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記事 23件
  • 最強への妄執を超えるということ。『十 忍法魔界転生』の挑戦。

    2013-03-31 15:39  
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     『歴史教育とジェンダー 教科書からサブカルチャーまで』という本がある。この本のなかで、藤本由香里が「サブカルチャー」を担当する形で、少女漫画における歴史ものについて語っている。
     藤本はこの論考のなかで「女性マンガには平安時代を舞台にした作品も数多くあるが、男性マンガで平安時代が舞台の歴史ものなど見たことがない」といい、「女性たちが興味があるのは、時代の覇者によって書き残された「史実」、どういう戦いを経て誰が時代の覇者になったか、ではなく、「その時代の生活を知ること」、「その時代を生きた人々の気持ちを想像すること」なのだ」と結論づけている。
     これは慧眼だと思う。たしかに男性向けの娯楽漫画で平安時代ものを読んだ記憶なんてない。こうやって見てみると、男性向けのエンターテインメントがいかに内容的に偏っているのかわかる。
     男性向けの歴史漫画とは基本的に「バトル漫画の一種」であって、「だれがいちばん強いか」という競争原理の物語なのだ。『バガボンド』は露骨にそうだし、たとえば『蒼天航路』や『センゴク』などにしても「最高の王や武将はだれか」というテーマがあって初めて成り立つ作品だと思う。
     『バガボンド』はこのテーマを突き詰めて考えた結果、ついに農業を始めることになってしまうわけだが、少し違う形からこの原理を批判的に換骨奪胎しているのが山田風太郎原作の漫画『十 忍法魔界転生』である。
     原作は戦後娯楽小説の金字塔、歴史に燦然と屹立するエンターテインメントであるわけだが、その内容はシンプルで、孤高の剣士柳生十兵衛と「忍法魔界転生」によってよみがえった宮本武蔵、天草四郎らの剣客らが壮絶な激闘を繰り広げる、というそれだけの話。
     そこだけを見るといかにもストレートなバトル漫画的構造に見えるが、作者はそれを巧みにずらしている。まず、最強の力を得るためには一度死に、女体を通して「魔界転生」しなければならないという設定が凄まじい。
     
  • 『魔法少女まどか☆マギカ』でハッピーエンドとは何か考える。

    2013-03-31 13:47  
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     『魔法少女まどか☆マギカ』続編の予告PVが公開されたようです。これはもともと劇場で流していた映像なのかな? さやかの瞳に一瞬だけアルティメットまどかの影が映るシーンが印象的ですが、さて、じっさいの映画の出来はどうなることやら。
     この続編の存在価値にぼくはかなり懐疑的です。もちろん、おもしろいかどうかは見てみなければわからないのだけれど、それはそれとして、やっぱりテレビシリーズ本編が非常にきれいな形で終わっているわけで、そこからどう続編を組み立てようと蛇足に終わるのではないかという疑いはぬぐえない。
     その疑いを乗り越えて、素晴らしい作品が生まれてきたらそれはもう脱帽というしかないのですが、そうなるかな。どうだろう。まあ、一ファンとして楽しみではあるのですが。
     とりあえずこの予告PVでは、まどかに対してはっきりと「犠牲」という言葉を使っています。まどかはみんなの幸福のための犠牲になったんだ、という解釈ですね。おそらくはこの解釈の上に物語のすべてが組み立てられていくものと思われます。
     で、そこから先がどうなるのか。ひとつの予想として「今度こそまどかも救われて、完全なハッピーエンドを迎える」という可能性もなくはない。でもねえ、それをやっちゃったら蛇足以外の何物でもないと思うんですよね。
     ぼくは現実をシビアに見つめたが故にハッピーエンドを書けなくなった虚淵さんがかろうじてたどり着いた「ニアハッピーエンド」があの結末だと思っているので、「何もかもが解決し、だれもかもが幸せになる完全なハッピーエンド」を観たいとはまったく思わない。『まどマギ』の結末はハッピーエンドではないかもしれませんが、ありえる限り最もハッピーエンドに近いと思うんですよ。
     もちろん「まどか以外のすべてのひとが救われていても、まどかが救われていなければハッピーエンドとはいえない」という意見はわかる。でもね、ここが微妙なところで、仮に脇役の子がひとりくらい犠牲になっていたとしても、まどかたち主役級のキャラクター全員が幸せになっていれば、視聴者はハッピーエンドと受け取ったと思うんですよね。
     ひとは物語を見る時、主役キャラの幸不幸だけを気にして、その周囲にいるはずの人々のことはあまり気にしない。ウルトラマンに踏みつけられて何万人のひとが死んでいようと、ベジータに殺されて何百万のひとが死んでいようと、そんなことはあまり考えないのです。
     よくも悪くも物語というものはそういうもの。だからハッピーエンドというのも、ようは視聴者が感情移入しているキャラクターだけ救われていればそういうふうに見えるわけです。
     逆に感情移入キャラが幸せになっていないと、いくら状況が改善していてもハッピーエンドとは受け取れない。『まどマギ』の結末について論争が起こったのはそういうことだと思います。
     
