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すべては物語が終わったあとから始まる。傑作ファンタジー『勇者様のお師匠様』がおもしろい!
2013-11-29 23:1153pt
きょうは月末だというのに仕事もしないでピチ&メルさんの『勇者様のお師匠様』を再読していました。
http://ncode.syosetu.com/n4890bm/
月末はいつも一気に数人単位で会員が減るので、本来ならそれなりの記事を書いてアピールしなければいけないと思うのですが、そこはぼくのやる気のなさ、現実を放棄して幻想に耽溺したわけです。
『勇者様のお師匠様』は現在、「小説家になろう」の累計ランキング20位にある人気作品、更新頻度はさほど高くないにもかかわらず読者の熱烈な支持を集めています。
じっさい、これは面白い。一本の物語としてきわめて端正な構成の傑作です。
話は、主人公の少年剣士ウィン・バードが騎士をめざし、修行しているところから始まります。幼くして両親を亡くし、過酷な労働に従事しながら、ウィンはなお騎士という夢を見、そこへ向かって前進してゆくのです。
ここら辺はほ -
話しあってもわかりあえない。
2013-11-29 17:1853pt
ペトロニウスさんがひさしぶりに長文記事を上げているので、これを引きつつ、ぼくも記事を書いてみたいと思います。
ちなみに、ちょっと補足しておくと、最後に、ヒッキーが、選択肢を間違えたかもしれない?というのは正しくて、本当に「守るべきもの」は、奉仕部ではなかったんですよね。守るべきは、3人のドラマトゥルギー、、、3人の関係性を守るべきだった。関係性を「今のままに固定する」というのは、実は、一番の破壊行為です。だって、出会いと偶然が積み重なって、3人のそれぞれのドラマトゥルギーは、動き出しているのだもの。特に、今回は明確にゆきのんのターン。それが発展して、変わっていけるために必要な場を3人で考えるべきが正しかったんだ。それは、3人で生徒会をやるでもいいし、なんでもよいんだけれども、意思をもって、自分を取り巻く関係性をドラマトゥルギーを開いて、自分自身を変えていこうという意思を持たなければならなかった。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131129/p1
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の記事なので、この作品を未読のひとには何を書いているのかわからないかもしれませんが、この際、それは関係ありません。
ぼくはこれから、ちょっとべつの話を展開したいと思います。それは「対話」の困難ということです。
ペトロニウスさんはここで、エーリッヒ・フロムの古典的名著『自由からの逃走』を引用し、「~からの自由」(消極的自由)と「~への自由」(積極的自由)のことなどを話しつつ、現実世界に関与して「絆」を作り上げてゆくことのすばらしさを高らかに語っています。
そして、そのためには、相手の、自分でも気づいていないような本心を探りだす「話しあい」が必須であるということも記しています。
しかし、とここでぼくは思うわけです。じっさいの話、話しあうとは何とむずかしいことなのだろう、と。
たとえば『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の脚本について、序盤の段階で、ミサトたちがきちんと碇シンジと話しあっていればその後の問題は起こらなかった、と語る人がいます。
ミサトやアスカたちの人間としての未熟さを非難する論調です。それはたしかにそうかもしれない、とぼくも思います。
ですが、それなら、そう云うひとは、ほんとうにいつも人ときちんと向き合って、大人として「対話」することができているのでしょうか?
