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『欲望会議』。エロティシズムの根源を問う。
2019-01-04 12:5751pt『欲望会議』を読みあげました。
アダルトビデオ監督の二村ヒトシ、哲学者の千葉雅也、フェミニストで現代美術家の柴田英里が集まって話しあった内容をまとめた対談集で、これがめっぽう面白い。
テーマは「欲望」。そして、しばしば人間の欲望を抑圧しようとしているように見えるフェミニズムやポリティカル・コレクトネスといった思想です。
人間にはさまざまな欲望があるわけですが、ここで俎上に載せられているのは性的な欲望。そこで、性的な欲望とポリティカル・コレクトネス(「政治的正しさ」と訳されるが、これがほんとうに的確な訳語なのかどうかは微妙なところ。以下「PC」と略す。)の衝突が話題に挙がります。
そもそも人の性的欲望とは、表立って語ることをためらってしまうような性質をもつものです。ありとあらゆるものにスポットライトをあて分析している現代においてもなお、寝室の出来事はあまり表立っては語れない。
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セックスがたましいを癒やすとき。
2018-03-05 11:4551pt二村ヒトシ監督のレズアダルトビデオを見てみました。
二村さんは女装美少年ものやレズビアンものばかりを撮りつづけている異端のAV監督で、以前から興味を持っていたのですが、じっさい見てみると、これはもう百合ですね、百合。
AVを百合に含めることには異論も多々あることと思いますが、多くの百合オタが百合に求めるものはおおむね入っているのではないかと思う。
もちろん百合とはあくまでフィクションに与えられる名称であるわけですが、それでも二村さんの作品がもつある種の雰囲気は百合そのものといっていいのではないかと思うのです。実に面白い。
そもそもアダルトビデオとは、官能的なセックスを映像に収めるという目的をもっているものだと思うのですが、じっさいにはかなり記号化された大量生産品のビジネスという印象になっています。
それはそれで商売として間違えてはいないのだろうけれど、40歳を控えて年々、スケベ -
いったいどうすればぼくたちは真摯に愛しあえるのか?
2017-12-10 07:0051ptさてさて、今年もあっというまに年末になってしまいました。クリスマスとかいう伴天連の祭事も近づいていますが、皆さま、いかがお過ごしのご予定でしょうか。
ぼくはひとり寂しくセブンイレブンのケーキをついばむ予定です。か、哀しくなんかないよ! 哀しくなんかないんだからね! 哀しい……。
まあ、クリスマスも徐々に恋人たちのイベントというイメージは薄らいでいるかもしれません。恋愛そのものが、オワコンとはいわないまでも、ちょっとずつ廃れている感じだから、それはそうなるのでしょうね。
さて、モテる男にはなりたいけれどココロが傷つくのはイヤなぼくは、学習のため、宮台真司&二村ヒトシの性愛論『どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント』を読んでいます。
いままでこのふたりの本を読んできた人間にとってはくり返しの部分も多い本ではありますが、でも、さすがに面白い。正直、「ほんとにそうなのだろうか?」と思 -
オタクとヤリチンが同類である理由。
2014-04-01 21:4751pt
「オタクでありながらヤリチン」というジャンルの男性がいることは世間にはあまり知られていませんが、そもそもオタクとヤリチンは似ています。 ヤリチンが「多くの女性とセックスできる自分が好き」というナルシシズムで心の穴を埋めようとしているように、自己肯定してないオタクは「モノや概念が好きな自分」「それについて他人より詳しく知ってる自分」が好きで、そのナルシシズムで心の穴を埋めようとしているのです。この「モノや概念」というのは、アニメやアイドル・パソコン・車だけでなく、仕事・お金・教養・スポーツ・健康なども含まれます。 つまりオタクは、その対象が「女性」に変わるだけで簡単にヤリチンになるのです。ヤリチンとは、ようするに「セックスおたく」のことなんです。
二村ヒトシの『恋とセックスで幸せになる秘密』が面白くて、ふるえながら読んでいる。『すべてはモテるためである』が男性向けの本だったとしたら、こちらは女性向け。
