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  • 「“日本人”かどうか?リトマス紙としての『大東亜論』」小林よしのりライジング Vol.158

    2015-12-08 22:20  
    153pt
    『大東亜論』第二部「愛国志士、決起ス」が明日・12月9日に発売される。
     日本人は明治以降、急激に西洋化を推し進め、近代主義・合理主義を受け入れることで、ずいぶん精神性を変化させた。 日本人ならではの道徳や信仰など、魂(エートス)の部分が薄まってきた。
      エートスというのはアリストテレス倫理学では、人間が行為の反復によって獲得する持続的な性格・習性のことだと分析される。ある社会的集団・民族を支配する倫理的な心的態度のことである。
     武士のエートスは、「恩義に厚い」「自己犠牲の精神がある」「潔い」「恥を知る」「惻隠の情がある」など、封建的な忠義の精神から出来上がってきた。
     だが、明治維新以来の近代化は、当然、武士のエートスを揺るがせずにおれない。
     現代の日本人は大東亜戦争の敗戦後、GHQの占領統治によって、さらなる洗脳を受けているので、もはやエートスなき日本人に頽落したかもしない。
     そんな中で、果たして『大東亜論』がどう読まれるか?興味深い実験である。
    「愛国志士、決起ス」で描いているのは明治初期に起きた佐賀の乱、萩の乱から西南戦争に至る、いわゆる「不平士族の反乱」である。
     だが、そもそもこの一連の内戦を「不平士族の反乱」と称するところに一番の問題がある。その名称で呼んだ時点で、もう「日本人ではない=日本人のエートスを持っていない」と認定してもおかしくないくらいだ。
      当時の士族たちは、西洋文明にすり寄る政府を打倒しようとしたのであり、その点においてはイスラム原理主義者と共通する部分がある。
      これを単なる「反乱」としか理解しないのは、要するに「西洋文明こそが正しい」という価値観に染まりきっており、西洋文明に異を唱える者は「反文明」の単なる不平分子だという評価しかできなくなっているということだ。
     つまり、既に日本人の価値観を喪失しているのである。
     明治初期の動乱を「不平士族の反乱」の一言で片づけ、その意義を考えてこなかった戦後日本人は堕落しきっていたのだ。
     だからこそ9.11テロが起きた時も、フランスでテロが起きた時も、途端に準白人化して「テロとの戦い」を叫び出す自称保守が続出するのである。一体、これのどこが「保守」だというのだろうか?
     本当に日本人の感覚を持っているのなら、あんなに簡単に西洋人の方に同化できるわけがない。やはり、日本人のエートスが希薄になっているのである。
    「愛国志士、決起ス」に登場する者たちは、いずれも負けることを覚悟で蜂起し、次々に死んでいく。
     主人公たる頭山満以下、後に玄洋社を興す面々も、たまたま蜂起の前に手入れを食らって獄につながれていたから生き残っただけで、そうでなければ全員萩の乱か福岡の変に参戦し、死んでいただろう。
      命を懸けて、抵抗せざるを得ない者たちがいた。
      西洋文明に対して、負けることがわかっていても戦わざるを得ないという「誇り」を持つ者たちがいた。
     その気持ちがわかるかどうかが、日本人としてのアイデンティティを持っているかどうかを判断するリトマス紙となるのだ。
      決起した志士たちには、時の藩閥政府はまるで西洋に洗脳されてしまっているかのように見えたであろう。
     単に断髪し、洋装して、西洋文明を受け入れているからということだけではない。