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2022年8月の記事 6件

『ONE PIECE FILM RED』はアンチ少年漫画として「女の子の物語」の夢を見る。

 一昨日、映画『ONE PIECE FILM RED』を観て来ました(以下『FILM RED』)。  ぼくは特に『ONE PIECE』の熱烈なファンではなく、一応は物語を履修はしているものの、細部となると記憶が怪しいというよくいるレベルの読者に過ぎません。  過去の映画もほとんど見ていないし、「まあ、すごいマンガだよな」とは思いつつ、熱心に連載を追いかけるつもりにもなれない程度の熱意しか持っていなかったのが実際のところです。  そういうぼくなので、周囲からいくらかのネタバレを喰らいつつ、あまり期待もせずに劇場に赴きました。それで、じっさいに観てみるとどうだったかというと―― 「ウッキー! 大傑作じゃないか!」  ということで、『トップガン マーヴェリック』を抜いて今年の映画ベスト確定、過去数年でもトップを争う傑作という認識になったのでした。  いったいこの映画のどこがそんなに凄いのか? 過去の『ONE PIECE』映画とどう違うのか? これから延々と語っていくつもりなのですが、「ネタバレ」なしで語ることはできないので、ここから下では一切、ネタバレについて配慮することはしないことにします。これから『FILM RED』を観賞される方はご注意ください。  また、『FILM RED』の他にも、『ONE PIECE』本編を初めとするいくつかの過去作品のネタバレがあります。その点にもご注意ください。まあ、いつものことではあるけれど。  いやあ、しかし、ほんとに素晴らしかった! 僕はめちゃくちゃ感動したので、可能なかぎり熱く語り尽くしたいと思っています。  ただ、何しろ『ONE PIECE』に関してはかなりにわかなので、細部の間違い、あるいは解釈の違いなどはあることでしょう。もし気になる点などありましたらご指摘をよろしくお願いします。それでは、語り始めましょう。この、稀代の歌姫の物語について。  しかし、そうはいったものの、いったいどこから語り出したら良いものか。何しろこの映画ひとつはまだしも、『ONE PIECE』という物語には膨大な設定と物語の蓄積があり、さまざまな論点が絡んでいます。  それらをどう整理しながら語るのか?はなかなかの難題です。まず、『FILM RED』がどのような映画なのか、簡単な概略を書いておきましょう。  この映画の舞台はかつて音楽の国として繁栄し、そしてなぞめいた滅亡を遂げた「エレジア」。そこで、世界一の歌姫である「ウタ」のファーストライブが開催されようとしているのです。  そこに集まった何万人もの人々(どうやって集まったんだろうという気はするが、気にしてはいけない)のなかにもルフィと仲間たちも混じっていました。  そしてライブが始まるのですが、ルフィは彼女が幼なじみの少女、シャンクスの娘ウタであることに気づきます。かれはひさしぶりの再開を喜びますが、かれが船に帰ろうとすると、ウタは引き留めようとし、しだいにライブは混乱していきます。  そして、じつはウタは「ウタウタの実」の能力者であり、その能力で世界中を彼女の内面世界「ウタワールド」に引きずり込んで永遠に楽しく過ごそうとしていたことがあきらかになります。  このまま彼女が死ねば、彼女の歌に捕らわれた人々の精神は永遠にウタワールドの虜囚となるのです。この事実を知ったルフィはウタを止めようとしますが、その裏にはさらなる秘密が隠されており――と、物語は進みます。  ここで重要なのはウタが「闇堕ち」して悪の存在になったわけではなく、混乱が打ち続く「大海賊時代」において、本気で世界を救うために「ウタウタの実」の能力を使おうとしていることです。  海軍や世界政府はもちろん、さまざまな組織や海賊たちをも敵にまわして、彼女はたったひとり、歌の力だけで世界を救おうとしているのです。  ウタの目的が「間違えている」ことは物語が始まってすぐにわかります。いままでたくさんの物語を観てきた人なら「ウタウタの実」、そして「トットムジカ」から「人類補完計画」や「Cの世界」を連想し、それが人間の現実と可能性を否定するものであることを思い出すでしょう。  