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記事 2件
  • 「あらゆる差別のない社会は左翼の目標」小林よしのりライジング号外

    2019-03-12 19:30  
    100pt
     今回は「差別なき社会」や「寛容の精神」や「多様性を認める」などの耳障りの良い言葉に疑念を呈しておく。
    「寛容」は保守思想の権威・オルテガが重要なリベラルの概念としたものだが、オルテガとて権威主義で捉えてはならない。
    「非寛容」も多様性の一つの価値として認めるのが「寛容の精神」ならば、価値相対主義に陥らざるを得ない。オウム真理教の「ポア」も多様性の一つとして「寛容」に認めるなんてことができるはずがない。
     そもそも宗教には原理主義的な側面があるので、移民が増える中で、「非寛容」も一つの価値として認めなければならないときだって来るだろう。
     3月2日、部落解放同盟の全国大会に、立憲民主党を代表して福山哲郎幹事長が出席し、挨拶をした。
     同党のブログにその挨拶の言葉が載っていたが、わしはそれをBLOGOSで読んで、疑問を持った。 福山は、こう言ったのだ。
    「われわれが作った党の綱領では、あらゆる差別に反対して断固として戦うことを誓い、一人ひとりがかけがえのない個人として尊重され、多様性を認めつつ互いに支え合い、全ての人に居場所のある、ともに支え合う社会の実現を目指すとうたっている」
     わしは立憲民主党の綱領を読んでいなかったのだが、綱領には 「私たちは、あらゆる差別に対して断固として闘います」 と明記されていた。
     あらゆる差別に対して断固として闘う…そんなことを大した思慮もなく、正義と信じ込んで言われると、わしは不快でならない。
      なぜならば、あらゆる差別に対して断固として戦った国こそ、スターリンのソ連であり、毛沢東の中国であり、ポル・ポトのカンボジアであり、その行き着く先は必ず大虐殺だったからだ!
     あらゆる差別をなくし、平等にしようとしたら、大虐殺をするしかなくなるというのは20世紀の貴重な教訓であり、特に政治家なら誰でも知っている常識だと思っていたのに、なんと野党第一党にその認識が全くないということに、わしは愕然としたのである。
     あらゆる差別をなくし、完全平等を実現しようというのはマルクス主義の思想である。
     完全平等が実現するのは完全なる社会主義が達成された世界だけであり、ソ連や中国、カンボジアはそれを目指したのだ。
     わしは『戦争論』で、漢字の「左翼」とカタカナの「サヨク」を区別した。
     漢字の「左翼」は、マルクス主義に影響され、社会主義国家を目指す者。
     カタカナの「サヨク」は、マルクス主義は信奉していないが、無意識に「人権」「平等」「自由」などの価値に引きずられる者である。
     あらゆる差別と闘うということを綱領に掲げている立憲民主党は、社会主義国家を目指すマルクス主義の政党と近似性が強い。
     枝野幸男代表は立憲民主党を保守だと言うが、これではとても「保守」とはいえず、それどころかカタカナサヨクですらなく、漢字で書く完全な「左翼」といわざるをえない。
     立憲民主党は、とっくに「社会党」になっていたのだろうか?
  • 「ギャグに差別はつきものである」小林よしのりライジング Vol.256

    2018-01-30 19:30  
    150pt
     大晦日恒例のダウンタウンの『絶対に笑ってはいけない』シリーズだが、昨年はダウンタウンの浜田が「エディ・マーフィーのコスプレ」として黒塗りメイクで登場したシーンと、ベッキーが不倫の「禊ぎ」としてタイキックを食らうシーンが問題ではないかと物議を醸し、番組自体はほとんど評判にならないまま、この話題だけが今も続いている。
     中島岳志(東京工業大教授)はこれらのギャグに批判的で、東京新聞の論壇時評(1月25日夕刊)で、こう書いている。
    〈「笑い」と「嗤い」は異なる。後者には「あざけり」や「蔑み」が含まれており、暴力性が内在する。差別的な「嗤い」には注意深くならなければならない。「笑い」と「嗤い」を混同してはならない。〉
     だが、「笑い」と「嗤い」を峻別することなど、できるのだろうか?
     そもそもわしは笑いというもの自体が、差別と一体なのではないかと思っている。
     お笑い芸人の中でも、わしが最も面白く「別格」だと思っているのは「アホの坂田」こと坂田利夫だ。
     だが冷静に言ってしまえば、坂田がやっている「アホ」の芝居は「精薄児」そのものなのだ。
    「精薄(精神薄弱)」という言葉も今では「知的障害」に言い換えなければならないらしいが、使い慣れた言葉を言い換えるのはどうも妙な感じがするので、このまま使わせてもらう。そもそも、わしにとっては「精薄」も言い換え語で、昔はみんな「知恵足らず」と言っていたのだ。
     アホの坂田は精薄児をモデルにしたギャグをやっているわけで、これは根本的に差別なのである。ところが、それがめっちゃオモロイ。ヤバイことに、これがわしには全てのお笑いの中で一番面白いのだ。
     多分、テレビではやれない表現なのだろう。大阪の「よしもと」の劇場では「アホの極致」と言えるコントをやっていた。
     だがこれは中島岳志の分類では「嗤い」の方になり、やってはいけないものになってしまう。
     似たような例はいくらでもある。
     志村けんの「ひとみばあさん」のギャグは、年取って手が震えたり、物忘れがひどくなったりして、まともに用事がこなせない様子をギャグにしているが、これは老人そのものや、認知症や中風(脳出血・脳梗塞による運動機能障害)などの病気に対する差別で笑いをとっていることになる。それに、「バカ殿」などモロに精薄児だし、「変なおじさん」も明らかに精神異常者ではないか。
     ではわしの『東大一直線』はどうだろう?
     主人公の東大通は、脳の左半球が完全にぶっ壊れていて論理的思考力は破滅状態だが、右半球の直感が並外れているというキャラクターだ。これは一種の天才であり、作曲家の大江光みたいなものである。
     一方、東大とコンビを組む多分田吾作は完全に精薄児である。
     東大通は単なるアホではなく、天才を秘めたアホであるのに対して、多分田吾作はとことん単なるアホを追及したキャラなのだ。
     こういうタイプの違う精薄児キャラを二人並べて爆走するギャグを描いていたわけで、これも差別かもしれない。

     
     また、『いろはにほう作』という作品は、多分田吾作のキャラを発展させて、とにかくただひたすらのアホ、究極のアホを描くことを意図した漫画だ。
     この作品、本当は『いろはに呆作』というタイトルで、主人公の名は「呆作」になるはずだった。ところが、連載スタート直前に編集部から「呆」の字を使ってはいけないとクレームがつき、結局「ほう作」になってしまった。
     34年前の出来事だが、「呆」の一字すら使えなかったことは、もうこの頃から「ギャグに差別を持ち込んではいけない」などという感覚があったという証と言えよう。

       じゃあ『おぼっちゃまくん』はどうか?