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記事 9件
  • 「抗議・恫喝・脅迫が表現の自由を委縮させる」小林よしのりライジング Vol.327

    2019-08-27 20:05  
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     慰安婦少女像は政治的プロパガンダのための木偶(でく)人形である。韓国の恥の象徴である。
     韓国内にも慰安婦少女像に恥を感じる人たちはかつていたらしい。そりゃそうだろう。慰安所を利用していた老人がいたはずだから。
     世界中に国家の恥の象徴をバラまく今の韓国人の感性は「反日」イデオロギーのせいで、相当に劣化している。
     本来なら日本や世界中であの少女像を展示するということは、韓国の恥を展示することであり、自国に対するヘイトスピーチに近いので、わしとしては腹も立たない。自国民をヘイトするヘンタイ国民だなと思って、嗤ってしまう。
     恥のイコン・慰安婦少女像を日本で展示してやろうという相当意地悪なことを企んだ津田大介という男は天罰が下っても止むをえない馬鹿である。
     呉智英氏によれば、慰安婦少女像はぜんぜん「表現の不自由」じゃなくて、日本大使館前でも、韓国中でも、アメリカでも展示されているのだから、「表現の自由」を謳歌している、それをわざわざ展示して、炎上を誘って「表現の不自由」をねつ造してしまったのだから、津田大介という人間は「当たり屋」みたいなものだと言っている。これはなかなか凄い見方だ。
     その恥のイコンを「芸術」とまで勘違いする輩が現れているようだから、あの木偶人形に対する「批判」や「嘲笑」や「侮蔑」は構わないのである。いくらでも罵ればいい。慰安婦像が「神聖不可侵」にならないように、批判と侮蔑をしておけばいいのだ。
      ただし、抗議・恫喝・脅迫はダメなのだ!
     日本ではできる限り広い範囲で「表現の自由」を担保しておかねばならない。
    「表現の自由」の範囲が広ければ広いほど、その国は民主主義が発達していて、中国や韓国や北朝鮮などは、「表現の自由」が狭い分、民主主義が未発達であり、独裁制が幅を利かせているということなのだ。
     愛知県で3年に1度開かれている国内最大規模の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が、開催3日で展示中止に追い込まれた。
     同展は4年前に東京で行われた、各地の美術館で展示できなくなった作品などを並べる「表現の不自由展」を見たトリエンナーレ芸術監督の津田大介が、当時の実行メンバーに「その後」展をやってほしいと打診して実行されたものだった。
     先の「表現の不自由展」では在特会が拡声器を持って「ぶっ殺してやるから出てこい」と罵倒、なんと来場者の姿を勝手に撮影してネットに上げるなどの嫌がらせをしたため、会期中は総勢80人のボランティアが警備に当たり、来場者が無断撮影されないようシーツで出入り口を隠すなどの対応に追われたという。
     そんなことから、実行メンバーは「その後」展の実行委を引き受ける際には「相当の覚悟と準備が必要」と考え、津田にも不当な暴力に屈しないよう釘を刺していた。そして津田も、圧力に屈しないよう「僕も一緒に闘う」と言っていた。
     ところが開幕してみると案の定、慰安婦少女像の展示や、昭和天皇の肖像を燃やす映像展示に対する抗議が殺到した。
     その抗議のやり方は尋常なものではなかった。 トリエンナーレ事務局は大量の抗議電話によって事務所機能が完全に失われ、トリエンナーレとは無関係の組織にまで大量の抗議電話が押し寄せた。
     中には 「お前の母親の写真を燃やしてやるぞ」「実名をネットでさらす」 といった、抗議というより恫喝というべき電話も多く、連日未明まで続いた対策会議では、「このままでは自殺者も出かねない」という報告も出されたという。
     2日目早朝には 「ガソリン缶を持って行く」 と、京アニの事件を思わせる脅迫ファックスが届き、その翌日には、このままでは円滑で安全な運営ができないとの判断から、トリエンナーレ実行委員会会長の大村秀章愛知県知事が「表現の不自由展・その後」の展示中止を発表した。
     同展の実行委は、「一緒に闘う」と言っていたはずの津田が3日で折れ、何の相談も説明もなく中止が決められてしまったことに相当憤慨している
     十分予想のついていたリスクに対して全然対応できなかったことに対して、津田は 「準備不足だったことは認めます。ただ、どのような準備をすれば可能だったのか…」 と泣きごとを言っていた。
     この件ではトリエンナーレ実行委委員会会長代行の河村たかし名古屋市長が会場を視察し、 「日本国民の心を踏みにじる行為」 だとして大村知事に展示中止を求める抗議文を出していたことから、権力による「検閲」だとの声もあったが、大村知事や津田は「検閲」を否定している。
