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生活の「周辺」にある体験を再発見する方法
2021-10-15 07:00おはようございます。
今日はWebマガジン「遅いインターネット」の最新記事と、併せて読んでほしいおすすめ記事をご紹介します。
先日公開されたのは、消極性研究会による連載記事です。
リモートワーク環境が常態化したいま、いつの間にか失われていた「周辺体験」とは何なのか。「効率化」がそぎ落とした、冗長だけれどもたしかに豊かさを感じ取ってもいた時間を再発見するための消極性デザインについて、メンバーの栗原一貴さんが語ります。
緊急事態宣言が解かれ、第5波も収束に向かういま、改めて生活の「周辺」にある体験の豊かさについて考えてみました。
今回の記事と併せて、こちらの記事も(もういちど)読んでみませんか?
「テイクアウト」「応援」「お取り寄せ」「自炊」……。コロナウイルスの感染拡大によって、今、「食べること」を取り巻く環境が徐々に変わりつつあります。今回は、「おとりよせネット」「レシピブログ」など食 -
幻想を実践するためのアイデアトレーニング ──(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革 第19回〈リニューアル配信〉
2021-10-14 11:30550pt
大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。働き方改革に必要な「アイデアを出す能力」を鍛えるにはどうすればいいのか。既存の知識を「アイデア」に昇華させるため、アニオタの坂本さんならではの、ルーチン化できるトレーニング方法について解説します。
【新刊情報:PLANETS公式オンラインストアにて先行予約受付開始!】 本連載をベースにした坂本崇博さん初の単著『意識が高くない僕たちのためのゼロからはじめる働き方改革』の発売が決定しました!
20年以上にわたり社内における自分自身や周囲の働き方改革を推進し、さらに働き方改革プロジェクトアドバイザーとして毎年数十社、延べ10万人超の働き方改革を支援してきた著者 坂本 崇博がその経験をもとに「そもそも働き方改革とは何か?」を定義するとともに「真の働き方改革推進ノウハウ集」としてその推進手法やテクニックを体系化。 組織として働き方改革を推進する立場の方がもちろん、今の仕事にモヤモヤを感じていたり、もっとイキイキ働きたいと考えているすべての人に読んでもらいたい一冊です。
さらにPLANETS公式オンラインストアでは、先行予約特典として本日よりオンラインイベント「働き方改革1000本ノック」への参加権付き先行予約受付を開始しました。お申し込みはこちらから!
(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第19回 幻想を実践するためのアイデアトレーニング
アイデア幻想術 ②虚構現実をルーチンに
アイデアを幻想のレベルまで具体的にシミュレーションできるようになるには、筋トレやジョギングのように実践トレーニングを積むことも重要です。 とはいえ、普段仕事をしていてもなかなかそうした幻想を求められる機会は得られません。 そこで、習慣・ルーチンとして、現実の事象を題材に、「自分だったらどうするか」という妄想を繰り広げる「虚構現実」を描く時間を生活の中に盛り込むことが必要です。 今回は、この「虚構現実のルーチン化」という幻想力アップにつながる習慣づくりについてご紹介します。
アイデア出しは、疲れる行為
前回までお伝えした通り、アイデアとは「何かと何かの組み合わせ」です。 そのため、アイデアを出す能力を高める上ではアンテナ力や記憶力を高め、多くの「アイデアの部材」を蓄積しておくことがベースの一つとなります。 しかし、ただ単にいろいろなことを知っているだけではアイデアは生まれません。それらを何らかの目的達成に向けて「引き出して組み合わせる」ことができなければいけません。 たとえば、太陽は一日かけて東から西に移動するという知識があり、一方で物体に光が当たるとその反対側に影ができるという知識があるとして、「時間を知りたい」という目的達成にむけて「日時計をつくろう」と思いつくかどうかは、それらの知識を記憶の中から引っ張り出して組み合わせられるかどうかにかかっています。 そして、こうした記憶の中にある何かと何かを引き出して組み合わせるという行為は、少なからず脳にとってはエネルギーを要する活動なので、「さぼり癖」のある脳は無意識にそれを拒み、疲れないようにしようとしてしまいます。 また、普段アイデア出しをしていない、すなわち知識を引き出して組み合わせるという行為に慣れていないと、いざアイデアを出したい目的ができても、何をどう組み合わせたものかもわからず、結局はインターネットで調べたりや人に聞いたりするなど「答えを探す」という楽な行為に逃げがちです。
アイデア出し脳トレにつながる習慣づくりが不可欠
こうした疲れ・不慣れを解消し、アイデア出し能力(脳力)を高めるには、常日頃から何かアイデアを出すトレーニングが重要です。 これは、ラグビー選手が筋トレをして戦える体を作ったり、マラソンを走る上で日々ジョギングを重ねてペースをつかむことと同様です。 アイデアを出すという行為を反復することによって、脳がアイデアを出すことに慣れることにつながります。そうした基礎トレーニングができていれば、いざ本気で何か働き方改革のアイデア幻想をしたいときにも、過去の記憶や経験を組み合わせて、新しい選択肢やその実現についての具体的なイメージが浮かびやすくなるのだと思います。 このあたりは、前述のアンテナ脳を鍛えるという考え方と同じです。 「私はアイデアが出ない人間だから」とか「アイデアが出せる人は先天的に特殊な能力があるんだから私には無理だ」といった思い込みは不要です。 また、「能力を高めるには一生懸命トレーニングしなくては」という義務感も不要です。 アンテナ脳を鍛える上で、地名や企業名をスマホで調べて「へえ~」と楽しくなることを繰り返すのと同様に、アイデア出し脳についても、ちょっとした趣味とも言える「楽しむ習慣」を身につけることで、トレーニングになると考えます。
