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「学級民主主義をやめて合体ロボ主義へ」小林よしのりライジング Vol.346
2020-02-18 19:50150pt『ゴー宣』のファンだという人や、単行本も全部買い揃えているという人が、必ずしも本当にその内容を理解しているとは限らない。
理解できないままファンになっている人は、何かのきっかけでアンチに転じる危険性が高いから、要注意である。
最近「ゴー宣道場」の門下生を辞めていったり、そこからアンチになったりした者が、 「ゴー宣道場は民主主義じゃない」 とか言って非難していると噂に聞く。
これなどは『ゴー宣』の思想の初歩の初歩すら分かっていないアンポンタレである。
そんなことは当たり前じゃないか! 『ゴー宣』はずっと以前から「学級民主主義」という言葉を使って日本の民主主義、特に戦後民主主義といわれるものを批判しているじゃないか!
それなのに、なぜ今さらそんなことを言い出すのかといえば、やっぱり読んでも理解できない者がいるということだ。
『ゴー宣』の本当の読者なら、「学級民主主義」というものの意味は理解していなければおかしい。
わしは『民主主義という病い』の冒頭で、 「学校のクラスで教わる理想と善悪だけの学級民主主義と、国家レベルの権力と欲望を調整する民主主義は違う。世界各国の民主主義の形式も違うしな」 と述べている。
最初にわしが『ゴー宣』に「学級民主主義」という言葉を登場させたのは、『新ゴーマニズム宣言』第2章 「学級民主主義を捨ててプロになれ!」 (初出・SAPIO 1995年10月11日号)である。
それまで『ゴー宣』を連載していた「週刊SPA!」の当時の編集長が、命がけでオウム真理教と戦っているわしの原稿と、面白半分でオウムの擁護をする執筆者の原稿を「平等」に扱い続けたために、わしはついに堪忍袋の緒が切れて、SPA!の連載を打ち切ってSAPIOに移籍した。
そうしたら、若い編集者やモノ書きの間で 「結局小林よしのりって異論を許さないんだよな」とか「民主的じゃないんだよ」 といった反発が広がった。
しかし、「誰のどんな意見でも平等に扱う」なんてことは、クラスのホームルームの民主主義でしか通用しない。
プロの世界なら、優れた意見と劣った意見の価値判断の差がつけられて、そこに「不平等」な扱いが行われるのは全く当たり前の話である!
たったそれだけのこともわからずに、嘘でも駄文でも愚論でも平等に扱えと言い出す幼稚で甘ったれた連中が多すぎるものだから、わしはそれを称して「学級民主主義」と言ったのだ。 だから、門下生といえどもわしが全てを「平等」に扱うことなどない。
あれから25年も経つのに、これくらいのことが『ゴー宣』読者だという人にも伝わっていないのだから情けない。
そして「学級民主主義」には、もうひとつの意味がある。
それは 表面上の主権者が、本当は主権を持っていない ということである。
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