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「森友学園問題2~安倍首相の言い訳を否定した鴻池会見と、疑惑の3日間」小林よしのりライジング Vol.215
2017-03-07 18:30153pt森友学園疑獄 の新情報は、報道番組のトップニュースとして扱われる事態になり、ついにお昼の主婦・シニア層向け番組でも連日解説されるようになった。教育勅語を暗唱させられたり、軍歌を歌わされたり、「安倍首相がんばれ」と宣誓させられている幼児たちを思うとかわいそうでならないが、出てくる映像がいちいちあまりにも強烈すぎて凝視せざるを得ないようなシロモノだけに、メディアとしては “まだまだ萎縮はしてるけど……でも、どうしても視聴率がとれちゃう案件” になったのだろう。
それに加えて、 安倍首相の“逆ギレしどろもどろ答弁” の光景も何度も繰り返され、話題に尽きない。
3月6日の参院予算委では、民進党・福山哲郎議員からのローテンポで粘着質気味(良い意味で)の追及に対して、安倍首相がブチ切れて拳をにぎりしめ、 「印象操作!」「私と妻が、私と妻が!」「そんな事実はあるんですか!」「レッテル貼り」「犯罪者扱い」「決めつけるな」 などと、ほとんど無能なネット民のようにひたすら短文を連打しまくって荒ぶるシーンがあり、しまいに側近であるはずの山本一太参院議長から「総理、簡潔にまとめてください」「総理、おまとめください」「総理、簡潔にお願いします」と何度も制止される始末であった。
この質疑のなかで、 安倍首相は、土地の売買契約に関してこれまでの答弁について「ストンと腑に落ちる説明ではなかった」と答えている。 それならば、政府の責任として、野党の参考人招致および集中審理の請求を堂々と受け入れ、籠池泰典理事長、安倍昭恵夫人ら関係者に対して、“国民にとって腑に落ちる証言”をさせるべきだろう。
JNN(TBS系列)が3月4日~5日に行った世論調査によると、 「籠池理事長など関係者の参考人招致を行うべき」との回答が76%、「安倍昭恵夫人の名誉校長就任は不適当」との回答が78% にのぼっているのだ。
◆鴻池議員の記者会見で露呈「やはりあった“上からの政治力”」
3月1日夜、自民党の鴻池祥肇議員(元防災担当相)が緊急記者会見を行った。
鴻池議員によると、2014年4月17日ごろ、籠池理事長夫妻が参院議員会館にやってきて、小学校建設のための土地取得に関して便宜を図ってほしいと陳情したという。 “大阪のオモロイおっちゃん”風情を醸し出す鴻池議員は、その時の様子をこう語っている。
「紙に入ったものを、これでお願いしますと、オバハンのほうが。一瞬で金だとわかりましたよ。だからそれをとって『無礼者っ!』と言ったんだ! 男のツラ、銭ではたく、政治家のツラ、銭ではたくような、そんなん教育者と違う、帰れぇ~い! と言って、ワシは委員会室に戻りました。
ただ、それが金であったか、コンニャクであったか、天ぷらか、カマボコか、ういろうかは知らん。確かめてへんから。だから、あれはコンニャクでしたと言われればそうかなと思わざるを得ないな」
「カネ貸してくれか、買うとか、安くしてくれとか、そんな話じゃないですかね。オバハン泣いて出しよったよ、それを。おうぉぅぉぅぉぅお~と泣いて出しおった。気持ち悪いやろ」
(籠池夫妻からの陳情を受けて、財務省・国交省と交渉をしたこと、仲介したことは?)
「誰が? オレがか? ない!」
「会ったこともない! だいたい財務省なんか全然知らん。どんな役所かも。どこにあるのかも知らん」
(2017.3.1夜 鴻池祥肇議員緊急記者会見より)
この記者会見は個人的に面白くてとっても好きなので、今後もときどきテレビで流してほしい。ちなみに、永田町には「コンニャク」=100万円、「レンガ」=1000万円の賄賂を示す隠語があるそうだ。
さて、この鴻池議員の記者会見によって、重要な事実がいくつか露呈している。
●露呈その1
現実に、森友学園の籠池理事長夫妻が、現金と思われるものをチラつかせて、 直接、政治家への働きかけを行い、はっきりと口利きを依頼していた。
●露呈その2
現実には、森友学園のシナリオ通りに、超大規模で不自然な優遇が行われた。しかし、鴻池議員は、現金と思われるものを突き返し、財務省にも国交省にも交渉をしていない。
ならば、 鴻池議員ではない誰かが、籠池理事長の要望に応えて口利きに関与したのではないか?