それはもちろん「人による」としか云いようがないわけですが、ぼくは怪しいものだと思います。ほんとうの意味で「話しあう」とは、それくらいむずかしいことなのです。
いや、「話す」だけなら -
雑記――アマチュアとプロフェッショナルの間。
2013-11-28 14:2653pt
ども。海燕です。ここ最近、定時更新を守れていません。その理由は諸々あるのですが、云い訳しても仕方ないので書かずにおきましょう。
何であれ長いあいだ続けているとやっぱり色々あるわけで、週刊連載を何年、何十年と続けていたりする漫画家さんの凄さを思い知らされます。
調子が悪い時だっていくらでもあるだろうに、そういう時ですら一定のクオリティを保った原稿を仕上げる姿は、プロフェッショナルの鑑と云えます。
もっとも、その代償として「寿命」やら「人間関係」やら、あるいは「人生そのもの」をすり減らすことになるのかもしれず、その生き方が正しいのかどうか、議論の余地はあるでしょうが……。
先日、鳴り物入りでスタートした竹熊健太郎さんの「電脳たけくまメモ」も、なかなか更新が軌道に乗らないようで、最近の更新は以前の記事の再録がほとんどとのこと。
ぼくも過去記事の再録をやっているので、そういう行 -
書評――川上量生『ルールを変える思考法』。
2013-11-24 18:3953pt
最初に記しておきましょう。この記事はドワンゴから報酬をいただいて書いている依頼記事です。ある意味、ステマと云えなくもない(ステルスしていないけれど)。
そういう記事は信用できないという方はいますぐ回れ右し、べつの記事へ飛んでもらってかまいません。ただし、記事の内容はぼくの裁量に任せられており、べつだん、正直な感想をねじ曲げることを求められているわけではありません。そのことは明記しておきます。
そういうわけで、正直な感想を述べておくと、いや、面白かった。ただ、率直に云ってビジネス書としてはあまり役に立たないのではないでしょうか。内容があまりにユニークすぎる。
この本を読んで、すぐさまビジネスの最前線に役立てることができるひとは、そのひと自身、相当にユニークなキャラクターでしょう。
特に後半の人類史的パースペクティヴに立ってSF的な奇想に至る展開は圧巻。こういう内容が仮にもビジネス書として発表されたことはなかなか画期的なのではないかと思います。役に立たないだろうけれど(笑)。
本書の著者は、ニコニコユーザーなら(たぶん)だれでも皆知っている、ぼくたちのドワンゴ会長、川上量生さんです。
川上さんは本書一巻を通し、現実世界をひとつのゲームとみなし、それをいかに攻略していくか、その方法論を語っています。
しかし、この場合のゲームとは、ある種のテレビゲームだけを指しているわけではありません。むしろ川上さんは「非電源型のシミュレーションゲーム」のほうにより強い思い入れがあり、テレビゲームを少々敵視しているようです。
その云い分に対して、テレビゲームが好きなぼくとしては云いたいこともあるのですが、この際、それはどうでも良い。
川上さんによると、かれが愛する「非電源型」のゲームの魅力は、ゲームのルールそのものをよりおもしろく、より魅力的に書き換えることができる点にあります。
かれの話を信じるなら、それはいっそう現実に近い形のゲームなのです。現実世界、特にビジネスの世界などでは、ルールそのものが書き換えられていくことなどごく日常的な出来事なのですから。
本書のタイトルは「ルールを変える思考法」ですから、まさにこの「ルールそのものに干渉する」ことが、ひとつのテーマとして取り上げられていることがわかります。
川上さんの話によれば、このルールを疑い、時に変えることはビジネスにおいてもきわめて重要であり、「非電源型」の、高度な思考力を要求されるゲームは現実世界での生き方を決める際にも勉強になるということです。
とりあえず、ぼくはそういうふうに理解しました。そして、ここで、ぼくはなるほど、と膝を打ちます。
たしかに川上さんの云い分はわかる。ひたすら決められたルールを順守しつつ、その箱庭のなかで遊ぶゲームは、ある意味で現実から遠い。
そこでは、現実世界の、基本的なルールすらいつねじ曲がるかわからないゲームを勝ち抜く作法は学べないかもしれない。
しかし、一方で、世の中には、そういうゲームこそ高度だと考える一派があるわけです。たとえば、将棋やチェスを愛好するひとたちは、いまさらルールを変えてほしいとは思わないでしょう。
もちろん、そのルールに何らかの難点があったならルール変更を申し出ることもあるかもしれませんが、基本的には、さだめられたルールはそういうものとして、その範疇で戦うことを選んでいるはずです。
だから、そういう現実世界を生きるためにはあまり役立たないかもしれません。むしろ、その種のゲームに夢中になればなるほど、ひたすらに浮世離れしていくという傾向があることすら考えられる。
しかし、まさに「役立たず」であるからこそ、その世界は美しい。 -
『ふたり』――画面の向こうの幻想世界。
2013-11-23 07:0053pt
『ふたり』。
シンプルでありながら何とも印象的なタイトルのこの小説は、赤川次郎の作である。長年、日本一のベストセラー作家として君臨しつづけた赤川にとっても、この小説は代表作のひとつにあたる。セールスは実に200万部を優に超えるとされている。
ぼくも読んだ。いかにも才人の赤川次郎らしい、卓抜な状況設定と、魅力あふれるストーリーテリングが印象的な秀作だった。
物語は、ある中高生の姉妹にフォーカスし、彼女たち「ふたり」を追いかけてゆく。姉は学校でも伝説と云われるほどの秀才にして、あらゆる方面に才能を発揮する少女。
それに対し、妹は、どこかぼんやりとしていて、いつも夢を視ているようなふしぎな女の子。物語は、この姉が事故によって亡くなるところから始まる。
決して失われてはならないものが失われてしまったとき、ひとは変わらなければならない。妹は、姉亡きあと、さまざまな事件を通して、成 -
「小説家になろう」は望みを叶えるドラゴンボール。
2013-11-22 08:3353pt
相変わらず淡々と「小説家になろう」を読み進めています。『Re:ゼロから始める異世界生活』、『異世界迷宮の最深部を目指そう』、『やり直してもサッカー小僧』あたりをひたすら読み進んでいのですが、なかなか終わらない!
