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記事 6件
  • 『無職転生』と『転スラ』を時代の文脈をもとに比較してみよう!

    2021-01-19 16:41  
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     もうすでにネットの各所で話題になっていますが、アニメ『無職転生』の第一話が素晴らしい出来です☆ 思わず語尾に「☆」を付けたくなるようなクオリティの高さ。最初から最後まで洗練された演出に、心がわくわくと湧き立つものを感じます。
     この記事では、その『無職転生』と『転スラ』こと『転生したらスライムだった件』を比較し、その本質に迫るつもりです。
     さて、この記事を読まれるような方はほとんどご存知だと思いますが、『無職転生』は小説投稿サイト「小説家になろう」で長いあいだランキング首位を独占していた作品です。
     いまは『転スラ』にそのポジションを奪われてはいますが、「なろう」を代表する作品であることに変わりはありません。
     物語はある「ひきこもりニート」の中年男がトラックに轢かれて転生し、「ルーデウス(ルディ)」という少年として第二の人生を送ることになるところから始まります。
     アニメではルーデウスの内心の声としてこの「前世の男」のナレーションを被せる演出を行っていて、これが、めちゃくちゃ効果を上げています。
     第一話の登場人物中で最も幼いはずでありながら、前世を含めるとじつは最も年長でもあるという複雑な設定を巧みに描き切っています。凄いね!
     原作に対する高い理解度とリスペクトをもとに物語を再構築したと思しい卓抜なシナリオに加え、アニメーションとしての描写のひとつひとつもきわめて洗練されていて、「すわ今期の覇権か!」と騒ぐ人たちの気持ちもよくわかる出来。
     面白いのは、第一話の時点では「前世の男」の頽廃的で破滅的なひきこもり生活がほとんどカットされていたこと。それは第二話であらためて描写が入るのですが、物語のオープニングとしてふさわしくないと判断されたということでしょう。
     たしかに冒頭からダメ人間の腐り切った生活を描出されたらそこで見る気がなくなる人が続出しそうなので、これは的確な判断だったと思います。
     ただ、物語のテーマを考えると、どうしてもこのひきこもり描写は必要なものであることもたしか。この物語は社会から脱落したひとりの男が何度もくじけかけながらもどうにかして再起を志すところに本質があるからです。
     再起といっても、ひとまず死んでしまってはいるわけですが……。
     そう、『無職転生』には「ルサンチマン」と云いたいような何かどす黒いものがある。『転スラ』に至ると、もうそれはなくなっているというか、超越しているのですが、『無職』のほうはまだ乗り越えていないのです。
     これを世代的な差といって良いのかどうかはもちろんわかりませんが、時代感覚的には『転スラ』のほうが先に行っているといって良いでしょう。
     そして、もちろん『転スラ』も面白いけれど、ぼく自身はどちらかというと『無職』のほうにシンパシーがある。
     あえて誤解を受けそうな表現を使うなら、『無職』は『転スラ』と比べて物語が泥臭いのですね。ひとつひとつ挫折を乗り越えながら進んでいく、いわば従来型のストーリー。
     いわゆるなろう小説はよく一切努力せず、「チート」だけで進んでいくものと理解されていますが、『無職』はわりあい努力の物語です。
     主人公はたしかに才気に恵まれてはいるのだけれど、それもほんとうの意味で傑出したものとはいえないし、世界の本筋の物語においては、いわば「わき役」であるに過ぎません。
     それにもかかわらず、かれは必死になって力を磨いて、何とか幸福を手に入れようとする。これは、あきらかに『転スラ』やそのフォロワーとは異なっているところです。
     『転スラ』は良くも悪くも遥かにスマート。そこがウケているのだと思いますが、『無職』のほうは悪くいうなら「古い物語」ともいえるわけで、はたしてこれが若い層にどのように受け止められるのか、ぼくは興味があります。
     はたして、いまの時代に『無職』の泥臭く暗い情念を感じさせる物語はどのように評価されるのか? まだストーリーは始まったばかりなので何ともいえませんが、アニメのこの出来なら高く評価されるかもしれませんね。楽しみです。
     さて、この先の有料部分では『無職転生』について少々ネタバレありトークを繰りひろげます☆ ご登録よろしくお願いします。 
  • 「オタク中年化問題」はほんとうに問題なのか?