●露呈その3
「コンニャク」を、鴻池議員が目視で「現金」と確認していないので、言い逃れの余地が残されているが、籠池理事長夫妻は、賄賂申込罪の疑いで逮捕される恐れがある。 検察が動く事態に十分発展している事案と言える。
●露呈その4
この記者会見によって、鴻池議員は、安倍首相による野党に対する「立証してみろ」「印象操作だ」という答弁を完全に否定している。
もともと、この記者会見は、3月1日の参院予算委で、共産党・小池晃議員が 「ある自民党議員事務所の記録」として、名前は伏せたうえで、 鴻池事務所における籠池氏と秘書との複数回に渡る「働きかけvsお断り」のやりとりを読み上げたことを受けて行われたものだ。
鴻池事務所の記録には、次のような記載が残っている。 -
「愛子さまのスーパーな能力を育んだ教育方針とは?」小林よしのりライジング Vol.82
2014-04-15 16:35153pt敬宮愛子内親王殿下はこの春、学習院初等科をご卒業、中等科に進学された。
皇太子ご夫妻と並んで宮内記者会の取材に応じられた愛子さまは、「ご入学おめでとうございます」との声にしっかりした口調で「ありがとうございます」とお答えになった。
続けて「今のお気持ちは」と聞かれると、雅子さまと何事か言葉を交わされ、一呼吸おいて「楽しみにしています」とおっしゃった。
何気ないやりとりだが、愛子さまが取材に答えられるお声が流れたのはこれが初めてだった。
あきれたことに、これを見たネット右翼たちは「愛子さまがしゃべった!」と驚いたのだ。
一般国民は当たり前じゃないかと思うだろうが、ネット右翼の非常識をなめてはいけない。
ネット右翼の圧倒的な無知は驚異的であり、愛子さまがしゃべれないと思っていたのだ! 愕然!
無知なのはネット右翼だけではない、保守を自称する者たちも、愛子さまの能力・才能がどれほど優れていて、一般人をはるかに凌駕するスーパーなものであるかを全く知らない。
愛子さまがいかに優れた女性かということは、テレビのニュースや女性誌などで十分わかるのだが、連中は「男系固執」のネットか、論壇誌しか見ないから情弱(情報弱者)であり、そのせいで「Y染色体男系カルト信仰」に嵌っている。
愛子さまの真の姿をむしろ見たくない、知りたくない、聞きたくないというおサルさんになっているのだ。
愛子さまは低学年の頃、周囲には皇室とお近づきになりたい父兄の子どもしかおらず、2~3年生の頃は、同学年に乱暴な男子生徒がいたことから不登校問題も起き、学校にうまくなじめていないのではと心配された。
しかし、その後は同級生の間で「浮く」こともなくなり、多くのお友だちができ、楽しく快活に過ごされた。また、運動会などでは1年生の面倒をよく見ておられたという。
愛子さまはもともと勉強好きだったし、相撲に関心を持たれて力士の四股名と番付を丸暗記してしまうほど記憶力がよいとも伝えられていたが、不登校問題の時は机に向かう心の余裕もなく、成績は中の上程度に留まっていたそうだ。
しかし立ち直られてからは成績がメキメキ向上、常に学年でトップクラスの成績となられた。
特に国語がお好きで、漢字のテストは毎回ほぼ100点。
満点をとれなかった時は、読めなかった漢字、書けなかった漢字をそれぞれノートに100回書くことを自らに課しているそうだ。
放っておいてもご自分で本を読み、午前0時を回っても本を読んでいることがあって、皇太子殿下が苦笑しながら早く寝るよう促すこともあるらしい。
算数はあまりお好きではないらしく、雅子さまがつきっきりで指導することもあるそうだが、 好きではないだけで苦手ではなく、通信簿はオール5だという。
また英語の実力も相当なもので、一日一度1~2時間、英語だけで雅子妃殿下と会話する時間を設けていて、すでに初歩的な挨拶や自己紹介、会話はでき、会話中に雅子妃が知らない単語を使うと、「その単語は知りません」と英語でお応えになるという。
毎年夏には英語のサマースクールにも通われるほどの力の入れようで、皇太子殿下が「 愛子は私よりきれいな英語を話す 」とおっしゃるほどだという。
皇太子殿下は愛子さまの日本史・世界史・国語・社会の勉強を見ておられ、日本史は、歴史上の人物を、声音を駆使して演じてみせたり、時代背景や社会情勢を物語仕立てにして臨場感たっぷりに教えたりなさっているという。
