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「『慰安婦問題』は『性文化摩擦』でもある」小林よしのりライジング Vol.40
2013-06-04 23:00157pt橋下徹の「慰安婦」発言は、奇しくも安倍自民党の「内向きタカ派」「外向きへタレ派」の二枚舌の本性をあぶり出した。 日本外国人特派員協会の記者会見で、橋下は自分を守るための詭弁に終始し、もはや訪米も断られるほどの世界のつまはじきにされてしまった。 「 河野談話 」を修正か破棄し、「 慰安婦制度は、当時は必要だった 」と唱えたら、どんな目に合うか橋下徹が身をもって示し、安倍自民党はそれを傍観して震え上がったわけだ。 誰も国のために戦った祖父たちの名誉を守ろうとしない。 日本は「性奴隷」を使用したレイプ国家にされてしまっているのに、安倍政権は何のアクションも起こさない。 橋下徹と一線をひいて、「村山談話」「河野談話」を引き継ぐ歴代政権と何ら変わりがないことを、国際会議の場で必死で強調し、「戦後レジーム」の洞穴に引き籠って出て来なくなった。 国連の拷問禁止委員会は日本政府に対し、「橋下発言に明確に反論せよ」と勧告しているが、「右傾化」レッテルを恐れる安倍自民党が何の抗弁もしないようなら、米韓・国連の連携による慰安婦「性奴隷」運動は今後も益々勢いを増して、日本は謝罪外交に舞い戻っていくことになるだろう。 韓国ロビーと米議会・米国民の連携に反攻するには、まず事態を正しく認識することから始めねばならないのだが、残念ながら自称保守&ネトウヨの「内弁慶保守派」は、根本的に知性が欠けていて、この期に及んでも「 安倍ちゃんだけは批判できないから 」と、河野洋平批判、民主党批判で溜飲を下げてるのだから、まったく幼稚さが度を超している。 ライジング『ゴー宣』では、慰安婦問題をまだまだ徹底的に論じていくつもりである。 橋下発言で問題になった論点は、大きく分けて2つあった。 「 戦時中の慰安婦は、当時は必要だった 」と 「 沖縄の米兵は、もっと合法的な風俗を活用してほしい 」である。 前者については先週、徹底分析した。今週は後者について考える。 橋下は「風俗活用」発言については、早くも発言の3日後に「ここは僕の表現力不足、認識不足でした」と修正。外国人特派員協会の会見でも「米軍や米国民」に対して謝罪を表明し、発言を全面的に撤回した。 わしも、沖縄の米兵レイプ魔の犯罪を防ぐために風俗を利用しろというのは、不愉快な発言だと感じた。 だがそれは、米軍に失礼な発言だったからではない。沖縄に米軍基地が置かれていることを無条件に認め、そのこと自体に何の疑いも持たず、米兵の性欲のために、日本の風俗女性を活用してくれと言っていたからである。 これは、属国民の宗主国への媚びである! 橋下は米軍基地を日本の領土に置いておくことに対する、苦汁の感覚が希薄すぎるのだ。 沖縄県民が橋下発言に怒ったのは当然で、ウチナンチューの方が、ヤマトンチューより誇りを持っているということだ。 ところが橋下はこの発言に関して、「米軍や米国民」に対しては謝ったが、沖縄県民に対しては未だに一切謝罪していない。沖縄タイムスは「われわれを愚弄し、尊厳を傷つけた人間が公的立場に居続けることは、人権侵害を誘発・助長する可能性をも容認することにもつながる。断じて許してはならない」と怒りを顕わにしているが、橋下は気にする様子もない。 沖縄県民がどんなに怒ろうがどーとも思わないが、アメリカ人がちょっとでも気分を害したら即座に謝罪。そこまで卑屈な「内弁慶」が、橋下徹の本性だったのである。 橋下の「風俗活用」発言が沖縄に対する愚弄であったことは大前提である。だがそこに留まらず、さらに考えておかなければならないことがある。それは、橋下の発言が図らずも浮かび上がらせた、 日本人とアメリカ人の「 性意識 」の違いである。 橋下は友人のデーブ・スペクターからのアドバイスで「風俗活用」発言を修正、撤回と謝罪に至ったという。そしてそのアドバイスの内容については、週刊ポスト(6月7日号)でデーブが次のように明かしている。
「彼には『 日本語の“フーゾク”という表現は英語にはない。性風俗となるとセックス・インダストリーになり、かなり違法性の高いニュアンスになる。米国側にかなり悪く誤解されて伝わる 』と忠告しました。 日本のフーゾクにはノーパンしゃぶしゃぶとか覗き系とか、イメクラとかキャバクラとか幅広い種類があるが、 女の子が横についてお酌する水商売さえないアメリカでは、フーゾクはそのものズバリ『売春』と訳されてしまう。人身売買やヘロイン中毒など、ものすごく薄暗いイメージがある から、そんなのに行きなさいといわれても論外だと、橋下氏にはそう伝えました」
