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記事 24件
  • 怒涛の10000文字! 2014年漫画ベスト30!!

    2014-12-31 14:45  
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     年末です! 年末であるからには、今年のベストを挙げなければなりません。
     しかし、最近のぼくはいうほど読書量がないので、限られた作品のなかからベストを選ぶという行為がむずかしくなっている。10冊しか読んでいないのにベスト10を選ぶというのもアレな行為であるわけで。
     しかし、今年はそこそこ漫画を読んだと思うので、漫画のベストは挙げておこうと思う。
     ただ、以前からの連載作品を取り上げると『3月のライオン』とか『ドリフターズ』とか、毎年同じような顔ぶれになってしまうので、その手の作品はすべて外し、「今年初めてふれた作品」という縛りで選ぶことにしました。
     うん、こうやってまとめてみると、今年はわりといい漫画を読んでいますね。電子書籍さまさまです。そういうわけで、今年のベスト30。お読みください。
    30位 高河ゆん&南方純『悪魔のリドル』
     特に今年の作品というわけではないけれど、ぼくが読み始めたのが今年だったので。1クラス全部がひとりの女の子を狙う暗殺者、という高河ゆんお得意の変則的な設定の作品。
     ほぼ女の子しか出て来ない百合系の作品だけれど、逆に登場人物全部男子にしても成り立つな、と。じっさい、そういう設定で舞台化(だったかな?)されているそうですし。なかなか面白いです。
    29位 小杉光太郎『普通の女子高生が【ろこどる】やってみた。』
     これは今年アニメ化されて知った作品ですね。まあ、いわゆる萌え四コマ漫画なんだけれど、ろこどる(ローカルアイドル)に注目したあたりがポイント。わりとゆるいアイディアの四コマが続くのですが、まったり幸せにひたれます。
    28位 竹宮ゆゆこ&カスカベアキラ『エバーグリーン』
     『とらドラ!』で一躍有名になった竹宮ゆゆこ原作の漫画です。作画も綺麗で、なかなか読ませます。萌え系と云えばそうなのだけれど、もう少し普遍的な青春ストーリーといった感じ。
     青春系のライトノベルはいうまでもなくたくさん出ているのだけれど、ひと工夫されていて面白いものが多い。来年もどんな作品に出逢えるか楽しみですね。
    27位 千田純生『フィールドの花子さん』
     サッカー漫画。「花子」という名の天才サッカー少女が生霊となってひとりの少年に取り憑くところから始まるストーリー。
     センスのかけらもないように見える少年は実はものすごいフィジカルの持ち主で――と話は続く。サッカー版『ヒカルの碁』といったところか。最近のスポーツ漫画のなかではなかなか面白い作品かと。
    26位 水あさと『宮田書店へようこそ』
     水あさとの短篇集ですね。同人誌などに収録されていた作品をそのまま収録しなおしている本なのですが、かなり面白い作品が多いです。表現的にもチャレンジしている感じ。
     まあ、雑然とした内容には違いないのですが、なかなか楽しい萌え四コマなんかも入っていて愉快なので、わりとオススメの一冊です。作者は現在テレビアニメ化された人気作『電気屋の本屋さん』を連載中。来年はそっちも読むか。
    25位 山名沢湖『少年☆少女☆レアカード』
     「アイカツカード」をモデルにしたと思しいカードゲーム機を巡るひとりの少女と「学園の王子様」の物語。典型的な少女漫画の類型なのだけれど、題材が子供向けカードゲームというところが面白い。特別凄いというわけではありませんが、ほのぼの読ませます。
    24位 天瀬晴之『王国ゲェム』
     デスゲームものの新作。『DEATH NOTE』以来、この手の作品は枚挙にいとまがない感じではあるけれど、この作品はちょっと新しい。というのも、ゲームの内容が「集団戦」なんですね。
     いかにして「王国」を築き、ほかの「国」を圧倒していくかというテーマのもとに繰りひろげられる物語。ある意味、現代を舞台に歴史ファンタジーをやっていることになるわけで、そういう意味でもちょっと興味深いチャレンジングな作品。
    23位 きづきあきら&サトウナンキ『暁の明星』
     フランス革命前夜の巴里の都を舞台に、淫靡かつエロティックな退廃の宴を描いた物語。とにかくエロいのでぼく好みです。日本風の陰影に富んだエロさもいいけれど、欧風のエロティシズムもそれはそれで。全2巻の完結巻が最近になって出たようなので、来年はそれを読んでみようと思います。
