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記事 13件
  • この頃オススメの百合漫画ですよ。

    2015-10-28 22:17  
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     このところ、百合漫画しか読んでいない気がする海燕です。
     べつだん、狙って読んでいるわけではないのだけれど、疲れているときに心がざらつかない作品を選んでいくと百合になるんだよね。
     いやまあ、心臓を貫くような先鋭的な百合作品もなかにはあるとは思いますが、あえて選ばなければそうショッキングな作品にはあたりません。
     これがボーイズ・ラブだったらまた話が違うだろうけれど。
     で、きょうの第一作は『もうひとつのユリトピア』。
     まあ、よくできた端正な百合作品です。それ以外特にいうことがない。
     原作はライアーゲームの百合ゲーなのかな? よく知りませんが、同性から告白された女の子がとまどいながらもその想いを受け止めて応えるまでの物語です。
     骨格は少女漫画のラブコメですね。
     相手の強い想いを受け止めきれないでいるなかにもじんわりとにじみ出る慕情とかなんとか、ほのかに甘いフレーバーがただよう雰囲気が良いなーと。
     絵もうまいですよね。この人。
     ちなみに『小百合さんの妹は天使』の人ですね。
     これは幼い頃に生き別れになった妹がなぜか(ほんとうになぜか)天使になってやって来るという甘めの百合作品で、こちらもかなり面白い。
     姉妹百合が好きな人にはオススメです。実の姉を性的な視線で見まくる妹なので、ダメな人はダメだろうけれど。
     いやー、オタクでも近親相姦はダメという人は大勢いるんですよね。
     まあ、それはそうだろうけれど、でも、そんなありきたりのタブーには興味がないぼくなのである。
     で、二作目は『あさがおと加瀬さん』。
     高嶋ひろみさんという、『未満レンアイ』の作家さんによる学園百合です。
     これはね、本気でいいですよ。
     ある地味で目立たない女の子が同学年の加瀬さんを好きになって親しくなろうとするという、それだけの話なのですが、百合のエッセンスが詰まりまくっています。
     ジスイズザ百合漫画といってもいいくらい、スタンダードで美しい百合の形がここにある。
     また、加瀬さんのほうでもあきらかに下心がある目つきで主人公を見ているところがいい(主人公は気づいていない)。
     まあ、普通の学園ものといえばそれまでなのですが、いいのだ、ぼくは普通の学園もの好きだから。
     なんといってもほのぼのとした雰囲気が素晴らしく、何度でも読み返して楽しめるニヤニヤ漫画となっています。
     続編として『お弁当と加瀬さん』、『ショートケーキと加瀬さん』があるようなので、そちらもそのうち購入するものと思います。
     ボーイッシュな空気をただよわせた加瀬さんのキャラクターがいいですね。
     『未満レンアイ』はいろいろな意味で「いいのか、これ?」という内容でしたが、こちらは心の戸惑いなく楽しめて良いです。
     いや、『未満レンアイ』もいい漫画ではあるのだけれど、その、あの……。気になるひとはGoogleさんに聴いてください。
     で、『やがて君になる』。
     先日出たばかりの新刊なのですが、これがきょうの目玉。 
  • 『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力はどこにあったのか。