  • リア充幻想の彼方へ。友達さがしラノベは「脱ルサンチマン」に向かう(かもしれない)。

    2013-03-31 13:04  
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     今回からAmazon画像を復活させることにしました。規約にもとづきアフィリエイトは使用していないので、気楽にリンクから飛んで商品を買ってください。
     さて、昨夜、LDさんとペトロニウスさんでラジオを放送しました。たっぷり3時間強、色々なことについて話しあったのだけれど、そのなかでひとつの大きなテーマとなったのが「友達さがし系ライトノベル」の話。
     具体的には『僕は友達が少ない』や『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のことです。ここ最近、タイトルそのものがテーマを表している『ぼくは友達が少ない』を初めとして、「恋人」ではなく「友達」を求める系統のライトノベルがたくさんヒットしています。
     妹との関係がメインになっている『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』にしても、妹の友達さがしが重要な部分を占めていますね。もちろん、その背景には「親友」とか「ほんとうの仲間」を切実に求める青少年読者の欲望があり、『ONE PIECE』なども同じ欲望から生み出された作品だといえるでしょう。
     で、この友達さがし系ライトノベルについて話していた結果、キーワードとして浮かび上がってきたのが「脱ルサンチマン」という言葉。どういうことかというと、友達さがし系ライトノベルは『僕は友達が少ない』に顕著なようにまず「リア充」を仮想敵にして話を組み立てるんですね。
     その作品世界を貫く価値観として、どこかに「リア充」と呼ばれる存在がいて、そいつは幸福と充実を満喫している、それなのに自分(たち)は不幸で孤独で恵まれていないという形で社会を捉えている。
     これはまあ、いままでのオタク青少年たちにとってはごく自然だった社会観ではあると思うのですが、「不幸な自分」と「恵まれたリア充」の二極構造で世界を捉えようとしているわけで、ここにあるものはルサンチマン(恨みや嫉妬)の構造だといえます。
     で、ぼくはどこかで友達さがし系ライトノベルが「脱ルサンチマン」を果たすポイントがあらわれてくるのではないか、と考えているんですね。つまりはこのルサンチマンをもってリア充を眺める視点がどこかで解体されて、「リア充でなくても幸せ」「恵まれていないけれど満足」という物語が出てくるのではないか、と。
     
  • 『ベルセルク』を読んで完璧主義者のパラドックスを思う。

    2013-03-30 18:02  
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     Jコミに海野蛍さんのエロ漫画が登録されていますね。このひと、どうやらSFファンであるらしく、作品タイトルに『風の十二方位』(ル・グウィンの短篇集)だとか『思春期の終り』(いわずとしれたアーサー・C・クラーク『幼年期の終り』のパロディ)といったタイトルを持ってきています。内容は必ずしもSFしているわけではないんですが、一SFファンとして「ニヤリ」とできます。
     それとはまったく関係がありませんが、先日、『ベルセルク』の最新刊が刊行されました。前巻から一年以上かかっているわけですが、まあとにかく新刊が読めることは嬉しいです。
     今年は『十二国記』だの『星界の戦旗』だの長年新刊が出なかった本が出る年で、まあ『ベルセルク』はそこまで読者を待たせているわけではありませんが、新刊を読めるありがたさはあります。
     今回、物語のなかでは海神編が終結し、新しい物語が始まっています。また、ガッツの過去の一挿話を描く番外編も収録されていて、なかなかお得感があります。Amazonを見てもおおむね評価は高い模様。
     何より紙面を埋める描線の質と量は圧巻のひとこと。正直、一読者としては「そこは手を抜いてもかまわないからもう少しスムーズに物語を進めてくんろ」といいたくなるのですが、作者としてはそういうわけにはいかないのだということもわかります。
     ここらへん、『BASTARD!!』とかと同じ問題があって、作者がクオリティを追求しだすと無限の時間と労力が必要になるのですね。作品作りとは、どんな完璧主義者であっても、どこかで妥協を意味するところがあります。そうでなければ永遠に完成品を生み出すことができないわけです。
     その妥協のレベルがひとより低ければ人気を獲得できないことはもちろんですが、著しく高くてもそれはそれで「完成のために膨大な時間と労力を必要とする」という問題が発生します。
     あるいはファンはそれだけの時間を待たせられてもクオリティが高い作品であるほうがいい、というかもしれません。しかし、それは作者の「こだわりポイント」が読者のそれとマッチしていればこその話。作者がこだわっているポイントが読者にとってどうでもいいところであった場合こそ悲劇です。
     