それはそうで、合わせて400万文字以上あるのです。本に直したら3、40冊くらいかな。それほど簡単に読み終えられるはずがありません。
まあ、何しろ読みやすいのでこの程度の量なら読めないわけではないのだけれど、何だろうな、いくら読んでも読んだ!という実感がないのが辛いところ。
紙の本、あるいは電子書籍であっても、一冊ごとに区切りが存在するので、その単位で「読了」のカタルシスを得られるのだけれど、「なろう」では一作読み終わるまでそれがないんですよね。
だから、膨大な量を読み進めたとしても、何か読んだ気がしないんだな。もちろん一作読み終えてしまえばそのカタルシスは大きいのでしょうが――。
それにしても、いくつかなろう小説を読み進めていくと、物語の本質について考えさせられます。
なろうとは、あらゆる願いが叶う願望充足の宇宙。そこには倫理的な制約はほとんどありません。
紙の本として世に問うものであれば、たとえライトノベルであっても、それなりに政治的に公正な内容であることを求められるでしょうが、なろうにはそういう制約が一切、ない。
だから、欲望をストレートに叶えるだけの作品が山積している。そういうシロモノは文学的に見ればまったく無価値でしょうが、ある意味、物語の本質に近いところにあると思える。
本来、物語とは、語る者の願いを叶えるドラゴンボールみたいなものだと思うんですよ。物語のなかではどんな夢も、願い事も叶う。いかなる恋も、野望も、欲望も、思いのまま。そこには本来、いかなる制約もないのです。
しかし、ひと目に晒されれば、当然、「それはまずいんじゃないの」というツッコミも入るし、より洗練されたものに変化してゆく傾向がある。
じっさい、いま、プロフェッショナルによる作品にはそこまで下品な願望充足ものは多くない。しかし、なろうではほとんどそういう倫理的な批判が存在せず、未だに願望充足が根付いている。だからこそ、なろうにはプリミティヴなエネルギーがあふれている。
それを「精神のポルノ」と呼ぶひともいます。 -
インターネットはあなたの人生のすべてじゃない。
2013-11-21 13:2453pt
この記事は「インターネットはあなたの人生のすべてじゃない。」というタイトルです。
このタイトルを、「何をあたりまえのことを云っているんだ」「そうに決まっているじゃないか」と思うひとにとっては、この記事は不要です。いますぐブラウザのタグを閉じてしまってかまいません。
しかし、この言葉をすぐに首肯しかねる人は、以下の文章を読んでみてもいいかもしれません。
ぼくがネットに入りびたり始めて十数年になるのですが、その間にネットは大きな変貌を遂げました。リアルタイムウェブと呼ばれるハイスピードなシステムが整備され、スマートフォンが生まれ、まさに24時間ネットに耽溺することが可能となっています。
その危険性を指摘する識者は枚挙に暇がありませんが、それでもこの流れが止まることはありません。ぼくのような廃人はネットに深く溺れる一方です。
いまやネットは生活の一部であることをやめ、そのほとんどすべてに深く根を下ろしているようにすら思えます。ぼくの友人関係のほとんどはネットを通じて得たものです。
ネットこそすべて。そうでしょうか? もちろん、そんなはずはありません。それは危険な錯覚です。ネットは広大な現実世界の一部であるに過ぎず、そしておそらく最も重要な一部ですらないのです。
たしかにぼくたちはネットを通じて色々なひとと通じることができます。それはぼくたちの生活を非常に豊かに変えました。
