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「内閣人事局は独裁システムだ」小林よしのりライジング Vol.226
2017-06-06 23:10153pt
平成26年(2014)5月30日の 「内閣人事局設置」 について書いておく。
内閣人事局の設置により、各省庁に任されていた事務次官以下幹部職員、計600人の人事権が首相官邸に移された。首相の独断で官僚の上層部の人事を左右できるようにしてしまったのだ。
これは、日本の官僚システムを根底からひっくり返すものだった。
それまでは、官僚の出世競争や人事の決定は、実力主義と実績主義で極めてフェアに行われてきた。
ところが今後は、どんなに国民のことを考えて公正中立な仕事をする有能な官僚でも、時の首相に嫌われたら決して出世できないのだ。
官僚の倫理観は「国民のために」から「官邸のために」へと根本的大転換を遂げた。官僚たちは官邸の意向をビクビクうかがい、安倍晋三が喜ぶ仕事をすることに邁進するようになった。
その結果として起きたのが森友学園疑獄であり、加計学園疑獄なのである。
90年代中盤以降、住専破綻、薬害エイズ事件、大蔵省ノーパンしゃぶしゃぶ接待汚職、防衛庁調達本部巨額背任事件など、官僚による不祥事が相次ぎ、これに天下り問題も絡み、官僚バッシングの嵐が吹き荒れた。
官僚が日本政治を牛耳っているのが諸悪の根源だと主張したカレル・ヴァン・ウォルフレンの『人間を幸福にしない日本というシステム』は30万部のベストセラーになり、「官から民へ」の大合唱が起きた。
わしは当時からその風潮に疑問を感じていた。官僚さえ叩けば世の中がよくなるなんてわけがなく、これは単なる大衆の破壊衝動ではないかと、『ゴー宣』でも何度か懸念を表明した。
だがその後も、政治家が官僚の傀儡になってしまうとか、官僚が自分たちの省益を優先した政策を企画立案するとか、「縦割り」の弊害が起きるとかいった、官僚制度のデメリットは事あるごとに指摘された。
そしてこれらのデメリットを取り除くには、政治家主導で官僚をコントロールして、時の政権の優先課題を政府・官僚が一体となって進められるシステムを作るべきだという理念が唱えられ、それが「内閣人事局」の創設へとつながっていったのだ。
もっともこの理念は単なるタテマエで、ホンネは最初から、政治家が私利私欲で思いのままに官僚を動かせるような仕組みを作りたかっただけかもしれない。 なぜなら、現在の「内閣人事局」に直接つながる提言を行った懇談会を設置したのが、他ならぬ第一次安倍政権だったからだ。
第一次安倍内閣が倒れた後、内閣人事局構想は福田内閣、麻生内閣に引き継がれたが、自民党内部からも異論が出されて実現しないまま、民主党に政権交代して構想は一旦頓挫した。
ところが安倍晋三が政権に復帰すると、あれよあれよという間に内閣人事局は設置されてしまったのだった。
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「『ストレスエスケープ』の時代」小林よしのりライジング Vol.159
2015-12-15 20:50153pt
最近、週刊誌が安倍政権の批判を書くと、部数が落ちるらしい。
一時期、女性誌で安倍晋三批判が受けていて、安倍が女性に嫌われているからと、週刊文春も安倍政権批判に挑んだが、それも長続きしなかった。
安保法制を巡っても、説明不足だ、強引だ、立憲主義の危機だと騒いだはずなのに、成立してしまえば大して政権のダメージになることもなく、支持率もすぐに回復してしまった。
対抗する野党がいないからという理由ならば、「支持政党なし」が増大して政権支持率は上がらないはずだが、50%近い支持率があるのだ。「消去法」ということでもなく、ある程度積極的に安倍政権が支持されていると見るしかない。
しかし、なんで?
パンツ泥棒が大臣になって、さらに政治資金の問題がゾロゾロ出てきながら居直っていても、誰も怒らない。
もう3年も経ってアベノミクスの失敗は明らかになっているのに、それでも「新3本の矢」とか言い出しても、誰も怒らない。
もっと驚いたのは、年金の運用でハイリスクの株式の比率を高めたところ、たった3カ月で約8兆円もすったというとんでもない事態が起きてしまったのに、全然怒りの声が上がらないことだ。
みんな、年金を全くあてにしなくてもいいほど裕福なのだろうか? それとも、株価が回復すればすった分は取り返せるとでも思っているのだろうか? これはバクチなのだ。次に勝てばいいと言ってるうちにスッテンテンというのが大抵のパターンなのに、なぜ誰も危機感を感じないのだろうか?