虚構現実のススメ
私がオススメしたいアイデア出し脳トレーニングにつながる習慣は、「虚構現実(Fictional Reality)」の世界にハマることです。 虚構現実(FR)とは私が勝手に作ってみた造語です。これは、VR(Virtual Reality:仮想現実)のように3D映像などテクノロジーを駆使してそこに存在しない現実を仮想体験させるものではなく、また、AR(Augmented Reality:拡張現実)のように、現実世界の中にホログラフなどで情報を追加上乗せしようという概念でもありません。 虚構現実(FR)とは、要はフィクションの世界です。つまりこの世には存在しない「嘘」の世界です。しかし、異世界転生やSFといったまったく別次元の世界ではなく、今目の前の現実にほんの一つの要素だけ「嘘」を加えた現実に近い虚構の世界を描くことです。それはある意味「ひょっとすると実際に起こるかもしれない近い未来」とも言えます。 私がよく描くFRは、今の現実に「私は100億円もっている」という嘘だけを加えた世界です。 たとえば、テレビや新聞のニュースを見聞きしている中で何か大きな事件や災害という現実に直面したときに「ここで私の手元に100億円あったらどうするか」を考えるのです。 単に手元にお金があったらどうしたいかという問いではなく、「私がこの事件・災害の当事者・関係者だとして、手元に莫大なお金があれば、どう対応するか」というケースを特定した虚構の世界を考えるということです。 なぜ100億円という莫大なお金をもっているという条件を加えるかというと、そのほうが楽しく妄想ができるからです。 この条件がないと、いろいろな知識を組み合わせて何かアイデアを思い浮かべようにも「お金がないので無理だ」とか「人が足りないから無理だ」とネガティブな方向に向かってしまいがちです。楽しくないことは続きません。 そこで、せっかくの虚構なのですから資金の制約、さらにはそのお金を活用することで人手、道具、時間などの制約からも解放されるとしたときに、自分はどうするかを考えると、いろいろな知識を引き出し組み合わせるという妄想が捗るのです。
[ここまでのポイント]
1 アイデア出しとは、なんらかの目的にむけて記憶された知識を引き出し組み合わせること。
2 その作業は脳に負担をかけるので、無意識的に避けてしまいがち。日々トレーニングを重ねて、アイデア出し脳を鍛えることが必要。
3 そのトレーニングとして、現実の世界に一つだけ「嘘(虚構)」を交えた楽しい妄想をする「虚構現実」という習慣をつくることも有効。
アイデア幻想術 ③幻想が捗る「問い」
ここまでで、アイデア幻想の基礎トレーニングにつながる習慣づくりについて自分なりの体験談をもとに解説してきました。 ここからはより効率的に私の働き方改革についての幻想が一層捗るためにおさえておくべき問いかけポイントを紹介します。 問いかけポイントというのは、要は自分の思考(幻想)を進める上でのフレームワークやガイドのようなものです。 これらのポイントについて自分に問いかけることで、効率的に発想の転換を促し、かつこれまで記憶した素材を引き出し組み合わせながら、働き方改革のアイデアを生み出しやすくなると思います。
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マインドフルネスの倫理と資本主義の精神──いま改めて考えたい、その思想と実践のかたち|松本紹圭
2021-10-13 07:00550pt
ここ数年、「マインドフルネス」という言葉を見かけることが増えました。以前からマインドフルネスを取り入れていたGoogleをはじめとする、アメリカのテック企業の影響もあり、日本でもビジネスパーソンを中心に広まりつつあります。しかし、本来マインドフルネスは、単なるビジネスのための道具ではないはずです。マインドフルネス本来の思想、そして現代における実践のあり方について、現代仏教僧の松本紹圭さんに寄稿してもらいました。資本主義システムとのかかわりに目配せしながら、「わたし」の能力開発ツールとしてのマインドフルネス・ブームの背景と、今後向かうべき「わたしたちのマインドフルネス」の可能性を考察します。
マインドフルネスの倫理と資本主義の精神──いま改めて考えたい、その思想と実践のかたち|松本紹圭
結論を先に言う。資本主義もマインドフルネスも、これまで共に「わたし」に閉じてしまっていたものが、相互にはたらき合いながら、両者は今、「わたしたち」の地平へと開けつつあるのではないか。それが私の見立てだ。
マインドフルネスとはなんだったか
マインドフルネスの由来を尋ねれば、仏教の禅でいうところの身心脱落、つまり、自らを縛る自我(「わたし」)から解放された無我の体得に辿りつく。パーリ語の「気づき」を表す「サティ」の訳語としてのマインドフルネス、その源流ともいえるティク・ナット・ハン師は「人間存在(human-being)は、間的存在(inter-being)、つまり関係性から立ちあらわれてくる存在である」と説いた。大乗仏教において、私とは縁の上にはじめてあらわれるものであり、私そのものは「空」であると認識する。変化し続ける縁の上にある「わたし」とは「わたしたち」のうちにあり、あらゆる現象は「わたしたち」の地平に立ち現れてくる。
高度経済成長を経て、心のどこかで資本主義の限界を感じながらも、更新され続ける未来の夢に急き立てられて、私たちは際限なく豊かさを求めて生きてきた。そのことに一部の人々が違和感を抱き始めた1990年代後半、企業や学校でのメンタルヘルスケアが社会的な課題になると、医学的、心理学的アプローチのみならず、社会の仕組みから一定の距離を置くことを望む人々が、ヨガや瞑想といった精神世界に少しずつ関心を寄せはじめた。2000年代には、ヨガやスピリチュアルはより親しみやすい形をもって広まり、一つのブームともなった。消費社会の疲弊を癒すものとして、哲学や精神性もまた消費対象となって大衆文化に浸透していった。