ウタの理想は気高いけれど、その手段は端的に「間違えている」。そのため、ウタはルフィにとっての「ラスボス」にならざるを得ない。こうして、物語はルフィとウタの対立構造に収斂していきます。  しかし、それでも『FILM RED』の構造はいままでの『ONE PIECE』とは決定的に違っています。ウタはたしかに物語においてルフィの「敵」であり「ラスボス」なのですが、ルフィはウタをいままでのようにウタを殴って倒そうとはしません。  かれにとってウタの理想が打倒するべきものであることはたしかなのですが、ウタ個人は決して嫌いではないのです。  その意味で、『FILM RED』従来の『ONE PIECE』とは異なる。むしろ、アンチ『ONE PIECE』なのではないかとすら思うくらいです。  もちろん、そのアンチ『ONE PIECE』的な要素をも含んでさらに続いていくのが『ONE PIECE』という物語なのでしょうが、いずれにしろ、ここで『ONE PIECE』は決定的にアップデートされたと感じました。  ここに来て、さらに内容を刷新するのが『ONE PIECE』の凄みなのでしょう。圧巻としかいいようがありません。  それでは、『FILM RED』が『ONE PIECE』ではないとはどういう意味なのか。それは、この映画の主人公がルフィでないということです。  いままでの『ONE PIECE』の主人公はいうまでもなくルフィです。しかし、この映画はじつはルフィの物語ではない。あくまで「ウタの物語」なのである。これが、ぼくが『FILM RED』を観ながらたどり着いた結論でした。  否、あとから冷静になって振り返ってみると、単に「ウタの物語である」といい切ることには無理があり、むしろ「ウタの物語」と「ルフィの物語」が対立し、対決していると見るほうが自然であるように思えます。  このふたつの物語は相互に矛盾する関係にあり、両立は不可能なのです。それは、どこまでも自由に「海賊王をめざす」ルフィと、海賊を憎んで「世界を救おうとする」ウタ、ふたりの目的が対立しているというだけではありません。  ルフィが貫こうとする「男の子の物語」とウタが背負う「女の子の物語」、その語りの方法論、つまりドラマツルギーが対立してるといったほうが良いでしょう。  「男の子の物語」とは、少年ないし男性を主人公とした物語のことです。その物語においては、世界の中心にいるのはあくまでも男の子であり、女の子は「冒険の仲間」として扱われるにせよ、「救済するべきヒロイン」として描かれるにせよ、従属的存在に留まることになります。  主人公である男の子が戦いと冒険の日々を繰りひろげるとき、女の子には席がないのです。これは世界的に見てもそうだったと思いますが、特に戦後の日本では、敗戦のトラウマが作劇にダイレクトな影響を与えています。  その結果、「男の子の物語」は「正義が悪を討つ」というシンプルでストレートな構造を採用しにくくなり、きわめて複雑な自己懐疑/自己批判をくり返すことになりました。  そのひとつの頂点が、たとえば永井豪の最高傑作『デビルマン』だったことでしょう。『デビルマン』においては善悪は完全に逆転し、人間たちは「悪」の烙印を押され、世界は崩壊してしまいます。  こういった流れについては同人誌などで散々書きましたが、適当にはしょっていうと、その流れが決定的なターニング・ポイントを迎えたのがかの『新世紀エヴァンゲリオン』でした。  『エヴァ』において、「男の子の物語」は決定的に挫折し、破綻しました。主人公碇シンジはあらゆる意味で「男の子らしさ」を剥奪され、ひたすら苦しげにうずくまるばかりだったのです。  ここで詳述する余裕はありませんが、その背景にあるのはこの社会が複雑・多様化し、いわゆる「大きな物語」が失われて、不透明化していったことです。  現代においては、何が正しく、何が間違えているかの判断が非常にむずかしい。善意で、正義のつもりでやったことでも、結果として最悪の顛末に至ることがありえる。そのため、男の子たちは正義を実行しづらくなり、ただ碇シンジのようにうずくまるしかなくなってしまうわけです。  