ほかにも一般でいう家庭教師役の女官がおり、造形専門の先生や書道の先生もついて、多角的でバランスのいい教育を受けておられる。
造形の作品や書は宮内庁美術展で公開されたが、書は力強い堂々たるものだし、造形物の色使いなどのセンスは小学生のものとはとても思えない出来である。
愛子さまは学習院中等科に進学されたが、この先エスカレーターで学習院大学まで進むのではなく、東京大学へ進学するという選択肢も浮上している。 -
「天皇陛下と皇族方の『おことば』を聞いているか?」小林よしのりライジング Vol.76
2014-03-04 21:55157pt天皇皇后両陛下や、皇太子殿下をはじめ皇族方は、式典などで「 おことば 」を発表され、お誕生日などの節目には記者会見で発言をされる。
天皇皇后両陛下と皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻のおことばや記者会見は全文が宮内庁のホームページに掲載され、いつでも簡単に見ることができる。しかし、これに注目している国民は極めて少ないというのが実情だろう。
それは、どうせ天皇や皇族という立場の人は、無難なあたりさわりのないことしか言えない、言わないに決まっているという先入観があるからではないか。
お誕生日の前の記者会見など、宮内庁記者会の記者が相手だし、あらかじめシナリオが決められていて、それを無難にこなしているだけなのだろう。
ましてや式典などの「おことば」なんか、宮内庁の役人あたりが美辞麗句を並べたてた作文を、ただ読み上げているだけなんだろう。
天皇や皇族が、自分の考えを口にすることなんかあるわけなく、そんな言葉は聞く必要がない…と、多くの人が思っているはずだ。
だが、それは全くの誤解である。
天皇陛下も皇族方も、おことばや記者会見を国民にメッセージを届けられる数少ない機会と捉え、その発言はご自身で作成されているのだ。
もちろん、天皇・皇族に限らず重要な立場にある人ならば、何でもかんでも思いついたことを放言できるわけがない。
東京オリンピック・パラリンピックの組織委員長の立場にありながら、平気で「あの子は大事なところで必ず転ぶ」なんて放言するような政治家とは、言葉に対する注意がまったく違う。
天皇陛下や皇族方は、もちろん自らの発言の重みを自覚しておられるから、十分に神経を使い、配慮をして言葉を選ばれる。
しかしそれは決してただ無難な八方美人の言葉ではない。渾身の努力で、練りに練って選び抜いた言葉で、ご自身のお考えを我々に示しておられるのである。
ゴー宣道場の師範、高森明勅氏は天皇陛下や皇族方のおことばを読み解くエキスパートで、折につけそのご発言の意味を解説してくれる。
例えば昨年9月、国際オリンピック委員会(IOC)総会に 高円宮妃久子殿下 がご出席しスピーチをされたが、実はこれは大変なものだったのだ。
総会ご出席は東京五輪招致活動への「 皇室の政治利用 」になりかねないと、他ならぬ天皇陛下が大変憂慮されていたのだが、それにもかかわらず、安倍政権はゴリ押しで実行させてしまった。
そんな中でのスピーチで、高円宮妃殿下はこうおっしゃったのである。
「 IOC評価委員会の委員の皆さまは、本日ここに私がいることを驚いていらっしゃるかと思います。実は、私自身も皆さまと同様に驚いております 」
要するに 「私は本来、こういうところに出て来てはならない立場なのです」とおっしゃっている のだ。にもかかわらずここにいて、そのことに自分でも驚いているというのは、 無理やりこの場に引っぱり出した安倍政権に対する強烈な異議申し立てなのである。
そしてさらに妃殿下はこう続けられる。
「 東京で、皇室の役割や立ち位置についてお話ししたことは、現在でも当てはまります 」
皇室の役割や立ち位置とは政治には関われないというもの であり、それが今も当てはまると言うことで、 このスピーチは五輪招致を訴えるものではないと表明されたのだ。
続けて妃殿下は、IOCやスポーツ界による東日本大震災被災地支援への感謝や、スポーツ振興の意義ということに絞って話をされた。そして最後に「 さて、これからいよいよチーム・ジャパンのプレゼンテーションが始まります 」とおっしゃった。