    22位 アサダニッキ『青春しょんぼりクラブ』
     最近、あまり少女漫画を読まなくなっているぼくなのですが、この作品はその数少ない例外のひとつ。いやー、面白いです。ごくストレートな恋愛少女漫画には違いないのですが、何だろう、何か心に響くものがあるというか。なかなかオススメの作品ですね。
    21位 北崎拓『ますらお 秘本義経記 大姫哀想歌』
     『ますらお』! 連載終了以来、実に18年ぶりという長い長い時を経て、ついにこの物語が帰ってきた! 源義経その人を主人公に、ギリギリのサバイバル状況を描いた北崎拓の異色作、堂々の帰還です。
     打ち切り作品には違いないものの、一部ではマニアックな人気を博していた作品だけに、この再開を喜んでいる人は少なくないのではないかと。とにかくエンターテインメントとして面白い作品なので、素晴らしい漫画だといえるかと思います。
    20位 鈴木みそ『限界集落温泉』
     今年、電子書籍の売り上げで1000万円を超える額を稼ぎだした鈴木みそ、その売り上げの中核となっているのがこの『限界集落温泉』です。
     極端に歌が下手な声優の女性を中心に、田舎の限界集落に「オタクの聖地」を作り上げてしまおうという奇想天外なアイディアを、いかにももっともらしく見せているあたりがミソ。全4巻でちょっと物足りなくはありますが、今年の収穫といえるのではないかと。
    19位 コトヤマ『だがしかし』
     だがしかし=駄菓子菓子というわけで、おそらく全世界に類を見ないであろう駄菓子漫画です。いったいかつてだれが駄菓子をテーマに漫画を一本描き上げてしまおうと思ったことであろう! いや、そんな奴はいない!
     あるその筋では有名な駄菓子屋の子息として生まれた少年が、その天才的な(?)駄菓子屋センスを開花させたりさせなかったりするお話なのですが、女の子が可愛いです。凋落の『サンデー』を微妙に支えている感じの一作。
    18位 紺野あずれ『私立はかない学園』
     その学校の校則は「パンツを履いてはいけない」ということだった――という、どうしようもないアイディア(笑)を軸にしたラブコメ漫画。ほとんど狂気の発想なのですが、よく練られています。
     というか、こんな救いようもないアイディアを練り込んでくるあたりがバカというか。まあ、スカートのなかを見られそうになって恥ずかしがる女の子たちが可愛いというそれだけの漫画なのですが、発想があまりにもバカなのでこの位置にランクインです。
    17位 睦月のぞみ『白銀妃』
     あまりにも美しい容姿とその容姿からかけ離れた内面を持ち合わせたひとりの女性が国王のハーレムに入るお話。酒見賢一の『後宮小説』を思い出す内容ですが、あんなシリアスな話ではありません。
     とにかくひたすら残念な性格の主人公が、同じ後宮の女の子たちと絡んだりしながら、何となく楽しく過ごす。そういう漫画。絵柄がキュートなので読んでいて楽しい。あと、後宮の女性たちのヌードが綺麗。ある種の眼福漫画といえるでしょう。
    16位 鈴木みそ『ナナのリテラシー』
     これも鈴木みそさんですね。第1巻はまさに電子書籍についての話で、作者お得意の領域を扱っている感じです。何といっても、じっさいにそのジャンルで成功した作家が描いているわけだから説得力がある。
     まあ、現実に電子書籍で大ヒットを出すのは大変そうではありますが……。それでも、この作家は出版不況のご時世に一筋の光明を見出そうとしているように思えます。希望の一作、といえるのかどうか。とにかく興味深い内容には違いありません。
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  • 2014年、最後から2番目の更新。

    2014-12-30 19:27  
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     ども。海燕です。本日午後21時から年の瀬ラジオを開催します。今年のベスト作品などを発表する予定。お暇な方はお聞きください。よろしくお願いします。
    http://live.nicovideo.jp/watch/lv205147952
     さて、妹が子供を連れて遊びに来ている関係で、更新がストップしています。どうかご容赦を。その甥っ子を連れて『妖怪ウォッチ』の劇場版を観に行ったんですが、いやー、面白かったですね!
