、相手が心らしきものを持っていなくてもいい。  心らしきものを持っているかという問題は、前回までに問題としてきた叙述的な共同注意の話と関わる。  前回も述べた通り、命令的共同注意が共同注意を利用してなにかを達成しようとするのに対して、叙述的共同注意は、共同注意それ自体を目的とするようなものだった。そして、ゲーム/遊びの区分をそれぞれ命令的/叙述的共同注意に対応させるという主張について紹介した。  にらめっこという遊びは、わかりやすく共同注意に関する遊びだ。  にらめっこの面白さは、勝利することに重点があるわけではない。なんだったら、負けたほうが楽しいところもある。  にらめっこは、相手が変な顔をすることだけが楽しいというわけでもない。お互いに真顔でも笑ってしまうことがある。いや、むしろ真顔のほうが笑えるということがある。  「いま、あなたを見ている」「いま、見られている」という事態にお互いに焦点化し、共同注意の存在そのものを顕わにすることこそが、「にらめっこ」という行為である。にらめっこは「見ている」ということを見ている。相手の真顔で笑ってしまうとき、共同注意の存在そのものを意識したとき、可笑しくなっているのだろう。  そしてまた、にらめっこは、自分が何をしているのかということを自分からは見ることができないという意味でも特殊な遊びだ。自らの武器となる「表情」は顔の筋肉を通じて概ね想像はつくものの、細かいところはわからない。自分の表情を見たければ、相手と自分の間に鏡を置く必要がある。しかし、鏡を置いてしまえば、にらめっこは成立しない。自分で何をやっているか、細かなところがわからない。武器をうまく使う方法を最適化させていくための手順が予め失われているという意味でも、にらめっこは勝利を効率的に達成するための仕組みとしては不完全な遊びである。  ふだん、我々は共同注意の存在そのものを、そこまで意識しているわけではない。相手と目を合わせて喋るということは、比較的まれなことだ[2]。この「目を合わせない」という慣習を変化させ、ふだん学習された視線のありようの外側に出ること。共同注意自体を楽しむこと。にらめっこは、そういう遊びである。  叙述的共同注意の遊び、それがにらめっこだと言えるのではないだろうか。そして、叙述的共同注意が成立するためには、もちろん共同して注意を払う相手に心があることが仮定されていなければならない。心をもたないと思える相手に対して、恥ずかしがったりすることは難しい。  一人向けのコンピュータ・ゲームとして、にらめっこを実装することが難しいことの理由はそれゆえである[3]。 学習説の外側へ ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第32回 行為と、行為を思惟するシステムーー心の存在を想定する

猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第33回「近代以降失われた色の階調を蘇らせたい」

2018年最後の配信は、チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は大盛況というヘルシンキの美術館・Amos Rexの展示の話題から、人間の認知や感覚の限界へと挑戦する、計算機テクノロジーを活かしたアート作品。そして、近代以降失われた自然の色調をデジタルで蘇らせる「かさねのいろめ」の着想について語ります。 地下と地上をつなぐブラックホールに吸い込まれる滝 猪子 フィンランドのヘルシンキにある美術館AmosがAmos Rexという新館を2018年8月30日にオープンして、そのオープニングエキシビジョン「teamLab: Massless」を担当したという話は前にしたと思うんだけど……。 宇野 そうだね、工事中の美術館で記者会見していたよね。 参考:第29回 新しいパブリックを実現した都市をつくりたい! 猪子 連日、全員が入れないほど長蛇の大行列になってるらしいんだ。ヘルシンキは80万人都市なんだけど、そのうち半分くらい来てるんじゃないかっていうくらいの大混雑。もちろん海外からの人も合わせてだけど数十万人は来場しているみたい。前にも説明したと思うけど、ヘルシンキの都市の中心にある広場の地下にできた美術館で、天窓だけが地上にボコッと突き出している非常に素晴らしい建築なんだ。天窓の地上部分によって広場はアスレチックのように立体的な広場になっている。だから、『Vortex of Light Particles』はこの天窓のかたちを使って、空間自体を活かした、地下から地上へと関係性があるような作品にしようと思ったんだよね。 ▲『Vortex of Light Particles』 ▲建設中のAmos Rex ▲Amos Rexの外観・内観 宇野 これはどういう仕掛けがあるんだっけ? 猪子 天窓に向かって逆さまにに水が流れる巨大な滝と渦の作品なんだよね。天井の天窓から地上方向に大きな力が空間全体にかかっていて、ドーム状の天井のかたちに沿って水が渦巻きながら天窓へ吸い込まれていく。この美術館の建物自体、かなり気合が入った設計で、ドーム状の地下空間になってる。これは柱を使わずに構造を支えるためだと思うんだけど、その特徴を活かして、内壁の形状によって水の流れのかたちが決定される作品なんだよね。地上方向に向かう力によって、地上と地下をつなぐ天窓に、滝の水流が吸い込まれていく。 天窓は地上へのトンネルになってるんだけど、内部を真っ暗にしてるから、黒の平面に吸い込まれていく感じ。そこが穴なのか平面なのかの区別すらつかない。実際に見ると、ブラックホールみたいに見える。 宇野 こういう展示は、その空間が箱の中であると思わせない効果があるよね。チームラボのアートって、特に最近のものは、密室に閉じ込めることで、無限性や悠久の時間、彼岸の存在を体感させ、そこが有限の空間であることを一時的に忘れさせてしまう。これはただの穴なのか、あるいは吸い込まれているのか、本当に分からなくなるような感覚をもたらすことによってそれを実現しているわけだよね。 偶然性の情報量を計算機が超越する ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第33回「近代以降失われた色の階調を蘇らせたい」

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第八章 人工知能にとっての言葉(後編)

ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。人工知能と人間の間で自然な会話を行おうとするときに、大きな障壁となるのがが「フレーム問題」です。言語は人工知能に「意思」を与えうるのか。禅や華厳哲学の認識論をヒントに、その可能性を探ります。※本記事の前編はこちら 言語世界から逃れて 人は生まれてから学習し続け、その人の世界には意味が満ち、意味が固形化して行きます。そこから逃れる手段は東洋では「禅」と呼ばれます。「禅」とは固形化・形骸化した知の体系から逃れること、世界の意味の網を外す、という行為です(図8-6)。自らの知の体系を壊し、言葉ではなく体験を重んじる手法です。しかし、この意味の世界を、西洋はさらに言葉を重ねて探求していきます。その結果、言葉が言葉を生み出し続ける現象が現れます。 ヴィトゲンシュタインは、多くの哲学が「言語によって語り得ぬもの」に対して言語を使っていると批判しました。意味で溢れた世界はとても危険です。ありもしないものをあると信じ、そのせいで人が争いあったのが、20世紀の歴史です。人は意味を浴びますが、それはある時には呪いとなり、浄化する必要があるのです。 ▲図 8-6 分節化の網を外してあるがままを観る 人工知能は物の見方を人間から指定されます。これをフレームと言います。人工知能はフレームを与えられて初めて駆動します。人工知能はフレーム内で知識を整理する能力がありますが、それを拡張する力はありません。フレームは固定されたままです。人工知能が自らフレームを作り出す能力、フレームを拡張する能力がない問題を「フレーム問題」と言います。そこで意味は固定され、世界はフレームの中でのみ意味を持つことになります。人工知能はフレームから逃れることはできません。人工知能は人間の与えたフレームの中で生きるのです。たとえ間違ったフレームの中でも人工知能はその中で生きます。たとえば、「リンゴを取る」というフレームで、人間が頑張って、腕の伸ばし方や、リンゴの位置の特定など、問題設定を探求したとします。しかし実際にロボットを動かすと、足がリンゴの机に引っ掛かって手がそもそも届かないかもしれません。そのとき、もし人間であれば足の痛みから問題設定が足りなかったことがわかります。つまり、人間にとって身体は、間違ったフレームに本来あるべき足りなかった変数を教えてくれる、クリエイティブな源泉であるのです。 「クリエイティブな行為の基盤にあるのは、認識枠を臨機応変に広げたり狭めたりする賢さであることを、様々な事例で論じてきた。身体で世界に触れること(現象学の言葉で言えば、「現出」を意識に上らせること)を通じて、身体がそれまで想定外だった変数(着眼点)にふと意識を向けることで、それは可能になると論じた。」 「街でからだメタ認知を実践する習慣がつくと、最初は定番の変数群しか意識が及ばないかもしれない。しかし次第に、些細な、自分だけしか気づかないような変数にも意識が及ぶようになる。…自分の街の些細な変化に、そして身体に生じる体感の微妙な差異に、気付くようになる。」(諏訪 正樹 「身体が生み出すクリエイティブ」ちくま新書、2018年 (P.190-191)) このように人間は身体を伴った行動が、間違ったフレームの夢を覚まし、狭い了見を広めてくれるのです。「行動せよ、そうすれば、見えてくる」という格言が言っていたことは、思考だけでは逃れることができないフレームの制約から、身体が開放してくれる、ということでもあるのです。 しかし、世界に根差した身体、また認識と分離してしまった身体しか持たない人工知能では、身体のエラーからフレームを拡張することはできません。そもそも、人工知能はフレームを生成しないので、そのフレームが足りなくても、「あらかじめ含まれていないこと」を含ませることができないのです。 「禅」はいわば、フレームを外すことです。知識を規定している枠そのものを乗り越えることです。東洋的思想の極と言えるでしょう。意味ある世界と、意味のない世界を自由に行き来するのが「禅」の行為です。それは意味を超越し、意味を相対化することです。世界に対する意味の網を自由にはめたり、はずしたりすることは、とても危険なことですが、禅はそれを可能にする行為です。 (3)社会的な言葉、個人的な言葉 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第八章 人工知能にとっての言葉(後編)

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第31回 創発的現象:諸理論の反逆 コミューニケーション、ルール、メタファー