あるいは、もうどうせ年金なんてもらえないんだからと諦めきっているのだろうか?
週刊誌の編集者に聞いたのだが、今は「批判」を載せたら売れないらしい。
テレビでも「批判」は嫌われるようで、TBSの「NEWS23」でアンカーの岸井成格が政権批判をするのがけしからんと、新聞に意見広告を出す連中までいる始末だ。
ジャーナリズムは権力を監視するのが仕事であり、ジャーナリストが政権批判をするのは当然のことなのに、それをするなというのだから、頭がおかしいとしか言いようがない。
そして、いま売れるのは「解説」だという。
池上彰のように、世の中こうなっていますよと説明するだけでいい。それ以上に、世の中こうなっているが、おかしいではないかとか、世の中こうであるべきではないかとか、そういう意見は聞きたくないのだ。
解説だけを聞いて、「世の中こうなっているのか、へーえ、おしまい」・・これで、何が面白いのだろうか!?
どうせ自分が世の中に対して怒ったって何も変わらないし、しんどいだけ。無駄に感情を波立たせることなんかしたくない。なるべく平穏に心地よく、ただ何が起きているのかを情報として仕入れたらそれでいい……そのような完全に無気力で怠惰な気分が蔓延しているらしい。
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「『アラブの春』に学ぶ若者デモの陥穽」小林よしのりライジング Vol.150
2015-10-06 18:05153pt安保法制成立前、シールズなどによる国会前デモを、多くのマスコミ・言論人が過剰に、無責任に称賛した。
中にはこれを「アラブの春」になぞらえた者までいた。例えば、ジャーナリストの田中龍作は、ツイッターで連日こんな煽動をしている。
昨日並みに10万人規模で20日間も国会前の占拠を続ければ、安倍政権は潰れる。タハリール広場を占拠し、ムバラク独裁政権を倒した市民革命(2011年)がそれを教える。(8月31日)
普通の人が20日間も休めるか? とのご指摘を頂いた。心配ご無用。入れ替わり立ち替わりで、国会前の占拠を続ければよいのだ。 エジプトの民はそれをやってのけた。「あれっ、今日ムハンマドさんは?」「ムハンマドだったら今日は仕事だよ」。こんな調子だった。夕方仕事が終わって来る人もいた(9月1日)
こんなことを言う連中は、そもそも「アラブの春」とはどういうもので、その結果、現在どうなっているのか知っているのだろうか?
「アラブの春」の発端は2010年12月17日、北アフリカ・チュニジアで失業中の26歳の青年が、路上で青果販売をして当局の取り締まりを受け、抗議の焼身自殺を遂げた事件だった。
…もう、この時点で日本のデモとは比較にもならない。日本で、政府への抗議のために焼身自殺するほど切羽詰まった青年が、一人でもいただろうか?
しかも、アラブにおける 「焼身自殺」 は、とてつもなく重い意味がある。
イスラム教では自殺が禁じられている。例外は聖戦(ジハード)と認識される自爆テロくらいである。
さらに、イスラムでは最後の審判の日に死者は甦ることが想定されており、甦るための身体を残すため、決して火葬をしない。まして自ら焼身するなど、考えられない。
焼身自殺はイスラムのタブーを二重に犯す、決してあってはならないことであり、その衝撃は大変なものだったのだ。
当時のチュニジアの経済は、成長率3.8%と決して悪くはなかったが、失業率は14%前後、特に若年層の失業率は25~30%程度と非常に高かった。
23年の長期にわたるベン・アリー独裁政権の腐敗に対する不満は高まり、しかも政権の後ろ盾と思われていたアメリカが、実はもう政権を見離していることをウィキリークスが暴露。国民が爆発する下地が出来上がっていたところに、焼身自殺事件は起きたのだった。
まず青年の親族が自殺現場跡の写真をフェイスブックに投稿、これを衛星放送アル・ジャジーラが取り上げ、情報は瞬く間に伝わり、政府への抗議デモが急速に全国へ広まった。
一方、政権では軍部や内部の寝返りなども重なり、青年の焼身からわずか1カ月足らずでベン・アリー大統領は国外逃亡し、政権は崩壊。これはチュニジアの国花にちなんで「ジャスミン革命」と呼ばれた。