    2015-10-24 17:16  
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     つい先ほどまでラジオで話していた内容が興味深いので、ちょっとぼくなりにまとめてみたいと思います。
     端的にいうと、『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力とはなんだったのか、なぜあの作品はウケたのか、という話ですね。
     ご存知の通り、『まどマギ』はここ最近の深夜アニメのなかではトップクラスといっていいくらいにヒットしたわけなのですが、では、なぜヒットしたのか? どこが特別だったのか? と考えるとよくわからないところがあるわけです。
     一見すると、『まどマギ』の特徴は「可愛らしい絵柄の女の子(萌え美少女)を徹底的にひどい目に遭わせていること」であるように見えるし、その点に影響を受けたと思しいフォロワー作品がいくつかある。
     まあ、じっさいに直接的な影響があるかどうかは知りようもないわけですが、『まどマギ』の後、ぼくたちが「女の子をひどい目に遭わせる系」とそのままのネーミングで呼んでいる系譜の作品がいくつか出て来たことは事実です。
     しかし、ほんとうに『まどマギ』のヒット要因がそこにあったのかというと疑問なんですよね。
     というのも、いま述べたようなフォロワー作品はそこまでウケているようには見えないからです。
     どうやら女の子をひどい目に遭わせればそれでいいというものではないらしい。
     むしろ、女の子たちがひどい目に遭うことがありえる世界でどのように生きていけばいいのかというところにフォーカスするべきなのかもしれない。
     と、ここまではいままで語ってきた通りです。
     で、今回、LDさんが仰っていたのが、つまり『まどマギ』とは「女の子(萌え美少女)と一見それと関係なさそうなジャンルを接続するという方法論の作品」のひとつだったのだ、ということです。
     この場合、女の子が何に接続されたのかといえば、ぼくたちがいうところの新世界系(突然ひとが死ぬような過酷な世界を描いた物語)ということになります。
     『まどマギ』とは、萌え美少女と新世界を接続した作品だったわけです。
     そして、その結果、副次的に女の子がひどい目に遭うことになった、ということです。
     つまり、『まどマギ』は女の子を趣味的にひどい目に遭わせたところに魅力がある作品ではなかったし、そこにウケた理由があるわけでもない、ということですね。
     いい換えるなら、『まどマギ』が「女の子をひどい目に遭わせる系」に見えるのは一種の錯覚ということになります。
     もちろん、じっさいに女の子はひどい目に遭っているのだけれど、そこを目的とした作品ではないのです。
     女の子をひどい目に遭わせようという趣味自体は、いうまでもなくはるか昔からあったものと思われます。
     表面に出て来ることは少ないにしても、エロゲやエロマンガといったアンダーグラウンドカルチャーでは、凌辱系と呼ばれるジャンルは昔から人気があったわけですから。
     だから、『まどマギ』はその意味では特に画期的ではない。
     それならどうしてウケたのかといえば、 
  • 時代の最先端はどこにあるのか? 天才漫画から、非天才葛藤漫画へ。

    2015-10-24 00:40  
    51pt

     最近、満田拓也『MAJOR2nd』を読み返しています。
     いわずと知れた野球漫画のヒット作『MAJOR』の続編で、前作主人公の息子が主役を務めています。
     そこまではいいのですが、興味深いのが、この息子のほうには特別に野球の才能があるようには見えないということ。
     それどころか、「肩が弱い」という野球選手としては致命的な弱点を抱えてすらいます。
     その現実を思い知らされる頃には本人もやる気を喪失し、道具を捨ててしまおうとするありさま。
     それにもかかわらず周りはあきらめずやる気を出すよう勧めて来る。
     いや、べつに才能ないんだからべつに野球やらなくてもいいじゃんと思うのですが、周囲からすると野球を辞めるのならほかのことに打ち込まないといけないということらしい。
     そこで主人公は葛藤するのですが、いやー、この葛藤が見ていて辛い、辛い。
     ぼくが最近読んだ漫画のなかではぶっちぎりで辛い漫画ですね。
     才能がある人間が才能を発揮し切れないという物語は悲劇ですが、『MAJOR2nd』は初めから才能がない人間を描いているので、悲劇になりえません。
     哀しいことを描いていても、どこか滑稽なのです。その滑稽さが、見ていて痛い、痛い。
     もうなんというかひとつの惨劇として完成されていて、いったいこの物語はどこへ進んでいくのだろう、と思いながら見ていました。
     ところが、この漫画、売れているんですよね。
     第2巻の時点ですでに100万部を突破しているそうで、ということはそれなりに需要があるわけです。
     もちろん、大ヒット作の続編ということはあるけれども、Amazonを見ても評価が高いし、意外にウケているらしい。
     となると、この野球惨劇漫画のどこがどうウケているのか、気になります。
     ペトロニウスさんは、この作品に「主人公になれない者の苦悩」を見て取ったようです。
     なるほど、そういわれてみると、そう見えて来る。
     『MAJOR2nd』の主人公・大吾は、まわりから主人公であることを期待されながらその期待に応えられないキャラクターと見ることができるでしょう。
     そもそも普通は少年野球の段階でそう才能の有無に悩む必要もないと思うんですよね。
     親にしても、ただ楽しくやっていればそれでいいという考えの人がほとんどでしょう。
     それがなぜ大吾が余計な苦悩を背負ってしまうかというと、やっぱり往年のメジャーリーガーの息子だからに違いありません。
     つまり、大吾は「主人公の息子」であり「主人公を継ぐ者」であることを期待される立場なのです。
     しかし、かれにはどうしてもそうすることができない。それだけの能力を与えられていない。そこで苦しみが生まれることになる。
     これはたしかに時代的なテーマかもしれません。
     スポーツ漫画の歴史を考えてみると、しばらく前に「天才漫画」が流行ったことがありました。
     『MAJOR』もそうですし、『H2』とか、『SLAM DUNK』とか、人並み外れた才能を持った主人公の活躍を描いた物語ですね。
     スポーツ版の俺TUEEEというか、凡人を常識を絶したまさに主人公となるべく生まれてきたキャラクターの成長を見るところに面白さを感じる系譜です。
     天才スポーツ漫画は、それまでの泥臭く努力するスポ根漫画とは似て非なるものだといえるでしょう。
     もちろん、まったく努力が描かれないわけではないのですが、とにかく主人公が凡人とはレベルの違うところにいることはたしかです。
     これは「努力すれば勝利(成功)できる」というストーリーに対する疑義から出て来た作品群なのではないかとぼくは思います。
     「結局、最後に勝つのは才能がある奴だよね」というわけではありませんが、とにかく努力さえすれば結果が出るのだ!という信仰とは別次元のところにある漫画たちだといっていいと思う。
     そして現代のスポーツ漫画は、そこからさらに一歩進んで、「それでは、天才ではない者が勝つにはどうすればいいのか?」ということを描いているように思えます。
     最もわかりやすい例が『ベイビーステップ』であり、あるいは『黒子のバスケ』でしょう。
     面白いのは、このふたつの作品では主人公が採用する戦略が真逆だということですね。
     『ベイビーステップ』では平均値を高めることで対応しようとし、『黒子のバスケ』では唯一の長所を研ぎ澄ますことを目ざします。
     ともかくここでは主人公が非天才(生まれつき天才ではない者)に設定され、それでもなお、勝利を目ざそうとする姿が描かれるわけです。
     そこには、どんなに絶望の底に叩き落とされてもあきらめない鉄の意志があります。
     そういうふうに考えていくと、『MAJOR2nd』はそのさらに一歩先を描こうとしているのだ、とはいえるかもしれません。
     大吾にはそもそも 
  • カザマアヤミが描く「イタオタ」の幸福な日々。