    2021-01-15 22:35  
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     シロクマさんの「オタク中年化問題in2021」と題する記事を読みました(https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20210114/1610624627)。
     「オタクは中年を過ぎても続けられるとは限らない。人によってはオタク趣味から離れていく」という、まあ、あたりまえと云えばあたりまえのことをある種の悲哀を込めて詠嘆した内容です。
     で、ぼくはこの記事にどうしても強烈な違和感が消せなかったので、ここで自分の記事にしておきたいと思います。
     それでは、何に違和を感じたのか? それは結局、「オタク趣味を続けること」を「若さ」の特徴として描いているという一点に尽きるのではないかと思います。
     この記事のなかで、シロクマさんは「オタク趣味はいつまでも続けられない」ことをきわめてネガティヴに捉えているように見えるのですね。
     もちろん、一方で彼はこうも書いています。

    こうした、オタクの年の取り方みたいな話をセンシティブに受け止める人もいらっしゃるので書いておきますが、私は、オタクをやめたくなったらやめたっていいし、ガンダム念仏会みたいな旧オタク集団があちこちでzoom飲み会をやったっていいとも思っています。もちろん、変質・変節しながらも現役に踏みとどまり、今という時を呼吸している人達はたいしたものだと思いますし、そういう古強者の姿に励まされることもあることは断っておきましょう。
     
    それでも人は年を取るし、人は変わっていくのです。時代だって変わっていく。諸行無常。そうした時間の流れからオタクだけが無縁でいられるという道理はありません。ゲームで完徹するのが辛くなるし、コミケの前日に泊まる宿のグレードを上げたくもなる。そして個人個人でみればエイジングの足音に差異はあっても、全体としてみればオタクではなくなっていく人、かろうじてオタクの名残りをとどめている人は増えていきます。オンラインでもオフラインでも趣味から遠ざかっていく人は出てくるし、ときには一週間前に見たアニメが今生の最後のアニメだった、などということも出てくるわけです。

     つまり、「オタク趣味を続けられないことは一概に悪いことではないよ」と断っているわけですが、ぼくにはこのような注意を設けること自体がそれをネガティヴに捉えていることの証左であるように思えます。
     もし、ほんとうにそのことに何の問題もないと思っているのなら「オタク中年化問題」などと題してことさらに問題視したりしないでしょうから。
     で、ぼくはここに非常に違和を覚えるわけです。「いや、オタクは歳を取ったって変わらないのだ」と云いたいわけではありません。
     そうではなく、そもそもそのように「歳を取ること」をネガティヴに受け止め、「若い頃のままであること」をポジティヴに捕らえることそのものが老人の感性だ、と思うのです。
     なぜ若い頃、オタクだったからといっていつまでもオタクを続けなければならないのでしょう?
     何であれ、いわゆるオタク文化、アニメとかゲームより面白いと思うものを見つけたならそちらへ趣味の主軸を移すことはぼくにとってはポジティヴな意味こそ持っていても、まったくネガティヴなことではありません。
     「盆栽最高!」とか「いやー、いまになって俳句のラディカリズムがわかってきたわー」ということがあっても良いし、そういうふうに感じている人たちは形だけオタク趣味を続けている人よりよほど若い感性を持っていると思うのですが、いかがでしょう?
     ぼくが云いたいのは、「いつまでも若々しくあること」は「いつまでも若い頃と同じことを続けていること」とイコールではないということです。
     この違いがわかるでしょうか? つまり、ほんとうに若い心を持っている人は変化を恐れず「ずっとこのままでいたい」とは考えないということです。
     たしかに、オタクに限らず、加齢とともに感性が鈍り、衰えていく人は多いでしょう。そのために若い頃の趣味を同じように続けていられない人も少なくないかもしれません。
     しかし、もしその人がその「老化」を厭うとしたら、それに対する処方箋は「若い頃と同じ行動をずっと続ける」ことではありません。
     若い頃にアニメを見ていて楽しかったから同じようにアニメを見つづける。それはひっきょう、現状維持の発想であり、老人の考え方です。それに対し、ほんとうの若者はつねに新しいものに飢えている。いつも「もっと!」を求めているものなのです。
     若さとは変化を求め、挑戦を続けることです。その意味では実年齢が何歳であれ、新しいものに挑戦していかない人は老いているし、逆にチャレンジしつづける人は若いのです。
     当然、歳を取ってからも趣味としてアニメを見つづけても良いでしょう。しかし、「若い頃と同じ感性でいたい」と考えることは無意味です。否、そう考えている時点ですでに「若い頃」の感性を失くしてしまっているのです。
     こういう話をしていると、ぼくは『ジョジョの奇妙な冒険』第七部こと『スティール・ボール・ラン』第一巻のセリフ、