時を同じくして、国内外では仏教や禅への関心が高まる一方で、1990年代にオウム真理教やその他のカルト的な新興宗教がもたらした「宗教」への不信感や嫌悪感は拭いきれず、他宗教を信仰する欧米の人々にとってみてもまた、「宗教」の枠組みは壁でもあった。まして、資本主義の最前線たるビジネスの世界では、かつて以上に科学的なエビデンスが重視されるようになっていたから、ヨガやスピリチュアルとの文化的な距離は大きかった。
そんな中、マサチューセッツ大学医学大学院教授のジョン・カバット・ジン氏が仏教の禅の思想や修行から「宗教色」を取り除き、西洋科学と統合して提示したのが「マインドフルネス」という概念だ。こうしてスマートに翻訳、アレンジされた能力開発・メンタルケアツールとしての「マインドフルネス」は知識層を中心にビジネス世界へと一気に広まり、もともと坐禅など仏教の文化が根付いていたはずの日本にも、その流れが「逆輸入」されることとなった。
「わたし」の能力開発ツールとしてのマインドフルネス・ブームと、「わたし」の肥大化を求める資本主義の精神
ここで導入されるマインドフルネスは、接し方、使い方によっては身心脱落とは逆のありように向かい兼ねないことを言及しておきたい。ビジネス世界には、個人の評価基準や競争原理が強くはたらいている。マインドフルネスが「個人の能力開発」の文脈で用いられる時、2,500年にわたって受け継がれてきたこの世界観が、「宗教色」と共に抜け落ちることがあっても、おかしくはないだろう。
2007年には、Google社が社内の人材開発プログラムにマインドフルネスを導入したのが注目を集め、以降、GAFAやマッキンゼーといった欧米の大手企業は次々に社員のパフォーマンス向上を目的にマインドフルネスを採用した。今では、心身を整え高いパフォーマンスを発揮するための優れたツールとして、あらゆる分野に取り込まれている。
これまでも、仏教やヨガなどの東洋哲学に関心のある人々は一定数いたとはいえ、先進国でこれほどまでも一斉にマインドフルネスが取り入れられた背景とは、いったい何なのか。
資本主義のシステムにおいて、資本は時間と共に増殖し、価値は時間をテコにディスカウンティングすることが前提にある。人も「人材」として常に評価され消費されゆく世界において、個々人は生き抜くために自らの価値を高め続ける必要がある。そうして世界はそれぞれに競争を繰り広げながら、しかし一丸となって未来の見えない幸福を目指し続ける。自我の拡大こそが、資本主義を成り立たせているというカラクリの中に生きている。私たちは、「わたし」を肥大化させることに、絶えず急き立てられるシステムの内側にいる。
戦後の私たちの日常は、当たり前の消費、当たり前の比較、当たり前の競争に溢れ、優位性の選択と同時にそうではないものの不採用と廃棄を行ってきた。多くの人が、世界に対して意味や価値の有無を問いながら、自らの意味や価値の有無を問われる不安に晒されてきた。社会的な肩書きや経歴、任務、所得、税金、言動、振る舞い──私たちは、個人(又は家)に割り当てられたそれらを未来にわたるまで「わたし」が背負い続ける人生を生き、そこでは常に個人としての責任を問われ、常に、更なる向上を目指すことになっている。誰もが「わたし」の価値に不安を覚えながら、その意味と価値を拡充しようともがいてきたのだ。資本主義で敷き詰められた地面の下に湧く行き場のない「わたし」たちが、精神的な充足や存在の確かさを求めて彷徨うのは当然のことだろう。
2021年現在、資本主義という均質化した世界観が、世界の国々の個々人の意識を覆っている。それを支えるのが、競争し合う個人であり、個人の存在価値を少しでも高めようとする「わたし」だ。戦後、平和で自由になったはずの世界にあって、多くの人がこうした社会の仕組みからこぼれ落ちてきた。社会のあり方を問い、自らの存在の不確かさを克服しようとした多くの若者たちが、かつてオウム真理教に答えを求め、自らの居場所を見出そうとした。その時社会は、彼らを、洗脳され狂気を帯びた個人の集団として片付け、一連の現象を直視してその背景を充分に問うことをしなかった。
「わたしたちの資本主義」がマインドフルネスにも影響を与える
しかし今、そうした資本主義そのものが岐路に立っている。
2020年4月、「米企業、株主第一主義が大幅に軌道修正」という一文が、Covid-19関連で埋め尽くされるニュースの見出しに混じっていた。株主である資本家への利益還元ではなく、そこで働く社員やその家族はもとより、事業に関わるすべての利害関係者を考慮して振舞う「ステークホルダー資本主義」へと世界の企業は舵を切りつつある。ビジネスを中心とする人間活動が地球環境に与える影響が肥大化した結果、ビジネスはビジネスだけを考えていればよい時代は終わった。国際金融の第一人者である識者によると、世界の金融界も脱炭素へと大きく舵を切っているという。無限に拡大可能という前提に立ったスクラップ&ビルドの経済が終わり、有限な資源を上手にメンテナンスしながら活用するサステナブルな経済、サーキュラーエコノミーへと社会は移行しつつある。その担い手として先頭を切るのは、グレタさんをはじめとする若い世代だ。
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【明日開催】アフガニスタンで起きていることについて、いま僕たちが考えるべきこと|伊勢崎賢治(リアル開催&生中継あります)
2021-10-12 07:00おはようございます、PLANETS編集部です。
(ほぼ)毎週火曜日の夜に開催中の「遅いインターネット会議」。今月から有楽町のコワーキングスペース・SAAIでのリアル開催が復活しました!