「いい恋がしたい」と思いながら、「愛すること」や「愛されること」に失敗しているすべての女性たちにささげる至純の一冊となっている。
書かれてあることはシンプルで、なおかつぼくの日常からは遠い内容なのだけれど、それにもかかわらずいちいち腑に落ちる。女性がどうこうというより、人間ってそういうものだよなあ、と納得できる内容だ。
『すべてはモテるためである』では「キモチワルさ」という刺激的な言葉で表されていたものは、ここでは「心の穴」という表現が使われている。
すべてのひとの心には、どこかしら「穴」が空いている。その「穴」の形こそは、そのひとの個性そのもの。そのひとの欠点や欠落、そして長所や魅力も、すべてその「穴」から湧いて出ているのだ、と二村は云う。
そして、まずは「穴」のことを正確に知るよう努力しよう、と誘いかける。そうすれば、いつか自分自身を肯定し愛することができるようになるかもしれない。
二村はここで「自己肯定」と「ナルシシズム」を明確に区別している。そして「自己肯定」とは「自分への愛」であり、「ナルシシズム」とは「自分への恋」であると云う。
愛するとは、「そのひとをそのままに受け止めること」であり、恋するとは「そのひとを自分のものにしたいこと」である。つまり、前者はあいてを抱擁しようとし、後者は束縛しようとしていることになる。
しかし、恋と愛は恋愛というコインの裏表であって、どちらも欠かすことができない、らしい。
思うに、もし、一切の愛がなく恋だけだとすれば、それは「支配欲」に過ぎなくなってしまうだろう。あるいは、まるで恋がなく愛だけだったなら、それは「父性」や「母性」に近い感情ということになるかもしれない。
ぼくたちは「あいてのそのままの姿を受け止めたい」という想いと、「あいてを思うままに束縛したい、所有したい」という気もちの狭間で、恋愛している。
そのバランスが崩れてしまうと、恋愛はたやすく「依存」や「暴力」へと姿を変える。二村はその傾向を指摘し、警告しているように思える。
二村が特に問題にしているのは、「愛されたい」と願いながら、「自分には愛される資格がない」と思い込んでいる自己肯定感の低い女性たちである。
だれよりも強く愛されることを願っていながら、「自分で自分に価値があることを信じられない」ために、よりリスキーな恋愛に突き進んでいってしまうタイプ。
すべては彼女たちの「心の穴」がそうさせているのだが、自分の「心の穴」から目を逸らしているとなかなかそのことに気づかない。
そして、どこにいるともしれない「理想の恋人」をひたすらに追い求めたり、あるいは「だれでも同じだから」とたいして好きでもない人物と結婚してしまったりする。
彼女たちがほんとうに求めているものは、恋されることではなく愛されること、つまり「いまの自分をそのままに肯定してもらうこと」だと二村は語る。
そう、多くのひとが「いまそこにいる自分」を無条件に肯定してほしいと願っている。しかし、それでいて同時に「こんな自分には何の価値もない。こんな自分を好きだ、などというひとは愚かなのではないか」とも考えている。この倒錯、この矛盾がときに恋愛を破綻に追い込む――そういうことらしい。
恋愛は一面で愛情であるが、べつの一面では欲望である。だから、それは「依存」や「暴力」と簡単にすり替わる。しかし、それでいてその表面はどこまでも美しくコーティングされているから、ひとはなかなか自分の「心の穴」に原因があるのだということに気づかない。
ここでぼくは、以前読んだ『デートDVと恋愛』という本を思い出す。「デートDV」とは、ここでは「恋人同士や夫婦の間の暴力」全般を指している。
「なぜ、愛し合っているはずの恋人同士や夫婦の間で暴力が起こるのか、それを防ぐためにはどうすればいいのか」を語った本である。
この本のなかに「シングル単位の恋愛」、「カップル単位の恋愛」という概念が出てくる。つまり、恋していても自分は根本的にはひとりであるという考え方(シングル単位)で恋愛を捉えるべきで、ふたりはいつもいっしょで、ひとつの物語を共有しているという考え方(カップル単位)で捉えるべきではないという主張だ。
「カップル単位」で恋愛を捉えることこそすべてのドメスティック・バイオレンスの根源なのだから、あくまで「シングル単位」の価値観を続けるべきだ、という内容である。
