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『転スラ』の人気の秘密は「面白さ」を「最小単位」で並列提供する「マルチ・カタルシス・システム」にあり!
2021-03-05 07:0050ptペトロニウスさんがYouTubeで引用していた記事が面白い。例によっていくらか長くなりますが、引用します。
荒木:僕らの世代はなんだかんだで「頑張れば報われる」という右肩上がりを前提で生きてきた。会社に入って、新人時代は給料低くても地道な努力をすれば、いずれ偉くなって処遇もよくなるぞ。そんな「修行モデル」で生きてきたんです。つまり、今はつらくてもいずれペイする、という長期的な採算で帳尻を合わせる前提で頑張ってきた人は多いはずなんです。ところが、バブル崩壊後の不況や終身雇用の崩壊でじわじわとその前提が崩れていき、このコロナでとどめを刺されてしまった。この劇的な前提の転換を冷静に受け止めないといけないですし、子どもたちはもっと純粋にこの前提をインストールしていることを認識しないといけないと思っています。
すると、子どもたちにかけるべき言葉も変えなければいけないということでしょうか。
荒木:そう思います。修行モデルが通用しなくなった世界では、何が大事になるのか。それは、「今この瞬間が楽しいか」という一点ではないでしょうか。例えば、野球に打ち込む子どもに「毎日素振りを100回やりなさい。頑張れば3年後の大会でヒットを打てるはずだから」というロジックはもう響かないと思ったほうがいい。「不確定の未来に向けての努力」は、彼らのストーリーには通用しないんです。素振りの意味を言い換えるならば、「ほら、今日やった分だけ、上腕二頭筋が太くなっているぞ」といった感じでしょうか。
つまり、努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている。
荒木:おっしゃるとおりです。すると、これからより大事になってくるのは、その都度その場で得られるリターンを自分で発見する能力です。昭和の大流行ドラマ『おしん』のような、耐え忍んで、耐え忍んで、耐え忍んだ先に……という期待感は、今の子どもたちは持ちづらくなっているでしょう。かつて、体育会系の部活で「体罰」が黙認されていたのも、受ける側の生徒たちが「この痛みの先に最高の結果が待っている」という文脈で許容できたからです。大人だって、会社の上司から理不尽なパワハラを受けても、10年後には「あの時の叱責があったから今の俺がある」と美談に変えられた。そのロジックはもう通用しないのだと自覚しないといけませんね。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00128/00050/
ペトロニウスさんはこの話を「小説家になろう」の作品群と重ね合わせて語っています。よければ聴いてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=shffngyNx6A
ここで語られている「努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている」。これが、キーワードです。
「小説家になろう」の作品は、しばしば「努力」が描かれていない、と批判されます。努力もしていないのに成功するなんてリアリティがない、と。
しかし、現代において「長年にわたって努力を続けた結果、成功する」という「修行モデル」の物語はもはや説得力がないのですね。
かつては、努力を続けさえすればその果てに「報い」が待っているということが信じられたのでしょう。それは社会全体が「右肩上がり」の成長を遂げていたからです。
だけど、現代ではその成長がほぼストップしてしまっているから、どんなに努力したところで「報い」を得られる可能性は非常に少ない。そこで、「努力に対する成果の“収支”の確定」が、「極端に短期」でしか認識されなくなったわけです。
いま努力したらすぐに成果が欲しい。あるいは、そのような成果しか信じられない。それが、現代の若年層のリアルだと思います。
これに対して、「辛抱が足りない」といった説教をすることはできます。でも、繰り返しますが、そうやって「辛抱」したところで、報われる可能性はほとんどないのが現代社会であるわけです。その種の説教はもはや無効になっているといって良いでしょう。
そこで、LDさんがいう「面白さの最小単位」の話が出てくる。「面白さの最小単位」とは、つまり、「いかに短いスパンで読者に先を読むインセンティヴを与えることができるか」というテーマです。
LDさんがいうには、かつて「紙帝国」がメディアを支配していた頃と現代とでは、メディアのあり方そのものが変化してしまっていると。