盤石と思われていた長期独裁政権があえなく崩壊した「ジャスミン革命」の衝撃は、たちまちアラブ各国に広がり「アラブの春」といわれる未曾有の政治変動が巻き起こった。
エジプトでは「ジャスミン革命」のわずか1カ月後、大規模な反政府デモに圧される形で30年に及んだムバラク大統領の独裁政権が崩壊した。
リビアでは政権が反政府デモを弾圧、これに対してNATOが介入し、42年に及んだカダフィ独裁政権は崩壊、カダフィは殺害された。
イエメンでは政権と反体制勢力の対立が激化・長期化し、アラブ連盟の介入によりサレハ大統領が退任、33年に及んだ独裁政権に幕を下ろした。
シリアでは、政府軍と反政府派の武力衝突になる。だが、2代44年に及ぶアサド独裁政権は崩壊していない。
他にも「アラブの春」の影響は中東のほぼ全域に及んだが、上記の国以外は今のところ既存の政治体制そのものにまで大変革を及ぼすことはなく、沈静化している。
では、「アラブの春」で特に大きな変革を経験したチュニジア、エジプト、リビア、イエメン、シリアの5か国が現在どうなっているのかを見てみよう。 -
「成立した従米安保法案のペテンを教える」小林よしのりライジング Vol.149
2015-09-22 18:50153pt安保法案がついに成立してしまい、日本は集団的自衛権を行使できることとなった。
集団的自衛権を使う際の前提となる3つの条件の1つに、 「存立危機事態」 というのがある。
その定義は、以下のとおりである。
「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」
これ、平たく言えば、 「米軍が攻撃されたことによって、日本が存立危機になった時」 と書いてあるのだ。
つまり わが国が「存立危機事態」にある場合しか、集団的自衛権を行使できない ということであり、この条件は、集団的自衛権を無限定に行使させないための「歯止め」とされている。
ほとんど日本が滅亡の危機に瀕している状態と言うべき「存立危機事態」の時しか行使できないというのだから、一見、非常に厳しい縛りのように思えるのだが、実際には、これは全く無意味な条件なのである。
そもそも「集団的自衛権」とは「他国を防衛する権利」である。
「 自国が攻撃されていなくても、他国に対する攻撃を自国に対する攻撃と同じとみなして反撃する 」というのが「集団的自衛権」である。
ところがこの「存立危機事態」の定義は、「日本は攻撃されていないのに、アメリカが攻撃を受けたことで、滅亡の危機に瀕している事態」というものなのだ。
一体全体、何のこっちゃ!?
そんな奇妙奇天烈な状況って、ありうるのか!?
政府が説明する際に具体例として挙げたのは、日本海で米軍のイージス艦を北朝鮮が攻撃しようとした時に、自衛隊が守るというものだった。
だが、たとえ米軍のイージス艦が攻撃されたって、それで日本が滅亡の危機に瀕するなんてことがあるわけがなく、これが「存立危機事態」だなんて言えないのは明白である。
それでも米艦の防護をするというのは、要するに友軍だから絶対に守らなければならないというだけのことである。
実際には日本の存立危機に何も関係なくても米艦を守ることになっているわけで、「存立危機事態」なるものを設定することに、何の意味もないのである。
政府は集団的自衛権行使が「限定的容認」だと言い続けてきたが、「限定的」とするための「歯止め」として設定した「存立危機事態」という条件には全く実体がなく、 事実上は歯止めなしの無限定容認となっているのだ。
そうなっている以上、中東で米軍が襲撃されたら、日本の存立危機に何の関係もなくても、自衛隊を派遣しなければならなくなることは間違いない。
要するに、日米同盟の信頼性が揺らぐことが「存立危機事態」になっているのだ。
アメリカの信頼を失ったら、日本は滅亡してしまう、これこそが「存立危機事態」だということになってしまっているのである。
「存立危機事態」については、もう一つおかしな話がある。 -
「運動に嵌る若者のリスク」小林よしのりライジング Vol.148
2015-09-15 19:55153ptシールズの奥田愛基はわしに会ったとき、誰かに『脱正義論』についてレクチャーを受けてたらしく、「こんなデモなんか早く止めたい」と日常復帰を望む発言をしていた。