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、コミュニケーションについて独特の理論を展開したグレゴリー・ベイトソンの議論を、「共同注意」の概念を手がかりに、命令的/叙述的という分類から、「ゲーム」と「遊び」の差異について検討します。※本記事に一部、誤記があったため修正し再配信いたしました。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。【12月11日18:30訂正】 4 創発的現象:諸理論の反逆 コミューニケーション、ルール、メタファー 4.1行為と、行為を思惟するシステム ベイトソンの「メタメッセージ」  ようやく長かった第三章を抜け、第四章に入っていきたいと思う。  予告どおり、まずはコミュニケーションと遊びをめぐる問題を扱っていきたい。遊びやゲームにとってコミュニケーションという要素がかなり重要な一側面をなしているのは間違いない。カイヨワなどは、すべての遊びの動機はコミュニケーションであり、それこそが遊びにとっての欠くことのできない本質なのだとすら論じている[1]。カイヨワの議論に賛同するかどうかはともかくとしても[2]、コミュニケーションが重要な要素であることには違いない。  そして、遊びとコミュニケーションの関係を論じるにあたって、まず挙げなければいけないのは、グレゴリー・ベイトソンによる議論だろう。これは、遊びをめぐる最重要の議論の一つと言っていい。  ベイトソンといえば、哲学文脈以外でも、精神医学や社会学では「ダブル・バインド」の議論がよく参照され[3]、経営学などでも独自の「学習」概念が引き合いに出される。ベイトソンに関わる議論のなかでも遊びに関わる重要な論文は、一九五三年に出された「ゲームすること、マジメであること」[4]と、一九五四「遊びと空想の理論」[5]の二編があるが、とりわけ重要なのは「メタ・コミュニケーション」をめぐる議論だ。  ベイトソンによれば、遊びとは「今やっているこれらの行為は、それが表わす行為が表わすところのものを表わしはしない」[6]ようなものだという。何か非常にややこしいことを言っているように聞こえるだろうし、実際に文章にするとややこしいのだが、実際に我々が何かを遊ぼうとするほとんどの場合に起こっていることだ。ベイトソンによる、このややこしい定義は彼が動物園に行ったときに見た次のような観察から出てきたものだ。[7] 私が動物園で目にしたこと、それは、誰にも見慣れた光景だった。子ザルが二匹じゃれて遊んでいた――二匹の間で交わされる個々の行為やシグナルが、闘いの中で交わされるものに似て非なる、そういう相互作用を行なっていた――のである。このシークェンスが全体として闘いでないということは、人間の観察者にも確実に知れたし、当のサルにとってそれが「闘いならざる」なにかだということも、人間観察者に確実に知れた。  子ザル同士が遊ぶとき、相手に噛みついて遊んだりする。そのとき「物理的には」間違いなく噛み付いているが、子ザル同士の「意図として」本気で相手の肉体を破壊することを意図しての噛み付きが行われるわけではない。すなわち、「『咬みつきっこ』は『噛みつき』を表わすが、『噛みつき』が表わすところのものは表わさない」[8]  このとき、物理的に噛み付くという事態と、遊びで噛み付いてみせるという事態を区別することのできない動物は、ここでいう意味で「遊ぶ」ことはできない。「これは遊びなのだ」という行為事態を意味づけるメタなメッセージを交換できない動物には「攻撃的な意図で噛みつかれたこと」とそうでないことに差がなくなってしまう。攻撃されたら、それは攻撃なのだということしか考えない生き物は、闘争するか逃げるかといったことを選びとるしかなくなっていく。コミュニケーション行為のカテゴリーを複層化できないというのは、いかにも不自由な生き物だ。  遊びが成立するには状況解釈の多層的理解が前提となる、というベイトソンのこの指摘は遊びとコミュニケーションの関係を考える上で極めて重要な指摘である。これは人間の複数人遊びでは間違いなく生じることだ。このメタ・メッセージを理屈では理解できても、心情的にはどうもまだ納得しきれないような幼子はゲームに負けたときに癇癪を起こすことがある。小さな子どものときに、ゲームに負けて泣いたり、怒ったりしたことのある人は多いだろうし、子どもとゲームをした後に本気で怒られたりして困ったことのある人も多いだろう。[9]  こうした多重のリアリティ解釈と遊戯が深く結びついているという観察は、その後も、いくつかの系譜で参照されながら議論されることになった。代表的なものを挙げるならば、アーヴィン・ゴフマン[10]やゲイリー・アラン・ファイン[11]による遊戯やゲームをめぐる議論はベイトソンの強い影響下にある。  そしてベイトソンは「それが表わす行為が表わすところのものを表わしはしない」というような言い方は、ラッセルの<論理階層>の理論[12]では端的に禁止されるべきものであるともいう。「表す」(denote)という言葉が別々の水準の抽象性で現れているにもかかわらず、それが同義として現れている。これはいかにも論理エラーを引き起こしそうなややこしい仕組みだ。では、論理エラーを引き起こしそうな仕組みであるにも関わらず、なぜ人類をはじめとする哺乳類はこうした屈折した構造をもつ「遊び」に関わっているのか。ベイトソンによれば、それは論理学的な"正しさ"には合致していないが、それは哺乳類の進化が論理学のそれとは別の仕組みで成立してきたからではないか、という。 ジョイント・アテンション  動物や人間の心理発達プロセスという観点から、遊びというようなメタメッセージを含んだ構造について考えようという話を、現代的な概念に変換しようとするのであれば共同注意(Joint Attention)や、心の理論をめぐる議論から改めてベイトソンの議論を考え直すことが可能だろう。  共同注意とは、その名の通り他者との間で同じ対象について注意を共有しているかどうかを問うもの[13]で、心の理論(Theory of Mind)とは、他者が自分と同様の心の状態をもっているという推測をすることが可能かどうかということを問うものだ。いずれも幼児の心理発達の過程や、人間とサルの心のシステムの違いを論じる際にしばしば問題になる。  共同注意の概念は、1975年にスカイフとブルーナーの研究[14]により知られるようになり、心の理論は1978年にプレマックらの研究[15]により知られるようになったものだ。近年ではマイケル・トマセロ[16]や、バロン・コーエンなどによる研究が注目を集めている。彼らの論じるところによれば、親と子供との注意対象の共有などが次第に発展する共同注意のプロセスの先に、「他者に心がある」ということを理解するいわゆる心の理論(Theory Of Mind)ができあがってくるという。「他者に心があるということを推測する」というかなり高度でわかりにくいメカニズムを、共同注意という観察可能でわかりやすいものによって説明するという仮説は大胆で興味深いものだ。  ただ、共同注意がより現代的な概念であると述べた理由は、単に注目が集まっているというだけでなく、概念区分が細かくなされ各種の実験と紐づく形で実証的な形で研究が展開されていることによる。心の理論などと併せ、共同注意の発達プロセスは発達心理学における基盤的な論点を扱っている。  この共同注意や心の理論といった概念的な道具立ては、ベイトソンの現代的解釈をするうえでも、ゲームの概念について論じていく上でもかなり重要な論点を含んでいる。 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第31回 創発的現象:諸理論の反逆 コミューニケーション、ルール、メタファー

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第八章 人工知能にとっての言葉(前編)

ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。人間の世界認識の根幹となる「言語」を、人工知能はいかにして実装しうるか。前編では、西洋哲学における言語論の蓄積を踏まえながら、言語的な認識の構造のモデル化を試みます。 序論  シモーヌ・ヴェイユはこのことを次のようにみごとに表現している。 「同じ言葉(たとえば夫が妻に言う「愛しているよ」)でも、言い方によって、陳腐なセリフにも、特別な意味をもった言葉になりうる。その言い方は、何気なく発した言葉が人間存在のどれぐらい深い領域から出てきたかによって決める。そして驚くべき合致によって、その言葉はそれを聞く者の同じ領域に届く。それで、聞き手に多少とも洞察力があれば、その言葉がどれほどの重みをもっているかを見極めることができるのである。」(『重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄』) ▲『重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄』  人が人と話すとき、ある言葉は相手の心の浅瀬まで、ある言葉は深い心の海まで届きますが、それが一体、どのような機構によるものなのか、まだわかっていません。会話する人工知能の最も遠い目標はそこにあります。言葉によって人と心を通わすこと。しかし、言葉によってだけでは不可能なのです。そこに存在がなければならない。そこに身体、あるいは実際の身体でなくても、同じ世界につながっている、という了解があってはじめて、人工知能は人の心に働きかけることができます。それは言葉だけを見ていていては、見えないビジョンですが、我々は言葉を主軸に置きながらも、その周りに表情を、振る舞いを、身体を、そして社会を持っています。人が人に接するということは、大袈裟に言えば、その背景にある、或いは、その前面にある世界を前提にしています。言葉というエレガントな記号だけで情報システムは回っているために、どうしても人間のネットワークもそのように捉えたくなります。しかし、それは世界の根底ある混沌の表層であるとも言えます。発話者の存在が、また一つ一つの言葉が世界にどのように根を張っているか、また根を張っていない流動的な自由さを持っているか、が、何かを伝える力を言葉に宿すことになります。言葉だけ見ていてはいけない、しかし、言葉を見ないといけない。言葉は人間関係と社会の潤滑油であり、ときに、言葉が伝えられる、という事実そのものが、その内容よりも重要なことがあります。暑中見舞いの葉書が来るだけでも、その人が自分を気にかけてくれるとわかります。LINEのスタンプだけでも暖かさを感じます。言葉という超流動性を獲得することで、人は、世界の存在の深い根から解放されお互いに干渉することができます。しかし、同時に言葉はいつもそんな人間の根の深い部分へと降りて行くのです(図8-1)。 ▲図8-1 言語の持つ二つの方向 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第八章 人工知能にとっての言葉(前編)

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第30回 第三章 補論2:なろう小説におけるダダ漏れの欲望を考えるための2つの「切断」