    「失敗というのは……いいかよく聞けッ! 真の失敗とはッ! 開拓の心を忘れ! 困難に挑戦する事に、無縁のところにいる者たちのことをいうのだッ! このレースに失敗なんか存在しないッ! 存在するのは、冒険者だけだッ!」

     これを思い出します。
     人は「開拓の心」を忘れ、「困難に挑戦する事」を厭ったときに年老い始めるということ。
     もちろん、そういう自分を受け入れて静かに生きていくことも悪くないでしょう。それはそれでひとつの生き方ではある。だれに文句をつける資格もない。それはそうです。
     ただし、そういう人でも「いつまでも同じまま」でいることはできません。どんなに同じままでいようと思っていても、その人を置き去りにして時は残酷に過ぎ去っていくからです。
     だから、現状維持を望むのなら人は確実に衰えつづけていくのです。オタクだっていつまでも同じままでいられるはずがない。これはまさにシロクマさんが書いている通りです。
     荒木さんもずっと『ジョジョ』を描きつづけているわけだけれど、その内容は常に変化し過去を踏襲することがないですよね。それが荒木飛呂彦の天才漫画家たるゆえんなのだと思います。
     そう、森博嗣さんがどこかで書いていたけれど、天才と呼ばれる人たちに共通する特性とは変化を恐れないことだ、と。逆に云えば、変化を嫌い、過去に拘れば、その表現は必ず衰え見る影もなくなっていく。常に変わりつづけることによってしか高みを維持することはできない。ぼくはそう思う。
     いかにも逆説的ですが、維持しようと思っている人はもうその時点で維持できないものなのです。表現者の場合は、その違いはきわめて明瞭に表現に表れます。その表現は「一見、何も変わらないまま」衰えていくのですね。
     とはいえ、基本的に人は「いま」を維持しようと保守的になるものでもあります。その保守性を打破し、リスクがリターンを上回るかと見える領域に突っ込んでいきつづける人は、たしかに稀有でしょう。
     そういえば、ぼくが「なぜ永野護はモーターヘッドをゴティックメードに変えたのか?」と題して放送したYouTubeに、このようなコメントが付きました。

    昔は悪く今は良い、未来的?と言うのはどうかなぁ、モーターヘッドは今見ても、全然カッコ良いと、思いますがね、私はエルガイム世代なので、オールドタイプなのですが、デザインを変えるのは良いと思いますが、名称やストーリーまで変える必要はない思いますがね、