     大人向けの見どころとしては、昭和と平成のギャップを利用したギャグが秀逸。大人が観ても普通に笑えて十分に楽しめるものに仕上がっているかと。
     ぼくが子供の頃に流行っていた『ビックリマン』とか『劇場版ドラえもん』と比べても、内容が格段にいまふうになっていることには驚かされます。
     『ビックリマン』なんかは、ある種の表現のインフレの末にブームが終わってしまった印象だけれど、『妖怪ウォッチ』は長期計画の匂いがしますね。
     小ネタもいちいち面白く、TV版はバンクシーンなんかもよくできている感じで、ヒットするわけだ、と感心しきり。基本は京極堂の憑物落としだしな。LEVEL5恐るべし。
     さて、それとは関係ない話ですが、さすがに体に悪いくらいデブって、健康に悪影響が出て来た感じなので、何度目かのダイエットを始めました。
     具体的にはカロリーを測って食事を減らすだけなのだけれど、いやー、めちゃくちゃ効果ありますね。つくづく思う。短期的に体重を減らすだけなら簡単だな、と。
     ようするに食べなければいいんだから。でも、あまり無理をして食欲を抑圧すると、どこかで心理的/肉体的なリバウンドが来るんですよね。これがむずかしいところで、短期間にあまり痩せすぎることは長期的には失敗を意味しているわけです。
     前回はそれで失敗したので、今回は適当に食べたいものを食べながら、あまり急激に痩せすぎないようにして痩せて行きたいと思います。
     そもそも体重が重たいということは消費カロリーが大きいということだから、ちょっと食べる量を減らしただけでも十分痩せるんですよね。まあ、ダイエットというより食生活を改善する感じで行こうかと。
     さてさて、今年の記事更新は残りひとつのみの予定です。ラジオないしその記事でお逢いしましょう。ではでは。 
  • チャット。

    2014-12-28 21:40  
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     年末なので、今年最後のチャットとか開いてみます。ちなみに30日の21時から今年を総括するラジオを開催する予定です。
    http://digicha.jp/kaien/chat_s_view.html
  • 妖美な禁断のエロスにどうしようもなく惹かれる。

    2014-12-27 08:16  
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     大晦日直前の30日に今年を振り返るラジオを放送する予定なのですが、それに合わせていま「今年の漫画ベスト30」という記事を書いています。
     今年はけっこう漫画を読んでいるので、それなりに充実したラインナップになっているはず。1位は「あれ」ですが――。
     ちなみに小説のベストを出さないのは単純に読んでいないからです。いやー、今年はほんとに、ほんっとうに小説を読まなかった。物心ついて以来、最も小説を読んでいない年かも。
     活字の本そのものは読んでいるんですが、小説は物語世界に入るためにひと手間かかるから敬遠気味になっていますね。とはいえ、これではせっかくの豊穣な時代がもったいないので、来年は少なくとも100冊くらいは読みたいところ。
     色々と読みたい候補はあるんですけれどねー。うーん、一時期の寝ても覚めても小説を読んでいた時期がウソのようだ。少年時代は遠くなりにけり。
     少年時代といえば、その頃の愛読書だった高田裕三の漫画『3×3EYES』の正当な続編がネットでスタートしています。
    http://estar.jp/.pc/_comic_view?w=23464395
     な、なつかしい。しかも雰囲気が当時のまま。何しろ何十年前の漫画なのでいまから見ると古びているところはあるでしょうが、ファンは嬉しいだろうなあ。やろうと思えばいくらでも続編を作れるスタイルの漫画だし。
     肝心の中身は面白いようなそうでもないような?というところですが、まあこれから盛り上がってくるのでしょう。ていうか、この時点ではまだわけがわからん。1話に詰め込みすぎなんじゃないかという気がしなくもない。
     『3×3EYES』はたぶん漫画の歴史に残るというほどの名作とはいいがたいでしょう。でも、当時はものすごく人気があった漫画で、ぼくも好きだったんですよね。