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回のテーマは「なろう小説」の欲望のあり方についてです。従来のフィクションを(主人公と読者の)「主体の切断」を前提とした作品と捉えた上で、なろう小説やゲームを「利得の切断」の側面から改めて検討します。  昨今のコンテンツに詳しい人ならば、言うまでもないことだろうと思うが、「なろう小説」の欲望だだ漏れ感は、何かタガが外れているという感触がある。  チートによる俺Tueeeeと、(奴隷)ハーレムがセットになるというフォーマットは、控えめに言ってもやばい。「なろう小説」をはじめとする、異世界転生等の一群の物語については、本連載の第22回について扱ったが、俺Tueeee展開はともかくとして、あのハーレム展開っていうのはさすがにどうなのという人は多いと思う。この欲望ダダ漏れの表現はなんなんですかね、ということを、今回は書きたいと思う。 <お断り>ハーレムものの「望ましくなさ」について  本論に入るまえの、すこし「お断り」的な話をしておこう。今回、ゲームや物語における欲望について触れるが、ハーレムもの(あるいは逆ハーレムもの)の物語は、その多くが性的な欲望がだいぶ露骨な物語である。今回の原稿は、これを擁護するとか、批判するとかそういう話ではない。  もちろん、なろうの累計ランキングベスト10に居続けている、蘇我捨恥『異世界迷宮で奴隷ハーレムを』みたいな作品とかについて話すとなると、かなり色々と厳しいところがある。全部読んだが、本当にタイトルどおり異世界に行って、女の子の奴隷を買って、ダンジョンを探索していく話だ。主人公がわかりやすい悪人なんかであれば、ヤクザもののような、ある種の特殊な世界を描いた小説として切り離して読めるのでまだ良かったのだが、主人公は平凡で善良な日本人の青年だということになっていて、奴隷にも対等(?)で優しく、奴隷から愛されている「善良な」奴隷主をやっている話だ。主人公は読者にとって遠い存在として描かれているというよりは、読者の欲望を代行する存在として描かれている側面がどうしても強い。それも含めて、やはりこれは、露骨な欲望ダダ漏れ小説なのではないかという感触がエゲツない。 「書いてるほうも読んでるほうも、そこらへんの準ポルノ的な性質は、もちろん、わかって書いてて、わかって読んでますよね!?」ということに同意が得られる状態なのであれば話は簡単だと思うのだが、いかんせん、ここらへんの細かい話は複雑になりがちだ。  ハーレムものの反対で、イケメンにかこまれる逆ハーレムの令嬢モノというのもあるが、そういうものを見たら「これは、女性の欲望の話ですよね」と、多くの人が感じると思う。ハーレムものも、それと同様で「これは、男性の欲望の話ですよね」と言われたら、「まあ、そりゃ、そういう風に思われるよね」で、みんな納得してればいいのだけれども、どうも、そうなっていない。  「いや、でもこの作品はそれだけじゃない…!」みたいなことを言い出したりする人もいるし、「うーん、これは…微妙…男性側の欲望…と言えなくもない…?かな?どうだろ?」みたいなボーダーラインケースも多数ある。そしてボーダーラインケースについて、過激な主張をする人が出てくると議論に収拾がつかなくなる。 もっとも、なろう作品のハーレムもの(ないし逆ハーレムもの)については、ボーダライン上の作品もないとは言わないが、露骨に性的欲望の溢れ出た作品もかなり多い。そういった露骨な作品について「性的な欲望を満たす作品ではない」という主張をする気もないし、それは望ましくもない。  加えて言うのであれば、もし問題化するのであれば、個別の作品がどうこうというより、ジェンダーへの想像力が失われやすいメディア環境が総体として構築され、読者が批判を受け入れる感覚がなくなってしまうのは望ましくないと思っている。たとえば、映画の中でジェンダーバイアスを測る基準である、ベクデル・テスト(注1)というものがある。これは(1)少なくとも2名の名前のある女性が出てくる。(2)女性同士が互いに会話をする。(3)男性以外のものを話題にする。という3つの基準を測るもので、ベクデル・テストは個別の作品のジェンダーバイアスを論じるためには必ずしも妥当な基準だとは言えないが、おおまかな基準としては理解がしやすいため解釈にブレが生じにくいという意味で、信頼性(注2)の高い調査をしやすい基準である。この基準をもとに「ベクデル・テスト・コム」(注3)というユーザーが編集できるサイトで、実際に7800個以上の作品がチェックされ、データとして可視化されている。 Source: Robin Smith(2017),”Sizing Up Hollywood&#39s Gender Gap” (注3)http://bechdeltest.com/  このデータを見るとわかるとおり、昔の映画は明らかにベクデル・テストの結果が悪い。