    2015-10-17 01:09  
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     カザマアヤミ『嫁いでもオタクです』を読み終えました。
     昨年のぼくのベストであるところの『恋愛3次元デビュー』の続編ということで、とても楽しみにしていたのですが、期待に違わぬ素晴らしい出来で、今回も大笑いさせていただきました。
     前作は女子高育ちで男性に対する免疫が一切ないカザマアヤミが、さまざまなカンチガイを乗り越えて結婚するまでを描いていたのですが、今回はその後の新婚生活のお話。
     普通ならスウィートになるはずのお話なのですが、そこは夫婦そろってずぶずぶのオタク、ひと筋縄で行くはずもなく、色々な事件が起きます。
     メイドロボに嫉妬して泣いたりとか、旦那と友達の関係に腐ってみたりとか……。
     全体的に下ネタが多めなので、前作と比べてひとを選ぶところはありますが、あいかわらず捧腹絶倒の内容で、面白いです。
     前作と合わせてオススメの本なので、良ければご一読ください。
     読み終えてひとつ思ったのが、この夫婦、ふたりともとても幸せそうなのだけれど、こういう人たちを「リア充オタク」とは呼ばないのだろうな、ということ。
     ふたりともどちらかといえば「イタオタ」に近いわけで、『新・オタク経済』的な見方からすれば、旧時代の人間ということになってしまうのかもしれません。
     しかし、ふたりはそんなこととはまったく関係なく幸せを満喫しているわけで、やっぱりリア充がどうこうという指標は信用ならないなあ、と思ってしまいます。
     大学がテニスサークルだからリア充だとか、将来を嘱望されているから勝ち組だとか、あまりに単純すぎるのではないでしょうか。
     そういう一面的な見方は人間の複雑さに対する侮辱だと思う。
     こういう話になると、ぼくはいつも北村薫の小説『鷺と雪』の一節を思い出します。

    「身分があれば身分によって、思想があれば思想によって、宗教があれば宗教によって、国家があれば国家によって、人は自らを囲い、他を蔑(なみ)し排撃する。そのように思えてなりません」

     結局、人間という生き物はどうしようもなくひとを差別し、あるいは優越感に耽り、あるいは劣等感に悶える。そういう存在なのだろうと思うのです。
     劣等感を振りかざすことは優越感を抱くことよりまっとうなことのように見えるかもしれませんが、じっさいには「おれはこんなに可哀想なのだから配慮しろ」といっているに等しいこともあるわけで、そう単純には評価できません。
     結局のところ、リア充がどうの、オタクがこうのといってみても始まらない、各自がただ好きなように生きていけばいいのだろうというところに結論は至りそうです。
     もちろん、 
  • 一億分の一であるという素晴らしさ。