     ああ、何もかもみななつかしい。でも、宇宙戦闘は『ヱヴァ』で凄いの見ちゃったからいまひとつに感じますね。
     なつかしの漫画つながりで話を進めると、昨日、LINEで雑談していたら、何となく桂正和の話になって、かつての『電影少女』のエロさはヤバかったよね、という話になりました。
     たしかにいま思い出してもあのエロさはヤバいものがあります。この漫画、結局は打ち切りに終わっているのですが、それは人気が薄れたというよりはやはりクレームが大きかったからではないかと思う。
     それくらい少年漫画としてはむずかしい領域に入ったエロさがあったんですよね。これはまずいだろ、とぼくでも思ってしまうようなギリギリ感。
     エロい少年漫画といえば同時代に『BASTARD!!』があるんだけれど、『電影少女』はエロさの中身が異質です。淫靡というか背徳的というか、ぶっちゃけ犯罪の匂いのするエロティシズム。
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  • 「オタク」が融解して幸せで仕方ない。

    2014-12-26 10:41  
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     たまごまごさんの「オタクが融解した、「げんしけん」二代目が、つらい」という記事が面白い。
    http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20141225/1419531038
     かつて「オタク」と呼ばれた人たちが、後ろめたさやコンプレックスのない「ライトオタク」になって来ている、さらにそこからサブカルやヤンキーと融解して、「普通の人」になって来ているという話は以前しました。
     そういう変化は自然、作品にも反映されるわけで、オタク自己言及漫画の代表格である『げんしけん』からも古い意味での「オタク」がいなくなった。それが見ていて何か辛い、という趣旨の記事です。
     なるほどなー、と思いますね。当然、そういう人はいるだろう、と。しかし、面白いと思うのは、ぼくはまったく逆なんですよね。ぼくの場合、「オタクが融解した。幸せ」なのです。
     ぼくは自分が「オタク」と呼ばれることにずーっと違和感を抱いていて、「オタクといわれてもなあ……」と考えていたのだけれど、昔は「そうはいってもオタクでしょ」としか見てもらえなかった。あるいは「お前なんてオタクの風上にも置けねえ!」とかね。
     「オタクであるか、ないか」なんてどうでもいいと思うんだけれど、昔はそこに何かしらの意味があると考える人が多かった。
     そして、「オタク」であると自認する人はそこにアイデンティティを見いだしてよくわからないエリート意識に耽ったり、あるいは結束したり反発しあったりしていた。
     いまから10年以上前のことです。しかし、ぼくはこの「オタク」という概念にどうしてもなじめなかった。だって、その時はオタク趣味を楽しんでいても、べつにオタク趣味「だけ」に特別な価値を見いだしているつもりはなかったから。
     たしかにアニメも漫画も好きだけれど、それだけを特別に好きなのかと行ったら違う。あえていうなら「物語」というか「お話」が好きなのであって、ライトノベルとか萌えアニメといった表現形式は、その時一時の流行であるに過ぎず、本質ではないと考えていた。
     じっさい、そういう表現形式にはそれなりの栄枯盛衰があるわけです。一時のぼくはエロゲにハマっていたけれど、いまでは1年に1本もプレイしないもん。
     しかし、広い意味での「物語」の需要がなくなることはない。おそらくそれは、人類の歴史が続く限り、形を変えて続いていくものでしょう。
     だから、「物語オタク」と呼ばれるならまだわかるけれど、その時代、その時代の文化のオタクといわれることには違和感があるというのがぼくだったのでした。
     まあ、インドア派っていわれたら否定できないな、というくらいですね。それにしても、アウトドアで面白そうなことがあったら行くよ?くらいの気持ちはあったし。
     つまりはぼくはその時代、その時代で「自分が面白いと思うもの」を追いかけて来ただけなんですよね。
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  • なぜぼくはクリスマスでもひとりぼっちで救われずブログなんて更新しているのか?