たとえば漫画は、「紙帝国」の栄光の象徴であるところの『少年ジャンプ』が最大部数600万部を売り上げていたときには、「ひたすら物語を長大化する」ことが最適戦略だった。なぜなら、ヒット作が出たらそれを延々と長続きさせることが必要だったから
ところが、ソシャゲやネット小説など、他の多数のエンターテインメントと激しく競合しなければならない現代においては、そのやり方は通用しない。そこで、読者に先を読んでもらうため、「面白さ」を「最小単位」で提供する方法論が起こることになる。
これは、たとえばTwitter漫画などを見ていると最もわかりやすいことでしょう。そこではわずか4ページで「面白さ」を提供しなければならない。エンターテインメントの表現のあり方そのものがメディアの変遷にともなって根本的に変わってしまっているわけです。
現代においては、たとえば主人公が延々と「努力」を続け、その結果、大きな「成果」を得るといった「修行モデル」の描写、いい方を変えるなら「面白さの最大単位」を求める方法論は通用しない。
その理由は、そう、「努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている」からです。
それでは、「面白さの最小単位」とは具体的にどのようなものなのか? 色々考えられますが、最も端的なものは「小さな成功体験」でしょう。「ほら、今日やった分だけ、上腕二頭筋が太くなっているぞ」というそれです。
いま、「小説家になろう」発のアニメ『無職転生』や『転スラ』で描かれているものは、まさにその積み重ねですね。『無職転生』では、ちょっと努力すると、すぐに成功する。『転スラ』に至っては、ほとんど何も努力することなしにひたすら成功だけが繰り返される。
もちろんそこには苦難も失敗もあるけれど、この場合、それは本質ではない。これは、「努力なしに栄光なし」という「修行モデル」の考え方すると、単なる甘ったるいファンタジーであるに過ぎません。「なろうは現実逃避だ」という類の批判が生まれることも無理はないといえるでしょう。
ですが、何度も繰り返しますが、「努力」と「成功(栄光)」をワンセットで考える思考のフレームそのものが、すでに過去のものになってしまっているのです。
こういった「修行モデル」なり「努力神話」のナラティヴはもう現代においては通用しない、とぼくは考えます。
『転スラ』は「面白さ」を「最小単位」にまで煮詰めるために、「努力」というパートをほぼカットした。いわば、「フリ」があって「オチ」があるという方法論から「フリ」の部分を切除してしまった。これが、『転スラ』から非常にスマートな印象を受けるその秘密だと思います。
しかし、「フリ」をカットして「オチ」だけがある、そんな物語が面白いのか? いや、あきらかに面白いのですが、それはなぜ面白いのか? そこがいまひとつうまく言語化できない。
そこで、他者の言説に目を向けてみましょう。飯田一史さんは、『転スラ』の魅力について、このように語っています。
作品内容に目を向けてみよう。『転スラ』は何がおもしろいのか?
用意しているおもしろさの種類が多様なのである。
キャラのかけあいの楽しさもあるし、複雑な物語展開もあれば、主人公リムルなどの転生者たちがなぜ異世界に召喚されたのかといった「世界の謎」もある。大集団同士が戦略を練って戦いあう「戦記」要素もあるし、コミュニティをいかにして導いていくかという「内政」要素もある。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79230?page=2
さすがというか、この意見は非常によくわかる。『転スラ』は「おもしろさの種類」が多彩なのです。よくなろう小説は『ドラクエ』をフォーマットにしているといわれますが、『転スラ』はむしろより現代的なゲームに近い。
ぼくはここでたとえば『ルーンファクトリー』というゲームを思い出します。『ルーンファクトリー』では主人公にはいくつものパラメーター、つまり成長要素が用意されていて、それがいろいろな行為によって少しずつ向上していきます。たとえば、ただ一定歩数を歩いただけでもあるパラメーターが上昇したりする。
『転スラ』はこれと似ているんじゃないか。最初の段階ではシンプルに主人公のレベルアップが「気持ちよさ」を生んでいるんだけれど、どんどんレベルが上がり、視点が高くなるにつれて、べつの「最小単位の面白さ」が開放されていく。
たとえば、主人公であるリムルの成長だけじゃなくて、脇役のだれそれの成長といった要素も入ってくるわけです。あるいは、国家の拡大とか内政の充実といった要素も出てくる。
そして、それぞれの要素で「ちょっとずつ気持ちよくなれる」ようになっている。いわば、マルチ・カタルシス・システム。これが『転スラ』の「面白さ」の根幹にあるものであるように思います。