  • 内村光良監督脚本の感動作! 若き芸人たちの青春を描く『ボクたちの交換日記』に涙しろ。

    2013-03-30 14:05  
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     ウッチャンナンチャンの「ウッチャン」こと内村光良さんの監督脚本作品『ボクたちの交換日記』を観て来た。これが良かった。素晴らしく良かった。「芸人が撮った芸人映画」という色眼鏡を外して、一本の映画として見ても非常な感動作といえるかと思う。泣ける映画を観たいひとにはオススメ。
     映画の主人公は芸歴12年の売れない芸人コンビ「房総スイマーズ」。学生時代からの知りあいながらふだんはほとんど会話することもないこのふたりが、ある日、ちょっとした思いつきから交換日記を始めるところから物語は始まる。それ自体はいってしまえば凡庸なアイディア。しかし、このアイディアを自身、大人気芸人である内村監督は突き詰めていく。
     決して派手な映画ではない。売れっ子の小出恵介と伊藤淳史が主演しているが、映画の脚本そのものはむしろ地味で端正だ。映画監督を務めている大物芸人というと、ほかに北野武や松本人志が思い浮かぶが、かれらの実験的だったり前衛的だったりする作品と比べると、むしろ驚くほど「まとも」な映画だといえるだろう。
     しかし、そうかといってひたすらにハートウォーミングなだけのぬるい映画でもない。ここで描かれているのは、「才能」という絶対的な基準によって選別され、振り分けられ、時には絶望させられる芸人たちの現実だ。
     芸人にも芸能界にも精通している内村監督が描き出す業界の裏側は、どこまでもシビアで、容赦ない。どんなに努力していても、情熱があっても、才能がなければあきらめるしかなく、しかもあきらめるタイミングを決めるのは自分でしかないのだ。
     クラスでは人気者だったり、あるいは「天才」であったりした若者たちがまったく通用しないプロの世界のきびしさ。そしてそれでもやめられないお笑いの魅力。それらを描きながら、映画は感涙のクライマックスへ向け邁進していく。
     
  • 『ONE PIECE』は「情報の蛇口」が小さい。

    2013-03-30 09:00  
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     ども、海燕です。先日、LDさんにお呼ばれして少年漫画についてかるく語ったのだけれど、その際、『ONE PIECE』の話題が出ました。いまの『ONE PIECE』は膨大になった背景情報を処理するのに四苦八苦しているという話でした。
     どういうことでしょうか。つまり、『ONE PIECE』には主人公であるルフィの冒険以外にも、色々と描くべき事柄がある。本来ならそれら物語の背景となる事情を描くために紙幅を割く必要があるはず。しかし、『ONE PIECE』はあくまでルフィの視点から描かれるため、それらの情報を直接的に描くことができない。「ルフィが旅の途中で偶然に見聞きした出来事」として描くよりほかにないのです。
     これは「情報の蛇口」がきわめて小さいということを意味していて、おかげでいまの『ONE PIECE』は至るところに物語全体を揺るがしかねない重要情報がさりげなく載っているという前代未聞の作品になっています。
     当然、真剣なファンは目を皿のようにして読まなければならない。途中で出てくる新聞にちらっと載っているニュースから、「いったい何が起こったのか?」「どうしてこういうことになったのか?」と推理を重ねていかなければならないのが『ONE PIECE』という漫画なのです。
     