PLANETSチャンネルなど各スタンドでは生中継もありますが、気になる方はぜひ会場へ遊びに来てください。
10月13日(水)19:30〜アフガニスタンで起きていることについて、いま僕たちが考えるべきこと
21世紀の国際秩序を揺るがす契機となったアメリカ同時多発テロ事件から、20年。今年8月、バイデン政権下で遂行されたアフガニスタンからの駐留米軍の最終撤退が進むなか、勢いを盛り返したイスラム原理主義勢力タリバン軍の侵攻によって、瞬く間に首都カブールが陥落。テロとの戦いと自由民主主義の価値観を共有する秩序をもたらすことを大義に掲げ、アメリカ建国史上最長の戦争となったアフガニスタンでの「失敗」は、これからの世界 -
視覚言語としてのグラフィックレコードが見せる世界|清水淳子
2021-10-11 07:00550pt
本日のメルマガは、視覚言語研究者・デザインリサーチャーの清水淳子さんによる特別寄稿をお届けします。テキストでの(ディス)コミュニケーションや図解による「わかりやすさ」を体験するとき、私たちのコミュニケーション環境には何が起きているのでしょうか。人々の話し言葉を視覚言語としての「グラフィックレコード」に即座に「翻訳」する清水さんに、現代人の情報認知のあり方について論じていただきました。
視覚言語としてのグラフィックレコードが見せる世界|清水淳子
会議の中で声をグラフィックで描くと何が起きる?
話し合いは「声」のやりとりで進んでいく。誰かが声を出せば、そこにいる全員に同じ声が届く。だが、同じ声を聞いていても、全員が同じ内容を思い浮かべているとは限らない。話し合いの参加者が思い描く内容は、少しずつズレが生じていくものだ。ズレが生じること自体は人間なら当然で悪いことではない。むしろ、話し合いの場というのは、そのズレを再認識したり、調整したり、あるいは新しい視点として取り入れる重要な機会なのだ。しかし、一度大きくズレが生じてしまうと、ズレを楽しむどころか泥沼のように予定通りに進まない話し合いになることも少なくない。
2010年、私は大きくズレの生じた会議の中にいた。長時間にわたる声のやりとりも虚しく、声を重ねれば重ねるほどに、参加者の認識はズレにズレていく。誰かが何とかしようと何か言ってもうまく伝わらず、さらに大きくズレていく。なぜ同じ空間で同じ声を聞いているはずなのに、こんなにも聞こえ方がズレてしまうのだろうか? おそらく他の参加者もそれぞれの立場で同様のことを思っていただろう。 いっそのこと知らんぷりできればいいが、それはできない。なぜならズレた認識は下っ端である自分が全て抱え込んで帳尻を合わせることになりそうな状況だったからだ。
私はその場で生まれては消える声のズレがもたらす原因がなんとなく見えていた。しかし、そのことを勇気を出して訴えてみても、まるで湯気のように声が消えていく。そこで一か八か苦し紛れに、微動だにしない動きの無い会議室で、私は勇気を出して立ち上がり、ペンを持ってホワイトボードの前に立った。そして今までに出たみんなの意見を描き出した。その上で、矛盾点や未定な部分に対する違和感を伝えた。すると弱々しい私の声が、ビジュアルと混ざり合って、しっかりとした構造となって、参加者全員に同じカタチで届いたのだ。この出来事によって、空間に充満していた違和感の匂いをすっかり消し去り、会議は無事に終了した。これは私にとって忘れられないできごとになった。音声だけでやりとりしている時には起きなかったことが、ホワイトボードに描きだしたビジュアルを用いることで、あっさりと達成できたのだ。これは一体なぜだろう?
衝突or沈黙の会議で観測された変化
その疑問を解くべく、私は2013年よりグラフィックレコーダーという肩書きを名乗り、様々な話し合いの中にある声をリアルタイムにビジュアルとして描き出す活動をし始めた。初めは知り合いのトークイベントの記録ノートや記事作成のためのイラストレーションとして描くことが多かった。次第に活動範囲は広がり、依頼のバリエーションは増え、企業の新規事業会議でアイディアのビジュアライズを行なったり、大規模なシンポジウムのコミュニケーションツールとして活用するための設計を行うようになった。近年ではSDGsをはじめとする複雑な社会課題について、様々な立場の人々が話し合うための場を作るために参加することも多い。今まできちんと数えたことはないが大小含めて2013年より1000以上の現場で様々な方法のビジュアライズを実践してきたと思う。
▲ホスピタルとデザイン展でのグラフィックレコーディングの様子
私の元に来る依頼の種類は様々だが、共通点がひとつある。それは、今までにない新しい枠組みで、横断的にものごとを考える必要がある場であることだ。例えば、「新聞社が従来のように紙だけでなく、どのようにデジタルメディアと連携していくべきか?」または「地域の祭りの中にどのようにアートを取り入れ街を盛り上げられるか?」「大学で学ぶべきことと企業の中で求められることのギャップを共有しあい、そのギャップをどのように捉えて今後の教育を作っていくべきか?」このように、既存の領域を深めていくテーマというよりは、今まで交わりにくかった領域や価値観を混ぜることで、新たな化学反応や繋がりを期待するような話し合いの場である。
こういった話し合いの場には、自動的に多様な参加者が集まることになる。職種の違い、年齢や経験の違い、立場の違い。そういった違いは、話し合いの中で交わす言語や概念の中に少しづつ現れて、話し合いは難航することが多い。同じ日本語話者にも関わらず、お互い初めて聞く外国語のような壁を感じながら過ごすことになる。そのような言語環境の中では、認識の違いから激しい衝突になることもあるが、私がよく出会うシーンはお互い遠慮して愛想笑いでしか本音が言えないことだ。衝突も恐ろしいが、平和を装った沈黙も同じくらいに恐ろしい。