もちろん、その状況を突破しようとさまざまな取り組みがなされたわけですが、そのことを細々と語っている余裕はありません。  ここでは、精神科医の樺沢紫苑さんは著書『父滅の刃』において、現代の物語において「父性」が通用しなくなっていくプロセスを丹念に検証していることを挙げておきましょう。  良くも悪くもぼくたちは「父なき時代」に生きているわけであり、「父殺し」の物語は容易に成立しなくなったのです。  しかし、『エヴァ』以降、それでも『少年ジャンプ』を初めとする少年漫画は「男の子の物語」を貫いてきました。『ONE PIECE』はその代表的作品といって良いでしょう。  『ONE PIECE』を初めとするジャンプ漫画は、しばしばジェンダー描写の古さを批判されることがありますが、見方を変えれば、だからこそいまなお「男の子の物語」を描き切れたという一面もある。  『ONE PIECE』が、「不透明な正義」の問題に突入することなく、「男の子の物語」を貫徹させつづけられたのは、この物語が犯罪者たる海賊を主人公にした一種のピカレスク・ロマンであり、そもそも「正義」を志向していないからということが大きいと思います。  ルフィはそれぞれのステージにおいてただ自分の嫌いな相手を感情に任せて打倒しているだけであり、その結果については関与していない。無責任といえばかぎりなく無責任なのですが、その姿勢がルフィを善悪倫理を巡るはてしない葛藤から救っています。  つまりまあ、色々と書いてきましたが、主人公であるルフィがしばしば苦戦しながらも、かれにとっての「悪」を殴って倒して事態を解決するのが『ONE PIECE』という作品のシンプルで力強い「男の子の物語」の王道ともいうべき構造でした。  ところが、『FILM RED』においてはルフィはウタを最後まで殴らない。これは、ほんとうに最後の最後まで「ウタの物語」と「ルフィの物語」が交錯しなかったことを意味しています。  いや、このいい方は誤解を生むでしょう。ぼくがいいたいのは、「ウタの物語」は最後まで「ルフィの物語」に取り込まれなかった、ということなのです。  それを「女の子の物語」が「男の子の物語」に取り込まれなかったといっても良いでしょう。画期的なことだと思います。少なくともぼくは過去、このような例を見たことがありません。  もっとも、このように書くとすぐに反論が返って来そうです。そのことの良し悪しはともかく、いまではポリティカル・コレクトネス概念の普及によって、女性主人公の冒険物語はたくさん存在するようになりました。  また、日本には「戦闘美少女」ものと呼ばれる一ジャンルもあり、必ずしも女の子の冒険物語が語られてこなかったわけではありません。その意味では、「男の子の物語」に拮抗する「女の子の物語」はいくらでもあるではないか、ということはできるでしょう。  それは一面の真実です。ただ、それでも、男たちが「男の美学」にのっとって誇り高い戦いを繰りひろげるとき、女の子たちはどうしても蚊帳の外に置かれる傾向がある。  これはそれこそ『ONE PIECE』において端的に表れている問題で、『ONE PIECE』はあくまでも何より「ルフィの物語」であるが故に、ルフィのまわりの女性陣はルフィに従属的なポジションしか与えられない印象がつよい。  たとえばナミのように、あるいはニコ・ロビンのように、最終的には彼女たちは「ルフィに救出される立場」を選ぶのです。  ぼくは必ずしも「ポリコレ」的に、それが悪いというつもりはありません。ただ、ともかく『ONE PIECE』はそういう物語であったという事実はある。そして、それに不満を持つ人たちも相当数いたはずです。  そしてまた、『ONE PIECE』がおそらくは少年漫画史上最高最大ともいうべき怪物的大傑作であることは論を待たないものの、それでも、四半世紀になんなんとする連載を経て、その方法論は少し過去のものになっていたと思うのです。  それをリファインし、アップデートしようとしたのが今回の『FILM RED』だったのではないかという見方はできます。  もちろん、そうはいっても、膨大な蓄積の上に成り立つ『ONE PIECE』をいまさら刷新するのは容易なことではないはずですが、谷口悟朗監督は今回、完璧な仕事をしました。  