1970年代前半の映画でベクデル・テストに合格しているのはわずか四分の一程度だ。1970年代に比べれば、2010年代の状況はマシだ。1970年代のメディア環境は、2010年代のメディア環境よりも、ジェンダーバイアスのことに思いを至らせるのが相対的に難しい状態にあった可能性が高い。 個別の作品についてどうこうというよりも、全体的なメディア環境をこのような指標を立てながら論じていくことができればよいと思う。重要なのは、個別の作品よりも、人々の想像力を生み出すトータルなメディア環境のあり方ではないかと思う。なろう小説などが、総体として、ジェンダーやセクシュアリティの多様性や、敏感であるべきポイントへの想像力を失わせるように機能してしまうことがあるのであれば、それは望ましくない。  以上のことを踏まえた上で本題に入る。 利得の切断  ゲームというメディアは、しばしば欲望を表出することをよしとするメディアである。RPGでキャラクターを育てて最強になろうが、ギャルゲーでハーレムエンドを目指そうが、『シヴィライゼーション』で帝国主義を展開しようが、『メタルギア・ソリッド』で敵兵士を虐殺してまわろうが、好きにして良い。むしろ、その欲望が叶えられていくプロセスを楽しむことこそが、ゲームを楽しむことと、しばしば同義である。  もちろん、『moon』『Undertale』『mother』など、そうした状況を批評的/批判的にとりあげる作品も一定数あるので、すべてのゲームメディアが、欲望を丸出しにすることを肯定しているとまでは言えない。ただ人文学者がゲームについて語る時、欲望を丸出しにすることへの「批判」はしばしばなされるし、海外のゲーム研究でも多数の議論がこうした素朴な欲望への批判が議論されている。  ただ、『moon』や『Undertale』はあくまでも、メインストリームに対する「批判」として機能している作品であって、ゲームシーンのメインストリームは、やはりゲームプレイヤーの欲望を叶えていくプロセスを肯定するものが多い。  敵がうざいから、殺す。虐殺してもよい。  女の子がかわいいから、落とす。ハーレムでもよい。  国を大きくしたいから、周辺諸国を征服する。帝国をつくりあげてもよい。  こういった欲望を実行するというのは、我々の日常的な倫理観からすれば、かなり問題のあることだ。しかし、ゲームのなかで、これは許される。  これが許される理由の一つは、これらの行為が「本当」になされるわけではないからだ。少なくとも、我々の生きる日常的な現実の利得とは切り離されたところに、ゲームプレイヤーの欲望は成立させられている。  ゲームをはじめれば、遊び手は一次的現実とは切り離され、特殊な目的を設定され、任意のルールのなかでインセンティヴ構造を与えられる。一次的な「本当」の現実とは別の、二次的な現実のなかでの行為であるというのが、ゲームを遊ぶときの前提である。ゲームのなかでゲーム内通貨を得ても、普通は円やドルに換金できるわけではない。  ゲームを遊ぶということは、特殊なルールを受け入れる、そこが特殊な時空間であることを受け入れることだ。ゲーム内の人々の行為のインセンティヴは、現実世界には即さない。勝利を大目的とした階層化した目的構成にしたがって、プレイヤーはどのような振る舞いをするのかを選ぶ。  ここでは振る舞いの特殊性も同時に成立している。これらは、ゲームというメディアの特質がそもそも持ってしまっているものだ。それが、ゲームという二次的現実において、「帝国主義的」であったり、「非人道的」とされる振る舞いが許される(場合によっては、積極的に推奨される)ことの理由だ。それゆえに、ゲームにおいて、「ゲームが設定したインセンティヴ構造」にしたがって動くことは、恥ずかしいことでも悪でもない、ある意味で普通の行為だ。町中で人を銃殺すればそれは犯罪だが、FPSで敵を銃殺するのはふつうの行為である。もし、ゲームプレイヤーの行動が、一次的現実の観点から見た時に「恥ずべきもの」であるのならば、それは少なくともゲームプレイヤーのだけの責任ではない。それはゲームのインセンティヴ構造を設計したゲーム制作者との共犯である。  一次的現実から切断された環境のなかで行為するとき、プレイヤーはゲームの構造が要請する欲望の代理人でもある。RPGで敵を殺したがっているのは、プレイヤーなのか、ゲームの構造なのか。明確な区別は、ふつうできない。  ここでは、プレイヤーの欲望や行為は日常の利得から切断されている。この切断を「利得の切断」と呼んでおこう。  この利得の切断が生じている状況下において、プレイヤーが殺人をしたり、他国を征服したり、ものを盗んだりしても、プレイヤーにとっては特殊な行為をしたという感覚にはならないことのほうが多いだろう。 主体の切断 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第30回 第三章 補論2:なろう小説におけるダダ漏れの欲望を考えるための2つの「切断」

猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第32回「色と密度で人間の五感をハックしたい!」

チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は、豊洲で開催中の展覧会「チームラボ プラネッツ TOKYO」の展示について猪子さんと語り合いました。この展示では、個々の作品へと深く没入させるためのクオリティにこだわったという猪子さん。作品の強度を生み出すために導入された、人間の五感に訴えかける新基軸のアイディアとは?(構成:飯田樹) 遊び心と体感的な没入がもたらす「チームラボらしさ」 ▲東京・豊洲にて開催中の「チームラボ プラネッツ TOKYO」 宇野 「チームラボ プラネッツ TOKYO」(以下「プラネッツ」)、すごくよかったよ。個人的にはお台場の「森ビル デジタルアート ミュージアム:エプソン チームラボ ボーダレス」(以下「ボーダレス」)よりも、こっちの方が好きかもしれない。 猪子 へえ! 宇野 もちろんこの二つは規模も違えば目的もそもそも違う。「ボーダレス」はチームラボがここ数年やってきた屋内でのインスタレーションや空間演出のアートの集大成で、「プラネッツ」は2年前の「DMM.プラネッツ Art by teamLab」(以下「DMM.プラネッツ」)のアップデートで、「ボーダレス」に比べれば小さい。「ボーダレス」は半日かけても回りきれないから2〜3回は行かなきゃって感じだけど、「プラネッツ」は2、3時間あれば全部観れる。でも、後者の方が遊び心があるよね。普通に考えたら「ボーダレス」の方がド本命なんだろうけど、僕は「プラネッツ」の実験性も捨てがたい。 猪子 「プラネッツ」では世界と自分との関係を考え直させるような作品を一個一個作って、とにかく圧倒的なクオリティで没入させるようにしているんだよ。 宇野 いや、本当にそうで。これは「小説トリッパー」(朝日新聞出版)の連載(『汎イメージ論』)でも書いたことだけど、ここ数年のチームラボは「作品と作品」「人間と人間」「人間と作品」という3つの境界を撹乱しようとしている。今回の「プラネッツ」はそのうち、「人間と作品」のところに集中していて、そこに特化しているところが面白い。 俺なんか、そんなに他人と融解したいなんて思ってないし(笑)、批評家だから作品同士を繋げて考えるのは、作品にやってもらわなくても自分でできるからさ。でも、自分でできないのは、自己と世界、この場合は鑑賞者と作品との境界線がなくなって、作品に没入することなんだよ。 猪子 なるほど、おもしろい。 宇野 「ボーダレス」は「作品と作品」「人間と人間」「人間と作品」という3つの境界を全部撹乱しようとしている。なので、一番総合性があるし、完成度は高いんだけど、「人間と作品」の境界線の消滅に特化した「プラネッツ」の方が針が振り切れている。一個一個の作品で、どうなるかわからないけど遠くにボールを投げてみようとしているのは「プラネッツ」の方なんだよね。だから、僕にとっては「プラネッツ」の方が刺激的だった。 たとえば「ボーダレス」は、入り口に猪子さんのメッセージが言葉で掲げてあって、ここから先はチームラボの演出する「境界のない世界」だってことを宣言するんだけど、「プラネッツ」はそんなお行儀のいいことはしないで、いきなり鑑賞者を水の中に入らせるとか(『坂の上にある光の滝』)、クッションの中を弾ませるとか(『やわらかいブラックホール - あなたの身体は空間であり、空間は他者の身体である』)、前回の「DMM.プラネッツ」でやっていたことのパワーアップバージョンなんだけど、「ここから先は完全に別世界ですよ」「警戒心を解いていいんだよ」ってことを問答無用で体感させる。こっちのアプローチの方がチームラボらしいと思う。 ▲『坂の上にある光の滝』 ▲『やわらかいブラックホール - あなたの身体は空間であり、空間は他者の身体である』 猪子 あのメッセージはね……。「ボーダレス」はあまりにも新しい概念すぎて、関係者内覧会でクレームの嵐だったの。「地図はないのか!」って。だからメッセージを置いて、ここは今までとは概念が違うんだってことを強く示しておかないと、もう苦情だらけだから。 宇野 それ自体がコンセプトだと分かってもらえなかったわけか。普通に迷うし、どこに何があるかも分からないから、特定の作品を観ようとしてもできないしね。「ボーダレス」も、あれはあれですごく良いんだけど、「プラネッツ」では問答無用で、しかも視覚だけじゃなくて触覚に訴えかけて入っていくところに感心した。 だから逆にね、もう問答無用で水の中に放り込む、くらいのほうが逆にいいと思うんんだよ。というか、アートとしてはむしろそれが正しいと思う。この「プラネッツ」は触覚に訴える作品が多いけれど、こうやっても視覚や聴覚以外の触覚や嗅覚といった人間の五感をハックすることで没入感を上げる表現には、まだまだ伸びしろがあると思ったね。 あと、『The Infinite Crystal Universe』(以下、『ユニバース』)は、今までの中でもダントツに完成度が高いと思う。 ▲『The Infinite Crystal Universe』 猪子 そりゃそうだよ(笑)。 宇野 作っている本人は「そりゃそうだ」って感想かもしれないけどさ、過去にいろんなバージョンの『ユニバース』を観てきた僕からすると、やっぱり隔世の感があるよね。 以前からずっと言っていることだけど、『ユニバース』って部屋の広さが肝なんだよね。人間の想像力が勝って「この先に壁がある」と思われたら、ああいう空間の中に人間が飲み込まれてしまうような錯覚を起こさなきゃいけないタイプの作品は機能しない。やはり作品への没入感を出すためには、人間に空間を正確に把握「させない」工夫がいる。そのためにはどうしても『ユニバース』には「広さ」がいると思う。あれはまさに規模が質を担保している作品で、あの鏡張りの天井の高さと敷地の広さによって、本当に完成度が高くなっている。猪子さんが表現したかった没入感は、あれぐらいの規模があって初めて成立するんだなと思った。 あと、インタラクションが強化されていたのが地味に大きいんじゃないかな。目の前のインスタレーションの変化のどこからどこまでが自分に反応しているのか分かりづらいという『ユニバース』の弱点が明確に改良されていて、相当完成に近づいていると思うよ。 『人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング』(以下、『鯉』)はいつも通りなんだけど、ビジュアルはもうちょっと派手な方がいいと思った。前回の『鯉』の方が分かりやすい。今回の『鯉』は、なんとなく色が薄くなって、ちょっと上品になった気がした。 ▲『人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング』 猪子 うーん、前回と特に変わっていないはずなんだけどね。解像度や輝度が上がってるから、そのせいかもしれない。あと、水を温かくしているから、気付かない程度に湯気が出ちゃうんだよね。それでぼやけているのかも。すぐ調整しよう。 宇野 唯一そこが気になったかな。 猪子 『冷たい生命』は? ▲『冷たい生命』 宇野 原型の『生命は生命の力で生きている』の方がいいと思った。まあ、裏側のワイヤーフレームが見えていないと『冷たい生命』とは言えないんだけどさ。これは単純な話で、「3DCGであること」自体が何か特別な意味を、はっきり言えば新しい視覚体験の象徴だった時代って、とっくに終わっているように感じちゃうわけね。本当はつい最近のことなんだけどさ。だから、ああいうものを見せられたときに新時代を感じるよりも、単に「普段僕らが見ているものはこう作ってるんだろうな」っていう舞台裏を見せられた気になっちゃうんだよね。「プラネッツ」は没入感を大事にしているわけだから、舞台裏を見せられた感じになるものは置かずに、もっと別のものを置いたほうがよかったかもしれない。贅沢を言うと、あそこに「書」があった方がいいと思った。たとえば『円相』とか。 猪子 なるほどね……面白い。 色のハックと密度のコントロールで没入感をつくる 宇野 今回一番良かったのは『意思を持ち変容する空間、広がる立体的存在 - 自由浮遊、平面化する3色と曖昧な9色』だね。一見、カラフルな球体が鑑賞者に反応していって、空間全体の色と音が変化するというタイプの作品なんだけど、意外といろいろな実験が試みられていて、ものすごく刺激的だった。 特に、色の変化の中で一瞬、目の前の視界が原色に覆われて空間がまるで平面のように見えるという仕掛けが良かった。 ▲『意思を持ち変容する空間、広がる立体的存在 - 自由浮遊、平面化する3色と曖昧な9色』 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第32回「色と密度で人間の五感をハックしたい!」