本当は対談なんて代物じゃなく、対談らしい文章にしてしまったのは同席したライターなのだ。
わしとの対談終了後、「しばき隊」の者から 「お前自身は今あんなクソウヨと対談させることをどう思ってんだよ」「お前にエラそうなこと抜かす資格はねーんだよ。運動周辺に近づくな!」 と罵倒され、ライターは 「セッティングは編集者とシールズが話し合って行われている。彼らにもやりたいことがあったんだろ。それをサポートしようと思った」「おれがセッティングしたわけじゃないのに?おれが司会やってなかったらもっと酷いことになってたのに?」「オレが断ったらもっと酷いことになるから受けたって書いてんだろ」「言っとくけど、オレが司会を頼まれたときはもうセッティングされてたし、オレが受けなかったらもっと酷いことになってたから」 と繰り返し言っている。
笑えるがライターの言う通りで、対談中もライターは奥田をフォローしてたし、結局、対談の体を為さない無駄なおしゃべりを、何とかまとめたのはライターである。
その日、奥田は30分くらい遅刻して来たのだが、謝罪の一言もなく、牛田とかいう仲間と小林よしのりと対談すべきか否かで朝まで議論していたらしい。
牛田はツイッターで 「明日、奥田と小林よしのりに会うが、対話するつもりはない。こちらからの、一方的なステートメントの提出と、それを飲むことの要求をする。ステートメントの内容とは、この社会をクソにすることに加担したことへの謝罪だ。無論、それで彼が許されるわけではなく、許すつもりもない。」 と言ってたのだが、『新戦争論』を読んで勝てる自信がなくなったらしく、当日になって 「朝まで、小林よしのり氏の本を読んで色々悩んだんですが、明日の小林氏の会合は対談という形でやることになっており、正直僕には対談できる自信がないので、逃げるみたいな形になりますが、明日はキャンセルしようと思います」 と、とツイッターで呟き、その日はとうとう現れなかった。
だがそもそも「しばき隊」は、ライターへの罵倒の中で 「お前自身は今あんなクソウヨとSEALDs対談させることをどう思ってんだよ」「俺ら前の晩説得して止めてたんだぞ?」 と言っている。牛田がドタキャンしたのは、本当は「しばき隊」の「説得」に屈したからなのだ。
これにライターが 「それで牛田くんは止めて、それでも奥田くんはやろと思ったんだろ?」 と返すと、「しばき隊」は 「止められなかった俺らの力不足だわな」 と答えている。
現れた奥田は、欠席した牛田のメールをわしに読ませて感想を求めるばかりで、対談なんてものではない。
そのメールには、 「ネトウヨを作ったのは小林よしのりだ、安倍政権を作ったのも小林だ。そんな社会と我々は戦っているのだ」 という主旨が主張され、その援護をライターがするという進行になっていた。 -
「徴兵制は『苦役』ではない!」小林よしのりライジング Vol.147
2015-09-08 18:00153pt朝日新聞(9月2日)のオピニオン特集「耕論」欄にわしのインタビュー記事が載った。
同欄のテーマは「誰かが兵士になる」。リードに書かれた趣旨は
「自衛隊の活動範囲が世界に広がる安保関連法案。安保を一線で担う自衛隊員の処遇や人材確保、そして政府が復活を否定する『徴兵制』について、様々な立場から論じてもらおう」
というもので、わしの他には元陸将・廣瀬誠、中京大学教授・大内裕和両氏の意見が載っている。
わしの記事は「国民の『自主防衛』が原則」という見出しで、「 徴兵制は苦役ではない、国防は崇高な職務である 」という「ど真ん中」の意見を述べている。
この意見については後で詳述するが、とにかくこれを朝日新聞が載せたのは凄いことだ。抗議がいっぱい来たのではないかと思うが、教養のある読者がいれば、むしろ賛成してくれるだろう。
のちに「AERA」の編集者に聞いたのだが、やはり反響が大きかったらしい。
朝日新聞の記者や読者には、もともとインテリが多い。確かにイデオロギーに凝り固まってしまった者もいるのだが、ポジショントークに堕さぬことさえ決意してくれれば、朝日新聞寄りのリベラル・インテリの方が期待できるかもしれない。
なにしろ読売・産経の自称保守には、もともとインテリがいない。無教養な上に「従米真理教」「安倍真理教」と化してしまっているのだから、全く期待のしようがないのだ。