いままでだったら知りあいようがなかった人物と知りあえる! それはネットの大きな意味です。しかし、一方で、ネットにはあきらかな限界がある。
それはネットがヴァーチャルだということではありません。ネットはあからさまにリアルの一部です。だから、ネットの限界とは、「一部であるに過ぎない」ということだと考えるべきでしょう。
ネットでいくら活躍していても、それで勉強ができるわけではないし、仕事がはかどるわけでもない。その反対に、ネットでものすごく炎上して、叩かれていても、それで人生そのものが壊れるということは、まずめったにない。
ネットはあたかも幻想の浮遊都市であるかに過ぎないかのようです。
それはたしかに、ぼくのようにネットで収入を得られるようになったり、あるいは露骨に罪を犯したりしたらべつですが、やはりいまなおほんとうに重要なのはネットの外の物理現実世界のほうでしょう。
ぼくたちは物理現実で食べ、話し、学び、働き、眠り、生きている。生活のほとんどはいまなお物理現実の方にあって、ネットにはないのです。
いつかはヴァーチャルリアリティの発達によってそれが変わる日も来るかもしれませんが、とりあえずいまのところ、それは夢のまた夢に過ぎません。だから、ネットはぼくたちの人生にとって限定的な意味しか持たない。
もちろん、ネットは物理現実を豊かにする「きっかけ」にはなりえます。たとえば、ネットで知り合ったひとと物理現実で逢って友人となり、その後もネットで交流を続けるといったことがそれにあたります。
しかし、ネットだけで生活しつづけることは、いまのところはかぎりなく不可能に近いわけです。これは、ネットでいくら傍若無人に振る舞っても、物理現実では無力だということがありえることを意味します。
ネットにはある種の魔法があって、ここでなら、物理現実での格差や階級は表面的に無化されます。だから、物理現実で不遇の人も、ネットでなら奔放に振る舞うことができる。
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超巨大小説投稿サイト「小説家になろう」の魅力をわかりやすく解説するよ。
2013-11-20 07:0053pt
さて、きょうは人気小説投稿サイト「小説家になろう」(以下、「なろう」)の話です。
ぼくはいままで「なろう」の個別の作品をいくつか取り上げたことはありますが、そもそも「なろう」がどういう場なのかについての解説はして来ませんでした。
ぼくや友人たちの間では既にいくらかのコンセンサスができているのですが、どうもネットにはあまり初心者向けの解説記事が見当たらないようなのですね。少なくともGoogleで探してみて見当たる辺りにはあまりない。
というわけで、いままで「なろう」とは無関係の幸福な人生を歩んできた方向けに、「なろう」を解説してみようと思います。オーケー? それでは、始めましょう。
ただ、ぼく自身は「それなり」に読んでいるだけで、必ずしもほんとうにディープな「なろう読者」ではないので、以下の記事は友人知人から伺ったことをまとめた面もあることを注記しておきます。そういうものだと思って読んでください。 まず、そもそも「なろう」とは何のサイトなのか? これは簡単で、広い意味での小説を投稿し、また読んでもらう場所です。
いまパッと見てみたところ、ユーザー登録者数は36万人以上。投稿作品数は20万作品以上に登っています。これが驚異的な数字であることを御理解いただけるでしょうか?