なろう小説とはつまり「ビデオゲーム疑似体験小説」であるといって良いと思うのですが、『転スラ』にはロールプレイングゲーム要素もあれば、アドベンチャーゲーム要素もあれば、シミュレーションゲーム要素もある。
そして、つねにそのどれかの「ゲーム性」が動いていて、「小さな成功体験」が続く、なので読者は飽きずに見つづけることができる。そういうことなのではないか、と。
そのひとつひとつを取れば、おそらく『転スラ』より優れた作品はあるでしょう。もっとよくできた「成長もの(ロールプレイングゲーム)」もあれば、「内政もの(国政シミュレーションゲーム)」もあるだろうし、「学園もの(教育アドベンチャーゲーム)」もあるに違いない。
しかし、『転スラ』の特徴は、それらの「面白さ」を細かく細かく打ち出してくるところにある。ひとつひとつの「面白さ」は、あるいはカタルシスは小さいかもしれないのだけれど、それが次を読むインセンティヴを生み、いつのまにか「大きなストーリー」に、つまり「最大単位の面白さ」に到達して大きなカタルシスを得るまでになる。
ようするに『転スラ』から得られる教訓はこうです。「面白さは最小単位まで分割し並列せよ」。この作品の本質的な魅力は、たしかに「面白さが多様であること」にあるのだけれど、それだけでは言葉足らずかもしれない。 むしろ「多様な面白さが並行していることによって常に「小さな成功体験のカタルシス」が提供される仕組みができていること」にあるというべきではないかと。
いまでは最初から「最大単位の面白さ」を目指す「修行モデル」のような超長期的な物語スタイルは受け入れられない。しかし、 -
『くまクマ熊ベアー』は「ポスト告発系」のなろう発アニメだ。
2020-11-14 23:0850pt
今季はわりとアニメを見ています。『魔女の旅々』、『神様になった日』、『くまクマ熊ベアー』、『トニカクカワイイ』など。どれも特に傑作というほどではないけれど、それなりに面白い。気楽に見れる。
そのなかでも『くまクマ熊ベアー』は気に入っています。ある日、なぜか(なぜだろう?)、無敵のクマ装備とともに異世界に飛ばされた女の子がその力で冒険したり人助けしたりするというお話。
原作はなろう小説で、『転生したらスライムだった件』や『痛いのは嫌なので防御力に全振りしたいと思います。』あたりとほぼ同じ雰囲気を感じます。ひたすら万能な主人公がその超絶能力を駆使して特に苦労もなくやりたい放題するという系統ですね。
まさになろう小説。キャラクターデザインの可愛さと無邪気な万能感が楽しいです。
ただ、これはいわゆる「物語」の面白さとは一風異なる味わいでしょう。物語とは、基本的にアップダウンとかコントラ -
恐怖と絶望が支配する「新世界系」の裏面には何が存在するのか?
2020-03-08 00:3750ptうに。コロナウイルスの猛威がはびこるなか、今年ももう3月になってしまったわけですが、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。ぼくはとりあえず部屋にこもってアニメを見ています。
おまえ、いつもそれだな!とわれるかもしれませんが、じっさい、うちのすぐ近くでもコロナの罹患者が出ているので、あまり積極的に外に出て行く気にはなれません。せっかくヘッドマウントディスプレイを購入したので、これでアニメとか映画とかゲームとかを楽しんで行きたいところ。
さて、今季のアニメはとりあえず『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』あたりを見ています。
「小説家になろう」発の、最近ではすっかりすたれたと見られるヴァーチャル・リアリティMMORPGもので、あるオンラインゲームでたまたまステータスを「防御力に全振り」したたまに異様に強くなってしまった少女の冒険? 日常? が描かれています。
まあそこは普通なのだけれど、なかなか画期的なのではないかと思うことに、これ、デスゲームじゃないんですね。ほんとにただのネトゲなの。
このジャンルの嚆矢はやはりみんな大好き『ソードアート・オンライン』だと思うのですが、いうまでもなく『SAO』は作中の死が現実の死に直結するデスゲームものでした。
だからこそ『SAO』はゲームでありながらリアルな冒険を描くことができたし、まさにそこがウケたのだと思いますが、それから十数年、『防振り』はもうまったく感覚が違う。
『SAO』の強烈な魅力であったダークでシビアな世界観と、それとうらはらの「生の輝き」がここにはまったくない。ペトロニウスさんが『転生したらスライムだった件』と並べてこの作品を語っていますが、なるほど、という感じです。