    2015-10-12 05:52  
    51pt

     ペトロニウスさんの最新記事を読みました。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151011/p2
     ほとんど改行がなくてめちゃくちゃ読みづらいのですが、非常に面白い内容です。
     そして、きわめつけにタイムリー。
     これは必然的な偶然だと思うのだけれど、「リア充オタク」を巡る話題とストレートに繋がっています。
     この記事、「頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?」というタイトルなのですが、まさにこの「主人公になれないぼく」を巡る問題こそ、ここ最近、一部の少年漫画やライトノベルが延々と語ってきたテーマだと思います。
     つまり、高度経済成長が終わり、「努力・友情・勝利」がストレートに成立しなくなった現代において、物語の主人公になる(努力して勝利する)ことができなくなった「ぼく」はどのように生きていけばいいか?という話ですね。
     これは非常に現代的なテーマだといっていいでしょう。この答えを模索し、そしてついにはひとつの答えにたどり着いた、いま、ぼくたちはそういう物語をいくつか挙げることができます。
     くわしくは「物語三昧」のほうを読んでほしいのですが、この記事を読むと、「リア充オタク」という概念の古さがはっきりとわかります。
     「リア充」という概念はもう克服されたものであるわけです。
     ぼくたちは――というかぼくは、もう「リア充」と「非リア」、「モテ」と「非モテ」、「勝ち組」と「負け組」、「主役」と「脇役」といった対立概念を持ち出し、前者でなければ幸せではありえないのだと考える価値観を乗り越えている。
     そして、それと同じことは『僕は友達が少ない』から『妹さえいればいい。』に至るライトノベルの流れのなかではっきり示されています。
     『僕は友達が少ない』は、「リア充」を敵視する「残念」な人たちの話でした。
     この物語のなかで、主人公は最後までだれかひとりと結ばれることなく(リア充になることなく)終わります。
     最初から最後までかれは「残念」であるわけです。
     これは、あたりまえのライトノベルを期待した読者としてはまったく気持ちよくない展開であるわけで、当然のごとくこの結末は悪評芬々となりました。
     しかし、テーマを見ていくとこの結末で正しいのです。
     というのも、仮にかれがだれかとくっついていたら(リア充になっていたら)、この物語のテーマである「残念でもいいじゃないか」、「リア充にも成功者にもなれなくても、人生はそのままで楽しいのだ」ということが貫けなくなってしまうからです。
     だから、『僕は友達が少ない』のエンディングはあれで完全に正しい。
     ただ、まったく快楽線に沿っていないので、単に気持ちいいお話を求める大多数の読者には怒られることになるというだけで……。
     さて、順番こそ少し前後しているものの、『僕は友達が少ない』の次の作品である『妹さえいればいい。』では、テーマがさらに進んでいます。
     この物語にはこういう記述があります。

     才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。
     誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。
     一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。 この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。

     ここで作者ははっきりと「リア充」対「非リア」といった二項対立的な価値観を乗り越えているわけです。
     そして、この作品のなかで描かれるのは、この「メインテーマ」を前提とした、どこまでも楽しい日常です。
     べつだん、『僕は友達が少ない』とやっていることは変わらないのですが、ペトロニウスさんが書いている通り、『僕は友達が少ない』よりさらに楽しい印象を受ける。
     それはなんといっても、登場人物たちがみな自立した社会人であり、精神的にバランスが取れた人物だからです。
     かれらの日常はとても充実しているといっていいでしょう。
     ぼくは以前、それを「リア充にたどり着いた」といういい方をして表したのですが、いまとなってはこの表現は正確さを欠いていたということがはっきりわかります。
     むしろ、「「リア充」を乗り越えた」というべきでした。
     より的確にいうなら、「リア充」とか「非リア」という二項対立的な概念を持ち出し、その一方でなければ幸せにはなれないのだという価値観を乗り越えたというべきでしょう。
     そう、『妹さいればいい。』の連中ははっきりと『僕は友達が少ない』のテーマの延長線上を生きています。
     かれらもまた、ある意味ではコミュ障であったり、妹キチガイであったり、メイド好きであったりと、実に「残念」な連中です。
     それなりにオシャレだったりアクティヴだったりする面はあるにしても、べつに何もかもが秀でたリア充というわけではない。
     しかし、かれらはそのことにもはや一切の負い目を感じていません。
     もちろん、 
  • なぜオタクが小ぎれいになった(ように思える)のか?