    2014-12-25 01:49  
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     いよいよというべきなのかどうか、今年もクリスマスがやって来ました。
     クリスマスといえば現代日本では一年に一度のラブ・イベント。愛の配当からもれた人たちが「クリスマス中止」を叫んでイベントを起こしたりするのもいまとなっては年中行事という感じで、それはそれで楽しそうです。
     ぼくはといえば、今年は家族といっしょにこの日を迎えることもできず、ひとり寂しく聖夜を過ごすことになりそう。
     ひとが歓びに湧いていればいるほどわが身の孤独を感じずにはいられないわけですが、そういう意味ではクリスマスは一年でいちばん寂しい日ということになりそうですね。
     まあじっさいにはネットがあるからそう孤独感が募ることもないのだけれど、それでも何となくひとり身の切なさは感じます。
     ぼくと同じ歳だったら、もう結婚して子供がいる人のほうが多いくらいなんだよなあ。特に自分の人生を後悔するわけではありませんが、自由な非モテライフは孤独感とうらはらだとあらためて感じますね。
     まあ、非モテの自由なんて、呪い放題とか憎しみ放題とか、その程度のものですが……。
     こうしてひとり身の不遇をかこっていると、世間の狂騒もあまりにも遠く、恋愛とは何なのだろうとあらためて考えずにはいられません。
     ぼくの解釈によれば、それは「人間関係の不条理さが極限化して表れる関係性」ということになります。
     そもそも人間関係とは不条理なものだと思うのです。そこでは、倫理的な善悪は通用しません。「博愛」とか「平等」といったきれい事もじっさいにはほとんどまったく役に立たない。
     そこでは、愛される者はひたすらに愛され、愛されない者は一瞥さえ与えられないというとほうもない理不尽が当然のようにまかり通っているのです。
     その「関係性の不条理」が最も前衛化するのが即ち恋愛です。恋愛においては、いかなる意味での「正しい理屈」も意味をなしません。
     恋愛とは、ある意味でひとの差別心そのものです。だからこそ、モテと非モテが生まれ、そこからまた歓びや恨み、憎しみが生まれて来るわけです。
     恋愛の不条理さという話だと、ぼくはいつも村山由佳の『すべての雲は銀の…』という小説を思い出します。
     この作品のなかで、実の兄に恋人を寝とられた主人公は、友人から「合理的」な説教を受けます。「恋愛に善悪なんてないし、恋人はモノじゃないんだから、自分の所有物のように独占していることはできない」と。
     ある意味で実に「正しい」理屈だと思うのですが、まさにそうであるからこそ不条理そのものです。もし彼女がほかの男と浮気することが自由なのだとすれば(浮気というか、こちらのほうが本気なのだけれど)、そんな彼女を恨みつづけるのも自由であるはずではないですか?
     「そもそも正しさなど存在しない」はずの恋愛という関係において述べられる「正論」のむなしさがそこにはあります。一見して正しい理屈であればあるほど、それは恋愛の実相から隔たっているのですから。
     恋愛関係は、ある意味で権力関係を内包しています。愛されている者は時にその愛をかさに着て暴虐を働くでしょう。愛さずにいられない者は、その愛ゆえに下手に出ることを余儀なくされるかもしれません。
     「好きになったほうが負け」、「より魅力的な者がすべてのチップを持っていく」、恋愛とはそういう偏ったルールのゲームなのだと思います。
     そこには善悪も倫理もない。結婚となるとまた話は別ですが、少なくとも恋愛の次元においては、浮気をしようがふたまたをかけようが、あるいは相手の権利を侵害しようが、べつだん、法律で咎められることはない。
     そしてそういうひどいことをやる人間がモテないかといえばそうではないわけで、やはり恋の実相はどこまでも不条理そのものです。善人に善果がないのが恋愛です。
     ひとは好きではない人間には、どんなひどいことでもできるもの。ですから、ぼくのように「愛される魅力」に欠けた人間は恋愛においてどこまでも弱者です。
     その反対に「愛される魅力」を備えたより多く人間は絶対強者であり、自然、そのように振る舞います。それは必ずしも容姿の美醜であるとも限らない。とにかく魅力がある人はモテて、すべてを独占するのです。
     それがこのゲームのルール。「ひとを差別してはならない」という一般的なモラルから限りなく隔たっていますが、本来、私的な場面においては差別はまったく悪ではないのです。
     むしろ差別せずには生きていけないのが人間であるとすれば、恋愛はひとが最も自然でありえる状況ということができるでしょう。
     好きな人は好き。嫌いな人は嫌い。あまりにもあたりまえなことではないでしょうか? そしてそれは何と残酷なことなのでしょう。ここでは人間らしい努力だとか研鑽だとかは、あまり意味を持たないように思えます。
     じっさいにはそうでもないのかもしれませんが、持っている者は何もかも持っているし、持たない者は何ひとつ持たない、そのように、見える。
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  • 訂正。

    2014-12-24 15:23  
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     ごめんなさい、先の記事のIDは間違えていました。正確には「7066 9259」のようです。なお、これも24時間で使えなくなる模様。ご希望の方はお早いご参加を!