少女漫画とか、恋愛映画、テレビドラマなどを見ていると、「愛しているからこそ支配したい、束縛したい、自分のものにしたい」という形の恋愛観が頻出している。
しかし、上記で見て来たように、それは愛というより恋、愛情というより欲望の表出である。だから、それは支配や暴力と紙一重のところにある。
しかし、どうしても恋愛にはどこか「支配欲」が絡むところがあることも見て来た通りだ。物事を「カップル単位」で捉えることこそが恋愛の醍醐味というところは、たしかにある。
たとえば、自分が浮気してもまったく平気な恋人を持ったら、どこか物足りない気がしないだろうか。「もっと自分を支配してほしい、束縛してほしい。そのことで愛を感じたい」という欲求は、かなりの程度、普遍的なものであるように思える。
甘美な恋愛はかくも深遠な罠に満ちている。みんな、「心の穴」から湧き出てくる「さみしさ」に耐えられないのだ。
ほんとうに健康なひとなら、自分の「心の穴」を直視し、それと向きあって付き合っていくことができるだろう。しかし、その勇気がないひとは「ナルシシズム」に逃げ込む。
ひたすらに自分自身を見つめ、「インチキな自己肯定」に逃避する。冒頭で引用したように、二村にとっては、「ヤリチン」も「キモいオタク」も同一の存在の別側面である。
二村は -
あなたがモテないのはキモチワルいからである。あるアダルトビデオ監督による福音。
2014-03-29 21:1553pt
二村ヒトシ『すべてはモテるためである』読了。Twitterでオススメされたこの本が超絶面白かった。同じ著者の『恋とセックスで幸せになる秘密』と合わせて読むと、「愛」と「依存」の秘密がすっかりわかってしまうかも。 タイトルだけだとありふれたモテ本のようだけれど、中身は重厚にして辛辣な「哲学書」。軽妙な調子で綴られるのは、「あなたはなぜモテない(愛されない)のか? どうすればモテる(愛される)のか?」という、きわめて深刻なテーマです。
世の中には、「それは金がないからだ」とか「容姿が悪いからだ」と答えるひともいるわけですが、それはやはり「逃げ」だし、究極的な真実とは思われない。
そこで二村ヒトシは喝破するわけです。「それはあなたがキモチワルいからです」と。おお、何という辛辣な意見。しかし、やはりそれがほんとうのところではないかと思うんだよなあ。
それでは、そのキモチワルさの正体とは何なのか。ひと言で云えば、それは倒錯した自意識である、ということになる。ペトロニウスさんがよく「ナルシシズムの牢獄」とかいうアレです。
ひとりで自意識をこじらせて腐敗させてしまっているひとはキモチワルいというのが二村さんの解答のようです。正直いって、すぐさま否定したくなる意見ではあります。懸命に悩んでいるひとを捕まえてキモチワルいとは何ごとか、と。
しかしまあ、キモチワルいものはキモチワルいのであって、これはもう、どうしようもない。もちろん、二村さんはひとり高みに立って下界を見下ろし語っているわけではなく、自分自身へのダメ出しとしてこう述べているに違いありません。
さらに二村さんは云います。キモチワルいひとは「バカ」と「暗い人」に分けられる、と。いやー、ネットに書いたら炎上間違いなしの意見ですね。いいぞ、もっと云っちゃえ。
この場合の「バカ」とは「そもそも、ものを考えるという習慣がなかったひと」であり、「暗い人」とは、「考えすぎて臆病になって、ちゃんと考えられなくなってしまったひと」のことだと云います。
どちらにしても、ひとりで自意識を倒錯させていることには違いはない。ようするに「適切に考えること」ができていないわけです。
たかがモテないだけでこの云われよう、むくむくと反発心が沸き起こってくるのを感じます。でもね、ぼくが我が身を振り返って考えると、やはりどうしても認めざるをえないのです。ああ、やっぱりおれってかなりキモチワルいかも、と。
この場合、言葉の表面の過激さに惑わされてはいけません。ここで語られていることは、あくまでも「愛するとはどういうことなのか」「愛されるためには、どのような条件を満たせばいいのか」という、いたってシリアスなお話なのです。
二村ヒトシは自分をごまかすことを赦しません。なぜなら、そういうごまかしはそれ自体がキモチワルいから。もし「モテたい(愛されたい)」という欲望があるのなら、それはなぜそうなのか? 真摯に考えてみるべきだとかれは云いたいようです。