     でも、これはやっぱり「エルガイム世代」の「オールドタイプ」ならではの意見だと思うのですよね。もちろん、あまたのモーターヘッドはいまなお「全然カッコ良い」素晴らしいデザインでしょう。
     ナイト・オブ・ゴールドは時を経ても美しい。それは永野護自身が認めている通りです。けれど、それはもう「過去のカッコ良さ」なのです。
     いまの若者たちはナイト・オブ・ゴールドやバッシュ・ザ・ブラックナイトを初めて見ても衝撃や感動を受けたりはしないはず。なぜなら、かれらの世代にとってはそれらのデザインは「普通」で「あたりまえ」だからです。
     永野護本人は、この「モーターヘッドからゴティックメードへ」という一大設定変更についてこんなことを述べています。
     変化を恐れるのは老人だけだ。立ち止まるならその立ち止まった時点で死んでしまえばいい。変化のない未来など夢も希望もないと言うことだ。僕はそう思っている。
     ぼくはまさにその通りだと思うのです。たしかにシロクマさんの云う通り、オタクであろうと時かれは逃れられず、肉体は老いる。それはどうしようもない。しかし、その精神が老いを知るかどうかは、結局は「開拓の心」を忘れずにいるかどうかに拠ります。
     その意味では、肉体年齢とはいささかの関係もなく、若い人は若く、年老いた人は年老いているのです。
     そう、たしかに「感性が鈍ってオタク趣味を続けられなくなった人」は加齢とともに心が老いているかもしれません。しかし、「歳を取っても変わらずオタク趣味を続けている人」だってじつはもうとっくに心は老い果てている可能性がある。
     そして、また、「一見、加齢の結果としてオタク趣味から歳相応の趣味に移ったように見える人」が必ずしも心、年老いているとも限らない。
     大切なのはわくわくしながら新しい扉を開いていくスピリットを維持していられるかどうかであって、オタク趣味を続けているかどうかは表層的な意味しか持たないのです。
     いつまでも若々しくありたいと願うなら、若い頃と同じでありたいと思ってはならない。これは、少々気の利いた逆説であるように考えるのですが、いかがでしょうか。 
  • ハルマゲドンはもう十分だ! ネット上の「対話」を上品かつ建設的にしたいです。

    2021-01-11 03:16  
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     アメリカのドナルド・トランプ大統領の扇動にもとづく市民の議会突入が話題になっています。それに関連して8800万人ものフォロワーを擁する大統領のTwitterが永久凍結され、大統領が世論を左右する要素が大きく失われたことも大きな話題になっていますね。
     この問題をどう捉えるかはむずかしいところで、トランプは暴力行為を煽ったのだから凍結は当然だという人もいれば、「言論の自由」の観点から見て私企業が個人の政治的意見を抑圧するべきではないという人もいる。
     いずれも一理あるように思われ、ぼくはまだ何がより正しいことなのか判断できていません。
     たとえばネット論客の青識亜論さん(@BlauerSeelowe)などは例によって「言論の自由の原理原則論」に立つようで、このいわゆる「垢BAN」を批判的に語っています。
     青識さんの云いたいことは、もちろんわかる。確かに今回の件を「あくまで私企業の自由」で済ませてしまえば、その「自由」はどこまでも拡大し、いわゆるリベラルサイドの言論をも抑圧することになるかもしれない。
     その意味では「あくまで私企業なので恣意的にアカウントを凍結するのは自由」だと擁護することは問題含みでしょうし、だからリベラルサイドこそあくまで「表現と言論の自由」を擁護することに注力するべきだという理屈には説得力がある。
     しかし、その一方で実際にこれほどの大事件が起き、死者すら出ていることはやはり看過できないのではないかとぼくなどは考えるわけです。
     青識さんの意見は「原理原則論」としてはいかにも正しいでしょう。ですが、問題を現実的に考えるとき、「あらゆるきわめて影響力の大きい人物の言論」を一切無制限に許容するべきかというと、それはさすがに無理ではないかと思います。
     今回、よく取り上げられているスティーヴン・キングのツイートにある通りです。おそらく、青識さんも、今回の件はともかく、あらゆる場合においてどこまでも無制限に自由を認めろとは云わないでしょう。
     だから、もしそうであるとするなら、青識さんには「どこまでを許容し、どこからに反対するのか」、そのラインを示してほしいと思ってしまいます。
     極端な過程であることは十分に承知して述べますが、たとえば大統領のTwitterでの扇動によって核戦争が起き、人類が滅亡することは現実にありえる。
     そのような直接的な危機が目前に迫った場合でも、絶対に言論は弾圧されるべきではないとはあきらかに行き過ぎでしょう。「人類の存続より言論の自由が大事」とはあまりにもばかげている。
     このような極限的なシチュエーションにおいては個人の自由が制約されることも容認されるべきであるという考え方は、大半の人が正しいと考えると思います。
     もちろん、その場合でも「ほんとうにその危機が目前に迫っているのか」について果てしない議論が繰り広げられることにはなるだろうけれど、それはここでは措いておくとします。
     とにかく「放っておいたら人類が滅亡する」場合は私企業によって個人の自由が抑圧される正当性があることはほとんどの人が認めるだろうと考えます。
     それでは、その場合を極北として、具体的にどこまで「私企業による言論の自由の抑圧」が容認されるべきだと考えるか? これはおそらく人によって相当のばらつきがあると思うのですね。
     たとえば戦争やテロによって百万人単位の死者が出る可能性はどうか? それはさすがにダメ? それなら数万人では? 数百人とか?
     そういうふうに考えていくと、今回の「数人の死者が実際に出てしまった」状況はどうなのかということについてより多面的に考えることができるのではないかと思うのです。
     この場合の「さすがにこれは凍結されるべきだろう」という「線」の引き方は完全にロジカルに決定することはできず、どうしても恣意的になってしまうわけで、各自が自分自身の恣意性を開陳するべきだと思うわけです。
     それは自分の「絶対的な正しさ」ではなく「主体的に拠って立つ立場」を明確にすることでもあります。
     とにかくTwitterでは、まあFacebookとか他のSNSでもそうでしょうが、「自分だけは客観的に正しい正義を代表している」と考える人たちがその絶対的な「正義」をぶつけあってより「対立と分断」を深め合う方法にしか話が進まない傾向があるように思え、正直、いいかげんうんざりしています。
     「自分だけは客観的、論理的、絶対的に正しい。対立者はただのバカ」と考える人たちがお互いに相手をばかにし、揶揄し、嘲弄しあう。いずれが「ほんとうに」正しいかとはべつに、そういうやり取り自体がもうどうしようもなくうんざりなんですよ。
     男であれ女であれ右であれ左であれツイフェミであれアンチフェミであれべつに良いのだけれど、「正当な批判」という都合の良い表現でもって他人をばかにして悦に入るのをやめませんか、と云いたい。
     ハルマゲドンもラグナロクももう十分。とにかく「ネット上のコミュニケーション」を次のレベルに上げたいですよね。 
  • 『天気の子』対『鬼滅の刃』。