ところで、同欄に載った元陸将・廣瀬誠氏の意見の中に、こんな発言があった。
「自衛隊が徴兵制を考えている」などと言われますが、現代戦の特徴から見て考えられません。総力戦の時代と異なり、兵器が近代化し、システムが高度化した今は、これらを使いこなせる訓練を積んだプロの兵士こそ必要です。 安倍首相や読売・産経系の従米保守が言う主張そのままで、この意見が朝日に載るのも異例だと思うが、とにかく様々な意見を聞くというのがこの欄の目的なのだろう。
以前なら、自衛隊の側が政府や自称保守論壇の主張に追従して言っているのかと思ったはずだが、どうやらそうでもないらしい。
何しろ、4月に安倍晋三が米国議会で安保法案を今夏までに成立させると約束するより以前、 昨年12月の時点で自衛隊の河野統幕長が訪米し、米軍・国防総省の幹部と会談し、夏までに安保法制は成立すると確約していたのだ。
つまりとっくに文民統制は崩れていて、自衛隊トップが米軍の希望通りに軍事を動かし、政府はそれに追従していただけなのだ。
戦前は軍部の暴走を政府が追認するしかなかったのだが、現在も自衛隊の暴走を政府が追認しているだけ、というより、戦前よりもっと酷い。自衛隊にも、政府にも、まったく主体性がなくて、両者ともに米軍に従属するだけになっているのだから。
自衛隊が暴走して米軍に従い、政府が喜んで自衛隊の暴走を追認するという、恐るべき属国状態になっているのである!
こんな状態なので、「兵器がハイテク化した現代戦で徴兵制はありえない」というよく聞く主張も、もしかしたら自衛隊が先に言い出し、政府や自称保守が追従しているのかもしれない。
しかし、本当に現代戦では「高度化したシステム」を使いこなせる専門職だけが必要で、今や第二次世界大戦のような、あるいはベトナム戦争のような、末端の歩兵などは必要ないのだろうか?
だとしたら、もう自衛官を広く募集・勧誘することに意味はない。
ハイテク兵器を使いこなせない、偏差値の低い者を集めたって意味がなく、人材を確保するには、優秀な人物をヘッドハンティングするしかないはずだ。
ところが、今でも防衛省・自衛隊は「自衛官募集ホームページ」を作って盛んに募集をかけている。しかもそのページのトップに「リクルート隊長」として出ているのは「壇蜜」だ! さらに地方では、「萌えキャラ」を使って広報しているところも数多い。
http://www.mod.go.jp/gsdf/jieikanbosyu/
現実に自衛隊は、壇蜜や萌えキャラに釣られて応募して来るような人材でも欲しがっているではないか!
では自衛官になるには、最低どの程度の学力が必要なのか?
本当にハイテク兵器を使いこなせる高学歴の者しか採用しないのか?
末端の自衛官である「 任期制隊員(自衛官候補生) 」の採用試験について調べてみた。 -
「中国の軍事パレードは有難かった」小林よしのりライジング号外
2015-09-07 14:50102ptゴーマニズム宣言 「中国の軍事パレードは有難かった」 中国が坑日戦勝記念日としている9月3日、中国共産党と軍、政府は「抗日戦争勝利70周年」の記念式典を開き、大規模な軍事パレードを行った。
他の戦勝国の多くは、日本が東京湾上の戦艦ミズーリで「降伏文書」に調印した9月2日を対日戦争勝利の記念日としているが、中国では国内で祝賀行事が行われた翌3日を記念日としているそうだ。
10年前の終戦60年の際も記念式典は行われたが、この日に記念行事を開催することが定例化されていたわけでもなく、 法律で9月3日が「抗日戦争勝利記念日」と定められたのは習近平体制になってから。この日に軍事パレードが行われたのは、今年が初めてである。
中国の軍拡・覇権主義路線に対しては、国際社会、特に欧米からの不信感が増大している最中である。G7の西側諸国の首脳がこの行事に出席しなかったのは、もはや中国の「反日プロパガンダ」が過剰で歪んでいるということを先進諸国が周知しているからであり、「軍事パレード」という覇権主義の誇示が野蛮だという認識も共有されているからである。
西側諸国のこの反応は習近平にとっては誤算だっただろう。
日本は「抗日」という言葉に過剰反応する必要はない。支那の兵法の伝統は「指桑罵槐」(しそうばかい)であって、「桑を指さして槐(えんじゅ)を罵る」だから、抗日と言いつつ、武器の陳列を見れば、対アメリカの核弾頭ミサイルが一番目立つ。