     まあ、「検閲」よりも、津田が説明しているとおり、 過剰な抗議と恫喝・脅迫によって運営が機能不全となり、死者が出かねないと判断したものだろうと思う。
     最初の脅迫ファックスの犯人は逮捕されたが、展示の中止後も愛知県の関連施設には 「県庁職員らを射殺する」「県内の小中学校、高校、保育園、幼稚園にガソリンを散布して着火する」 といった脅迫メールが770通以上届き、その脅迫犯はまだ捕まっていない。
      このような抗議・恫喝・脅迫が、表現の幅を確実に狭めてしまうのだ。
  • 「中高年ひきこもりは親の責任」小林よしのりライジング Vol.318

    2019-06-11 20:55  
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     中高年ひきこもりは一過性の話題では済まない。
     もはや、日本の未来を危うくする大問題となっている。
     51歳ひきこもり男が起こした川崎市の20人殺傷事件に誘発される形で、今度は76歳の 父親が44歳のひきこもり息子を刺殺する事件を起こした。
     息子を殺した熊沢英昭は、農水省トップの事務次官にまで上り詰めた元エリート官僚だった。
     殺害された息子・熊沢英一郎は、都内屈指のエリート校である私立駒場東邦中学・高校へ進むが、同校からは毎年数十人が東大に入るのに対し、英一郎が進んだのは代々木アニメーション学院だった。
     その後、数年おいて流通経済大学に入るなどもしたようだが、結局は定職にもつかず、ネットとゲーム三昧の「ネトゲ廃人」といわれる生活を送っていた。 その生活費やゲーム代は全て父親が出しており、1か月のゲーム課金額が32万円にも上っていたらしい。
     英一郎はツイッターで「元農水省トップの父」をしきりに自慢し、 「私は、お前ら庶民とは、生まれた時から人生が違うのさw」 などと他人を見下し、誹謗中傷する書き込みを繰り返していた。
     一方、母親については 「中2の時、初めて愚母を殴り倒した時の快感は今でも覚えている」「愚母を殺したい」「貴様の葬式では遺影に灰を投げつけてやる」 などと憎悪をむき出しにしている。
     また、真偽は不明だが 「私は肉体は健康だが脳は生まれつきアスペルガー症候群だし、18歳で統合失調症という呪われて産まれた身体。私が1度でも産んでくれと親に頼んだか?」 というツイートなどもあり、ネット内では「ヤバい人」として有名だったらしい。
     英一郎はここ10年ほどひとり暮らしをしていたが、近所とゴミ出しのトラブルを起こし、5月末に実家に戻ってきた。 するとたちまち両親に対して殴る蹴るの暴行を繰り返すようになり、父親は身の危険を感じたという。
     そして、川崎の事件から4日後の6月1日、 家に隣接する小学校の運動会に英一郎は 「うるせぇな、ぶっ殺してやる」 と騒ぎ、それを注意した父親と口論となった。
      そこで父親は、息子が川崎のような事件を起こすことを恐れ、台所の包丁で胸など10数か所を刺し、殺害した。英一郎が実家に戻ってから、わずか1週間ほど後のことだった。
     ひきこもりなどの自立・更生支援等の事業を手掛け、ジャーナリストとしても活動する押川剛氏が『「子供を殺してください」という親たち』(新潮文庫)という著書を出している。
     押川氏のもとには毎日のように、子供の暴力や暴言に悩む親からの相談や依頼がある。 「子供を殺してください」 は実際にその中で言われた言葉で、他にも 「いっそ子供が死んでくれたら」 などという訴えをよく聞くという。
     これは単に「家庭内暴力」の一言で済まされるような問題ではなく、その背景には重度の統合失調症、うつ病、強迫症、パニック症といった精神疾患や、薬物やアルコール、ギャンブル、ネット、ゲームへの依存症や嗜癖、ストーカー、DV、性犯罪などの問題が存在する。
     そして「ひきこもり」も、それらの問題のうちの一つなのである。
     押川氏は同書で「近年、爆発的に増えている」ケースとして、こんな特徴を挙げている。
    「年齢は三十代から四十代で、ひきこもりや無就労の状態が長くつづいている。暴言や束縛で親を苦しめる一方で、精神科への通院歴があることも多く、家族は本人をどのように導いたら良いのかわからないまま手をこまぬいている。
     そしてもう一つの典型例は、本人に立派な学歴や経歴がついていることである。中学や高校からの不登校というよりは、高校までは進学校に進みながら、大学受験で失敗した例や、大学卒業後、それなりの企業に就職したが短期間で離職した例が多い。強烈な挫折感を味わいながらも、『勉強ができる』という自負がある」
