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  • 「『言論の自由』が委縮した社会で生きたいか?」小林よしのりライジング Vol.180

    2016-06-14 15:50  
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     6月5日、第55回ゴー宣道場を『言論の自由と潔癖王国』というテーマで開催した。
     オバマの広島訪問とその後の賛美一色の報道、北海道の大和君置き去り行方不明事件と父親に対するバッシング、杉並区の保育所建設に対する住民の反対運動、西尾幹二・加地伸行の皇室バッシング対談とそれに抗議する右翼青年の「WiLL」編集部襲撃など、話題は多岐にわたり、あっという間に3時間半が過ぎた。実にテンポよく、有意義な議論ができたと思う。
     ただし、今回の参加者の応募数はいつもより少なかった。
     どうやら一般的には、「言論の自由」と聞いても身近な問題とは感じない人が多いようだ。「言論の自由」とはメディアに携わる者や言論人・表現者だけの専門的な問題で、一般の市井の民には無縁のことだという感覚なのかもしれない。
     あるいは、一般人にとってみては「言論の自由」はあるに決まっていることで、大いに好き勝手言わせてもらってるというくらいに思い込んでいるのだろう。
     メディアにおける「言論の自由」、市民における「言論の自由」、どんな違いがるのか?
    まずは「言論の自由」とは誰にとっても身近で、重要な問題であると理解してもらうことを目標として「ゴー宣道場」の議論を進めた。
    【メディアにおける「言論の自由」】
     そもそもメディアの役割は、権力と国民の間に立って、政府の政策を分かりやすく伝えたり、欠陥がないかチェックしたりするものである。メディアがなければ国民は政府の意図がまったく分からなくなる。選挙の際に何を判断基準にすればいいのかも分からないだろう。
      民主制を機能させるために、メディア・ジャーナリスト・言論人がいる。
     戦争の時代のように、メディアが権力の手先になって、大本営発表だけになってしまえば、国を破滅にだって導くことは証明されているのだから、 メディアが基本的に「権力チェック」になることは常識なのだ。
      そして権力をチェックするには、権力から自由に言論を行使できるという意味での「言論の自由」が絶対に必要になる。
      したがって「言論の自由」を守る「義務」があるのは、権力の側なのである。
     国民には「言論の自由」を行使する「権利」があるのであって、義務はない。これが立憲主義である。
     中国や北朝鮮を見れば、権力に操作された言論の無意味さが、誰だってわかるだろう。
      だが、この日本においても、「言論の自由」は、実はいつの間にか委縮させられているかもしれない。
      実は「言論の自由」がなくなったからといって、日常の生活に目立った支障が出るわけではないのだ。