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記事 7件
  • 「コロナ“後遺症こわい”を問い質す」小林よしのりライジング Vol.379

    2020-11-24 20:05  
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     日本の新型コロナ死者が2000人に達したとして、わざわざマスコミが見出しをつけて報じていたが、 約10か月かけて、たかだか2000人 である。ちょうど1年前、令和元年11月の統計を見ると、1か月間の死者総数が約12万人、内訳は、感染症の死者だけで2000人/月、肺炎8000人/月、誤嚥性肺炎3600人/月にものぼり、新型コロナの死者とは比較にならない規模だ。マスコミは、日本人はめったに死なないものだとでも思っているのだろうか。
    ●後遺症のない2人が司会・進行しているのに…
     そんななか、またもや盛り上がってきたのが 「コロナ後遺症の恐怖」 である。感染から回復した人には、その後も呼吸苦やせき、だるさ、脱毛、嗅覚・味覚の異常などが残る場合があるという。
     11月22日(日曜)のTBS『サンデージャポン』では、肺がん専門医の奥仲哲弥医師を中心に番組が作られ、「後遺症の怖さ」を煽る内容になっていたが、その司会は、実際にコロナに感染して回復し、特になんの後遺症もなく、当たり前のように仕事に戻っている爆笑問題の田中裕二と山本里菜アナが務めているのだから、まったくトンチンカンだった。
     番組でまず紹介されたのは、アメリカの女優アリッサ・ミラノの自撮り映像だ。
     
      アリッサ・ミラノ
     アメリカでは、新型コロナの患者に脱毛の症状がみられるケースがあるのだという。そして、アリッサ・ミラノも、自身がコロナに感染して、回復したあとも、ブラッシングするたびに髪が抜けるのだと言って、わざわざ入浴後の姿を晒して、髪が抜ける様子を実演してみせていた。
     
      抜けた毛を見せつけるアリッサ・ミラノ
     ロングヘアなので、まとめるとすごくごっそりと抜けたように見えるし、それをカメラに向かって突き出して「ほら、これを見て」と言っている感じは、ホラー映像そのものだ。
     それに、自分の髪が抜ける様子をわざわざ自撮りしてまで見せつけようとする彼女の精神状態そのものがひどく病んでいるように感じられて、その精神状態のままに置かれていることこそが、なによりの脱毛の原因なのでは……とすら思えた。
     アメリカでは、大勢のコロナ死者が出ているのだから、肌感覚としての恐怖は強いだろうし、ロックダウンによって女優としての仕事もなくなってしまったはずだから、そのストレスも重なっているだろう。日本でも人気女優の自殺が相次いだが、アリッサ・ミラノもきっと不安とストレスが倍増しているのではないかと感じた。
  • 「学級民主主義をやめて合体ロボ主義へ」小林よしのりライジング Vol.346

    2020-02-18 19:50  
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    『ゴー宣』のファンだという人や、単行本も全部買い揃えているという人が、必ずしも本当にその内容を理解しているとは限らない。
     理解できないままファンになっている人は、何かのきっかけでアンチに転じる危険性が高いから、要注意である。
     最近「ゴー宣道場」の門下生を辞めていったり、そこからアンチになったりした者が、 「ゴー宣道場は民主主義じゃない」 とか言って非難していると噂に聞く。
     これなどは『ゴー宣』の思想の初歩の初歩すら分かっていないアンポンタレである。
     そんなことは当たり前じゃないか! 『ゴー宣』はずっと以前から「学級民主主義」という言葉を使って日本の民主主義、特に戦後民主主義といわれるものを批判しているじゃないか!
     それなのに、なぜ今さらそんなことを言い出すのかといえば、やっぱり読んでも理解できない者がいるということだ。 
    『ゴー宣』の本当の読者なら、「学級民主主義」というものの意味は理解していなければおかしい。
     わしは『民主主義という病い』の冒頭で、 「学校のクラスで教わる理想と善悪だけの学級民主主義と、国家レベルの権力と欲望を調整する民主主義は違う。世界各国の民主主義の形式も違うしな」 と述べている。
      
