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「教師いじめのみじめなポリコレ」小林よしのりライジング Vol.334
2019-10-22 20:15150pt小学校の教師が、別の教師にいじめをやっていたというニュースを最初に聞いた時、わしは何のことやらわからんという感覚になった。
思いもよらない、あり得るはずがない幼稚な事件が起こっていたので、リアル感がなかったのだ。
いじめを止める側の立場である教師が、同僚教師にいじめをやっているなんて社会の劣化がまた一段階進んだと思うしかない。20年前に「学級崩壊」といわれた時は、崩壊していたのは子供の秩序だけだったが、ついには教師の秩序崩壊まで始まったのか!
その後、具体的な状況が報じられてきたが、いい歳した大人が、人を羽交い絞めにして食えないような激辛カレーを無理やり食わせたり、キムチ鍋の原液を大量に飲ませたり、相当に愚劣なことをやっている。
さらに加害教師たちがやったことを列挙していくと… 「髪の毛や衣服を接着剤まみれにする」「熱湯の入ったやかんを顔につける」「プロレス技で首を絞め上げる」「ビール瓶を口に突っ込み、飲ませた後に瓶で頭を叩く」「かばんに氷を入れる」「ダメージ加工のジーンズをビリビリに破く」「同僚教員にわいせつ文言を無理矢理送らせる」「『ボケ』『カス』『性病』『犬』、ポンコツを意味する『ポンチャン』等、暴言、侮辱の言葉の数々」「被害教師の車の上に乗る」「車内に飲み物をわざとこぼす」「車に大量の灰皿の水をまき散らす」「送らせた後、窓から下車したり、足でドアを閉める」「トマトジュースをかける」「携帯電話を隠す」「携帯電話にロックをかける」「お土産を催促して、買ってきたら捨てる」「仕事が終わってないのに、せかして悪口を言う」「指導案に落書きする」「ラーメン屋で、卓上にあった生姜の汁、酢を水に入れて飲ませる」「大量の菓子を口に詰め込む」「輪ゴムを顔に当てる」「背中を肘でグリグリと押す、足を踏みつける」「乳首をあざになるほどつねる、掃除機で吸う」「酒を強要し、拒否すると平手打ち」「印刷用紙が入った段ボール箱をいきなり頭に置く」「コピー用紙の芯で尻をミミズ腫れができるほど殴る」 …
加害行為は50種類にも及ぶという。よくこれだけ思いつくなと思ってしまうが、よっぽど楽しかったんだろう。
さらに加害教師たちは、児童に対しても被害教師の悪口を言ったり、いじめの様子を面白おかしく話したり、被害教員が受け持つ児童に対して、学級をめちゃめちゃにするようけしかけたりもしていたという。
しかも加害行為は他の教師数名にも及んでおり、中でも他の男女教師に性行為をするよう強要し、その証拠画像を被害教師に送らせていたと週刊文春が報じている。もう完全に犯罪行為である。
しかも、主犯格のいじめ教師が女性で、子分の男性教師3人にいじめをさせていたというのだから、もうわけのわからなさが度を超えている。妙なところで「女性の地位向上」が進んでいるが、かつての赤軍派の永田洋子みたいなものかもしれない。
被害教員は2年余りいじめを受けており、昨年には被害を当時の校長に訴えたが、主犯格の女教師がその校長のお気に入りだったために、もみ消されていたらしい。
被害教師は今年4月ごろから吐き気や睡眠障害、動悸などの症状が強く出るようになった。7月には現在の校長が事態の一部を把握して加害教員4人を指導したが、主犯女教師が現校長よりも権力の強い「女帝」と化している状態だったために効果はなく、被害教師は「くそやな」「ママによしよししてもらえ」などの暴言を浴びせられ、さらにいじめを受ける結果となった。
被害教師は8月には「2学期が始まれば、またやられる」と思い詰めて精神状態が悪化し、9月から仕事を休んで療養を余儀なくされ、それでようやく事態が表沙汰になったのである。
大人のイジメはもっと陰湿で巧妙にやるものかと思っていたが、その手法は子供と全く同じに幼稚で直接的で、激辛カレーを食わせてケタケタ笑っている様子などクソガキそのものだ。
加害男性教師は、「嫌がっているとは思わなかった」と言っているらしいが、これも子供の言い訳そのもので、これだけのことをして本当に相手が嫌がっていると思わなかったのなら、もう人間の基本的な情緒が欠落している。
加害教師4人は「謝罪文」を公表したが、これまた子供が叱られて渋々書いた反省文みたいな文面だった。
それどころか、主犯女教師に至っては 「本当にそれまでは、被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです」「彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです」 などと一切悪いことをしたとは思っていない様子で、読んで寒気を感じた。
こんなのには懲戒免職は当然で、さっさと立件して刑務所にぶち込むべきだ。
いじめは、いじめる側が100%悪いのは当然だ。「いじめられる側にも非がある」といった観念が蔓延しているから被害者はなかなか人に相談できず、中には本当にいじめられる自分の方が悪いと思い込んでしまい、自分だけを責めた挙句、自殺に至ってしまう場合すらある。
だから、いじめは加害者が100%悪いということは、常識にしなければならない。
だが同時にそういう判定が常識になったとしても、競争社会であり、優劣をつける社会である以上、いじめられる側の大人にも言っておくべきことはあるのではなかろうか?