ちなみに、最近、息子が大好きといって見ている『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』のアニメを今ある奴全部見たんですが、これが、『転生したらスライムだった件』と同じ感覚を受けるんですよ。ドラマトゥルギー的には、実際の起伏が全然ない。俺強ええや強くてニューゲームみたいな感じなのですが、なんというか、そういう「くさみ」すらもない。ただ平坦にいろんなことが起こるのを眺めているだけの感じがする。
これは、仮に、成長物語=主人公がドラマのエピソードの連なりによって変化していくというものを物語の基本形に置くと仮定すると、非常に最低な、だめな、評価に値しない物語になります。だって、主人公の動機が駆動しないし、エピソードの連なりがカタルシス(LDさんのいう結晶点)がないものになってしまうので、「物語」の体をなさない。小説家になろうの昨今の作品に、これが多い。
ただ「現実」を描いて、その「連なり」を、ロードムービーのように眺めているだけでは、なんの感情的起伏も生まないじゃないか、という評価です。ただこれを、どうも様々な感情的起伏、生きる動機の悩みの果てに、「世界自体は残酷だけど美しい」という強度を「眺めたい」という欲望の系譜で考えると、もしかして、だから今は受けるのかな?という気がします。この文脈で考えると、物語のカタルシス的には、ほとんど起伏を感じない『転生したらスライムだった件』が、でも、良いのはなぜだろう?と不思議に思ったときの上記のラジオの分析がつながってくる気がします。
http://petronius.hatenablog.com/entry/2020/03/07/031439
ただ、どうなのだろう? これ、「世界の残酷さと美しさ」を描く系譜に配置していいものなのでしょうかね。シンプルに考えて、もし、これらの作品が「世界は残酷だけれど美しい」という「ミカサのテーゼ」(笑)を描くところに魅力があるとすれば、やはり物語の設定はデスゲームのほうが良いように思うのですよ。
だって、『転スラ』はまだしも『防振り』の世界は残酷でも何でもないですよね。ただひたすらにご都合主義というか、ほぼ運不運だけで決まっている感じ。
タイトルでは「防御力に全振り」といいつつ、攻撃力も凄いことになっているわけで、ふつうに考えたら面白い物語にはなりません。でも、じっさい見てみると、『転スラ』同様、ちゃんと面白いんですよね。いったいどういうこと???
この作品で何より印象に残るのはご都合主義の楽しさです。世界のすべてが主人公を愛しているというか、主人公に都合よく動いている感じ。理屈で考えればこんなことありえるはずもない展開の連続なんだけれど、その「おいおいおい」という感じが何とも楽しい。
ご都合主義の総本山であるところの「なろう」でウケてアニメ化したことはよくわかる気がします。ほとんど物語的な起伏は何もないのだけれど、まさにそこがひとつの魅力になっている。
愚考するに、これはたぶん、「世界の残酷さ」にフォーカスした「新世界系」と裏表の関係にある作品なのでしょう。「裏・新世界系」とでもいえばいいかな? つまり、世界は極度に不条理なものであるという認識は、逆にいえば極度の幸運として表れてもおかしくないということでもある、と。
一見するとただの古くさい意味でのご都合主義展開の連続のように見えるかもしれないけれど、じつはそうでもない。なぜなら、「努力をすれば報われる」といった「因果の物語」が無効化していることに関しては、『転スラ』や『防振り』も「新世界系」と変わりないからです。
「新世界系」ではどんなに努力しても無残に死が待っているけれど、「裏・新世界系?」では何ひとつ努力しなくても幸運が舞い込んでくる。両者はかけ離れているようだけれど、「すべては偶然。努力してもしなくても結果が変わるとは限らない」という世界認識が共通しているわけです。
で、ぼくはここでかつて「小説家になろう」のトップ・オブ・トップの作品だった『無職転生』をひき合いに出す誘惑を禁じえません。『転スラ』や『防振り』に比べると、『無職』はやっぱりクラシカルな意味で「物語」だったと思うのですよ。
ここでいう「物語」とは、「山あり谷あり」のドラマトゥルギーを指しています。ふつうに考えて、一般的な物語は主人公の状況が好転する「山」と、暗転する「谷」の両方があるからこそ面白いわけです。
『王子と乞食』でも、『大いなる遺産』でも何でもいいですが、古典的な意味での物語はほぼ必ずといっていいほど主人公を「谷」の底まで追いつめておいて、そこから「山」へのし上げ、また「谷」にひきずり下ろすというドラマ展開になっている。
その振幅の大きさこそがイコールで物語の面白さでもあるし、いかにして「山」と「谷」を作るかが作者の腕の見せ所であるともいえる。アレクサンドル・デュマとか、チャールズ・ディケンズとか、天才的な物語作家たちはいずれもこのドラマツルギーを巧みに駆使していました。