     熊沢英一郎は、完全な典型例だったのである。
     そしてその根底にある要因を、押川氏はこう指摘する。
    「その生育過程においては、親からの攻撃や抑圧、束縛などを受けてきている。過干渉と言えるほどの育て方をされる一方で、そこに心の触れ合いはなく、強い孤独を感じながら生きてきたのだ」
    「常に緊張を強いられ、安心感を得ないまま大人になったような子供が、受験や就職の失敗により人生を見失ったとき、その怒りは親に向かう」
      結局のところ、問題行動の原因は「親の愛情不足」に尽きるようだ。
     生まれてこの方、この世には愛情や信頼で成り立つ人間関係があるということを知らない。「支配・被支配」の関係しか知らない。相手を攻撃する、束縛する、支配するというコミュニケーションの取り方しか知らない。
     当然、そんな人間はどこへ行っても嫌われ、孤立する。それでひきこもりになって、自分が何もかもうまくいかないのは親のせいだと、憎悪の念を持つようになるのだ。
     押川氏は 「子供の頃に親からされたことに、今になって仕返しをしているのではないかと思うほどです」 と記している。
      自分が子供に愛情をかけず、モンスターに育ててしまったのだから、そいつが他人の子供を殺す前に自分で始末をつけるというのも、子育てに失敗した親のひとつの責任の取り方として、わしは肯定する。
     ところが、メディアではそんな意見は言ってはいけないことにされていて、「どんな理由があろうと、殺してはいけない」という意見しか許されないような状態になっている。
  • 「あらゆる差別のない社会は左翼の目標」小林よしのりライジング号外

    2019-03-12 19:30  
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     今回は「差別なき社会」や「寛容の精神」や「多様性を認める」などの耳障りの良い言葉に疑念を呈しておく。
    「寛容」は保守思想の権威・オルテガが重要なリベラルの概念としたものだが、オルテガとて権威主義で捉えてはならない。
    「非寛容」も多様性の一つの価値として認めるのが「寛容の精神」ならば、価値相対主義に陥らざるを得ない。オウム真理教の「ポア」も多様性の一つとして「寛容」に認めるなんてことができるはずがない。
     そもそも宗教には原理主義的な側面があるので、移民が増える中で、「非寛容」も一つの価値として認めなければならないときだって来るだろう。
     3月2日、部落解放同盟の全国大会に、立憲民主党を代表して福山哲郎幹事長が出席し、挨拶をした。
     同党のブログにその挨拶の言葉が載っていたが、わしはそれをBLOGOSで読んで、疑問を持った。 福山は、こう言ったのだ。
    「われわれが作った党の綱領では、あらゆる差別に反対して断固として戦うことを誓い、一人ひとりがかけがえのない個人として尊重され、多様性を認めつつ互いに支え合い、全ての人に居場所のある、ともに支え合う社会の実現を目指すとうたっている」
     わしは立憲民主党の綱領を読んでいなかったのだが、綱領には 「私たちは、あらゆる差別に対して断固として闘います」 と明記されていた。
     あらゆる差別に対して断固として闘う…そんなことを大した思慮もなく、正義と信じ込んで言われると、わしは不快でならない。
      なぜならば、あらゆる差別に対して断固として戦った国こそ、スターリンのソ連であり、毛沢東の中国であり、ポル・ポトのカンボジアであり、その行き着く先は必ず大虐殺だったからだ!
     あらゆる差別をなくし、平等にしようとしたら、大虐殺をするしかなくなるというのは20世紀の貴重な教訓であり、特に政治家なら誰でも知っている常識だと思っていたのに、なんと野党第一党にその認識が全くないということに、わしは愕然としたのである。
     あらゆる差別をなくし、完全平等を実現しようというのはマルクス主義の思想である。
     完全平等が実現するのは完全なる社会主義が達成された世界だけであり、ソ連や中国、カンボジアはそれを目指したのだ。
     わしは『戦争論』で、漢字の「左翼」とカタカナの「サヨク」を区別した。
     漢字の「左翼」は、マルクス主義に影響され、社会主義国家を目指す者。
     カタカナの「サヨク」は、マルクス主義は信奉していないが、無意識に「人権」「平等」「自由」などの価値に引きずられる者である。
     あらゆる差別と闘うということを綱領に掲げている立憲民主党は、社会主義国家を目指すマルクス主義の政党と近似性が強い。
     枝野幸男代表は立憲民主党を保守だと言うが、これではとても「保守」とはいえず、それどころかカタカナサヨクですらなく、漢字で書く完全な「左翼」といわざるをえない。
     立憲民主党は、とっくに「社会党」になっていたのだろうか?