    2015-10-11 19:16  
    51pt
     前の記事に付いたコメントにレスを返します。

     リア充オタクもマイルドヤンキーも勝手に定義を作り広めて儲けようとする連中の仕業によるものだよね。マイルドヤンキーの定義に当てはまるのなんて昔から大量にいたのに最近現れたかのように言われる。あれの定義はヤンキーでもなんでもない都会に憧れも志も持たない低所得者。それを無理矢理広めようとするからネットでは批判が見られた。


     「おたく」の反対語としての「リア充」という言葉が生まれたのは、西暦二〇〇〇年を過ぎてからですね。その前の一九九〇年代には、まだ、「リア充」という言葉はありませんでした。
     私の記憶している限りでは、一九九〇年代以前の「おたく」の中にも、おしゃれな人はいましたし、普通にリアルの人間と恋愛している人もいました。結婚して子供もできて、普通に家庭生活を営みながら、「おたく」活動を続けている人も、おおぜい知っています。 私の感覚では、「『おたく』である人が、ファッションに興味を持ったり、恋愛したり、結婚したりということとは、縁が薄いに決まっている」という考えのほうが、違和感があります。
     「全か無か」のように、何でも二つにすぱっと割り切れるものではないですよね。何だか、無用な線引きをして、対立をあおっているだけの気がします。


     この話、いろいろな問題が交錯していてちょっと切り分けをしないといけないと思うのですが、まず、ぼくはいわゆるオタク文化へのカジュアル層の流入は事実としてあると思っています。
     ぼくが中高生の頃ははっきりオタクと呼べるのはクラスに2,3人いるかいないかというところでしたし、それもあまりオープンにできる雰囲気ではありませんでした。
     そういう意味では10代、20代の大半がニコ動ユーザーという現在とは隔世の感があるのはたしかかと。
     で、その影響によってオタクが全体的に小ぎれいになってきているということもたぶん事実だと思います。
     問題はそれを端的に「オタクがリア充化した」と見るかどうかということで、おそらく背景にある条件そのものが変わって来ているということも大きいと思うんですよ。
     というのも、これは異論があるところかもしれませんが、ここ10年くらいで若者全体のファッションセンスが底上げされる形で向上していると思うんですよね。
     街を歩いていると、「めちゃくちゃおしゃれ」みたいな人は少ないとしても、そんなにおかしな格好をしている人も見かけなくなった。
     これは『新・オタク経済』のなかでもふれられていることですが、その背景にはユニクロを初めとするファストファッションの質の向上があると思うのです。 
  • オシャレでアクティヴな「リア充オタク」はほんとうにオタクなのか?