未知のテーマで衝突or沈黙の会議。正直なところ「できる限り近づきたくない……」と感じる人が多いだろう。しかし私はどうなるかわからない不安定で緊張感が漂う話し合いの場がとても好きだ。なぜかと言うと、このような場は不安定な分、何か新しい発想が生まれる可能性も高くなるからだ。今までにない発想は、今までとは違う世界に一歩近づくためのデザインにつながる。私はひとりのデザイナーとして新しいデザインを生むことも好きだが、今の社会では、デザイナーではない人が集まる場で、デザインが生まれやすい場をデザインすることも重要なデザインなのだと感じている。
まだ見ぬデザインに出会うまでの遠い道のりを歩けるように、参加者が持つ不安の中に隠れてる期待感が消えないように。私はビジュアルを使った対話を試みる。固まった空気の中で、散らばりそうな参加者の声をひとつの紙に描くことで、衝突or沈黙の会議は、曇りの空が、少しづつ晴れていくように、空気が変わり、関わり方が変わり、関係性が変わり、会議の結果が変わる。このシンプルな効果を求めて、今日も私の元に多くのクライアントから会議のビジュアライズに関する仕事依頼メールが届くが、未だに冒頭の疑問への答えははっきり出ていない。「なぜ話し合いの中で、人々の声をビジュアルとして描き出すと、固まった空気が柔らかくなり、コミュニケーションがうまくいくのだろうか?」 本稿では、はっきりとした答えは出せない。しかし、自分自身がグラフィックレコーダーとして活動しつつ、その活動をデザインリサーチャーとしてメタ的に探求している途中段階の仮説としては伝えたいことがたくさんだ。その内容を本稿ではスケッチのように描いてみようと思う。
通訳/翻訳者としてのグラフィックレコーダーの姿
グラフィックレコーディングをシビアなムードの会議に取り入れる理由として、参加者の方々は「表現豊かな絵があると華やいでいいからね」と考えることが多い。画家の視点では単純に嬉しく思いつつも、デザインリサーチャーとしてはイマイチ納得がいかない仮説である。声をビジュアルとして描くことで話し合いに与える効果は、果たして玄関に飾られた絵のような癒しの役割だけなのだろうか。それも一つの重要な役割であることは間違いないが、もっと未知の複雑なことが起きているはずだ。
私は足掛かりとして、グラフィックレコーディングで行っている行為は、美術の授業で描く自画像や風景画のような表現活動とはかなり違ったものだと疑ってみた。絵は主に目で見たものや感じたできごとを、自分の感性を交えながらキャンバスの上に表現して完成させる。その後に展覧会などの場を作り、お客さんに鑑賞していただくという流れがある。はじめに制作を行う場があり、そのあとに鑑賞を行う場がある。つまり、制作と鑑賞の時間が離れているのだ。
しかし、グラフィックレコーディングは、耳で聞いた人の声を、頭の中で整理しながら、平面上にビジュアルとして再構成し、その場にいる他の参加者にリアルタイムで見せるところまでが一連の活動として繋がっている。制作を行う場で、すぐに鑑賞を行う。制作と鑑賞の時間軸が重なっている。つまり、グラフィックレコーディングで行っている行為は、声という言語形式を、別のビジュアルという言語形式に置き換えて、伝える活動とも考えられる。言い換えると、グラフィックレコーダーが大きな紙にペンで何かを描いている様子は一見「画家」の仕事に見えるが、背景にある情報処理のプロセスと他者への伝達形式は「通訳」や「翻訳」の仕事とも考えることができる。
ちなみに「通訳」 (interpretation) は、異なる言語を話す人の間に入り、口頭での話し言葉を、その場で聞き手が求める音声言語として伝達を行う。「翻訳」(translation) は、記録された文書や動画に対象に、異なる言語へテキストとして記述していく。グラフィックレコーディングで行っていることは、音声言語を、その場で異なる言語形態であるグラフィックに記述していくので、通訳であり、翻訳でもあるので、大変ややこしい。簡単には割り切れない部分で、まだ固定化したくない部分なので、本稿では「通訳/翻訳」という言葉で進めさせていただく。
通訳/翻訳者がある言語を違う言語に置き換えるために、数え切れない語彙を持つことと同様に、グラフィックレコーダーは、人々の声に含まれる多様な情報を、通訳/翻訳するため、文字はもちろん、イメージを象徴する色彩、線の太さや繋がりで構造を作る図解、感情や動きや空間を示すことのできるイラストレーションという語彙や文法を持つ。話し合いの中で生まれる音声言語を耳で聞き取りながら、頭の中では、その声に対応する適切な語彙や文法を選び取り、手で素早く描き出す。そして描き出している最中には、耳は次の声を聞き取っている。その繰り返しで、すぐに消えてしまう声を、文字と図と絵を組み合わせたグラフィックへと記述して伝達していく。
▲描き出されたグラフィックレコードの読み取りを行っている様子
このような視点で観察してみると、グラフィックレコーダーは、己の感情や感性を表現する画家というよりは、耳で受け取る音声言語から、目で見る視覚言語への通訳/翻訳を行う活動であると考える方が合点がいく。すると、私はあることに気がつくのだ。固まった空気の中で、参加者の声をひとつの紙に描き出すことで、空気が変わり、関わり方が変わり、関係性が変わり、会議の結果が変わる。その原因は、使用する言語の違いにあるのではないか? 例えば、日本語で話してる時と、英語で話してる時、「おはようございます」と「good morning」の違い。些細な挨拶だけでも、ものごとの捉え方の感覚や、その一言から生まれるコミュニケーションを想定した思考を変えていく。違う国の言語のように、音声言語でやりとりする時と、視覚言語でやりとりする時では、話し合いの参加者全員で世界の捉え方が変化して、話し合いの中での態度や考え方の変化をもたらしてるのではないか?