  • 「権威主義批判を批判する権威主義者」小林よしのりライジング Vol.306

    2019-03-05 21:50  
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     今回も自称社会学者・倉橋耕平について分析するが、こんな小物を相手にする必要はないと思うかもしれない。
     だがこんな小物の精神状態がどうなっているのかを研究すると、意外なことが浮かび上がってくるもので、香山リカとの共通の病気が見えてきたりするのである。
      それは「権威主義」である。
    「小林よしのりは大学に行ってないから、学問に憎悪を持っている」という香山リカの発言に通じる「学歴主義」「権威主義」の病が、左翼言論人に通底しているという事実が発覚してくる。これが面白いのだ。
    「権威主義の否定」は、『ゴーマニズム宣言』の原点であり、重要なテーマである。
     権威の一切ない漫画家が、自らの直感と常識を頼りに「ごーまんかます」というところからスタートしたのが『ゴー宣』である。だからこそ、わしはいまも名刺の肩書には「漫画家」としか書かないし、その名刺も特に求められない限り、自分から渡すことはない。
     しかし、世間的には名刺の肩書に「評論家」とか書いた方が通りは良いらしいし、世の中には「哲学者」なんて肩書を名刺に書いている人もいれば、よくわからん団体の役職をずらっと並べている人もいる。
     そういう、もっともらしい肩書さえつければ信用が置けると考え、その人物の発言内容を疑おうともしない日本人の権威主義に対して、真っ向から戦いを挑んで始めたのが『ゴー宣』なのだ。
     ところが、そんなわしに対して「権威主義で何が悪い!」とばかりに噛みついてきた奴がいる。それが、先週批判した自称社会学者の倉橋耕平だ。
     倉橋は、ジャーナリスト・安田浩一との対談本『歪む社会 歴史修正主義の台頭と虚妄の愛国に抗う』の中で、こんなことを言っている。ちょっと長めの引用になるので、短く切ってツッコミを入れていこう。
    「つくる会」界隈の話に出てくるのが、「学級民主主義」です。小林よしのりはいまでも使っています。ようするに、学校で教えられる理想主義的で「お花畑」な政治観をこの言葉で批判しています。
    「学級民主主義」は本質を突いた言葉だと思いますよ。
     武力の後ろ盾もなしに話し合いで解決しようなんていう、「理想主義的で『お花畑』な政治観」が、現実の国際政治で通用するわけがないのであって、これは全く正当な批判です。
     学校カルチャーにおいて戦後主流とされていた知識だとか権威だとかに対する逆張りとか反抗とか抵抗という思想が、小林らの思想の中心にあります。
     はあ? 学校で教えていようが、戦後の「主流」だろうが、間違っているから間違っていると言っているだけで、単に知識や権威に「逆張り」とか「反抗」をしようなんて、そんなくだらない思想はありませんって。
     すなわち、教育における権威と規範に満ちた物言いは、実践的なレベルでもちいることができるようなものではなく、無用である。教育者の言っていることなど、そもそも地に足のついていないものだ。そういった小林の判断が透けて見えます。
    「教育者の言っていることなど」なんて、全ての教育者を十把一絡げにするような、杜撰なことは言いませんよ。教育の場の「お花畑」な感覚は批判しても、だからといって、教育者の言うこと全部を否定するような、乱暴なことは言ってません。勝手に人の判断が「透けて見え」たことにしないでくれ。
     現在の風潮で言うと、学者というものを権威として見なしていて、権威を叩くという名目で学者の説や議論を叩く人がいます。まあ、その権威は学者でも日教組でも左翼でもよいのでしょうけれど。
     これではっきりした。
     要するに倉橋は、小林よしのりは「権威」を叩くことだけが目的で、「権威」に対する「逆張り」がしたいだけで、「権威」と名のつくものだったら何でも攻撃しているだけだと思っているのだ!
     この認識は対談相手の安田浩一も完全に共有していて、こう言っている。
  • 「平成のわし、活躍しまくり」小林よしのりライジング Vol.303

    2019-02-12 22:35  
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     平成って、わしがすごく活躍した時代だったのよ、知ってる?
     先日は保守思想誌「表現者クライテリオン」が「平成の小林よしのり」でインタビューに来たし、今度は西日本新聞が「平成の小林よしのり」でインタビューに来ることになっている。
     それで意識したのだが、平成は、小林よしのりの時代だったのだよ。
     そういえば『おぼっちゃまくん』のテレビアニメ放送開始は、平成元年1月15日だった。
     1989年1月15日のスタートは前年から決まっていたのだが、昭和天皇の御病気で全国を上げての自粛ムードになってしまい、こんなアニメが放送できるのかと危ぶまれた。
     そして昭和64年(1989)1月7日、昭和天皇崩御。
     これはもう放送延期もやむなしかと思っていたら、その後、自粛ムードは予想外に早く解消して、1週間後には世の中の雰囲気もほぼ平常通りに戻り、放送は予定通り開始された。
     そんなわけで、決して意図してそうなったわけではないのだが、『おぼっちゃまくん』は「平成最初のテレビアニメ」となったのだった。
     思えば、手塚治虫が死んだのが平成元年2月9日。手塚は昭和3年生まれだったから、ほとんど昭和と共に生まれ、昭和と共に逝ったようなものだ。
     手塚治虫の昭和が去り、小林よしのりの平成が来た…なんて言ったら、さすがに言い過ぎか?