国内的には共産党政権が軍事を一手に握っていることを誇示し、統治を安定 させる目的がある。
その目論見はある程度は成功し、テレビでパレードを見た庶民の多くは自国が強国であると実感し、好意的に受け止めたらしい。
とはいえ、この日の北京を青空にするだけのために、周辺地域1万以上の工場が操業停止、車の量や建設工事まで激減させられ、北京周辺の経済状況は一時マヒ状態となった。
折しも中国経済は減速が懸念されている時でもあり、「こんなことにお金をかけている場合か」と冷ややかに受け止める市民もいて、反応には温度差があったという。
こんな軍事パレードの映像を朝から晩まで見せられれば、日本人は恐怖を感じるだろう。またしても中国脅威論が感情的に高まることは確実で、安保法制賛成の世論が増えてしまうかもしれない。
これでは、中国はまるで安倍総理を応援しているようだ。不思議なことに、安保法制成立の最大の応援団が中国という状態である。
アメリカでは、9月2日の対日戦勝記念日に合わせた声明でオバマ大統領が日米関係について「 かつての敵国が最も安定した同盟国となり、和解の力を表す手本だ 」と称賛し、暗に中国を牽制した。
こうなると、あたかも日米が手を組み、日本海を挟んで中国と対峙するという、「新冷戦」的な対立図式が出来上がったかのような感覚が生じる。そして、その緊張状態に恐怖して、日本はますますアメリカの属国化を加速させて行くのだ。
韓国の朴槿恵大統領は記念式典と軍事パレードに出席し、破格の厚遇を受けていたが、これは外交上、完全な失敗である。
今回の記念式典や軍事パレードには、中国の覇権主義を警戒して西側諸国の首脳が全く出席していない。中国はその点で明らかにメンツをつぶされている。そんな中で韓国だけが出席したのだから、そりゃ厚遇もするだろう。 -
「若者に媚びる大人」小林よしのりライジング Vol.146
2015-09-01 17:05153pt最近は安保法制に反対するSEALDsが若者の代表のように報道されているが、本当なのだろうか?
「ゴー宣道場」にも十代や二十代の若者が参加しているが、彼らは社会問題を考えたい若者であって、結論を出してデモに参加する若者とは違うような気がする。
昔、援助交際が流行っていたが、その時もわしは援助交際をやってない少女の方が圧倒的多数だと主張していた。いつの時代もマスコミに取り上げられるのは、少数派の若者の一時的な流行である。
わしは大人としてズルい部分があるから、安保法制反対の世論を作るために利用できるなら応援しておいてもいいやと思うのだが、薬害エイズ運動の時のように、マスコミに持ち上げられて勘違いする者もこれから出てくるかもしれない。
あのような集団の中には、共産党系の民青が入り込むし、すでに「アンチ・小林よしのり」のしばき隊が影響を与えているのも事実だ。
今の若者はもうわしの『脱正義論』という名著も知るまい。「純粋まっすぐ君」を利用する大人たちは相変わらずいるのだが、わしの警告が効く余地はもう残されていない。彼らは深く考えることなく、祭りを楽しんでいる。
ブログは見てる人が多すぎるから、本心は言えないが、ライジングでなら、わしの本心を吐露できると思い、一度書いておく。
安全保障関連法案に反対する若者たちがデモをやると、その都度朝日新聞やら東京新聞やらが写真を載せて持ち上げるのだが、掲げているプラカードが英語だらけなのには違和感を覚えるばかりだ。
「WAR IS OVER IF YOU WANT IT」 と書いてあるのは、ジョン・レノン&オノ・ヨーコの「Happy Xmas(War is over)」からとっているのだが、「望めば叶うよ、戦争は終わり、ハッピー・クリスマスをただ楽しめる」という歌だ。
昔は 「PEACE」 や 「NO WAR」 が多かった気がするが、今は 「WAR IS OVER」 が主流らしい。
「CHANGE THE PRIME MINISTER」 という文字があるが、これは意味が分からない。 首相は日本国民が選んでいるのに、「首相を変えろ」と英語でアピールして何になる? アメリカ人に、日本の首相を変えてくれと頼んでいるのか?