  • 『ファイブスター物語』をフェミニスト的視点から見た場合。

    2013-03-29 19:59  
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     永野護の傑作ヒストリカルロマンティックバトルストーリー(なんだそのジャンル)『ファイブスター物語』のファンブック『トレーサーエクストラ2』を購入しました。
     このシリーズの第一弾では川原礫など男性クリエイターたちの視点からF.S.S.の世界が読み解かれたわけですが、第二弾では同じ作品が女性クリエイターたちの視点から語られます。ふだん仲間内でF.S.S.話で盛り上がることは多くても、なかなか女性の意見を聞ける機会は少ないわけで、ぼくにとっては貴重な一冊といえそうです。
     まあ、そうはいってもファン的に最もバリューが高いのはいうまでもなく冒頭12ページに及ぶ作者による登場人物解説。作者自ら「わけのわからない用語ばかりだけれど頑張って推理してね」(意訳)と書く通り、いやー、知らない固有名詞が多すぎる。
     特に凄まじいのが「炎の魔女」と記された謎の女性「あらたま」の項目で、出てくる固有名詞がひとつも理解できない(笑)。「セントリー」というのがドラゴンのことであろうこと、「炎の魔女」というからには炎の女皇帝絡みの人物であることは想像できるけれど、それ以外はほんとうにさっぱりわからない。
     連載を20年間追いかけているぼくですらそうなのだから、新たにこの作品にふれたひとは本を放り投げたくなるのではないでしょうか。しかし、これこそ『ファイブスター物語』であって、いまは謎としかいいようがないこれらの単語の意味が解明される日がいつか来ることも間違いないのです。
     一読者としてはひたすらに来月からの(ついに!)連載再開を待ちたいと思います。さて、『ファイブスター物語』と女性というテーマで語るなら、決して欠かすことをできないのがファティマという存在でああることは間違いありません。
     ひとに似てひとよりも美しく、健気で、従順で、「男の理想」をそのまま形にしたようともいわれる妖精たち。ファティマをどう扱うべきかということが、この作品のひとつの大きなテーマになっていることは間違いありません。
     ここらへんのことについて女性読者は特に色々なことを感じるはずだと思うのですが、やはりというか意見が分かれていて興味深かったです。ひとつの意見としてあるのは「ファティマはしょせん兵器なのだからそういうものとして扱うべき」「人間の女のように扱うのはキモチワルイ」という考え方です。
     これはフェミニストを自認するある女性の意見なのですが、ひとつの考え方としてありでしょう。ただ、それが正解かというと、やはりそういうふうには思えない。
     まずファティマという存在を「ただの兵器」として捉えることにはやはりどうにも無理があります。たしかに「ファティマは人間ではなく兵器として扱われたとき最も安定する」という設定はありますが、それはファティマがダムゲートコントロール(ファティマを戦闘兵器たらしめる精神支配)を受けているからそうなのであって、ファティマ本来の望みが「兵器として活用されたい」というものであるわけではありません。
     
  • ライトノベル往年の傑作が十数年の時を超え電子書籍で復活!

    2013-03-29 18:10  
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     光陰矢の如し。初めて読んでから何年経つのかわかりませんが、いま、高畑京一郎『タイム・リープ』が電子書籍化されてKindleで購入できるようです。
     オススメとは書いてもめったに「読め!」とまではいわないぼくですが、今回は禁を破ります。電書を読める環境にいてこの作品を未読の方はぜひ読んでみてください。損はさせません。電撃文庫、往年の傑作です。
     もっとも、実に十数年前の作品であり、いまライトノベルと呼ばれている作品群とは性格が異なっているでしょう。なんといってもひとりの「萌えキャラ」も出て来ません。視点人物は少女(女子高生)であり、男性読者が感情移入して読むことはむずかしいかもしれません。しかし、それでも本書はおもしろい。それも圧倒的に。
     冒頭の「謎」が、卓抜な推理によって次々とあきらかにされていくプロセスはまさに「センス・オブ・ワンダー」。しかも緻密をきわめる構成には一部の無駄もありま
  • 「小説家になろう」とポルノ的想像力の地平線。

