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  • 「『花魁』も『性奴隷』だったのか?」小林よしのりライジング Vol.42

    2013-06-19 00:20  
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     確か星新一のショート・ショートだったと思うが、地球が滅亡した後に、宇宙人がたった一人の男を救出、宇宙人は地球の滅亡を惜しみ、せめてその歴史を後世に残そうと、男から地球の歴史について聞き取りを始めるのだが、実はこの男はとんでもない大ボラ吹きで、とてもありえないような「歴史」が残ることになってしまう……といった話があった。  この話、今となっては笑うに笑えない感覚にも襲われる。  歴史というものは、後世の人間が、ありえないようなものに書き換えてしまう危険が常にある。 その時代を生きていた人にとっては常識であり、語る必要も感じなかったようなことが、次の時代の人間には全く理解できず、とんでもない解釈をしてしまうということは、いくらでもあるのだ。  いわゆる「 南京大虐殺 」は、戦後になって「東京裁判」で喧伝され、1970年代初頭に朝日新聞が『中国の旅』のキャンペーンで改めて大宣伝したが、その時はそれほど日本社会に浸透しなかった。  1970年代までは、昭和12年(1937)の南京戦を経験した当事者が健在で社会の第一線におり、「 そんなバカげた話はありえない 」と一蹴することができたのである。  ところが80年代に入ってくると、当時を知る人たちがどんどんリタイアしていき、「 戦争を知らない子どもたち 」が社会の中枢に来るようになり、いつしか歴史的検証もないまま「南京大虐殺」は既成事実化され、教科書に載り、「南京大虐殺はなかった」と言おうものなら「右翼」と呼ばれ、大臣の首が飛ぶような事態になってしまったのである。  いわゆる「 従軍慰安婦問題 」も同様の経緯をたどっている。   日本と韓国の「戦後処理」は昭和40年(1965)の 日韓基本条約 で最終的かつ完全に決着している。  この条約締結に当たっては、予備交渉の段階を含めて10年以上の時間を要し、竹島や歴史認識などの問題で度々紛糾した。 ところがこの交渉では 「慰安婦」 は議題にすら上がらなかった。  交渉開始時はまだ終戦から10年も経っておらず、条約締結時でもわずか戦後20年である。当然その頃は、慰安婦本人はもちろん、その親兄弟も多くが健在だったはずなのに、誰一人声を挙げなかったのだ。   さらに昭和58年(1983)、吉田清治なる詐話師が「 慰安婦強制連行をした 」というウソ証言本を出した時も、何の話題にもならなかった。  まだその頃には軍隊経験者が社会におり、慰安婦とはどういうものだったかというのはわざわざ語るまでもない常識であって、戦争映画にも普通に慰安婦が出てきており、そんなヨタ話など誰も相手にしなかったのである。  ところが90年代に入り、当時を知る人たちがどんどんリタイアしていくと、こんなヨタ話を真に受ける者が出始め、「従軍慰安婦問題」がでっち上げられてしまったのである。  吉田清治の証言が虚偽であり、強制連行がなかったことが実証されてからは、「慰安婦」というものは 当時日本に存在した「 公娼制度 」を戦地に持っていったものにすぎない という議論ができるようになった。   昭和33年(1953)までは売春は合法であり、吉原遊郭など全国に売春業が公認された地域があり、これを「 公娼制度 」といったのである。  ところがこの議論も、2000年代に入ると通用しなくなってきた。  公娼制度が廃止されてから時間が経ち、当時を知る人がどんどんリタイアしていって、「公娼制度」というものが全く理解できず、「 公娼制度自体が、女性の人権侵害だったのだ! 」と主張する者がのさばるようになってしまったからである。   現在の感覚で過去を断罪しようというのは、無知であり思い上がりである。  過去を知ろうとせず、たまたまいまこの時代に生まれたということだけで自分を高みに置いて、過去を見降ろそうとする怠惰な人間が多すぎる。  実際には、過去に失われたものの方が、現在よりも優れていたということも多いのではないか? 我々は歴史に対して謙虚でなければならないのだ。  『 吉原はこんな所でございました 』(ちくま文庫)という本がある。吉原の引手茶屋「松葉屋」の女将、福田利子氏の聞き書きである。  引手茶屋とは、吉原での遊興の手引き(案内)をするところで、高級遊女のいる大見世に行くには、必ず引手茶屋の案内が必要だった。客はここで芸者や幇間(ほうかん=太鼓持ち)を呼んで酒席を楽しみ、ここへ遊女を呼んだり、ここの紹介で妓楼へ行ったりしたのである。  松葉屋は公娼制度廃止後、昔の吉原情緒を垣間見ることのできる「花魁ショー」を「はとバス」の「夜のお江戸コース」に乗せて人気となるが、平成10年(1998)惜しまれつつ廃業、福田氏も平成17年(2005)、85歳で亡くなった。  この本の初刊は昭和61年(1986)だが、この時点で福田氏は 「 お若い方の中には、日本のあちこちに国が公認し管理する遊郭があったなんて、不思議に思う方がいらっしゃるのではないでしょうか。まして、男の人たちが公然と出入りし、女の人にもそれを認めるところがあったなんて、男女平等の世の中ではとても考えられないことだと思うんですね 」  と語り、戦前の時代背景を説明している。   当時の男は、家庭は家庭として大事にしつつ、プロの女性を相手にお金で買える恋愛をしていた。 福田氏は「それだけに、この節のようなもめごとにもならなかったのではないでしょうか」と言っており、こういう指摘も興味深いのだが、今回この本から紹介したいのは、「 身売り 」の話である。