つまり、自分のスピーチは東京五輪招致のプレゼンテーションではないということを、改めてはっきりと示されたのである。
懸念された「皇室の政治利用」を避け、安倍政権に対してもそれとなく、しかしはっきりと釘を刺している。 これは考えに考え抜かれたスピーチだったのである。
2月21日、 皇太子殿下 のお誕生日2日前に行なわれた記者会見における殿下のご発言も、実に奥の深いものだった。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h26az.html
皇太子殿下は「この1年を振り返り,印象に残ったことについて」という質問に対して、まず度重なった台風・豪雨災害の犠牲者への哀悼の意と、遺族・被災者へのお見舞いと早期の復興を祈るお気持ちを話され、さらに最近の大雪による被害を心配された。
さらに、雅子妃殿下と共に東日本大震災被災地を訪問された時のことを挙げ、妃殿下と共に被災地の復興に永く心を寄せていくとおっしゃっている。
そして次に「 現在、日本社会は、様々な意味で転機を迎えています 」とした上で、社会の中から諸課題を克服するための前向きな取り組みが生まれていることを実感したとして、全国各地でご覧になった実例----東北の被災地で、地域ぐるみで高齢者や子育て層などを支援している仮設住宅、全国障害者スポーツ大会で参加者を支えるボランティア、開発途上国での草の根協力のために派遣される青年海外協力隊など―---を紹介された。
わしが中でも注目したのは、「 山間地域の皆さんが協力して、里山の景観や伝統的な農法を保存し、継承しながら、努力されるなど地域活性化のために各地で様々な取組が行われていました 」という例を挙げられていることだ。
これらの実例を紹介した上で、皇太子殿下はこうおっしゃっている。 -
「皇室の歴史から予見する、雅子妃殿下のご回復」小林よしのりライジング Vol.46
2013-07-16 19:00157pt雑誌「歴史人」で連載してきた『 女性天皇の時代 』は、現在発売中の8月号で最終回である。 8人10代(2人は「重祚」といって、2度皇位についている)の女性天皇のうち、5人目の元正天皇で連載は終わってしまうのだが、残りは書き下ろしで書籍化する。 タイトルが二転三転して、結局 『 女性天皇の時代 』 に決まって、ベスト新書から 8月8日 発売予定だ。 この本では、日本の女帝が決して「例外」的なものではなく、歴史上極めて大きな役割を果たしていること、女帝の存在は立派に日本の伝統に適うこと、そして、今後の日本に女帝が誕生することこそが、明るい未来を拓くということを、可能な限りわかりやすく、楽しく読めるように心がけて書いた。 さらには「男系固執」の本性が、実は単なる男尊女卑に過ぎず、シナの思想の影響に過ぎず、こんなものにこだわる必要はないということを説いている。 今週は、その本で書ききれなかった古代史の話をしよう。 史上3人目(4代目)の女帝・ 持統天皇 は、天武天皇との子である 草壁皇子 (くさかべのみこ)を何としても皇位に即けたいと思っていた。ところが当時は、天皇に即位するには最低でも40歳程度の年齢と、それに伴う政治的実績が必要であり、その条件が整う前に草壁皇子はわずか28歳で早世してしまった。 すると持統天皇は草壁皇子の遺児、つまり自分の孫である 軽皇子 (かるのみこ)を皇位に即けようと執念を燃やす。 そしてそれまで固く守られてきた天皇即位の条件も破り、わずか15歳の軽皇子を強引に皇位に即けてしまう。それが第42代・ 文武天皇 である。 もちろん何の実績もない15歳の天皇が政治を司るのは無理で、 退位した持統天皇が上皇(太上天皇)となり、実権を握り続けた。 文武天皇は即位後間もなく3人のキサキを迎えている。もちろん「自由恋愛」などありえようもなく、相手も全て持統上皇の意向によるものだった。 ところが、 文武天皇には「皇后」が不在だった。 天皇のキサキには格式があって、養老令の規定では最上位が「 皇后 」で、もちろん一人だけである。 その次が「 妃 」で、これは定員二人。皇后と妃は皇族女性しかなれない。 その下が「 夫人(ぶにん) 」、定員三人で、主に中央貴族の娘が選ばれ、さらにその下が「 嬪(ひん) 」、定員四人で地方豪族の娘が選ばれることが多かった。 