    2015-10-10 23:52  
    51pt

     一昨日のことになるでしょうか、『ZIP』という番組で「リア充オタク」の特集を放送したそうで、Twitterなどの各種SNSでこのワードが話題になっていました。
     この番組そのものはもう確認しようがないので(探してみればどこかにアップされているかもしれないけれど)、「リア充オタク」という言葉の元ネタであるらしい原田耀平『新・オタク経済』を読んでみました。
     結論から書くと、それほど目新しいことは書かれていません。
     だいたいいままで出た情報で説明できるというか、予想通りの内容。
     一冊にまとめたことに価値があるかも、って感じ。
     ぼくが観測している限り、「ライトオタク」と呼ばれるオタクカルチャーのカジュアル消費層がネットで語られ始めたのは10年くらい前。
     その頃は批判的なトーンでの意見が多かったように思います。
     オタクは本来、過酷な修行の末にたどり着く崇高な境地であるべきなのに、最近のオタクのぬるさたるや何ごとじゃ、みたいな内容ですね。
     『新・オタク経済』にも記されているように、この「ガチオタによるヌルオタ批判」という行為はその後も延々と続き、いまでもまだ続いています。
     今回、「リア充オタク」という言葉が出て来たときに巻き起こった「そんなのオタクじゃない!」という意見は、典型的なガチオタによるライトオタクへの反発に思えます。
     たしかに、本書で著者が定義している「リア充オタク」の多くは、旧来型の定義ではオタクに含まれない存在かもしれません。
     しかし、じっさいにかれらがオタクを名乗り、また周囲からもオタクと認められているという事実はあるものと思われます。
     第二世代や第三世代のオタクがいくら「そんなのオタクじゃない!」と叫んでも、実態が変わってしまっているのだからその声は届かない。あまり意味のある批判にはなりえないのですね。
     じっさい、オタク文化へのカジュアル層の流入という現象はこの10年間で至るところで目にしていて、岡田斗司夫さんが「オタク・イズ・デッド」とかいい出したのもその関連でしょうし、『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』などという本ではヤンキー文化との接近という形で同じ現象が語られています。
     オタクのライトオタク化とヤンキーのマイルドヤンキー化はパラレルな現象なのですね。
     だから、まあ、「リア充オタク」と呼ぶべき層の出現は、必然といえば必然なのです。
     この傾向の端緒はニコニコ動画の開設であると思われるので、ぼくらニコ動利用者にとっても無関係とは思えません。
     もっとも、ぼくのブログを「リア充オタク」が読んでいるとはあまり思われませんが……。
     そんなに長いスパンの話ではなく、ここ2、3年だけを取ってみても、オタク文化は相当普及したように思えます。
     『ラブライブ!』のソーシャルゲームが国内1000万ユーザーを突破したとか聞くと、隔世の感がありますね。
     アクティヴユーザーがどれだけいるかは別に考えるべきだとしても、1000万という数字はコアなファンだけでは獲得できません。
     もはや、スマホで『ラブライブ!』をプレイしている若者は「普通」であり、特筆するべき存在ではなくなっているのでしょう。
     ボカロ小説が何百万部売れた、とかいう話を聞いても同様の感慨を抱きます。
     時代は変わったんだなあ、ということですね。
     で、この現象をどのように受け止めるかなのですが、ぼくは基本的には「良いこと」だと思っています。
     カジュアル層が広がらなければ文化の発展はないわけで、一部のマニアだけに好まれていた文化が大衆的に広まっていくことは良いことかな、と。
     もちろん、そのなかには本書で書かれているような「エセオタク」も混じっていたりするでしょうし、旧来のオタクとしては面白くないことも多いかもしれません。
     ですが、いつだって時代はそういうふうにして変わっていくもの、変化を否定しても始まりません。
     もうひとつ付け加えておくなら、オタク自己言及ライトノベルの「脱ルサンチマン」の流れもこのオタク文化のカジュアル化とパラレルな関係にあるでしょう。
     時代的にはわりと新しいけれど内容的にはちょっと古い印象を受ける『冴えない彼女の育てかた』と、その同時代作品ながら当時としては斬新だった『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』、そして最新型の『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』を読み比べてみると、ライトノベルのオタク描写が変わっていっている様子がわかると思います。
     ぼくはそれを「脱ルサンチマン」と呼ぶわけですが、「リア充」を敵視し、オタク文化の神聖不可侵を守ろうとする気概が、あきらかになくなって来ている。
     同じ平坂読の『僕は友達が少ない』と『妹さえいればいい。』を比べるのがいちばん明瞭でしょうが、オタク文化は既にコンプレックスとかルサンチマンとは無縁のところまで来ているのです。
     それはオタク漫画の代表格である『げんしけん』の内容的な変遷を見てもあきらかでしょうし、また、『ヲタクに恋は難しい』みたいな漫画が出て来ることもひとつの必然なのでしょう。

     ネット上では「リアリティがない」とか「こんなのオタクじゃない」とこき下ろされたりもしていますが、『ヲタクに恋は難しい』で描かれているような「リア充オタク」は普通に実在するようになっていると考えるべきです。
     そこまで状況は変わって来ているのですね。
     そういうわけで『新・オタク経済』の基本的な論旨には文句はないのですが、脇の甘いところがいくつかあって、なかでも旧来のオタクに対する描写には苦笑させられるばかり。
     結局のところ、「オタクは暗くて非社交的、ファッションはダサくてモテないが自分の好きなことには夢中」というイメージは残存され、それがほんとうにそうなのかの検証は行われないのです。
     この本のなかで前世代のオタクの代表的イメージとして語られているのは、映画『電波男』の主人公なのですが、この映画がどれだけ的確に当時のオタクを代表し、あるいは象徴しているか、という検証は一切実施されません。
     本書のなかではかつてのオタクが「ダサくてイタい人たち」だったことは既成事実として語られているように思います。
     ぼくはべつにそういう傾向がなかったとはいいませんが、当時のオタクが全員が全員そういうふうだったわけではないはずで、ここらへんの偏見をそのまま使用していることには疑問を感じざるを得ません。
     まあ、本書のテーマが第四世代以降の新しいオタクたちである以上、そこはどうでもいいのかもしれませんが、どうも偏見を助長するカテゴライズであるように思えてならないんですよね。
     これはあらゆるカテゴライズにいえることですが、じっさいには大半の人はそれらのカテゴリにきれいに収まりきるというよりは、グレイゾーンのところにいるわけです。
     それを「リア充オタク」はこうだ、「イタオタ」はこうだ、といってしまうと、途端に見えなくなるものがある。
     特に腐女子に関する記述は強烈なバイアスの存在を感じさせずにはいられません。本書にはこう記されています。

     当然、イタオタは男性ばかりではありません。BL(男性同士の恋愛)モチーフの作品を好み、自らを「腐女子」と自称する女性たちも、多くはイタオタに分類されます。彼女たちは、そもそも自分たちの趣味嗜好を同好の士以外に啓蒙しようという気がないため、非オタクに対する社交性は低い傾向にあります。