  • Picseeでグループを作ってみた。

    2014-12-24 12:39  
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     メリー・クルシミマス、愚かな大衆の皆さん。きょうもきょうとて恨み憎しみがはびこる都市でどのように過ごしておいででしょうか。
     ぼくはiPad miniで「小説家になろう」の読みさしの作品を読み返しています。とりあえず『やる気なし英雄譚』と『勇者様のお師匠様』を最新話まで読み終わったので、『無職転生』と『本好きの下剋上』を読んでいるところ。
     いやあ、いまさらだけれど、『無職転生』は面白い。ある程度たまってから読むといくら読んでもなくならないのがいいですね。あいむべりーはっぴー。
     それとはまったく関係ないのですが、Picsee(https://itunes.apple.com/jp/app/id930350666)というiPhoneアプリを始めました。iPhoneで撮った写真を共有するアプリですね。詳しくはここ(http://japan.cnet.com/news/service/35058275/)を参照。
     で、なかなか面白そうなので、「ゆるオタ三昧」というグループを作ってみました。だれでも参加可。よければ入ってみてください。なお、参加時は設定で位置情報をカットしておくのをオススメ。プライバシーが漏洩するからねw
     グループIDは「6622 2596」(訂正。「7066 9259」)。ホーム画面から「グループを追加」→「グループIDで参加する」で打ち込んでください。参加できるはずです。いまのところ参加者はぼくとてれびんのふたりだけ。寂しい(涙)。
     よろしくお願いします! 
  • 「生まれたあと自分で選択していて、なおかつ容易に変えることができる属性」への攻撃だって差別だよ。

    2014-12-20 10:57  
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     まあ、タイトル通りの内容です。タイトルを見て「あたりまえじゃないか……」とため息を吐いた人は読まなくてもかまいません。
     ぼくもあたりまえだと思うのですが、広い世の中にはそう考えない人もいるらしいので書いておきます。
     さて、「差別」という概念はしばしば「生まれつきその人に備わっていて、容易に変えることができない属性への不当かつ一方的な攻撃」として定義されます。
     つまり、この定義を正しいとするなら、「生まれたあと自分で選択して、なおかつ容易に変えることができる属性」への攻撃は差別ではないということになります。
     したがって、まさにそのような属性であるオタクなどはいくら攻撃しようが、中傷しようが、それは差別にはあたらない、という理屈になるわけですね。
     それでは、この定義に問題はないでしょうか? あきらかにあるだろう、というのがぼくの立場です。
     「生まれたあと自分で選択して、なおかつ容易に変えることができる属性」への攻撃だって、悪質であれば差別に決まっています。それが差別でないというのは恣意的な定義に過ぎません。
     なぜなら、たとえ「容易に変えられる」属性であるとしても、なぜ変えなければならないのかわからないからです。
     「容易に変えられる属性への攻撃は問題ない」という考え方は、「攻撃されたら変えればいいのだから、その攻撃は差別にはあたらない」という意味でしょう。
     しかし、この理屈は「そもそもなぜその属性を変えなければならないのか?」という問いに答えてはくれません。
     「自分にとって大切なことを変えることを強要される」ということもまた、ひとつの被害です。そのような被害を生む行為は、差別以外の何ものでもないと考えます。
     たとえば普段、何かしらの民族衣装を着ている人が「その衣装、キモっ」、「ここは日本だからそういう格好はやめろ」といわれたとします。
     その場合、「民族衣装なんて着なければいい」、「自分で選んだ格好なんだから差別被害にはあたらない」といえるでしょうか?