    2013-03-28 20:35  
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     ここのところ、毎日、「小説家になろう」で『無職転生』を読んでいるのですが、いやー、おもしろい。いままでもおもしろいと思っていたし、そう書いてきたのだけれど、おもしろさの質が一段上に上がった気がします。
     いま第六章の終わりまで来ているのですが、このエピソードで主人公は決定的に変化します。ネタバレなので書けませんが、ある登竜門をくぐり抜けるわけです。これがね、なかなか興味深い。
     この小説を読んでいて強く思うのは、ひきこもりの妄想的な世界観と現実の世界とはやはり違っているのだということです。ひきこもりが想像する世界が「一部のパワーエリートがひたすらに弱者を虐げている」という単色のイメージで塗り込められているのに対し、現実の世界は、豊かで、残酷で、美しく、醜く、鮮やかで、繊細と、対立しあう概念の豊かなグラデーションのなかに存在しているわけです。
     ひと言で「現実とはこうだ」といい切れないことこそ現実の本質である、とぼくは思います。『無職転生』の主人公は初め「一部のパワーエリートがひたすらに弱者を虐げている」というその世界観で生きるひきこもりです。
     しかし、かれが転生してからじっさいに出逢う世界は、そんな単純なものではありません。そこには正義もあり、悪もあり、陰謀を企む人物がいるかと思えば、すべてを洗い流してしまう大災厄が起こったりもするという、きわめて複雑なタペストリが広がっているのです。
     この「頭のなかだけで考えた世界」と「現実の豊穣な世界」との落差、これこそが『無職転生』の最大の魅力といってもいいのではないでしょうか。世界は「リア充爆発しろ」と叫ぶひきこもりやオタク少年が想像するようにはできていないんですね。
     そもそも、「小説家になろう」の小説群を生み出しているのは、前者の世界観をもとにした想像力であるように思います。「世界は一部のチート持ちが牛耳っている」「そのチート持ちになって剣を振るい、女を抱いて生きることが最大の幸福である」というような想像力。
     エロゲ的想像力というか、いっそポルノ的想像力といえばいいかもしれません。しかし、ポルノ的想像力には明白な限界が存在します。たとえば、ポルノでも仮にヒロインが妊娠してもそこで物語は終わってしまいます。面倒な子育てのディテールが描かれることはまずありえない。興ざめだからです。
     しかし、じっさいにはセックスすれば子供ができる可能性があり、そうなったらその子供をどう育てるか考えなくてはならず、そうでなくても相手に対する責任が生じるわけです。
     もちろん、そういった責任すべてを放棄して、相手の身体だけを自由にするという「鬼畜ルート」も考えられはしますが、「なろう」を読んでいるオタク青少年の大半は、ポルノのなかではともかく、現実にはその選択を選べるほど「鬼畜」ではないでしょう。
     いや、ポルノ的作品のなかですらも、ほんとうに真剣に考えていけばどこかでその現実と向かい合うことになってしまうわけです。ここでは仮にそのポイントを「ポルノ的想像力の地平線」と呼ぶことにしましょう。
     
  • 新しい時代の新しい『ドラえもん』を見てきたよ。

    2013-03-27 21:38  
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     3歳の甥っ子に付き添って『ドラえもん のび太のひみつ道具博物館』を観て来ました。事前情報ではなかなかの傑作と聞いていたけれど、いや、じっさいおもしろかったですよ。
     今回の物語の舞台は22世紀の日本にある「ひみつ道具博物館」。古今東西、ありとあらゆるひみつ道具が収蔵されているというこの広大なミュージアムを舞台に、のび太たちの冒険が描かれます。
     といっても今回は『ドラえもん』の歴史のなかでもターニング・ポイントとなるかもしれない異色作で、過去の『ドラえもん』とはだいぶ雰囲気が違っている。具体的にどう違うかというと、まず、いつものボスキャラ、「巨大な悪」が出てこない。
     ポセイドンとかギガゾンビにあたるキャラクターがいないわけです。今回も地球は危機に陥りはするのだけれど、それは悪の力によるものというよりは人為的なミスによるもの。のび太たちは今回、強大な的に立ち向かう必要はないのです。
     ここらへんをどう解釈するかが今回の見所になるのではないかと思う。「悪の親玉」が登場しないことによって、作品全体がシリアスな雰囲気を失っていることは間違いない。少なくとも『魔界大冒険』や『鉄人兵団』にあったような、あまりに巨大すぎる敵との絶望的な戦い、そしてその末の勝利というカタルシスは今回の作品にはない。
     初期の『ドラえもん』には間違い無くあった「怖さ」や「暗さ」といった要素もほぼ消滅している。そこが物足りないといえば物足りない。この映画がたとえば『海底鬼岩城』のようにスリリングかというと、やはりそう断定するのは無理がある。
     そのかわり全体にコミカルで、ギャグ満載ではある。今回初めて明かされるSF的な設定もいくつかあって、なかなかにセンス・オブ・ワンダーに富んでいる(いまさらこんな大きな設定を開陳してしまっていいのだろうかとも思いますが)。
     さて、これをどう解釈するか。ぼくは物語中盤まではわりと批判的だったのですが、見終わる頃にはこれはこれで良いのかもしれないと思っていました。『ドラえもん』もやっぱり時代の産物であるわけで、初期劇場作品が「怖さ」や「暗さ」を抱えていたのは時代空気を反映していた側面が大きいはずです。