     そして、腐女子の特徴として、特徴のあるイラストとともにこう列挙されている。

    ・変わり者が多い
    ・Twitterではやたらとテンション高い
    ・男性声優のツイートをリツイート
    ・イケメンを見ると脳内でカップリングにしてしまう
    ・ゴスロリ系と思しき服装
    ・一人称が「ボク」な子もいる
    ・家ではジャージで過ごしているがコミケなどのお出かけは気合をいれた服装
    ・普段の外出は母のおさがりの婦人服
    ・郊外にある大型衣料店で買ったバッグ
    ・手作りのビーチアクセが目いっぱいのおしゃれ
    ・薄い本(BL同人誌)大量購入
    ・スカートは嫌いだけどちょっとおめかし

     こんな奴いない、とはいいません。ある程度はこういう人もいるでしょう。
     しかし、 
  • 口うるさい原作ファン、藤崎竜版『銀英伝』を語る。

    2015-10-09 00:51  
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     おそらく生まれて初めて『ヤングジャンプ』を買って、藤崎竜版の『銀河英雄伝説』を読みました。
     物語ははるかな未来、銀河帝国首都星オーディンに住むジークフリード・キルヒアイス少年がとなりに越して来たラインハルト少年に出逢うところから始まります。
     ほぼ原作通りの描写が続いているのですが、なるほどなあ、ここから漫画化して来るか、という感じ。
     原作はラインハルトがすでに帝国軍上級大将になって一軍を率いているところからスタートしていますからね。まったく印象が違います。
     ひょっとしたらこのまま少年ラインハルトの物語が続いていくのでしょうか。
     そしてどこかの時点で(アスターテ会戦?)、宿敵ヤン・ウェンリーが登場する、という構成になるとか。それは面白いなあ。
     描かれている出来事そのものはどれも原作に忠実なのだけれど、構成と演出が変わっているためにまったくべつの物語という印象になっている。
     ここらへんはストーリーテリングのマジックで、構成フェチとしては胸が躍ります。
     まだ全貌があきらかになったわけではないけれど、キャラクターデザインやファッション、メカニカルデザインは過去のアニメ、及び道原かつみ版の漫画にほぼ準拠している様子で、そこが物足りなくなくもないですね。
     どうせなら完全に新しいメカデザインを用意してほしかったという気もする。
     ただ、しばらく「さながら地球の中世ヨーロッパのよう」な描写が続いたあと、巨大な宇宙船が雲のなかから舞い降りて来る場面はとても印象的で、このひとコマだけでもすごくわくわくさせるものがある。
     そして、「高度な科学力は意図的に隠されている」という設定が加わった結果、1500年後の未来世界の生活が大きく変わっていないように見えることが不自然ではなくなっているし、世界の設定と描写に一本芯が通った。
     これはうまい手だと思います。自由惑星同盟側の描写が楽しみ。
     いや、ほんとうに物語っていろいろな語り方がありえるんだな、唯一の「正解」があってほかは全部外れというわけじゃないんだな、ということがわかって、個人的には感動的ですらありますね。
     最終ページは姉を皇帝に奪われたラインハルトが「僕は皇帝を斃す!!!」と宣言し、「これが後の世のいう「獅子帝」ラインハルトの出発点であった」と語られる場面で終わっているわけですが、まさに壮大なストーリーのオープニングという感じで素晴らしいです。
     つまり、この時点でラインハルトの皇帝打倒計画が成功することを宣言してしまっているわけで、原作未読者は「いったいこの無力な少年がどうやって皇帝にまでなるのか?」と続きが気になるのではないでしょうか。
     ぼくなどはどうしても原作を最後まで知っている人間の視点で読んでしまうわけですが、よく知らない読者のほうが多いはずで、そういう人に向けてとても親切な作りになっていると思います。
     主人公の動機と目的が定まるところで第1話終了というのは、連載漫画の初回として非常にきれいな作りですね。
     ぼくは口うるさい原作ファンだけれど、満足です。
     あとは 
  • なぜ『落第騎士の英雄譚』と『学園都市アスタリスク』の初回内容は似通ってしまったのか。