ここではウタという女の子と、その「女の子の物語」がルフィの「男の子の物語」と対立し、拮抗し、そして、ぼくの見方では「勝利」しています。  いや、じっさいのところは、それはあまりに偏った見方に過ぎないかもしれません。物語のなかでウタの目論見は失敗しており、また最後には彼女は(おそらく)死んでしまいます。  ルフィにも、シャンクスにもウタは救えなかった。『ONE PIECE』にはめずらしいビターでセンチメンタルな結末だと見る人が多いことでしょう。ですが、ぼくにいわせれば、ウタはまさに勝ったのです。  少なくとも彼女はルフィの「男の子の物語」に負けることなく、自分の「女の子の物語」を貫徹している。これはほんとうに素晴らしいことだと思います。  いったいいままで「男の子の物語」とその背景にある「男の美学」をまえに「敗北」した女の子を何人観てきたことか。その意味で、ウタはまさに「新時代」を予感させるキャラクターだといえます。  それでは、いったい「男の美学」とは何か。これはまさに『ONE PIECE』のバックボーンとなっているある種のジェンダー規範です。  いまの男女平等志向社会では「男の美学」などという言葉はあまりに古くさく、時代遅れの印象があるかもしれませんが、何より『ONE PIECE』が大ヒットしつづけているという事実は、この「美学」がいまなお魅力的であることを示しています。  「男の美学」を格好良く描いた少年漫画には枚挙にいとまがない名作傑作があるのだけれど、『ONE PIECE』はその系譜の最高傑作のひとつといって良いでしょう。  もちろん、「男らしさ」そのものは随分と前に変質しました。少年漫画だけを見ても、たとえば70年代の『男組』あたりではシリアスに描写されていた「男らしさ」は、80年代の『魁!!男塾』ではかなりパロディ的に扱われるようになっています。  「男らしさ」は暑苦しく、むさくるしく、スマートではないものという意識が強くなっていったのでしょう。ですが、それでも「男の美学」そのものは形を変えて連綿と生き残っているのです。  だからこそ、『FILM RED』におけるウタの「勝利」はあまりにも輝かしい。それでは、「男の美学」の物語のほうが「勝った」例を考えてみましょう。  いくらでも例を挙げられるのですが、たとえば、『ファイブスター物語』第11巻収録のダグラス・カイエンとミース・シルバーの物語は、ぼくの考えではそれにあたります。  あるいは、『ベルセルク』でのガッツとグリフィスの対立においても、「女の子」であるキャスカは第三者的なポジションしか与えられなかった。  しかし、もっと印象的なのは、『FILM RED』と同じ谷口悟朗監督による、『コードギアス 反逆のルルーシュ』の例です。この物語のなかで、ユーフェミア・リ・ブリタニアこと、ユフィは主人公ルルーシュに対し、ある合理的なアイディアを提案します。  それはルルーシュの立場を理解した上でかれをも仲間に引き入れるという優れた発想であり、ルルーシュすらもそのことを認めるのですが、その後、あろうことかユフィはある「偶然の事故」によって死亡してしまうことになるのです。  ぼくは、この展開に何らシナリオ的な必然性を見て取ることができません。これは、あきらかにユフィという存在が物語にとって邪魔でしかなかったことを意味しているのだと思っています。  そう、ユフィがあまりに活躍しすぎてしまうと、まさにルルーシュの立場がなくなる。男性のスザクであれば、ルルーシュの「ライバル」であることができるけれど、「女の子」であり、根本的に土俵の異なる価値観を掲げるユフィは物語のなかに居場所がない。  そのため、彼女は物語から「追放」されてしまったのです。  こういった唐突ともいえる展開は、「男の子の物語」のドラマツルギーにおいては、そもそも「仲間」でも「ヒロイン」でもない女の子は居場所がない、つまり「男の子の物語」はそういう女の子を語る方法論を端的に持たないことを示しています。  「男の子の物語」はあくまでも主人公の男の子のためにあり、そこでは女の子はどうしても従属的な位置づけになってしまうのです。これは、差別というよりも作劇的な必然と見るべきでしょう。だからこそ、『FILM RED』は画期なのです。 

オタク日本昔話。庵野秀明は何に立ち向かって『エヴァ』を作ったのか?