『開戦前夜 ゴーマニズム宣言RISING』の第3章『 思い邪なる者に災あれ~性意識のグローバル侵略 』で詳述したが、日本人には古代から性に関しては大らかな面がある。 それはポリネシア的な感覚を連綿と受け継いできた独自の文化である。 江戸時代には性のタブーはなかったとまで言われ、日本人にとって男女の営みは素朴な楽しみだった。 その文化が現代まで引き継がれているから、日本には「幅広い種類」の「フーゾク」が成立しているのである。 売春が違法化されているならば、「本番行為」はないけれども射精に至らせる、ピンサロとかヘルスとかいう「グレーゾーン」のフーゾクをつくってしまう。これも、素朴に性を楽しむ感覚のある日本人ならではの発想である。 世界的に見れば売春が合法の国か違法の国かのどちらかしかなく、売春を違法としておきながら、売春との境界線があいまいな「グレーゾーン」の「フーゾク」なんてものを成立させ、繁盛させている国は、日本ぐらいなのである。 橋下は「合法的な風俗」を活用してほしいと言っていたので、売春ではなく「グレーゾーン」の方を推奨していたのだろうが、これは米国人には決して理解のできない発言だった。 しかも 欧米のキリスト教文化においては、性行為は 「嫌悪と恐怖」 の対象なのだ。 これはもう日本文化の感覚とは180度逆である。 一般的に映画やポップカルチャーにおける欧米の性意識は、かなり解放されているように見えるかもしれない。映画では男女が貪るようにセックスに突入するシーンが描かれるし、マドンナもレディーガガも、グラマラスな肉体を誇示して、ダンサー相手にエロ過ぎるセックスアピールをする。 だがそれはメインカルチャーとしてのキリスト教文化に対する、カウンターカルチャーとしての表現であり、性行為に対する罪悪感は欧米人の意識の根底に浸透している。 キリスト教はセックスを嫌悪し、不法なものとして、人が性衝動を持つことに罪悪感を持たせたという点で、世界でも独特な宗教だ。 キリスト教において「性否定」を教義として明確化したのは4世紀頃の神学者、アウグスティヌスらである。 当時はローマ帝国が性的堕落による内部的な頽廃と、ゲルマン人の侵入による外敵圧力で衰退に向かっており、理性による自制によって、この局面を克服しようと神学者たちは考えた。 また、彼らはいずれもキリスト教に回心する前に性的な堕落を体験しており、自らの意識をも統合できるような「理性」を作り上げようとも考えた。 彼らは肉体と魂を分離させて考え、「肉体から解放された魂のことを考えよ」と説いて「肉体」を徹底して否定した。 肉体は神と統一された時には投げ捨てられるべき、汚れてボロボロになった衣服に過ぎないという考えである。 そして、人間はセックスにおいて最も肉体的であり、神から最も遠く離れているとされ、性欲を催させるものとして「女性の肉体」は特別の嫌悪感をもって見られるようになった。 こうして当時の神学者たちは、頭の中に作り上げた「 理性(観念) 」にこだわり、「 肉体・性 」を徹底して否定していく。 そして「 生殖のための性は神聖なるもの 」とする一方、「 肉体の快楽のためだけの性を否定する 」という分裂思考の観念ができ上がる。 しかし、いくら頭の中だけでそんな観念を作ったところで、それにこだわればこだわるほど現実の肉体・性とのギャップは大きくなる。 そしてそのギャップのつじつまを合わせるために、より強力な観念が必要となる。 こうして、次から次にと観念を強化し続けなければならないスパイラル状態に陥っていき、 ついにはアダムとエバの「原罪」の教義を確立し、性と罪とを合体させてしまい、罪である「情欲」とその根源である「女性」を徹底して否定するに至ったのだ。 世界には「男尊女卑」の宗教は多いが、それがセックスへの嫌悪感を原因としているのはキリスト教だけである。 日本は宗教に寛容と言われていながら、キリスト教の信者数は総人口の1%にも届かない100万人未満である。その理由は、実はこんなところにあるのかもしれない。
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