そういう意味で、本書には「こうすればモテる」といった安易な方法論は何ひとつ出てきません。ひたすらに自分自身の「キモチワルい心のもつれ」をほどく方法が示唆されているだけ。
そういう意味では、「これを読めばモテる」的なことを期待して読むと失望させられるでしょう。しかし、「ほんとうの意味で他者と向かい合うとはどういうことか?」「どのようにすればひとと正しく触れ合うことができるのか?」を考えているひとにとっては、本書はまさしく福音でしょう。
べつだん、セックスの話がくわしく書かれているわけではありませんが、「優しくひとに触れる方法」を探しているひとには、この本は強く響くと思います。
つまりは、モテとは自意識の問題なんですよね。それだけではもちろんないにしろ、それが大きく影響する。
多くのひとは、「自分はモテない(愛されない)」という現実を前にすると、その理由を正面から問い詰めようとはしません。そこで、現実と正面から向きあってしまうと、いろいろと不都合なことがあるから、問題から逃避する。
そして、「自分を認めないのは、異性のほうが悪いのだ」というふうに責任転嫁して、自意識をこじらせてしまうわけです。そして、もともとキモチワルいそのひとは、さらになおさらキモチワルくなっていく。
ここでいう「キモチワルい」とは、ひとい不快な印象を残すということです。だれだって、他人の自意識の倒錯になど付き合いたくありませんから、キモチワルいひとがモテないのは自然なことです。
しかし、本人にはなかなかその理が見えない。「問題は自分自身の内面にある」というファクトから目を背け、ひたすら「それ以外」のところに原因を求める。
もちろん、顔が悪いとか、ファッションセンスがダサいといったことが問題であることは往々にしてあると思う。しかし、その問題を性格に把握して、しかるべき手を打てないことが、そもそも自意識に問題がある、ということなのです。
あ、これはあくまで「モテたい(愛されたい)なら」の話ですよ? ひとに愛されたいとか好かれたいなんて夢にも思ったことがないというのなら、また話は別ですね。
ようは「好かれたい、愛されたい」と思いながら、そのための適切な行動を取れないということは、どこかで自意識がほつれていたりねじれていたりするということなのです。
あるいは二村さんが書いたことを読んで激怒するひともいるかもしれませんが、それもそのひとの自意識の問題である可能性が高い。もしただ的を外しているだけの意見だとすれば、それほど怒る必要はないではありませんか?
そういうわけで、素晴らしい名著です。巻末には慶応大助教授の倫理学者との対話が収録されていて、これも読ませる。実に、実に面白い本で、かなりオススメなのです。
べつにモテについて興味はないというひとでも、一読してみると得るものはあると思う。今年が終わる頃、年間ベストに連なってくるであろう一冊なのでした。
それにしても、こういうことを書くひとが、どういうアダルトビデオを作っているのか? わたし、気になります! そこで、『マブダチとレズれ!』というレズビアンものの動画を購入して観てみました。
数百もの作品のなかからこれを選んだのは、タイトルがエロそうだったからです。それ以外の理由はない。まあ、正直、あまり期待してはいなかった。まあ、AVだしね……。
ところが、何たることか、これが、実にすばらしかったんですねー。さすがにここでその内容についてここで語ることはしませんが、いやー、なるほど、こういう作品を撮っているのか。
実に面白い。はっきり云って一見の価値ありです。ぼくは生まれて初めてAVを面白いと思った。まあ、探せばほかにも面白いものはあるんだろうけれどね。
おそらく(レズビアンものが苦手でないなら)女性にも響く作品であるはずです。というか、むしろ、これは女性のほうが泣ける内容である可能性が高い。
いやまあ、ぼくは男だからわからないけれど、たぶんそう。これを見た女性の感想を聞いてみたいのだけれど、だれか「観てみてもいいよ」というひとはいないかなあ(チラッ)。
ひょっとしたらキモチワルいと思うかもしれませんが、とりあえずぼくは感動しました。魂の慰撫と「優しくひとに触れる方法」についての作品だと思います。
「ひとがひとに触れる」ためには、自分の
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