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一億分の一であるという素晴らしさ。

 ペトロニウスさんの最新記事を読みました。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151011/p2  ほとんど改行がなくてめちゃくちゃ読みづらいのですが、非常に面白い内容です。  そして、きわめつけにタイムリー。  これは必然的な偶然だと思うのだけれど、「リア充オタク」を巡る話題とストレートに繋がっています。  この記事、「頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?」というタイトルなのですが、まさにこの「主人公になれないぼく」を巡る問題こそ、ここ最近、一部の少年漫画やライトノベルが延々と語ってきたテーマだと思います。  つまり、高度経済成長が終わり、「努力・友情・勝利」がストレートに成立しなくなった現代において、物語の主人公になる(努力して勝利する)ことができなくなった「ぼく」はどのように生きていけばいいか?という話ですね。  これは非常に現代的なテーマだといっていいでしょう。この答えを模索し、そしてついにはひとつの答えにたどり着いた、いま、ぼくたちはそういう物語をいくつか挙げることができます。  くわしくは「物語三昧」のほうを読んでほしいのですが、この記事を読むと、「リア充オタク」という概念の古さがはっきりとわかります。  「リア充」という概念はもう克服されたものであるわけです。  ぼくたちは――というかぼくは、もう「リア充」と「非リア」、「モテ」と「非モテ」、「勝ち組」と「負け組」、「主役」と「脇役」といった対立概念を持ち出し、前者でなければ幸せではありえないのだと考える価値観を乗り越えている。  そして、それと同じことは『僕は友達が少ない』から『妹さえいればいい。』に至るライトノベルの流れのなかではっきり示されています。  『僕は友達が少ない』は、「リア充」を敵視する「残念」な人たちの話でした。  この物語のなかで、主人公は最後までだれかひとりと結ばれることなく(リア充になることなく)終わります。  最初から最後までかれは「残念」であるわけです。  これは、あたりまえのライトノベルを期待した読者としてはまったく気持ちよくない展開であるわけで、当然のごとくこの結末は悪評芬々となりました。  しかし、テーマを見ていくとこの結末で正しいのです。  というのも、仮にかれがだれかとくっついていたら(リア充になっていたら)、この物語のテーマである「残念でもいいじゃないか」、「リア充にも成功者にもなれなくても、人生はそのままで楽しいのだ」ということが貫けなくなってしまうからです。  だから、『僕は友達が少ない』のエンディングはあれで完全に正しい。  ただ、まったく快楽線に沿っていないので、単に気持ちいいお話を求める大多数の読者には怒られることになるというだけで……。  さて、順番こそ少し前後しているものの、『僕は友達が少ない』の次の作品である『妹さえいればいい。』では、テーマがさらに進んでいます。  この物語にはこういう記述があります。  才能、金、地位、名誉、容姿、人格、夢、希望、諦め、平穏、友だち、恋人、妹。  誰かが一番欲しいものはいつも他人が持っていて、しかもそれを持っている本人にとっては大して価値がなかったりする。  一番欲しいものと持っているものが一致しているというのはすごく奇跡的なことで――悲劇も喜劇も、主に奇跡の非在ゆえに起きるのだ。 この世界(ものがたり)は、だいたい全部そんな感じにできている。  ここで作者ははっきりと「リア充」対「非リア」といった二項対立的な価値観を乗り越えているわけです。  そして、この作品のなかで描かれるのは、この「メインテーマ」を前提とした、どこまでも楽しい日常です。  べつだん、『僕は友達が少ない』とやっていることは変わらないのですが、ペトロニウスさんが書いている通り、『僕は友達が少ない』よりさらに楽しい印象を受ける。  それはなんといっても、登場人物たちがみな自立した社会人であり、精神的にバランスが取れた人物だからです。  かれらの日常はとても充実しているといっていいでしょう。  ぼくは以前、それを「リア充にたどり着いた」といういい方をして表したのですが、いまとなってはこの表現は正確さを欠いていたということがはっきりわかります。  むしろ、「「リア充」を乗り越えた」というべきでした。  より的確にいうなら、「リア充」とか「非リア」という二項対立的な概念を持ち出し、その一方でなければ幸せにはなれないのだという価値観を乗り越えたというべきでしょう。  そう、『妹さいればいい。』の連中ははっきりと『僕は友達が少ない』のテーマの延長線上を生きています。  かれらもまた、ある意味ではコミュ障であったり、妹キチガイであったり、メイド好きであったりと、実に「残念」な連中です。  それなりにオシャレだったりアクティヴだったりする面はあるにしても、べつに何もかもが秀でたリア充というわけではない。  しかし、かれらはそのことにもはや一切の負い目を感じていません。  もちろん、 