     その平成も、再来月いっぱいで終わりを迎える。
     そんなわけで、今回は平成のわしの活躍を、年ごとに振り返っておこうと思う。なお、登場する人物の肩書等はすべて当時のものである。
    平成元年(1989)
      テレビアニメ『おぼっちゃまくん』放送開始。
     この年、わしは『おぼっちゃまくん』で第34回小学館漫画賞児童向け部門を受賞した。
     しかし審査員の老漫画家が講評で 「絵は下手だし品はない」「次回からはヒットしているとか、アニメになったとか関係なしに選びたい」 とボロクソ言ったためにブチキレて、受賞スピーチで 「絵が下手で、品のない漫画を描いて漫画賞をもらった小林です。この漫画賞の汚点になるかもしれないのに、わしの作品に賞を与えてくれた審査員の勇気に感謝します」 と皮肉をかました。
     これはかなりの問題になったようで、次回から審査員は総入れ替えになった。
      
    平成2年(1990)
     アニメが大ヒットとなり、『おぼっちゃまくん』を描きまくっていた。
    「コロコロコミック」は月刊誌だが、本誌の他に別冊、増刊にも描いていたし、コロコロの初代担当編集者が移動していた関係で「小学4年生」でも連載、他にも「少年サンデー」や、コロコロの妹雑誌「ぴょんぴょん」(というのがあったらしい)に出張掲載したこともある。
     時はまさにバブル絶頂期で、『おぼっちゃまくん』は完全に時代を捉えていた。
    平成3年(1991)
     この年も『おぼっちゃまくん』を描きまくっていた。
     そして『おぼっちゃまくん』のヒットによって、『東大一直線』をはじめとする過去の作品が続々と新装版で出版されていった。
     一方、 月刊誌「宝島」でも、『おこっちゃまくん』というタイトルの見開き2ページのエッセイ漫画を描いていた が、編集者が作品を全く理解していないので、嫌になって自分で連載を打ち切った。
     すると、「週刊SPA!」の渡邊直樹編集長が「うちで描いてほしい」と言ってきて、これが『ゴーマニズム宣言』につながる。
    平成4年(1992)
      年明けから「週刊SPA!」で『ゴーマニズム宣言』の連載開始。
     スタート時は隔週2ページだったが、評判が良く、11回目から毎週連載になった。
     他愛ないエッセイ漫画的な内容も多いが、後の『差別論』の原点といえる『差別だらけの社会を糾弾せよ!』『青春の差別』はすでにこの年に描いている。
     また、編集者の企みで薬害エイズ訴訟の傍聴に出かけ、怒りでブチキレそうになったという心情も描いている。
     一方で『おぼっちゃまくん』も、1回50ページ・前後編の長編エピソードを描くなど、表現の幅を広げていった。
  • 「『悩みのるつぼ』で更なる“悩みのるつぼ”に」小林よしのりライジング Vol.290

    2018-10-23 15:15  
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     朝日新聞の土曜「be」版に、『悩みのるつぼ』という人生相談コーナーがある。これがなかなかインパクトのある相談と回答の宝庫で、読み物としてひそかに楽しみにしている。
     好きな男から月に1回ほど、相手が会いたい時にだけ「今から指定の場所へ来い」と呼び出されて応じるような関係を17年間続けているという30代の女性相談者に対しては、よりにもよってあの岡田斗司夫が、
    「あなたの悩みは質より量だ。彼の恋人としての品質ではなく、会う量を増やしたいだけ。そして、呼び出されないあなたは、ヒマで困っているのだ。その男は会う量を増やしてはくれないのだから、あなたがヒマを埋める趣味を作るのがいい」
    などと理屈をこねくりまわして回答していた。
     朝日新聞って一体どういう人選してるんだと首をひねりつつ、岡田斗司夫って、自分の女たちにも、面と向かってこんなこと言ってきたんだろうと呆れた。(参照:もくれんの「ザ・神様!」第49回『御宅王岡田斗司夫之命』)
     また、美輪明宏を回答者に指名したゲイの男性相談者は、自分の彼氏にはかねてから「子供が欲しい」という希望があり、また親から説得されたこともあって、自分の反対を押し切って女性と見合い結婚して子供を作ってしまったという。それでも今でも隠れて会い続けており、これからも会って欲しいと言われているが、彼の妻に嫉妬してしまい、苦しんでいるとのことだ。美輪明宏はこう答えていた。
    「あなたは彼に惚れ足りていない。彼と会いたい、抱き合っていたいというのはただ孤独を逃れたいという自分本位の欲望にすぎない。彼の妻に嫉妬するのは、自分本位である証拠。自分だけでは彼を満足させられず、子供も産めないのだから、彼の子供を産んでくれた妻に感謝して、彼が幸せならいいと思うのが愛だ。それに気づかず突き進めば、ただのウザいストーカーになり、重荷になって嫌われる」
     覚悟がないなら、醜い感情に堕す前に身を引けということだ。男女の関係にも言えると思う。
     相手の男も調子の良すぎる奴だと思うが、相談者も、自分だけでは相手は満足していなかったという現実は受け入れなければならない。
     ただ、このケースの場合は、美輪明宏が言うから通るのであって、異性と結婚して子供のいる人が同じことを言えば、「子供も産めないとはなにごとか!」「LGBT差別だ!」と怒り出す人が現れそうだ。世の中、いろんな人がいる。
     そして、直近の『悩みのるつぼ』10月20日(土)には、これまた驚きの悩みと、目をむく回答が掲載されていた。
  • 「Apple社、『ナパーム弾の少女』を児童ポルノ判定」小林よしのりライジング Vol.257

    2018-02-06 17:10  
    150pt
    第67回「Apple社、『ナパーム弾の少女』を児童ポルノ判定」  AIが暴走したというフェイクニュースをきっかけに、仮想世界のなかに企業が作り出した欲望のシステム、それによる価値の崩壊と平板化、感受性の劣化へと引きずられそうになってゆく現実を書いてきた。
     で、このまま無関心・無自覚のままでいると、一企業が設けた「わが社の規定」によって画一的な情報統制がなされてしまうよ、そう、Facebook社が「ナパーム弾の少女」を機械的に児童ポルノ判定して削除したようにね。
    ・・・という記事を書いたら、その記事中の「ナパーム弾の少女」が児童ポルノ判定されて、削除させられてしまった!