    2021-01-08 04:16  
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     昨日は何と暴風のためインターネットが使えなくなり、更新できませんでした。ごめんなさい。
     さて、先日、新海誠監督の『天気の子』が初めてテレビ放映されました。この機会に初めて作品に触れた人も少なくなかっただろうと思うのですが、衝撃的なクライマックスがどのように受け止められたのか気になるところです。
     いまさらネタバレに配慮する必要も感じないので語ってしまいますが、この作品の終盤で、ヒロインである「天気の子」を失った東京は水没してしまいます。
     そしてその水に沈んだ都市のなかでも人々は健気に懸命に暮らしているのでした、というオチなのですが、どう考えても何万人か何十万人か、膨大な数の人が死んでいるんですよね。
     これは一般に「世界」か「ヒロイン」か、二者択一の状況を突きつけられて、どちらを選べば良いのかわからないというセカイ系の問題軸に対し、「それでもヒロインを選ぶ」というアンサーを示したものと見られています。
     劇場で見たときはあまりにあまりの展開に呆然としたもので、はたしてこの結末をどう受け入れれば良いのか、いまでも悩むところです。
     たしかに、水没した都市のなかで人々は頑張って生きのびている。しかし、それはいってしまえば「たまたまそうだった」というだけのことに過ぎず、可能性としては文字通り都市がひとつ死滅してしまった可能性もあったわけです。
     もっと云うなら、人類が滅亡したかもしれなかったでしょう。それでも、なお、「ヒロインを選ぶ」なら、それはたしかに意味がある。しかし、ほんとうにそうだったのか。ぼくはいまでも思い迷う。
     ここでぼくが思い出すのはディズニー映画『アナと雪の女王』です。この作品でも、アナは姉エルサに対し無償の愛を示し、そのことによって彼女をも国家をも救うことになるのですが、ぼくにはそこで示された「絶対の愛情」がいかにも無根拠なものに思われてしかたなかった。
     ようするにアナは王族であるにもかかわらず何も考えていないからこそ、その国でささやかな人生を生きつづける無辜の人々について思いを馳せていないからこそ、無邪気に「エルサを選ぶ」ことができたに過ぎなかったのではないか。そう思われてならない。
     もちろん、「ヒロインか、世界か」というとき「世界」を構成するひとりひとりの市井の人々の人生にまで思い馳せることは人間には不可能で、だからこそ目の前のひとりの少女を救うことを選ばざるを得ない、という事情はあるかもしれません。
     「世界よりヒロインを選ぶ」と宣言するとき、「そこで犠牲になる「世界」の重さを、ほんとうに十分に想像したか」とぼくは考えてしまうわけですが、そもそも「十分に想像する」ことなどありえないのであって、人は限定された想像力のなかで決断していかなければならないものなのだということです。
     しかし、『天気の子』はともかく、『アナと雪の女王』の「めでたしめでたし」なハッピーエンドを見ていると、どうにも釈然としないものが残ります。
     悪く取るなら、そこにあるものは、ようは自分に関係のない人々のことは知ったことではない、自分にとって好ましい人間だけ生きのこれば良いというエゴイズムであるとも云えるからです。
     一方でその問いをまえに決然と「世界」を選び取ることを描く作品も存在します。他ならない『鬼滅の刃』です。