    2015-10-07 03:37  
    51pt

     ぼくはエンターテインメント小説が好きで、いろいろ読んでいるわけですが、エンターテインメントというものはある種、矛盾した条件を抱えているよな、と思うことがあります。
     つまり、普遍性と独創性の双方を兼ね備えていなければならないのですね。
     理想的なエンターテインメントとは「だれも見たことがないほど独創的で、しかもだれもが楽しめるほど親しみやすい作品」ということになるでしょう。
     ここにはあからさまなパラドックスがあります。
     「だれも見たことがないほど独創的な表現」を求めるととっつきづらいものができるし、「だもが楽しめるほど親しみやすい展開」を求めるとどこかで見たようなものが仕上がるわけです。
     このふたつの条件を同時に満たすことは、不可能ではないにしても、恐ろしく困難でしょう。どちらか片方だけならできないことはないだろうけれど。
     エンターテインメントの究極の目標は「だれが読んでも面白いと感じる」作品であるわけで、その点を追い求めていくとどうしてもどこか似通ったものになるのだと思います。
     その意味でエンターテインメント作品のオリジナリティにはある種の限界があるといえるかもしれません。
     一般的なライトノベルを先鋭的な実験文学を比べたらどうしたって実験文学のほうが独創的になることでしょう。それはそうだと思います。
     それにもかかわらずぼくがエンターテインメントを好むのは、「型」に対する「ズレ」に面白みを感じるから。
     ある種の固定されたスタイルを前提とした逸脱的表現は、完全に自由な状態での表現よりも面白く感じるということです。
     ただ、その「ズレ」はジャンルが洗練されていくにつれて修正され、消滅していく傾向があるように思います。
     ジャンルのターゲットがはっきりすると、カテゴリエラーな作品は追放されてしまうわけです。
     そうなってくると、ぼくとしてはもうひとつ面白くなくなる。
     ぼくはやっぱりカテゴリの常識からちょっとズレたものを読みたいのです。酔狂ではありますが。
     ――というようなことを、この記事を読んで考えました。
    http://seagull.hateblo.jp/entry/%E5%AD%A6%E6%88%A6%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%AF-vs-%E8%90%BD%E7%AC%AC%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E3%81%AE%E8%8B%B1%E9%9B%84%E8%AD%9A
     『落第騎士の英雄譚』と『学園都市アスタリスク』というふたつのアニメの初回の内容がきわめて似通っていたという話ですが、これは偶然ではないと思います。
     そうかといって「「アニメ化されるラノベの書き方」みたいなマニュアルの存在を信じたくなる」というのもちょっと違う気がする。
     エンターテインメントが 
  • 映画『バクマン。』が熱い!

    2015-10-06 08:12  
    51pt

     すっかり肌寒くなって来ましたね。
     ぼくは全身脱毛症の影響で鼻毛まで抜けてしまったせいか、くしゃみが止まりません。
     鼻毛なんてなんの役にも立たないと思っていたけれど、実は役に立っていたんだなー。失って初めてわかる大切さ。ああ無常。
     さて、そんななか、ぼくは映画『バクマン。』を観て来ました。
     うん、これはいい、いいですね!
     原作は『少年ジャンプ』連載の漫画家漫画。
     映画は原作のエピソードを巧みに取捨選択して2時間の上映時間にまとめ上げています。絶妙。
     原作は全20巻以上あるわけで、普通に考えたら一本の作品に収まりきるはずもないのですが、そこは映画らしく巧みにショートカットをくり返して魅せてくれます。
     物語は平凡な高校生のサイコー(佐藤健)とシュージン(神木隆之介)が『少年ジャンプ』の頂点を目指し駆け上がっていく様子を描いています。
     絵しか描けないサイコーと、発想力はあるが絵が描けないシュージン。
     ふたりは互いの欠点を補い合って一本の漫画を描き上げ『ジャンプ』に持ち込みます。
     そして手塚賞から本誌掲載へ、さらにはアンケートランキング首位を目指すふたりの戦いは、天才漫画家の新妻エイジ(染谷将太)など幾人もの同業漫画家たちとのバトルの態を成していきます。
     はたしてふたりは戦国乱世の『少年ジャンプ』で生き残ることができるのか――?
     物語はスピーディかつサスペンスフルに進んでいきます。
     この展開のショートカットがあってこその映画だなあ、とつくづく思いますね。
     ただ愚直にストーリーを追いかけていくだけでは面白い映画は仕上がらないのです。
     この作品、全体的には相当にエピソードが刈り込まれ、駆け足の展開が続くのですが、テンポを落とすところでは劇的に落としています。
     その緩急が印象的な展開を作り出している。「ため」が利いているのです。
     この「ため」がないとただ単に展開情報が流れていっているだけの画面になってしまうんだよなあ。映画のむずかしいところ。
     テンポのコントロールは映画の基本にして奥義ですね。
     映画って原作を忠実に再現していればいいってものじゃないんだな、とあらためて思わされました。
     うん、いい作品でした。今年の青春映画の収穫といっていいかと。