英語さえ使えばカッコいいと思っているのだから情けない。アメリカに追従するから戦争に巻き込まれるのに、アメリカの言語の方がカッコいいと思っているのだから世話ない。
8月19日の参院特別委員会で、山本太郎議員が非常に重要な質問をした。
リチャード・アーミテージ元米国務副長官とジョセフ・ナイ・ハーバード大学教授が2012年8月に作成した「第3次アーミテージ・ナイレポート」に書かれていた日本への提言と、安倍政権が進める安保法制などの政策が全く一緒だというのである。
以下に、その項目を列挙しておこう。 -
「天皇機関説事件の再来」小林よしのりライジング Vol.142
2015-08-04 17:15153pt憲法学者の圧倒的多数が、安倍政権が成立させようとする安保法制を「違憲」と判断している事実は、もはや動かしようがない。
安倍政権は「合憲」と主張する憲法学者も普通にいるはずだとたかをくくっていたのだろう。だからこそ、ろくに調べもせずに参考人に違憲論者の長谷部恭男教授を招致するという特大オウンゴールをやらかしたわけだし、それを取り繕おうとして菅官房長官は「合憲とする憲法学者もいっぱいいらっしゃる」と発言し、実際には3人の名前しか挙げることができないという醜態をさらして、さらに傷口を広げたわけである。
ここまで来てようやく、安倍政権やその支持者である自称保守派の言論人たちは憲法学者の「違憲」の見解は覆せないということを理解したようだ。そこで今度は、違憲論を唱える圧倒的多数の憲法学者の意見は、無視してもいいと主張し始めた。
例えば拓殖大学特任教授・森本敏は、「 憲法学者の意見が憲法に関する意見のすべてではない。政治家は現実を見て憲法解釈のギリギリを行っている 」と発言している。
要するに、憲法学者の意見は憲法の条文だけを見て言っているが、それでは現実に対処できない。そこは政治家が判断すると言うのだ。
こんなのが防衛大臣をやっていたことにも呆れるが、現実を見ていようがいまいが、 今回の安保法制は「憲法解釈のギリギリ」ではなく、明らかに「逸脱」である。
現憲法では現実に対応できないというのなら、改憲しなければならないのである。
そして、「ギリギリ」か「逸脱」かを判断するのが憲法学者の役割である。
立憲主義とは憲法が国家権力を縛るものであり、その時の権力者である与党政治家の判断で憲法がどうとでも解釈できるというのなら、もう憲法に意味はない。 こんなことは、立憲主義の基本中の基本である。
ところが安倍政権やその取り巻き連中はほとんど「立憲主義」という言葉すら知らないほどの低レベルで、今や自称保守の間では「安保法制を違憲とする憲法学者たちは現実知らずだ」という言説が大流行という有様である。 -
「『価値』が全く分からない人種の増殖」小林よしのりライジング Vol.140
2015-07-14 16:25153ptかつて右派の運動を手伝った。戦争体験のある爺さんがやってた運動だった。
悪い人じゃなかったが、広告塔として最大限にわしを利用した。
わしが来ると地元の新聞社に連れて行き、記事にしてもらい、地元の名士にわしを合わせ、わしの読者の若者を自分のつくる組織に入れた。わしは無償でその運動を手伝い、講演をしていたものだ。
その爺さんは自分の機関誌に勝手にわしの『ゴーマニズム宣言』を転載した。
タダで転載した。
コピー機で作ったボロっちい機関誌に、わしの『ゴーマニズム宣言』が丸々一本、汚い印刷で転載された。
スタッフがどんだけペンの線に神経を使って描いているか、シロウトだから全然わかってないのだ。
それを「国のためだから」タダで載せていい、より多くの人に読ませる絶好のモノだと、爺さんは考えたのだ。
運動家が主催するデモや集会に行けば、いろんな政治的ビラが配られる。
アジビラと言うが、美術性は全くない、単なる政治主張の押し付けのために制作されたビラだ。
『ゴーマニズム宣言』や、わしの書く文章を、作品と認めない奴がいる。
「国のため」「公のため」なら、タダで拡散すべしと考える爺さんがいる。
いや、爺さんだけではない。政治的主張をこれだけ上手くまとめたモノなら、タダで配ればすごい影響力を発揮するだろうと舌なめずりして、「タダで拡散しろ」とエラそうに言って来る消費者がいる。
消費者はどうしても権力者になる。
自分の脳を使い、自分の言葉で書く努力は一切しない。
お前の書いた作品をタダで配れ、公のためじゃないかと言い出す。
わしの書いたものを自分で咀嚼して、自分の言葉になおして書いて、拡散すればいいだけの話だが、そんな努力はしたくないらしい。
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