つまり、「なろう」にはどう少なく見積もっても数万人の書き手と、数十万人からの読み手がいるのです。じっさいには、ユーザー登録しなくても読むことはできるので、この数倍の読者がいると考えられます。
日本のインターネットで最大の小説投稿サイト、それが「なろう」です。
また、「なろう」の特色は、ポイント制を導入しているところにあります。上記した36万人のユーザーたちは、自分が読んだ作品をポイントで評価することが可能で、そのポイントによって作品はランキングされるのです。
これには日刊、週間、月間、四半期、年間、累計という六つが存在します。いうまでもなく、日刊ランキングとはその日一日のランキングであり、週間は一週間、月間は一ヶ月間、四半期はまさに四半期の間、年間は一年間、そして累計はいままでの「なろう」の歴史上すべてを合わせたランキングということになります。
当然ですが、日刊より月間、月間より年間、年間より累計で上位を取るほうがむずかしい。累計で上位の作品は20万作品の頂点に立っているわけで、やはりそれにふさわしいレベルのものが多いと思います。もっとも、ぼくはそのすべてを読んでいるわけではないので、偉そうなことは云えませんが。
それでは、「なろう」では、どのような作品を読むことができるのか? ほんとうに読むに値する作品ははたして投稿されているのか?
ぼくはその問いに対し、自信をもって「イエス」と答えたいところです。「なろう」には確実に面白い作品があります。
もちろん、何をして面白いと考えるかは人それぞれですが、「なろう」にシロウトの投稿作品と侮れない出来の長編、短編が数多く掲載されていることは紛うかたなき事実です。
たとえば『ログ・ホライズン』という作品があります。最近、NHKでアニメになっているので、ご存知のかたは多いでしょう。
ネット創作の傑作『まおゆう魔王勇者』で一躍その名が知れわたった作家橙乃ままれさんの小説で、ゲームの世界に取り込まれた主人公たちの冒険や葛藤を描いたシリアスな物語です。
この作品を「なろう」でも指折りの傑作と云っても、そう異論は出て来ないのではないでしょうか。
しかし、実は『ログホラ』は必ずしも「なろう」らしい小説とは云えません。むしろ、「なろう」における異色作と云ってもいい。
それは、「なろう」で長年累計ランキング首位を維持し、電撃文庫で書籍化されるやベストセラーとなった『魔法科高校の劣等生』にしても同じことです。
これらの作品は、「なろう」を代表するすばらしい小説ではありますが、「なろう」を象徴した内容とは云いがたいのです。
どういうことか。「なろう」の小説には、ある種のパターンに沿ったものが多いのです。それはたとえば、「異世界転生もの」と呼ばれるパターンです。
ある事故などで現世で亡くなった主人公が、なぜか異世界に生まれ変わり、冒険したり、成長したりする。そういう筋書きの作品が、「なろう」には実に大量に存在しています。
通常の文脈で考えれば、これは「ファンタジー小説」ということになるでしょう。しかし、「なろう」に掲載されているの多くは、ファンタジーであるとか冒険ものであるとか、あるいは恋愛ものであるとかいうより、「なろう小説」というジャンルであると考えたほうがわかりやすいかもしれません。それほど、ある種の「型」があり、明確な特徴がある。
たとえば「なろう」には「転生トラック」という言葉があります。これは、トラックに轢かれて異世界に転生するというパターンが山ほど描かれているからそういう表現が生まれたわけです。
そういう意味では「なろう小説」の多くは実にワンパターンと云えなくもありません。
しかし、まさにそうであるからこそ、いままで小説なんて書こうとも思ったことがないシロウトであっても、「このくらいなら自分にも書けるかも。ちょっと書いてみようか」という気分で参入することができる。
もちろん、そういった動機で書かれた小説の大半は、プロフェッショナルな基準では箸にも棒にもかからないものであるに違いありません。
何しろ設定にオリジナリティがない。「転生トラック」のようなありきたりのパターンを使いまわした願望充足小説がほとんどなのですから。
そういう意味では、一から十まで独創的なものを求める読者は、「なろう」には合わないかもしれません。しかし、まさにそこが没個性であるからこそ、才能ある書き手が目立つのが「なろう」という場所なのです。
即ち、同じような設定の小説を書いても、才能と能力がある作家は、やはり何かが違うものを書いてしまうのです。