     最初にわしが『ゴー宣』に「学級民主主義」という言葉を登場させたのは、『新ゴーマニズム宣言』第2章 「学級民主主義を捨ててプロになれ!」 (初出・SAPIO 1995年10月11日号)である。
     それまで『ゴー宣』を連載していた「週刊SPA!」の当時の編集長が、命がけでオウム真理教と戦っているわしの原稿と、面白半分でオウムの擁護をする執筆者の原稿を「平等」に扱い続けたために、わしはついに堪忍袋の緒が切れて、SPA!の連載を打ち切ってSAPIOに移籍した。
     そうしたら、若い編集者やモノ書きの間で 「結局小林よしのりって異論を許さないんだよな」とか「民主的じゃないんだよ」 といった反発が広がった。
      しかし、「誰のどんな意見でも平等に扱う」なんてことは、クラスのホームルームの民主主義でしか通用しない。
      プロの世界なら、優れた意見と劣った意見の価値判断の差がつけられて、そこに「不平等」な扱いが行われるのは全く当たり前の話である!
      たったそれだけのこともわからずに、嘘でも駄文でも愚論でも平等に扱えと言い出す幼稚で甘ったれた連中が多すぎるものだから、わしはそれを称して「学級民主主義」と言ったのだ。 だから、門下生といえどもわしが全てを「平等」に扱うことなどない。
     あれから25年も経つのに、これくらいのことが『ゴー宣』読者だという人にも伝わっていないのだから情けない。
     そして「学級民主主義」には、もうひとつの意味がある。
     それは 表面上の主権者が、本当は主権を持っていない ということである。
  • 「立憲主義どころじゃないって無茶苦茶」小林よしのりライジング Vol.332