文武天皇のキサキは3人とも皇族ではなかったため、「皇后」だけでなく「妃」も不在で、「夫人」が一人で「嬪」が二人だったという。 その中では最高位となる「 夫人 (ぶにん)」となったのは、 藤原朝臣宮子娘 (ふじわらのあそんみやこのいらつめ)。その父は 藤原不比等 (ふひと)、祖父は藤原鎌足だった。 持統上皇は、自分の父である天智天皇の片腕として「大化の改新」などに貢献した藤原鎌足の子・不比等を文武天皇の後見役に選び、その娘・宮子を「夫人」とすることで不比等を文武天皇の「義父」にした。 こうして、自分に万一のことがあった場合に後事を託そうとしたのである。 一 人も皇族女性を迎えなかったのも、皇族女性は、宮子(みやこ)より格上の「皇后」か「妃」になり、その父親の発言力の方が不比等より大きくなってしまうからだった。 藤原宮子 は「かぐや姫」のモデルだという説もあるが、その生涯については不明な部分が多い。 和歌山県の道成寺に伝わる言い伝えでは、九海士(くあま)の浦(現在の和歌山県御坊市)という小さな漁村の海人夫婦の子だとされている。 40歳を過ぎても子宝に恵まれなかった夫婦が、八幡宮にひたすら祈願してようやく授かった子で、八幡宮からとって「宮」と名付けられたと伝えられる。 だが宮はどういうわけか、大きくなっても髪の毛が全く生えなかったという。 ある年、九海士の浦は不漁が続いた。この時、海底から不思議な光がさしていたが、その光の正体を確かめにゆく勇気のある者はいなかった。 そこで宮の母は「娘に髪が生えないのは、前世の報いであろう」と、罪滅ぼしに村の人々を救うべく海に入り、海底で光るものを見つけた。 それは小さな黄金仏であった。これを持ち帰ると海から光は消え、浦は大漁続きとなった。 宮の母は黄金仏を大切に祀り、願をかけた。すると宮に美しい黒髪が生えた。 やがて身の丈よりも長い美しい黒髪となり、年頃となった宮は「髪長姫」と呼ばれるようになった。 ある日、一羽の雀が木の枝にかかった宮の長い髪をくわえて飛び去った。雀は奈良まで飛んでいき、都の宮廷の軒端に巣をかけた。 たまたまこの時、右大臣・藤原不比等が参内し、雀の巣から長さ七尺あまりもある女の美しい黒髪が垂れ下がっているのを見て、この髪の持ち主を宮仕えさせようと考え、持統天皇に進言した。 持統天皇の勅命によって使者が諸国を尋ね回った結果、九海士の浦の宮がその髪の主とわかり、 都へ上った宮は藤原不比等の養女として迎えられて名を宮子姫之命と改め、文武天皇の夫人となった。 だが宮子姫は故郷のこと、特にこの黒髪を恵んでくれた観音像への思いを忘れられず、それを聞いた文武天皇は、観世音のために寺を建立し、国の鎮めの霊場とせよと命じる。こうして 道成寺 が造営されたという。 もちろん、史実とは到底思えない話である。それに、いくら藤原不比等の養子に入ったとしても、地方の海人の娘が天皇の夫人となり、その息子が後に天皇になるということはこの時代には考えられない。 とはいえ、この伝説の中にもいくばくかの真実が含まれているのではないかとも思える。 つまり、このような伝説が生まれてしまうほど、藤原宮子は貴族らしからぬ、庶民的な女性だったのではないだろうかという気がしてくるのである。 この頃の藤原不比等はまだ朝廷内での地位が低く、政治的基盤が盤石ではなかった。持統上皇の個人的な信任こそ得ていたが、もし上皇が崩御すればたちまち失脚することもありえたのだ。 この不安定な状態を解消する方法は、持統上皇の存命中に、宮子が文武天皇の子、それも男児を産むこと以外になかった。 そして文武天皇と藤原宮子の間には5年目にして、男子が誕生した。 首皇子(おびとのみこ) 、後の 聖武天皇 である。持統上皇にとっては曾孫となる。 藤原不比等が自分の孫を天皇にするために、あらゆる努力をすることは間違いない。持統上皇は孫の即位を見届けただけでなく、曾孫の将来の即位までほぼ確実としたわけである。 だがそこでやるべきことはやり尽くしたと安心してしまったためか、持統上皇は、その翌年に急病となり、そのまま崩御してしまった。おそらく持統上皇は満足して生涯を終えることができたであろう。 だが、後には2つの不幸が残された。
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