使用する言語で見える世界は変化する?
冗談のような仮説として、文字と図と絵を組み合わせたグラフィックという視覚言語がもたらす思考への影響とメカニズムがあるはず……と妄想を楽しんでいたのだが、ある時から本気で考えてみたくなった。そのきっかけは、2017年公開の映画『メッセージ』を見たこと。突然現れたエイリアンの発するメッセージの読み解きに挑戦する言語学者のルイーズと物理学者のイアン。映画の結末に関わることなので詳細は伏せるが、彼らはエイリアンなので、人間とはまったく違う方法で世界を認識しており、当然ながら扱う言語にもその違いが現れている。巨大なイカのようなヘプタポッドが発する唯一の言語は、真っ黒の円状のビジュアル。ルイーズは根気強く少しづつ彼らの言語を学ぶ過程で、彼らの言語だけでなく世界の捉え方まで会得し、物語を大きく動かしていく。
劇中で、ルイーズとイアンが「サピア=ウォーフの仮説」について触れる会話がある。この仮説は映画の中の設定ではなく、現実にある仮説である。「私たちの母語は、私たちが世界を知覚し、世界について考えるやり方を決定する」というこの仮説は、1930〜40年代に、アメリカの言語学者サピアとその考えを引き継いだ弟子のウォーフにより世界に広がった。この仮説は一度はもてはやされて受け入れられたかのように見えたが、じつのところの実証が不十分であることなどから破綻しているとの指摘があり、様々な論争を呼んだ。しかし『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』の著者ガイ・ドイッチャーは、「この大胆な主張には様々な間違いがあり反省が必要だが、言語が思考に影響しうる、という考えを安易に切り捨てるべきではない」と語りつつ、空間、ジェンダー、色彩の言葉に関して、私たちが世界を認識する時、言語がフィルターとして世界の見え方に影響を及ぼすという可能性を実証を丁寧に行いつつ示している。
言語が思考に及ぼす影響はどのくらいなのか? この議論についてはここではっきりと決着をつけられるものではないが、過去に外国旅行の中で触れてきた言語の違いからも、サピアとウォーフが主張したかった世界の入り口くらいは納得できる。使用する言語と思考の関係についての研究は、現在進行形で更新中であるが、ここでは話し合いの中で声をグラフィックに通訳/翻訳することで誕生する視覚言語を用いることで、参加者にどのような変化が観測されるかについてもう少し話を進めてみたい。
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山岸凉子──貞淑な娘|三宅香帆
2021-10-08 07:00550pt
今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。今回は漫画家・山岸凉子が描いてきた少女像をめぐる考察です。1979年の短編「天人唐草」をはじめ、親によって「性」を抑圧されてきた少女像を描き、従来の少女漫画に真っ向から向き合ってきた山岸凉子。代表作『日出処の天子』、短編作品「鏡よ鏡…」では、性を抑圧する母親との関係性において「貞淑さ」に焦点を当てます。
三宅香帆 母と娘の物語第二章 山岸凉子──貞淑な娘
山岸凉子は日本の少女漫画史、というよりも日本の文学史において、ひとつの達成をおこなった。それは女性のことばでシンデレラストーリーを内側から否定したことだ。山岸凉子は、「女性」の内側から、女性の物語──未成熟で愛されていれば、男性に見初められて幸せになれる──が引き起こす抑圧を発見し、打ち砕いたのだ。 そして打ち砕いた先にある景色が、お花畑のような幸福ではなく、茫然と広がる孤独であることを、山岸凉子だけが知っていた。
1.性の抑圧──「天人唐草」
山岸凉子作品は、世間で「少女漫画的」とされる価値観に対して、とても厳しい少女漫画家である。 世間が少女漫画的と呼ぶものは何か。それはシンデレラストーリーのことだ。少女は受け身で、従順で、微笑んでいれば、どこかで王子様が見初めてくれる。そのような価値観に対してNOを突き付ける少女漫画家が、山岸凉子だった。 もちろんそれまでにもシンデレラストーリーに否定的な少女漫画家もいただろうが、山岸凉子は当時にしては珍しく、三十歳の女性を少女漫画の主人公に据えたうえで、その価値観を否定する。 1979年に発表された短編漫画「天人唐草」は、無自覚にシンデレラストーリーを夢見る主人公・岡村響子の物語である。 彼女は父の厳しい躾を受け、過剰におとなしく、周りの目を気にする女性に育つ。「慎みのある、はしたない女性にならないように」と厳しく言われ続けた響子は、役所に就職しても、柔軟性のない新人だと思われ周囲から距離をとられる。響子は職場の同僚に淡い恋心を持つも、当然、彼が振り向いてくれることはない。彼は職場の派手な女性を結婚したのだ。 ある日、母と父が立て続けに亡くなる。響子は役所を辞めたものの、お見合いもうまくいかない。そして父が亡くなったところに現れたのは、まさに父が禁止した、派手で煙草を吸う「慎みのない」女性だった。彼女は、父の愛人だった。
「今 目の前にいるその女性は 父が響子にこうあってはいけないといい続けた女性そのものだった 娘にはこうあってはならないといい含めながら… 自分が男として望んだ女はそれと正反対のものだった ならば響子の女としての姿は どこにあるのだろうか……」 (山岸凉子「天人唐草」小学館、1979年初出)