ところが、「新世界系」なり「裏・新世界系」ではその「物語」が成り立たないわけです。「新世界系」においては従来の意味での物語が成り立たないことは、いままでも繰り返し述べて来ました。
それ故にいままでの「新世界系」作品は「壁」でもって世界を区切る必要があったわけですが、「裏・新世界系」においてもやはり古典的な「物語」は成立しない。通常の意味で考えれば「山もなければ谷もない」からです。
ペトロニウスさんはこれをして「常に最低な、だめな、評価に値しない物語にな」るといっているわけですが、もちろん、だからこんなものは見る価値はないということではないでしょう。
まさにそれらの「物語不成立」にもかかわらず、じっさいに面白いということがこれらの「新世界系」なり「裏・新世界系」作品の新しさなのですから。
いい換えるなら、「物語」とは「主人公のアクション」に対する「世界のリアクション」、「それに対する主人公の再度のアクション」といった連続を描くものであるともいえる。
しかし、「新世界系」、「裏・新世界系」においてはそういう意味での「アクション」に対してあたりまえの「リアクション」が返って来ることがない。つまり、「アクション」と「リアクション」の因果関係が断絶している。
それが絶望的な不運として表れた場合は「新世界系」と呼ばれるし、奇跡的な幸運として返ってきた場合はぼくが「裏・新世界系」と呼ぶ作品になるわけですが、とにかく旧来の「物語」とは異質なものがそこにはあるのです。新しいよね?
もっとも、ご都合主義の連続で物語が成り立たないにもかかわらず人気が出る作品はいままでにもありました。たとえば「少年ジャンプ」のバトルマンガ、代表的なのは車田正美です。
さて、それでは『リングにかけろ』や『聖闘士星矢』と「裏・新世界系」は同じものなのでしょうか? ちょっと考えてみたのですが、ぼくにはやはり車田作品は旧世代の物語であるように思えます。
そこには「努力」や「根性」の因果的な結果としての「勝利」という方程式が明確に存在しているからです。まさにこの方程式が崩壊した地点から「新世界系」、「裏・新世界系」はスタートしているといっても良いでしょう。面白いですね。
うん、きょうはめずらしくなかなか良いことを書いた気がする。この先は次のラジオあたりで煮詰めることにしましょうか。「裏・新世界系」、「因果の物語の不成立」といったあたりをぼくからのキーワードの提案として、ここに挙げておきたいと思います。 -
「老害」にならないためにぼくたちにできることは何があるか?
2019-05-25 02:4251ptアニメ版の『転生したらスライムだった件』を見終えていないので続きを見ています。いま、中盤の良いところで、非常に楽しく見れていますね。
これ、とても興味深い作品で、原作のほうは累計1000万部を超えるヒットをたたき出しているんですね。既刊13巻で1000万部越えだから、相当の売り上げであるはず。
ライトノベルとしては『ソードアート・オンライン』に次ぐくらいの数字で、なろう系としては史上最高でしょう。
ぼくは売り上げがすべてだとはまったく思わないけれど、継続して売れつづけている作品には「何か」がある可能性が高いとも思う。この作品には注目しています。アニメを見終えたら原作の続きを読もうっと。
この作品、うまくいえないのだけれど、何か非常に「新しい」匂いがします。いままでの方法論で語り切れないところがある。
たとえば『無職転生』なんかはある種、「なじみの物語」であって、ああ、なろう系も -
小説の面白さを最終的に決定するものは何か。
2018-12-23 04:4651ptもうじきクリスマスですね。もう40歳になっていいかげん非モテネタも苦しいのでさすがにばくはつしろーとかはいいませんが、心のなかでこっそり呪っています。
いくつになってもルサンチマンを忘れないようにしたいものですね。ぼく、60歳になっても同じことをいっていそう。
さてさて、読書ばかりしているのも疲れるので、アニメを見たりもしています。最近見たもののなかで面白かったのが『転スラ』こと『転生したらスライムだった件』。
原作は人気のなろう小説ですが、これがじつに良い出来。原作のほうも何百万部も売れているらしいけれど、スムースに見れて疲れない作品で助かります。
異世界転生したらスライムになってしまったという、もはやわりとありがちな筋書きながら、たしかに面白い。楽しいし、わくわくする。
何だろうなあ。こんなにもありふれた話で、特に傑出したオリジナリティも感じないのだけれど、それでもすごく楽
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