 ども、きょうは何を書こうか、書くべきか、ちょっと迷ったのだけれど、「オタク」に関する昔話をしておこうと思います。  ぼくは1978年生まれで、今年もう44歳になるのだけれど(しくしく)、オタクとしてはいわゆる「第二世代」と「第三世代」の間くらいになります。  その上の「第一世代」は1950年代後半から60年代前半くらいの出生の人たちを指します。具体的にいうと山本弘さんが1956年生まれ、唐沢俊一さんと岡田斗司夫さんが1958年生まれ、庵野秀明さんが1960年生まれ。若い頃に『宇宙戦艦ヤマト』を見て育った世代ですね。  ひと口に「オタク」といっても、ここら辺の人たちは現代の若い「ライトオタク」たちとはまったく異質な考え方をしているように見えます。  どういうことかというと、この時代のオタクは(かれらが若い頃にはその言葉もまだ存在していなかったわけだけれど)、「いい歳の大人になっても子供向けのアニメを見たりしている変わり者」だったのです。  現在ではアニメやマンガの市場はきわめて成熟かつ多様化し、大人がアニメを見ていても、そこまで変わったことではなくなりつつあるといって良いでしょう。  劇場版の『鬼滅の刃』あたりに至っては、まったく興味がないという人のほうが変わり者扱いされるかもしれないくらい。しかし、まるで昔は違ったわけです。  もちろん、当時にも相対的に大人向けの作品はいくらでもあったには違いありませんが、この手のサブカルチャーに対する蔑視は現在とは比較にならないほど強かったことでしょう。  で、そういう状況にあっては、オタクは自分の趣味に対してどういう態度を取るか決定しなければならなかった。  いまの若いアニメオタクはそのほとんどが「なぜアニメを見るのか」なんてろくろく考えたこともないに違いないけれど、当時は考えなければならない状況だったのですね。  そこで、オタクたちは趣味についての態度を考え、「顕教」派と「密教」派に分かれたのです。  何だそりゃと思われるかもしれませんが、「オタク顕教」と「オタク密教」とは、竹熊健太郎さんが『私とハルマゲドン』というオウム真理教とオタクの関連性を語った本のなかで紹介している概念です。  前者は「あえて」「わざと」「ネタで」オタクであることを選んでいる態度で、それに対して後者は「本気で」「ベタに」オタクである姿勢を指します。  つまり前者の人は「なぜいい歳をして子供向けのアニメを見るのか?」という問いに対し、「いやあ、子供向けの幼稚な内容であることはわかっているんだけれど、「わざと」そういう作品を選んで見ているんだよ」という風に答える人であり、後者の人はそう訊かれたら突然に早口でその作品の魅力を語りだすようなタイプの人であるといえるでしょう。  竹熊さんはある種、オタク密教的なネタ宗教として見られていたオウム真理教がとんでもない大事件を起こした経緯を問題視するのだけれど、それはまあ今回の話の筋とは関係ないので措いておくとしましょう。  で、これは他の本にまたがる内容になるのだけれど、かれは当時、『エヴァ』が話題になっていた庵野秀明を「顕教徒」の代表的存在とみなし、しかも庵野さんが所属していたGAINAXを基本的には「密教徒」の集団であると語っています。  そして、そこからある衝撃的な結論を導き出すわけです。つまり、庵野秀明はGAINAXで「ネタではなくベタで子供向けアニメを好きな奴」としてバカにされていた、と。  これはあくまで竹熊さんの主観的な観測にもとづく意見なので、ほんとうにそうだったかはわからない。じっさいのところは『アオイホノオ』とかもろもろ読んで推測するしかないところなのでしょうが、この見解は理解できると思う。  何といってもGAINAXは岡田斗司夫さんが社長をやっていたような会社ですし。いまとなっては新たに読む者もほとんどいないであろう『オタク学入門』とか読むとはっきりわかるけれど、岡田さんの態度はあきらかに密教的なんですよね。  というか、竹熊さんが「オタク密教」という概念を考えたとき、初めから岡田さんのことを想定していたのではないかと思う。  そしてまた、当時のGAINAXは、その岡田さんのような人たちがたくさんいた会社だったと、で、庵野さんはそのなかで特殊な存在でバカにされていたんだったと、竹熊さんはそういうわけです。  