    2019-10-08 20:35  
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     立憲民主党という政党ができ、立憲主義、立憲主義と何度となく繰り返してきたため、「立憲主義」という言葉だけは一般にも知られるようになってきた。
     ところが、「立憲主義」とはどういう意味か、それ以前にそもそも「憲法」とは何なのかということを理解している人が全然いないのだから、全く途方に暮れてしまう。
     れいわ新選組代表・山本太郎は、東京新聞9月22日付のインタビューでこう発言した。
    「『立憲主義に基づいた政治を』との主張は大切だが、それどころじゃない。厳しい生活を少しでも楽にする政策は何なのか、具体的に話さなければいけない」
    「憲法二五条が定める『健康で文化的な最低限度の生活』ができている人がどれだけいるのか。現行憲法を守らずに憲法を変えようという人たちは信用できない」
     これを読んでわしは即座にブログに「山本太郎、終了!」と書いた。
     先の参院選では、わしは山本太郎に投票した。そのこと自体は、重度身障者を2名も国会に送り込み、一気に国会をバリアフリー化してしまうという快挙につながったから良かったと今でも思っている。
     だが、憲法について、立憲主義について、ここまで完全なる無知であることがわかってしまっては、もうこの先は支持できない。
      憲法とは、国民が権力を縛る命令書である。
     そして、権力は憲法に書いてあることを守らなければならないというのが、立憲主義である。
     憲法25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書いてあるのだから、権力はこれを守り、国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障しなければならない。これが立憲主義というものだ。
      山本太郎は、憲法25条が守られていない、すなわち立憲主義が守られていないと憤慨しておきながら、その一方で「いまは立憲主義どころじゃない」などという暴言を吐くのだから、もうシッチャカメッチャカである。脳みそがひん曲がっているとしか思えない。
    「立憲主義どころじゃない」 というのは、 「権力は憲法の縛りに従っている場合じゃない」 という意味である。つまりは事実上 「権力は憲法を守らなくていい」 と言っているわけで、山本太郎は 「権力の暴走を容認する」 と表明していることになるのだ。
     そして、まさに安倍政権も「立憲主義どころじゃない」と思っているから、憲法を守らないのだ。 憲法25条だけでなく、憲法53条に規定された臨時国会召集を無視したケースもそうだし、あいちトリエンナーレの補助金不交付も憲法21条に書かれている「表現の自由」の保障に違反している疑い が濃い。
     政権がそんな状態だからこそ「立憲主義を守れ!」と言わなければならないのに、「立憲主義どころじゃない」なんて言ったら、もうおしまいである。政権にしてみたら、「山本太郎さん、ありがとう! お言葉に甘えて、憲法は守りません!」ってなもんだろう。
     しかし、山本太郎の発言がとてつもなくヘンだということに気づいた人は、果たしてどれだけいただろうか?
     政治家でさえレベルが著しく低下していて、立憲主義とは何かを正確に理解している人の方が少数派だろう。
     ましてや国民は立憲主義なんか一切理解しておらず、山本太郎の発言に違和感も持たずにスルーした者の方が大多数なのではないか?
     日本では、誰も「憲法」も「立憲主義」もわかっていないのだ。
     安倍首相は4日の臨時国会の所信表明演説の最後に「令和の時代の新しい国創り」について触れ、 「その道しるべは、憲法です」 と述べ、憲法改正への意欲を見せた。
      安倍晋三は、憲法を「権力を縛る命令書」ではなく「国創りの道しるべ」だと思っている。安倍も立憲主義を一切理解していないのだ。
     もっとも安倍は以前も国会で、「憲法は国家権力を縛るもの」というのは 「かつて王権が絶対権力を持っていた時代の考え方」 であり、今の憲法は 「日本という国の形、そして理想と未来を語るもの」 だなどと、八木秀次あたりから吹き込まれたのであろうトンデモ憲法論を堂々と答弁していたくらいだから、今さら驚かない。
     ともかく安倍は参院で「改憲勢力」3分の2を割った今国会においても、憲法改正に意欲を見せている。それ自体は良い。わしは憲法改正の意欲を持ち続けていることは好意的に評価する。
     ところが共同通信の世論調査では、「内閣が優先して取り組むべき課題」(2つまで回答)のトップは「年金・医療・介護」(47.0%)で、次が「景気や雇用など経済政策」(35.0%)。 「憲法改正」はわずか5.9%で、8番目だった。
     つまり、国民の大多数も山本太郎と同様に、憲法なんか後回しでいい、今は目の前の暮らしの方が大事だとしか思っていないわけで、立憲主義もへったくれもありゃしないのである。
  • 「民主主義国家ではジャーナリストが謝罪なんかしない」小林よしのりライジング Vol.291