一億分の一であるという素晴らしさ。

さらば、皮肉と冷笑のインターネット。

 しばらく前、佐々木俊尚『自分でつくるセーフティネット 生存戦略としてのIT入門』を読み上げた。本書の主張はシンプルだ。「ネットの発達で自分の言動や行動は一切隠せない時代になった。そういう時代において得をするのは他者に寛容ないい人である」と。  最近、これとまったく同じことを記した本が続けざまに出版されたことは偶然ではないだろう。きちんとした目を持っている人たちには時代の変化が見えているのだ。  たとえば菅付雅信『中身化する社会』は本書で使われている「総透明社会」という言葉とほぼ同じ意味で「中身化社会」という語を使っているし、岡田斗司夫『「いいひと」戦略』の内容も本書と限りなく似通っている。  また、ぼくはまだ未読だが、ネットの各所で書かれているところによれば、東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』も本書と内容が通底しているらしい。やはり、時代は「いい人」を求めているのだろうか。  これまで、インターネットの言論と云えば、かぎりなく冷笑的なものが一般的であったように思う。ひとの善意を笑い、「意識の高さ」を笑い、失敗を笑い、成功をも笑う、そういう態度がネットにおいてはごく一般的なものであるように見えていた(じっさいには必ずしもそうではなかったのかもしれないが、そういう印象はあった)。  しかし、どうやら時代は変わりつつあるようだ。LINEやTwitter、Facebookなどのソーシャル・ネットワーク・サービスが一般化し、ごく普通の人々がネットに個人情報を晒すようになったことによって、ネットのアンダーグラウンドくささは払拭されようとしている。そこはもはや未開のフロンティアではなく、単なる生活空間の一部なのだ。  となると、そこを快適な場所にしようとする人々が出てくるのは当然だ。だれもが冷笑と罵倒だけで埋め尽くされたネットを望んでいるわけではない以上、インターネットはこれから大きく変わっていくことだろう。変わっていってほしい、と個人的にも思う。  あるいはそれは、ある種の過激な人々にはネットが軟弱で退屈な空間になってしまうことを意味しているかもしれないが、大半の人はそういう「軟弱さ」のほうを好ましいと思うに違いない。  皮肉や冷笑や罵倒や悪口ばかり好んで味わう人たちなど、全体のなかでは少数派であるはずだ。単なる自己防衛的な冷笑癖を、きわめて洗練された知的な態度だと考えるひとは一定数存在するだろうが、そういう人はせいぜい少数派のアイドルに祭り上げられるに留まる。  佐々木さんはTwitterでも、人間の善意を信頼する旨をツイートしている。 悪意こそが人間の真実だ、なんて考え方はやめたほうが人生は幸せになると思うな。仲間もたくさんできるし。悪意こそが真実だと思っている人は、自分の人生が冷たくなっていくことを想像した方がいいと思う。それこそ冷たい言い方かもしれないけど。 https://twitter.com/sasakitoshinao/status/498454072299499521  ぼくもべつだん、悪意こそ人間の真実だとは思わない。しかし、「水は低きに流れる」。つまり、人間は放っておくと悪意に堕ちていく存在であるとは感じている。 

さらば、皮肉と冷笑のインターネット。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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