繰り返しますが、どこまでほんとうなのかはわかりません。ただ、色々と伝聞情報をつなぎ合わせると「そういうことがあってもおかしくないかなあ」とは思う。  いまとなっては日本を代表する天才映画監督として世界的に知られる庵野さんだけれど、当時はまだ若かったし、たぶんいまよりもっととがっていただろうから、GAINAXでもかなり「変な奴」として見られていたとしてもおかしくない。  何より、庵野さんはあきらかに「ベタに」「顕教的に」子供っぽいアニメ、あるいは「メカと美少女」といったオタク的な文化を好きなわけです。  もちろん、「オタク密教」的な人も「メカと美少女」が好きな気持ちはあるんですよ。ただ、「密教徒」はその気持ちを封印し、メタ的な態度で作品に接する。それに対し、「顕教徒」はどこまでもベタに作品を愛しているのです。  で、おそらく庵野さんはその「ベタに子供っぽい作品を好きな自分」をどう処理するか悩んだのだのでしょう。『エヴァ』という作品と、その頃の庵野さんのオタクに対する批判的な態度は、ここら辺の事情を頭に入れておかないと理解できません。  庵野さんのオタクに対する批判は、まず何よりも自己批判であったと見るべきなのです。  『エヴァ』直撃世代のぼくは、『エヴァ』そのものというよりも庵野さんの「顕教」的な生きかたにものすごく影響されています。  決して道化の仮面をかぶってシニカルに他人を笑い飛ばし、自分を人よりひとつ上のレベルに置いて自己防衛したりすることなく、「趣味に対して徹底的に真剣であるべし」というぼくの信条は、庵野さんの影響を直接的に受けている。  もちろん、庵野さんもまたその上の世代(「オタク第ゼロ世代」)の宮崎駿さんあたりと比べると色々屈折しているということは、それこそ竹熊さんがくわしく述べているとおりなのだけれど、それでも庵野さんは「いつまで経っても子供っぽい自分」に対して徹底して向き合ったのだと思っています。  その結果、テレビシリーズ版の『エヴァ』はあのようなSF設定もマクロ状況もすべて放り出し「男子中学生の悩み」にフォーカスした内容となった。  それは「密教徒」からすれば「失敗作」として笑い飛ばすべきことなのだけれど、『エヴァ』はあからさまにそれでは済まない作品だった。  その結果、岡田さんは『エヴァ』や『エヴァ』ファンを笑い飛ばそうとして竹熊さんと喧嘩別れする事件を起こしたりするわけなのですが、GAINAXがその後どういう顛末をたどったかを思うと、非常に感慨深いものがあります。  結局、GAINAXでいちばん大人になれたのは「子供っぽい自分」を直視する勇気を持っていた庵野さんであって、GAINAXに残った人たちはまったく大人になれなかった、あるいは「ダメな大人」になってしまったとも思えるからです。うーん、諸行無常。  ただ、まあ、こういう話は、いまとなってはほんとにただのむかし話ですよね。いまの十代に「オタク密教」なんて概念を説明したところで絶対にわかってもらえないでしょう。昔は遠くなりにけり。  そのことを踏まえた上でもうちょっと付け加えると、ぼくがつくづく面白いと思うのが山本弘さんという人で、山本さんの態度はひと口に「密教」とも「顕教」ともいいがたいものがある。  まあ、あきらかにベタに作品を好きではあるから「顕教徒」には違いないのだろうけれど、山本さんはアニメやSF小説が子供っぽい「にもかかわらず」好きなのではなく、子供っぽい「からこそ」好きだと主張するわけです。  この違い、わかりますかね。庵野さんはおそらく「いつまでも子供っぽいものを好きな自分」に悩んだのだと思うけれど、山本さんは悩まなかったでしょう。それどころか「子供っぽいものが好きな自分」を誇りに思っていたものと思われます。  ただ、それ自体は全然良いものの、その誇り方がどうにも歪んでいるのですよね。  たとえば小説『サーラの冒険』第一巻のあとがきで、山本さんは自分には音楽がわからないと述べた上で、このように書いています。 

弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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