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第29回 第三章 補論:節電ゲームの連続的な学習プロセス

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は「節電ゲーム」からゲームという現象を考えます。コストダウンにも環境保護にも関心がない、電気使用量の記録更新だけを目指す「節電バカ」たち。彼らの情熱が生み出すゲーム的学習プロセスを読み解きます。  学習説に関わる長い長い三章が終ったので、ここまでの簡単な復習とケーススタディ的な意味を兼ねて、いつもよりは、相対的にふんわりとした話を挟ませていただきたいと思う。  ケーススタディの例としては、手前味噌で恐縮だが、節電のゲームの話をさせていただきたい。筆者は、自宅の電気使用量を測りながら節電に励むゲーム(というか、節電支援ツール)である『#denkimeter』を作って以後、境界例としてのこのゲームの現れの面白さをいろいろなレベルで感じている。 ▲#denkimeterの遊び方  節電自体は、そもそもとして「ゲーム」であるわけではない。「ゲーム」だと思えばゲームになる。そういう現象は、日常のなかに溢れているが、節電もまた、そのようなものの一つだ。  ここまで論じてきた概念を使うのならば、節電のゲームは、ゲームとゲームでない時空間や意味を区切るためのどちらの境界もぼんやりとしている(二次的現実/二次的フレームの曖昧性)。これはゲーミフィケーション的な事例のほとんどがもっている性質だ。その意味で、節電のゲームは「ゲーム」概念としては境界例として位置づけられやすいものだ。 筆者は、電気使用量を測りながら、クリアにフィードバックが出てくることがきっかけで、節電をゲームのようなものとして楽しめるようになった。「電気使用量を下げる」というシンプルでクリアなルールがあるし、節電のために行える創意工夫のバリエーションは数限りなくなる。こうした性質ゆえ、節電はゲームのような行為であるという認識をもたらすこと自体は、それほど難しいものではない。 そして、素朴な実感として「節電は楽しい」と思っている。  節電が楽しく見えている風景とはどのようなものか。そこからみえる風景をいちど、伝えたうえで、改めてこのゲームを遊ぶときに現れる特質について論じることにしよう。 節電バカとは何か さて、筆者は二〇一一年の震災のときに節電ゲームを作って以来、一時期はそれなりの「節電バカ」だった。ここでいう節電バカというのは、節電をすること自体が好きだということであって、節電の結果として、お金を節約されることが好きだということではない。  たとえば、節電バカであれば、月々20円ぐらいの節電をするために、2万円を投資するような行動をとる。コストで考えれば、同じ家に住み続けたとしても投資した費用を回収するのに83年はかかる計算になる。不経済なこと極まりないが、節電バカにとっては、お金を節約できるかどうかが重要なのではなく、節電のスコアを上げることができるかどうか、ということが重要なのである。  つまり、ここで言う、節電バカとは、節電を節約のためにやっているのではなく、節電そのものをゲームの一種として楽しんでいる人々のことだ。 ▲筆者の自宅の電気代の記録。一月753円。 「節電バカ」は大震災以来、(おそらく)増殖中であり、節電バカが出版した本も出ている。朝日新聞に勤める斎藤健一郎氏による『5アンペア生活をやってみた』(二〇一四、岩波書店)などはその好例だろう。(斎藤さんすみません)  そもそもこの本のタイトルである「5アンペア生活」と言われても、節電バカ以外にはピンと来ないだろうが、「5アンペア生活」はかなりヤバい。 そもそも、自分の家の契約アンペア数を気にしたことのない人のほうがマジョリティだと思うが、東京電力と契約している一般家庭は30アンペア~60アンペア契約の家庭が多いだろう。東京電力との契約可能な最低アンペア数が5アンペアである。人が居住していない倉庫とかを想定しているような契約アンペア数だ。 5アンペア生活は、単純なはなし、500W以上の家電を使うと、その瞬間にブレーカーが落ちる。電子レンジ、アイロン、ドライヤー、電気ケトル、オーブントースターなどは完全に使えなくなる。エアコンも、実質的にほぼ使えないに等しい。正直なところ、過酷な節電ライフになりやすく、一般人向けであるとは言い難い。  筆者の場合、さすがに5アンペア生活は厳しいので、関東で一人暮らしをしているときは、15アンペア契約にしていた。15アンペア契約であれば1500Wまでの家電が使える。贅沢な家電でなければだいたいは問題ない。ただ、エアコンを使いながら、電気ケトルを使ったりするとブレーカーが落ちる可能性が高い。そのため、電気使用量の大きい家電について、常に何と何が稼働しているのかを意識しながら生活をする必要はある。正直、そこまで極端な不便さはない。もっとも、少しだけ不便なのは事実なのだが、節電ガチ勢にとっては、15アンペア契約は、難易度「easy」ぐらいのゲームに常にチャレンジしているような心地よさがある。(5アンペアは、難易度「extra hard」モードである) 「節電」自体が楽しいのか、「節電」の試行錯誤のプロセスが楽しいのか ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第28回 学習説はどこまで説明ができたのか

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームの定義として最有力である「学習説」は、「ゲームという現象」を完全に説明するには至りません。中世の天動説的ともいえる学習説の合理性・説明性の高さを前提に、複数の動的システムの相互関係に基づいた、地動説的な仮説の構築を試みます。 3.9 学習説はどこまで説明ができたのか 3.9.1 複数の機序による説明:天動説から地動説へ  学習説はゲームに関わる諸現象の多くを説明する。そしてそれは、学習説の有効性を示すものだ。しかし、同時にここまでの議論で明らかになったことは、学習説だけでゲームに関わる諸現象を説明しきることができない、ということでもある。  改めて、学習説はゲームに関わる主要な現象の「全て」を説明できるのだろうか、という問いを立てながら、この第三章で明らかになったことを確認したい。  たとえば、『ReZ』のような新奇なインターフェイスを触ることの楽しみを説明できるだろうか?あるいはオンラインゲームでコミュニケーションをとる人々の楽しさを説明できるだろうか?直接に説明できなくても、何らかの強い関連性を示すことができるだろうか?  答えはイエスとも、ノーとも言えるが、どちらかと言えばノーと言える側面のほうが強い。  イエスと言えるのは、ある程度の説明を与えることが可能だからだ。新奇性のある刺激について、人間の慣れや学習といった側面から説明してみせることは不可能ではない。コミュニケーションの快楽を、報酬系から説明を試みる立場もある。  ノーであるといえる根拠は、多い。  第一に、学習説には説明できないが他の説によって説明できてしまうような悩ましい境界例がある。たとえば、一回限り試合、パズル、プレイヤーのいないコンピュータ・チェスなどはルール/ゴール説からは説明できる。しかし、学習説の視点から説明しようと思うと、説明が困難になる。(むろん、三目並べなど学習説だからこそ説明できる事例もある)。それらを排除しようと思うのならば、議論の範囲を意図的に狭めたりしなくてはならなくなる。  第二に、学習プロセスと連続はしているものの、途中から学習プロセスの機序では説明できなくなってしまう関連現象が存在している。たとえば、物語的な認知や、依存プロセス、均衡の問題などは、学習と連続はしていても、学習説の機序だけで説明することは困難だ。  第三に、仮に関連性が論じられるにしても、関連性がどれだけあるか、難しいケースも多い。コミュニケーションやインターフェイスの問題に踏み入っていく場合、本当に学習説でクリアな説明ができるかと言われると、明快な説明を行うことは難しいからだ。「おそらく関連がある」とかそういった説明をしていくことになるはずだ。たとえば、他者との共在感覚は人間の発達過程のかなり初期から存在するものだ。そして、複数人で遊ぶときにこの共在感覚は少なくない機能を担っている。コミュニケーションとゲームの関係を論じる上では、学習説が何かの原因や結果として機能している側面はそれほど強くない可能性がある。また、インターフェイスについても、たとえば人間の空間認知や触覚の問題と切り離して論じることは難しい。学習説と関連付けることはできても、どこまで強い関係性を見出すことができるかというと、厳しいところがある。 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

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