     いえるわけがないですよね。その人には民族衣装を着て生活する権利があり、その権利を攻撃されたなら、それは立派な差別被害であるわけです。
     あるいは仮に何らかの理由で差別にはあたらないとしましょうか。そうだとしても、被害者が権利侵害を受けていることは間違いありません。
     重要なのは「その状況が差別被害の定義にあてはまっているかどうか」ではなく、「その人物が不当に人権を侵害されているかどうか」ですから、やはりこれは問題がある事態です。
     もしかしたら「いや、民族衣装のような生まれつきのアイデンティティを象徴するものに対する攻撃は差別だが、そうでないものに対する攻撃は差別ではない」という人もいるかもしれません。
     しかし、何がその人のアイデンティティを象徴しているのか、だれに決められるでしょうか? たとえばパンクファッションの男の子や、ロリータ服の女の子にとって、その服装はきわめて重要な意味を持っているかもしれません。それを不当に攻撃されることはやはり差別にあたるとぼくは思います。
     ですが、あえてくり返すなら、重要なのは「差別なのか、否か」ではありません。そもそも差別なら問題で差別でないなら問題なしという話ではないのです。
     そうではなく、あくまで不当な権利の侵害があるかどうかで問題のあるなしを見極めるべきでしょう。
     したがって、たとえ「生まれたあと自分で選択して、なおかつ容易に変えることができる属性」であるとしても、それを不当に攻撃されたなら怒っていいとぼくは思います。それは立派な差別被害以外の何ものでもありません。
     いわゆるオタク的な趣味もまたそのような後天的かつ変化可能の属性であるわけですが、だからいくら攻撃してもかまわない、ということにはなりません。
     もちろん、きちんとしたまっとうな根拠のある批判ならかまわないでしょうが、オタク趣味ないし文化に対して暴言や中傷を浴びせかけるのはやはり差別であり、なおかつ問題行動です。
     当然、何が正当なのか不当なのかを見極めることは必ずしも容易ではないでしょう。しかし、少なくとも「バカ」とか「死ね」といった罵言は、端的に問題があるといっていいでしょうし、そのような言葉を使って特定の文化を排撃する人間に理があるとは思えません。
     これはべつだんオタク趣味のみがどうこうという話ではなく、ほかの趣味、嗜好でも同じことです。
     先天的かつ変更不能な属性に対する不当な攻撃は問題だが、後天的かつ変更可能な属性に対する攻撃は問題ない、などということはありません。両方とも問題です。
     ほんとうに差別やヘイトスピーチに反対するなら、前者は問題だが後者はかまわない、などという態度を選べるはずがありません。
     もしそのような態度を取る人が実在するとすれば(実在するのかどうかは知りません)、その人物は実は差別の「悪」の本質を理解していない可能性が高いといえるでしょう。ぼくは、そう思います。 
  • 「反レイシズム」の本末転倒。

    2014-12-19 10:41  
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     ヘイトスピーチ関連の記事が面白くて、いろいろ読んでまわっています。これとかですね。
    http://togetter.com/li/758954
     このまとめの中身を解説すると、

    自民党がオタクを取り込んで戦略的に成功したのだとしたら(というかそれクラックが先に言ってたことなわけですが)、オタクはすごいから俺らも重視しようとやってきたのが00年代のリベラル。全部失敗。オタク自体だめカルチャーなのでそれをつぶすカルチャーを作らねば、というのが新しいリベラル。
    https://twitter.com/cracjpn/status/543811738726981632

     反差別団体C.R.A.Cの公式アカウントのこの発言に対し、それはオタク差別ではないか、と異論が提示されたところから始まって、いろいろとよくわからないことになっている話です。
     よくわからないのですが、C.R.A.Cの言い分をぼくなりに推測するなら、「オタクを批判することは差別ではない。なぜなら、オタクであることは「変えられない属性」ではないから、「変えられない属性を誹謗中傷すること」という差別の定義には含まれない」ということになるのではないかと思います。