たしかに「なろう小説」のほとんどは、「ある平凡な青年が異世界に転生し、そのとき与えられたチート能力(その世界のほかの人間をはるかに上回る特別な能力)で大活躍する」といった、ごくありふれた、あえて云うなら陳腐な筋書きであるに過ぎません。
それを「精神のポルノ」と形容したひともいたくらいです。ぼくは「なろう小説」が、ほぼ九割がた「精神のポルノ」であることを否定するものではありません。
たしかにそういう側面はある。「なろう」は、願望充足の楽園であり、『指輪物語』や『十二国記』のような、本物の異世界をまるごと構築しようという情熱に乏しいテーマパーク的小説が集う場所なのです。
しかし、それでもなお、否、そうだからこそ、「なろう」は面白い。
たしかに「なろう小説」はチープではあります。ですが、そのチープな骨格を、「参加者」全員でああでもない、こうでもないといじくりまわす楽しさがそこにはあります。
たとえば同じ「転生トラックもの」にしても、生まれ変わったのが某国の王子や伝説の勇者、魔王というものもあれば、スライムだったり、スケルトンだったり、ミノタウロスだったりするものもあるわけです。
それはひと言で創作と云い、小説と云っても、むしろ集団でのトライアル・アンド・エラーに似ています。
基本的に「なろう作家」の皆さんは個々人で執筆しており、それほどひんぱんに情報交換をしているわけではないのですが、何しろ全作品が無料で公開されている上に、面白い作品はランキングに上がってくる。必然的に相互に影響を与え合うことになるわけです。
そして、時々、ほんとうに時々ではありますが、飛び抜けて面白いアイディアや、ずば抜けた筆力を備えた作品が登場する。
そういう作品は、表面的にはほかの「なろう小説」とさほど違わないように見えることもあります。しかし、まさにほかの作品と似たような設定を使っているからこそ、その書き手の個性が際立つのです。
「同じようなものを書いてもまったく違う」。それこそが真の個性だとは云えないでしょうか? 「なろう」ではそういう個性をたくさん発見できます。
そういう意味で、「なろう」の作品がワンパターンだという批判はあたりません。
たとえば現在、累計ランキングで首位に立っている、つまり20万以上の作品の頂点に立つ人気を誇っている『無職転生 ー異世界行ったら本気だすー』を見てみましょう。
これは、あるひとりの無職の中年男性がトラックに轢かれて異世界に転生する、というほんとうに典型的な「なろう小説」です。
じっさい、途中までは新しい、すばらしい才能に恵まれた肉体と、両親の愛情、前世の記憶を持ち合わせた主人公が、それを活かして活躍するという、スタンダードな「なろう小説」と見えます。
ところが、この作品、話が進めば進むほどその類型から逸脱していくのです。そして、物語の現時点では、ある意味で「反なろう小説」とでも云いたいような、シリアスな物語に到達している。
ここにはあからさまにすばらしい才能と個性があるわけですが、それがわかるのも、初めの時点で「なろう小説」のテンプレートを利用しているからです。
ほかの書き手と同じテンプレを使っているからこそ、テンプレに収まりきらない才腕がはっきりと感じ取れるわけです。
累計ランキング上位に来るようなスペシャルな作品は、そのほとんどがそういう個性を感じさせます。それが「なろう」です。
「なろう」には数々の面白い小説がありますが、ある意味で「なろう」という「場」は個々の作品の面白さの総体という以上に面白いと云えるでしょう。
世にもひどい駄作から、涙なしでは読めない名作まで、ありとあらゆる小説が自由に存在を赦され、ユーザー全員が活用できるランキングというきわめて公平なシステムによって人気が測られる、「なろう」はそういうユニークな投稿サイトです。
そのユーザーインターフェイスはきわめて地味ではありますが、小説を投稿し、あるいは読むことに特化しているからこそそうなのです。
「なろう」には「感想」や「レビュー」を投稿するシステムもあり、それなりに交流が行われていますが、基本的にはあくまで小説を書いたり読んだりするためのサイトです。
そして、「なろう」の「場」としての面白さは、複数の作品を読み、そのなかにパターンを発見することによって初めて明らかになります。
「型」があるからこそ「型破り」がある、と云われるように、「なろう」にはあきらかな規格があるからこそ規格外の作品が目立つのです。