    2018-11-06 19:45  
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     シリアで反政府武装集団に3年もの間監禁されていたフリージャーナリスト・安田純平氏が解放され、帰国したが、するとまたもやネトウヨどもが「自己責任」を唱えてバッシングし始めた。
     わしがこれをブログで 「安田純平氏をバッシングするヘタレ虫ども」 と批判したら、(https://yoshinori-kobayashi.com/16823/)、ネトウヨどもはわしの4年前のブログ 「後藤さんはプロなのだから自己責任だ」 (https://yoshinori-kobayashi.com/6780/)を引っぱり出してきて、 「小林は、フリージャーナリストの後藤健二氏が殺害された時は『自己責任だ』と言っていた、ダブルスタンダードだ!」 と騒いでいたらしい。
     度外れた馬鹿である。馬鹿は死ななきゃ治らないと昔から言われているが、その言葉に尽きると、しみじみ情けなくなるのがネトウヨの腐乱脳みそである。
     そもそもこの件で「自己責任」という言葉を使うこと自体には、別に問題があるわけではない。
     プロの戦場ジャーナリストは誰だって、自分の意思で危険地帯に入っている。自分の身は自分で守るのが原則であり、たとえ命を落とすようなことがあっても、誰のせいでもない。「自己責任」だ。そんなのは当たり前のことである。
     だから後藤健二というジャーナリストが殺されても「自己責任」であり、国家のせいでも、誰のせいでもない。
     他方で、日本国の国民には 「基本的人権」 が保障されると憲法には書かれている。
      憲法は国民から国家権力への命令書である。
      憲法に書いてあるということは、権力は国民から「基本的人権を守れ」と命令されているのであり、国家は自国民であればどんな人でも守らなければならない。
      その国民個人の思想信条などは関係なく、反権力の人でも等しく守らなければならないのだ。
      だから、この場合に権力者が絶対に「自己責任」という言葉を使ってはいけないことは、言うまでもない。
     それが「立憲主義」の基本であり、 「自己責任で、勝手に行ったのだから、政府は守る必要はない」「政府に迷惑をかけた」「国民に謝罪しろ」 と言うネトウヨは「立憲主義」を知らない腐乱脳の馬鹿どもなのだ。
     橋下徹はツイッターで、安田氏の取材活動について、 「単に自分自身が現地に行ったというところにしか価値がない。それなら世界の報道機関が報じているもので十分だ」 とこきおろしている。
     安田氏の取材活動には、ジャーナリストとして価値のある成果があったのかと疑問を呈しているわけだが、これはただの難癖にすぎない。
      戦場ジャーナリストが価値のある仕事の成果を挙げられるかどうかなんて、実際に危険地帯に入ってみなければわからない。そこはバクチであり、どんなに腕のあるジャーナリストだって、大ネタをつかめるかどうかは運次第なのである。
     それに、少なくとも今回の安田氏の活動によってわかったことはたくさんあり、十分な成果があったといえる。
      現地では「人質ビジネス」が拡大していて、100人もの人質を収容する建物まであるということ、各組織から身柄を預かり、人質の世話を受託するビジネスが成立しているという驚くべき事実が明らかになった。これだけでも安田純平氏の体験取材は大成果だと言える。
     人質になるとどんな目に遭うのか、どんな虐待があるのかも、得難い情報である。
     また、安田氏解放のための身代金を払ったのはカタールだが、なぜカタールの国が身代金を支払ったのかという事情も見えてきた。
  • 「男女平等イデオロギー国家・スウェーデン」小林よしのりライジング Vol.285

    2018-09-18 20:45  
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     日本の医療の仕組みや国民性を異常に自虐し、海外の仕組みを無条件に賛美する 「海外出羽の守」 がよく持ち上げる国に 高福祉国家として有名なスウェーデン がある。
     スウェーデンは立憲君主制の王国で、日本の約1.2倍の国土に、人口は東京都とほぼ同じ約1000万人。首都ストックホルムは札幌と似た気候で、11月から3月まではマイナス気温。冬の日照時間は1日6時間ほどしかないという厳しさだ。
     日本には、この10年ほどで家具の『IKEA』や、ファスト・ファッションの『H&M』などが進出してきた。日本ともアメリカとも違う独特のセンスに、なんとなく憧れを感じる人も多いかもしれない。
     