大人であって、社会人である。子供と一緒に扱わなくともいいのではないか? -
「ギャグに差別はつきものである」小林よしのりライジング Vol.256
2018-01-30 19:30153pt大晦日恒例のダウンタウンの『絶対に笑ってはいけない』シリーズだが、昨年はダウンタウンの浜田が「エディ・マーフィーのコスプレ」として黒塗りメイクで登場したシーンと、ベッキーが不倫の「禊ぎ」としてタイキックを食らうシーンが問題ではないかと物議を醸し、番組自体はほとんど評判にならないまま、この話題だけが今も続いている。
中島岳志(東京工業大教授)はこれらのギャグに批判的で、東京新聞の論壇時評(1月25日夕刊)で、こう書いている。
〈「笑い」と「嗤い」は異なる。後者には「あざけり」や「蔑み」が含まれており、暴力性が内在する。差別的な「嗤い」には注意深くならなければならない。「笑い」と「嗤い」を混同してはならない。〉
だが、「笑い」と「嗤い」を峻別することなど、できるのだろうか?
そもそもわしは笑いというもの自体が、差別と一体なのではないかと思っている。
お笑い芸人の中でも、わしが最も面白く「別格」だと思っているのは「アホの坂田」こと坂田利夫だ。
だが冷静に言ってしまえば、坂田がやっている「アホ」の芝居は「精薄児」そのものなのだ。
「精薄(精神薄弱)」という言葉も今では「知的障害」に言い換えなければならないらしいが、使い慣れた言葉を言い換えるのはどうも妙な感じがするので、このまま使わせてもらう。そもそも、わしにとっては「精薄」も言い換え語で、昔はみんな「知恵足らず」と言っていたのだ。
アホの坂田は精薄児をモデルにしたギャグをやっているわけで、これは根本的に差別なのである。ところが、それがめっちゃオモロイ。ヤバイことに、これがわしには全てのお笑いの中で一番面白いのだ。
多分、テレビではやれない表現なのだろう。大阪の「よしもと」の劇場では「アホの極致」と言えるコントをやっていた。
だがこれは中島岳志の分類では「嗤い」の方になり、やってはいけないものになってしまう。
似たような例はいくらでもある。
志村けんの「ひとみばあさん」のギャグは、年取って手が震えたり、物忘れがひどくなったりして、まともに用事がこなせない様子をギャグにしているが、これは老人そのものや、認知症や中風(脳出血・脳梗塞による運動機能障害)などの病気に対する差別で笑いをとっていることになる。それに、「バカ殿」などモロに精薄児だし、「変なおじさん」も明らかに精神異常者ではないか。
ではわしの『東大一直線』はどうだろう?