たしかに、全参加者の99.9%は無名のシロウトであるわけで、そこまでの名作ばかりというわけではありません。むしろ、小説新人賞に送ったら一時選考で無残に散る作品のほうが多いに違いない。
しかし、そういう作品が何の問題もなく存在を赦される寛容さこそ「なろう」の魅力。ある意味では、「なろう」とはひとつの巨大な物語の実験場です。
ほとんどの作品は大した野心もなく書かれ、それほど人気を得ることもなく未完に終わる。しかし、それでまったくかまわないのです。百にひとつ、あるいは千にひとつでも成功作があれば良いのですから。
そしてまた、失敗作を読み耽るのも案外楽しい。これはネットという「無限のリソース」を持つ世界であるからこそ成り立つ話です。紙幅が限られるペーパーメディアではとてもこうは行かないでしょう。
そう、「なろう」には物語の新しい可能性があります。たとえどんなにくだらなく、他愛なく思える小説が大半を占めているとしても。
「なろう」は物語の広大な沃野です。そこにある物語は、たしかにとても偏っていますが、しかし、読むに値するものも少なくありません。
そのため、最近では「なろう」からの書籍化も多く、むしろランキング上位はほとんど書籍化の話が来ているらしいという現状です。
いわゆるライトノベル的なサービス精神は多くの「なろう小説」にはありませんが、「なろう小説」には「なろう小説」だけの面白さがあります。
もしよければ、ぜひ、その面白さを味わってみてください。「なろう」という「場」はだれにでも開かれています。それはこの国でいちばんたくさんの物語が集まるフィールド。
繰り返し書いてきたように傑作ばかりではありませんが、あなた好みの作品もあるかもしれません。「なろう」は、どんな書き手、読み手に対しても扉を閉ざさないのです。
「小説家になろう」へようこそ! -
「2次元キャラは歳を取らないから良い」に異論する。
2013-11-20 07:0053pt
『Re:ゼロ』面白いです! と、わからないひとにはさっぱりわからないであろう挨拶から入ってみます。
いやー、「小説家になろう」の『Re:ゼロから始める異世界生活』が面白いです。以前、ペトロニウスさんが熱烈な感想を書いていた作品なのですが、これはたしかにすばらしいな。
ちょっと「なろう」の作品とは思えないくらい、技術的に洗練されている。構成力が抜群ですね。構成力とは物語を生み出す力。おそらく始点から終点まで既に構築され尽くしているのでしょう。
これはたしかに破格の作品かもしれません。とりあえず最新話まで追いついたら感想を書くだろうと思います。乞うご期待。
さて、昨夜、『Re:ゼロ』を読み疲れ、何となく気になって『新世紀GPXサイバーフォーミュラSIN』を見返したりしていました。
『サイバーフォーミュラ』は『11』、『ZERO』、『SAGA』、『SIN』という四作のOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)が制作されているのですが、『SIN』は最後の作品で、シリーズの完結編にあたります。
で、ここまで来るといままで主人公であった風見ハヤトが主人公を退いているんですね。しかも、それで次の世代に物語が移っているというわけでもなく、何と、いままで先輩でライバルであったブリード加賀が主役に躍り出るのです。
まあはっきりそう明記されているわけではないけれど、そうとしか受け取れない。
これは前にも書いたのですが、いままでさまざまに無様を晒しながらもレースを戦い抜いてきたハヤトは、まさに人間として、レーサーとして完成し、「最強のチャンピオン」として加賀を迎え撃ちます。それまでの強弱の構図が逆転しているわけですね。
ぼくはこの展開を実に素晴らしいものだと思うんですよ。まさに長々と続いてきたシリーズの掉尾を飾るにふさわしい、最高の演出だと。
そもそも『サイバーフォーミュラ』という物語は、ハヤトの少年時代から始まっています。十代前半の少年レーサーとして、もがきながらも少しずつ成長し、ついにはチャンピオンを獲得するまでがテレビシリーズの物語。
しかし、OVAを見ると、このテレビシリーズはハヤトの人生にとってほんの序盤だったのだということがわかります。
ハヤトは『11』で連続優勝を遂げた後、『ZERO』や『SAGA』「でゼロの領域」と呼ばれる危険なゾーンに入って行きます。チャンピオンになった後に、さらにひととしての成長物語が待ち受けていたわけです。