     
     まじか。
    ■経緯
     経緯を改めて書いておく。
     1月30日に配信した記事について、翌31日までに、 Apple社 からニコニコチャンネルを運営するドワンゴ社に対して、「ナパーム弾の少女」が児童ポルノに当たるとして、削除依頼があった。
     どうしてAppleから? 青天の霹靂すぎて驚いたが、ニコニコチャンネルにスマホから簡単にアクセスできる機能として、「ニコニコチャンネルアプリ」というものが配信されており、ライジングをスマホの専用アプリで簡単に見られるような仕組みがあったらしい……。
     そして このスマホアプリが、Apple社の配信基準に合わせて運用されているため、ドワンゴを飛び越えて、Appleの規約に触れた ということだった。
     ドワンゴにとっては、Appleと契約の上でスマホアプリのサービスを利用しているわけで、Appleをコントロールすることは不可能。ドワンゴのチャンネル担当者は、記事を読んでくれていて、 「記事の意図からも、該当画像が児童ポルノ画像には当たらないと考えている」 とのことで、なにか他に対応策はないか検討してくれたようだが、不本意ながら、現状では削除するしか方法がないということだった。
    ■Appleは人道に反しすぎている
     しかし、どこの誰が、あの写真を見てポルノだと思うのか。いるとしたら、相当特殊に病んでいる人間で、そのような特殊なごく一部の人間のために、紋切り型のルールを全世界に適用し、歴史的に重要な報道写真まで排除するなんて、Appleは異常すぎる。
      だいたい、 ナパーム弾はアメリカが開発したもの だろう。あの写真だって、南ベトナム軍(=アメリカが加担した側)の空爆による実態を示しているのだ。広島・長崎の原子爆弾によって、身ぐるみを吹き飛ばされてしまった少女の写真があったとして、それを掲載したらアメリカの会社からポルノ呼ばわりされ、一方的に削除されるようなもの。人道に反するのもいい加減にしてもらいたい。
     それに、あの写真に写っている少女、キム・フック氏は生存しており、大人になって、現在も反戦活動家として各国で講演を行っている。背中一面に壮絶なケロイド状の火傷の痕のあるキム・フック氏が、生まれたばかりの我が子を抱きしめる写真もかなり印象的だ。来日したこともあり、日本の大学などで講演会も行っている。 もちろん、あの写真をみずから説明しながら。
      キム・フック氏は、自伝も出版しており、 自伝の表紙にも、あの写真が使われている。
     しかも、少女時代の逃げ惑う自身の姿の部分をあえて明るく加工し、スポットライトを当てたようなデザインになっている。自身の存在意義を示す写真でもあるだろう。だが、その本の書影をここに掲載したら、またAppleから削除依頼が来るのかもしれない。
    「The Girl in the Picture: The Story of Kim Phuc, the Photograph, and the Vietnam War」という洋書だ。戦争で過酷な体験をした生き証人である女性の自伝が、児童ポルノ扱いされるなんて、本当に腸の煮えくり返るデタラメな世界だ。
    ■たどりつかない…
     こういうことを、直接Appleに言って、見解を聞こうと思ったのだが、まず、どこに連絡したらいいのかがわからない。
  • 「ギャグに差別はつきものである」小林よしのりライジング Vol.256

    2018-01-30 19:30  
    150pt
     大晦日恒例のダウンタウンの『絶対に笑ってはいけない』シリーズだが、昨年はダウンタウンの浜田が「エディ・マーフィーのコスプレ」として黒塗りメイクで登場したシーンと、ベッキーが不倫の「禊ぎ」としてタイキックを食らうシーンが問題ではないかと物議を醸し、番組自体はほとんど評判にならないまま、この話題だけが今も続いている。
     中島岳志(東京工業大教授)はこれらのギャグに批判的で、東京新聞の論壇時評(1月25日夕刊)で、こう書いている。
    〈「笑い」と「嗤い」は異なる。後者には「あざけり」や「蔑み」が含まれており、暴力性が内在する。差別的な「嗤い」には注意深くならなければならない。「笑い」と「嗤い」を混同してはならない。〉
     だが、「笑い」と「嗤い」を峻別することなど、できるのだろうか?