主人公の東大通は、脳の左半球が完全にぶっ壊れていて論理的思考力は破滅状態だが、右半球の直感が並外れているというキャラクターだ。これは一種の天才であり、作曲家の大江光みたいなものである。
一方、東大とコンビを組む多分田吾作は完全に精薄児である。
東大通は単なるアホではなく、天才を秘めたアホであるのに対して、多分田吾作はとことん単なるアホを追及したキャラなのだ。
こういうタイプの違う精薄児キャラを二人並べて爆走するギャグを描いていたわけで、これも差別かもしれない。
また、『いろはにほう作』という作品は、多分田吾作のキャラを発展させて、とにかくただひたすらのアホ、究極のアホを描くことを意図した漫画だ。
この作品、本当は『いろはに呆作』というタイトルで、主人公の名は「呆作」になるはずだった。ところが、連載スタート直前に編集部から「呆」の字を使ってはいけないとクレームがつき、結局「ほう作」になってしまった。
34年前の出来事だが、「呆」の一字すら使えなかったことは、もうこの頃から「ギャグに差別を持ち込んではいけない」などという感覚があったという証と言えよう。
じゃあ『おぼっちゃまくん』はどうか? -
「岩手中2自殺事件、最大の責任者は誰なのか?」小林よしのりライジング号外
2015-07-21 12:45102ptゴーマニズム宣言 「岩手中2自殺事件は凶悪犯罪である」 岩手県矢巾町の中学2年男子、村松亮君がいじめを苦に列車に飛び込み自殺するという事件が起き、学校の対応などを巡って論議となった。
またしても起きてしまった、中学生の子供が犠牲となる痛ましい事件であり、これ以上このような事件を続発させないためには、事件を未然に防げなかった最大の責任者を、特定する必要があると思う。
今回の場合それが誰かといえば、やはり巷で囁かれている通り、亮君の担任である30代の女性教師を特定せざるを得ない。
既に多く報道されているが、亮君からあれだけはっきりしたSOSのサインが出されていたのに見過ごしていたのだから、あまりにも鈍感すぎたと言うしかない。
子供の最も身近にいる存在は親なのだから、いかなる場合でも、いじめ自殺を防ぐ責任は第一には親にあるという意見もあるが、今回の事件では、どうしても教師の感受性の鈍さが目立ち過ぎる。
今回は亮君の人並み外れた優しさに、父親から教師まで、甘え過ぎていたゆえに起こった悲劇である。
亮君が小学3年の時に、両親は離婚している。父親から暴力をふるわれた母親が、亮君と2人の妹を連れて東京に逃げたのである。父親がDVならすでに責任の一端は担っていることになるから、単なる被害者ではない。
しかし亮君は「おじいちゃん、おばあちゃんやパパが心配だから帰りたい」と言い出し、両親が相談した上で、1人だけ岩手に帰った。
だが、それでも亮君は父親との折り合いが悪かったようで、小5の冬休みに母親に「ママ、助けて」と電話をかけ、一旦は母親が東京に連れ戻している。
ところが、そんな状況でありながら亮君は自ら「ママには妹たちがいる。でもパパにはオレしかいない」と言い、4日後には岩手に帰って行った。
亮君は自分がどんな思いをしようと、それよりも父親のことを優先させて考える子だったのだ。たとえその父親が母親に暴力をふるい、自分にもつらく当たるような人物であったとしても。
岩手で同居していた祖父は「亮は同年代の子と比べるとちょっと幼い。純粋すぎるけど優しい子だった」と語っている。
世の中には、とてつもなく優しい心を持った子供がいるということを認めるべきで、わしの『おぼっちゃまくん』を読ませてあげれば、少しは人間の邪気も吹き込めたかもしれない。
亮君は、自分は父親の寂しさを癒そうとして帰ったのに、自分のために迷惑をかけたりしたら、意味がなくなってしまうという気持ちをずっと持っていた。
だからこそ、どんなにいじめを受けていても、父親にだけは決してそれは言えなかったのである。
ただし一度だけ、亮君はバスケ部の同級生Aにいじめられていると父親に言ったことがあり、父親は学校に相談して対策を求めている。
このとき学校は、バスケ部の顧問と担任、そして亮君と同級生Aで話し合いを行い、問題は「解決」したという。
だがはっきり言って、この時の学校の対応は決定的に間違っている。
学校は加害者と被害者を同等に扱い、両者の話し合いで「解決」したと思い込んだのだ。だが、凶悪犯と被害者を同じ席で話し合わせたって、問題の解決になど絶対になるわけがないのである。凶悪犯はその場しのぎで、どうとでも嘘をつくのだから。
ここで亮君を優しすぎる少年とし、加害者を凶悪犯と見做すのは、単純な善悪二元論で、印象操作だと言う者もいるだろう。誰の心にでも善意の部分が宿り、悪意の部分も宿っているのは当然だが、そんな相対化は問題の解決に何も寄与しない。
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