    ■高福祉・高負担の福祉国家
     スウェーデンは、「『海外では女医が多い』の疑問」で紹介した通り、医者になかなかたどり着けないが高福祉の国家だ。
     18歳以下は医療費無料、18歳以上でも1年間に支払う医療費は上限が約1万2000円まで。大学・大学院まで教育費無料、児童手当、育児休暇時の給与補償、無料託児所、地方自治体による高齢者の在宅ケアなど充実している。
     ただし、税金はべらぼうに高い。所得税は、収入に関係なく 地方税が約30% 。さらに年収390万円以上になると 国税も20%~25% 。プラス 社会保険料として給与の7%を個人負担 、28%を企業が負担。日々の生活では、 消費税が25%(軽減税率が導入されているが、食料品でも12%) という具合だ。
     憧れの高福祉を享受するには、それ相応の負担をしなければならない。
    ■専業主婦を否定する男女平等イデオロギー国家
      スウェーデンは国家理念として 「男女平等・人権尊重・個人尊重」 を掲げている。 この3本柱は スウェーデン・バリュー と呼ばれ、国民に共有されており、社会制度に色濃く反映されている。スウェーデン国民はすべて平等で、等しく福祉と社会保障が提供され、絶対に差別されてはならない。
     しかし、スウェーデンも王国発祥の時点からこのような国家理念を掲げていたわけではない。 もともとは「父親が外で働き、母親が家を守る」という夫婦分業の成立した《伝統的な家族》が一般的だったが、 1930年代から政権をとってきた社会民主党が、戦後、その理念である「男女平等」「女性の家庭からの解放」を急激に促進させた のだ。
  • 「政治体制としての権威主義に堕した国民」小林よしのりライジング Vol.251

    2017-12-19 20:00  
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     朝日新聞13日夕刊に載った、塩倉裕編集委員による論壇時評「(回顧2017)論壇 忍び寄る権威主義に危機感」は、興味深い記事だった。
    「忍び寄る権威主義」とは何か?
     そもそも「権威主義」とは、わしが『ゴーマニズム宣言』のスタート時から一貫して批判してきたものである。
      権威と権威主義は違う。天皇のように、本当の権威(普遍的な秩序と信頼の要)は必要である。
      それに対して権威主義とは、権威とされたもの(普遍性がなく信頼性も怪しい)を絶対視し、盲従することをいう。
     形骸化した権威や、単なる権力に対しては「王様は裸だ!」と言わなければならないのだ。
     最初の『ゴー宣』の単行本の帯には「権威よ死ね!!」と書かれていた。編集者が考えたコピーだが、これはあくまでも「権威主義」はダメだという意味で使ったのである。
     記事ではまず、「世界」2月号に掲載されたロベルト・ステファン・フォアらの論考を紹介する。
     北米や西欧の成熟した民主主義国で、民主主義に代わる政治体制としての「権威主義」の支持に前向きな市民が増え、「軍による統治がよい」「議会や選挙を顧みない強いリーダーが望ましい」と考える人も増加している。フォアらはそう主張した。 「民主主義に代わる政治体制としての『権威主義』」 とは、どういうものか。
      政治の場における「権威主義」 とは、 「支配関係を価値の優越者 (上級者) と下級者との縦の関係において構成していこうとする秩序原理および行動様式」 (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)のことをいう。
     記事には 「軍による統治がよい」「議会や選挙を顧みない強いリーダーが望ましい」 と考える人が増加しているとあるが、このような、上からの権威の支配に対して下の者たちが服従するという構造が、まさに 政治体制としての「権威主義」 である。
     要するに 政治体制としての「権威主義」 とは「非自由主義」「非民主主義」であり、「独裁主義」「専制主義」「全体主義」などはこれに含まれるのだ。
     塩倉編集委員は、こう感想を述べる。
     どれだけ政治への不信が強まっても「民主主義の国で暮らすこと」の価値までが否定されることはないだろう――そうした楽観を揺さぶる論考だった。  もうお気づきだろうが、これは北米や西欧に限った話ではない。
      日本でも、安倍政権が議会も民主主義も憲法も全て無視して好き勝手やっているが、そのことに対して強い批判も上がらなくなっている。
      むしろ「議会や選挙を顧みない強いリーダーが望ましい」とでも言わんばかりに、政権に高支持率を与えているという状況ではないか。
     日本もすでに権威主義になっており、強いリーダーにただ付き従っていた方がいい、民主主義でなくてもいいという感覚が確実に広がっているのだ。
     一方、「権威主義」とよく似たものに 「パターナリズム(paternalism)」 がある。これは強い立場の者が、弱い立場の者の利益になるとして当人の意思を問わずにその行動に介入したり、干渉したりすることをいう。「paternal」は「父の、父らしい」という意味。念のため言っとくが、「パターン化(patterning)」とは全く関係ない。
      パターナリズムは、日本語では「父権主義」などと訳される。もともとは 、未熟な 子供の ため にいろいろ世話を焼く父親に由来する言葉だ。
     こういう父権主義的傾向というのは、ある意味『ゴーマニズム宣言』にずっとあったものともいえる。
  • 「『説明責任』を錦の御旗にするな!」小林よしのりライジング Vol.241