     そもそもわしは笑いというもの自体が、差別と一体なのではないかと思っている。
     お笑い芸人の中でも、わしが最も面白く「別格」だと思っているのは「アホの坂田」こと坂田利夫だ。
     だが冷静に言ってしまえば、坂田がやっている「アホ」の芝居は「精薄児」そのものなのだ。
    「精薄(精神薄弱)」という言葉も今では「知的障害」に言い換えなければならないらしいが、使い慣れた言葉を言い換えるのはどうも妙な感じがするので、このまま使わせてもらう。そもそも、わしにとっては「精薄」も言い換え語で、昔はみんな「知恵足らず」と言っていたのだ。
     アホの坂田は精薄児をモデルにしたギャグをやっているわけで、これは根本的に差別なのである。ところが、それがめっちゃオモロイ。ヤバイことに、これがわしには全てのお笑いの中で一番面白いのだ。
     多分、テレビではやれない表現なのだろう。大阪の「よしもと」の劇場では「アホの極致」と言えるコントをやっていた。
     だがこれは中島岳志の分類では「嗤い」の方になり、やってはいけないものになってしまう。
     似たような例はいくらでもある。
     志村けんの「ひとみばあさん」のギャグは、年取って手が震えたり、物忘れがひどくなったりして、まともに用事がこなせない様子をギャグにしているが、これは老人そのものや、認知症や中風(脳出血・脳梗塞による運動機能障害)などの病気に対する差別で笑いをとっていることになる。それに、「バカ殿」などモロに精薄児だし、「変なおじさん」も明らかに精神異常者ではないか。
     ではわしの『東大一直線』はどうだろう?
     主人公の東大通は、脳の左半球が完全にぶっ壊れていて論理的思考力は破滅状態だが、右半球の直感が並外れているというキャラクターだ。これは一種の天才であり、作曲家の大江光みたいなものである。
     一方、東大とコンビを組む多分田吾作は完全に精薄児である。
     東大通は単なるアホではなく、天才を秘めたアホであるのに対して、多分田吾作はとことん単なるアホを追及したキャラなのだ。
     こういうタイプの違う精薄児キャラを二人並べて爆走するギャグを描いていたわけで、これも差別かもしれない。

     
     また、『いろはにほう作』という作品は、多分田吾作のキャラを発展させて、とにかくただひたすらのアホ、究極のアホを描くことを意図した漫画だ。
     この作品、本当は『いろはに呆作』というタイトルで、主人公の名は「呆作」になるはずだった。ところが、連載スタート直前に編集部から「呆」の字を使ってはいけないとクレームがつき、結局「ほう作」になってしまった。
     34年前の出来事だが、「呆」の一字すら使えなかったことは、もうこの頃から「ギャグに差別を持ち込んではいけない」などという感覚があったという証と言えよう。

       じゃあ『おぼっちゃまくん』はどうか?