     『鬼滅の刃』では、 
  • 「悪役令嬢もの」は少女漫画の王道を裏側から再現する。

    2021-01-06 23:19  
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     うに。皆さんは「悪役令嬢もの」をご存知でしょうか? まあ、ここを読むくらいの人ならほとんどご存知なのではないかと思うのですが、「小説家になろう」で流行している「乙女ゲームや少女漫画などの悪役の女の子を主人公に据えた物語」のことです。
     主人公がその「悪役令嬢」自身に転生するパターンもありますし、また、「悪役令嬢」の近くにいる人物が主人公の場合もありますが、とにかくいままでわき役であり敵役であったはずのキャラクターを主役に抜擢した作品であることは間違いありません。
     それらの悪役令嬢はだいたい物語のなかで破滅する運命を抱えていて、どうにかその破滅を避けるため行動することになります。で、どうやらぼくはその「悪役令嬢もの」がとても好きらしいのですね。
     まあ、ひと口に悪役令嬢ものといっても膨大な作例があるからそれがすべて好きなのかどうかはわかりませんが、とりあえずいままで読んだ悪役令嬢ものはどれも面白かった。そういうわけで、今日はこの頃読んだ悪役令嬢ものの話をしたいと思います。
     定番の『はめふら』こと『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』のことは措いておくとして、まずは『ツンデレ悪役令嬢リーゼロッテと実況の遠藤くんと解説の小林さん』。
     もうタイトルの時点で「何だろうこれは」となってしまいそうな作品なのですが、まさに 
  • みかみてれん、必勝の百合『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』がすばら。

    2021-01-04 21:21  
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     さてさて。いまさらですが、あけましておめでとうございます。正月三が日は図々しくも更新を休ませていただきました。おかげで良い感じにヒマでタイクツな三日間を過ごせました。
     いやー、好きなだけマンガとラノベ読んで、ビデオゲームをやるだけの日々プライスレス! ほ、ほら、ぼくってこれが仕事だし? ただ遊んでいるわけじゃないし?
     とか、小学生低学年並みのイイワケはやめておきますが(やめていない)、ほんとうに気楽な三日間でした。コロナがなくて甥っ子と姪っ子が遊びに来ていたらこうはいかなかっただろうから、ありがたいことこの上なし。
     そういうわけで、この三日間で随分とたくさんネタを仕入れられたのですが、今日はみかみてれんさんの百合小説『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』を紹介しようと思います。
     これ! これ良いですよ! まあ、何しろ好き嫌いが分かれるガール