うちひしがれる彼女に、悲劇が起こる。帰りの電車で、気弱そうにしている響子を、ある男が狙う。そして響子は、夜道で襲われる。 後日、響子は髪を金髪に染め、フリルのドレス姿で、奇声をあげながらひとり歩く。それは「狂気という檻」のなかで解放された、ひとりの女性の姿だった。
響子のありかたは、まさに「少女漫画的」とされる価値観そのものである。しかし山岸は、それを少女に植えつけた人間はだれか、を的確に描く。父親の抑圧が、響子を従順という檻のなかに閉じ込める。 父権制の抑圧は、少女に従順さを求める。貞淑で、慎み深い女性であるように。それこそが素敵なお嫁さんになることの第一条件であるように思わせる。それゆえに、少女はシンデレラストーリーを夢見る。謙虚で、内気で、女らしくしていれば、誰かが自分を見つけてくれるのだと。 しかし現実では、自分から何も欲しいものに対して行動を起こしていない人間が、何かを手に入れられるわけがない。それどころか、そのような自分を見つめようとしないことを、山岸は「甘え」と表現する。
「従順であること でしゃばらないこと── それが女性の美徳だと信じこもうとした その裏に自己犠牲を払わないですむ虫のいい依頼心と甘えがあった」 (「天人唐草」)
シンデレラストーリーを夢見た響子は、結果的に、自分の狂気の檻のなかで、王子様と結ばれることになる。 響子は夜道で襲われ発狂する。そして発狂したすえに、「わかってくれるわ きっと…あの人は…」と呟く。この発言の意味は、あの人つまり響子の幻想のなかにいる王子様は、響子の理想をわかってくれる──貞淑で女らしい自分を愛してくれる、ということだろう。この瞬間から響子は現実を受け入れることなく、自分の幻想のなか、つまり狂気の世界で生きることになる。[1] ラストシーン、金髪に染めてもらいながら、彼女は言う。「ほら 見て この服 結婚式のお色なおしなの」と。彼女は金髪にフリルの服で、飛行機に乗るだろう。飛び立った先の地で、きっと彼女は結婚式を挙げる。自分だけの狂気のなかで。 このような悲劇をもたらすほど、娘に貞淑という名の未成熟を求めたのは、ほかでもない父親だった。「天人唐草」は、父権制によって抑圧された娘が狂う物語だったのだ。
(山岸凉子「天人唐草」小学館、1979年初出)
山岸はこのように「最後まで受け身であったがゆえに悲劇的な結末を迎える」女性の物語をしばしば描いている。短編漫画「朱雀門」(初出1991)、「グリーン・フーズ」(初出1987)、「死者の家」(初出1988)、など枚挙に暇がない。それらの物語は常に、とくに異性に対して、自分からなにか行動を起こす積極性を持てない女性を描く。それはほかでもない少女漫画が描いてきた少女像であり、「天人唐草」以降の山岸は、その悲劇性を指摘していたのだ。 女性に貞淑であることを求めること、つまりは性の抑圧というテーマは、山岸作品を貫く通底音となっている。 少女漫画のシンデレラストーリーは、女性の未成熟を前提としている。それと真っ向から向き合ったのが、山岸作品だった。 性を抑圧し、未成熟でいることの功罪。「天人唐草」以降、それが山岸作品のテーマとなった。
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街歩きと都市論から「たまたま出会うもの」について考える
2021-10-07 07:00550ptおはようございます。
今日はWebマガジン「遅いインターネット」の更新日です。
本日は空想地図作家として知られる今和泉隆行さんと、「設定考証」としてフィクション作品の架空都市設計に携わる白土晴一さんとの特別対談の再構成版をお届けします。
Googleマップから目的地への最短経路を「検索」することが当たり前となった現代、あえて都市に潜む偶然性に目を向けることでみえてくるものとは何か? 空想都市と現実の都市を渡り歩くお二人から、都市観察の極意を伺いました。
新雑誌『モノノメ』の都市論特集と、今回おすすめする記事と併せて、じっくりと読んでみてください。
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本日の記事が更新されるまで、こんな記事を(もういちど)読んでみませんか?
かつてパリを歩いたベンヤミンは、都市の街路(パサージュ)を人々の多様なつながりと創造性を育む場と考えました。その役目を引き継いだはずのインターネットは、過密なムラ社会と化しつつあると、三宅陽一郎さんは指摘します。街から人影が消えたいま、改めてインターネットを新しいパサージュとして再生させるには。そのヒントを探す、人工知能技術者の思索です。
リサーチャー・白土晴一さんによる連載「東京そぞろ歩き」。初回は南千住から町屋まで、隅田川周辺のまちを語り/歩きました。 観光地とはほど遠い街並みにも、江戸時代からつづく災害の痕跡や河川流通を利用した再開発、高度経済成長期の名残など、多彩な表情が隠れています。 20年以上続けてきた「そぞろ歩き」の習慣で磨かれた眼で、リバーサイドの景観のおもしろさを読み解きます。
「遅いインターネット」のLINEアカウントでは、これから更新する記事のお知らせを配信しています。
それでは、今日も良い一日をお過ごしください!