こういう話を見ているとね、実に「ひとが成熟すること」について考えさせられるのですね。より正確には、「物語のなかでひとの成熟を描くこと」でしょうか。
一般に若い世代向けの物語の主人公は、十代とか二十代の青少年であることが多い。それはそれでまったくかまわないのですが、ぼくもいいかげん歳なので、「その先」の物語を見てみたいんですよね。
これはペトロニウスさんが「恋愛が成就したあとの物語を見たい」とよく云っていることと重なるかもしれません。
少年時代の情熱、若者時代の葛藤の「その先」を見たいわけです。しかし、じっさいには、当然ながらそういう物語はそれほど見受けられません。
やっぱり十代、二十代のキャラクターはそのままで物語そのものが幕を閉じることが多いわけです。だからこそ、 -
モーニング・ワーク――ひとつの物語の死と、新たな物語の誕生に立ち会って。
2013-11-18 13:1353pt
きょうもきょうとて『グイン・サーガ』の話ですよ。ごめんなさい、これで最後にします故。
さて、既に書いた通り、「最新刊」である第131巻『パロの暗黒』において、物語は書き手を変えました。それからしばらく経って、ぼくはいま思います。やっぱりぼくはこの巻が不満だったんだな、と。
不満、と云うと違うでしょう。主観的に見ても客観的に見ても、『パロの暗黒』はアベレージを超えた出来です。
もちろん、「栗本薫の『グイン・サーガ』そのまま」とは行かないにしろ、それはあたりまえのこと、だれが書いたとしても「栗本薫の『グイン・サーガ』」にはならないに違いない。それは太宰治や三島由紀夫の小説を蘇生させるわけにいかないのと同じことです。
それなら、何が不満なのか? そうですね――たぶん、何も不満はないのだと思います。
イシュトヴァーンが違う、ヴァレリウスが違う、と言挙げすることはできる。そして、ここに欠点がある、あそこに問題がある、と指摘してゆくこともできる。
しかし、それを云うなら第130巻までの『グイン・サーガ』だって色々と無理も欠点もあったでしょう、という話になる。まあそれはその通りなんですよ。
その上で、ぼくは新しい「五代ゆうの『グイン・サーガ』」には馴染むことができない。ああ、と思うのです。何かが違う。世界の空気が違ってしまっている、と。
とは云え、いままでの『グイン・サーガ』も大きく変わってきたことはたしかなので、それをいまさら問題視するのは間違えている。
そう――おそらく、時が来たということなのでしょう。ぼくがこの物語と別れる時が。どう考えても、五代さんに非はないのです。いや、あるのかもしれないけれど、それがいままでの栗本さんの『グイン』に比べて絶対的に大きいかというと、そんなことはない。
だから、「五代ゆうの『グイン・サーガ』」が悪いわけではまったくないのです。だけれど、ぼくはこの物語に付いていけないものを感じ取ってしまう。それはぼくの側にこそ理由があるのだということになります。
いままでも多くの読者が『グイン・サーガ』から離れて来ました。ある人は激怒とともに。またある人は怨嗟とともに。しかし、いま、物語から離れようとしているぼくに、怒りも恨みもまったくありません。
あるものは、そう、ただ、透明な哀しみ。寂しさ。ぼくはただ、物語が変わってしまったことが哀しく、寂しい。親しい友人に置き去りにされたような哀しさです。
ひとは変わってゆくものであり、物語もまたそうであり、いつかは別れて去らなければならない、とわかっていながら、それでも消えやらない愛惜。
おそらくぼくはいま、ひとつの物語の葬儀に立ち会っているのだと思います。「栗本薫の『グイン・サーガ』」という物語の葬儀に。
「五代ゆうの『グイン・サーガ』」の誕生を寿ぎ、その未来に期待をかけるひともまた多いこともよくわかる。しかし、そうは云っても、ぼくはやはり何十年にもわたって付き合ってきたひとつの物語の死が、終焉が哀しい。その世界からはじき出されてしまったことが辛い。
もちろん、もっと早く、たとえば第50巻の時点で「『グイン・サーガ』は死んだ」と云って去っていったひともいることでしょう。ある意味では、そういうひとと同じ哀しみを、ぼくはいま、感じているのかもしれない。
栗本薫が全130巻にも及ぶ『グイン・サーガ』において描き出そうとしていた最大のテーマとは、「時は過ぎ、そしてすべては変わってゆくのだ」ということでした。
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