    2017-09-26 20:00  
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     山尾志桜里議員の不倫疑惑スキャンダルに対して、未だにバッシングが収まらない。
     そしてその際に、必ず言われるのが「説明責任を果たしていない」だ。
     しかし、山尾氏は「不倫はしていない」と言っているのだ。本人が「していない」ことを、それ以上どう説明しろと言うのだろうか? 
      立証責任は「している」と主張した側にある。 そして山尾氏が不倫をしたという決定的な証拠は、未だに誰も出せていないのだ。週刊文春も細野豪志の「路チュー」や今井絵理子の「手つなぎ」のような決定的写真を一枚も撮ってない。
     山尾氏に 「説明責任を果たせ」 と言っている連中は、要するに 「やったんだろ? やったと言わないと、説明責任を果たしたとは認めないぞ。どういうふうにやったんだ? 説明責任果たせよ!」 …と言っているのである。
     下司の極みでしかない暴言を、「説明責任」という言葉でごまかしているだけなのだ。
      それに対して、森友・加計学園疑惑で「説明責任」が問われるのは当然である。
     辛坊治郎などは「加計問題」は「フェイクニュース」であり、何の問題もないと言っているようだが、すっかり安倍政権の太鼓持ちになり果てて、常識的な思考力も失ってしまったらしい。
      これは巨額の公金が投じられる問題である。 我々の税金も投じられるし、今治市は総額37億円相当の建設予定地の無償譲渡と、最大96億円の建設補助金支給、合計133億円もの補助を決めている。それならば、その支出が妥当かどうか、国民に対して十分納得のいく説明が必要なのは当然である。
     その際には本当に獣医学部の新設が必要なのか、本当に今治市の地域振興の役に立つのかという説明責任も絶対に果たされなければならない。
      これは完全に公的な問題であり、全くやましいことがないのなら官僚が資料を隠さず、判断材料を全部テーブルの上に並べればいい。
     その上で、安倍が自分のお友達に便宜を図るために行政を歪めたのではなく、全く正当な手続きに則っており、税金の無駄遣いにもならないと、説明責任を果たして見せればいいだけのことだ。
      とにかく税金の無駄遣いをしてほしくないという公的な問題なのだから、説明責任は必要不可欠である。
      一方、豊田真由子議員のパワハラの場合は、説明責任が求められる類の話ではない。当事者間で裁判でもして調停すればいいことだ。
     実際、暴行に関しては元秘書が埼玉県警に被害届を出しており、捜査が進められているところだ。あとは、選挙で有権者が判断すれば済む問題だ。
      ただし、社会的にもパワハラがまかり通っているという問題があるから、それは許されないのだと啓蒙する意味では、あの暴言の音声を暴露したのは公的意義のあることだったと言える。
     だが、それならば他の議員も追及しなければならない。実際にあんなことをやっている議員は、他にもいくらでもいるはずだ。
      パワハラ議員を全部暴露させて、パワハラがまかり通っている体質を改めることこそが一番肝心なのであり、豊田だけを責めても意味がない。
     問題の本質に踏み込まず、豊田だけを槍玉に上げるのはただのリンチである。 今の大衆はただひたすら、リンチしたいという欲求のみを増大させている。これは民主主義の病いが露骨に表出した大問題だ。
     あらためて山尾志桜里議員の場合に戻るが、これは全く私的な問題だ。