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物語の主人公になれない|高佐一慈
2021-10-06 07:00550pt
お笑いコンビ、ザ・ギースの高佐一慈さんが日常で出会うふとしたおかしみを書き留めていく連載「誰にでもできる簡単なエッセイ」。ドラマチックな人生に憧れながらも、自分のことを「主人公になれない」人間だと認識している高佐さんは、日常のちょっとした事件からどんなことを考えるのでしょうか。
高佐一慈 誰にでもできる簡単なエッセイ第22回 物語の主人公になれない
真っ暗な深海から、体がスーッと浮き上がってきたかのように、まぶたの中が徐々に光で満たされてきた。明るくなってくるにつれて、先ほどからうっすらと感じていた頬の痛みも、だんだんとはっきりとしてくる。 「……さん。……高佐さん。高佐さん!」 誰かに呼びかけられているようだ。 細い横線一本だった視界が上下に広がりを見せ、景色がぼんやりとした状態で目に飛び込んでくる。 僕は意識を取り戻した。 白い天井をバックに、お医者さんと看護師さんが、視界の左右からニュッと顔を出し、僕を覗き込んでいた。どうやら僕は硬いベッドの上で仰向けになっているようだ。お医者さんは、ペチペチペチ、ペチペチペチと、一定のリズムで僕の頬を叩いていた。 「先生、高佐さんの意識が戻りました!」 「よかった!」 二人の顔が安堵でほころぶ。僕はガバッと起き上がろうとするや、まだ身体が追いついていないようで、目眩を感じ、右手で頭を押さえた。 「あ、高佐さん、無理しないでください」 看護師さんが優しい口調で、僕をそっとベッドに寝かせる。
なぜこんなことになったのか、僕は思い出す。たしか……。
たしか、僕は渋谷の大通りを歩いていた。すぐ後ろで「あーん!」という声が聞こえたので、ふと声のする方に目をやると、転がるゴムボールを追っかけて、小っちゃい女の子が車道に飛び出していた。女の子はボールに夢中で周りが見えていない。そこへトラックが猛然と向かってきていた。 「危ないっ!」と声を出すより先に、僕はガードレールを飛び越え、女の子に向かって走り出した。女の子がボールをキャッチした瞬間、僕もその女の子ごとキャッチし、抱きかかえたまま、反対側の歩道へと逃げ込もうとしたところで、「パーーーーーーッ!!」と、けたたましい音が鳴り響いた。見ると、トラックがもう寸前のところまで迫っていた。大きくなっていくクラクションの音とともに、ヘッドライトの光が僕の視界いっぱいに広がり、そして……。 でもこうして今、意識がある。見たところ体も無事みたいだ。 そうだ、女の子はどうなったんだろう! 「先生、あの子は? あの女の子は無事ですか?」 「それが……」 先生が僕から視線を外す。
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【本日開催】竹下隆一郎さん出演!「市場から社会を変える」思想の限界と新展開について考える(リアル開催&生中継あります)
2021-10-05 07:00おはようございます、PLANETS編集部です。
今月から、(ほぼ)毎週火曜日の夜に開催中の「遅いインターネット会議」について、有楽町のコワーキングスペース・SAAIでのリアル開催が復活します。久々のリアルイベントです!
PLANETSチャンネルでは生中継もありますが、気になる方はぜひ会場へ遊びに来てください。お待ちしています。
10月5日(火)19:30〜「市場から社会を変える」思想の限界と新展開について考える
今回のゲストは、竹下隆一郎さんです。
ハフポスト日本版編集長を経て、今年、新メディア「PIVOT」の創業メンバーとなった竹下さん。
新著『SDGsがひらくビジネス新時代』は、SDGsを実践しようと試みる経営層から市民まで、多くの取材を積み重ねた一冊です。
本イベントではその取材に基づく考察をお聞きするとともに、グローバルな気候変動への対応が急務とされる現在における、SDGsとビジ -
季節の暮らしわけ|菊池昌枝
2021-10-04 07:00550pt
滋賀県のとある街で、推定築130年を超える町家に住む菊池昌枝さん。この連載ではひょんなことから町家に住むことになった菊池さんが、「古いもの」とともに生きる、一風変わった日々のくらしを綴ります。今回は季節とともにある古民家ならではの暮らし方についてです。気温や環境に都度最適化する「暮らしわけ」について、季節折々の写真とともにお届けします。
ひびのひのにっき第4回 季節の暮らしわけ
歳時記と暮らし
昔から「歳時記」「二十四節気」「七十二候」という季節や行事を表す言葉がある。伝統文化に触れた人は誰でも聞いたことがあるに違いない。殊に二十四節気と七十二候の2つは農林水産や日々の暮らしの季節の指標として使われていたものだという。たとえば七十二候には天候のみならず生物が捉える季節感がでてくる。渡り鳥のツバメや雁は日本に帰ってくる時と旅立つ時に登場する。ちょうどこれを書いている時期(9月中旬)は、七十二候では玄鳥去(つばめさる)にあたり、毎日姿と声を楽しんでいたご近所のツバメは、気づくと子育てを終えて南への旅立ちの準備と出発で巣はだいぶ前から空っぽである。最近はツバメの子育て開始が早まっていると聞く。旅立ちも早まっているのだろうか。また、品種改良で8月から稲刈りが始まっている。地域性や気候変動の影響もあるだろう。受け継がれてきた指標である伝統的な暦が日常生活の当たり前から離れつつあることに寂しさを感じる今日この頃だ。
▲夏、お隣のツバメが毎日我が家の様子を見にきているように見える。実際は庭の虫(エサ)とかをチェックしているのだろう。
▲夏の終わりかけの花壇は茫々
▲夏の収穫、庭の赤紫蘇ジュースとスイカ
▲8月下旬のみずかがみの刈り入れ(湖北小谷「お米の家倉」さんの田んぼ)
さて、築130年以上経つこの家では、季節の微妙な移り変わりを肌で感じられる。外気の温度、日差しの入り方、風の向き、雨や風の音、空の高さ、植物の成長、虫の種類と活動、家の建て付けの状態(木の特性上閉まりにくくなったり、ゆるくなったり)など。そんなことだから家のどこで日常生活を営むかは、夏は風通しで決まるし、冬は日当たりと隙間風で決まると言っていい。ちなみに春と秋はご自由にである。 ここに引っ越して約1年。風情のある家では仕事場を見せないようにと、押し入れをオフィスに作り変えてはみたものの、晩秋から春までは押し入れは非常に寒く、仕事にならないことを知った。押し入れの中にリーラーコンセントを2カ所と壁に1カ所電源をつけ、デスクも取り付けてもらったにもかかわらずだ。古民家には用途別の部屋は向かないということを思い知り本当に悔しい。
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