     ぼくは「差別」の定義を「変えられない属性を誹謗中傷すること」とすること自体に反対ですが(本人の意志で選んだ属性を誹謗中傷することだって立派な差別でしょ)、まあこの理屈はわからなくもない。
     「オタク自体だめカルチャーなのでそれをつぶすカルチャーを作らねば」という発言自体は、差別とまではいえないかな、とぼくも思います。
     しかし、問題は「ヘイトスピーチ」を社会から排除しようとしているはずの団体のメンバーが、Twitterなどの場で口汚く論敵を攻撃していることです。
     これは「ヘイトスピーチ」にはあたらないのでしょうか? かれらの理屈によると、どうもあたらないらしい。
     なぜなら、「ヘイトスピーチ」とは「社会的強者(マジョリティ)が社会的弱者(マイノリティ)に対して投げかけるもの」であり、たとえその言葉が一字一句同じであったとしても、相手がマイノリティでなければ「ヘイトスピーチ」にはならないからです。
     たとえば、ぼくがだれかに対して「このバカ野朗!」といったとする。この発言がヘイトスピーチに当たるかどうかは、その発言内容だけでは判断できません。あくまで、相手の属性(マイノリティかどうか)によって決定されるのです。
     だから、C.R.A.Cのような団体のメンバーが、しばしば論敵を罵倒していたとしても、相手がマイノリティではない以上、それは「ヘイトスピーチ」ではなく問題ないということになります。
     いま、「いや、ならないよね?」と思ったあなた、鋭いです(いや、普通かも)。ぼくもそういうことにはならないと思うんですね。
     なぜなら、たとえその罵倒が「ヘイトスピーチ」ではないとしても、「罵倒、誹謗、中傷」、つまり「暴言」であることは間違いないからです。
     「ヘイトスピーチ」に反対する団体のメンバーが「暴言」をくり返すことは問題ではないのか? ぼくは問題だと思うのです。なぜなら、「暴言」も「ヘイトスピーチ」と同じく「ひとの尊厳を傷つける行為」だからです。
     そもそも「差別」とか「ヘイトスピーチ」はなぜ悪いことなのでしょうか? それは「差別だから悪いに決まっている」、「ヘイトスピーチはひどいことに決まっている」といったレベルで決定されていることではありません。
     そうではなく、ひとの尊厳を傷つけ、名誉を毀損し、権利を破壊するからこそ悪いことであるわけです。とすれば、「ヘイトスピーチ」がその意味で「悪」なのだとすれば、「暴言」もまた「悪」でしょう。
     もちろん、「ヘイトスピーチ」は相手が弱者であることに付け込んでいるので、よりタチの悪い「悪」であるかもしれない。
     しかし、ごく当然のことに、だから「ヘイトスピーチ」は問題ありで、「暴言」は問題なしだということにはならない。「ヘイトスピーチ」も「暴言」もどちらもひとの尊厳を傷つける問題がある行為であるわけです。
     「ヘイトスピーチ」に反対するとはどういうことか。それはただ「ヘイトスピーチ」だけを問題にするのではない。そうではなく、「ヘイトスピーチ」の根幹にある悪、つまり言葉でもってひとの心を傷つけ、その名誉を侮辱することそのものに反対していくことでしょう。
     そうであるとすれば、「ヘイトスピーチ」は問題だが「暴言」は特に問題はない、ということになどなるはずがない。
     いや、自分たちはあくまで「ヘイトスピーチ」そのものだけを問題にしているのであって、実はその「悪」はどうでもいいのだ、というのなら矛盾はないかもしれませんが、それなら、いったい何を思って何のために「ヘイトスピーチ」に反対しているのか? そこが疑わしく思えて来ます。
     「差別はとにかく悪いことだからダメ」、「ヘイトスピーチは世界的に悪いこととなっているからダメ」と単純に考えて、その「悪」の本質自体は放置しているのではないか、という疑念を免れません。
     「差別」は「差別」だからいけないわけではないのです。そうではなくて、「悪いこと」を内包しているからいけないのです。ここのところがどうも理解されていないのではないかと思えてならない。
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