  • 「『明日、ママがいない』と児童養護施設の実態」小林よしのりライジング Vol.73

    2014-02-11 10:30  
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     つい最近、1月30日も東京都葛飾区のマンションで、2歳児が父親(33)に虐待されて死亡した事件があった。2歳児の顔や背中には約30か所のあざが残っており、父親は日常的に虐待していたらしい。
     母親(26)は何をしていたんだと思うが、DVの夫の機嫌を損ねまいと、見てみぬふりをしてたのだろう。こういう事件をニュースで知るたびに、胸がムカムカする。
     子供が好きでも授かることが出来なかったわしのような大人もいれば、よりによって子を授かる資格のない大人のところに生まれてしまった子供がいる。神がいないことの証明だ。
     子供を手離さなければならない悲しい状況の親ならやむを得ない。
     虐待死させるくらいなら「赤ちゃんポスト」もやむを得ないし、あった方がいいとわしは考える。
     親が子を施設に入れることも、やむを得ない境遇もあるだろう。
      2011年度に新たに児童養護施設に入った5485人の入所理由は、親の虐待(33%)、親の放任怠慢(12%)、監護困難(6%)、親の入院(6%)等である。
     馬鹿な親のせいで、施設に入れられた子供が圧倒的多数ではないか。
      自分の快楽のためだけに無責任に子供を捨てる大人や、そのような社会を生み出してしまう大人たちに対して、怒りを表明する資格が、捨てられた子供にはあると思う。
     子供にはその表現力はないから、子どもの代弁をする大人・作家がいれば、それは有り難いとわしなら考えるのだが。
     テレビドラマ 「明日、ママがいない」 は、子どもに感情移入させて、大人たちを告発する構図だから、視聴者にも大人や社会に対する怒りが芽生える番組である。
     子役の演技で泣かされるのが嫌なわしは、この番組を見たくなかったのだが、児童養護施設からの抗議などが殺到して、CMのスポンサーが全部降りてしまったと聞き、第一話から見てみることにした。
     案の定、子役の演技に涙をこらえながらの視聴になり、大人と社会への憤りで血がたぎってしまった。やっぱりわしって単純である。
     もっと取材してリアルに作れと抗議団体は言うが、もしNHKがドキュメンタリーで作れば、何の摩擦も起こらない多くの不遇の一つとして放送され、すぐに忘れられるだろう。
     この世に不遇や不幸は五万とあるのだ。
     優れた脚本家が題材にして、ディレクターや俳優、特に天才子役たちなどのプロが作品を作り上げ、多くの視聴者を獲得できる地上波で放送されるのはチャンスのはずなのに、当事者である施設が潰してしまうとは。
     物語として創作され、子供たちに感情移入が出来てこそ、視聴者は施設の子供や、施設出身者に対する偏見を捨て、応援したくなる気持ちになるのだ。
     逆に悪意が芽生えて、施設の子を「ポスト」と呼んでいじめる児童も出てくるかもしれない。 それは元々持っていた「偏見」が顕在化した現象である。秘かに差別していた証拠である。
    「秘かな差別」がいいか、「顕在化した差別」がいいかと言えば、わしは「顕在化した差別」の方がいいと思う。なぜなら戦うべき相手が明確になるからだ。
    「秘かな差別」の方が性質が悪くて、結婚や就職など、人生の決定的場面で顕在化して、被差別者に重大な衝撃を与える。それが原因で自殺する者だっている。
     部落差別などの取材をして描いたわしの『差別論』では、そういう事例を取り上げている。
    「施設の子供が傷つくから」という理由で、タブーにしてしまうことが、社会の偏見を取り除くことになるのだろうか?
      しょせんは戦わなければならない宿命の子供たちなのだ。普通の子供よりは、はるかに強靭な精神を身につける必要がある。「明日、ママがいない」はそういうことを描こうとしているのではないか?
     わしがブログで「明日、ママ」はテーマのある良い作品だと書いたら、当事者からの投稿があった。
    「明日、ママがいない」への感想を見ました。
     私達、児童養護施設出身者の気持ちを共感して頂いてうれしいです。
     職員や今入所している児童はこのドラマに反対の人が多いみたいですが、施設を退所した出身者はドラマを評価している人が多いそうです。
     私が思うには、良い施設で育った人は施設の悪い面を知らないし、親に虐待された経験者が多いから反対、悪い施設で育った人は施設で酷い事をされた事からドラマ肯定という意味もあると思います。
     職員は、「施設内虐待なんて何十年前の事だ!」と言いますが、今もあります。報道されていますし、「施設内虐待を許さない会」というのもあります。
     児童間暴力を規律が良くなるからと、むしろ良しとしている職員もいます。
    「そんなの例外だ!一部だ!」と言う職員もいますが、私達例外とされた人は支援も何もありません。また、発覚するのはごく一部で、私が毎日受けた暴力は一件も発覚していないはずです。
     大事なのは、施設が虐待をし、今もトラウマをもって苦労している元こどもへの支援を言っている職員を見た事がありません。当事者意識がないと思います。
     親から虐待を受けたこどもを、良い施設が保護し回復していくというドラマなら施設関係者は反対しないでしょうが、施設から虐待をされた人達は暗部を隠す事に傷つきます。
     でもその事をツイッターで施設職員に言ってもたいした反応はしません。
     虐待を受けても今は大人なんだから自分で頑張っていくしかないというなら、そもそも施設なんていらないです。そうした事を考えていないからああした抗議になるのでしょう。
     また、施設間格差は大きく、例えば施設児童の大学・専門合わせた進学率は23%(一般人は77%)ですが、東京の施設だと約5割と高い数字です。
     地方には戦後一例も進学者がいない施設もありますが、施設児童への進学支援は都会程あり、ますます格差は広がる事になります。(里親家庭も進学率は高い)
     よしりんには日本の児童養護施設の貧弱さ、施設内虐待の被害者の支援のなさ等を是非分かってほしいと思います。
     わしは「明日、ママ」の養護施設は、さすがに過剰に描いたものだと思っていたが、どうやら荒唐無稽ではないらしい。そのことにショックを受けた。
     さらに当事者ではないが、こんな投稿もあった。