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記事 2件
  • 「無知に媚びる民主主義という病い」小林よしのりライジング Vol.254

    2018-01-16 16:50  
    153pt
     民主主義が人類の歴史上に初めて登場したのは、古代ギリシアの都市国家(ポリス)においてだった。
     市民たちは「民会」に参加して、公的な問題の対処を自ら決定した。
      ただし、「市民」とは「戦士」のことである。
      兵役に就く者だけが議論に参加する事ができ、周辺の他国と戦うか否かといった問題を直接民主政で決めていたのだ。
      命を懸けて共同体を守る覚悟を持っている者だけが、民主主義を行使できる。
     女・子供・奴隷などは「市民」とは認められていなかった。自らの所属する共同体・国を守る覚悟がなく、いざとなったら逃げるという者は「奴隷」の身分に置かれ、議論の場から排除されるのは当然のことである。
     これが、民主主義の起源における原則なのである。
      近代国家の始まりであるフランス革命でも、徴兵制によって国民をつくったのである。
     ウーマンラッシュアワーの村本は、 「侵略されても戦わない。山の中でもドブの中でも逃げまわる」 と公言した。
     つまり村本は正真正銘の奴隷であり、そもそも議論に加わる資格など持っていないのだ。
     そんな人物を、国のことについて議論しようという「朝まで生テレビ」の議論に参加させたこと自体がおかしいのである。
     古代ギリシアと現代日本では違うんじゃないかとか言い出す者がいそうだが、本質的には変わらない。
      国民でつくり、国民で守る国家であり、その経営は民主制でなされるのだから、国家を守る覚悟のある者と、全然その覚悟のない者が、同じテーブルに就いて議論していいはずがないのだ。
     侵略されても戦わない、ただ逃げる、国を占領され、自由を奪われて、奴隷になってもいいという者が天下国家を語ってはならない。
     国家の存続に責任を持たない感覚は、憲法9条護持や極左の連中も同じである。
     国外から侵略されても、国内から独裁制が生まれても、圧政が敷かれたら人々の自由は奪われる。そんな時、自由を守るために命を懸けて戦う覚悟のない者は、あっさりその境遇を受け容れ、自ら奴隷になるだけなのだ。
      チベットやウイグルを見ればいい。ほとんどの民は圧政を受け入れる。ごく少数の者がテロも辞さずの「自由と独立の戦い」を続行しているのだ。
     しょせん奴隷志願者が「安倍政権は独裁だ、自由を守れ!」なんて非難の声を上げてもパワーにならない。覚悟のない者は議論に参加する資格はないのである!
     それでも「言論の自由はある」とか言い出す者もいるかもしれないが、国家を守れずに「言論の自由」は守れないのだから、幼児並みの駄々っ子な主張は「公論」にはならない。一人で呟いておけばいい。
     最低限の資格もクリアしていない、レベルが低すぎる人物を朝生に出すこと自体がおかしいのだ。そんな奴隷を出して、井上達夫ほどの学者にその相手をさせるなんてことは失礼である。
     このような民主主義の原則は、 『民主主義という病い』 に詳述している。これを読んでいれば、村本を朝生に出すなんてありえないことだと、すぐわかるはずである。
     
  • 「民主主義批判は実はタブーである」小林よしのりライジング Vol.181

    2016-06-21 20:35  
    153pt
     結局は、愚かな民が愚かな政治家を担いでいただけ、民主主義がいかに愚劣なものかということをいやというほど見せつけたのが、「舛添都知事への集団リンチ、舛添おろし」である。
     わしが描いた『民主主義という病い』(幻冬舎)が発売された直後に、本の内容とリンクする現実が、勃発してしまったのだから面白い。
      民衆は自分たちが主権者だと思っているから、「なめていい権力者」だと思ったら情け容赦ない。
     舛添の公私混同の無駄づかいが、民衆の家計の範囲で分かるセコイ金額だったから、「これなら糾弾できる」と自信を持ってしまったのだ。まったくどうしようもない矮小な民衆だ。
     朝日新聞が「メディアタイムズ」という記事で報告しているが、舛添バッシングは各テレビ局でも異例の高視聴率を記録したらしい。辞任を決意するまで日に日に数字が上がったらしく、関東以外の系列局でも視聴率が上がり、まさにキラーコンテンツだったそうだ。
      視聴率はスポンサーがCMを出稿する際の目安になり、CM契約料に直結するから、他局が流しているとやめられなくなるという。
      マスコミが火をつけ、民衆が熱望し、マスコミが民衆の期待に応え、さらに民衆が熱狂して、ポピュリズムの政治家も民衆に抗えず、暴走は止まらない、これが『民主主義という病い』である。
     舛添要一は一時期、世論調査で「首相にしたい政治家」第1位だった。
     2年前の都知事選で候補者選びに難航した自民・公明は、その人気を当て込んで、これなら勝てそうだということで推薦したのだ。
     そもそも舛添は参議院議員時代、自民党が野党に転落して最も苦しかった時期に「自民党の歴史的使命は終わった」と捨て台詞を吐いて離党した人間であり、その際、 自民党は舛添を「 除名処分 」にしている。
     政党の除名処分とは、一般企業でいえば「懲戒解雇」に当たる。それを再び迎え入れて担ぐというのは非常識としか言いようがなく、自民党内には「舛添だけは推すわけにはいかない」と反発する声があった。
      それでも舛添をゴリ押しして、人気があるからと便乗しておいて、今度は参院選に都合が悪いからとポイ捨てだ。こんな卑怯な政党があるだろうか?
     もっとも舛添だって都合が悪いからと自民党をポイ捨てし、風向きが変わったらヌケヌケと組んだ人間だったのだから、どっちもどっちだが。
     しかも舛添は、認知症になった母親を死ぬまで介護したということで好感度を上げ、それで参議院議員に当選して厚生労働大臣にまでなったのに、実は母の介護など 全然しておらず 、たまにやってきては車椅子を押す様子を写真に撮らせて帰っていただけだと親族に暴露されているし、他にも元妻・片山さつきへの DV だの、重度の障害を抱えた婚外子の養育費の減額を要求しただの、デタラメな話が枚挙に暇がない人間ではある。
     舛添がろくでもない奴であることはわかっていたが、お金の収支で言うのなら、やっぱり『レ・ミゼラブル』のエピソードに倣ってコソ泥には銀の食器を与えよ、という方が合理的である。
     ああいうプライドだけ高い小悪党は、容赦してやれば反省して死にもの狂いで働くものだ。実際、舛添は給与を全額返上するから働かせてくれと哀願していたではないか。
      舛添がちょろまかした金額など、これから都知事選で費やされることになる50億円に比べれば、微々たるものだ。
     猪瀬直樹の辞任で行われた選挙からたった2年半。その前の石原慎太郎も任期途中で、政治生活の最後に国政に復帰したいという全く私的な理由で都知事職を投げ出しているから、 この4年間で3度目の無駄な都知事選だ。費用はトータル140億円。巨額の損失じゃないか。
     そもそも、舛添を叩きまくった民衆は、石原慎太郎にはなぜ何も言わなかったのか?
     石原が都知事時代にやらかした公私混同の贅沢三昧など、舛添がやったこととは比べ物にならない。